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2012年10月05日 (金) | 編集 |
煉獄のイノセンス。
人間にして、人にあらず。
乱世、幼くして人喰いとなり、ケダモノの様に育った少年アシュラを描く、ジョージ秋山原作の知る人ぞ知る70年代カルトコミック、まさかのアニメーション映画化である。
描かれるのは、他の命を殺し食さねば生きて行くことの出来ない、人間存在の抱える根源的な“業”だ。
水彩画タッチの3DCGという独創的なビジュアルを含めて、はっきりと好き嫌いが別れる作品だろうが、日本型アニメーションの凄みを感じさせる濃密な映画体験、先ずは必見である。
飢餓と戦乱の嵐が吹き荒れる中世、一人の男の子が産み落とされた。
やがて、生きとし生けるもの全てを敵とし、ただ一人荒野で育った少年(野沢雅子)は、言葉を解さず名前も無く、人を襲ってその肉を喰らう、人喰いとして恐れられる様になる。
ある時、旅の法師(北大路欣也)と出会った少年は、アシュラという名を与えられ、はじめて人間としての自分を知る。
そして、地頭に追われ瀕死の重傷を負った時、心優しい少女・若狭(林原めぐみ)に助けられたアシュラは、彼女と心を通わせる中で、少しづつ人の心を学んでゆく。
だが、洪水と干ばつは若狭の住む村をも襲い、食料を失った人々の心は荒んでゆき・・・
異色作であり、同時に大変な力作である。
ジョージ秋山による原作は、1970年から連載が開始されたが、年端のいかない子供が人を殺し、人肉を喰らうという描写が物議を醸し、掲載した少年マガジンが一部自治体から有害図書指定され、未成年への販売が禁止された。
事実上の発禁処分を受けた事で、表現の自由との兼ね合いもあって、社会問題化した事で知られている。
ただ、ショッキングな描写は、あくまでもテーマを浮かび上がらせるモチーフに過ぎず、本作が描こうとしているのはもっと根源的な人間存在への問いかけだ。
高橋郁子による脚本は、原作の構造とキャラクターの関係を整理し、人間として生まれながら、人としての生を知らぬ少年アシュラが、法師と若狭という二人の人物との運命的な出会いによって、人間とは何か、生きる事の意味は何かを、葛藤しながら掴み取ってゆくシンプルな物語として再構成している。
ややダイジェスト感はあるものの、奇を衒わずにストレートにテーマと向きあっており、原作既読者にも好感の持てる仕上がりだと思う。
もちろん、人喰いの設定を含めて基本的な部分はしっかりと抑えられており、アニメーション映画としては十分に衝撃的だが、これでも原作よりは少しマイルドになった印象だ。
狂女と化した母親に、危うく喰われそうになりながらも一命をとりとめたアシュラは、幼くして孤独の荒野にさすらい、目に入るものを生きるために殺す事で成長する。
そこには一切の慈愛も感情もなく、ただただ命をつなぐという本能だけがある。
人々は当然の様にアシュラを恐れ、迫害し、アシュラもまた自らを守るために反撃するという悪循環。
野獣同然の小さな命に名を与え、念仏を教え、人として生きる事の“論”を教えるのが法師であり、母の様な慈しみの心でアシュラに“愛”という感情を芽生えさせるのが若狭だ。
二人と出会った事で徐々に人としての生を受け入れるアシュラだが、再び襲い来る飢餓によって、最大の葛藤に直面する事になる。
大ベテラン、野沢雅子の声の演技が出色である。
前半、言葉を知らないアシュラの感情を、ほとんど唸り声だけで表現し、キャラクターを確立する。
少しづつ言葉を覚え、彼の中で世界が広がってゆくプロセスの、細やかな感情の変化を表現する見事な技術。
そして圧巻なのが、本作の精神的クライマックスとも言える、村を襲った飢餓のためやせ細り、死相を浮かべる若狭に、肉を食べさせようとするシーンだ。
