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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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ハンガー・ゲーム・・・・・評価額1650円
2012年09月30日 (日) | 編集 |
生き残れるのは、たった一人。

今年の三月、全米で「アバター」以来となるボックスオフィス四週連続1位を記録し、既に全世界で7億ドル近くを稼ぎ出した大ヒット作。
アメリカ合衆国の崩壊後、北米大陸を支配する近未来の独裁国家を舞台に、「ハンガー・ゲーム」と呼ばれる殺人サバイバルゲームに送り込まれた若者たちを描くディストピアSFだ。
原作はスーザン・コリンズのベストセラー小説で、「シー・ビスケット」などで知られるゲイリー・ロス監督が、原作者と共同で脚色し映像化している。
主人公となる少女カットニスを、「ウィンターズ・ボーン」で脚光を浴びた若き演技派、ジェニファー・ローレンスが演じ、同郷の少年ピーターにジョシュ・ハッチャーソン。
ウッディ・ハレルソン、エリザベス・バンクス、ドナルド・サザーランド、スタンリー・トゥッチらのベテラン勢が脇を固める。
なお本作は2015年までに三部作、全四本のシリーズ(最終作が二部構成)が公開される予定で、「アイアム・レジェンド」のフランシス・ローレンス監督による第二作が既に撮影中である。

独裁国家パネム。
この国では、嘗て反乱を起こした12の地区から選出される計24名の少年少女に、最後の一人になるまで殺し合いをさせる“ハンガー・ゲーム”が、支配される国民の義務として、また支配階級である富裕層の娯楽として毎年開催されていた。
第12地区の少女カットニス(ジェニファー・ローレンス)は、くじ引きで選出された幼い妹の身代わりとして、男子代表のピーター(ジョシュ・ハッチャーソン)と共にハンガー・ゲームに参加する事になる。
富裕層が住む首都キャピトルに護送されたカットニスとピーターは、ショーアップされた準備期間の間に、教育係のヘイミッチ(ウッディ・ハレルソン)の指導の元、サバイバル術や戦闘術を学んでゆく。
そして、遂にやって来たハンガー・ゲーム開幕の日、24人のプレイヤーが送り込まれたのは、巨大ドームに作られた人口の森だった・・・


原作小説は、その設定から「バトル・ロワイヤル」からのパクリ疑惑が囁かれ、実際に本作の映画化によって、一時進められていた「バトロワ」のハリウッド版リメイク企画は頓挫してしまったらしい。
なるほど、架空の独裁国家が舞台で、無作為に選別された十代の少年少女に、最後の一人になるまで殺し合いをさせるゲームが開催されている事、そしてそれは国家統合のための国民の崇高な義務とされている事など、多くの共通要素があるのは事実だ。
しかし、実際に出来上がった映画で比べれば、これは「バトロワ」とは全くの別物である。

142分という長尺の上映時間のうち、前半部分がハンガー・ゲームが始まるまでのキャピトルでの準備編、後半が実際にゲームが始まってからのサバイバル編と、二部構成と言って良い作りになっている。
この構造は、「バトロワ」よりもむしろ「アメリカン・アイドル」や「Xファクター」といった、素人参加のオーディション番組の影響を強く感じさせる物だ。
本作では、ゲームに出場するプレイヤーは単にサバイバルすれば良いという訳ではなく、テレビの視聴者にそのキャラクターをアピールし、人気を獲得しなければならない。
人気が高ければスポンサーも付き、ゲーム中に危機に陥った時など、“差し入れ”として薬や食料などが送られるのである。
入場のパフォーマンスに凝り、トークショーで死のゲームに挑む心境を語り、自分への評価ポイントに一喜一憂する様は、オーディション番組でのサバイバルレースそのものであり、劇中に描かれる独裁国家パネムも、テレビと銃によって支配される劇場国家、現実のアメリカのカリカチュアされた姿だと言えるかも知れない。

また、24人の若者による殺し合いと言っても、本作は所謂群像劇の形はとらない。
センセーショナルな設定とは裏腹に、スプラッターな流血描写は極力避けられており、「バトロワ」的なケレン味たっぷりのアクション描写を期待すると肩透かしを食らう。
ティーン向けのベストセラー小説の映画化という事で、レイティングの問題が影響しているのは想像がつくが、結果的に刺激優先のビジュアル表現に走らなかったのは良かったと思う。
元々、直球の人間ドラマを得意とするゲイリー・ロス監督は、ジェニファー・ローレンスという高い演技力を持つ俳優を主役に得て、不屈の闘志で絶望的な逆境を乗り越える、風格ある物語を描き出した。
映画の視点は、あくまでも主人公のカットニスに固定され、物語は極限状態での彼女の心理に徹底的に寄り添うのである。

