山本周五郎賞に輝いた窪美澄の同名小説を、「百万円と苦虫女」のタナダユキ監督が映画化。
不妊に悩む孤独な主婦は、高校生との危険な情事に溺れ、やがて物語は彼らの周りの人々を巻きこみながら、生きることに苦悩し、かすかな光を求めてあがく魂を赤裸々に描き出す。
永山絢斗と田畑智子が主演を務め、原田美枝子、窪田正孝、小篠恵奈らが青春群像劇のアンサンブルを形作る。
物語の背景にあるのは「性」とその先にある「生」、即ち「誕生」というモチーフだ。
※ラストに触れています。
産院を切り盛りする母・寿美子(原田美枝子)に、女手一つで育てられた高校生の斎藤卓巳(永山絢斗)は、ある日学友に連れられて訪れたイベントで、アニメマニアの主婦、岡本里美(田畑智子)と出会う。
地元が同じだった事から再会した二人は、何時しかコスプレ姿で逢瀬を重ねる仲となる。
だが妻の行動を怪しんだ夫が、二人の情事をビデオで隠し撮りし、動画をネット掲示板にアップした事から騒ぎとなり、卓巳は学校へ行けなくなってしまう。
卓巳の同級生で、年老いた祖母の面倒を見ながら暮らしている福田良太(窪田正孝)は、ある日バイト仲間のあくつ(小篠恵奈)が卓巳のコスプレ姿のビラをばら撒いている事を知ってしまうが・・・
人は皆、自分で方向を決めて、自らの足で人生を歩んでいると思っていても、実は見えない何かに縛られている。
それは出自だったり、人間関係のしがらみだったり、お金だったり様々で、本作の登場人物たちもまた然り。
おそらく原作を踏襲しているのだと思うが、向井康介の脚本は変則的な四章+エピローグという構成となっており、各章それぞれに一人の登場人物をフィーチャーし、彼らの“心の声”を表す字幕で締めくくられる。
第一章の主人公となるのは、高校生の斎藤卓巳。
イケメンで、産院を経営する母親と二人、何不自由なく満ち足りた生活を送っている。
そんな少年が、とあるイベントでアニメ好きの主婦・美里と出会った事から、彼女との情事に溺れてゆく。
二人のセックスは、ちょっと特殊だ。
里美の書いたシナリオに沿って、アニメキャラクターの役になり切って肌を重ね、美里は関係を維持するために卓巳に金まで渡している。
美人同級生に告白された事もあって、一度は別れを選ぶ卓巳だが、コスプレキャラを脱ぎ捨て、素をさらけ出した美里とのセックスで、再び彼女の虜となってしまう。
第二章は、第一章と同じ時系列を今度は里美の視点で描き、彼女の倒錯的な行為の裏側にある痛みを明らかにする。
実は彼女は、姑からの病的なまでのプレッシャーにさらされ、肉体的にも精神的にも非常に辛い不妊治療に耐えているのだ。
マザコンの気がある夫は、母親の言いなりで全く頼りにならず、里見はそんな日常から逃避し、子を産む機械としてではない理想のセックスを卓巳とのひと時に求めている。
現実には存在しないアニメキャラのコスプレは、彼女にとっての非日常性の象徴だ。
だが、秘密は呆気なく夫と姑にばれてしまい、それでもなお自分に子を求める彼らの狂気(としか里美には見えない)を目の当たりにして、里美は遂に日常を破壊する決意をする。
ここで描かれるのは、里美の中にある乖離した性と生を、再び一致させるための崩壊と再生のプロセスと言えるかもしれない。
主婦と高校生の倒錯的情事。
そんなわかりやすくセンセーショナルな出来事は、彼らから当たり前の日々を奪い去り、やがてそれは周りの人々にも影響を与えてゆく。
第三章は、卓巳の同級生の良太の物語だ。
幼馴染でありながら、良太の青春はソコソコ裕福な卓巳とは対照的。
父は既に亡く、男関係にだらしの無い母親は、街金から借金を重ねて家に寄り付かない。
良太は認知症の祖母を一人で介護しながら、必死にバイトに明け暮れ、明日をも知れぬ毎日を生きているのだ。
彼にとっては、卓巳がコスプレ姿のセックスビラをばら撒かれ、学校に来られなくなってしまうのも、それほど大した事とは思えない。
例え大恥をかいたとしても、卓巳は決して食うに困る事はないのである。
実際にビラを配っているのは良太のバイト仲間の少女、あくつだ。
偶然その事を知った良太は、彼女を責めるのではなく、イタズラっぽい目で一緒にやろうと言う。
もちろん、彼らを突き動かしているのは、卓巳への恨みや変な倫理観ではない。
本作でユニークなのが“団地”という存在だ。
私が子供の頃は、団地こそ中流の中の中流という感覚だったが、ここに描かれる団地は、例えばイギリス映画の「思秋期」に登場する“公営住宅地”と同じく、格差社会が作り出した貧困層の街のイメージとなっている。
良太もあくつも団地で生まれ団地で育ち、いつかこの街から脱出する事が彼らの夢であり希望。
街中にビラを撒くという行為は、彼らにとっての日常への抵抗であり、ある意味里美にとってのコスプレセックスと同じく、現状からのエクソダスを象徴するのである。
そして、卓巳の母親の寿美子がフィーチャーされる第四章は、それまでとは明確に様相が異なる。
最初の三つの章で描かれるのは、人生のそれぞれの状況下で、絶望を味わっている若者たちの物語である。
彼らは、自らが陥った地獄に、半ば諦めてしまっている。
里美はコスプレセックスに絶対に叶わない夢を見て、ビラを撒かれた卓巳は家に引きこもり、貧困に苦しむ良太は「なぜ自分を産んだのか」と母親に恨み節を言う。
