酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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人生、ブラボー!・・・・・評価額1600円
2013年01月31日 (木) | 編集 |
ダメ男、世界一のパパになる。

若き日に精子ドナーとなった事で、ある日突然自分に533人の子供がいる事を宣告された男の、ちょい普通でない日々を描いたフレンチ・カナダ発のユーモラスなヒューマンドラマ。
身元開示の裁判を起こされた主人公が、密かに子供たちの人生を垣間見て、めぐりあいを繰り返すうちに父性に目覚める。
バカバカしいほどに突飛だけど、もしかしたらあり得るかも?と思わせるプロットの匙加減が上手く、ダメ男が葛藤を乗り越え、人生の素晴らしい瞬間を経験する物語は素直に気持ちがいい。

ダヴィッド(パトリック・ユアール)は、巨額の借金を抱え、仕事も上手くいかない42歳の中年男。
ある日訪ねて来た弁護士に、過去に行った693回の精子提供によって、533人の生物学上の子供が誕生しており、そのうち142人が実父の身元開示を求める訴訟を起こす予定だと告げられる。
間の悪い事に恋人のヴァレリー(ジュリー・ルブレトン)は妊娠中で、二人の関係も微妙な時期。
ダヴィッドは友人の弁護士(アントワーヌ・ベルトラン)に相談し、匿名性を守るための裁判の準備を進めるが、好奇心から原告団の一人のプロフィールを見てしまう。
なんと、それは彼が応援するプロサッカーチームの選手だった。
それ以来、ダヴィッドは、密かに子供たちの元を訪れて、彼らの人生を見守る様になるが・・・


ある人が言った。
「人間は子供として生まれ、そのままでは一生涯子供のまま。親となってはじめて大人になるのだ」と。
まあいい歳して親でない私としては、異議を唱えたくもなるが、本作の主人公のダヴィッドは本当に子供の様な男だ。
人は良いが騙されやすく、怪しい話に投資しては回収できずに借金を抱え、いつも取り立て人に追われている。
恋人に妊娠したと言われれば狼狽え、両親の経営する精肉店の仕事も、一番簡単な配送係ですら遅刻し放題。
情熱を燃やすのは趣味のサッカーくらいと、絵に描いたようなダメ男だ。
その屈託の無いキャラクターが誰からも好かれるのも、多分に周囲が彼の事を“オトナコドモ”として認識しているからだろう。
本作の原題「STARBUCK」はダヴィッドが精子ドナーとして使った仮名。
「白鯨」に登場する一等航海士の名として有名だが、おそらく彼がもじったのはメルヴィルではなく、テレビシリーズの「宇宙空母ギャラクティカ」の主人公の方だ(笑

20年以上前に精子ドナーとなった事で、533人もの父親だと突然告げられた事は、ダヴィッドにとっては正に青天の霹靂。
全く与り知らない所で、自分がもはや子供ではない事実を突きつけられたダヴィッドは、当然の様に面倒を忌避しようとするが、 好奇心に負けて原告団に名を連ねる子供たちのプロフィールをチラ見してしまう。
ところが、それがたまたま自分の応援するサッカーチームのスタープレイヤーだった事から、ダヴィッドの中に自分のDNAを受継ぐ533人への興味と愛着が芽生えるのである。
そして毎日の様にプロフィールを抜き出しては、探偵の様に子供たちを観察しはじめるのだ。
ある者はストリートミュージシャンとして、ある者はプールの監視員として、ある者は駆け出しの俳優として、はたまたゲイのプレイボーイとして、ダヴィッドの子供たちは、皆それぞれの青春を必死に生きている。
もちろん、これだけ多いと中には困難に直面している者もいる。
ダヴィッド自身が、良くも悪くも大人になりきれないオトナコドモである故に、若者たちの心がよくわかる。
通りすがりを装ってドラッグ中毒の娘を叱り、重度の障害を持った息子を施設に見舞ううちに、いつしかダヴィッドは彼らに寄り添い、守護天使となりたいとまで思うようになるのだ。