例えば、食べ物すら満足に無い貧しい地区で育ったカットニスが、恐ろしい運命が待ち受ける首都へ向かう列車の中で、豪華な調度品や豊かな食べ物といった“見た事のない世界”に戸惑い、圧倒されてしまう演出は実にリアル。
そして遂にゲームが始まり、最初は無我夢中に生き残る事しか考えていない彼女は、サバイバルの中で生と死に直面し、人を愛し、また愛する者を失う事で少しづつ変化してゆく。
やがて彼女の中の生への渇望は、人の命をゲームの駒として弄ぶ、強大な体制への疑念と反発を育てる事になるのである。
面白いのは、ドナルド・サザーランド演じる大統領が、ハンガー・ゲームを大衆のガス抜きだと語りながら、同時に盛り上がり過ぎてガスに火をつけてしまう事を恐れている事。
劇中のカットニスのある行動が、小さな火花となって暴動の切っ掛けになるあたりは、思わず最近某国で吹き荒れたデモと暴動を思い出してしまった。

「ハンガー・ゲーム」は、ブッ飛んだ設定を通して現在を風刺する、ユニークな視点を持つディストピアSFの秀作だ。
惜しむらくは、三部作の第一部という位置づけのため、本作単体では結論が出ずに次作に引き継いだ部分が多く、オチにもやや消化不良な感が残る。
カットニスの内面の炎も、本作ではまだ本人の迷いと共に揺らいでおり、大きく燃え盛るまでには至ってていないし、作劇的にもハンガー・ゲームの中と外とのドラマ的な連携、例えばプレイヤーが大衆の人気を得ると有利になる設定が今ひとつ生かされていなかったりするのは少々勿体無い気がする。
まあこの辺りは、シリーズ物の宿命と言える欠点でもあり、おそらくはカットニスの存在が国家を脅かす大きな火花になるであろう、続編での更なる展開に期待したい。

今回は、主人公が弓の名手という事で、やはり弓のイメージの強いギリシャ神話の月の女神「アルテミス」の名を持つカクテルをチョイス。
ジャマイカラム35ml、スイートベルモット20ml、オルジェーシロップ10ml、アンゴスチュラ・ビター1dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
甘く柔らかい口当たりに、香草の香りとアンゴスチュラ・ビターの苦味がアクセントになっている大人っぽい味わいのカクテル。
そう言えば、ジェニファー・ローレンスは、「ウィンターズ・ボーン」でも貧しい家族を守って森で狩りをしていたっけ。
あの映画は本作のキャラクター造形にも相当影響を与えていそうだ。
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コッホ先生と僕らの革命・・・・・評価額1600円
2012年09月24日 (月) | 編集 |
それは、たった一個のボールから始まった。

「コッホ先生と僕らの革命」は、教育者にしてドイツサッカーの父、コンラート・コッホと彼の教え子たちの細やかな、しかし偉大な一歩を描いた物語だ。
まだ階級差別が激しく、権威への服従が美徳とされた時代。
コッホ先生が教室に持ち込んだ、一個のボールに魅了された生徒たちは、フェアプレイ精神を通して自由と自立、平等の意味を学び、やがてそれはギムナジウムの小さな革命へと繋がってゆく。
彼らが直面するのは頑迷固陋な大人たちに、サッカーというまだ誰も知らない新しい物の魅力と価値を伝える事の難しさ。
そう、これは創造の苦しみに関する映画でもあるのだ。

1874年、ドイツ。
ブラウンシュヴァイグのギムナジウムに、イギリス帰りの英語教師、コンラート・コッホ(ダニエル・ブリュール)が赴任する。
ところが、イギリスに対する敵愾心をむき出しにする生徒たちは英語に興味を持たず、クラスではプロレタリアート階級出身の生徒が他の生徒たちからいじめを受けていた。
そんな生徒たちの態度を一変させたのは、コッホがイギリスから持ち帰った一個のボール。サッカーという未知のスポーツに魅せられた生徒たちは、誰もが対等になれるピッチの上で、英語だけでなく全く新しい価値観を学んでゆく。
だが、それは権威主義に染まった大人たちを動揺させ、遂には町中を巻き込んだ大騒動に発展してゆく・・・


ワールドカップ優勝3回、準優勝4回を誇り、今でこそ誰もが認める世界有数のサッカー大国であるドイツ。
しかし歴史を紐解くと、ドイツ人のサッカーへの感情は愛憎の念が入り混じる複雑な物であったらしい。
1870年代、プロセイン皇帝ヴィルヘルム一世と鉄血宰相ビスマルクは、普仏戦争の勝利によって宿敵フランスを屈服させ、ドイツ統一を成し遂げる。
本作の舞台となるのはその直後、ナショナリズムと帝国主義の高まりにより、世界の海を支配する大英帝国との対立が深まりつつあった時代だ。
ギムナジウムの体育の授業は、自己鍛錬を目的とする体操と軍事教練ばかりで、球技の様なゲームスポーツは“非ドイツ的”とみなされて排除されていた。
そんな時代にイギリス生まれのサッカーを導入したのだから、体制側の大人たちの反発は必至である。

