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2012年09月24日 (月) | 編集 |
それは、たった一個のボールから始まった。
「コッホ先生と僕らの革命」は、教育者にしてドイツサッカーの父、コンラート・コッホと彼の教え子たちの細やかな、しかし偉大な一歩を描いた物語だ。
まだ階級差別が激しく、権威への服従が美徳とされた時代。
コッホ先生が教室に持ち込んだ、一個のボールに魅了された生徒たちは、フェアプレイ精神を通して自由と自立、平等の意味を学び、やがてそれはギムナジウムの小さな革命へと繋がってゆく。
彼らが直面するのは頑迷固陋な大人たちに、サッカーというまだ誰も知らない新しい物の魅力と価値を伝える事の難しさ。
そう、これは創造の苦しみに関する映画でもあるのだ。
1874年、ドイツ。
ブラウンシュヴァイグのギムナジウムに、イギリス帰りの英語教師、コンラート・コッホ(ダニエル・ブリュール)が赴任する。
ところが、イギリスに対する敵愾心をむき出しにする生徒たちは英語に興味を持たず、クラスではプロレタリアート階級出身の生徒が他の生徒たちからいじめを受けていた。
そんな生徒たちの態度を一変させたのは、コッホがイギリスから持ち帰った一個のボール。サッカーという未知のスポーツに魅せられた生徒たちは、誰もが対等になれるピッチの上で、英語だけでなく全く新しい価値観を学んでゆく。
だが、それは権威主義に染まった大人たちを動揺させ、遂には町中を巻き込んだ大騒動に発展してゆく・・・
ワールドカップ優勝3回、準優勝4回を誇り、今でこそ誰もが認める世界有数のサッカー大国であるドイツ。
しかし歴史を紐解くと、ドイツ人のサッカーへの感情は愛憎の念が入り混じる複雑な物であったらしい。
1870年代、プロセイン皇帝ヴィルヘルム一世と鉄血宰相ビスマルクは、普仏戦争の勝利によって宿敵フランスを屈服させ、ドイツ統一を成し遂げる。
本作の舞台となるのはその直後、ナショナリズムと帝国主義の高まりにより、世界の海を支配する大英帝国との対立が深まりつつあった時代だ。
ギムナジウムの体育の授業は、自己鍛錬を目的とする体操と軍事教練ばかりで、球技の様なゲームスポーツは“非ドイツ的”とみなされて排除されていた。
そんな時代にイギリス生まれのサッカーを導入したのだから、体制側の大人たちの反発は必至である。
コッホ先生は、権威に無批判に従う事を当たり前と考え、支配される事に慣れてしまっている生徒たちの心を解放しようとし、そのための手段として授業の補助にサッカーを導入する。
最初は戸惑い気味だった生徒たちが、次第にサッカーの魅力にとりつかれてゆくのは、単にゲームとして面白いからだけでなく、彼らのいまだ知らない世界を見せてくれたからだろう。
大人たちが作り上げた規律に盲従し、人間の価値を生来の階級に当てはめる事しか知らなかった生徒たちは、芝を転がるボールを追いながら、誰から押し付けられた物でもない、自我の確立を経験するのである。
貧しいプロレタリアートの少年も苛めっ子のブルジョアジーも、ピッチに立てば平等なプレイヤーとなり、ゲームを通じてそこに信頼と友情が育まれる。
大人たちから忌むべき敵国と教え込まれたイギリス人に対してだって、本物の戦争と違ってサッカーでは敬意と競争心こそあれど、憎しみが生まれる事はない。
しかし、それは大人たち、特に体制そのものであるブルジョアジーの男性たちにとっては、自らが信奉し築き上げてきた世界に対する挑戦を意味する。
たかがサッカーされどサッカー、コッホ先生の新しい教育によって、生徒たちが望ましくない方向へと変化しつつある事を悟った彼らは、大人気ない位に凡ゆる権力を使って、コッホとサッカーを排除しようとする。
だが、一度始まった変化、自由と自立を知ってしまった生徒たちは、もう敷かれたレールを外れる事を恐れない。
強大な圧力に対して、コッホたちが持つ唯一の武器は、大人たちがまだサッカーの本質を知らないという事だけだ。
まあ、物語の纏めに入った終盤の展開はやや脚色の御都合主義が目につき、史実ベースの物語の持つ重みをスポイルしてしまっているのは勿体無いが、21世紀には全世界に2億6千万人もの競技人口を擁する事になる、サッカーという新しいスポーツの持つ躍動する肉体言語が、ガチガチに固まった大人たちの思惑を超え、時代をブレイクスルーする展開は痛快。
残念ながら、映画で描かれた小さな革命から100年以上経った現在でも、無知と偏見、様々な差別による争いは耐えず、権威と服従の関係から逃れられない人々も少なくないのが現実だ。
勝ち負けに関係なく相手をリスペクトし、偏見を排除するフェアプレイと平等、自分の頭で判断し行動する自由と自立の精神を育成するというコッホ先生の教育哲学は、いまだ十分な説得力を持つ。
人間の生き方に関して時代を超えたメッセージを投げかける一本である事は間違いなく、ヒューマンドラマとしても気持ち良く感動出来る良作と言える。
今回は舞台となったニューザクセン州ブラウンシュヴァイグの近郊の街、アインベックの地ビール「アインベッカー マイ ウル ボック」をチョイス。
ここは600年以上の歴史を持つ、所謂ボックビールの元祖となる醸造所で、「5月のボック」を意味する「マイ ウル ボック」は、本国では毎年3月から5月にかけて季節限定で発売される。
ドライ&スパイシーな味わいは、コッホ先生も楽しんだに違いない。
しかし映画を観る限り、ドイツ人気質というのは当のドイツ人から見てもやっぱり“頑固”なんだねえ。