結果的に初めて親という立場を意識したダヴィッドも、子供たちと共に少しずつ大人になり、人間として成長してゆくのである。
しかし、アイデンティティを求める子供たちと正体を隠して接するうちに、本当の親子の様な情愛を結んでゆくダヴィッドの想いを阻むのが巨額の借金と世間体だ。
彼は、病院を逆告訴する事で、匿名を守るだけでなく、借金を一気にチャラにする賠償金を得ようとしている。
もしも、自分から名乗り出たら、当然賠償金を請求する事は出来ず、借金苦からは逃れられない。
それに、裁判のニュースがマスコミに注目された事で、533人もの父親が誰なのかという事はカナダ中の話題になってしまっており、正体を知られたら“金のために693回もマスをかいた男”として世間の笑い者になるのは間違いない。
ヴァレリーと生まれてくる子供との将来を考えると、ダヴィッドは現実と理想の狭間で身動きができなくなっていまうのだ。

しかし彼の苦悩を救うのは、やはりその人間性なのである。
そもそも、問題の原点である、ダヴィッドが693回も精子ドナーになった本当の理由。
物語の中でもやんわりと示唆されるその真相が象徴する様に、ダヴィッドの行動は基本的に善意に基づいている。
そして本作は、そんな人物を奈落の底に落とすような事はしない。
救われるべきは者は然るべき者によって救われ、彼らの人生は愛と喜びによって彩られるのである。
本作の展開を、ご都合主義と捉える事も、甘すぎる絵空事と批判する事もできるだろう。
だが、これは一人の愛すべき守護天使を通して人生と家族、そして成長と愛を描いたある種の寓話だ。
登場人物が多い(何しろ原告の子供たちだけで142人もいるから!)ので、一つ一つのエピソードはそれほど深いわけではないが、そこには幾つものエモーショナルな映画的瞬間が散りばめられ、最後には気持ちよく泣かせてくれる。
深い絆で結ばれた、世界一大きな家族の誕生。
こんなに映画らしい素敵なホラ話に、これ以上何が必要だろうか。

さて、今回は甘味な映画に相応しく、甘味な酒を。
舞台となるケベック州の名物「ネージュ・プルミエール・アップル・アイスワイン」をチョイス。
アイスワインは通常ブドウを枝のまま凍らせて作られるが、こちらは同じ様に熟したリンゴを自然に凍らせてから搾汁する。
ブドウとは明らかに異なる濃厚なリンゴの香り、甘味は非常に強いが意外とサッパリとした味わいを楽しめる。
冷やして、アペリティフにいただくのに最適な一本だ。
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ルビー・スパークス・・・・・評価額1600円
2013年01月26日 (土) | 編集 |
愛するほどに、苦しくなる。

スランプに陥った天才作家が、なぜか実体化した小説の主人公に恋をする、ファンタジックでちょっとビターなラブストーリー。
巨匠エリア・カザンの孫娘である才媛、ゾーイ・カザンが脚本を書き上げ、自らタイトルロールのルビーをキュートに演じれば、彼女の創造主たる作家のカルヴィンを、実生活でもゾーイのパートナーだというポール・ダノが、クリエイターの苦悩たっぷりに魅せる。
若い二人の愛の物語を監督したのは、「リトル・ミス・サンシャイン」ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス夫妻だ。
アントニオ・バンデラスやアネット・ベニングらのベテランが曲者ぞろいのキャラクターを好演し、がっちり脇を固める。

19歳の時にベスセラー作家となったカルヴィン(ポール・ダノ)は、その後10年の間何も書くことが出来ず、すっかり自信を喪失している。
セラピストのローゼンタール博士(エリオット・グールド)に、夢で見る女性の事を書くように勧められたカルヴィンは、ルビーと名付けた彼女を主人公にした小説を書き始める。
すると、今までのスランプが嘘の様に執筆が進む。
ところがある日、目を覚ましたカルヴィンの前に、肉体を持ったルビー(ゾーイ・カザン)が現れ、まるでずっと恋人同士だったかの様に話しかけてくる。
彼女が夢や幻で無い事を知ったカルヴィンは、理想の女性であるルビーとの生活を満喫。
しかし、次第に自分の思い通りにならなくなる彼女に、いつしか嫉妬を感じる様になり・・・


「もしも、このキャラクターが実際に恋人だったらなあ・・・」というのは創作を生業にしている人なら一度は抱いた事のある妄想だろう。
クリエイターにとって、作品は愛おしい我が子であり、作者が男性ならヒロインに、女性ならヒーローに理想の異性を投影する人は多い。
いや、例えクリエイターでなかったとしても、小説や漫画、映画のキャラクターが初恋の人というのは決して珍しく無いと思う。
本作は、そんな誰もが考えるけど、公言するのはちょっと恥ずかしい願望を、そのまま一本の作品に仕立て上げてしまった事が先ずは凄い(笑

