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2012年12月30日 (日) | 編集 |
昨年から続くアラブの革命に、ロンドンオリンピック、領土問題からきな臭さを増す東アジア情勢、そして日本を含む世界各国の政治の季節。
色々な事が起こった2012年も、もうすぐ歴史になる。
日本社会の内向きの気分を反映するかの様に、映画興行では邦高洋低が続き、世界中でヒットしているのに、日本だけでコケるという映画が続出、市場のガラパゴス化が加速した。
一方で、昨年の3.11と今に続く原発事故の衝撃は、直接的に間接的に日本映画に影響を与え、9.11がハリウッドを変えた様に、確実に変異をもたらしている。
今年は、日本人はどう未来に生きるべきかを、深く考察した優れた作品が目立った年だったと思う。
それでは、2012年に出会った「忘れられない映画たち」を鑑賞順に。
「ヒミズ」は、3.11後の非日常の中で、日常の幸せを求めて必死に足掻く若い魂を、泥沼の中の希望と共に描く鮮烈な青春映画。しかし、その僅か9ヶ月後に公開された「希望の国」の、タイトルとは裏腹な絶望は、この一年半の日本人の気分をそのまま反映している。園子温は、あえて物語の普遍性を捨て、“今”に向かって訴えるのである。
「J・エドガー」は、クリント・イーストウッドによる、20世紀の怪物、フーバー初代FBI長官の一代記。もっとも、歴史上の人物の評伝というより、一人の特異な男をモチーフにした倒錯的ラブストーリーとして観るべきだろう。権力と虚飾に塗れた人生で、唯一残った真実は“愛”という辺りにイーストウッドの優しさが見える。
「ポエトリー アグネスの詩」は、老齢に至るまで世界の本質とは向き合わずに生きて来た老女が、自らの病、孫の起こしたレイプ事件という過酷な現実を前に、一編の詩を紡ぎ出すまでの物語。巨匠イ・チャンドンは、日本以上のスピードで急速な少子高齢化が進む韓国の今を、一人の女性の心の葛藤と実に詩的、いや映画的にリンクさせた。
「ヒューゴの不思議な冒険」は、マーティン・スコセッシからの映画史への招待状。1920年代のパリ、モンパルナス駅を舞台とした少年と少女のリリカルな物語は、やがて忘れられた“映画の父”を再発見する。過剰なほど飛び出し感が強調されたスコセッシ初の3D表現は、100年以上前に始めて映画を観た人々の驚きの追体験なのである。
「戦火の馬」は、一頭の馬“ジョーイ”を巡る寓話的な歴史劇。第一次世界大戦の戦場に送られたジョーイは、数奇な運命に導かれる様に、敵味方様々な人々と一期一会の縁を結び、不条理な運命に翻弄される人間たちは、もの言わぬ馬の優しい目に希望を託す。ドイツ軍とイギリス軍の兵士が、鉄条網に絡まったジョーイを協力して解放するシーンこそ、本作の核心だ。
「ヘルプ~心がつなぐストーリー~」は、公民権運動が盛り上る1960年代、超保守的なミシシッピ州を舞台に、女性たちの小さな、しかし勇気ある一歩をユーモラスに描いたヒューマンドラマ。反差別というシリアスなテーマを扱いながら、事の発端がトイレだったり、う●こパイがキーアイテムだったり、何気に下ネタ満載なのがとっつきやすさに繋がっている。
「アーティスト」は、サイレントからトーキーへの変革期のハリウッドを舞台にしたチャーミングなフランス映画。声という新たな武器を得てスターダムを駆け上がる若き女優と、逆に時代に取り残され没落する嘗ての大スター。二人の運命が交錯するメロドラマから、一気にミュージカル映画の誕生へと持ってゆく鮮やかなセンスに脱帽。
「別離」は、イランから届いた人間の心を巡る極上の心理ミステリ。アスガー・ファルファディ監督は、前作「彼女が消えた浜辺」のスタイルを更に洗練させ、小さな秘密から始まる二組の夫婦の“おとなのケンカ”から、人間心理の深層をえぐり出す。綿密に組まれたロジカルな脚本に、イスラムの信仰というスパイスも絶妙に効き、全く目が離せない。
「裏切りのサーカス」は、ジョン・ル・カレの傑作スパイ小説を、作者自らのプロデュースで映画化した作品。スウェーデン出身のトーマス・アルフレッドソン監督は、冷戦時代を舞台としたミステリアスな物語を手堅く仕上げた。裏切りと謀略が渦巻く諜報の世界、最後に浮かび上がるのは、歴史の裏側に生きる男たちの、切ない愛の物語だ。
「私が、生きる肌」は、スペインの異才ペドロ・アルモドバル監督が放った大怪作。妻と娘を失ったマッドサイエンティストの復讐は、想像もできない奇抜な物語へと展開する。狂気が支配する異色の復讐劇は、同時に怪奇ミステリーの趣もあり、倒錯的ラブストーリーでもあり、観客は予定調和が全く存在しないアルモドバルの世界に、驚嘆しながらも溺れるしかない。
「この空の花 -長岡花火物語」は、元祖映像の魔術師・大林宣彦から、全ての日本人に向けた遺言的集大成。毎年夏に長岡空襲を追悼する花火は、時間も空間も現実と虚構の壁も軽々と超え、壮大なシネマティック・ワンダーランドを形作る。響き渡るのは、幕末の故事から第二次世界大戦の記憶、そして東日本大震災を経て未来へと繋がる過去からの“声”だ。
「桐島、部活やめるってよ」は、吉田大八監督による先鋭的な青春群像劇。画面に登場しない“桐島”の存在は、やがて学園ヒエラルキーの全ての層を巻き込んで、日常に潜む漠然とした不穏を炙り出してゆく。それぞれの葛藤が頂点に達した、夕暮れの屋上での実に映画的なクライマックスは、青春の熱が一瞬で沸騰したかのようなカタルシスを感じさせる。
「おおかみこどもの雨と雪」は、私的“ムービー・オブ・ザ・イヤー”。日本アニメーション100年の歴史を受け継ぎ、その可能性を新たな次元へと飛躍させた歴史的金字塔だ。本作ではリアルとファンタジーが完璧にバランスし、アニメーション的デザインとリアリティの再解釈が試みられている。描かれるのはこの美しい列島の、本質的な命の循環の物語だ。面白いのは、日本では同日公開となったディズニー/ピクサーの「メリダとおそろしの森」とモチーフに幾つか共通点が見られる事。“子育て”は今年のアニメ界で隠れブームなのかも。
「ダークナイト ライジング」は、クリストファー・ノーランが描き上げた、21世紀の壮大な暗黒神話。最終作となるこの作品は、もはや破綻ギリギリに物語が詰め込まれ、圧倒的な情報量はもうお腹いっぱい。前作の「ダークナイト」から後退した部分もあるのだが、映画を完結させた上で、同時に伝説の永続性を示すことで、物語を神話的領域に昇華させたノーランの仕事はやはり賞賛されるべきだ。
「思秋期」は、自分では制御できない怒りの感情に苦しめられる、飲んだくれの男やもめと、内面に悲しい秘密を抱えた女の魂の絆を描く燻し銀の人間ドラマ。どんなに辛くても、傷ついても、誰か一人でも心のよりどころがいてくれれば、人生は美しい。パディ・コンシダイン監督は、この長編デビュー作で自らの非凡な才能を証明した。名優ピーター・ミュランと、オリビア・コールマンの名演が光る。
「アベンジャーズ」は、全てのアメコミファンが待ち望んだスーパーヒーロー大集合映画。この手の有名キャラ共演作品は過去にも例があるが、往々にしてこちら立てればあちら立たずになりがちだ。これほど沢山のヒーローが同じ話の中にいても、ちゃんとチームとして機能しているのは大したもの。「ダークナイト ライジング」がワールドシリーズなら、こちらは正に夏の夜の夢、映画界のオールスターゲームと言えるだろう。
「最強のふたり」は、もしも今年観た映画のなかで、一番人に勧めやすい作品を選ぶとしたら、文句なしのNo.1。王道の中の王道の“良い話”だ。あらゆる点で対照的な二人の主人公の繰り広げる対立と葛藤、友情の物語は、笑って泣いて、最後に感じるのは人間に対する希望。最高に爽やかな後味を持つお手本の様な秀作だ。
「アシュラ」は、70年代のカルトコミックのまさかの映画化。戦乱と飢餓の時代に、名もなく言葉も知らず、人喰いとなった少年の目を通して、人として生きるとはどういう事かを、仏教的な死生観をバックボーンに描いた大力作だ。人は他の命を奪わずには生きられないのに、なぜ人を喰ってはいけないのか。アシュラが極限の状況で本能と理性の壮絶なせめぎ合いを見せるクライマックスは、映画史に残る名シーンだ。
「アルゴ」は、1979年のイラン革命下で実際に起こった、奇想天外な脱出作戦を描くサスペンス。監督・主演のベン・アフレックは、史実とフィクションを絶妙に組み合わせ、手に汗握る娯楽映画として成立させている。だが、可能な限り政治性を排除しようとしている事が、逆に歴史のアイロニーを際立たせる。困難な状況に陥っている人を助けるのは正しい。では、その困難を招いたのは一体誰なのだろうか。
「任侠ヘルパー」は、ヤクザと老人という一見水と油の様なモチーフを、貧困ビジネスという切り口で見事にまとめ上げた、社会派エンターテイメントにして平成の正統派任侠映画だ。草彅剛演じる翼彦一は、超高齢化社会を迎えた日本の、新たな“寅さん”になり得る可能性を秘めた、ユニークなキャラクターだと思う。
「007 スカイフォール」は、シリーズ史上初のアカデミー賞監督、サム・メンデスによる「007 ビギニング」三部作の最終章。ジェームズ・ボンドのアイデンティティを巡る旅は、母離れできなかったもう一人のボンドとの対決と、母殺しによって集結する。ダニエル・クレイグが悪役を演じた、メンデスの「ロード・トゥ・パーディション」とも、対になるような構造なのが面白い。
「ホビット 思いがけない冒険」は、歴史的な「ロード・オブ・ザ・リング」三部作の前日譚となる新三部作。9年ぶりに中つ国に帰還したピーター・ジャクソン監督は、原作の不利を感じさせない見事な作品を作り上げた。本来三本まとめて評価すべき作品だろうが、何度も観たくなり、観る度に新たな面白さが発見出来るシリーズの味わいは健在。やはりこれ一本でも忘れられない。
「レ・ミゼラブル」は、誰もが知る傑作ミュージカルの完全映画化。19世紀フランスを舞台にした“惨めな人々”の魂の歌声は、時空を超えて混沌の現代日本に恐ろしくリアルに響き渡る。極めて演劇的でありながら、同時に映画でしか表現し得ない独特の演出、出演者たちの圧巻の熱演(熱唱)は、舞台以上に観客を虜にする魅力に満ちている。人々が未来へと歌い上げるラストは、一年の締めくくりに相応しい大団円だ。
「はちみつ色のユン」は、バンデシネのアーティスト、ユンの自伝的物語。韓国人孤児だった彼はベルギーに養子に出され、ヨーロッパ人として育った。現在のソウルを訪ねたユンのパートを実写ドキュメンタリーとして、彼の成長期がアニメーションとして描かれる異色作。アイデンティティを巡る葛藤は、母なる存在の愛へと帰着する。
以上が、今年の「忘れられない映画たち」となった。
観た時は凄く良かったけど、今振り返るとそれほど印象に残っておらず、外した作品もあるし、逆に時間が経つほどに、自分の中で重みを増した作品もある。
それらをひっくるめて、あくまでも現時点で、忘れられない作品である。
アメリカ映画では、9.11の心の傷を描く「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」や、ジョージ・クルーニーが冴えないおっさんを好演した「ファミリー・ツリー」、異色のアウトロームービー「ドライヴ」なども良かった。
日本ではアニメが大豊作で、上記した作品以外でも 「ももへの手紙」、「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」など個性的な秀作が生まれ、必ずしも成功していない物も含め、挑戦的な作品が多かった様に思う。
また日韓で北朝鮮をモチーフにした作品も目立ち、「ムサン日記〜白い犬」、 「外事警察 その男に騙されるな」、「かぞくのくに」といった作品が印象に残る。
さて、来年はどんな作品と出会えるだろう。
それでは皆さん、良いお年を。
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色々な事が起こった2012年も、もうすぐ歴史になる。
日本社会の内向きの気分を反映するかの様に、映画興行では邦高洋低が続き、世界中でヒットしているのに、日本だけでコケるという映画が続出、市場のガラパゴス化が加速した。
一方で、昨年の3.11と今に続く原発事故の衝撃は、直接的に間接的に日本映画に影響を与え、9.11がハリウッドを変えた様に、確実に変異をもたらしている。
今年は、日本人はどう未来に生きるべきかを、深く考察した優れた作品が目立った年だったと思う。
それでは、2012年に出会った「忘れられない映画たち」を鑑賞順に。
「ヒミズ」は、3.11後の非日常の中で、日常の幸せを求めて必死に足掻く若い魂を、泥沼の中の希望と共に描く鮮烈な青春映画。しかし、その僅か9ヶ月後に公開された「希望の国」の、タイトルとは裏腹な絶望は、この一年半の日本人の気分をそのまま反映している。園子温は、あえて物語の普遍性を捨て、“今”に向かって訴えるのである。
「J・エドガー」は、クリント・イーストウッドによる、20世紀の怪物、フーバー初代FBI長官の一代記。もっとも、歴史上の人物の評伝というより、一人の特異な男をモチーフにした倒錯的ラブストーリーとして観るべきだろう。権力と虚飾に塗れた人生で、唯一残った真実は“愛”という辺りにイーストウッドの優しさが見える。
「ポエトリー アグネスの詩」は、老齢に至るまで世界の本質とは向き合わずに生きて来た老女が、自らの病、孫の起こしたレイプ事件という過酷な現実を前に、一編の詩を紡ぎ出すまでの物語。巨匠イ・チャンドンは、日本以上のスピードで急速な少子高齢化が進む韓国の今を、一人の女性の心の葛藤と実に詩的、いや映画的にリンクさせた。
「ヒューゴの不思議な冒険」は、マーティン・スコセッシからの映画史への招待状。1920年代のパリ、モンパルナス駅を舞台とした少年と少女のリリカルな物語は、やがて忘れられた“映画の父”を再発見する。過剰なほど飛び出し感が強調されたスコセッシ初の3D表現は、100年以上前に始めて映画を観た人々の驚きの追体験なのである。