コッホ先生は、権威に無批判に従う事を当たり前と考え、支配される事に慣れてしまっている生徒たちの心を解放しようとし、そのための手段として授業の補助にサッカーを導入する。
最初は戸惑い気味だった生徒たちが、次第にサッカーの魅力にとりつかれてゆくのは、単にゲームとして面白いからだけでなく、彼らのいまだ知らない世界を見せてくれたからだろう。
大人たちが作り上げた規律に盲従し、人間の価値を生来の階級に当てはめる事しか知らなかった生徒たちは、芝を転がるボールを追いながら、誰から押し付けられた物でもない、自我の確立を経験するのである。
貧しいプロレタリアートの少年も苛めっ子のブルジョアジーも、ピッチに立てば平等なプレイヤーとなり、ゲームを通じてそこに信頼と友情が育まれる。
大人たちから忌むべき敵国と教え込まれたイギリス人に対してだって、本物の戦争と違ってサッカーでは敬意と競争心こそあれど、憎しみが生まれる事はない。

しかし、それは大人たち、特に体制そのものであるブルジョアジーの男性たちにとっては、自らが信奉し築き上げてきた世界に対する挑戦を意味する。
たかがサッカーされどサッカー、コッホ先生の新しい教育によって、生徒たちが望ましくない方向へと変化しつつある事を悟った彼らは、大人気ない位に凡ゆる権力を使って、コッホとサッカーを排除しようとする。
だが、一度始まった変化、自由と自立を知ってしまった生徒たちは、もう敷かれたレールを外れる事を恐れない。
強大な圧力に対して、コッホたちが持つ唯一の武器は、大人たちがまだサッカーの本質を知らないという事だけだ。
まあ、物語の纏めに入った終盤の展開はやや脚色の御都合主義が目につき、史実ベースの物語の持つ重みをスポイルしてしまっているのは勿体無いが、21世紀には全世界に2億6千万人もの競技人口を擁する事になる、サッカーという新しいスポーツの持つ躍動する肉体言語が、ガチガチに固まった大人たちの思惑を超え、時代をブレイクスルーする展開は痛快。

残念ながら、映画で描かれた小さな革命から100年以上経った現在でも、無知と偏見、様々な差別による争いは耐えず、権威と服従の関係から逃れられない人々も少なくないのが現実だ。
勝ち負けに関係なく相手をリスペクトし、偏見を排除するフェアプレイと平等、自分の頭で判断し行動する自由と自立の精神を育成するというコッホ先生の教育哲学は、いまだ十分な説得力を持つ。
人間の生き方に関して時代を超えたメッセージを投げかける一本である事は間違いなく、ヒューマンドラマとしても気持ち良く感動出来る良作と言える。

今回は舞台となったニューザクセン州ブラウンシュヴァイグの近郊の街、アインベックの地ビール「アインベッカー マイ ウル ボック」をチョイス。
ここは600年以上の歴史を持つ、所謂ボックビールの元祖となる醸造所で、「5月のボック」を意味する「マイ ウル ボック」は、本国では毎年3月から5月にかけて季節限定で発売される。
ドライ&スパイシーな味わいは、コッホ先生も楽しんだに違いない。
しかし映画を観る限り、ドイツ人気質というのは当のドイツ人から見てもやっぱり“頑固”なんだねえ。
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鍵泥棒のメソッド・・・・・1700円
2012年09月19日 (水) | 編集 |
幸せの鍵はどこ?

「運命じゃない人」「アフタースクール」の凝りに凝った作劇で映画ファンを唸らせた内田けんじ監督の第三作、「鍵泥棒のメソッド」で描かれるのは自殺志願の売れない役者と凄腕の殺し屋の人生が入れ替わった事から巻き起こる大騒動。
堺雅人香川照之という二人の怪優の演技合戦に、広末涼子演じる婚活中の女性編集者、殺しの依頼主であるヤクザも絡み、あらぬ方向に転がり出した物語は完全に予測不能のままノンストップで突っ走る。
128分の上映時間に、ハラハラ、ドキドキのスリルとトボけた笑い、そして爽やかな感動が満載された快作コメディだ。

人生どん詰まりの貧乏俳優、桜井武史(堺雅人)は銭湯で転んで気絶した羽振りの良い男、コンドウ(香川照之)のロッカーの鍵を出来心から自分の物と入れ替える。
かくして桜井として病院に運ばれたコンドウの記憶が戻らないのを良い事に、桜井はコンドウに成りすまして高級マンションでリッチな生活を満喫。
しかし、実はコンドウは裏社会で有名な殺し屋で、桜井をコンドウと思い込んだヤクザの工藤(荒川良々)から、ある女(森口瑤子)を殺して欲しいという依頼を無理やり受けさせられてしまう。
一方、ホンモノのコンドウは、偶然に知り合った婚活中の女性編集長・水嶋香苗(広末涼子)と親しくなり、彼女の助けを借りて少しづつ桜井としての人生を歩み出していたが・・・


