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映画人生の集大成とも言うべき傑作「グラン・トリノ」を最後に、俳優引退を宣言していたクリント・イーストウッドの四年ぶりとなる主演復帰作は、長年メジャーリーグの現場に立ち続けてきた老スカウトマンと、弁護士としてエリート人生を送る娘の旅を描くロードムービー。
「マディソン郡の橋」以来17年間に渡って、助監督やプロデューサーとしてイーストウッド作品を支えてきたロバート・ローレンツの監督デビュー作で、撮影監督のトム・スターンや美術のジェームズ・J・ムラカミらイーストウッド組が結集。
派手さは無いが、手堅く仕上げられた、オヤジのオヤジによるオヤジの為の愛すべき小品である。
アトランタ・ブレーブスのスカウトとして全米を飛び回る生活をしてきたガス(クリント・イーストウッド)は、高齢による視力の悪化で、引退の瀬戸際に追い詰められている。
彼の体調を心配した球団幹部のピート(ジョン・グッドマン)は、ガスの娘で敏腕弁護士として活躍しているミッキー(エイミー・アダムス)に、ドラフト会議前の最後の視察旅行に同行して欲しいと頼む。
しかし、幼い頃に母親を亡くしてから、自分を親戚に預けっぱなしにした父は、ミッキーにとっては今でも距離を感じる存在。
渋々ガスに付き合う事にしたミッキーだったが、旅を続けるうちに、自分でも思ってもみなかったベースボールへの情熱を感じる様になる。
そして、運命のドラフトの日、ガスは長年の秘密にしてきたある事実をミッキーに打ち明けるが・・・
たぶん、愛弟子のデビューに花を添えたかったんだろうな。
齢82歳にして俳優復帰したイーストウッドが演じるのは、メジャーリーグの伝説的スカウトマンだ。
パソコンも使えず、徹底的に現場に拘り、己が目と耳で選手を見極め、どんな小さなクセや欠点も見逃さない。
一方で、自分が採った選手がスランプに陥れば、その原因を突き止め、メンタルのケアまで面倒をみる。
原題の「Trouble With the Curve(カーブに問題あり)」とは、劇中でガスがコンピュータも見抜けなかったある選手の致命的な欠点を指摘する一言だ。
まるで昨年の「マネーボール」に描かれた、セイバーメトリクスによるデータ野球に喧嘩を売るかの様な、古きアメリカを体現するキャラクターだが、実際に映画そのものも良くも悪くもとても古臭い。
今でこそ人気面ではアメフトの後塵を拝する様になったものの、メジャーリーグベースボール(MLB)は、アメリカの所謂4大プロスポーツでも最も長い歴史と伝統を持つ。
なにしろ現在MLBを構成するア・ナ両リーグのうち、アメリカンリーグ創設は19001年、ナショナルリーグに至っては1876年の創設で、実に136年もの間、北米各地のフィールドで無数の熱戦が繰り広げられてきた。
4大プロスポーツの中で二番目に古い、ナショナルアイスホッケーリーグ(NHL)の1917年創設と比べても、MLBの歴史の長さは際立っている。
野球、いやベースボールは、世代を超えてアメリカ人の心に深く根をおろした一つの文化。
だからこそ、骨董品の様なガスのキャラクターが説得力を持ち、お互いに素直になれない不器用な父娘を和解に導くのが、野球バカのDNAという物語が成立するのである。
新緑のノースカロライナの美しい風景の中で、野球を追いかけ、試合が終われば爺さんたちは酒場で馬鹿話を楽しみ、若者たちはロマンスの花を咲かせる。
そこは都会の喧騒やデジタル社会の忙しなさとは無縁な、アメリカのハートランドだ。
正しい者は報われ、悪しき者は罰を受け、愛する者とのわだかまりも何時しか氷解し、人生の進むべき道も自然に見つかるという本作は、ベースボールの国だからこそ作り得る、オヤジの夢を具現化したお伽話と言えるだろう。
だから、ぶっちゃけ物語は突っ込みどころ満載。
主人公も含め、登場人物たちは見事なまでのステロタイプだし、一応の伏線は張られているものの、あまりにも都合良く転がる物語は御都合主義もいいところだ。
母親が死んだ後、親戚や寄宿学校をたらい回しにされ、父親に捨てられたというトラウマを抱えるミッキーの葛藤にしても、驚くほどあっけなくガスの過去に纏わる秘密が明かされ、ミッキーもまたあっさりとその事実を受け入れる事で解決。
ベースボールに対しても、ミッキーに対しても、頑なに自分が変わることを拒絶するガスのメンタリティだって、客観的に見れば不器用というよりは単に偏屈な爺さんだ。
構成としてはそれなりにバランスがとれているものの、正直あまり上出来な脚本とは思えない。
にも関わらず、私はこの映画を結構楽しんだし、決して嫌いではない。
それはステロタイプではあるものの、ユーモラスで憎めないキャラクター、そして彼らの血潮とも言えるベースボールへの愛があるからだ。
イーストウッドの娘役にエイミー・アダムスをキャスティングしたセンスも良い。
この二人、少々歳は離れているものの、俳優としての空気にどこか似たところがあり、観ている間に本当の親子に見えてくる。