「戦火の馬」は、一頭の馬“ジョーイ”を巡る寓話的な歴史劇。第一次世界大戦の戦場に送られたジョーイは、数奇な運命に導かれる様に、敵味方様々な人々と一期一会の縁を結び、不条理な運命に翻弄される人間たちは、もの言わぬ馬の優しい目に希望を託す。ドイツ軍とイギリス軍の兵士が、鉄条網に絡まったジョーイを協力して解放するシーンこそ、本作の核心だ。
「ヘルプ~心がつなぐストーリー~」は、公民権運動が盛り上る1960年代、超保守的なミシシッピ州を舞台に、女性たちの小さな、しかし勇気ある一歩をユーモラスに描いたヒューマンドラマ。反差別というシリアスなテーマを扱いながら、事の発端がトイレだったり、う●こパイがキーアイテムだったり、何気に下ネタ満載なのがとっつきやすさに繋がっている。
「アーティスト」は、サイレントからトーキーへの変革期のハリウッドを舞台にしたチャーミングなフランス映画。声という新たな武器を得てスターダムを駆け上がる若き女優と、逆に時代に取り残され没落する嘗ての大スター。二人の運命が交錯するメロドラマから、一気にミュージカル映画の誕生へと持ってゆく鮮やかなセンスに脱帽。
「別離」は、イランから届いた人間の心を巡る極上の心理ミステリ。アスガー・ファルファディ監督は、前作「彼女が消えた浜辺」のスタイルを更に洗練させ、小さな秘密から始まる二組の夫婦の“おとなのケンカ”から、人間心理の深層をえぐり出す。綿密に組まれたロジカルな脚本に、イスラムの信仰というスパイスも絶妙に効き、全く目が離せない。
「裏切りのサーカス」は、ジョン・ル・カレの傑作スパイ小説を、作者自らのプロデュースで映画化した作品。スウェーデン出身のトーマス・アルフレッドソン監督は、冷戦時代を舞台としたミステリアスな物語を手堅く仕上げた。裏切りと謀略が渦巻く諜報の世界、最後に浮かび上がるのは、歴史の裏側に生きる男たちの、切ない愛の物語だ。
「私が、生きる肌」は、スペインの異才ペドロ・アルモドバル監督が放った大怪作。妻と娘を失ったマッドサイエンティストの復讐は、想像もできない奇抜な物語へと展開する。狂気が支配する異色の復讐劇は、同時に怪奇ミステリーの趣もあり、倒錯的ラブストーリーでもあり、観客は予定調和が全く存在しないアルモドバルの世界に、驚嘆しながらも溺れるしかない。
「この空の花 -長岡花火物語」は、元祖映像の魔術師・大林宣彦から、全ての日本人に向けた遺言的集大成。毎年夏に長岡空襲を追悼する花火は、時間も空間も現実と虚構の壁も軽々と超え、壮大なシネマティック・ワンダーランドを形作る。響き渡るのは、幕末の故事から第二次世界大戦の記憶、そして東日本大震災を経て未来へと繋がる過去からの“声”だ。
「桐島、部活やめるってよ」は、吉田大八監督による先鋭的な青春群像劇。画面に登場しない“桐島”の存在は、やがて学園ヒエラルキーの全ての層を巻き込んで、日常に潜む漠然とした不穏を炙り出してゆく。それぞれの葛藤が頂点に達した、夕暮れの屋上での実に映画的なクライマックスは、青春の熱が一瞬で沸騰したかのようなカタルシスを感じさせる。
「おおかみこどもの雨と雪」は、私的“ムービー・オブ・ザ・イヤー”。日本アニメーション100年の歴史を受け継ぎ、その可能性を新たな次元へと飛躍させた歴史的金字塔だ。本作ではリアルとファンタジーが完璧にバランスし、アニメーション的デザインとリアリティの再解釈が試みられている。描かれるのはこの美しい列島の、本質的な命の循環の物語だ。面白いのは、日本では同日公開となったディズニー/ピクサーの「メリダとおそろしの森」とモチーフに幾つか共通点が見られる事。“子育て”は今年のアニメ界で隠れブームなのかも。
「ダークナイト ライジング」は、クリストファー・ノーランが描き上げた、21世紀の壮大な暗黒神話。最終作となるこの作品は、もはや破綻ギリギリに物語が詰め込まれ、圧倒的な情報量はもうお腹いっぱい。前作の「ダークナイト」から後退した部分もあるのだが、映画を完結させた上で、同時に伝説の永続性を示すことで、物語を神話的領域に昇華させたノーランの仕事はやはり賞賛されるべきだ。
「思秋期」は、自分では制御できない怒りの感情に苦しめられる、飲んだくれの男やもめと、内面に悲しい秘密を抱えた女の魂の絆を描く燻し銀の人間ドラマ。どんなに辛くても、傷ついても、誰か一人でも心のよりどころがいてくれれば、人生は美しい。パディ・コンシダイン監督は、この長編デビュー作で自らの非凡な才能を証明した。名優ピーター・ミュランと、オリビア・コールマンの名演が光る。
「アベンジャーズ」は、全てのアメコミファンが待ち望んだスーパーヒーロー大集合映画。この手の有名キャラ共演作品は過去にも例があるが、往々にしてこちら立てればあちら立たずになりがちだ。これほど沢山のヒーローが同じ話の中にいても、ちゃんとチームとして機能しているのは大したもの。「ダークナイト ライジング」がワールドシリーズなら、こちらは正に夏の夜の夢、映画界のオールスターゲームと言えるだろう。
「最強のふたり」は、もしも今年観た映画のなかで、一番人に勧めやすい作品を選ぶとしたら、文句なしのNo.1。王道の中の王道の“良い話”だ。あらゆる点で対照的な二人の主人公の繰り広げる対立と葛藤、友情の物語は、笑って泣いて、最後に感じるのは人間に対する希望。最高に爽やかな後味を持つお手本の様な秀作だ。
「アシュラ」は、70年代のカルトコミックのまさかの映画化。戦乱と飢餓の時代に、名もなく言葉も知らず、人喰いとなった少年の目を通して、人として生きるとはどういう事かを、仏教的な死生観をバックボーンに描いた大力作だ。人は他の命を奪わずには生きられないのに、なぜ人を喰ってはいけないのか。アシュラが極限の状況で本能と理性の壮絶なせめぎ合いを見せるクライマックスは、映画史に残る名シーンだ。
「アルゴ」は、1979年のイラン革命下で実際に起こった、奇想天外な脱出作戦を描くサスペンス。監督・主演のベン・アフレックは、史実とフィクションを絶妙に組み合わせ、手に汗握る娯楽映画として成立させている。だが、可能な限り政治性を排除しようとしている事が、逆に歴史のアイロニーを際立たせる。困難な状況に陥っている人を助けるのは正しい。では、その困難を招いたのは一体誰なのだろうか。
「任侠ヘルパー」は、ヤクザと老人という一見水と油の様なモチーフを、貧困ビジネスという切り口で見事にまとめ上げた、社会派エンターテイメントにして平成の正統派任侠映画だ。草彅剛演じる翼彦一は、超高齢化社会を迎えた日本の、新たな“寅さん”になり得る可能性を秘めた、ユニークなキャラクターだと思う。
「007 スカイフォール」は、シリーズ史上初のアカデミー賞監督、サム・メンデスによる「007 ビギニング」三部作の最終章。ジェームズ・ボンドのアイデンティティを巡る旅は、母離れできなかったもう一人のボンドとの対決と、母殺しによって集結する。ダニエル・クレイグが悪役を演じた、メンデスの「ロード・トゥ・パーディション」とも、対になるような構造なのが面白い。
「ホビット 思いがけない冒険」は、歴史的な「ロード・オブ・ザ・リング」三部作の前日譚となる新三部作。9年ぶりに中つ国に帰還したピーター・ジャクソン監督は、原作の不利を感じさせない見事な作品を作り上げた。本来三本まとめて評価すべき作品だろうが、何度も観たくなり、観る度に新たな面白さが発見出来るシリーズの味わいは健在。やはりこれ一本でも忘れられない。
「レ・ミゼラブル」は、誰もが知る傑作ミュージカルの完全映画化。19世紀フランスを舞台にした“惨めな人々”の魂の歌声は、時空を超えて混沌の現代日本に恐ろしくリアルに響き渡る。極めて演劇的でありながら、同時に映画でしか表現し得ない独特の演出、出演者たちの圧巻の熱演(熱唱)は、舞台以上に観客を虜にする魅力に満ちている。人々が未来へと歌い上げるラストは、一年の締めくくりに相応しい大団円だ。
「はちみつ色のユン」は、バンデシネのアーティスト、ユンの自伝的物語。韓国人孤児だった彼はベルギーに養子に出され、ヨーロッパ人として育った。現在のソウルを訪ねたユンのパートを実写ドキュメンタリーとして、彼の成長期がアニメーションとして描かれる異色作。アイデンティティを巡る葛藤は、母なる存在の愛へと帰着する。
以上が、今年の「忘れられない映画たち」となった。
観た時は凄く良かったけど、今振り返るとそれほど印象に残っておらず、外した作品もあるし、逆に時間が経つほどに、自分の中で重みを増した作品もある。
それらをひっくるめて、あくまでも現時点で、忘れられない作品である。
アメリカ映画では、9.11の心の傷を描く「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」や、ジョージ・クルーニーが冴えないおっさんを好演した「ファミリー・ツリー」、異色のアウトロームービー「ドライヴ」なども良かった。
日本ではアニメが大豊作で、上記した作品以外でも 「ももへの手紙」、「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」など個性的な秀作が生まれ、必ずしも成功していない物も含め、挑戦的な作品が多かった様に思う。
また日韓で北朝鮮をモチーフにした作品も目立ち、「ムサン日記〜白い犬」、 「外事警察 その男に騙されるな」、「かぞくのくに」といった作品が印象に残る。
さて、来年はどんな作品と出会えるだろう。
それでは皆さん、良いお年を。

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2012年12月29日 (土) | 編集 |
誇り高き人々の唄。
ヴィクトル・ユーゴーの不朽の名作を原作に、1985年にロンドンで初演されて以来、全世界で6000万人を超える観客を動員した傑作ミュージカル、「レ・ミゼラブル」の完全映画化。
十九世紀前半のフランスを舞台に、理不尽な運命に人生を狂わされ、やがて無償の愛に生きて死ぬジャン・バルジャンの生涯が描かれる。
昨年、「英国王のスピーチ」でアカデミー賞の栄冠を手にしたトム・フーパー監督の元、ジャン・バルジャンにヒュー・ジャックマン、宿敵ジャベール警部にラッセル・クロウ、薄幸のファンティーヌにアン・ハサウェイ、そして彼女の愛娘コゼットにアマンダ・セイフライドと、ハリウッドを代表するオールスターキャストが揃った。
素晴らしい音楽とスペクタクルな映像、正しく一年の締め括りに相応しい、至高の喜びに浸れる2時間38分だ。
一切れのパンを盗んで19年間獄に繋がれたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、仮釈放されるも元罪人の身分で職はなく、情けをかけて自分を招き入れてくれた教会で再び盗みを働いてしまう。
ところが、警官に捕まったバルジャンを見た司祭は、彼が持っていた物は自分が与えたものだと言い、更に高価な銀の蜀台をも手渡すのだった。
自らの愚かさを悔いたバルジャンは、仮釈放の決まりを破って姿を消す。
そして数年後、彼は実業家“マドレーヌ氏”として成功を収め、街の人々に慕われて市長にまでなっている。
しかし、自分を追い続けるジャベール警部(ラッセル・クロウ)が街に着任した事から、正体がばれるのではないかと怯え、工場のいざこざでファンティーヌ(アン・ハサウェイ)が不条理に職を追われた事に気づかない。
彼女の非業の死と共に、再び逃亡者となったバルジャンは、ファンティーヌの遺児コゼット(イザベル・アレン/アマンダ・セイフライド)を保護し、残りの人生を彼女のために生きる事を決意する。
だが、革命が胎動する時代の嵐は、やがてバルジャンとコゼットの運命をも巻き込んでゆく・・・
私は「レ・ミセラブル」の舞台が大好きで、斉藤由貴がコゼットをやった帝国劇場の日本版から始まって、NYのブロードウェイ版、米国ナショナルツアー版など通算5回は観た。
原作の「ああ無常」は中学生の頃に全巻を読破したが、さすがに膨大な文量を全部詰め込むのは不可能なので、元の舞台版からしてかなり取捨選択された良い意味でのダイジェストとなっている。
そして今回の映画版は、驚くほど舞台版に忠実であり、もしかしたら映画ミュージカルが苦手な人にはむしろ受け入れやすい作品かもしれない。
何しろこの世界では言語は歌であり、最初から最後まで歌いっぱなしだ。
物語の流れも、登場人物の感情も全て歌声で表現され、普通の台詞はごく短い単語やセンテンス以外はほとんど存在しない。
故に、今まで普通に喋っていた人が突然歌い出すという様な、ありがちな違和感を与える描写が無いのである。
映画のキャストの歌声は、舞台を知っていてもまったく違和感無く、聴き応え十分の素晴らしさだ。
ヒュー・ジャックマンとアン・ハサウェイは、2009年のアカデミー賞受賞式でデュエットを披露したのが記憶に新しいが、今回は二人とも圧巻の熱演(熱唱)を見せる。
何でも、本作では通常のミュージカルと異なり、セットで演技をしながら実際に生歌を収録したそうで、故に彼らの歌からは、スタジオ録音の単純な上手さよりも、その場のライブ感満点に真実の魂が感じられる。
ちなみに、アン・ハサウェイの母親ケイトは、最初の米国ナショナルツアーでファンティーヌ役だった舞台女優で、彼女は親子二代でこの役を演じた事になる。
だからだろうか、出番は少ないものの、気合入りまくりの演技は正に鬼気迫る物。
貧しさから豊かな髪を売るシーンでは実際に丸刈りにされたほどで、その後売春婦に身を落とした彼女が「夢やぶれて」を歌い上げる場面は、本作屈指の名シーンとなっている。
キャストの中では「ブルドッグの様な顔」が原作のイメージにぴったりだが、まったく歌うイメージの無かったラッセル・クロウも良かった。