アシュラは馬の肉だと言って差し出すが、彼が人肉を食べていた過去を知る若狭は、信じずに絶対に食べようとしない。
一方で、彼女の父親は二人の葛藤の傍らで獣の様に肉に食らいついている。
あくまでも生き残ることが最優先だと言うアシュラと、人として生きられないなら死を選ぶと言う若狭。
では一体、人として生きるとはどういう事か。
全ての生物は他の命を殺さずに生きることは出来ないのに、なぜ自らの生を諦めてまで人を喰ってはいけないのか。
仏教的な死生観をバックボーンにした、本能と理性、心と体の壮絶なせめぎ合いと、嵐の様な感情の衝突は観る者の心にズシリと響き、これは映画史に残る名シーンだ。
現在の日本では、廃棄率ではアメリカをも上回る、年間実に二千万トンの食品が廃棄され、そのうちの半分近くはまだ食べられる状態で棄てられているという。
飽食の社会で、あえてこの題材に挑んだ監督は、テレビ版「TIGER & BUNNY」などで知られるさとうけいいち。
戦乱、災害によって、命があっけなく失われる様がリアルタイムで伝わる一方、メディアを通して見るとまるでそれが異世界のファンタジーの様に見えてしまう不思議な時代。
逆説的だが、アニメーションという手法で作られた本作は、スクリーンに映し出されたアシュラという小さな命を通して、作り手の魂の叫びが有無を言わせぬ迫力で噴出し、観る者に圧倒的なリアルを感じさせる。
この地上に生を受けた70億の人間の一人として、生きる事の意味と自覚を、改めて問われているかの様な怒涛の75分。
これは劇場で観逃すと確実に後悔する一本だ。
今回は阿修羅繋がりで鹿児島の濱田酒造株式会社の芋焼酎「修羅の刻」をチョイス。
とんがった映画とは対照的にマイルドな口当たりで、芋の香りが優しく広がってゆく飲みやすくも芋らしい味わいを楽しめるお酒。
私は、美味しいお酒とささやかな肴をいただいている時が、一番生きてる喜びを感じるかも知れないなあ。
この厳しくも美しい世界に感謝!
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人間にして、人にあらず。
乱世、幼くして人喰いとなり、ケダモノの様に育った少年アシュラを描く、ジョージ秋山原作の知る人ぞ知る70年代カルトコミック、まさかのアニメーション映画化である。
描かれるのは、他の命を殺し食さねば生きて行くことの出来ない、人間存在の抱える根源的な“業”だ。
水彩画タッチの3DCGという独創的なビジュアルを含めて、はっきりと好き嫌いが別れる作品だろうが、日本型アニメーションの凄みを感じさせる濃密な映画体験、先ずは必見である。
飢餓と戦乱の嵐が吹き荒れる中世、一人の男の子が産み落とされた。
やがて、生きとし生けるもの全てを敵とし、ただ一人荒野で育った少年(野沢雅子)は、言葉を解さず名前も無く、人を襲ってその肉を喰らう、人喰いとして恐れられる様になる。
ある時、旅の法師(北大路欣也)と出会った少年は、アシュラという名を与えられ、はじめて人間としての自分を知る。
そして、地頭に追われ瀕死の重傷を負った時、心優しい少女・若狭(林原めぐみ)に助けられたアシュラは、彼女と心を通わせる中で、少しづつ人の心を学んでゆく。
だが、洪水と干ばつは若狭の住む村をも襲い、食料を失った人々の心は荒んでゆき・・・
異色作であり、同時に大変な力作である。
ジョージ秋山による原作は、1970年から連載が開始されたが、年端のいかない子供が人を殺し、人肉を喰らうという描写が物議を醸し、掲載した少年マガジンが一部自治体から有害図書指定され、未成年への販売が禁止された。
事実上の発禁処分を受けた事で、表現の自由との兼ね合いもあって、社会問題化した事で知られている。
ただ、ショッキングな描写は、あくまでもテーマを浮かび上がらせるモチーフに過ぎず、本作が描こうとしているのはもっと根源的な人間存在への問いかけだ。