「アルゴ」に続いて登場のジョン・グッドマンや、懐かしの液体ターミネーターことロバート・パトリックら渋めの脇役陣も、それぞれいかにもなキャラクターだが役柄とのマッチングは良い。
ただ、ミッキーのロマンスの相手となるジャスティン・ティンバーレイクは、まあ彼のせいではないけど、物語の中での立ち位置がちょっと中途半端だったかな。
「人生の特等席」は一本の映画として冷静に観察すれば、あちこち欠点だらけだし、お世辞にも傑作とは言い難い。
しかし、予定調和の物語にゆったり身を任せると、いつの間にかに世界観に魅了され、ステロタイプな登場人物の人生に感情移入し、最後にはジンワリと感動させられてしまう不思議な作品だ。
この世界へ行き、ガスやミッキーとベースボールを観戦し、酒を飲みながらメジャーリーグのトリビアクイズに興じたくなってくるのである。
古臭く、ダメなところだらけだけど何故か魅力的、まるで映画そのものがガス爺さんの様だ、と言ったら褒めすぎだろうか。
やたらと酒場のシーンの多い本作、登場人物も皆いかにも酒豪っぽく、「ワイルドターキー 8年 50.5度」なんていう強力な酒でも平気でグビグビいきそう。
言わずと知れたアメリカを代表するスピリット、ケンタッキーバーボンの老舗銘柄の逸品だ。
度数は高いが、味わいは意外にも繊細で、独特の甘みとコクが絡み合い、深い余韻を作り出している。

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イラン革命の混乱の中、治外法権のはずの大使館に怒れる過激派学生たちが雪崩れ込み、大使館員とその家族ら52人を人質に、444日間に渡って占拠したアメリカ大使館人質事件。
全世界を震撼させた、この歴史的大事件の裏に、大使館の外で孤立した6人の外交官を脱出させた、知られざる歴史秘話があった事はあまり知られていない。
事件から18年後、クリントン政権下でようやく機密指定が解除され、世間に公表された脱出作戦とは、偽のSF映画「アルゴ」の制作をでっち上げ、6人をスタッフに偽装して出国させるという奇想天外なもの。
この驚きの顛末を映画化したのは、プロデューサーのジョージ・クルーニーと、自らの非凡な才能を証明した「ザ・タウン」に続いて、監督・主演を兼務するベン・アフレック。
1979年11月4日、テヘランのアメリカ大使館が占拠される直前、6人の外交官が密かに大使館を脱出し、カナダ大使の私邸に身を寄せた。
彼らの救出を命じられたCIAのトニー・メンデス(ベン・アフレック)は、イラン当局の目を盗んで彼らを安全に脱出させるために、前代未聞の作戦を発案する。
それは架空の映画を隠れ蓑に、6人をロケハンのためにイランに入国したスタッフとして出国させるというものだった。
ハリウッドで特殊メイクの第一人者として活躍するジョン・チェンバース(ジョン・グッドマン)とプロデューサーのレスター・シーゲル(アラン・アーキン)の協力を得て、メンデスはマスコミ向けに大々的に映画「アルゴ」の制作を発表。
しかし、イランに潜入したメンデスが脱出作戦の最終段階に入った時、突然本国から作戦中止の指令が入る・・・
いやあ、これは文句無しに面白い!
冒頭のワーナーロゴから70年代テイストが画面から漂う。
なんでも当時のムードを出すために、撮影したフィルムを一度半分のサイズにし、再度拡大する事で粒子を強調し、ザラッとした質感を作り出していると言う。
美術やコスチューム、メイクアップはもちろん、カメラワークまで当時の映画を参考にするなど、綿密に作り込まれた時代感によって、観客は冷戦時代の1979年へとタイムスリップ。
今に続くイスラム革命下のイランでは、親米享楽主義の独裁体制を敷いたパーレヴィ朝が滅び、国民の間では国王の事実上の亡命先となったアメリカへの怒りが爆発。
国王のイランへの送還を求め、多くの民衆が連日大使館に抗議に押し寄せる事態となる。
言うまでもなく、大使館はその国にあってその国の法が及ばない治外法権の地であり、在外公館の地位を定めたウィーン条約によって厳重に守られている。
つい先日も中国の反日デモによって日本大使館が被害を受けた事が問題となったが、当時イランで起こった事は、あんな生易しいものではない。
何しろ過激派学生に扇動された数百人の群衆が大使館を占拠し、大使館員らを人質に籠城したのだ。
もちろん完全な違法行為なのだが、徹底的な反米を旗印とする革命政府は、学生たちを排除するどころかむしろ積極支援し、当然アメリカとの関係は最悪となり、解決の糸口は見えないまま。
そんな状況で大使館から脱出した6人が見つかれば、米大使館員はスパイだというイラン側の主張の格好の証明となってしまう。
鉄壁の警備を敷く当局の目を誤魔化し、如何にして籠の鳥である彼らを出国させるか?
時の映画界は、1977年の「スター・ウォーズ」の大ヒットによって、空前のSFブームの真っ最中。
ベン・アフレック演じるCIAの救出請負人、トニー・メンデスは、たまたまテレビで「最後の猿の惑星」を観ていてひらめいた。
SF映画は中東の様な砂漠や荒野が舞台となる事が多い。
ならば架空の映画をでっち上げ、6人をロケハンの為にイランを訪れた映画スタッフに偽装し、堂々と空港から出国させれば良いのだ!