歌唱力はそれほどでもないのだが、前記した様に本作でプライオリティが置かれているのは、技術的な上手さよりも精神性の表現であり、その意味でクロウのジャベールはオスカー俳優のさすがの貫禄を感じさせる。
トム・フーパー監督も、そんな俳優陣の心のこもった熱唱をじっくりとアップを中心で撮り、声だけでなく表情や身振り手振りからも、彼らの心の機微を繊細に描写する。
ミュージカルシーンの考え方は極めて舞台的でありながら、カメラの威力によって観客はまるで自分が舞台に上がり、間近に俳優たちと対面している様な感覚を味わえるのである。
当然、映像としての工夫も凝らされており、冒頭の荒れた海で波が容赦なく打ちつける中、巨大な帆船を引く囚人たちのスペクタクルな描写から、映画ならではの鮮やかな“幕”と“場”の転換、歌詞に合わせた様々な比喩表現と画的な見所は多く、決して舞台をイージーにスクリーンに移し変えただけではない。
演劇的カリカチュアと映画的リアルの狭間に、ギリギリのバランス感覚と遊び心をもって作り込まれた壮麗な美術、キャラクターたちを彩るユニークな衣装なども、舞台と違ってディテールまで楽しめるのだから贅沢だ。
空間の上下を生かしたカメラワークや、奥行きのある空間設計など、全体に画作りは非常に立体的で、もしかしたら当初は3D版の構想があったのかもしれない。
劇的な臨場感という意味では、実際に3Dでも良かったのではないかと思うし、もしも「タイタニック」の様に、後からクオリティの高い3D版が作られる事があれば、それはそれで面白そうだ。
もちろん、映像と音楽で語られる物語も、普遍性のある味わい深い物だ。
全編を貫く軸となっているのは、ジャン・バルジャンとジャベール警部の対立であり、追いつ追われつの彼らの人生に様々な人物が交錯する構造となっている。
だが、一見すると対照的な彼らにはキリストへの敬虔な帰依という共通点もあり、二人は同じ神を異なるスタンスで信仰しているのだ。
罪人として獄に繋がれ、知らなかったとは言え助けを求める者を見殺しにしてしまったジャン・バルジャンは、自らの罪深さを認め、良き人間として無垢なるコデットの庇護者となり、善なる行いをする事で信仰の証としようとする。
対するジャベールにとって、信仰とは即ち法だ。
法の執行こそが神から彼に授けられた役割であり、頑ななまでに法によって秩序を維持しようとするのは、それが神の御心へ応える事だからなのである。
例え盗んだのがパン一切れだとしても、罪人は罪人であり、支配しなければならないと考えていおり、それは超格差社会に苦しみ、子供の為にやむなく売春に走るファンテーヌや、革命によって社会を変革しようとする若者たちに対しても同じだ。
ジャベールから見れば、彼ら“Les Misérables (哀れな者ども)”は、等しく神聖なる法を尊重せず、故に忌むべき存在なのである。
もっとも、そんなカチカチの法治主義者が形成されたのは、壮絶な幼少期の記憶によるものであり、彼が本当に恐れているのは自らの内面に疼く“悪”なのかも知れない。
実際には、本編中に二回あるジャベールが縁を歩くシーンが比喩する様に、彼自身は“あちら側”に落ちない様に必死に自分を作り上げているのだ。
ところが、ジャン・バルジャンは彼の想像を超えた善人であった。
1832年6月5日の所謂“六月暴動”の日、自らの命を投げ打って、未来への希望を繋げようとする人々を目の当たりにしたジャベールは、僅かながら自らの中の正義が揺らぐのを感じるのだ。
そして彼がそれまで作り上げてきた世界は、遂にバルジャンとの直接対決でガラガラと崩れ落ちる。
何の見返りも要求せずに自分の命を助けたバルジャンを、ジャベールは逮捕する事が出来ない。
なぜならそれは、法的には正しくとも、人間として正しくない事だからだ。
強烈な自己矛盾に直面したジャベールは、もはや縁を踏み外すしかなく、それは即ち死を意味するのである。
かくして、キリスト者として正しく生きるとはどういう事かを、真実の愛によって自らの生涯をかけて体現したジャン・バルジャンの物語は、国境も、宗教の壁も、時代の距離すらも乗り越えて、全ての人々の心に深く響く。
それぞれの生を懸命に生き、役割を果たした“Les Misérables ”が集い、誇り高く歌い上げるラストは、そのまま我々の未来への賛歌でもあるのだ。
今回は、年の瀬の大団円らしくシャンパンを抜こう。
この映画の時代にはとっくに創業していたモエ・エ・シャンドンのラインナップから、アン・ハサウェイのイメージで「ロゼ・アンペリアル」をチョイス。
ピノ・ノワールに赤ワインをブレンドし、透明感のあるピンクは華やかな気分を誘う。
フルーティで、食前酒としてはもちろん、肉料理に合わせても相性は抜群だ。
大晦日のカウントダウンパーティなどにピッタリだろう。
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ヴィクトル・ユーゴーの不朽の名作を原作に、1985年にロンドンで初演されて以来、全世界で6000万人を超える観客を動員した傑作ミュージカル、「レ・ミゼラブル」の完全映画化。
十九世紀前半のフランスを舞台に、理不尽な運命に人生を狂わされ、やがて無償の愛に生きて死ぬジャン・バルジャンの生涯が描かれる。
昨年、「英国王のスピーチ」でアカデミー賞の栄冠を手にしたトム・フーパー監督の元、ジャン・バルジャンにヒュー・ジャックマン、宿敵ジャベール警部にラッセル・クロウ、薄幸のファンティーヌにアン・ハサウェイ、そして彼女の愛娘コゼットにアマンダ・セイフライドと、ハリウッドを代表するオールスターキャストが揃った。
素晴らしい音楽とスペクタクルな映像、正しく一年の締め括りに相応しい、至高の喜びに浸れる2時間38分だ。
一切れのパンを盗んで19年間獄に繋がれたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、仮釈放されるも元罪人の身分で職はなく、情けをかけて自分を招き入れてくれた教会で再び盗みを働いてしまう。
ところが、警官に捕まったバルジャンを見た司祭は、彼が持っていた物は自分が与えたものだと言い、更に高価な銀の蜀台をも手渡すのだった。
自らの愚かさを悔いたバルジャンは、仮釈放の決まりを破って姿を消す。
そして数年後、彼は実業家“マドレーヌ氏”として成功を収め、街の人々に慕われて市長にまでなっている。
しかし、自分を追い続けるジャベール警部(ラッセル・クロウ)が街に着任した事から、正体がばれるのではないかと怯え、工場のいざこざでファンティーヌ(アン・ハサウェイ)が不条理に職を追われた事に気づかない。
彼女の非業の死と共に、再び逃亡者となったバルジャンは、ファンティーヌの遺児コゼット(イザベル・アレン/アマンダ・セイフライド)を保護し、残りの人生を彼女のために生きる事を決意する。
だが、革命が胎動する時代の嵐は、やがてバルジャンとコゼットの運命をも巻き込んでゆく・・・
私は「レ・ミセラブル」の舞台が大好きで、斉藤由貴がコゼットをやった帝国劇場の日本版から始まって、NYのブロードウェイ版、米国ナショナルツアー版など通算5回は観た。
原作の「ああ無常」は中学生の頃に全巻を読破したが、さすがに膨大な文量を全部詰め込むのは不可能なので、元の舞台版からしてかなり取捨選択された良い意味でのダイジェストとなっている。
そして今回の映画版は、驚くほど舞台版に忠実であり、もしかしたら映画ミュージカルが苦手な人にはむしろ受け入れやすい作品かもしれない。
何しろこの世界では言語は歌であり、最初から最後まで歌いっぱなしだ。
物語の流れも、登場人物の感情も全て歌声で表現され、普通の台詞はごく短い単語やセンテンス以外はほとんど存在しない。
故に、今まで普通に喋っていた人が突然歌い出すという様な、ありがちな違和感を与える描写が無いのである。
映画のキャストの歌声は、舞台を知っていてもまったく違和感無く、聴き応え十分の素晴らしさだ。
ヒュー・ジャックマンとアン・ハサウェイは、2009年のアカデミー賞受賞式でデュエットを披露したのが記憶に新しいが、今回は二人とも圧巻の熱演(熱唱)を見せる。
何でも、本作では通常のミュージカルと異なり、セットで演技をしながら実際に生歌を収録したそうで、故に彼らの歌からは、スタジオ録音の単純な上手さよりも、その場のライブ感満点に真実の魂が感じられる。
ちなみに、アン・ハサウェイの母親ケイトは、最初の米国ナショナルツアーでファンティーヌ役だった舞台女優で、彼女は親子二代でこの役を演じた事になる。
だからだろうか、出番は少ないものの、気合入りまくりの演技は正に鬼気迫る物。
貧しさから豊かな髪を売るシーンでは実際に丸刈りにされたほどで、その後売春婦に身を落とした彼女が「夢やぶれて」を歌い上げる場面は、本作屈指の名シーンとなっている。
キャストの中では「ブルドッグの様な顔」が原作のイメージにぴったりだが、まったく歌うイメージの無かったラッセル・クロウも良かった。
歌唱力はそれほどでもないのだが、前記した様に本作でプライオリティが置かれているのは、技術的な上手さよりも精神性の表現であり、その意味でクロウのジャベールはオスカー俳優のさすがの貫禄を感じさせる。
トム・フーパー監督も、そんな俳優陣の心のこもった熱唱をじっくりとアップを中心で撮り、声だけでなく表情や身振り手振りからも、彼らの心の機微を繊細に描写する。
ミュージカルシーンの考え方は極めて舞台的でありながら、カメラの威力によって観客はまるで自分が舞台に上がり、間近に俳優たちと対面している様な感覚を味わえるのである。
当然、映像としての工夫も凝らされており、冒頭の荒れた海で波が容赦なく打ちつける中、巨大な帆船を引く囚人たちのスペクタクルな描写から、映画ならではの鮮やかな“幕”と“場”の転換、歌詞に合わせた様々な比喩表現と画的な見所は多く、決して舞台をイージーにスクリーンに移し変えただけではない。
演劇的カリカチュアと映画的リアルの狭間に、ギリギリのバランス感覚と遊び心をもって作り込まれた壮麗な美術、キャラクターたちを彩るユニークな衣装なども、舞台と違ってディテールまで楽しめるのだから贅沢だ。
空間の上下を生かしたカメラワークや、奥行きのある空間設計など、全体に画作りは非常に立体的で、もしかしたら当初は3D版の構想があったのかもしれない。
劇的な臨場感という意味では、実際に3Dでも良かったのではないかと思うし、もしも「タイタニック」の様に、後からクオリティの高い3D版が作られる事があれば、それはそれで面白そうだ。
もちろん、映像と音楽で語られる物語も、普遍性のある味わい深い物だ。
全編を貫く軸となっているのは、ジャン・バルジャンとジャベール警部の対立であり、追いつ追われつの彼らの人生に様々な人物が交錯する構造となっている。
だが、一見すると対照的な彼らにはキリストへの敬虔な帰依という共通点もあり、二人は同じ神を異なるスタンスで信仰しているのだ。
罪人として獄に繋がれ、知らなかったとは言え助けを求める者を見殺しにしてしまったジャン・バルジャンは、自らの罪深さを認め、良き人間として無垢なるコデットの庇護者となり、善なる行いをする事で信仰の証としようとする。
対するジャベールにとって、信仰とは即ち法だ。
法の執行こそが神から彼に授けられた役割であり、頑ななまでに法によって秩序を維持しようとするのは、それが神の御心へ応える事だからなのである。
例え盗んだのがパン一切れだとしても、罪人は罪人であり、支配しなければならないと考えていおり、それは超格差社会に苦しみ、子供の為にやむなく売春に走るファンテーヌや、革命によって社会を変革しようとする若者たちに対しても同じだ。
ジャベールから見れば、彼ら“Les Misérables (哀れな者ども)”は、等しく神聖なる法を尊重せず、故に忌むべき存在なのである。
もっとも、そんなカチカチの法治主義者が形成されたのは、壮絶な幼少期の記憶によるものであり、彼が本当に恐れているのは自らの内面に疼く“悪”なのかも知れない。
実際には、本編中に二回あるジャベールが縁を歩くシーンが比喩する様に、彼自身は“あちら側”に落ちない様に必死に自分を作り上げているのだ。
ところが、ジャン・バルジャンは彼の想像を超えた善人であった。
1832年6月5日の所謂“六月暴動”の日、自らの命を投げ打って、未来への希望を繋げようとする人々を目の当たりにしたジャベールは、僅かながら自らの中の正義が揺らぐのを感じるのだ。
そして彼がそれまで作り上げてきた世界は、遂にバルジャンとの直接対決でガラガラと崩れ落ちる。
何の見返りも要求せずに自分の命を助けたバルジャンを、ジャベールは逮捕する事が出来ない。
なぜならそれは、法的には正しくとも、人間として正しくない事だからだ。
強烈な自己矛盾に直面したジャベールは、もはや縁を踏み外すしかなく、それは即ち死を意味するのである。
かくして、キリスト者として正しく生きるとはどういう事かを、真実の愛によって自らの生涯をかけて体現したジャン・バルジャンの物語は、国境も、宗教の壁も、時代の距離すらも乗り越えて、全ての人々の心に深く響く。
それぞれの生を懸命に生き、役割を果たした“Les Misérables ”が集い、誇り高く歌い上げるラストは、そのまま我々の未来への賛歌でもあるのだ。
今回は、年の瀬の大団円らしくシャンパンを抜こう。
この映画の時代にはとっくに創業していたモエ・エ・シャンドンのラインナップから、アン・ハサウェイのイメージで「ロゼ・アンペリアル」をチョイス。
ピノ・ノワールに赤ワインをブレンドし、透明感のあるピンクは華やかな気分を誘う。
フルーティで、食前酒としてはもちろん、肉料理に合わせても相性は抜群だ。
大晦日のカウントダウンパーティなどにピッタリだろう。

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2012年12月24日 (月) | 編集 |
生き残るのは、誰だ?