引きこもり同然の生活を送る落ち目の青年作家の前に、ある日突然理想の彼女が現れて、愛してると言ってくれる。
最初は自分が狂ってしまったのではないかと戸惑うものの、彼女の姿が見えるのは自分だけでなく、間違いなく肉体をもって存在している事がわかると、一転して大喜び。
ルビーが出現した理由は全く描かれないが、ここは本作の本質ではないので、創作の奇跡という認識で良いのだろう。
切っ掛けは突飛ではあるものの、このまま彼女を受け入れ、愛を育んで行ければハッピーエンドのラブストーリーなのだが、何しろカルヴィンは創造主であり、ルビーは創造物というどう考えても普通ではない特殊な関係である。
ポイントは、ルビー自身は自らがカルヴィンの空想の産物だという事に、全く気付いてないという事だ。

カルヴィンが彼女を主人公にした小説に、新しい設定を書き加えれば、現実の彼女にも反映される。
例えば「ルビーはフランス語が堪能」と書けば、実際にフランス語を話し始め、「自分と片時も離れられない」と書けば、超甘えん坊体質に性格まで変わってしまうのだ。
しかも、カルヴィンは十代の頃の成功体験けから抜け出せずに、精神的な成長が止まってしまった、いわば中二病のオタク子供である。
かかりつけのセラピストから、現実はダメでも空想上の好きな女性の事なら書けるだろうと言われ、心理療法のつもりで書き始めたのがルビーの物語なのだから、もとより女性との関係は超不得手。

最初はルビーと出会えた奇跡に感謝し、彼女を尊重してもう原稿には手を付けないと誓ったものの、恋愛下手を自認しているが故に、彼女の心が離れてしまう事が心配でならない。
これは私自身や周りの人間もそうなので良くわかるが、物書きの男なんて基本お一人様の時間を愛する内向的なオタクであり、その反動か好みのタイプは自分とは真逆の明るくて社交的な女性だったりする。
で、当たり前だけどそんな彼女は友達も多く、モテる(様に見える)のである。
ちょっとした彼女の言動や生活の変化にまで心を揺さぶられ、悩める創造主は遂に禁断の原稿に手を出してしまうのだ。
お互いに独立した人格であればこそ、葛藤が生まれるのは当たり前で、それを克服する過程に愛の成長はあるはず。
しかし、一度ルビーを思いのままにコントロールする快感を知ってしまったカルヴィンは、彼女を都合の良いオモチャの様に扱い始めてしまう。
だがそれは、一人の大人の男として彼女と対等に向き合えない、自分自身の情けない姿を浮き彫りにするのである。
わがままな創造主は、成熟した人格としての自立と相手との一体感という二つの欲求を同時に求める事によって、お互いを傷つけてしまう、所謂“ヤマアラシのジレンマ”に陥ってしまうのだが、このあたりは女性脚本家ならではの同世代男性への厳しい視点を感じさせる。

そして、ジレンマが極限に達した時、遂にカルヴィンはルビーが自分の小説から生まれた創造物だという秘密を明かしてしまう。
信じようとしない彼女に、原稿を書き換える事で次々と辱めを与える無慈悲な創造主を演じるに至って、元々歪な二人の虚構の世界は木っ端微塵に砕け散る。
これを恋愛物と考えれば、究極に拗れた関係にどうオチを付けるのかと心配になるほどだが、カルヴィンが小説に記した最後の一文は、ルビーを愛した男として、物語の創造主として、また入れ子構造の映画の主人公として、成長を感じさせて秀逸だ。
凡ゆる物語は、作者の手を離れてはじめて一人歩きを始める。
ルビーを手放す事で、カルヴィンもまた10年分の時計の針を進め、前に進む決意をした事を象徴するのは、奇跡を生んだ古いタイプライターに変わって、机に置かれた真新しいMacBookだ。
恋も創作も、カルヴィンの内なる“作品”に留まっているうちは、決してホンモノにはなり得ないのである。