この驚くべき作戦が、机上の空論でなく実際に行われたというのだから、さすが世界のエンタメ界をリードする劇場国家アメリカである。
特殊メイクのパイオニア、ジョン・チェンバースがCIAの協力者だったとは知らなかったが、ハリウッドのサポートを得たメンデスは、大真面目にSFアクション映画「アルゴ」のプリプロダクションをスタートし、大々的にマスコミ発表までしてしまう。
プロデューサーが、組合の弱みにつけ込んで偽映画の脚本を安値で買い叩いたり、作戦準備のプロセスはコメディタッチで、ハリウッドの内幕物としてもなかなか面白い。
そして、いよいよメンデスがイランに乗り込み、脱出作戦決行までの72時間になると、映画は息もできないほどの濃密なサスペンスへガラリと姿を変える。
いきなり偽映画のスタッフになれと言われた6人は困惑。
当たり前だが、彼らには演技経験など無く、大使館から逃げた挙句に偽造旅券で出国しようとした事がバレれば確実にスパイとして処刑されるので、それも当然だ。
恐れおののく彼らに、メンデスは本来機密である本名を明かした上で、自分に命を預けることを迫るのである。
ところが、やっとの事で全員を説得したと思ったら、今度は軍事力によって大使館からの人質救出を決定した本国からの横槍が入り、メンデスは作戦の中止を命じられてしまう。
だがそれは、大使館外にいる6人を見捨てる事を意味する。
国家の駒であるメンデスは、国益と個人の命の間で葛藤し、遂に命令を無視して作戦を実行する事を決断するのである。(因みに軍事作戦は結局失敗に終っている)
史実をベースにした物語とは言っても、イラン側の詳細な情報は知り様が無いので、ここからのメンデスたちと迫り来る追っ手との騙し合いのサスペンスは、実際には限りなくフィクションのはずだ。
しかし、この映画は虚実の配合が絶妙で、ライブ感を強調した映像も合間って実にスリリング。
空港での何段階もの危機また危機の連続には、誰もが思わず手に汗を握るだろう。
面白いのは、見事に空港を警備する革命防衛隊を欺き、作戦が成功裏に終わったにも関わらず、物語の後味がどこかビターなテイストを帯びている事だ。
ラストの字幕や、エンドクレジット中のカーター元大統領の言葉などに示唆される様に、アフレックもアメリカ的価値観の尊さを強調しようとしたフシはある。
しかし、イラン革命とソ連軍によるアフガニスタン侵攻が始まった1979年は、今に続く欧米vsイスラム原理主義という対立構図の原点とも言える年であり、今だ世界はその余波の中にいる。
振り返って、長年独裁者パーレヴィを支援し、イラン国民の怒りを買う遠因を作ったのは、誰あろうアメリカという国家、そしてその尖兵となったCIA自身なのだ。
個人としてのメンデスは、人質の命を救うという素晴らしい仕事を成し遂げたものの、それは国家のレベルで考えれば、自分の尻拭いを自分でやったに過ぎず、だからアメリカは事件を無かった事にし、メンデスに対しても栄光無き名誉を与える事しか出来ないのである。
物語の最後で、ある人物が向かう先が、CIAの次なる“投資先”となるイラクであることも興味深い。
「アルゴ」は純粋なエンターテイメントとして観ても実に良く出来た作品だが、おそらくは作者の思惑を超えた史実のアイロニカルな側面によって、更なる深みを獲得したのだと思う。
本年屈指の傑作サスペンスである。
イスラム革命後のイランでは、もちろん公にはアルコール類禁止。
今回はイラン領空を出たら飲みたい、中東はレバノンのイクシール レバノンの「アルティテュード・ホワイト」をチョイス。
上品な花の様な柔らかいアロマと、マスカット系の甘みと酸味がバランスし、スッキリとまとまりの良い白だ。
映画の張り詰めた緊張感を優しく解きほぐしてくれるだろう。

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この国を再び震災と原発事故が襲った近未来を舞台に、絶望の中で必死に希望を見出そうとする三組の男女を主人公とした群像劇。
前作の「ヒミズ」で、ポスト3.11の青春を圧倒的な映画力で描き上げた園子温監督は、震災後一年を経て非日常が日常化してしまった日本の今を、痛烈な怒りを込めてカリカチュアする。
これは園子温という、自らの立ち位置を鮮明にした作家の、はっきり言えばフィルターを通して見たある種の日本論であり、全ての観客は一人の日本人として映画の世界への参加を強制され、作者の俎上に載せられるのだ。
その意味で、強烈に賛否が分かれる作品である事は間違いないだろうが、本作に描かれる“日本人が見たくない日本の姿”には誰であれ大きな衝撃を感じるだろう。
東日本大震災が既に過去の出来事である近未来。
長島県で酪農を営む小野泰彦(夏八木勲)は、認知症を患う妻・智恵子(大谷直子)と息子・洋一(村上淳)、その妻・いずみ(神楽坂恵)と平凡ではあるが幸せな毎日を送っていた。
ところが、長島県沖で再び巨大地震が発生し、続いて起こった原発事故によって、小野家の庭が避難指定区域の境界とされてしまう。