日本風とも中国風ともつかぬ怪しげなレストランに集められた、嘗ての強盗団のメンバーたち。
壁には旭日旗、食卓にはナゼか女体盛されたスシ。
それぞれに思惑を秘めた犯罪者たちのパーティーは、やがて盗品のダイヤモンドの行方を巡って、次第に険悪なムードに包まれる・・・。
奇妙なシチュエーションで展開する、異色の密室クライム・スリラーを作り上げたのは、ジョージ・A・ロメロ主催のゾンビ映画コンテストで、300本以上の応募作の中から優秀賞に輝いたカーン・サクストン監督で、これが長編デビュー作となる。
「ネバー・エンディング・ストーリー」の美少年アトレイユ役で知られるノア・ハザウェイが、実に18年ぶりに俳優復帰し、鍵を握る男“フィッシュ”を演じるほか、「キャンディマン」のトニー・トッド、「スター・ウォーズ」旧三部作のマーク・ハミル、「マチェーテ」のダニー・トレホ、「ターミネーター」のマイケル・ビーン、そして我らがJJ サニー・チバら、B級魂の炸裂する超マニアックなキャスティングも見ものだ。
六年前の強盗事件で逮捕されたフィッシュ(ノア・ハザウェイ)は、仲間の名前を売らずに一人服役していた。
彼が出所した日、嘗ての仲間たちが改装中のレストランに集められる。
リーダーのデューク(トニー・トッド)、喧嘩っ早いマックス(アンディ・マッケンジー)、サディストのクロウ(マーク・ハミル)、父親になったばかりのフランシス(ジェームズ・デュバル)、そして強引に連れて来られたフィッシュ。
彼らは食卓に横たわる裸体のスシ・ガール(コートニー・パーム)に盛り付けられたスシを食しながら、久々の再会を祝うが、実は強盗事件の獲物であるダイヤモンドを、フィッシュが独り占めしたと疑っている。
頑なに否定するフィッシュをデュークたちは信じず、やがて凄惨な拷問が始まるのだが・・・
タランティーノの出世作である「レザボア・ドッグス」と微妙に印象が被るのがチョイ気になるが、マニア泣かせのキャスティングと、捻りのあるストーリーはデビュー作としては上々。
意図的にB級狙いなのも、まあこのノリなら良いと思う。
刑務所を出所するフィッシュと、改装中のレストランに集まってくる強盗団の面々。
とりあえず彼らのボス、デュークを演じるのが“キャンデイマン”ことトニー・トッドである時点でもう怪しさが充満している。
妙に日本通(?)のデュークが用意したのが、日本のヤクザたちが楽しんでいるらしい“女体盛”なのだ(笑
すっかり誤解された日本の象徴として定着してしまった女体盛、最初にハリウッドでやったのは、バブル末期に出版されたマイケル・クライトンの小説を映画化した「ライジング・サン」だっただろうか。
いかがわしいパーティが始まると、すぐにこれが単なる出所祝いではないことが明らかになる。
フィッシュ以外の4人は、彼が6年前の事件で強奪したダイヤモンドをどこかに隠していると考えており、スシパーティは次第にフィッシュに対する拷問の現場へと変わってゆくのだ。
嬉々として拷問を担当するのが、マザコンでサディストのクロウと、筋肉バカで考えるよりも手が出る性格のマックス。
二人はお互いを激しく嫌っており、競うようにフィッシュを痛めつける。
彼らの繰り出すあの手この手の拷問描写は、ほとんどゴアムービー並みにイタタな物なので、肉体的な痛みの描写が苦手な人には耐えられないかもしれない。
それにしても、ジェダイ騎士として銀河を守ったマーク・ハミルに、デップリ太った変態サディストの役をやらせ、少女の様に美しかったノア・ハザウェイをグチャグチャドロドロの血まみれにさせるのだから、カーン・サクストンの悪意は相当なものだ。
やがて、彼らの拷問は仲間内のもうひとつの裏切りを浮かび上がらせ、フィッシュvs四人という構図から、全員が全員を疑うという疑心暗鬼の関係へと変わってゆく。
このあたりは過去のフラッシュバックの使い方を含め、「レザボア・ドックス」の影響は明らかだ。
果たして誰が本当の裏切り者なのか?ダイヤはどこへ消えたのか?そして最後に生き残るのは誰なのか?
先の読めない展開に、目はスクリーンに釘付けにされる。
もっとも、ここまでならば単にタランティーノの成功をトレースしただけの、良く出来てはいるものの、ありがちな作品に過ぎない。
本作がマニア心を刺激するだけではなく、ユニークな作品として記憶に留まるのは、やはり一筋縄ではいかないストーリー故だ。
ネタばれしてしまうと面白くないので、詳細は書かないが、本作のタイトルはなぜ「フィッシュ」でも「五人のアウトロー」でもなく、「SUSHi GiRL スシガール」なのか。
事の顛末がすべて明らかになるラストで、「なあるほど!」と、思わず膝を打つことは確実である。
まあよく考えると、設定の前提条件に結構無理がある様な気もするのだが、お話の畳み方がテンポ良く、妙な爽快感すら与えてくれるので、それほど気にならない。
サニー・チバが何気に美味しいところを持っていくのも、日本人としてはちょっと嬉しくなる。
ネタ勝負で特に深みのある映画ではないが、良い意味でB級感覚を堪能できるプログラム・ピクチャとして、なかなかに楽しめる一本だ。
今回はアメリカナイズされた日本文化(?)の女体盛に合わせて、米国産の日本酒を。
カリフォルニアはバーノンで作られる、その名も「カリフォルニア 生一本」をチョイス。
米国では寶酒造や月桂冠などの日系メーカーが現地生産していて、こちらは播州のヤヱガキ酒造の米国法人、 ヤヱガキコーポレーションオブUSAのオリジナル。
飲みやすさにプライオリティを置いた酒で、やや辛口で癖がなく、料理を選ばない。
日本料理はもちろん、お肉系などとも相性はいい。
残念ながら日本ではほとんど手に入らないが、カリフォルニアに行った時などにお試しを。
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日本風とも中国風ともつかぬ怪しげなレストランに集められた、嘗ての強盗団のメンバーたち。
壁には旭日旗、食卓にはナゼか女体盛されたスシ。
それぞれに思惑を秘めた犯罪者たちのパーティーは、やがて盗品のダイヤモンドの行方を巡って、次第に険悪なムードに包まれる・・・。
奇妙なシチュエーションで展開する、異色の密室クライム・スリラーを作り上げたのは、ジョージ・A・ロメロ主催のゾンビ映画コンテストで、300本以上の応募作の中から優秀賞に輝いたカーン・サクストン監督で、これが長編デビュー作となる。
「ネバー・エンディング・ストーリー」の美少年アトレイユ役で知られるノア・ハザウェイが、実に18年ぶりに俳優復帰し、鍵を握る男“フィッシュ”を演じるほか、「キャンディマン」のトニー・トッド、「スター・ウォーズ」旧三部作のマーク・ハミル、「マチェーテ」のダニー・トレホ、「ターミネーター」のマイケル・ビーン、そして我らがJJ サニー・チバら、B級魂の炸裂する超マニアックなキャスティングも見ものだ。
六年前の強盗事件で逮捕されたフィッシュ(ノア・ハザウェイ)は、仲間の名前を売らずに一人服役していた。
彼が出所した日、嘗ての仲間たちが改装中のレストランに集められる。
リーダーのデューク(トニー・トッド)、喧嘩っ早いマックス(アンディ・マッケンジー)、サディストのクロウ(マーク・ハミル)、父親になったばかりのフランシス(ジェームズ・デュバル)、そして強引に連れて来られたフィッシュ。
彼らは食卓に横たわる裸体のスシ・ガール(コートニー・パーム)に盛り付けられたスシを食しながら、久々の再会を祝うが、実は強盗事件の獲物であるダイヤモンドを、フィッシュが独り占めしたと疑っている。
頑なに否定するフィッシュをデュークたちは信じず、やがて凄惨な拷問が始まるのだが・・・
タランティーノの出世作である「レザボア・ドッグス」と微妙に印象が被るのがチョイ気になるが、マニア泣かせのキャスティングと、捻りのあるストーリーはデビュー作としては上々。
意図的にB級狙いなのも、まあこのノリなら良いと思う。
刑務所を出所するフィッシュと、改装中のレストランに集まってくる強盗団の面々。
とりあえず彼らのボス、デュークを演じるのが“キャンデイマン”ことトニー・トッドである時点でもう怪しさが充満している。
妙に日本通(?)のデュークが用意したのが、日本のヤクザたちが楽しんでいるらしい“女体盛”なのだ(笑
すっかり誤解された日本の象徴として定着してしまった女体盛、最初にハリウッドでやったのは、バブル末期に出版されたマイケル・クライトンの小説を映画化した「ライジング・サン」だっただろうか。
いかがわしいパーティが始まると、すぐにこれが単なる出所祝いではないことが明らかになる。
フィッシュ以外の4人は、彼が6年前の事件で強奪したダイヤモンドをどこかに隠していると考えており、スシパーティは次第にフィッシュに対する拷問の現場へと変わってゆくのだ。
嬉々として拷問を担当するのが、マザコンでサディストのクロウと、筋肉バカで考えるよりも手が出る性格のマックス。
二人はお互いを激しく嫌っており、競うようにフィッシュを痛めつける。
彼らの繰り出すあの手この手の拷問描写は、ほとんどゴアムービー並みにイタタな物なので、肉体的な痛みの描写が苦手な人には耐えられないかもしれない。
それにしても、ジェダイ騎士として銀河を守ったマーク・ハミルに、デップリ太った変態サディストの役をやらせ、少女の様に美しかったノア・ハザウェイをグチャグチャドロドロの血まみれにさせるのだから、カーン・サクストンの悪意は相当なものだ。
やがて、彼らの拷問は仲間内のもうひとつの裏切りを浮かび上がらせ、フィッシュvs四人という構図から、全員が全員を疑うという疑心暗鬼の関係へと変わってゆく。
このあたりは過去のフラッシュバックの使い方を含め、「レザボア・ドックス」の影響は明らかだ。
果たして誰が本当の裏切り者なのか?ダイヤはどこへ消えたのか?そして最後に生き残るのは誰なのか?
先の読めない展開に、目はスクリーンに釘付けにされる。
もっとも、ここまでならば単にタランティーノの成功をトレースしただけの、良く出来てはいるものの、ありがちな作品に過ぎない。
本作がマニア心を刺激するだけではなく、ユニークな作品として記憶に留まるのは、やはり一筋縄ではいかないストーリー故だ。
ネタばれしてしまうと面白くないので、詳細は書かないが、本作のタイトルはなぜ「フィッシュ」でも「五人のアウトロー」でもなく、「SUSHi GiRL スシガール」なのか。
事の顛末がすべて明らかになるラストで、「なあるほど!」と、思わず膝を打つことは確実である。
まあよく考えると、設定の前提条件に結構無理がある様な気もするのだが、お話の畳み方がテンポ良く、妙な爽快感すら与えてくれるので、それほど気にならない。
サニー・チバが何気に美味しいところを持っていくのも、日本人としてはちょっと嬉しくなる。
ネタ勝負で特に深みのある映画ではないが、良い意味でB級感覚を堪能できるプログラム・ピクチャとして、なかなかに楽しめる一本だ。
今回はアメリカナイズされた日本文化(?)の女体盛に合わせて、米国産の日本酒を。
カリフォルニアはバーノンで作られる、その名も「カリフォルニア 生一本」をチョイス。
米国では寶酒造や月桂冠などの日系メーカーが現地生産していて、こちらは播州のヤヱガキ酒造の米国法人、 ヤヱガキコーポレーションオブUSAのオリジナル。
飲みやすさにプライオリティを置いた酒で、やや辛口で癖がなく、料理を選ばない。
日本料理はもちろん、お肉系などとも相性はいい。
残念ながら日本ではほとんど手に入らないが、カリフォルニアに行った時などにお試しを。

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2012年12月19日 (水) | 編集 |
創造に一番大切なものとは?
不慮の事故で愛犬を亡くしたギーグな少年が、雷の力を使って犬を蘇らせてしまった事から、小さな街に大騒動が巻き起こるファンタジー。
犬派のティム・バートン監督が、28年前に監督した同名の短編映画をセルフリメイクした作品で、CG全盛時代にあえて人形アニメーションという手法を用い、白黒の3Dで仕立てたユニークな映像は一見の価値がある。
全編に散りばめられたマニアックなディテールも楽しく、B級映画好きの琴線に触れる描写が盛り沢山。
主人公のヴィクター少年の声を「水曜日のエミリア」のチャーリー・ターハーンが演じ、「マーズ・アタック」のマーティン・ショート、「エド・ウッド」でベラ・ルゴシを演じたマーティン・ランドー、そして「シザーハンズ」以来22年ぶりにバートンと組むウィノナ・ライダーらベテラン勢が脇を固める。
映画作家ティム・バートンの原点が垣間見られる、愛すべき小品である。
※ラストに触れています。
郊外の街ニューホーランドに暮らすヴィクター・フランケンシュタイン(チャーリー・ターハーン)は、愛犬のスパーキーといつも一緒。
ところがある日、スパーキーは自動車に轢かれて死んでしまう。
失意のヴィクターだったが、新任の理科の教師・ジクルスキ先生(マーティン・ランドー)の授業で、電気によって死んだ筋肉が動くことを知り、スパーキーを雷で蘇生させる事を思いつく。
実験は成功し、ツギハギだらけながらスパーキーは復活。
だが、その秘密をクラスメイトに知られてしまった事から、子供たちが次々に自分のペットや動物の死体を蘇らせ、それはやがて大人たちを巻き込んで街をパニックに陥れるが・・・・
1984年に作られたオリジナルの「フランケンウィニー」は、当時ディズニーの若きアニメーターだったバートンが監督した上映時間30分の実写白黒短編で、「ネバー・エンディング・ストーリー」などで知られる人気子役のバレット・オリバーが主人公のヴィクター少年を演じた。
本来「ピノキオ」のリバイバルの同時上映作品となるはずだったが、ホラー色が強過ぎて試写を観た子供たちが怖がってしまい、公開中止の憂き目を見る事になり、バートンは責任を取らされてディズニーを解雇されてしまう。
だが、この作品を観た俳優のポール・ルーベンスによって、彼の主演作「ピーウィーの大冒険」の監督に抜擢され、ワーナーで長編デビューを飾る事になるのだから、バートンにとっては映画監督としての出発点となる作品だ。
そして、今やハリウッド有数のヒットメーカーとなったバートンが、人形アニメーションというアナログな手法でリメイクした本作は、実写とアニメと言う違いはあれど、驚く程オリジナルに忠実に作られている。
オープニングの劇中映画から、スパーキーの死と蘇生までが描かれる一連のシークエンスは、長編化に伴う多少の肉付けと新たな伏線が張られているものの、カット割りを含め細かな演出までほとんど同じと言って良い。
では、なぜ今バートンはこの作品をリメイクしたのか?