対して、寿美子は既にそういうプロセスを経て人生を歩んできた“大人”なのである。
もちろん、寿美子にだって苦悩はある。
別れた夫は未だに自立出来ず彼女を悩ませるし、命を扱う助産師の仕事は患者やその家族みんなが納得してくれるとは限らない。
だがそれは、ただ状況に流されるままの受難ではなく、自らの意思で選択した結果なのだ。
それゆえに、この章は彷徨いはじめた卓巳を描いた第一章への、母親からの厳しくも優しいアンサー編となっている。
物語のエピローグは、寿美子の産院で卓巳が見守るなか、新しい命が産まれる「誕生」のシークエンスで幕を閉じる。
そして、それまでの四章と異なり、登場人物の声を借りた作者からの、こんなメッセージが映画を締めくくるのである。
「僕たちは、僕たちの人生を、本当に自分でえらんだか?」
人は誰も、生きて育ってゆくうちに色々な物に縛られて、自分でも気づかないうちにがんじがらめになってゆく。
でも、いつかは鎖を断ち切り、自分で自分の人生を選択する時がくる。
本作の三人の若者たちは、物語を通して自ら新しい一歩を踏み出す決意をし、彼らの周りにはこれからその選択を迫られる者もいる。
自らの意思で人生を選んだ結果は人それぞれ、幸福を掴む人も、不幸になる人もいるだろう。
でも誕生の瞬間は、誰もが祝福されるべく、全ての可能性を秘めて生まれてくる、そんな事を感じさせてくれる美しいラストであった。
今回は、天使の様な赤ちゃんの寝顔から「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライジン30ml、カルバドス15ml、アプリコット・ブランデー15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
林檎、杏とフルーティなお酒を組み合わせた、甘い香りの飲みやすいカクテルだが、味わいとは裏腹に非常に強い。
大人が飲み過ぎた顔は天使とはいかないのでご注意を(笑

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若きカップルの門出を祝福するために、結婚式に集まった人々。
ところが、この家族がちょっと特殊な事情を抱えていた事から、誰もがハッピーなはずの結婚式の準備は次第に愛憎渦巻くカオスの渦へと落ち込んでゆく。
愛情たっぷりにシニカルな人間模様を描き出したのは、「レインマン」などで知られる名匠バリー・レヴィンソンの息子、27歳の新鋭サム・レヴィンソン監督だ。
彼が若干24歳の時に執筆したオリジナル脚本に、本作の主演を務めたエレン・バーキンが惚れ込み、自らプロデュースを買って出たという。
ちなみに、彼女が映画で初めて大役を得たのは、父レヴィンソンの映画デビュー作でもある「ダイナー」だったのも不思議な縁。
物語の中心となる母親リン役をバーキンが演じ、子供たちには「少年は残酷な弓を射る」のサイコパス少年で注目されたエズラ・ミラー、「スーパーマン・リターンズ」でロイス・レインを演じたケイト・ボスワース、祖父役に名優ジョージ・ケネディ、リンの前夫の再婚相手にデミ・ムーアーら豪華なアンサンブルが揃った。
サンダンス映画祭や東京国際映画祭を始め、各国の映画祭で注目を集めた話題作だ。
別れた前夫ポール(トーマス・ヘイデン・チャーチ)との間に生まれた長男の結婚式のため、今の夫との子供たちを連れて実家に帰省したリン(エレン・バーキン)には大きな心配があった。
それはポールとのもう一人の子で、遅れてやってくる予定のアリス(ケイト・ボスワース)の事。
彼女は両親の離婚の経緯がトラウマとなって自傷行為を繰り返し、今も精神的に落ち着かない状況が続いている。
ポールとアリスを会わせたくないリンは、なんとか二人の接触を避けさせようとするのだが、彼女の行動は他の家族には身勝手と思われ、理解されない。
一方でドラッグ中毒の次男エリオット(エズラ・ミラー)は、ある事ない事を親戚一同に吹き込み、その事が元々仲の良くないリンとポールの再婚相手であるパティ(デミ・ムーアー)との間に更なる溝を作ってしまう。
一瞬即発の雰囲気の中アリスが到着し、いよいよ結婚式の準備は本番前日のリハーサルへと進むのだが・・・
おそらく、この映画を観た多くの観客はジョナサン・デミ監督の「レイチェルの結婚」を連想するだろう。
実際、どちらも結婚式準備の数日間を描く群像劇であり、物語の構造も作品のテーマもよく似ている。
ただ、家族が抱えている問題の困った度はこちらが上だ。
本作のレヴィンソン監督と同じく、巨匠シドニー・ルメットを父に持つジェニー・ルメットが脚本を執筆したあの映画では、アン・ハサウェイ演じる一家の問題児が一人で人間関係を引っ掻き回すが、こちらの映画では家族に誰一人として“普通の人”がいないのである。
リンの子供たちのうち、ポールとの娘であるアリスは精神的に不安定で、幼い頃から自傷行為を繰り返している。
次男のエリオットはドラッグ依存症のうえに虚言癖もあり、三男のベンは軽度のアスペルガー症候群と診断されていてコミュニケーションが不得意。
リン自身も、ポールとの間に未だ消えないわだかまりを抱えて相当に情緒不安定で、いざポール本人と彼の再婚相手のパティと会うと、心のコントロールを失ってしまうのだ。