放射線の影響を心配した泰彦は、若い息子夫婦を自主的に避難させ、自分たちは住み慣れた家に留まる事を決意する。
一方、境界の向こうに家があったために、避難所に移ったミツル(清水優)は、恋人のヨーコ(梶原ひかり)と共に、津波に流されて行方不明となった彼女の両親を探して、無人となった沿岸区域を彷徨っていた・・・
おっぱいも暴力も出てこない園子温。
しかし、これほど痛々しく、観ている間ずっと息の詰まる様な映画もなかなか無い。
東日本大震災からまだ一年と半年、再びの悪夢は誰も考えたくないかもしれない。
だが、本作は問いかけるのだ。
もしも、また大震災と原発事故が起こったら、何が起こるのか?日本人は“フクシマの教訓”を活かせるのか?ベターな明日を作れるのか?と。
そして、この映画は明確に“今のままではまた同じことを繰り返す”と断言するのである。
主な登場人物は、世代の異なる三組の男女。
自宅の庭に避難指定区域の境界線が引かれるというシュールな状況を前に、老境に達した酪農家の小野泰彦は、認知症の妻・智恵子と共に、思い出の詰まった家に留まる事を決める。
彼らの息子である洋一と妻のいずみは、泰彦の強い勧めで少し離れた街に自主的に避難するのだが、その街でいずみが妊娠している事が発覚、放射線の恐怖から我が子を守ろうとするいずみは、常に防護服を着用して世間から奇異の目で見られる様になってしまう。
そして三組目は小野家の近所の住人で、まだ遊び盛りの若い恋人同士であるミツルとヨーコ。
二人は、避難所暮らしをしながら、密かに立ち入り禁止となった区域に入り、津波に流されたヨーコの両親を探し続ける。
彼らの中では、それぞれの絶望と希望が衝突し、激しい葛藤を繰り返している。
老い先短い人生で、原発事故によって自分史の全てを奪われようとする泰彦は、息子夫婦とまだ見ぬ孫の未来に希望を託し、智恵子と共に絶望の淵に消える。
洋一は両親を見捨てられないという想いと、放射能恐怖症に陥ったいずみと生まれてくる子供のために、もっとずっと遠くへ逃げなければならないという強迫観念の板挟みとなり、ミツルとヨーコは、津波によって何もかもが流されてしまった絶望の浜で、共に「一歩、一歩」と前に進む事で希望を見出そうとする。
「おうちにかえろう」
認知症の智恵子が繰り返し口にするこの言葉が重い。
登場人物にとって、故郷での日常はもう永遠に戻らず、帰るべき“おうち”はどこにも無いのだ。
被災地出身者の差別、殺される家畜たち、時間が経つと根拠の無い“安心”を垂れ流すテレビのワイドショー。
政府やマスコミの情報が信用できず(映画はテレビの医者は嘘をついているとはっきりと言い切る)自衛に走る人々と、それを見て過剰反応と蔑む人々。
どれもこれも、去年から散々見てきた風景である。
人間は進歩する動物で、福島で得た教訓は、もしも同じ事がまた起こったら、必ず活かされるはず・・・・と思いたいが、残念ながら私はこの映画に強い説得力を感じざるを得なかった。
世界有数の地震国である以上、いつかは再び震災が日本のどこかで発生するのは子供でもわかる純然たる事実だ。
だが、福島の事故では実質誰一人としてきちんと責任をとっていないどころか、まともな総括すら行われていない。
にも関わらず、電力需給の数字をでっちあげてまで原発を再稼働させる電力会社に、選挙の票のために“原発ゼロ”という言葉まで弄ぶ為政者たち。
そして人々もまた、そんな非日常に慣れてしまっていないか。
ドジョウ首相が何を言おうが、原発事故はまだ収束していないし、たぶん二度と故郷に帰れない人も沢山いる。
弾丸も、爆弾もない見えない戦争は終わっていないのに、考えたくない事の様に忘れようとしているこの国の奇妙さ。
本作の舞台となる“長島県”は架空の土地だが、狭いに島に原発が乱立するこの国では、どこにでもなり得るという事だ。
今この状況で“if”を想像すると、この映画は決して絵空事には思えないのである。
正直、映画の作りとしてはどうなのかなあと思う部分もあるのだが、あえて芝居掛かった俳優の台詞回し、全編に渡って観る者の心をかき乱す不気味な不協和音、時として過剰な程に鳴り響くマーラーの調べといった音響演出の面白さ。
ミツルとヨーコの前に唐突に現れ「これからの日本人は一歩一歩進むんだ」と言う子供の幽霊や、泰彦が洋一に語る「人は生きる時に、杭を打たれる」という印象的なセリフに被せ、実際のビジュアルとして二人の間に杭が打たれるシーン、そして僅かに芽吹きながらも業火をあげて炎上する庭の木などの比喩的な映像表現からは、やはり園子温にとって映画は五感のすべてを駆使して作り上げる一編の詩なのだと思わされる。
おそらく「希望の国」に「ヒミズ」の延長線上にある物語を期待した観客は、ラストで荘厳にこのタイトルが映し出される瞬間、思わず頭を抱えるだろう。
果たして、この国に希望はあるのか?
その答えは、全ての日本人のこれからの選択にかかっているという事実を、本作は端的に、そして極めて映画的に突きつけるのである。
なるほど、園子温は覚悟を決めた。
さて、我々はどうする?