現代日本で、最も構成力の高い脚本家の名を聞かれれば、私は迷わず内田けんじの名をあげる。
時系列と視点をシャッフルし、スクリーンを通して観客に知的なコンゲームを挑んだ前二作で、「くっそー騙された!」と爽やかな敗北感と共に地団駄を踏んだ人は多いだろう。
緻密に組み立てられたプロット、裏の裏まで設定された登場人物の心理描写は、まるで良くできた探偵小説のページをめくる様なワクワク感に満ちていた。
今回ももちろん抜群の脚本の面白さは健在だが、今までの作品とは少々ベクトルが異なる。
御馴染みの時系列のロジックも視点のシフトも封印され、物語のドンデン返しの驚きも無く、脚本の構造そのものは限りなく普通の映画になった。
代わりに今回力が入っているのは、キャラクター造形の面白さだ。

男二人、女一人のトリオ映画ではあるが、物語のコアとなるのは香川照之演じるコンドウで、構造的には彼を挟んで桜井との物語、香苗との物語が並行して進行する。
全ての発端は、コンドウがたまたま立寄った銭湯で、石鹸に滑って転ぶというコントみたいな出来事によって、記憶を失った事から始まる。
この男が裏社会の人間である事を知らない桜井が、鍵をすり替えてコンドウに成りすまし、ことの成り行きで殺しの依頼を受けてしまうのが桜井サイドの物語。
そして自分の事を俳優の桜井だと思い込んだコンドウが、偶然に知り合った香苗の助けを借りながら、生来の生真面目さを発揮して少しづつ桜井の人生を好転させ、お互いに惹かれ合ってゆくのが香苗サイドの物語。
彼らは全員どこか世間とズレた変な人であり、同時にお互を誤解している。
コンドウはそもそも自分が誰なのかわからず、桜井はコンドウの正体を知らずに成りすまし、香苗はコンドウを桜井だと思い込んでいる。
この誤解のトライアングルが事件を呼び、やがてコンドウの記憶の復活によって、二つの物語が収束点に向かって動き出すのである。

内田監督は、得意とする物語のトリックを捨て、その代わりに登場人物の行動原理と心の機微を繊細に描く。
それはあたかも、タイトルにも引っ掛けられているメソッド演技の役作りの過程で、俳優が心に生じる役柄への疑問に一つ一つ答えを出してゆくプロセスにも似る。
病的なまでに几帳面で真面目なコンドウが、俳優の仕事にハマってゆくのはなぜか、お調子者でズボラな桜井が、さっさと逃げ出さずにターゲットの女を守ろうとするのはなぜか、香苗が記憶を失ってドン底のコンドウに恋したのはなぜか。
対照的なデキる男とダメな男、どこか似たもの同士の男と女、本来接点の無い三人が、運命の悪戯によって出会った事で、人生に不思議な化学反応が起こる物語は、出来の良い脚本に触発された俳優たちの名演技によって更なる躍動感を獲得する。
堺雅人と広末涼子もいつにも増して良いのだが、特に素晴らしいのはこのところ映画館の全スクリーンを制覇する勢いで映画に出まくる香川照之だ。
本来のコンドウの時と、桜井として生きている時の性根の同質と表面のギャップをいっぺんに感じさせる見事な演技はさすがの芸達者。
ネタバレになるので自重するが、彼の意外な“秘密”が本作では唯一の作劇上のトリックらしいトリックだった。
ヤクザ役の荒川良々や、殺しのターゲットになる森口瑤子ら脇役のキャスティングも絶妙で、彼らの丁々発止のかけ合いは芝居の楽しさを堪能させてくれる。

また内田監督の作品は、彼が敬愛すると語るビリー・ワイルダー監督作品や「寅さん」シリーズなどと同様に、人間、特にちょっとダメな男に優しい。
この作品で言えば、35歳にしてゴミ溜めの様な汚部屋に住み、ろくな仕事も無く、かといって一生懸命努力する事もない桜井の様なキャラクターにも、ちゃんと救いを用意しているのである。
まあ人によっては、ユルイと感じるかもしれないが、この人の映画独特の観終わった時の爽快感は、自ら造形したキャラクター、即ち人間に対する愛情によるところが大きいと思う。
映画が一つの世界だとすれば、優しい創造主に見守られ、手のひらの上で右往左往する内田作品の登場人物は幸せだ。
そしてその世界を覗く観客も、本作では物語に騙される快感を失った代わりに、今度は登場人物に感情移入し、心の底から彼らを応援するという別種の快感、そしてその結果としての深い感動を手に入れるのである。

今回は、異なった個性の三人の主人公の映画という事で、三色のカラフルなカクテル「パッションキラー」をチョイス。
サントリーMIDORIとコアントロー・パッソア、テキーラブランコを10mlずつ、スプーンの背を利用して、静かにショットグラスに注ぎ入れる。
グリーン、ピンク、透明の三色の層が見た目にも楽しい一杯だ。
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夢売るふたり・・・・・評価額1600円
2012年09月14日 (金) | 編集 |
女と男の心のスペクタクル。