また実家の父は重病を患い余命幾ばくも無く、母もまた連日発作を起こす夫の介護に疲れ果てている。
要するに、結婚式の主役である長男ディランを除いた家族全員が何らかの問題を抱えており、自らの精神をケアするのに精一杯。
そのため知らず知らずのうちに、それぞれが自分のルールを他者に押し付けてしまい、結果的に更なる軋轢を招いている状態だ。
彼らの問題のうちの多くが、リンとポールの離婚に端を発しており、これが「レイチェルの結婚」における“弟の死”と同じく、家族の心の深層に突き刺さったトゲとなっている。
離婚後ポールに引き取られ、継母のパティの下で育ったデュランは健やかに成長し、晴れの日を迎えようとしているのに、自分が引き取った娘アリスは、深刻な心の病を抱えたまま成長してしまった。
この事がリンにとっては、パティに対するコンプレックスの源となり、結婚式で誰がディランの母親としてヴァージンロードを歩くかで一悶着。
おそらく次男のエリオットと三男のベンの問題も、リンの精神状態が何らかの影響を与えているのは想像に難くない。
ところが、リン自身に全く余裕が無いから、自分を引いて見つめる事が出来ず、また再婚した夫が超楽天的であまり家族の心に立ち入らないタイプなものだから、誰も彼女に冷静かつ客観的な助言を与える事が出来ないのである。
結果、彼女は「一生懸命やっているのに何故?」と余計にドツボに嵌ってゆく。
ここでありがちなハリウッド映画なら、ぶっ壊れてゆく家族の前に大いなる難問を用意して、それを家族が一致団結して乗り越える事で「やっぱり家族の絆って大切だよね」という展開に持ってゆく事だろう。
だが、本作はそんなマーケットが望む方向へと転がりはしない。
結婚式を前に、エリオットがこんな事を言う。
「愛よりも死の方が皆を纏める。9.11だってそうだっただろう」 と。
そう、本作の家族は結婚式という愛の式典では、家族の絆を深める事はなく、表面的には滞りなく進む結婚式と披露宴の裏で、むしろ孤独と虚無感を募らせている様に見える。
そして、どんなに反発しようとも、壊れて見えようとも、彼らが「やはり自分たちは一つの家族なのだ」と実感する瞬間は、結婚式本番の後、意外な形でやって来るのである。
それは、愛する家族が崩壊してゆく様を見つめながら、人生を終えようとする者からの、最後のプレゼントだったのかもしれない。
果たして、リンとその家族の苦悩が救われる事があるのかどうか、映画は決して結論を見せようとはしない。
結婚も死も、延々と続いて生きた家族の歴史の一ページ。
仮に一つの章が終わっても、また次なる章が続いてゆき、一族の誰かが生きている限り、物語は永遠に結末を迎える事はないのである。
しかし、レヴィンソン監督はこの渋い人間ドラマを24歳という若さで書いたというのだから驚きだ。
もしかして、これはレヴィンソン家がモデルの実録物?と思ってしまうが、実際親子仲はあまりよろしくないらしいので、さもありなん。(余談だが、この映画の撮影後にレヴィンソンと主演のバーキンは31歳の歳の差カップルになったというから、これもまた“事実は映画よりも奇なり”というところか。)
思わず吹き出してしまいそうな意味深なタイトルが並ぶ楽曲のセンスも聴きどころで、父親とはまた違ったユニークな才気を感じさせる佳作である。
今回は何ともビターな人間ドラマ故に、反対にハッピーな結婚式の定番カクテル「ウェディングベル・スイート」をチョイス。
ドライ・ジン20 ml、トウニー・ポート20 ml、チェリー・ブランデー10 ml 、オレンジ・ジュース10 mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
名前のとおり甘く華やかな味わいで、映画の後味を柔らかくほぐし、ほっと一息つかせてくれるだろう。

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ヤクザ者と老人介護という異色の取り合わせが話題を呼んだ、フジテレビ系列の同名ドラマの続編にあたる作品だが、安直なテレビ局企画と侮るなかれ。
田舎町の老人ホームを舞台に、ホンモノの極道になるべく奮闘する男の物語は、貧困ビジネス、疲弊する介護者、行く当ての無い老人たちなど、高齢化社会の問題がストレートに盛り込まれ、骨太の社会派エンターテイメントとして見応え十分な仕上がりだ。
ドラマ版は最初の数話しか観ていないが、雰囲気はグッとハードになり、内容的にも独立した作品になっているので、これ単体で観ても問題なく楽しめる。
監督はドラマ版の演出も担当し、「容疑者Xの献身」など映画監督としても活躍する西谷弘。
極道の世界から足を洗い、カタギとなった翼彦一(草彅剛)は、コンビニで働き始めるものの、強盗に入った元ヤクザの蔦井(堺正章)を見逃した事から、共犯として逮捕されてしまう。
再び悪の道で生きる事を決めた彦一は、刑務所で再会した蔦井の紹介で大海市の暴力団・極鵬会を訪ねる。
そこで彦一に与えられたシノギとは、老人ホーム“うみねこの家”の運営。
貧しい老人たちに闇金として金を貸し、破産した彼らを引き取って劣悪な環境に住まわせ、年金や生活保護を巻き上げるビジネスだった。