“if”のタイムリミットは明日かも知れない。
今回は辛口な映画に合わせて、リアルな原発事故という逆境の中でも福島の蔵の火を絶やさない、ほまれ酒造の「会津ほまれ 上撰辛口」をチョイス。
キリリと辛く、適度なコクもあり、料理の種類を問わずに楽しめるオールマイティな一本だ。
これからの季節は鍋物などと合わせて飲んでも美味しいだろう。
冷でも燗でもどちらも美味しくいただける。

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その真の意味がわかるのは、死によって大切な人との永遠の別れを迎え、会いたくても会えなくなってからかもしれない。
だけどもし、亡くなった人と一度だけ現世で会えるとしたら・・・?
これは命の境界を超え、生者と死者の仲介をつかさどる「ツナグ」と呼ばれる不思議な使者の仕事を継承するため、見習いを務める高校生を語り部に、それぞれの“死”と向き合う人間たちの姿を描くヒューマンファンタジー。
原作は第32回吉川英治文学賞を受賞した辻村深月の同名小説で、監督・脚本は人気TVドラマ「JIN−仁−」や「陰日向に咲く」などの映画作品で知られる平川雄一朗。
高校生の渋谷歩美(松坂桃李)は、代々一族に受け継がれている死者と生者の再会を仲介する“ツナグ”の仕事を引き継ぐために、祖母のアイ子(樹木希林)の元で見習い修行中。
ツナグの伝説を信じる人たちは、様々な理由で大切な人との再会を依頼してくる。
ある者は病気で亡くなった母親と、ある者は“殺してしまった”親友と、またある者は生死のわからない失踪した婚約者と。
だが、彼らの人生に立ち会った歩美は、生者に死者を会わせる事が本当に魂を救う事になるのかがわからなくなり、ツナグを継承する事に迷いを感じはじめる・・・
人は誰でも死ぬ。
いや、それは人間だけでなくこの世界に生まれた全ての生命の宿命であり、死という現象をいかに受け入れるかというのは古から数多くのストーリーテラーたちが挑んできた大いなるテーマだ。
特に、昨年の3.11で2万を超える命が一瞬で失われる惨状を目撃し、多くの人々が愛する人と永久に引き離されたこの国では、なおさら重みを持つ内容だと思う。
そして、この映画はファンタジーという変化球を用い、痛みを伴うテーマを真摯に、しかし生々しくなり過ぎずに描き出す事に、幾つかの問題点を抱えながらもある程度成功している。
身近な死によって心に喪失や傷を抱えた者が、あえて死と向き合う事で、新しい一歩を踏み出すというのは、表現の方向性こそ異なるがクリント・イーストウッド監督の「ヒア アフター」などとも共通するアプローチだ。
物語は、松坂桃李演じるツナグ見習いの高校生、歩美の視点で展開する。
彼は不思議な力を受け継いだ一族の末裔として、一子相伝のツナグになるために、祖母のアイ子の元で修行中。
依頼者である生者とアイ子によって呼び出された死者とを、とあるレトロなホテルで実際に引き合わせる役割を担っており、実質的に三話オムニバスの物語が、そのまま歩美の揺れる心理とシンクロし三段構成を形づくる構造となっている。
最初の依頼者は、病で亡くなった母親との再会を望む、町工場の経営者・畠田。
資金繰りの為に家の登記書類の場所を聞きたいというのが名目だが、実際には母親に本当の病名を知らせないまま死なせてしまった事で、お婆ちゃん子だった息子との仲がギクシャクしてしまい、自分の判断が正しかったのかどうか、自らの生き方まで自信が持てなくなっている。
一見コワモテだが、本当は誰よりも優しい畠田は、母親に会って今一度背中を押してもらいたいのだ。
最初は半信半疑で歩美に対しても喧嘩腰の畠田は、母親との面会で憑き物が落ちたかの様に穏やかな表情となり、歩美に礼を言う。
ここで歩美は死と向き合う事のポジティブな面と、ツナグという仕事への意義を感じるのである。
ところが、次なる依頼者となる歩美の同級生・嵐美砂が、事故死した親友の御園奈津と会いたい理由は全く対照的。
演劇部の公演で主役の座を奈津に奪われ、更に友人たちの前で辱められたと感じた美砂は、嫉妬と憎悪に駆られ奈津を交通事故にあわせて殺してしまった(と思い込んでいる)のだ。
ツナグを介して死者が生者と会えるのは一度だけ。
もしも奈津が、事故が美砂の仕業だと気づいていれば、誰か他の人間に真相を暴露するかもしれない。
ならば自分が彼女に先に会うことで、口を封じてしまおうと考えたのだ。
ところが、実際には奈津に会った美砂は、自分の彼女に対する感情が勘違いによる物であった事、死んでからも彼女を欺こうとした事で、二重に裏切ってしまった事を知る。
死者と生者を会わせる行為は、時として双方の傷をより深くえぐってしまう。
その事実を目の当たりにした歩美の心は揺らぐ。
そして第三の依頼者は、7年前に突然失踪した婚約者の日向キラリを探すサラリーマンの土谷功一。
相手の生死もわからず、人生の時計を進める事ができない土谷は、ツナグに依頼する事で、彼女が生きているのか死んでいるのか、自分の前から消えた理由を確かめようとする。