その答えは、大幅に膨らませられた中盤以降に明らかになる。
オリジナルでは、ヴィクターの蘇らせたスパーキーのツギハギだらけの姿に驚いた大人たちがパニックに陥り、スパーキーを殺そうとする。
ところが、逃げたスパーキーを追ってヴィクターが丘の上に立つ風車小屋に入った所、元ネタであるボリス・カーロフ版の「フランケンシュタイン」同様に火事になってしまう。
焼け落ちる小屋を大人たちがなすすべ無く見つめるなか、スパーキーが自らの身を犠牲にしてヴィクターを救い出すのだ。
ここでは子供の純粋な愛と、見た目の醜さだけで排除しようとする大人たちの不寛容がコントラストとして描かれ、後の「シザーハンズ」などに共通するバートンの異形愛の原型が見られる。
そして、上映時間が約三倍の87分となったリメイク版では、スパーキーの復活から風車小屋でのクライマックスに至るまでの、序破急の“破”の部分が相当に異なっている。
ヴィクターの実験を知ったクラスメイトの子供たちが、科学コンテストに勝つために実験の秘密を盗み出し、面白半分に墓場に眠るペットやら、死んだネズミやら、シーモンキーやらを復活させてしまうのだ。
けれども、スパーキー以外の蘇り動物はみな邪悪な怪物に変貌を遂げて、ちょうど祭りに集まっていた街の人々に襲いかかるのである。
ここからのモンスターパニックは、正にバートンのB級魂と映画的記憶の大爆発。
シーモンキーの集団のイタズラは明らかに「グレムリン」を意識しているし、日系人の少年が蘇らせてしまうカメが変異するのはもちろんあの大怪獣だ。
ちなみにスパーキーのデザインは、バートンがプロデュースとキャラクターデザインを担当したブラッド・バード監督のテレビアニメ、「ファミリー・ドッグ」のキャラクターとほぼ同じなので、デジャヴを感じる人も多いだろう。
しかし、スパーキーはちゃんと心を持って蘇生したのに、どうして他の動物たちは怪物化してしまったのか。
それは劇中、大人たちに危険人物と思われて学校を追放されるジクルスキ先生が、ヴィクターに贈る言葉が全てだ。
彼はスパーキーの実験を成功させた要因は、ヴィクターの“愛”だと言うのである。
科学そのものに善悪は無く、それを使う者の心次第でどちらの可能性も秘めている。
心からスパーキーを愛し、再会を願って行ったヴィクターの実験と、科学コンテストでの勝利という利己的な動機が行わせた他の子供たちの実験の違い。
愛ある創造は成功し、愛なき創造は失敗する。
これが、今回の物語の核心的なテーマであると同時に、ティム・バートン自身がなぜ今になってこの作品をリメイクしたかの理由と言って良いと思う。
バートンは長いキャリアを持つ職業映画監督として、創作のモチベーションを改めて見出す必要があったのではないだろうか。
正直、近年の彼の作品には、「本当にこれ撮りたくて撮ってるのかなあ」と疑問を抱かせる物もあった。
元々アニメーター出身のバートンにとっては、アニメーションこそが創作の原点。
アニメーションという言葉はラテン語で“霊魂”や“息”を意味する「ANIMA」が語源で、命なき存在に生命を与え動かす事を意味する。
スパーキーに対するヴィクター少年のピュアな想いと同様に、バートンは物言わぬ人形たちに一コマ一コマ愛情を注ぎ、スクリーンの中で躍動する新しい命を生み出す事で、「自分はなぜ映画を作るのか」という自らの内面の問いに答えたのではないか。
大傑作とか映画史に残る重要な一本という訳ではないが、良い意味でアマチュアの映画の様に純粋で、作家性が素直に感じられる佳作であり、個人的にはとても好きな作品になった。
今回は、犬のラベルが印象的なカリフォルニアのマクナブリッジ・ワイナリーから、赤ワインの「フレッド・レッド」をチョイス。
このワイナリーには、創業者の名を冠したオリジナルのマクナブ・ドッグという犬種がおり、実際にフレッドとクレイドという犬が番犬として働いてるそうだ。
お味の方はベリー系の華やかな香りとスッキリしつつも余韻も楽しめるミディアムボディ。
こってり系のクリスマスディナーなどとも相性は良いだろう。
ところで犬派のバートンは猫にはあんまり思い入れが無い様子で、猫キャラの扱いだけが猫派としてはちょっと(´・ω・)カワイソス。
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不慮の事故で愛犬を亡くしたギーグな少年が、雷の力を使って犬を蘇らせてしまった事から、小さな街に大騒動が巻き起こるファンタジー。
犬派のティム・バートン監督が、28年前に監督した同名の短編映画をセルフリメイクした作品で、CG全盛時代にあえて人形アニメーションという手法を用い、白黒の3Dで仕立てたユニークな映像は一見の価値がある。
全編に散りばめられたマニアックなディテールも楽しく、B級映画好きの琴線に触れる描写が盛り沢山。
主人公のヴィクター少年の声を「水曜日のエミリア」のチャーリー・ターハーンが演じ、「マーズ・アタック」のマーティン・ショート、「エド・ウッド」でベラ・ルゴシを演じたマーティン・ランドー、そして「シザーハンズ」以来22年ぶりにバートンと組むウィノナ・ライダーらベテラン勢が脇を固める。
映画作家ティム・バートンの原点が垣間見られる、愛すべき小品である。
※ラストに触れています。
郊外の街ニューホーランドに暮らすヴィクター・フランケンシュタイン(チャーリー・ターハーン)は、愛犬のスパーキーといつも一緒。
ところがある日、スパーキーは自動車に轢かれて死んでしまう。
失意のヴィクターだったが、新任の理科の教師・ジクルスキ先生(マーティン・ランドー)の授業で、電気によって死んだ筋肉が動くことを知り、スパーキーを雷で蘇生させる事を思いつく。
実験は成功し、ツギハギだらけながらスパーキーは復活。
だが、その秘密をクラスメイトに知られてしまった事から、子供たちが次々に自分のペットや動物の死体を蘇らせ、それはやがて大人たちを巻き込んで街をパニックに陥れるが・・・・
1984年に作られたオリジナルの「フランケンウィニー」は、当時ディズニーの若きアニメーターだったバートンが監督した上映時間30分の実写白黒短編で、「ネバー・エンディング・ストーリー」などで知られる人気子役のバレット・オリバーが主人公のヴィクター少年を演じた。
本来「ピノキオ」のリバイバルの同時上映作品となるはずだったが、ホラー色が強過ぎて試写を観た子供たちが怖がってしまい、公開中止の憂き目を見る事になり、バートンは責任を取らされてディズニーを解雇されてしまう。
だが、この作品を観た俳優のポール・ルーベンスによって、彼の主演作「ピーウィーの大冒険」の監督に抜擢され、ワーナーで長編デビューを飾る事になるのだから、バートンにとっては映画監督としての出発点となる作品だ。
そして、今やハリウッド有数のヒットメーカーとなったバートンが、人形アニメーションというアナログな手法でリメイクした本作は、実写とアニメと言う違いはあれど、驚く程オリジナルに忠実に作られている。
オープニングの劇中映画から、スパーキーの死と蘇生までが描かれる一連のシークエンスは、長編化に伴う多少の肉付けと新たな伏線が張られているものの、カット割りを含め細かな演出までほとんど同じと言って良い。
では、なぜ今バートンはこの作品をリメイクしたのか?
その答えは、大幅に膨らませられた中盤以降に明らかになる。
オリジナルでは、ヴィクターの蘇らせたスパーキーのツギハギだらけの姿に驚いた大人たちがパニックに陥り、スパーキーを殺そうとする。
ところが、逃げたスパーキーを追ってヴィクターが丘の上に立つ風車小屋に入った所、元ネタであるボリス・カーロフ版の「フランケンシュタイン」同様に火事になってしまう。
焼け落ちる小屋を大人たちがなすすべ無く見つめるなか、スパーキーが自らの身を犠牲にしてヴィクターを救い出すのだ。
ここでは子供の純粋な愛と、見た目の醜さだけで排除しようとする大人たちの不寛容がコントラストとして描かれ、後の「シザーハンズ」などに共通するバートンの異形愛の原型が見られる。
そして、上映時間が約三倍の87分となったリメイク版では、スパーキーの復活から風車小屋でのクライマックスに至るまでの、序破急の“破”の部分が相当に異なっている。
ヴィクターの実験を知ったクラスメイトの子供たちが、科学コンテストに勝つために実験の秘密を盗み出し、面白半分に墓場に眠るペットやら、死んだネズミやら、シーモンキーやらを復活させてしまうのだ。
けれども、スパーキー以外の蘇り動物はみな邪悪な怪物に変貌を遂げて、ちょうど祭りに集まっていた街の人々に襲いかかるのである。
ここからのモンスターパニックは、正にバートンのB級魂と映画的記憶の大爆発。
シーモンキーの集団のイタズラは明らかに「グレムリン」を意識しているし、日系人の少年が蘇らせてしまうカメが変異するのはもちろんあの大怪獣だ。
ちなみにスパーキーのデザインは、バートンがプロデュースとキャラクターデザインを担当したブラッド・バード監督のテレビアニメ、「ファミリー・ドッグ」のキャラクターとほぼ同じなので、デジャヴを感じる人も多いだろう。
しかし、スパーキーはちゃんと心を持って蘇生したのに、どうして他の動物たちは怪物化してしまったのか。
それは劇中、大人たちに危険人物と思われて学校を追放されるジクルスキ先生が、ヴィクターに贈る言葉が全てだ。
彼はスパーキーの実験を成功させた要因は、ヴィクターの“愛”だと言うのである。
科学そのものに善悪は無く、それを使う者の心次第でどちらの可能性も秘めている。
心からスパーキーを愛し、再会を願って行ったヴィクターの実験と、科学コンテストでの勝利という利己的な動機が行わせた他の子供たちの実験の違い。
愛ある創造は成功し、愛なき創造は失敗する。
これが、今回の物語の核心的なテーマであると同時に、ティム・バートン自身がなぜ今になってこの作品をリメイクしたかの理由と言って良いと思う。
バートンは長いキャリアを持つ職業映画監督として、創作のモチベーションを改めて見出す必要があったのではないだろうか。
正直、近年の彼の作品には、「本当にこれ撮りたくて撮ってるのかなあ」と疑問を抱かせる物もあった。
元々アニメーター出身のバートンにとっては、アニメーションこそが創作の原点。
アニメーションという言葉はラテン語で“霊魂”や“息”を意味する「ANIMA」が語源で、命なき存在に生命を与え動かす事を意味する。
スパーキーに対するヴィクター少年のピュアな想いと同様に、バートンは物言わぬ人形たちに一コマ一コマ愛情を注ぎ、スクリーンの中で躍動する新しい命を生み出す事で、「自分はなぜ映画を作るのか」という自らの内面の問いに答えたのではないか。
大傑作とか映画史に残る重要な一本という訳ではないが、良い意味でアマチュアの映画の様に純粋で、作家性が素直に感じられる佳作であり、個人的にはとても好きな作品になった。
今回は、犬のラベルが印象的なカリフォルニアのマクナブリッジ・ワイナリーから、赤ワインの「フレッド・レッド」をチョイス。
このワイナリーには、創業者の名を冠したオリジナルのマクナブ・ドッグという犬種がおり、実際にフレッドとクレイドという犬が番犬として働いてるそうだ。
お味の方はベリー系の華やかな香りとスッキリしつつも余韻も楽しめるミディアムボディ。
こってり系のクリスマスディナーなどとも相性は良いだろう。
ところで犬派のバートンは猫にはあんまり思い入れが無い様子で、猫キャラの扱いだけが猫派としてはちょっと(´・ω・)カワイソス。

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2012年12月14日 (金) | 編集 |
中つ国へ、再び。
「ホビット 思いがけない冒険」から始まる新たな三部作は、ハイファンタジー映画の最高峰、「ロード・オブ・ザ・リング(LOTR)」三部作の前日譚にあたる作品だ。
冥王サウロンとの戦いから遡る事60年(原作では約80年)、フロドに力の指輪を託したビルボ・バギンズの若き日の冒険が描かれ、彼が指輪を手に入れた顛末も明らかとなる。
J・R・R・トールキンの古典児童小説の監督には、当初ギレルモ・デル・トロが就任したが、相次ぐトラブルによるスケジュールの遅れなどから降板し、最終的には「LOTR」と同じピーター・ジャクソンがメガホンを取ることになり、デル・トロは制作コンサルタント及び脚本チームの一人としてクレジットに残る。
主人公のビルボ・バギンズをマーティン・フリーマンが演じ、ガンダルフ役のイアン・マッケラン、ガラドリエル役のケイト・ブランシェット、そして原作には登場しないフロド役のイライジャ・ウッドも嬉しいゲスト出演を果たし、懐かしい面々が中つ国の雄大な風景に再び集う。
本来1秒間24コマで表現される映画を、倍の48コマのフレームレートで撮影・上映し、情報量を大幅に高めた新技術、HFR 3Dが用意されるのも話題だ。
中つ国のホビット庄に住むビルボ・バギンズ(マーティン・フリーマン)の元へ、ある日灰色の魔法使いガンダルフ(イアン・マッケラン)とトーリン・オーケンシールド(リチャード・アーミティッジ)率いる13人のドワーフがやって来る。
彼らは、嘗て隆盛を誇りながらも、ドラゴンのスマウグに奪われたドワーフの王国エレボールを奪還する旅に出発するところで、ビルボを“忍びの者”として雇いたいと言うのだ。
突然の事に驚き、一度は申し出を断るビルボだったが、冒険への渇望はいやし難く、彼らの遠征に同行する事になる。
裂け谷のエルロンド(ヒューゴ・ウィーヴィング)の助力で、エレボールに通じる地図の謎を解いた一行は、霧ふり山脈を超える途中、ゴブリンの迷宮に囚われてしまい、隙をみて逃げ出したビルボの前に、ゴラム(アンデイ・サーキス)という奇妙な生き物が姿を現す。
一方、森の生き物たちに精通する茶色の魔法使いラダガスト(シルヴェスター・マッコイ)は、遠い昔に滅びたはずの邪悪な力が、密かに復活しつつある事をガンダルフに知らせるのだが・・・
「ホビット」は、始めから困難な運命を課せられた作品だ。
J・R・R・トールキン原作、ピーター・ジャクソン監督による「LOTR」三部作は、2001年から2003年にかけて公開され、全世界での興収30億ドル、最終作の「王の帰還」に至っては、史上初のファンタジー映画によるアカデミー賞を作品賞以下11部門制覇し、興行的にも内容的にも空前の成功を収めた作品である。
そのビギニングにあたる「ホビット」三部作は、確実に前作と比較される宿命、しかし誰がどう撮ろうとも、偉大すぎるベンチマークである「LOTR」を決して超えることは出来ない事は、作品の幹であるストーリー、原作の段階から明らかなのだ。
元々古英語の研究者だったトールキンが、中つ国を舞台に本作の原作となる「ホビットの冒険」を出版したのは1937年。
この作品が好評で、同じ世界観で内容を大幅に拡充した続編、「指輪物語(LOTR)」が世に出るのは1954年の事だ。
「ホビットの冒険」は「指輪」の前編であるのと同時に新人作家トールキンの習作であり、よく出来た児童小説ではあるものの、比べてしまえばストーリー、キャラクター、テーマなど凡ゆる点でより洗練された「指輪」に及ばない。
話のスケール一つとってみても、世界を救う光と闇の壮大かつ神話的戦いを描いた「指輪」に対して、こちらは端的に言えばドワーフの一王国をドラゴンから取り戻して再興させる話であり、大幅にスケールダウンした感は否めないのである。
主人公の葛藤にしても、世界の運命を一人で背負ったフロドに対して、ビルボの抱える問題はずっと軽い。
だが、原作のスケールが小さいといっても、映画として「LOTR」より劣っても良いという訳にはいかない。
ならば、盛り上がるファンの期待にどう答え、映画としてのクオリティを担保するのか?