火事で経営していた小料理屋を失い、結婚詐欺で再出発の資金を作ろうとする夫婦の物語を、「ゆれる」「ディア・ドクター」などオリジナル脚本による心理劇を得意とする西川美和監督が描く。
詐欺を繰り返すうちに、徐々にあぶり出される深層心理のダークサイドと、それまで気づく事の無かったお互いの本性。
誰もが認める良妻という仮面の下に、歪んだ情念を秘めた女の闇を松たか子が熱演。
不気味に緊迫した人間ドラマの中にも、滑稽さがあるのが実に人間臭い。

東京で小料理屋「いちざわ」を営む貫也(阿部サダヲ)と里子(松たか子)。
慎ましくも幸せな日々は、厨房から失火した火事によって灰燼に帰してしまう。
一からやり直せば良いと気丈に振る舞い、早速バイトに精を出す里子に対して、再就職先でもプライドと職人気質が邪魔をして上手くいかない貫也は、やる気を失って酒浸り。
ある夜、店の常連だった玲子(鈴木砂羽)と再会した貫也は、勢いから一夜を共にする。
火事に同情した玲子に愛人からの手切れ金を渡され、貫也は里子にそれを友人からの借金と偽って渡すのだが、簡単に浮気を見破られてしまう。
怒りに燃えながらも、里子は同情から簡単に男に金を出す女がいる事に気づき、夫婦で結婚詐欺をする事を思いつくのだが・・・


ちょっと似たタイトルのフランス映画とは、真逆のネガティブパワー炸裂する物語で、「告白」に続く松たか子のホラー演技が凄い。
貫也の浮気が発覚し、怒りを飲み込むかの様に食パンをバクバク口に詰め込むシーンの、無表情から透けて見える情念の濃さ。
この人は元々の演技力が高いだけに、“何か恐ろしい事を考えてる”芝居をすると本当にコワイのである。

金に困った夫婦が、夫の浮気を切っ掛けに結婚詐欺にのめり込んでゆくというのは、かなり戯画的な設定だといえる。
「夢売るふたり」というタイトルからしてかなりシニカルで、阿部サダヲの真面目に可笑しい芝居もあって、これは一体シリアスなドラマなのか、それともブラックコメディなのか、笑って良いのか悪いのか、戸惑うシーンもしばしば。
特殊なシチュエーションにキャラクターを置く事で、普段は見えない心の奥底をえぐり出し、崖のキワに追い詰めながら、落ちそうになると手を掴んで引っ張り戻す様な、西川監督の揺さぶる演出は相変わらず観応えタップリだ。

結婚願望の強そうな女を里子が選び、貫也がその生来の優しさで接近し、スッと心の隙間に入り込む。
少し頼りなさげな貫也に「私がいなきゃ、この人はダメなの」と思わされて、深い仲となると、金を巻き上げられて逃げられる。
騙される相手は、家族から結婚のプレッシャーをかけられているOL、サービス精神旺盛なソープ嬢、気の優しいウェイトリフティングの選手に、DV男に付きまとわれるデリヘル嬢、更にはハローワークの公務員まで多岐にわたる。
まあこの辺りのプロセスは、登場人物の行動原理がやや唐突に感じられたり、いかに妻の指導があっても、阿部サダヲに突然モテキが到来するとか不自然な部分もあるが、ある種の寓話と思えばこれもアリか。
里子の即興のシナリオで、貫也が電話越しに別れの名演技を見せるシーンなど爆笑ものだ。

そうして、女たちを騙しているうちに、次第に明らかになってくる貫也と里子の心のズレ
貫也は薄々わかっているのだが、里子にとって結婚詐欺は半分は金のため、そしてもう半分は復讐のためだ。
自分を裏切った夫、そして簡単に男になびく女たちへ、自らの中にも同質のものを感じるからこそ、里子はこの業のもたらす暗い喜びから逃れられない。
だが、貫也が次なるターゲットに木村多江演じる子持ちの滝子を選んだ時、まるでピタゴラスイッチの様に、連鎖する運命の悪戯によって、二人の人生再建計画はあっけなく崩壊するのである。
家庭を夢見るそれまでの女たちは、里子にとってどこか見下す存在であり、だからこそ騙しても罪悪感を感じない。
ところが、滝子は既に家庭を持ち、自分にはいない子供まで産んでいる。
滝子の家で馴染む貫也の姿を見た時、おそらく里子は強烈な敗北感と嫉妬を感じたのだろう。

そして、蜃気楼の如き二人の夢が潰えた物語の終わり。
この映画が、結婚詐欺という犯罪を描きながらも、例えば「へルタースケルター」の様に、中途半端なモラリズムの風を吹かさなかったのは良かった。
詐欺を発案する発端となった、玲子にだけ金を返したのは、他の女と違って唯一本当に浮気をされた相手に対する、里子の女としての意地だろうか。
再び全てを失い、刑務所の厨房で汗を拭う貫也と、粉雪舞う魚市場で働く里子、離れ離れの夫婦が共に目を留めるのは、薄暗い空を寄り添って飛ぶ二羽のカモメ。
二人は、それでも同じ空を見ているのである。