しかし、いざ亡くなっていたキラリと再会する直前になって、彼女の死を受け入れられない土谷は、ホテルに足を踏み入れる事を躊躇するのだ。
“ツナグ”という行為は、時として心の傷を広げてしまうかもしれない。
しかし、死せる魂と生ける魂の邂逅は、実は双方にとって自らの心と向き合うのと同義。
大切な人に対する想いのモヤモヤを取り払い、自分自身とは何者かを確かめる事でもあるのだ。
その結果として見たくない自分と出会ってしまったとしても、それは新しい出発点となりうる。
土谷とキラリの切なくも暖かい物語を見届けた歩美は、自らも抱えているある身近な者の死に対する複雑な感情にも折り合いをつけ、ツナグを引き継ぐ事を決意するのである。
主人公の渋谷歩美を松坂桃李が演じ、祖母のアイ子を樹木希林が怪演。
各エピソードの依頼者と死者を、それぞれ遠藤憲一、八千草薫、橋本愛、大野いと、佐藤隆太、桐谷美玲が演じる。
八千草薫はもはや別格としても、アンサンブルの中では、嵐美砂を演じた橋本愛が新境地と言えるだろう。
この夏の「桐島、部活やめるってよ」をはじめ、あまり表情を変えないクールな美少女役の印象が強かったが、今回の感情むき出しの絶叫芝居は新鮮だ。
もしもツナグが本当にいたら、自分は誰に会いたいだろうか、もし自分が死んだら、会いに来てくれる人はいるだろうか。
ファンタジーの設定を通し、この映画は観る者に多くの重い問いを投げかけ、そのテーマの普遍性故に心に残る作品となった。
惜しむらくは、テーマにつながる核心部分のほとんどを、台詞と所謂心の声という一番安直な手法で表現してしまっており、映像言語が決定的に弱い事と、構成的にそれぞれのエピソード間の有機的繋がりが十分でなく、一本の映画としてのドラマチックな物語のうねりが生まれていない事。
その為に、全体に「良い映画を観た」というよりも、「良い物語を聞いた」という、まるでラジオドラマの様な印象になってしまっているのである。
仮に、言葉で言ってしまっている部分を、映像で物語る事が出来ていれば、本作は大変な傑作になり得たかもしれない。
その辺りのヒントは、前記した「ヒア アフター」にもあったように思うのだけど。
今回は満月がキーとなる映画だったので、京都の招徳酒造の季節限定酒「美月 純米吟醸」をチョイス。
名前の通りに円やかで優しい印象の純米酒らしい酒だ。
春先に火入れしてから一夏を越して熟成させ、気温が下がった頃に二度目の火入れをせずに出荷される所謂“ひやおろし”で、9月から11月までの三ヶ月間だけ販売される。
深まる秋の名月を眺めながら、季節の味覚を肴に冷でいただきたい。

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抑制できない怒りの感情を抱える男と、穏やかな仮面の下に絶望を隠した女の、不思議な縁と人生の哀歓を描くハードな人間ドラマ。
「イン・アメリカ/三つの小さな願い事」や「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-」で知られる英国の俳優、パディ・コンシダイン入魂の長編監督デビュー作だ。
主人公の男やもめに、ケン・ローチ監督の「マイ・ネーム・イズ・ジョー」でカンヌ国際映画祭男優賞を受賞した名優ピーター・ミュラン、彼の救いとなる心優しい女性をコメディエンヌとして知られるオリヴィア・コールマンが演じる。
※ラストに触れています。
妻を亡くし、職も失ったジョセフ(ピーター・ミュラン)は、湧き上がる怒りを抑えられず、酒に溺れては喧嘩を繰り返す日々を送っている。
ある日、ジョセフは例によって揉め事を起こし、逃げ込んだ先のチャリティ・ショップで、その店で働くハンナ(オリヴィア・コールマン)という女性と出会う。
ジョセフは、穏やかで優しいハンナとの触れ合いを通して徐々に癒され、心の武装を解いてゆく。
だが、裕福な夫ジェームズ(エディ・マーサン)と暮らし、一見すると幸せそうなハンナにも、誰にも言えない悲しい秘密があった・・・
簡単に言えば、殻に閉じこもった飲んだくれのろくでなしが、一人の女性と運命的に出会った事で、徐々に自分を見つめ直し、彼女と共に魂の救済を受ける話である。
本作はパディ・コンシダインが2007年に初めて監督した16分の短編映画、「Dog Altogether」のセルフリメイクに当たる。
コンシダインの父親をモデルに造型されたというジョセフは、大きな喪失感に苛まれ、怒りの感情に支配されている男だ。
映画は、泥酔し激昂したジョセフが、飼い犬を蹴り殺すという衝撃的なシーンで幕を開ける。
長年連れ添った妻を失い、仕事も無く、唯一の親友は不治の病で余命幾ばくもない。
とにかく、人生の何もかもが上手くいかないジョセフは、自分を含めた世界全てが気に入らず、常にイライラして当り散らす。
そんな怒れる男の前に現れるのが、教会の経営する小さなチャリティ・ショップで働くハンナだ。
真摯にジョセフの言葉に耳を傾け、時に神の慈愛を説く彼女の存在は、固く閉ざされていたジョセフの心に春の息吹の様に働きかけ、ゆっくりと雪解けへと導いてゆく。