この第一部を観る限り、ピーター・ジャクソンは、嘗て自らが作り上げた成功の方程式、即ち「LOTR」を本作にも当て嵌めるという手法をとった。
ホビット庄の牧歌的風景に始まり、旅の仲間の結成、裂け谷への訪問、霧ふり山脈の地下迷宮での戦いと、本作の構成は基本的に「LOTR 」の第一部「旅の仲間」を踏襲しているのだ。
しかし、当然ながらこのやり方には無理がある。
なぜなら、邦訳文庫版で全九巻の大長編である「指輪物語」に対して「ホビットの冒険」は上下二巻に過ぎない。
圧倒的な情報量の差があるにも関わらず、映画版は「LOTR」と同じく三部作で、第一部となる本作だけでも「旅の仲間」の劇場版に殆ど匹敵する170分もあるのだ!
小説の文章から「LOTR」と同じ感覚で映像に置き換えるとすると、当然ながら足りなくなってしまう。
そこで脚本チームは、前回膨大なエピソードを取捨選択したのと逆に、原作を忠実に描いた上で更に膨らませる事でボリュームのバランスをとっている。
例えば映画のオープニングを「旅の仲間」の冒頭と同じ日時に設定し、過去を振り返る形式とする事で原作には登場しないフロドを出演させて、旧作と同じ世界観を持つ事を強調し、物語に入りやすくする工夫。
原作では名前が出てくる程度のラダガストを、重要なキャラクターとして物語に組み込んだり、この時代には既に死んでいるはずのオークの王、アゾグの設定を変更し、トーリン・オーケンシールドの宿命の仇と位置付けたり、全編に渡って大小の脚色が施されている。
そうしてドラマ性を補完した結果、活劇としての見せ場も必然的に多くなり、「LOTR」にも遜色無いスペクタクルな大作として成立させているのだ。
前半のややスローテンポもトールキンの物語を知る読者にはむしろ“らしく”感じられ、後半の怒涛の展開は正にアクションのつるべ打ちでお腹いっぱい。
この10年の技術的進化を反映させたビジュアルは、全体に「LOTR」よりもコミカルな味付けが特徴で、さすがの仕上がりと言って良い。
トロルとのユーモラスな戦いや、ビルボとゴラムのなぞなぞの掛け合いなど、原作通りの部分は限りなく忠実に、岩の巨人のどつき合いから、ゴブリンの迷宮での追いかけっこ、クライマックスで崖の上の戦いなど、映画ならではのパワフルな見せ場では縦横無尽に動き回るカメラ+3Dでデジタル映像の威力を堪能できるだろう。
ビルボの成長物語としても一応のオチがつき、170分の長尺も終わってみたら意外と早かったなと思えるのだから大したものだ。
「ホビット 思いがけない冒険」からは、正直なところ11年前に「旅の仲間」と出会った時ほどの衝撃と感動は感じられない。
だがあの映画は、直前に起こった9.11がもたらした未来への不安と戦争への予感が内容と偶然にもマッチし、作り手の意図を超えて時代に呼ばれた奇跡の作品であったと思う。
ピーター・ジャクソンに同じ奇跡を再び求めるのはさすがに酷というものだろう。
少なくとも、一年後の第二部を早く観たいと思わされるほどには面白かったし、娯楽大作として十分に楽しめる作品だと思う。
本作は三段構成で言えばまだ“序”の部分、「ドラゴンクエストの原点」を満喫出来るであろう、次作「スマウグの荒らし場」を楽しみに待ちたい。
ところで、売り物のHFRはかなり好みが別れるだろう。
フレームレートは映像の印象を決定づける重要な要素で、我々の脳は長年のすり込みで秒間24コマが作り出す映像こそを“映画的”と認識しているのである。
だから一気に情報量が倍になるHFRの映像は、極めてクリアで臨場感たっぷりではあるものの、逆に明る過ぎ、見え過ぎで、「テレビの様に安っぽい」と感じてしまう人は多いのではないか。
実際、私も感覚が馴染むまでにだいぶ時間を必要とした。
これからの技術として可能性を秘めているのは確かだが、画作りの考え方から再考する必要がある様に思う。
とりあえず、今まで通りの“映画っぽい画”を求める人は一先ずは通常上映で鑑賞する方が無難かもしれない。
今回は、ファンタジーの世界に似合う酒「ミード」をチョイス。
ミードとは蜂蜜を発酵させて作る所謂蜂蜜酒の事で、「指輪物語」にも登場するほか、トールキンに大きな影響を与えた北欧神話でもお馴染み。
人間が最初に口にしたアルコールは、木のウロなどに溜まった蜂蜜が雨水などと混じり合い、自然発酵して出来た物だと考えられており、それ故にミードは世界最古の酒とも言われ、ヨーロッパでは昔から親しまれている。
使用する蜂蜜の種類によっても味が異なり、寒い季節には温めてナイトキャップにするのもオススメだ。
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「ホビット 思いがけない冒険」から始まる新たな三部作は、ハイファンタジー映画の最高峰、「ロード・オブ・ザ・リング(LOTR)」三部作の前日譚にあたる作品だ。
冥王サウロンとの戦いから遡る事60年(原作では約80年)、フロドに力の指輪を託したビルボ・バギンズの若き日の冒険が描かれ、彼が指輪を手に入れた顛末も明らかとなる。
J・R・R・トールキンの古典児童小説の監督には、当初ギレルモ・デル・トロが就任したが、相次ぐトラブルによるスケジュールの遅れなどから降板し、最終的には「LOTR」と同じピーター・ジャクソンがメガホンを取ることになり、デル・トロは制作コンサルタント及び脚本チームの一人としてクレジットに残る。
主人公のビルボ・バギンズをマーティン・フリーマンが演じ、ガンダルフ役のイアン・マッケラン、ガラドリエル役のケイト・ブランシェット、そして原作には登場しないフロド役のイライジャ・ウッドも嬉しいゲスト出演を果たし、懐かしい面々が中つ国の雄大な風景に再び集う。
本来1秒間24コマで表現される映画を、倍の48コマのフレームレートで撮影・上映し、情報量を大幅に高めた新技術、HFR 3Dが用意されるのも話題だ。
中つ国のホビット庄に住むビルボ・バギンズ(マーティン・フリーマン)の元へ、ある日灰色の魔法使いガンダルフ(イアン・マッケラン)とトーリン・オーケンシールド(リチャード・アーミティッジ)率いる13人のドワーフがやって来る。
彼らは、嘗て隆盛を誇りながらも、ドラゴンのスマウグに奪われたドワーフの王国エレボールを奪還する旅に出発するところで、ビルボを“忍びの者”として雇いたいと言うのだ。
突然の事に驚き、一度は申し出を断るビルボだったが、冒険への渇望はいやし難く、彼らの遠征に同行する事になる。
裂け谷のエルロンド(ヒューゴ・ウィーヴィング)の助力で、エレボールに通じる地図の謎を解いた一行は、霧ふり山脈を超える途中、ゴブリンの迷宮に囚われてしまい、隙をみて逃げ出したビルボの前に、ゴラム(アンデイ・サーキス)という奇妙な生き物が姿を現す。
一方、森の生き物たちに精通する茶色の魔法使いラダガスト(シルヴェスター・マッコイ)は、遠い昔に滅びたはずの邪悪な力が、密かに復活しつつある事をガンダルフに知らせるのだが・・・
「ホビット」は、始めから困難な運命を課せられた作品だ。
J・R・R・トールキン原作、ピーター・ジャクソン監督による「LOTR」三部作は、2001年から2003年にかけて公開され、全世界での興収30億ドル、最終作の「王の帰還」に至っては、史上初のファンタジー映画によるアカデミー賞を作品賞以下11部門制覇し、興行的にも内容的にも空前の成功を収めた作品である。
そのビギニングにあたる「ホビット」三部作は、確実に前作と比較される宿命、しかし誰がどう撮ろうとも、偉大すぎるベンチマークである「LOTR」を決して超えることは出来ない事は、作品の幹であるストーリー、原作の段階から明らかなのだ。
元々古英語の研究者だったトールキンが、中つ国を舞台に本作の原作となる「ホビットの冒険」を出版したのは1937年。
この作品が好評で、同じ世界観で内容を大幅に拡充した続編、「指輪物語(LOTR)」が世に出るのは1954年の事だ。
「ホビットの冒険」は「指輪」の前編であるのと同時に新人作家トールキンの習作であり、よく出来た児童小説ではあるものの、比べてしまえばストーリー、キャラクター、テーマなど凡ゆる点でより洗練された「指輪」に及ばない。
話のスケール一つとってみても、世界を救う光と闇の壮大かつ神話的戦いを描いた「指輪」に対して、こちらは端的に言えばドワーフの一王国をドラゴンから取り戻して再興させる話であり、大幅にスケールダウンした感は否めないのである。
主人公の葛藤にしても、世界の運命を一人で背負ったフロドに対して、ビルボの抱える問題はずっと軽い。
だが、原作のスケールが小さいといっても、映画として「LOTR」より劣っても良いという訳にはいかない。
ならば、盛り上がるファンの期待にどう答え、映画としてのクオリティを担保するのか?
この第一部を観る限り、ピーター・ジャクソンは、嘗て自らが作り上げた成功の方程式、即ち「LOTR」を本作にも当て嵌めるという手法をとった。
ホビット庄の牧歌的風景に始まり、旅の仲間の結成、裂け谷への訪問、霧ふり山脈の地下迷宮での戦いと、本作の構成は基本的に「LOTR 」の第一部「旅の仲間」を踏襲しているのだ。
しかし、当然ながらこのやり方には無理がある。
なぜなら、邦訳文庫版で全九巻の大長編である「指輪物語」に対して「ホビットの冒険」は上下二巻に過ぎない。
圧倒的な情報量の差があるにも関わらず、映画版は「LOTR」と同じく三部作で、第一部となる本作だけでも「旅の仲間」の劇場版に殆ど匹敵する170分もあるのだ!