今回は、本作の魅惑的なヒロイン、ルビーのイメージで、「ルビー・カシス」をチョイス。
クレーム・ド・カシス30ml、ドライ・ベルモット20mlをタンブラーに注ぎ、トニックウォーターを適量加えて軽くステアして完成。
名前の通りルビー色が美しく、やや甘口でスッキリした味わいは、ルビーに心を吹き込んだゾーイ・カザンのイメージにピッタリ。
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東京家族・・・・・評価額1700円
2013年01月21日 (月) | 編集 |
移り変わる、家族の肖像。

今から60年前に公開された映画史上の金字塔、小津安二郎監督の「東京物語」をモチーフに、現代日本を代表する巨匠・山田洋次が、日本の家族を描く話題作。
事実上のリメイクといって良いほどオリジナルに忠実な作りだが、作品のベクトルが志向する先は明確に異なっている。
平成日本の縮図となる「東京家族」の面々には、橋爪功、吉行和子、西村雅彦、中島朋子、妻夫木聡、蒼井優ら実力者が揃った。

瀬戸内の島に住む平山周吉(橋爪功)と妻のとみこ(吉行和子)は、久しぶりに東京に住む子供たちを訪ねる。
舞台美術の仕事をしている次男の昌次(妻夫木聡)が品川駅に迎えに行くはずだったが、間違えて東京駅に行ってしまい、せっかちな周吉はタクシーで開業医をしている長男の幸一(西村雅彦)の家に向かう。
幸一の妻の文子(夏川結衣)が二人の歓迎準備をしていると、美容院を経営する長女の滋子(中島朋子)もやって来る。
やがて周吉ととみこが到着し、昌次も遅れてやって来て、家族は久々に同じ食卓を囲む。
だが、幸一と滋子は仕事が忙しく、昌次に両親の案内を押し付けるものの、周吉は昌次の行き当たりばったりな生き方を快く思っておらず、楽しいはずの東京観光も気まずい雰囲気になってしまう・・・


小津安二郎が「東京物語」を作ったのは、戦後8年が経過した1953年の事だ。
前年の52年にサンフランシスコ講和条約が発効した事で、日本は独立を回復。
朝鮮戦争特需で国内の産業も息を吹き返し、2年後の55年には一人当たりの実質国民総生産が戦前の水準を上回り、経済白書は結びで「もはや戦後ではない」と記した。
日本社会が大きく変貌する、高度成長期前夜の胎動の時代である。
小津はこの過渡期の東京を舞台に、家族というミニマムなコミュニティの喪失を描き、その先にある日本の伝統的な共同体意識の解体を予見して見せた。

そして、ちょうど60年後に作られた本作は、驚くほど小津のオリジナルにそっくりだ。
もちろん、東海道線の蒸気機関車は新幹線へと姿を変え、高層建築など影も形もなかった東京の風景は、一面の摩天楼に埋め尽くされている。
確実に世界は変わっているのだが、山田洋次は物語のプロットだけでなく、台詞の一部から俳優の演技、更には独特の空間の捉え方まで小津演出を踏襲しようとしている。
さすがに特徴的な超ローポジションとイマジナリーライン無視までは真似ていないが、元々これらのスタイルは狭くて建具が入り組み、畳の生活であった日本家屋の構造の中で、俳優の演技を活写する事に最大限のプライオリティを置く考えから生まれたもの。
空間が広がり椅子の生活が主流となった現代においては、真似ても意味をなさないので当然だろう。
しかし山田洋次が、今となっては不自然さすら感じさせる台詞もほぼそのままトレースし、俳優の自由な演技を押さえ込んでまで、オリジナルのコピーをさせたのは何故か?
何よりも本作を、今リメイクする理由は何か?

キーになるのは、妻夫木聡と蒼井優が演じる昌次と紀子のカップルだ。
実は、オリジナルでは昌次の姿は遺影でしか登場しない。
なぜなら彼は太平洋戦争で戦死してしまっており、原節子が演じた未亡人の紀子が、血の繋がった子供たちよりも周吉ととみこをいたわる事で、作品のテーマを浮かび上がらせているのである。
ぬぐい去れぬ戦争の影が若い二人を引き裂いていたのと逆に、平成のカップルは東日本大震災のボランティアとして出会ったという設定が象徴的だ。
本来、この作品は2011年にクランクイン予定だったが、震災の発生を受けて一次中断し、シナリオを練り直したという経緯があり、そのためにあえて物語の調和を壊してまでも、これが震災後の日本である事に言及する台詞と設定が幾つかある。