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「コッホ先生と僕らの革命」は、教育者にしてドイツサッカーの父、コンラート・コッホと彼の教え子たちの細やかな、しかし偉大な一歩を描いた物語だ。
まだ階級差別が激しく、権威への服従が美徳とされた時代。
コッホ先生が教室に持ち込んだ、一個のボールに魅了された生徒たちは、フェアプレイ精神を通して自由と自立、平等の意味を学び、やがてそれはギムナジウムの小さな革命へと繋がってゆく。
彼らが直面するのは頑迷固陋な大人たちに、サッカーというまだ誰も知らない新しい物の魅力と価値を伝える事の難しさ。
そう、これは創造の苦しみに関する映画でもあるのだ。
1874年、ドイツ。
ブラウンシュヴァイグのギムナジウムに、イギリス帰りの英語教師、コンラート・コッホ(ダニエル・ブリュール)が赴任する。
ところが、イギリスに対する敵愾心をむき出しにする生徒たちは英語に興味を持たず、クラスではプロレタリアート階級出身の生徒が他の生徒たちからいじめを受けていた。
そんな生徒たちの態度を一変させたのは、コッホがイギリスから持ち帰った一個のボール。サッカーという未知のスポーツに魅せられた生徒たちは、誰もが対等になれるピッチの上で、英語だけでなく全く新しい価値観を学んでゆく。
だが、それは権威主義に染まった大人たちを動揺させ、遂には町中を巻き込んだ大騒動に発展してゆく・・・
ワールドカップ優勝3回、準優勝4回を誇り、今でこそ誰もが認める世界有数のサッカー大国であるドイツ。
しかし歴史を紐解くと、ドイツ人のサッカーへの感情は愛憎の念が入り混じる複雑な物であったらしい。
1870年代、プロセイン皇帝ヴィルヘルム一世と鉄血宰相ビスマルクは、普仏戦争の勝利によって宿敵フランスを屈服させ、ドイツ統一を成し遂げる。
本作の舞台となるのはその直後、ナショナリズムと帝国主義の高まりにより、世界の海を支配する大英帝国との対立が深まりつつあった時代だ。
ギムナジウムの体育の授業は、自己鍛錬を目的とする体操と軍事教練ばかりで、球技の様なゲームスポーツは“非ドイツ的”とみなされて排除されていた。
そんな時代にイギリス生まれのサッカーを導入したのだから、体制側の大人たちの反発は必至である。
コッホ先生は、権威に無批判に従う事を当たり前と考え、支配される事に慣れてしまっている生徒たちの心を解放しようとし、そのための手段として授業の補助にサッカーを導入する。
最初は戸惑い気味だった生徒たちが、次第にサッカーの魅力にとりつかれてゆくのは、単にゲームとして面白いからだけでなく、彼らのいまだ知らない世界を見せてくれたからだろう。
大人たちが作り上げた規律に盲従し、人間の価値を生来の階級に当てはめる事しか知らなかった生徒たちは、芝を転がるボールを追いながら、誰から押し付けられた物でもない、自我の確立を経験するのである。
貧しいプロレタリアートの少年も苛めっ子のブルジョアジーも、ピッチに立てば平等なプレイヤーとなり、ゲームを通じてそこに信頼と友情が育まれる。
大人たちから忌むべき敵国と教え込まれたイギリス人に対してだって、本物の戦争と違ってサッカーでは敬意と競争心こそあれど、憎しみが生まれる事はない。
しかし、それは大人たち、特に体制そのものであるブルジョアジーの男性たちにとっては、自らが信奉し築き上げてきた世界に対する挑戦を意味する。
たかがサッカーされどサッカー、コッホ先生の新しい教育によって、生徒たちが望ましくない方向へと変化しつつある事を悟った彼らは、大人気ない位に凡ゆる権力を使って、コッホとサッカーを排除しようとする。
だが、一度始まった変化、自由と自立を知ってしまった生徒たちは、もう敷かれたレールを外れる事を恐れない。
強大な圧力に対して、コッホたちが持つ唯一の武器は、大人たちがまだサッカーの本質を知らないという事だけだ。
まあ、物語の纏めに入った終盤の展開はやや脚色の御都合主義が目につき、史実ベースの物語の持つ重みをスポイルしてしまっているのは勿体無いが、21世紀には全世界に2億6千万人もの競技人口を擁する事になる、サッカーという新しいスポーツの持つ躍動する肉体言語が、ガチガチに固まった大人たちの思惑を超え、時代をブレイクスルーする展開は痛快。
残念ながら、映画で描かれた小さな革命から100年以上経った現在でも、無知と偏見、様々な差別による争いは耐えず、権威と服従の関係から逃れられない人々も少なくないのが現実だ。
勝ち負けに関係なく相手をリスペクトし、偏見を排除するフェアプレイと平等、自分の頭で判断し行動する自由と自立の精神を育成するというコッホ先生の教育哲学は、いまだ十分な説得力を持つ。
人間の生き方に関して時代を超えたメッセージを投げかける一本である事は間違いなく、ヒューマンドラマとしても気持ち良く感動出来る良作と言える。
今回は舞台となったニューザクセン州ブラウンシュヴァイグの近郊の街、アインベックの地ビール「アインベッカー マイ ウル ボック」をチョイス。
ここは600年以上の歴史を持つ、所謂ボックビールの元祖となる醸造所で、「5月のボック」を意味する「マイ ウル ボック」は、本国では毎年3月から5月にかけて季節限定で発売される。
ドライ&スパイシーな味わいは、コッホ先生も楽しんだに違いない。
しかし映画を観る限り、ドイツ人気質というのは当のドイツ人から見てもやっぱり“頑固”なんだねえ。

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