小説の文章から「LOTR」と同じ感覚で映像に置き換えるとすると、当然ながら足りなくなってしまう。
そこで脚本チームは、前回膨大なエピソードを取捨選択したのと逆に、原作を忠実に描いた上で更に膨らませる事でボリュームのバランスをとっている。
例えば映画のオープニングを「旅の仲間」の冒頭と同じ日時に設定し、過去を振り返る形式とする事で原作には登場しないフロドを出演させて、旧作と同じ世界観を持つ事を強調し、物語に入りやすくする工夫。
原作では名前が出てくる程度のラダガストを、重要なキャラクターとして物語に組み込んだり、この時代には既に死んでいるはずのオークの王、アゾグの設定を変更し、トーリン・オーケンシールドの宿命の仇と位置付けたり、全編に渡って大小の脚色が施されている。
そうしてドラマ性を補完した結果、活劇としての見せ場も必然的に多くなり、「LOTR」にも遜色無いスペクタクルな大作として成立させているのだ。
前半のややスローテンポもトールキンの物語を知る読者にはむしろ“らしく”感じられ、後半の怒涛の展開は正にアクションのつるべ打ちでお腹いっぱい。
この10年の技術的進化を反映させたビジュアルは、全体に「LOTR」よりもコミカルな味付けが特徴で、さすがの仕上がりと言って良い。
トロルとのユーモラスな戦いや、ビルボとゴラムのなぞなぞの掛け合いなど、原作通りの部分は限りなく忠実に、岩の巨人のどつき合いから、ゴブリンの迷宮での追いかけっこ、クライマックスで崖の上の戦いなど、映画ならではのパワフルな見せ場では縦横無尽に動き回るカメラ+3Dでデジタル映像の威力を堪能できるだろう。
ビルボの成長物語としても一応のオチがつき、170分の長尺も終わってみたら意外と早かったなと思えるのだから大したものだ。
「ホビット 思いがけない冒険」からは、正直なところ11年前に「旅の仲間」と出会った時ほどの衝撃と感動は感じられない。
だがあの映画は、直前に起こった9.11がもたらした未来への不安と戦争への予感が内容と偶然にもマッチし、作り手の意図を超えて時代に呼ばれた奇跡の作品であったと思う。
ピーター・ジャクソンに同じ奇跡を再び求めるのはさすがに酷というものだろう。
少なくとも、一年後の第二部を早く観たいと思わされるほどには面白かったし、娯楽大作として十分に楽しめる作品だと思う。
本作は三段構成で言えばまだ“序”の部分、「ドラゴンクエストの原点」を満喫出来るであろう、次作「スマウグの荒らし場」を楽しみに待ちたい。
ところで、売り物のHFRはかなり好みが別れるだろう。
フレームレートは映像の印象を決定づける重要な要素で、我々の脳は長年のすり込みで秒間24コマが作り出す映像こそを“映画的”と認識しているのである。
だから一気に情報量が倍になるHFRの映像は、極めてクリアで臨場感たっぷりではあるものの、逆に明る過ぎ、見え過ぎで、「テレビの様に安っぽい」と感じてしまう人は多いのではないか。
実際、私も感覚が馴染むまでにだいぶ時間を必要とした。
これからの技術として可能性を秘めているのは確かだが、画作りの考え方から再考する必要がある様に思う。
とりあえず、今まで通りの“映画っぽい画”を求める人は一先ずは通常上映で鑑賞する方が無難かもしれない。
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ミードとは蜂蜜を発酵させて作る所謂蜂蜜酒の事で、「指輪物語」にも登場するほか、トールキンに大きな影響を与えた北欧神話でもお馴染み。
人間が最初に口にしたアルコールは、木のウロなどに溜まった蜂蜜が雨水などと混じり合い、自然発酵して出来た物だと考えられており、それ故にミードは世界最古の酒とも言われ、ヨーロッパでは昔から親しまれている。
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2012年12月09日 (日) | 編集 |
人生なんて、妄想無しじゃやってられない。
全世界での興収が1億5千万ドルに達した「ミッドナイト・イン・パリ」で、40年を超えるキャリア最大の成功を収めたウッディ・アレン。
ある意味“らしく”なかった事がヒット要因だったのかも知れないが、ファンタジーの香り漂うパリから、隣国のロンドンへと舞台を移した本作は、一転していつものアレン。
もっとも日本公開順は逆になったものの、この作品の本国公開は2年も前で、実際にはこちらが「ミッドナイト〜」の前作に当たる。
とある老夫婦とその娘夫婦の、暴走する恋の妄想が巻き起こす軽妙かつシニカルな恋愛喜劇だ。
※ラストに触れています。
40年連れ添ったアルフィ(アンソニー・ホプキンス)とヘレナ(ジェマ・ジョーンズ)夫妻が破局を迎える。
突如として若返り願望を抱いたアルフィは、若い女優志望の女シャーメイン(ルーシー・パンチ)に惚れ込んでプロポーズ、夫に捨てられたショックで、ヘレナはインチキ占い師のお告げにすがる様になってしまう。
突然の両親の離婚に困惑する娘のサリー(ナオミ・ワッツ)だったが、彼女も一発屋作家で甲斐性なしの夫ロイ(ジョシュ・ブローリン)との間がギクシャク。
仕事先のギャラリーのセクシーなオーナー、グレッグ(アントニオ・バンデラス)に惹かれ始めている。
一方のロイも、隣のアパートに住むディア(フリーダ・ピント)を臆面もなく口説き落とそうとするが・・・・
親世代と娘世代、二組の問題を抱えた夫婦が、それぞれパートナーとは別の相手との恋の妄想を膨らませ、新たな幸せ目指して爆進する話である。
長年連れ添った老夫婦の絆は、ある日突然自分の“死”をイメージし、恐れを抱いた夫アルフィが若返り願望にとりつかれた事から呆気なく崩壊する。
ジムで体を鍛え、若者たちとクラブに繰り出し、挙げ句の果てにはバイアグラを飲みながら女優くずれのコールガールに金を貢ぎ、再婚してしまう始末。
妻のヘレナは、そんな夫の変節にショックを受け、怪しげな占い師に入り浸り、すっかりスピリチュアルの世界の人になってしまう。
この二人のエピソードは、実際に長年のパートナーだったミア・ファローを捨てて、あろうことかファローの養女だった女性と結婚してしまった、アレン自身の大スキャンダルの明快なカリカチュアで、彼らしい自虐的ユーモアに誰もが苦笑いするしかないだろう。
一方、そんな両親の惨状を見て、困惑を深める娘夫婦の仲もまた危機に瀕している。
夫のロイは才能が枯渇した一発屋の作家で、出版社からの電話待ちを口実に日がな一日ダラダラ過ごし、まともに働こうとしない。
おまけに惚れっぽく、向かいのアパートに住むインド系の美女ディアに恋をして、口説き落とそうとするチャラ男である。
そんな夫に愛想を尽かした妻のサリーは、務めに出たギャラリーの金持ちでセクシーなオーナーに心を奪われ、結局こちらのカップルもまた離婚。
ディアの父が文壇の大物だと知ったロイが、不慮の事故で死んだ友人の原稿を自分の物と偽り、大絶賛されるあたりは、「ブロードウェイと銃弾」でジョン・キューザックが演じた劇作家を思わせるが、その行為に対するアイロニカルな結末も共通するテイストがある。
本作の邦題は「恋のロンドン狂騒曲」素直だが、原題は「 YOU WILL MEET A TALL DARK STRANGER」というインチキ占いの定番フレーズを引用した何とも人を食った物だ。
このタイトルが象徴する様に、本作の登場人物たちの人生を賭けたから騒ぎを見つめるアレンの視点は、愛情と辛辣さが入り混じり、かなり斜に構えている様に見える。
恋の暴走の末にバラバラとなる家族だが、物語の結末におけるそれぞれの境遇は微妙に異なるのである。
自分勝手な妄想の結果始まった新しい恋が、予期せぬ壁にぶち当たり、砕け散るのは皆同じ。
しかし、浮気性の若い妻が妊娠を告げると、アルフィは遺伝子検査するまで認知しないと言い、ギャラリー開業の資金を無心するサリーに対して、ヘレンは「占い師がダメと言うから」と断るのだ。
長い人生を地に足をつけて生き、人生の終幕に差し掛かった者が見る夢と、色々な意味で他人に頼り切った人生を送ってきた若者が見る夢。
前者は自らの未来に対する選択権を持っているが、後者はそうではない。
四つの恋の運命が別れるラストは、77歳の老境にあるウッディ・アレンからの、人生で妄想に生きる事が許されるのは、現実を十分に生きてからだという痛烈なアイロニーなのである。
本作は、アレンの創作人生を綴ったドキュメンタリー、「映画と恋とウッディ・アレン」と同時期公開となる。
全国どこでも・・・とはいかないが、可能な場合は本作を観てからドキュメンタリーも鑑賞する事をオススメする。
ちょうど本作のビハインド・ザ・シーンも紹介され、アレンの辿ってきた人生が、いかに創作に反映されているのかを観察する良いサンプルとなるだろう。
今回は、ウッディ・アレンが育った街の名を持つカクテル「ブルックリン」をチョイス。
ライ・ウィスキー45ml、ドライ・ベルモット15ml、マラスキーノ1dash、アメール・ピコン1dashを軽くシェイクして、カクテル・グラスに注ぐ。
原型は100年前には既に存在していたといわれる歴史あるカクテル。
味わいはやや辛く、アメール・ピコンのビターが人生同様隠し味的に効いている。
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全世界での興収が1億5千万ドルに達した「ミッドナイト・イン・パリ」で、40年を超えるキャリア最大の成功を収めたウッディ・アレン。
ある意味“らしく”なかった事がヒット要因だったのかも知れないが、ファンタジーの香り漂うパリから、隣国のロンドンへと舞台を移した本作は、一転していつものアレン。
もっとも日本公開順は逆になったものの、この作品の本国公開は2年も前で、実際にはこちらが「ミッドナイト〜」の前作に当たる。
とある老夫婦とその娘夫婦の、暴走する恋の妄想が巻き起こす軽妙かつシニカルな恋愛喜劇だ。
※ラストに触れています。
40年連れ添ったアルフィ(アンソニー・ホプキンス)とヘレナ(ジェマ・ジョーンズ)夫妻が破局を迎える。
突如として若返り願望を抱いたアルフィは、若い女優志望の女シャーメイン(ルーシー・パンチ)に惚れ込んでプロポーズ、夫に捨てられたショックで、ヘレナはインチキ占い師のお告げにすがる様になってしまう。
突然の両親の離婚に困惑する娘のサリー(ナオミ・ワッツ)だったが、彼女も一発屋作家で甲斐性なしの夫ロイ(ジョシュ・ブローリン)との間がギクシャク。
仕事先のギャラリーのセクシーなオーナー、グレッグ(アントニオ・バンデラス)に惹かれ始めている。
一方のロイも、隣のアパートに住むディア(フリーダ・ピント)を臆面もなく口説き落とそうとするが・・・・
親世代と娘世代、二組の問題を抱えた夫婦が、それぞれパートナーとは別の相手との恋の妄想を膨らませ、新たな幸せ目指して爆進する話である。
長年連れ添った老夫婦の絆は、ある日突然自分の“死”をイメージし、恐れを抱いた夫アルフィが若返り願望にとりつかれた事から呆気なく崩壊する。
ジムで体を鍛え、若者たちとクラブに繰り出し、挙げ句の果てにはバイアグラを飲みながら女優くずれのコールガールに金を貢ぎ、再婚してしまう始末。
妻のヘレナは、そんな夫の変節にショックを受け、怪しげな占い師に入り浸り、すっかりスピリチュアルの世界の人になってしまう。
この二人のエピソードは、実際に長年のパートナーだったミア・ファローを捨てて、あろうことかファローの養女だった女性と結婚してしまった、アレン自身の大スキャンダルの明快なカリカチュアで、彼らしい自虐的ユーモアに誰もが苦笑いするしかないだろう。
一方、そんな両親の惨状を見て、困惑を深める娘夫婦の仲もまた危機に瀕している。
夫のロイは才能が枯渇した一発屋の作家で、出版社からの電話待ちを口実に日がな一日ダラダラ過ごし、まともに働こうとしない。
おまけに惚れっぽく、向かいのアパートに住むインド系の美女ディアに恋をして、口説き落とそうとするチャラ男である。
そんな夫に愛想を尽かした妻のサリーは、務めに出たギャラリーの金持ちでセクシーなオーナーに心を奪われ、結局こちらのカップルもまた離婚。
ディアの父が文壇の大物だと知ったロイが、不慮の事故で死んだ友人の原稿を自分の物と偽り、大絶賛されるあたりは、「ブロードウェイと銃弾」でジョン・キューザックが演じた劇作家を思わせるが、その行為に対するアイロニカルな結末も共通するテイストがある。
本作の邦題は「恋のロンドン狂騒曲」素直だが、原題は「 YOU WILL MEET A TALL DARK STRANGER」というインチキ占いの定番フレーズを引用した何とも人を食った物だ。
このタイトルが象徴する様に、本作の登場人物たちの人生を賭けたから騒ぎを見つめるアレンの視点は、愛情と辛辣さが入り混じり、かなり斜に構えている様に見える。
恋の暴走の末にバラバラとなる家族だが、物語の結末におけるそれぞれの境遇は微妙に異なるのである。
自分勝手な妄想の結果始まった新しい恋が、予期せぬ壁にぶち当たり、砕け散るのは皆同じ。
しかし、浮気性の若い妻が妊娠を告げると、アルフィは遺伝子検査するまで認知しないと言い、ギャラリー開業の資金を無心するサリーに対して、ヘレンは「占い師がダメと言うから」と断るのだ。
長い人生を地に足をつけて生き、人生の終幕に差し掛かった者が見る夢と、色々な意味で他人に頼り切った人生を送ってきた若者が見る夢。
前者は自らの未来に対する選択権を持っているが、後者はそうではない。
四つの恋の運命が別れるラストは、77歳の老境にあるウッディ・アレンからの、人生で妄想に生きる事が許されるのは、現実を十分に生きてからだという痛烈なアイロニーなのである。
本作は、アレンの創作人生を綴ったドキュメンタリー、「映画と恋とウッディ・アレン」と同時期公開となる。
全国どこでも・・・とはいかないが、可能な場合は本作を観てからドキュメンタリーも鑑賞する事をオススメする。
ちょうど本作のビハインド・ザ・シーンも紹介され、アレンの辿ってきた人生が、いかに創作に反映されているのかを観察する良いサンプルとなるだろう。
今回は、ウッディ・アレンが育った街の名を持つカクテル「ブルックリン」をチョイス。
ライ・ウィスキー45ml、ドライ・ベルモット15ml、マラスキーノ1dash、アメール・ピコン1dashを軽くシェイクして、カクテル・グラスに注ぐ。
原型は100年前には既に存在していたといわれる歴史あるカクテル。
味わいはやや辛く、アメール・ピコンのビターが人生同様隠し味的に効いている。

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2012年12月04日 (火) | 編集 |
ジェームズ・ボンドとは何者なのか。