話の本筋とは関係ないが、ディテールでちょっと気になったのは店が火事になるところ。
私は昔米国でレストランをやっていた事があるのだけど、あちらの条例では厨房の火の上にはワンアクションで消火剤を散布する超強力なスプリンクラーが義務付けらていた。
この映画では消化器すら無かったみたいだけど、日本では厨房に消火設備がなくてもいいのだろうか。
そもそもあんな一瞬で火は大きくならないし、お品書きに燃え移るまでカウンター席の客が気づかないのも不自然だ。
まあ元々映画の構造自体がホントとウソのギリギリの境界で成立している話だけに、わざと嘘っぽくして、観客を手玉にとろうという意図なのかも知れないけど。

今回は、東京の地酒、澤乃井の「純米 大辛口」をチョイス。
名前の通りキリリと辛く、スッキリ爽やかな味わいのお酒だ。
燃える前のいちざわの様な小料理屋で、美味しい酒の肴と一緒に冷やで飲めば、厳しい残暑も少しは和らげてくれるだろう。
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踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望・・・・・評価額1600円
2012年09月09日 (日) | 編集 |
青島さん、事件です!

1997年に最初の連続ドラマがスタートした人気シリーズ、15年目の最終章。
「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」と副題で銘打った本作では、警察内部の陰謀が絡んだ連続射殺事件を巡り、面子と保身を優先する組織トップに対し、織田裕二演じる青島ら、お馴染みの湾岸署の面々が現場力で対抗する。
全四作ある映画版の中では最も地味な展開なれど、君塚良一の脚本は良い意味でストレートに、シリーズ本来のテーマに原点回帰。
歴代の登場人物が結集し、大団円を演出しつつ、15年前の青島と室井の“約束”にも一応の結果が出される。

日々事件に追われる湾岸署では、青島(織田裕二)ら強行犯係も畑違いの雑務の応援に駆り出されている。
そんな時、過去の銃撃で受けた傷の後遺症に悩むすみれ(深津絵里)は、刑事を辞職し、誰にも告げずに現場を去る決意を固める。
だが、湾岸署管内で拳銃による射殺事件が発生し、凶器の拳銃が6年前の少女誘拐殺人事件に使われた物で、警察の証拠保管庫から何者かによって密かに持ち出されたという事が判明。
警察官が関わる事件を隠蔽するために、鳥飼管理官(小栗旬)が指揮する捜査一課が湾岸署に送り込まれて来る。
彼らは無関係の第三者を犯人にでっち上げて逮捕し、幕引きを図ろうとするが直後に第二の犯行が起こり、追い詰められた警察庁上層部は、内部の犯人を逮捕した上で、誤認逮捕の責任を青島と室井(柳葉敏郎)に押し付けようと画策。
しかし、今度は犯人グループによって湾岸署の真下署長(ユースケサンタマリア)の息子が誘拐され、彼らの狙いが6年前の事件の再現である事が明らかになるが・・・


冒頭、何故か青島とすみれさんが、レトロな商店街で唐揚げ屋をやってる!?
転職?それともパラレルワールド?と戸惑っていると、犯人逮捕の為の張り込みだった事が明らかになるのだが、エンドクレジットの写真で示唆される様に、同時にこれは青島の夢見る世界でもあると思う。
この意外性のあるオープニングは、寅さんの夢から始まる「男はつらいよ」シリーズへのリスペクトだろう。
永遠の旅人である寅さんと、永遠の現場刑事である青島。
元々「踊る大捜査線」というタイトルからして、ノーマン・ジュイソンの「夜の大捜査線」とエリック・シャレルの「会議は踊る」のパロディなのだけど、古今東西の様々な作品へのパロディとオマージュに満ちたシリーズにあっても、平成と昭和のアイコンが、スクリーンの中で一瞬クロスオーバーするかの様なこのオープニングにはグッと来た。

物語は意外にもシンプルだ。
このシリーズの映画版では、大作感を出すためか、プロットが無駄に重層的で、本筋以外のサブストーリーが多過ぎてとっ散らかった印象が強かった。
まあ情報量の多さが疾走感に繋がっていた側面もあるが、その分物語が拡散してしまっていたのも事実である。
今回は前作の「ヤツを解放せよ」とセットで構想されたという経緯もあって、登場人物などに共通点も多いが、物語そのものは独立しており、脚本の君塚良一はこのシリーズ本来のテーマである組織論と個人論に正面から迫ってゆく。

犯人グループの黒幕が小栗旬演じる鳥飼であることは、彼の登場シーンで既に暗示されているので、謎解きミステリーの要素は皆無。
責任の回避と自己保身こそを行動原理とする組織上層部に、嘗て絶望を与えられた鳥飼らは、6年前の少女誘拐殺人を再現し、正義と不正義の逆転を見せつける事で、警察組織の腐敗と矛盾を暴こうとする。
警察という一組織を超えて、明らかに3.11以降のこの国の支配層全体を意識した鳥飼の言葉は、残念ながら一定の説得力を持つのである。
しかし、敵とする組織のあり様を逆説的にトレースする彼らは、結果的に問題を提起する事は出来ても解決する事は出来ない。