戦争からの復興の中で、伝統的家族のありかたを喪失した日本。
ならば、未曾有の大災害の先にあるのは、更なる喪失なのか?
山田洋次は、むしろそこに共同体再生への希望を見ている様に思う。
本作は、オリジナルよりも人間が優しいのである。
物語の後半を、蒼井優演じる紀子が牽引するのは変わらない。
だが、彼女以外の登場人物も、オリジナルよりもずっとマイルドに造形されている。
例えば、子供たちの中でも一番辛辣な滋子のキャラクターだ。
「東京物語」の終盤、とみこの葬儀後の昼食のシーンで、滋子が「どっちかと言えばお父さん先のが良かったわね」と口にする。
男やもめが残されれば色々と自分たちが面倒だ、という両親へ冷淡さを示す台詞だが、本作にこの一言は無い。
代わりに幾つかのシーンで、滋子が両親を思いやる描写が増えている。

メインキャラクター以外でも、このベクトルは顕著だ。
オリジナルでは、周吉ととみこが泊まった熱海の旅館で、若者がドンチャン騒ぎをしていて、なかなか眠れないというシーンがある。
翌朝、仲居さんたちが散らかしっ放しの客室を見て、若者たちを非難する台詞を言うのだが、本作においては横浜のホテルの若いスタッフが、部屋をきれいに使ってくれた周吉ととみこを称える描写に置き換わっている。
また終盤に登場する島の隣人も、オリジナルの周吉と歳の近い婦人から、溌剌とした女子中学生に変わっており、全体に若い世代が今後形作るであろう、新たな共同体への希望があちらこちらで強調されているのだ。

本作の志向する物が、喪失の先にある再生だと考えると、「東京物語」と被る部分をまるでカーボンコピーの様な作りにしているのも理解できる。
俳優たちの演技が、オリジナルを知る者には否が応でも笠智衆や原節子の記憶を呼び覚ます。
だが、現代の名優たちがいくら似せようとしても、両作の間に横たわる60年の歳月が同一視を拒絶し、観る者の中で二律背反する二つの家族の肖像が葛藤を引き起こすのだ。
思うに山田洋次は、「家族」の中に「物語」を内包する事で、太平洋戦争から東日本大震災へと繋がるループを形作り、喪失を克服する希望を、よりくっきりと浮かび上がらせる事が出来ると考えたのではないか。
その意味で、本作は単体でも楽しめるが、「東京物語」と合わせて観ると、より深みを増す構造となっている。
ラストの「小津安二郎監督に捧げる」の字幕は、旧作への意図的な誘導であろう。
単にリメイクやオマージュではなく、オリジナルを徹底的に研究した上での本歌取りであり、再創作した作品と言うべきかもしれない。

さすがの秀作だが、小さな疑問もある。
本作のテーマを象徴するのが、昌次と紀子であることは既に述べたが、実質的なオリジナルキャラクターである昌次の位置づけはやや曖昧に感じる。
彼は、舞台美術の仕事をしているが、おそらくは不安定なフリーの立場で、堅実さを美徳とする過去の日本社会では堅気とはみなされない人間だ。
そのために古い人間である周吉との仲も決して良いとは言えないのだが、二つの世代の確執は間に紀子が入っただけであっさりと氷解してしまう。
確かに紀子は素晴らしい女性かも知れないが、息子が良い相手と付き合っているからといって、それだけで長年の関係が変わるだろうか。
これが日本の縮図としての一つの家族の物語である以上、少なくとも周吉と昌次が直接向き合う描写は必要だった様に思うのだが。

本作で周吉ととみこが住んでいるのは瀬戸内の島という設定だが、「東京物語」では大林宣彦の映画でも知られる広島の尾道だった。
今回は小津安二郎にリスペクトを捧げ、尾道の地酒・吉源酒造場の「おのみち 純米吟醸」をチョイス。
やや甘口で、瀬戸内の海の幸との相性抜群。
同社には「寿齢上撰」という戦前から存在する普段飲みの酒もあり、きっと周吉たちも飲んでいたに違いない。
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LOOPER/ルーパー・・・・・評価額1600円
2013年01月18日 (金) | 編集 |
哀しみの無限ループ。