折しも、街では議員の八代(香川照之)が提唱する“観光福祉都市”建設の一大プロジェクトが始まろうとしており、極鵬会もその利権を狙っている。
最初は淡々と仕事をする彦一だったが、老人たちと日々を過ごすうちに、次第に葛藤を募らせ、施設の改善を決意するのだが・・・
劇中、彦一を見た老婆が「あんた、雷蔵に似ているね」と頬を赤らめるシーンがある。
なるほど草彅剛の顔の作りは、何となく八代目・市川雷蔵の面影を感じさせるかも知れない。
偶然にも本作撮影当時の草彅と同じ、37歳という若さで夭逝した雷蔵は、時代劇の印象が強いが、「若親分」シリーズや遺作となった「博徒一代 血祭り不動」などの任侠映画にも出演している。(もっとも、雷蔵自身は東映の焼き直しだとしてあまり乗り気ではなかったらしいが)
そんな昭和の大スターの雰囲気を纏った、草彅剛が良いのである。はまり役というやつだ。
冒頭でコンビニ店員をしているシーンから、単に怖い顔をしている以上の凄みを漂わせる。
一見強面だけど実際には良い人、という単純なステロタイプでなく、基本はあくまでも粗野な悪人、しかし心の奥底では侠気を捨てず、ホンモノになりたいと願う男を好演している。
容赦無く暴力を振るい、豪快にお下品なゲップをし、善悪の狭間に撞着する姿は、どこから見ても立派なヤクザ者だ。
そんな彦一が任せられたのは、年金や生活保護を搾取するために作られた、老人ホームとは名ばかりの劣悪な施設。
そこでは家族に見捨てられた老人たちが、畳一畳ほどに間仕切られた大部屋に押し込められ、徘徊を防ぐために汚物塗れのまま日がな一日縛り付けられている。
管理人はこれまた老人が一人だけで、もちろん医師や看護師などいない。
彦一も最初は感情を挟まずに与えられた仕事をこなしているのだが、何しろ彼は弱きを助け、強きを挫く任侠道を極めたいと思っている男である。
自分の向き合っている一人ひとりの老人たちの人生のヒストリーを感じ、蔦井の娘でやはり母親の介護を抱える葉子とその家族との触れ合いを通して、徐々に現状への苛立ちを募らせ、遂には入居者と力を合わせてゴミ溜めの様な施設を笑顔溢れるコミュニティへと変貌させてしまう。
まあこの辺りのプロセスはやや出来過ぎというか、トントン拍子に物事が運び過ぎるきらいはあるが、人の暮らしとはこうあるべきだという作り手の言わんとする事は良くわかる。
そして、動き出した彦一の前に立ちはだかるのが、侠気を捨て、弱き者を金づるとしか見ない今どきのヤクザ、極鵬会であり、彼らのビジネスを成立させている現代社会の様々な歪みが浮かび上がるという訳だ。
極道と老人という、普通に考えれば水と油の様なモチーフの接点を、所謂貧困ビジネスに見出し、丁寧に描かれた人間ドラマを通して、社会の高齢化と格差の問題点をリアリティのあるテーマとして描き出した池上純哉の脚本はなかなかに秀逸。
彦一と安田成美演じる葉子、彼女に思いを寄せる裕福な世襲政治家の八代との三角関係と、八代が音頭を取る街の再開発プロジェクトと極鵬会との対立の絡ませ方など、一歩間違えると御都合主義を感じさせてしまう程に人間関係が近しく複雑だが、上手く処理して物語を重層化させている。
最近の役柄の刷り込み効果で、香川照之が政治家役をやっていると反射的に悪のラスボスかと思ってしまうが、今回は割と良い人だったりするのも意外性があって良かった。
彦一をアニキと慕うウザキャラの成次とキャバ嬢の茜との純情恋物語も、効果的なアクセントになっていたと思う。
画作りにも安っぽさは微塵も無い。
静岡県に大規模なオープンセットとして建て込まれた“うみねこの家”は、生活感たっぷり、生ゴミと汚物の異臭まで漂って来そうな力作で、平屋作りに風見鶏の塔がある構造はシネマスコープの画面に映える。
山本英夫のカメラは、閑散とした地方都市の閉塞感と、登場人物たちそれぞれの孤独と葛藤を雄弁に物語る。
物語のラストで、役割を果たしたアウトローが愛しい人たちを残して街を去ろうとする時、私は心の中で思わず「カムバック!彦一」と叫んでいた。
このキャラクターは、上手く発展させれば草彅剛の代表作、いや日本そのものが高齢化した今、現代の寅さんになり得るのではないか。
そう言えば、「男はつらいよ」も元々はフジテレビの連続ドラマから始まって、国民的な人気シリーズとなった経緯がある。
どうせテレビの延長線上だし、SMAPだし、と思って躊躇している人は、騙されたと思って劇場へ足を運んで欲しい。
企画の出自はテレビだとしても、ここにあるのは風格ある任侠映画であり、映画館の大画面で観るべき力作である。
今回は海辺の街が舞台という事で、海の幸を美味しくいただけるお酒。
石川県の車多酒造の「天狗舞 山廃純米吟醸」をチョイス。
天狗舞を代表する山廃仕込みの逸品だけあって、腰が強く香りも奥深い。
芳醇な酒と肴を求めて、日本の何処かへ旅に出たくなる一杯である。

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男前で陽気な性格、生徒たちに絶大な人気を誇る高校教師でありながら、その実自分にとって不都合な人間は次々と抹殺する殺人鬼。
表と裏、二つの顔を持つ男を主人公に、異才・三池崇史が悪意のスロットル全開で描くスプラッター・ホラーだ。