一方で、一貫してこのシリーズのコアであり続けた青島と室井の葛藤が志向するものは、単純な個人vs組織という図式とは異なり、どんな状況でもブレない個の意思こそが、結果として組織をも生かすというウィンウィンの追求を最後まで貫く。
組織のトップに立つリーダーの資質とは何か、なぜ青島は室井に命令を出されて“嬉しい”と語るのか。
大杉漣演じる“隠蔽のプロ”が最後に意外な行動に出るのも、組織の大義を守る事は別にトップの面子を守る事と同義ではないのだから、当然といえば当然なのだ。
組織がリーダーを支え、逆にリーダーが組織を支えようとする力の原動力は、それぞれの組織本来の存在意義と、それを胸に刻み込んだ個人の信念だ。
青島の「正義なんてもんは、胸にしまっとく位が丁度いいんだ」という言葉は、数々の明言が生まれた、このシリーズ最後の名台詞。
例によって細部の展開は荒っぽく、雑と言えば雑で、バナナの閃きとか思わず突っ込みたくなる部分も多いが、物語の核心は青島の心の様にブレは無い。
今回唯一のサブストーリーは、辞表を提出したすみれさんと青島の関係で、これは良いスパイスになっていると思う。

エンドクレジットの作品史は、決して熱心なファンとは言えない私が観ても感慨深い。
10年一昔と言うが、15年という時の経過は作品にも歴史を与える。
ドラマが始まった1997年、今では本物の湾岸署まで出来てしまったお台場は、まだ閑散とした埋立地だった。
世界はまだ9.11も3.11も知らず、現政権与党の民主党は未だ存在せず、アップルコンピューターは倒産寸前の負け組企業で、ジャンプでは「ONE PIECE」の連載が始まり、年末にはキャメロン監督の「タイタニック」が史上空前の大ヒットを飛ばした、そんな年である。
「新たなる希望」という副題は、もちろん「スター・ウォーズ」の第一作にして第四部からとられた物だろう。
終わりでもあり、同時に始まりでもある「新たなる希望」には、クリストファー・ノーランの「ダークナイト ライジング」と同じ物語理論が見られる。
本作をもって「踊る大捜査線」というシリーズは幕を閉じるが、登場人物のその後を示唆する事によって、物語は観客の中で永遠に終わらない。
私たちが、ブルース・ウェインとセリーナ・カイルが世界のどこかで幸せに暮らしている姿を、あるいは寅さんが今も日本中を旅しながら切ない恋をしている姿を、容易に想像出来る様に。
まあ、何年かしたら大人の事情で復活しそうな気もしないではないが、その時はまたその時という事で(笑

何気にビールがテーマを際立たせるキーアイテムである本作の後には、青島たちも飲んだ(?)お台場の地ビール、「台場地麦酒」をチョイス。
ドイツ式の上面発酵で作られた正統派のビールで、マイルドな「ケルシュ」と豊潤な「アルト」の二種類が楽しめる。
お台場のデックス東京ビーチ内、SUNSET BEACH BREWING COMPANY他いくつかのレストランで飲む事が出来る。
大仕事の打ち上げで飲みたい一杯だ。
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最強のふたり・・・・・評価額1750円
2012年09月04日 (火) | 編集 |
悪ガキ二人、突っ走る。

事故で首から下が麻痺し、車椅子生活を送る大富豪と、ひょんな事から彼の介護人として雇われたスラム出身の青年。
一見すると水と油、境遇も性格も人種も異なる二人は、何時しかお互いの人生を支え合い、強い絆で結ばれた「最強のふたり」となってゆく。
昨年の東京国際映画祭で、グランプリと主演男優賞W受賞の3冠に輝いた実話ベースのヒューマンドラマだ。
文字通りの“良い話”を彩るのは、対照的な二人の文化の衝突が生む、フレンチエスプリたっぷりのブラックなジョークの数々。
大富豪フィリップをフランソワ・クリュゼ、介護人となるドリスをオマール・シーが演じ、監督・脚本はオリヴィエ・ナカシュとエリック・トレダノ
特に驚きのある映画ではないが、ドン!と力強く背中を押される様な、気持の良い一本だ。

パリの屋敷に住む富豪のフィリップ(フランソワ・クリュゼ)は、パラグライダーの事故による頸髄損傷で首から下が麻痺し、一人では体を動かす事も出来ない。
ある日、新しい介護人の面接で、フィリップはスラム出身の粗野な若者、ドリス(オマール・シー)に出会うが、他の応募者が真剣に面接しているのに、彼は失業手当の給付を引き延ばすために、就職活動をしたという証明が欲しいだけだと言い放つ。
ドリスのユニークな個性に興味を持ったフリップは、周囲の反対を押し切って彼を採用する。
最初は衝突する事も多い二人だったが、フィリップは自分を特別扱いしないドリスに次第に信頼を寄せてゆく・・・