タイムトラベルが実用化された未来。
犯罪組織によって転送されてくるターゲットを始末する殺し屋・ジョーの元に、30年後の自分が送られてくる。
未来からやって来たオールド・ジョーの目的は、愛する者の死を防ぐために、この時代である人物を殺す事。
ジョーを演じるのは、「ダークナイト ライジング」など話題作に立て続けに出演し、人気・実力とも急上昇中のジョセフ・ゴードン=レヴィットで、その未来の姿であるオールド・ジョーを演じるのが、似ても似つかぬブルース・ウィリスというミスマッチが面白い。
「ターミネーター」的な奇抜なタイムパラドックスに、「ドライヴ」を思わせるアウトローの純情をミックス。
どこか80年代B級SFの香り漂うチープな映像も個人的にはツボで、なかなかに楽しめる時間SFの佳作である。

西暦2044年のカンザス。
この時代には、更に30年後の未来から、犯罪組織が証拠を残さず抹殺したいターゲットを、タイムマシンを使って送り込んでいる。
ジョー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、ターゲットの処刑と証拠隠滅を任務とする“ルーパー”と呼ばれるプロフェッショナルだ。
ところがある日、彼の元に送られて来たのは30年後の老いた自分で、一瞬躊躇した隙に逃走されてしまう。
任務に失敗すれば自分も殺される事から、ジョーは消えたオールド・ジョー(ブルース・ウィリス)を追い始める。
オールド・ジョーの目的は、愛する妻が未来の暗黒街を支配する邪悪な犯罪王、“レイン・メーカー”の手下に殺された事から、この時代に遡って彼を殺し、未来を変える事だった・・・


タイムマシンで送られて来た暗殺ターゲットは、自分自身だった・・・というアイディアは、藤子・F先生のSF短編辺りにありそうな話だが、そこからの展開は予想外。
予告編の印象から、てっきり何かの手違いで未来の自分が送られて来たのかと思っていたのだが、このルーパーという職業、“最後に自分を殺す”事が宿命付けられているのだ。
未来の自分を殺し、時間のループを閉じるとルーパーを引退、たっぷり金をもらって30年間の余命を楽しむ。
もしも未来の自分を逃がしたら、それは契約不履行となってしまい、組織によって消される事になる。
今さえ良ければ遠い未来の事なんてどうでも良いという、究極の刹那主義人生と言えるかもしれない。

ジョーもまたそう考え、悪の道にどっぷり浸かって生きているのだが、先のことはわからないもの。
ルーパー引退後の30年間で、すっかり真人間となってしまったオールド・ジョーが、未来の世界で犯罪王となる男を殺すために、自分からタイムマシンに入って現代にやってくる。
まあ、要するに「ターミネーター」なのだが、例によってタイムパラドックスは考え始めると矛盾点だらけ。
タイムトラベルの仕組みをヤング・ジョーに問われたオールド・ジョーが、「タイムトラベルに関しては複雑過ぎるんで喋りたくない!」と予防線を張ってしまうのは笑ってしまったが、全体にロジックに関しては勢いで押し流してしまっている印象だ。

映画は先ず現在、すなわち2044年のヤング・ジョーの世界を詳細に描く。
どうやらこの時代のアメリカはかなり退廃し、未来からやって来た犯罪組織が街を牛耳って、流れ者の若いアウトローたちを雇い入れ、ルーパーに仕立て上げて未来の敵を消させている様だ。
それぞれのルーパーは、指定の場所に現れるターゲットをラッパ銃と呼ばれるショットガンの様な武器で射殺し、その代わりにターゲットの体にくくりつけられた銀の延板を報酬として得る。
顔色一つ変えずに無慈悲に哀れなターゲットを抹殺し、酒とドラッグと女で散財するヤング・ジョーの毎日を描く前半は、典型的な犯罪映画のスタイルである。

ところが、オールド・ジョーが現れ、彼の目的が明らかになると、映画はガラリとムードを変えるのだ。
状況を描く前半に対して、感情を描く後半と言って良いかもしれない。
レイン・メーカーになる可能性のある子供は三人おり、オールド・ジョーは確実に未来を変えるために全員を殺そうとするはず。
彼を捕まえない限り、自分の命が危ないヤング・ジョーは、唯一所在の分かった三人目の子供の所に向かう。
そこは、まるで「フィールド・オブ・ドリームズ」に出てきた様な、広大なトウモロコシ畑に囲まれた農家。
ジョーはその家で、“サラ”という「ターミネーター」のヒロインと同じ名を持つシングルマザーと、彼女の息子・シドとの奇妙な同居生活を始め、何時しか三人は擬似家族の様になってゆく。