原作は貴志祐介の同名ベストセラー小説で、今まで「海猿」シリーズなどで爽やかな青年を数多く演じてきた伊藤英明が、他人への共感能力を生まれつき持たないサイコパス・蓮実聖司を演じる。
悪魔の様な男が小さなミスを犯した時、彼はそれを取り繕うために学園を善悪のモラルの外側にある魔境へと変貌させ、阿鼻叫喚の地獄絵図を描き出す。
※ラストに触れています。
高校の英語教師の蓮実聖司(伊藤英明)は、生徒から“ハスミン”の愛称で親しまれ、その有能さは学校関係者も認めるところ。
だが、一方で女生徒を愛人にし、同僚教師の弱みを握って脅すという裏の顔を持っている。
無線部顧問の釣井(吹越満)と生徒の早見(染谷将太)は、過去に蓮実と関わった人たちが、不可解な死を遂げている事を突き止めるが、二人の動きを察知した蓮実によって亡き者にされてしまう。
人知れず学園の支配を進める蓮実だったが、ある日些細なミスを犯してしまい、自分の身を守るために、クラスの生徒全員の殺害を決意する・・・
人は、時としてフィクションの中で人間の姿をした悪魔を求める。
「匕首マッキー」のメロディに乗って楽しそうに殺戮を繰り返す、ハスミンの狂気と残虐に“WHY?”を投げかけても無駄だ。
ハーバード大卒の英才にして、教職員仲間からも生徒たちからも全幅の信頼を置かれる、有能を絵に描いた様なデキル男。
しかしその正体は、14歳にして両親を殺害して以来、自分の邪魔となる人間たちを無慈悲に排除してきた狡猾なシリアルキラー。
他者への共感能力の欠落、即ち彼の中では良心や思いやりなど、当たり前の感情が存在せず、殺人への罪悪感すら全く無い。
蓮実にとって世の中の全ては自分のために存在しており、“他人”とは単なるエモノに過ぎないのである。
欲望のままに行動し、邪魔になれば殺す、ただそれだけ。
善悪の概念を持たぬ者に、そもそも理由やモラルを問うても無意味なのだ。
逆に言えば、彼の行為が特別な意味を持たない事が、観客にとって映画的な意味を見出す事に繋がるのである。
この恐るべき怪物を、よりにもよって伊藤英明に演じさせる毒気。
廃墟の様な荒れ果てた家に住みながら暇さえあれば裸で肉体トレーニングに励み、己が道を阻む者は冷徹に排除するピカレスク・ヒーローの造形には、70年代に村川透監督、松田優作主演で作られた「蘇る金狼」「野獣死すべし」あたりのキャラクターが影響を与えていそうだ。
主人公の、有能な社会人としての昼の顔と、目的のためなら手段を選ばぬ夜の顔という真逆の二面性、そして反社会的特質には明らかな共通項が見える。
だが、穏やかな笑顔の下に、恐るべき嗜虐性を秘めた蓮実の大暴れを描く本作は、もちろんハードボイルドのカテゴリには入らず、完全なホラーである。
大虐殺が始まるのは、生徒たちが準備のために集まっている学園祭の前夜。
まるでデヴィッド・クローネンバーグの「ビデオドローム」や「裸のランチ」の主人公の様に、狂気と幻想の世界で楽しげに銃器と語り合いながら、ケバケバしい電燭で飾り付けられた学園を血しぶきで満たす蓮実の姿は、見た目とのギャップが激しい分、むしろあまたのハリウッド製の殺人鬼たちよりも不気味で恐ろしい。
「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」では、主人公のあたるたちが繰り返される学園祭の前日という時間の無限ループに閉じ込められたが、ここでは学園は蓮実という悪魔の作り出す非日常の異世界と化すのである。
本来生徒を守るべき存在である教師によって、全く不条理に射殺されてゆく生徒たちの姿はまことに痛々しいが、蓮実が使うのが基本ショットガンオンリーである事が、この凄惨極まりない物語をまだ正視可能な物としている。
これがナタやらチェンソーだったりしたら、おそらく途中退場者が続出していたはずだ。
殆ど一方的な殺戮に、狩られる側からの反撃がもう少し描かれれば、ドラマとしてはもっと盛り上がっただろうが、多分それは作者のやりたい事とは違ったのだろう。
面白いのが、彼の犯行が発覚する切っ掛けとなるのが、蓮実とは対照的なダメ教師・釣井の感じたほんの小さな違和感という事。
自分が卑屈な人間である事を自認する釣井は、マトモな人間の前では劣等感を感じるはずなのに、なぜか蓮実には感じないのだと言う。
それ故に、蓮実の秘密に気づくのだが、よくよく考えてみれば、蓮実の世界と我々の世界は、“共感能力”という言葉ひとつで隔てられているだけなのだ。
コロンバイン事件とか、秋葉原事件とか、はたまた近頃世間を騒がしている尼崎の大量殺人事件とか、人間の社会における安心、秩序、平和など、我々が身を任せている日常の基盤は案外と脆く、誰か一人の中で壊れれば、他人が巻き込まれる可能性は常にある。
その事を頭のどこかでわかっているからこそ、観客は蓮実をフィクションの中だけに存在する怪物と信じ、邪悪なカタルシスを感じたいのではないか。
そう考えれば、細部に目を向ければ突っ込みどころだらけのプロットや、深夜にショットガンを撃ちまくっているのに、外の誰も気づかないご都合主義も納得が行く。
真夜中のハイスクール・マサカーが一応の終わりを告げるラスト、連行される蓮実の不敵な目に我々が不安感をかき立てられるのは、「to be continued」がスクリーンの中だけで起こるとは限らない事を、否が応でも認めざるを得ないからなのである。