対照的な二人の主人公が出会い、やがて友情と信頼で結ばれる。
この物語の構造は王道と言って良いもので、実際にお話自体はほぼ予定調和のまま、最初から最後まで想像通りに進んでゆく。
二人の主人公のうちフィリップは、冒険精神旺盛な大富豪
事故で体の自由が効かなくなっても、常に紳士として振る舞い、深い教養と自信に満ちた態度を崩さない。
一方のドリスは、アフリカ系移民の多いスラム街出身の、複雑な背景を持つ大家族で育った若者だ。
自身も刑務所に入ったことがあり、決して品行方正な人物とは言えない。
おそらく普通に暮らしていたら、一生フィリップの様な人物とは関わりになる事はないだろう。
同じ国に暮らしながら、異なる世界に生きていた二人の人生が、ちょっとした運命のいたずらで交錯し、不思議な化学反応を起こす。

ドリスは悪く言えば粗野だが、良く言えば幼い子供の様に天真爛漫で、全く遠慮も同情も無くフィリップに接する。
首から下の感覚がないと聞いて、試しに熱いお茶を足にかけてみたり、セックスの疑問をストレートに聞いてみたり、タブーを知らない彼の遠慮のない行動は、腫れ物に触るような周囲の人々の言動に辟易していたフィリップの心を解きほぐす。
バッハやヴィヴァルディしか知らない人生に、突然投げ込まれるアース・ウィンド&ファイアーの“Boogie Wonderland” のインパクト。
自動車はダサい介護用のバンではなく、埃をかぶっていたマセラティ・クアトロポルテを引っ張り出し、二人で怪しげな風俗に繰り出したと思ったら、パラグライダーにも再び挑戦し、仲良く一本のマリワナをシェアする。
はじめは胡散臭そうにドリスを見ていた屋敷の人たちも、何時しか表裏のない彼の人柄を認め、遂には反抗期のフィリップの娘の“お仕置きのし方”まで指南する様に(笑

だが、幸福なバカ騒ぎは永遠には続かない。
まだ若いドリスの将来を思いやった年長のフィリップは、友の背を押す事で別離を選択するのだが、本作が真に映画的なエモーションを感じさせるのはここからだ。
実はフリップも、自分の体に関しては複雑な葛藤を抱えている。
密かに想いを寄せている文通相手の女性には、今の自分の写真を送る事が出来ず、実際に会う事になっても直前で逃げ出してしまう。
フィリップに出会う前のドリスが、人生をなかなか前に進められないでいたように、フィリップもまたプライドとコンプレックスの呪縛から逃れられないでいるのだ。
もちろん、彼の人生の時計を再び動かすのは、たった一枚の写真に込められた親友の気持ちを汲み取ったドリス。
深夜のパトカーとのカーチェイスは、フィリップを新しいスタートラインに立たせるための、ドリス流のウォーミングアップだ。
例え一日中一緒にいる関係が終わったとしても、一度築かれた二人の絆は永遠に途切れる事はない。
彼らは既に、お互いの人生にとって決して欠くことの出来ない魂の友となっているのである。

邦題の「最強のふたり」とは、なるほど上手く付けたもので、主人公の二人が強烈にキャラ立ちしている。
貴族の家柄に生まれ、品格ある紳士として日々を送りながらも、心の中でもがくフィリップのキャラクターを、繊細かつ人間味たっぷりに演じたフランソワ・クリュゼ
そして、クリクリした目が、そのまま知らない世界に対する純粋な探究心を感じさせるオマール・シー
この二人をキャスティングした段階で、本作の成功は半分保証されたような物だろう。
彼らの丁々発止の掛け合いは、安易に作ればお涙頂戴に陥りがちなこの種の物語を、爽やかな笑いで満たし、非常にポジティブな人間讃歌へと昇華している。
栄養ドリンクの様にスクリーンから明日を歩むための元気をもらえる、正に“最強の一本”だ。

ところで、劇中にフィリップの電動車椅子をドリスが改造して、セグウェイをブチ抜くシーンがあるが、アメリカで学生時代にボランティアをしていた時、レース用電動車椅子の存在を知って乗せてもらったのを思い出した。
確か時速20キロ以上出るのもあって、着座位置が低いので体感的にはスクーター並みのスピード感。
車椅子同士でシグナルGPとかやってたけど、あれは日本だと違法なんだろうなあ、アメリカでも違法だったかも知れないけど(笑

今回は、この映画に相応しい大人のカクテル、その名も「フレンチ・スター」をチョイス。
ディタ・スターリー30 ml、ライム・ジュース10 mlをシェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぎ、ペルノ2 tsp、トニック・ウォーターで満たし、軽くステア。
最後にお好みでミントの葉を一枚載せて完成。
複雑な風味を持ちながら、サッパリとした爽やかなカクテルだ。
カットすると断面が星型になるスターフルーツを原料とするスターリーを使っているので、この名が付いたと聞いたけど、本当かな。
残念ながら、このディタ・スターリーは現在入手困難で、見かけたら即買だ。
姉妹品のディタ・ライチを代用しても、味わいは異なるが美味しいカクテルになる。
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