今年は「007」シリーズが誕生してから50周年。
ダニエル・クレイグ主演作としては三作目に当たる「スカイフォール」は、現時点でのボンド映画の集大成として作られた作品である。
シリーズ史上初のアカデミー賞監督サム・メンデスは、物語の前半をショーン・コネリー時代へのオマージュたっぷりに、後半はまるでクリストファー・ノーランの「バットマン」三部作を換骨奪胎したかの如く、ダークかつハードにボンドの内面に迫ってゆく。
これは、非情の世界に生きるスパイ、ジェームズ・ボンドの“業”を描く言わば「ボンド・アイデンティティ」だ。
物語の軸となるのは、ジュディ・ディンチ演じるM、そしてもう一人のボンドとも言うべき謎の男シルヴァを、名優ハビエル・バルデムが外連味たっぷりに演じる。
オールタイム007映画の中でも、確実にベスト3圏内には食込んでくる秀作だ。
各国のテロ組織に潜入しているNATO各国の工作員のリストが、トルコのイスタンブールで奪われる。
追跡した007(ダニエル・クレイグ)は、敵ともみ合っているうちに味方によって誤射され、川に転落して行方不明となってしまう。
MI6は007を死亡したと判断するが、数ヵ月後にロンドンのMI6本部が爆破され、ネット上では奪われたリストに載っていた工作員の身元が暴露される。
犯人はMI6のトップであるM(ジュディ・ディンチ)と何らかの関わりがあり、彼女に深い恨みを抱く姿なき存在。
最大の危機に陥ったMの前に、死んだはずの007が姿を現すが・・・・
オープニングの二つの“瞳”が本作の方向性を示唆する。
おなじみMGMのライオンの瞳、そして美しいタイトルシークエンスのラストで暗闇に吸い込まれるジェームズ・ボンドの瞳。
目は心の窓というが、今回ボンドが向かうのは、自らの内面への旅なのである。
NATOの工作員リストを巡るアヴァンタイトルの怒涛の追跡劇の末、ボンドは味方に誤射され行方不明となるが、その実敵との格闘中に自分ごと狙撃する様に命令を出したMへの不信感を募らせ、人里離れたビーチで酒と女に溺れる日々を過ごしている。
一方のイギリスでは、Mが作戦失敗の責任を追及され窮地に立たされる。
冷戦時代の遺物であるMI6の様なスパイ組織は、本当に今の時代に必要なのか、そもそもダブルオーエージェントの様な殺しのライセンスを持つ男たちに、居場所があるのだろうか。
リストを手に入れた謎の敵に、MI6本部が爆破されるに至って、遂にボンドは現場復帰を決断するが、仕事へのモチベーションは鈍った体と感覚同様に下降線。
新シリーズになって初登場するQは若きギーグとして描写され、ボンドに対して「あなたの一年分の仕事を、僕は紅茶を飲みながらパソコンであっというまにできる」と言い放つのである。
もう現場で汗水たらして走り回るスパイは、時代遅れの骨董品と言わんばかりだ。
ダニエル・クレイグに代替わりして、よく言えばフレッシュに、悪く言えば青臭くなったジェームズ・ボンド。
嘗ての様なモテ男のダンディズムやユーモアは希薄となり、よりシリアスでハードな作風となったが、それ故にオールドファンの中には「こんなのボンドじゃない」という人も多かった。
サム・メンデス監督は、物語の前半をあえてクラッシック・シリーズにオマージュを捧げ、スケール感たっぷりにボンドの冒険を描きながら、世代交代とスパイの業という本作のテーマを明らかにしてゆく。
謎の敵の影を追いながら、イスタンブール、ロンドン、そして魔都上海へと世界を股にかける展開には、過去作品を思わせるアクションシークエンスが散りばめられ、音楽の使い方までいかにもという凝り様で、オールドファンも納得の仕上がりだろう。
そして、事件の黒幕である元MI6の凄腕スパイ、シルヴァが姿を現してからの後半、物語はガラリとタッチを変え、前半に提示されたテーマの答えを紡ぎ出してゆくのである。
シルヴァは、嘗てボンド同様Mに仕え、スパイの世界の非情の掟によって切り捨てられた存在であり、要するにもう一人のボンドだ。
極めて閉鎖的な社会であるスパイ組織は、ある種の擬似家族の様なもので、天涯孤独のジェームズ・ボンドにとって、自分を見出してエージェントとして育て上げたMは言わば母である。
それはボンドの大先輩であるシルヴァにとっても同じことで、それ故に彼は自らを見捨てたMを許すことが出来ず、あらゆる手段を尽くしても復讐を願うのだ。
そう、今回の敵は世界征服など興味がないし、巨万の富を手中に収めようとする訳でもない。
共にMという母なる存在によってマザコン的に呪縛され、自らの中に疼くスパイの業に対して異なる答えを出した二人のボンドの戦いなのである。
その為に、ボンドの生誕の地であるスコットランドの、その名も“スカイフォール”が舞台となる物語の後半は、世界から隔絶された極めてパーソナルな方向へと舵を切る。
秘められたボンドの過去までが明らかとなる展開は、明らかにクリストファー・ノーランを意識した作りであり、彼の「バットマン」三部作同様に、ダークヒーローの心の闇の源が明らかになるのだ。
それと同時に、これは若きボンドが自らの原点の地でMという母性からの巣立ちを迎え、孤独なスパイとして生きる覚悟を決める物語であり、「カジノ・ロワイヤル」から続く「ジェームズ・ボンド・ザ・ビギニング」の終章と言える。
まあ、モチーフが“母殺し”という内向きなものなので、アクションは派手なものの、後半ややスケールが小さくなってしまった感は否めないが、これは話の構造上致し方あるまい。
長い歴史を持つシリーズの世界観とキャラクターを使い、世界の裏側で蠢いてきたスパイたちの物語を、シェイクスピアもかくやという、大いなる家族の悲劇として昇華したメンデスと脚本チームの仕事を賞賛すべきだろう。
若きボンドの物語としては完全にやり切った感も強いので、いっそここでまた仕切り直しても良いくらいだが、「カジノ・ロワイヤル」以降三作を経過しても、シリーズがマンネリズムに陥る危険性は全く感じられないのも事実。
ダニエル・クレイグ主演で少なくとも後二本は作られる予定の次回作で、また驚かせてくれるハズである。
もちろん、人間ドラマとして優れているだけでなく、冒頭のイスタンブールでの追撃戦から、オールドファン感涙もののアストンマーチンDB5の粋な活躍、クライマックスのスカイフォールでの地の利を活かした攻防戦までアクション映画としても見応えは十分。
レイフ・ファインズとナオミ・ハリスの演じたキャラクターの使い方も、「なるほどこう来たか!」という次に繋がるワクワクを感じさせてくれるもので、特に後者は最後まで読めなかった。
続き物であった前二作とは違って、完全に独立した作品であり、これ単体でも十分楽しめるが、できれば前二作にプラスして、シリーズ第三作の「ゴールドフィンガー」は観ておくべきだろう。
今回は、燻銀の人間ドラマに相応しく、ボンドの故郷スコットランドから300年以上の歴史を持つ、スコッチの定番「ザ・マッカラン 18年」をチョイス。
厳選されたシェリー樽で最低18年熟成されたスコッチは、マホガニーの色合いも美しく、複雑なアフターテイストを楽しめる。
マッカランは10年や12年ものも十分に美味しいが、この18年あたりからグッと深みを増す。
クレイグ版のジェームズ・ボンドも、スパイとしてはちょうどこの位大人に育った?
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今年は「007」シリーズが誕生してから50周年。
ダニエル・クレイグ主演作としては三作目に当たる「スカイフォール」は、現時点でのボンド映画の集大成として作られた作品である。
シリーズ史上初のアカデミー賞監督サム・メンデスは、物語の前半をショーン・コネリー時代へのオマージュたっぷりに、後半はまるでクリストファー・ノーランの「バットマン」三部作を換骨奪胎したかの如く、ダークかつハードにボンドの内面に迫ってゆく。
これは、非情の世界に生きるスパイ、ジェームズ・ボンドの“業”を描く言わば「ボンド・アイデンティティ」だ。
物語の軸となるのは、ジュディ・ディンチ演じるM、そしてもう一人のボンドとも言うべき謎の男シルヴァを、名優ハビエル・バルデムが外連味たっぷりに演じる。
オールタイム007映画の中でも、確実にベスト3圏内には食込んでくる秀作だ。
各国のテロ組織に潜入しているNATO各国の工作員のリストが、トルコのイスタンブールで奪われる。
追跡した007(ダニエル・クレイグ)は、敵ともみ合っているうちに味方によって誤射され、川に転落して行方不明となってしまう。
MI6は007を死亡したと判断するが、数ヵ月後にロンドンのMI6本部が爆破され、ネット上では奪われたリストに載っていた工作員の身元が暴露される。
犯人はMI6のトップであるM(ジュディ・ディンチ)と何らかの関わりがあり、彼女に深い恨みを抱く姿なき存在。
最大の危機に陥ったMの前に、死んだはずの007が姿を現すが・・・・
オープニングの二つの“瞳”が本作の方向性を示唆する。
おなじみMGMのライオンの瞳、そして美しいタイトルシークエンスのラストで暗闇に吸い込まれるジェームズ・ボンドの瞳。
目は心の窓というが、今回ボンドが向かうのは、自らの内面への旅なのである。
NATOの工作員リストを巡るアヴァンタイトルの怒涛の追跡劇の末、ボンドは味方に誤射され行方不明となるが、その実敵との格闘中に自分ごと狙撃する様に命令を出したMへの不信感を募らせ、人里離れたビーチで酒と女に溺れる日々を過ごしている。
一方のイギリスでは、Mが作戦失敗の責任を追及され窮地に立たされる。
冷戦時代の遺物であるMI6の様なスパイ組織は、本当に今の時代に必要なのか、そもそもダブルオーエージェントの様な殺しのライセンスを持つ男たちに、居場所があるのだろうか。
リストを手に入れた謎の敵に、MI6本部が爆破されるに至って、遂にボンドは現場復帰を決断するが、仕事へのモチベーションは鈍った体と感覚同様に下降線。
新シリーズになって初登場するQは若きギーグとして描写され、ボンドに対して「あなたの一年分の仕事を、僕は紅茶を飲みながらパソコンであっというまにできる」と言い放つのである。
もう現場で汗水たらして走り回るスパイは、時代遅れの骨董品と言わんばかりだ。
ダニエル・クレイグに代替わりして、よく言えばフレッシュに、悪く言えば青臭くなったジェームズ・ボンド。
嘗ての様なモテ男のダンディズムやユーモアは希薄となり、よりシリアスでハードな作風となったが、それ故にオールドファンの中には「こんなのボンドじゃない」という人も多かった。
サム・メンデス監督は、物語の前半をあえてクラッシック・シリーズにオマージュを捧げ、スケール感たっぷりにボンドの冒険を描きながら、世代交代とスパイの業という本作のテーマを明らかにしてゆく。
謎の敵の影を追いながら、イスタンブール、ロンドン、そして魔都上海へと世界を股にかける展開には、過去作品を思わせるアクションシークエンスが散りばめられ、音楽の使い方までいかにもという凝り様で、オールドファンも納得の仕上がりだろう。
そして、事件の黒幕である元MI6の凄腕スパイ、シルヴァが姿を現してからの後半、物語はガラリとタッチを変え、前半に提示されたテーマの答えを紡ぎ出してゆくのである。
シルヴァは、嘗てボンド同様Mに仕え、スパイの世界の非情の掟によって切り捨てられた存在であり、要するにもう一人のボンドだ。
極めて閉鎖的な社会であるスパイ組織は、ある種の擬似家族の様なもので、天涯孤独のジェームズ・ボンドにとって、自分を見出してエージェントとして育て上げたMは言わば母である。
それはボンドの大先輩であるシルヴァにとっても同じことで、それ故に彼は自らを見捨てたMを許すことが出来ず、あらゆる手段を尽くしても復讐を願うのだ。
そう、今回の敵は世界征服など興味がないし、巨万の富を手中に収めようとする訳でもない。
共にMという母なる存在によってマザコン的に呪縛され、自らの中に疼くスパイの業に対して異なる答えを出した二人のボンドの戦いなのである。
その為に、ボンドの生誕の地であるスコットランドの、その名も“スカイフォール”が舞台となる物語の後半は、世界から隔絶された極めてパーソナルな方向へと舵を切る。
秘められたボンドの過去までが明らかとなる展開は、明らかにクリストファー・ノーランを意識した作りであり、彼の「バットマン」三部作同様に、ダークヒーローの心の闇の源が明らかになるのだ。
それと同時に、これは若きボンドが自らの原点の地でMという母性からの巣立ちを迎え、孤独なスパイとして生きる覚悟を決める物語であり、「カジノ・ロワイヤル」から続く「ジェームズ・ボンド・ザ・ビギニング」の終章と言える。
まあ、モチーフが“母殺し”という内向きなものなので、アクションは派手なものの、後半ややスケールが小さくなってしまった感は否めないが、これは話の構造上致し方あるまい。
長い歴史を持つシリーズの世界観とキャラクターを使い、世界の裏側で蠢いてきたスパイたちの物語を、シェイクスピアもかくやという、大いなる家族の悲劇として昇華したメンデスと脚本チームの仕事を賞賛すべきだろう。
若きボンドの物語としては完全にやり切った感も強いので、いっそここでまた仕切り直しても良いくらいだが、「カジノ・ロワイヤル」以降三作を経過しても、シリーズがマンネリズムに陥る危険性は全く感じられないのも事実。
ダニエル・クレイグ主演で少なくとも後二本は作られる予定の次回作で、また驚かせてくれるハズである。
もちろん、人間ドラマとして優れているだけでなく、冒頭のイスタンブールでの追撃戦から、オールドファン感涙もののアストンマーチンDB5の粋な活躍、クライマックスのスカイフォールでの地の利を活かした攻防戦までアクション映画としても見応えは十分。
レイフ・ファインズとナオミ・ハリスの演じたキャラクターの使い方も、「なるほどこう来たか!」という次に繋がるワクワクを感じさせてくれるもので、特に後者は最後まで読めなかった。
続き物であった前二作とは違って、完全に独立した作品であり、これ単体でも十分楽しめるが、できれば前二作にプラスして、シリーズ第三作の「ゴールドフィンガー」は観ておくべきだろう。
今回は、燻銀の人間ドラマに相応しく、ボンドの故郷スコットランドから300年以上の歴史を持つ、スコッチの定番「ザ・マッカラン 18年」をチョイス。
厳選されたシェリー樽で最低18年熟成されたスコッチは、マホガニーの色合いも美しく、複雑なアフターテイストを楽しめる。
マッカランは10年や12年ものも十分に美味しいが、この18年あたりからグッと深みを増す。
クレイグ版のジェームズ・ボンドも、スパイとしてはちょうどこの位大人に育った?

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