今回は、濃密な悪の香りに触れた後なので、悪魔繋がりのカクテル「デビルズ」をチョイス。
ポートワイン30ml、ドライベルモット30ml、レモンジュース2dashをステアして、グラスに注ぐ。
鮮やかな赤は正に血の様で、名前も恐ろしげだが、ポートワインの甘味とレモンジュースの酸味でサッパリとした味わいだ。

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戦国時代の末期、豊臣秀吉の北条攻めの折、石田三成率いる2万を超える天下の軍勢に包囲されながら、僅かな手勢で守りきり、最後まで落城しなかった“水の城”武州・忍城(おしじょう)の攻城戦を描く大作時代劇。
第29回城戸賞を受賞した和田竜の脚本を、犬童一心と樋口真嗣が異例のダブル監督で映画化した。
民衆から木偶の坊を略して“のぼう”と呼ばれ親しまれたカリスマ城代、成田長親を狂言師・野村萬斎が演じ、豊臣軍総大将石田三成に時代劇映画初出演の上地雄輔。
のぼう配下の武将たちを、佐藤浩市、山口智充、成宮寛貴ら濃〜い面々が好演。
魅力的なキャラクターに、スケールの大きな画作りはスペクタクルな見せ場も多く、なかなかに楽しませてくれる。
※ラストに触れています。
広大な水田と湖に囲まれた武州・忍城。
領主の成田一門の成田長親(野村萬斎)は、領民たちから“のぼうさま”と呼ばれ、戦国の世にあっても平和を愛する人物だ。
その頃、天下統一目前の豊臣秀吉(市村正親)は、最後に残った関東の北条氏への攻撃を開始。
北条方支城の忍城も、2万を超える石田三成(上地雄輔)の軍に包囲されてしまう。
城に残る兵力は僅か500騎で、戦う前から勝敗は明らか。
秀吉に内通する腹づもりで、小田原城に出陣した領主・氏長(西村雅彦)の命もあって、城は降伏し開城するはずだった。
しかし、三成の軍使の威丈高な態度を見た長親は、一転して戦う事を決意する・・・
本作は昨年の9月に公開される予定だったが、津波を思わせる水攻めのシーンがある事から、3.11の影響に配慮し公開が一年以上も延期された。
実際に観ると、なるほど今時珍しいミニチュアワークを駆使し、濁流が押し寄せるビジュアルは迫力満点。
これでも、人が水に飲み込まれる描写など大幅にカット・修正がなされたというが、致し方あるまい。
開戦前から決着していて、本来起こらないはずの戦が起こったワケが面白い。
忍城主の成田氏長は、北条家の家臣として小田原籠城に表面的には参戦しつつも、裏では秀吉と通じ、忍城の開城を内諾している。
一方の秀吉は、右腕である石田三成の権威付のために、何とか武功をあげさせたい。
そこで三成には密約の存在を明らかにしないまま、戦う前から降伏する事がわかっている忍城攻めを命ずる。
要するに、忍城で実際に対峙する者たちは、将棋盤の上の駒に過ぎず、勝負は当事者の与り知らぬ所であらかじめ決められている状況だ。
ところが、彼らは物言わぬ駒ではなく、人間である。
豊臣家臣団の中で絶大な権力を振るいながらも、武人としての自らの実力が認められていない事を知るが故に、三成は金と権威になびかぬ敵とのガチンコの戦を求め、あえて傲慢不遜な長束正家を軍使にたて、忍城側を挑発する。
対する“のぼう”こと長親も、一見すると単純に三成の思惑に乗ってしまった様に見えるが、おそらくは地の利、人の利を活かせば、遥かに強大な敵とも互角に戦える事をわかった上で、弱小の意地を見せつける事で、自分たちを敵に認めさせようと図ったのではないだろうか。
戦わずして開城すれば敵の言いなりになるしかないが、一矢報いれば最終的に降伏するにしてもそれなりの扱いを要求出来る。
何しろ忍城は、嘗て北条氏康、そして戦国最強の呼び声も高い上杉謙信の包囲にすら耐えた難攻不落の名城なのだ。
いくら敵の数が多いとは言っても、勝機はあると読んでいたのだろう。
映画は史実をかなり改変しているが、少なくとも物語の上では、将棋盤の上の駒たちが指し手を無視して、自らの誇りと知略で動き出した結果、戦が起こった様に見えるのである。
いかにも戦国のもののふという面構えの、敵味方の男たちが良い。
特に成田家の侍大将たちは、佐藤浩市演じる“漆黒の魔人”(笑)こと正木丹波守利英、山口智充の筋肉バカの柴崎和泉守、古風な鎧兜に身を包んだ成宮寛貴演じる“おぼっちゃん”酒巻靭負と、漫画チックなまでに個性を主張し、まるで三国志の英雄の様だ。
作品全体の構成や、時間的にはそれほど長く無いが、充実した合戦シーンの画作りを含めて「レッド・クリフ」、その源流たる黒澤映画の影響はあちこちに見てとれる。
そして大河ドラマなどの出演はあるものの、時代劇映画は初となる上地雄輔の石田三成も予想よりずっと嵌っていたし、盟友の大谷吉継を演じる山田孝之や市村正親の豪放な秀吉も魅力的。
しかし、やはり本作のタイトルロールである、のぼうを演じた野村萬斎の存在感は格別だ。
後述する様にキャラクター造形に関しては若干疑問な部分もあるのだが、全身から醸し出す飄々とした独特の空気、スキだらけの滑稽な所作は彼ならではの物だろう。
のぼうは総大将なので戦場で戦う描写はないが、敵陣の前に船で漕ぎ出し、田楽を披露して敵味方全てを魅了してしまうシークエンスは本作の白眉であり、ここだけでも観る価値がある。