ぶっちゃけジョセフというキャラクターは、まるで反抗期の子供がそのまま大きくなった様な、いい歳をしてひどく子供っぽい男である。
おまけに暴力的で差別主義者で、酒ばっかり飲んで周りに八つ当たりしている。
正直、一番関わり合いになりたく無いタイプで、登場するやいなやこんな粗野な人物には誰も感情移入しないだろうと思わされる。
中味は子供であるがゆえに、女性に対する愛も熟年の包容力など望むべくもなく、ワガママいっぱいにお母さんに甘える様な一方的なもの。
だから最初ジョセフは、自分に親切にしてくれるハンナに対しても、思いっきり残酷な事を言って泣かせてしまうのだ。
だが、ジョセフが嫌味ったらく責めるほどに、裕福で幸せな暮らしをしているはずの彼女も、実は日常的に繰り返される夫からの暴力というジョセフ以上の痛みと悲しみを抱えている。
チャリティ・ショップは彼女にとって唯一の逃避の場であり、キリストの愛を信じよという言葉は、自分自身に言い聞かせる願望の側面も持っているのだ。
そしてある時、レイプという一線を超えた暴力を受けたハンナは、一人家を出てジョセフを頼る。
自らを救ってくれた女性が、内面では深く傷つき、人生に絶望した存在である事を知った時、癒す者と癒される者の立場は逆転する。
ハンナの中に自分と同じ悲哀を感じたジョセフは、彼女を守ろうとするのである。
面白いのは、ジョセフの周りに配された男たちが、皆彼にとってある種の鏡像の様に造型されている事だ。
向かいの家に住むチンピラの情夫、死を迎えつつも娘との関係に悩む友人、そして共依存の関係でハンナを支配し、過酷な運命に追い込むDV夫のジェームズ。
ハンナとの交流によって自己を見つめ直したジョセフは、ようやく自身の中にも疼くおぞましい性根に気づき、閉じこもってきた殻を破る事ができる。
原題の「Tyrannosaur(ティラノサウルス)」とは、ジョセフが巨体だった亡き妻をからかってつけたあだ名。
後悔と思い出が化石の様に眠る家で、孤独な墓守として暮らしていた彼は、ハンナのために人生を少しだけ前に進める決意をする。
しかし、それは皮肉な事に、彼女のある行いを白日の下に晒す事になるのである。
ジョセフの住む街は、英国中部の都市リーズの典型的な低所得ブルーカラーが暮らす公営住宅地であり、貧困、犯罪、暴力といった様々な社会問題が顕著化しやすい地域だ。
コンシダインは、だからと言ってステロタイプ的な社会派リアリズムの誘惑に逃げる事なく、この一見して地味な人間ドラマを、シネマスコープ画面で実に映画的に描写してゆく。
素晴らしい俳優たちの演技と、しっかり手間暇をかけ妥協なく緻密に計算された映像は、低予算を全く感じさせる事なく、むしろゴージャスにさえ思える。
例えば、本作では登場人物のメンタルを象徴するかの様に、全編がどんよりした曇り空の下で撮影されているが、ジョセフとハンナが新しい人生に歩み出す事を象徴するラストカットで、遂に太陽が僅かに顔を覗かせる。
このワンカットを撮るために、一体どの位粘ったのだろうか。
あるいは、ジョセフらコミュニティの住人たちが、亡き友人を賑やかに弔う情感豊かなシーンでは、カメラは観客の目線となり、誰もがその場に列席していかの様な錯覚を感じ、心動かされるだろう。
物語と映像への真摯な拘りを見ても、いかに丁寧に作られた映画なのかわかるという物だ。
どんなに辛くとも、足掻いて傷つこうとも、人生の旅路は今日も明日も続いてゆく。
誰か一人でも心の拠り所がいる限り、この世界は十二分に美しく、生きるに値するという事を、この燻し銀の人間ドラマは端的に教えてくれる。
「ミリオンダラー・ベイビー」「ウィンターズ・ボーン」といった作品が、心の琴線に触れた人には、必見の秀作である。
今回は英国のオヤジの様な、歴史あるビール「オールド トム」をチョイス。
170年前に創業して以来、6代に渡ってロビンソン家が守ってきた老舗の味は、濃密で複雑な大人のストロングエールだ。
アルコール度数も8.5°と高く、じっくりと時間をかけて楽しみたい。

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![]() England beerイギリスビールオールドトム 330ml/12本ik |


人間にして、人にあらず。
乱世、幼くして人喰いとなり、ケダモノの様に育った少年アシュラを描く、ジョージ秋山原作の知る人ぞ知る70年代カルトコミック、まさかのアニメーション映画化である。
描かれるのは、他の命を殺し食さねば生きて行くことの出来ない、人間存在の抱える根源的な“業”だ。
水彩画タッチの3DCGという独創的なビジュアルを含めて、はっきりと好き嫌いが別れる作品だろうが、日本型アニメーションの凄みを感じさせる濃密な映画体験、先ずは必見である。
飢餓と戦乱の嵐が吹き荒れる中世、一人の男の子が産み落とされた。