高橋郁子による脚本は、原作の構造とキャラクターの関係を整理し、人間として生まれながら、人としての生を知らぬ少年アシュラが、法師と若狭という二人の人物との運命的な出会いによって、人間とは何か、生きる事の意味は何かを、葛藤しながら掴み取ってゆくシンプルな物語として再構成している。
ややダイジェスト感はあるものの、奇を衒わずにストレートにテーマと向きあっており、原作既読者にも好感の持てる仕上がりだと思う。
もちろん、人喰いの設定を含めて基本的な部分はしっかりと抑えられており、アニメーション映画としては十分に衝撃的だが、これでも原作よりは少しマイルドになった印象だ。
狂女と化した母親に、危うく喰われそうになりながらも一命をとりとめたアシュラは、幼くして孤独の荒野にさすらい、目に入るものを生きるために殺す事で成長する。
そこには一切の慈愛も感情もなく、ただただ命をつなぐという本能だけがある。
人々は当然の様にアシュラを恐れ、迫害し、アシュラもまた自らを守るために反撃するという悪循環。
野獣同然の小さな命に名を与え、念仏を教え、人として生きる事の“論”を教えるのが法師であり、母の様な慈しみの心でアシュラに“愛”という感情を芽生えさせるのが若狭だ。
二人と出会った事で徐々に人としての生を受け入れるアシュラだが、再び襲い来る飢餓によって、最大の葛藤に直面する事になる。
大ベテラン、野沢雅子の声の演技が出色である。
前半、言葉を知らないアシュラの感情を、ほとんど唸り声だけで表現し、キャラクターを確立する。
少しづつ言葉を覚え、彼の中で世界が広がってゆくプロセスの、細やかな感情の変化を表現する見事な技術。
そして圧巻なのが、本作の精神的クライマックスとも言える、村を襲った飢餓のためやせ細り、死相を浮かべる若狭に、肉を食べさせようとするシーンだ。
アシュラは馬の肉だと言って差し出すが、彼が人肉を食べていた過去を知る若狭は、信じずに絶対に食べようとしない。
一方で、彼女の父親は二人の葛藤の傍らで獣の様に肉に食らいついている。
あくまでも生き残ることが最優先だと言うアシュラと、人として生きられないなら死を選ぶと言う若狭。
では一体、人として生きるとはどういう事か。
全ての生物は他の命を殺さずに生きることは出来ないのに、なぜ自らの生を諦めてまで人を喰ってはいけないのか。
仏教的な死生観をバックボーンにした、本能と理性、心と体の壮絶なせめぎ合いと、嵐の様な感情の衝突は観る者の心にズシリと響き、これは映画史に残る名シーンだ。
現在の日本では、廃棄率ではアメリカをも上回る、年間実に二千万トンの食品が廃棄され、そのうちの半分近くはまだ食べられる状態で棄てられているという。
飽食の社会で、あえてこの題材に挑んだ監督は、テレビ版「TIGER & BUNNY」などで知られるさとうけいいち。
戦乱、災害によって、命があっけなく失われる様がリアルタイムで伝わる一方、メディアを通して見るとまるでそれが異世界のファンタジーの様に見えてしまう不思議な時代。
逆説的だが、アニメーションという手法で作られた本作は、スクリーンに映し出されたアシュラという小さな命を通して、作り手の魂の叫びが有無を言わせぬ迫力で噴出し、観る者に圧倒的なリアルを感じさせる。
この地上に生を受けた70億の人間の一人として、生きる事の意味と自覚を、改めて問われているかの様な怒涛の75分。
これは劇場で観逃すと確実に後悔する一本だ。
今回は阿修羅繋がりで鹿児島の濱田酒造株式会社の芋焼酎「修羅の刻」をチョイス。
とんがった映画とは対照的にマイルドな口当たりで、芋の香りが優しく広がってゆく飲みやすくも芋らしい味わいを楽しめるお酒。
私は、美味しいお酒とささやかな肴をいただいている時が、一番生きてる喜びを感じるかも知れないなあ。
この厳しくも美しい世界に感謝!

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