映画のラストでは、現代の埼玉県行田市に僅かに残る忍城の遺構が写し出される。
フィクションとしての過去を現実の今と結びつけるこの手法は、スピルバーグの「シンドラーのリスト」などでも見られたが、かなり好みは別れるだろう。
本作においては、400年以上前にそれぞれの時を懸命に生きた、強者どもの夢の跡を見る様で、効果的な余韻を作り出していたと思う。
「のぼうの城」は、史実をベースにした娯楽時代劇として良く出来た作品で、145分の長尺も心地良く流れてゆく。
惜しむらくは、長親がなぜこれほど領民に愛され、彼のためなら皆が危険をかえりみないのか、という描写が欠落している事だ。
いや、のぼうがユニークで、愛すべき人物なのは十二分に伝わって来るのだが、一国の長として戦を率いる才覚は、単に良い人であるのとは違うだろう。
何となく、映画だと総大将として人心を掌握していたと言うよりは、たまたま優秀な家臣や領民たちに助けられて勝った様に見えてしまった。
ここは、のぼうに対して人々が絶対の信頼を置く理由付が必要だったのではないだろうか。
あと個人的には、男臭い物語故に、紅一点の甲斐姫の見せ場がもっと欲しかった。
伝説によれば、彼女は鎧兜に身を固め、侍大将として多くの兵を率い、三成軍を迎え撃ったという。
自ら名乗りを上げて闘い、何人もの敵将の首をとったほどの豪傑だったというから、映画の利英の一騎討ちのシーンは姫の話を移し替えたのかもしれない。
まあ榮倉奈々だと華奢過ぎて説得力が出ないだろうし、物語のバランス的には、のぼうと姫との切ない純情エピソードの方が相応しい事は理解できるけど。
湖に浮かぶ平城である忍城は、別名を亀城とも言う。
今回は、同じ埼玉県の銘柄、神亀酒造の3年熟成酒「ひこ孫 純米吟醸」をチョイス。
ふわりとした吟醸香の向こうに、しっかりとした味の輪郭を感じる個性的な酒。
さすが二十年以上の熟成を経た「ときの流れ」ほどの、日本酒離れした強烈なコクと深みは無いが、神亀の入門用としては調度良い一本だろう。

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世界の平和を護る9人のサイボーグ戦士の活躍を描く、石ノ森章太郎原作のSFコミックの金字塔、「サイボーグ 009」32年ぶりの長編映画化。
その名も「009 RE:CYBORG」は、単なるリメイクではなく、原作、あるいは過去のアニメ作品の後日談的なオリジナルストーリーで、映像手法はセル調のCGアニメーションとなり、キャラクターデザインもモダナイズされ、3D版も用意される。
謎の“声”によって引き起こされた連続自爆テロが、全ての秩序を崩壊させつつある世界を舞台に、ゼロゼロナンバーのサイボーグたちの新たな物語を紡ぐのは「東のエデン」「攻殻機動隊 S.A.C.」の神山健治だ。
※ラストに触れています。
嘗て世界を救ってきたサイボーグ戦士たちは、それぞれの故郷で新しい人生を送っている。
だが、世界各地で超高層ビルを狙った自爆テロが続発し、ギルモア博士(勝部演之)はゼロゼロナンバーの招集を決断。
博士は、記憶を消去し日本で普通の高校生として暮らしている009:島村ジョー(宮野真守)を連れ戻す為に、005:ジェロニモ(丹沢晃之)と003:フランソワーズ(斎藤千和)を派遣する。
しかし、記憶を取り戻したジョーは、驚くべき事を口にする。
自分も頭の中に呼びかける“彼の声”を聞き、危うく六本木ヒルズに爆弾テロを仕掛ける寸前だったと言うのだ。
人々を操る“彼の声”の影響は拡散し、ジョーは核ミサイルを搭載したまま連絡を絶った米軍のB2爆撃機を阻止する為に、ドバイに飛ぶのだが・・・・
復活したサイボーグ戦士たちの相手は、人々の心を操る姿なき“声”、即ち“神”という壮大なスケールの物語である。
もっとも、このシリーズでは過去にも度々超越者がモチーフとなっている。
神に作られし人間が、神を超越するかのごとく生み出したサイボーグという存在を突き詰めると、人間とは何か、生命とは何かという問いの向こうに、神を見るのは自然な成り行きなのかもしれない。
原作の「天使編」では人類を“収穫”に現れ、出来が悪いのでリセットしようとする創造主が登場するし、そのリトライ版とも言うべき「神々との闘い編」では、ゼロゼロナンバーのサイボーグたちが、宇宙からやってきた神によってそれぞれの心を試される。
本作のキャッチコピー、「終わらせなければ、始まらない。」は、「天使編」の創造主の主張にも通じ、物語の直接の源流になっているのも、この二編と思って良いだろう。
“彼の声”を聞き、人類の再生のために自爆テロに走る人々。
映画は、世界各地に離散したサイボーグ戦士たちが、イスタンブールのギルモア財団に再結集するプロセスで、事件の核心に迫る幾つかのヒントを提示してゆく。
考古学者に転身していた008:ピュンマは、遺跡の発掘現場で天使の姿をした巨人の化石を掘り当て、多くの発掘スタッフが“彼の声”を聞くのを目の当たりにする。
アメリカで国家安全保障局に勤務する002:ジェット・リンクは、産軍複合体を牛耳る企業が、“彼の声”の意思によって行動している事、そして自分もまた得体の知れない力に操られている事を知る。
そして、ジョーの頭に響いたテロへの誘惑。
混沌に落ちた世界は、一度破壊しなければ再生しないのか?