キーワードになるのは“母性”だ。
母親に捨てられた記憶を持つジョーは、何時しかサラに対して恋心と母なる存在への憧れという二つの感情をおぼえる事になるが、対するオールド・ジョーは、未来で自分を変えてくれた妻に対して、やはり同様の想いを抱いている。
孤独な無法者である二人のジョーは、絶対に叶わないと思っていた愛という儚い夢を、全く異なる未来に見ており、彼らのループが連続する事はもはや無い。
同時に、ヤング・ジョーは母を失った結果、悪の道へと転がり落ちた自分の過去を、幼いシドの未来にも見ているのである。
矛盾するループを閉じ、愛する者たちを破滅から救うためにはどうすれば良いか。
ここでヤング・ジョーのとる驚くべき解決策は、なるほどタイム・パラドックスSFのオチのつけ方としては斬新だが、同時に過去に作られた多くのアウトロー・ムービーの系譜においては王道であるとも言える。
複雑な世界観などは、ヤング・ジョーのモノローグなども駆使して饒舌に語る一方、登場人物の感情に関しては、極力説明性を排して映像で物語ろうとしており、それがある種の叙情性に繋がっているのも面白い。
切ない恋に落ちたアウトローは、いつだって哀愁と共に記憶の彼方に去ってゆくのである。

今回は、個性的な映画にあわせて、強めの酒を。
テキーラの銘柄サウザの「コンメモラティボ」をチョイス。
“記念”を意味する名は、サウザ社の創立90周年にあわせて出荷されたためで、ホワイトオークの樽で長期熟成され、比較的マイルドな味わいを持つ。
カクテルベースにしても良いが、ストレートでも十分楽しめるクオリティだ。
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おだやかな日常・・・・・評価額1700円
2013年01月14日 (月) | 編集 |
砕け散る、日常の風景。

東京近郊の同じマンションに住む二人の女性を主人公に、東日本大震災による原発事故後の“日常”を描く力作である。
誰もが経験したことのない放射線という見えない恐怖に対し、大切な人を守るために行動を起こす人、思考停止して流れに身を任せる人、漠然とした不安に苛まれながらも何をすべきなのかわからない人。
曖昧な情報とデマが飛び交う中、分断されてしまった日本と日本人の姿が浮かび上がる。
幼い娘を抱え孤独な闘いを開始する主人公・サエコを、プロデューサーを兼務する杉野希妃、もう一人の主人公・ユカコを山下敦弘作品で知られる篠原友希子が演じる。
監督・脚本・編集は「ふゆの獣」で注目された内田伸輝

日本を、巨大地震が襲った日。
東京近郊のマンションに住む写真家のユカコ(篠原友希子)は、混乱の中ようやく帰宅した会社員の夫・タツヤ(山本剛史)と、無事を喜び合う。
同じ頃、隣の部屋に住むサエコ(杉野希妃)は、夫のノボル(小柳友)に突然離婚を切り出され、幼い娘の清美(渡辺杏美)を抱えて途方にくれる。
政府が原発事故の影響について曖昧な言葉を繰り返す一方、ネット上には正反対の情報が溢れ、不安を募らせたサエコは、娘の通う幼稚園でその危険性を訴える。
しかし、周囲の親や園の反応は冷たく、特に電力関係に勤める夫を持つ典子(渡辺真起子)との対立は深まり、母娘は孤立してゆく。
一方、ユカコの心もまた、見えない不安によって少しずつ押しつぶされてゆくが・・・


虚構と現実の距離感が独特の作品だ。
ここに描かれているのは、大震災と原発事故という非日常が襲いかかった世界だが、それは二年前から我々のごく身近に存在するリアルな日常でもある。
登場人物たちに、私自身を含めた現実の友人・知人たちの姿が被って見えた。
頑なに政府の発表を信じ、被災地の食品を積極的に買っていた人。
関東での生活を諦め、幼い子供達と共に西日本へと移住した人。
震災後に人生を見つめ直し、離婚を決断したカップル。
家族が東電の社員で、福島の現場から何週間も帰ってこなかった人も知っている。
映画そのものはフィクションでも、スクリーンで起こっている事は現実にほかならない。
特に東日本の観客は誰でも、自分自身の記憶と照らし合わせながら、この作品を観ると思う。