やがて、生きとし生けるもの全てを敵とし、ただ一人荒野で育った少年(野沢雅子)は、言葉を解さず名前も無く、人を襲ってその肉を喰らう、人喰いとして恐れられる様になる。
ある時、旅の法師(北大路欣也)と出会った少年は、アシュラという名を与えられ、はじめて人間としての自分を知る。
そして、地頭に追われ瀕死の重傷を負った時、心優しい少女・若狭(林原めぐみ)に助けられたアシュラは、彼女と心を通わせる中で、少しづつ人の心を学んでゆく。
だが、洪水と干ばつは若狭の住む村をも襲い、食料を失った人々の心は荒んでゆき・・・
異色作であり、同時に大変な力作である。
ジョージ秋山による原作は、1970年から連載が開始されたが、年端のいかない子供が人を殺し、人肉を喰らうという描写が物議を醸し、掲載した少年マガジンが一部自治体から有害図書指定され、未成年への販売が禁止された。
事実上の発禁処分を受けた事で、表現の自由との兼ね合いもあって、社会問題化した事で知られている。
ただ、ショッキングな描写は、あくまでもテーマを浮かび上がらせるモチーフに過ぎず、本作が描こうとしているのはもっと根源的な人間存在への問いかけだ。
高橋郁子による脚本は、原作の構造とキャラクターの関係を整理し、人間として生まれながら、人としての生を知らぬ少年アシュラが、法師と若狭という二人の人物との運命的な出会いによって、人間とは何か、生きる事の意味は何かを、葛藤しながら掴み取ってゆくシンプルな物語として再構成している。
ややダイジェスト感はあるものの、奇を衒わずにストレートにテーマと向きあっており、原作既読者にも好感の持てる仕上がりだと思う。
もちろん、人喰いの設定を含めて基本的な部分はしっかりと抑えられており、アニメーション映画としては十分に衝撃的だが、これでも原作よりは少しマイルドになった印象だ。
狂女と化した母親に、危うく喰われそうになりながらも一命をとりとめたアシュラは、幼くして孤独の荒野にさすらい、目に入るものを生きるために殺す事で成長する。
そこには一切の慈愛も感情もなく、ただただ命をつなぐという本能だけがある。
人々は当然の様にアシュラを恐れ、迫害し、アシュラもまた自らを守るために反撃するという悪循環。
野獣同然の小さな命に名を与え、念仏を教え、人として生きる事の“論”を教えるのが法師であり、母の様な慈しみの心でアシュラに“愛”という感情を芽生えさせるのが若狭だ。
二人と出会った事で徐々に人としての生を受け入れるアシュラだが、再び襲い来る飢餓によって、最大の葛藤に直面する事になる。
大ベテラン、野沢雅子の声の演技が出色である。
前半、言葉を知らないアシュラの感情を、ほとんど唸り声だけで表現し、キャラクターを確立する。
少しづつ言葉を覚え、彼の中で世界が広がってゆくプロセスの、細やかな感情の変化を表現する見事な技術。
そして圧巻なのが、本作の精神的クライマックスとも言える、村を襲った飢餓のためやせ細り、死相を浮かべる若狭に、肉を食べさせようとするシーンだ。
アシュラは馬の肉だと言って差し出すが、彼が人肉を食べていた過去を知る若狭は、信じずに絶対に食べようとしない。
一方で、彼女の父親は二人の葛藤の傍らで獣の様に肉に食らいついている。
あくまでも生き残ることが最優先だと言うアシュラと、人として生きられないなら死を選ぶと言う若狭。
では一体、人として生きるとはどういう事か。
全ての生物は他の命を殺さずに生きることは出来ないのに、なぜ自らの生を諦めてまで人を喰ってはいけないのか。
仏教的な死生観をバックボーンにした、本能と理性、心と体の壮絶なせめぎ合いと、嵐の様な感情の衝突は観る者の心にズシリと響き、これは映画史に残る名シーンだ。
現在の日本では、廃棄率ではアメリカをも上回る、年間実に二千万トンの食品が廃棄され、そのうちの半分近くはまだ食べられる状態で棄てられているという。
飽食の社会で、あえてこの題材に挑んだ監督は、テレビ版「TIGER & BUNNY」などで知られるさとうけいいち。
戦乱、災害によって、命があっけなく失われる様がリアルタイムで伝わる一方、メディアを通して見るとまるでそれが異世界のファンタジーの様に見えてしまう不思議な時代。
逆説的だが、アニメーションという手法で作られた本作は、スクリーンに映し出されたアシュラという小さな命を通して、作り手の魂の叫びが有無を言わせぬ迫力で噴出し、観る者に圧倒的なリアルを感じさせる。
この地上に生を受けた70億の人間の一人として、生きる事の意味と自覚を、改めて問われているかの様な怒涛の75分。
これは劇場で観逃すと確実に後悔する一本だ。
今回は阿修羅繋がりで鹿児島の濱田酒造株式会社の芋焼酎「修羅の刻」をチョイス。
とんがった映画とは対照的にマイルドな口当たりで、芋の香りが優しく広がってゆく飲みやすくも芋らしい味わいを楽しめるお酒。
私は、美味しいお酒とささやかな肴をいただいている時が、一番生きてる喜びを感じるかも知れないなあ。
この厳しくも美しい世界に感謝!

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