“彼の声”は本当に神の啓示なのか?
観客は、サイボーグ戦士たちと共に、ミステリアスで先の読めない展開に翻弄される事になるのだ。
2001年から2002年にかけて放送されたテレビアニメから10年、3DCGによって作られた本作では、立体モデルに輪郭線を付ける所謂セルシェーディングの技法と手描き背景のタッチによって、慣れ親しんだセルアニメ調に仕上げられている。
物議を醸したキャラクターデザインも、オリジナルの面影を適度に残しながら巧みに立体化されており、個人的にはそれほど違和感は感じないし、ジョーと激しいラブシーンまで見せてくれる恋するフランソワーズとか、コスチュームまで妙に色っぽくて、むしろ大人アニメとして良い感じ(笑
3DCGならではのダイナミックなアクションも含め、映像的には今まで見た事のない世界を作り出し、楽しませてくれている。
核による終末が日常の裏側にあった、東西冷戦真っ只中に生まれたオリジナルに対し、カオスの時代にストレートに神を問う、リメイクの方向性は間違っていないと思うし、現代だから作り得るスペクタクルな見所も盛り沢山。
なかなかに面白い映画であり、力作なのは間違いない。
しかし、一本の独立した作品として観ると、後味が今ひとつピリッとしないのも確かなのである。
おそらく原因は、作者自身が“神”という大き過ぎるモチーフを掴み切れず、持て余しているからだと思う。
神の正体に関しては、中盤で004:ハインリヒが、まるで学校の講義でもやるかの様に、人間の進化の過程で脳が生み出した内的存在だという説をもっともらしく語ってくれる。
ならば、ピュンマが掘り出した“天使の化石”は何なのか?
内なる神の滅びへの誘惑に抗うモニュメントとして人間が作ったのだとしたら、なぜ化石に触れた人々の中に“彼の声”を聞く人が続出したのか?
エンドクレジット後に出てくる、月の裏側の巨大なモニュメントは誰が作ったのか?
そもそも、核爆発で死んだはずのジョーとジェット・リンクが目を覚ます場所は、登場人物が水の上を歩く(聖書のキリストを思わせる)描写を見ても、現実とは異なる異世界、つまりは天国と考えるのが妥当だろうが、もしも神が脳の機能の一部なら、天国が存在するのは明らかにおかしい。
少なくとも本作においては、神=脳内創造説は当てはまらないと思うし、では例えば宇宙人のような存在だとすると、それならそれで一体人類に何をやらせたいのかがよくわからない。
更には、サイボーグたちの前に現れる金髪の少女は一体何者なのか、忽然と現れては消えるジョーの同級生の存在など、描かれながらも放りっぱなしの要素も多い。
もちろん、最終的には観客に解釈を委ねるという考え方でも良いと思う。
しかし本作の場合は、辻褄のあわない事が多く、どうしても観念に逃げた印象となってしまった感は否めない。
ここは少なくとも作品世界の創造主たる作者の中では、ある程度“神"に関する自分の解を明確にしておくべきだったのではないか。
まあ、これが「プロメテウス」の様に“序章”に過ぎず、広げた風呂敷に関してはこれから畳むのだというなら納得なのだけど。
今回は石ノ森章太郎の故郷、宮城県登米市の酒蔵、石越醸造の「澤乃泉 特別純米酒」をチョイス。
北部宮城の代表的銘柄だが、こちらは特別純米と言いながら、精米歩合は55%とかなり力の入った一本である。
やや辛口でコクはあれど強い癖はなく、柔らかな喉越しで飲みやすい。
コストパフォーマンスはとても高いお買い得な酒だ。
料理を選ばない万能タイプで、これからの季節には燗で飲んでも美味しいだろう。

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![]() 澤乃泉 特別純米酒 1.8L |