映画は、緊急地震速報のけたたましいアラート音から幕をあける。
東京近郊のどこにでもある街の、どこにでもあるマンションに住む、二組の家族。
若い母親のサエコは、よりにもよって震災当日に夫のノボルから別れを切り出され、母子家庭となってしまう。
幼稚園児の娘を抱え、彼女は突如として当たり前の日常を失い、更に原発事故後の放射線の恐怖に怯える事になるのだ。
「娘を守れるのは自分だけ」という悲愴な覚悟が、サエコを行動に駆り立てるが、全ての人が今そこにある危機として原発事故をとらえているとは限らない。
自分で買い求めた放射線量計で幼稚園を測定し、子供を外で遊ばせないサエコを、他の母親たちは不安を煽るデマゴーグとして非難する。

サエコの隣人は、ある過去の出来事に、癒し難い心の傷を抱えた写真家のユカコとサラリーマンのタツヤの夫婦。
ユカコもまた、安全を強調する政府の言葉と、恐怖を流布するネットの声に、徐々に心のバランスを崩してゆく。
彼女らが直面しているのは、情報を巡る葛藤だ。
「ただちに影響はない」とオウムの様に繰り返し、曖昧な情報すら出し渋る政府・東電に、テレビで彼らの言葉を擁護し続ける御用学者たち。
対照的に虚実入り乱れるネット上の活発な議論は、人々の仮面を取り去り、結果明らかになるのはそれぞれの立ち位置と生き方のプライオリティだ。
そして、事なかれ主義から脱却出来ず、異なる意見を排除しようとする現実世界の抑圧的ムードは、この国が依然として大きなムラ社会であり、多様性に対する寛容度が決定的に低いという事実をも炙り出す。
あの日以来、この国は分断されてしまい、実はそれは今も続いているのである。

私自身の記憶を辿ると、震災後数日はまだ希望的だった。
最悪の事態を想定し、国民の健康と安全を守るために最善を尽くすのは、本来為政者の最重要義務であり、それは事故を起こした当事者である東電も同じのはずで、彼らは責任ある態度を見せるだろうと信じた。
ところが、どうやらこの国ではそうでない事が直ぐにわかってしまい、おまけに権力の中枢は嘘のつき方まで恐ろしく下手クソだったのだ。
彼らが何よりも優先しているのが自らの責任逃れである事は明白だったが、何より恐ろしかったのは、この期に至っても日本社会に過去への復元力が強く働く事を実感した事だ。
自分の身はある程度自分で守らねばと感じた私は、サエコの様に線量計を買い、今も定期的に自宅周辺で計測している。

幸いにも、今までに大きく数値が跳ね上がる事は無かったが、「うちに線量計がありますよ」と言った時の人々の反応は面白い。
「貸して欲しい」という人もいれば、「そこまでしなくても」という人もいるし、なかには無言の中にある種の嫌悪感を態度に現す人もいる。
本作で渡辺真起子が演じた典子の様に、政府発表に疑いを挟まず、あくまでも3.11以前の日常がいまだに存在すると信じたい人たちだ。
いや、正確に言えば典子もまた事実には気づいているし、恐れを感じてもいる。
だが、それを認めてしまえば、彼女がずっと信じてきた来た価値観と人生の平和が壊れてしまう。
ゆえに、典子の目にサエコは排除すべき日常の破壊者に映るのだが、実は二人とも 日常を失う恐怖と子供たちを蝕む放射線の恐怖という、震災と原発事故がもたらした別種の恐れに支配されており、どちらをより恐ろしく感じるかという違いしか無いのである。

本来、人間は一人ひとり違うもので、立場も思想も異なるのが当然であり、子供の安全を最優先したいサエコやユカコと、平穏な暮らしを維持したい典子らの立場はどちらも間違っているとは言えない。
だからこそ、命と安全に関わる最低限の価値観を共有するための情報の誠実さは、市民社会の成熟には必要不可欠なのだ。
何よりも問題なのは、自分たちの直面する現実に対する忘却と無関心である事は間違いないだろう。
本作に描かれた「おだやかでない日常」は今も続いているし、残念ながらこれからも終わることはない。
私たちの敵は「意見の異なる誰か」では無く、恐ろしく根深い、この社会の事なかれ主義なのである。

今回は、津波で大きな被害を出した宮城県石巻から、墨廼江酒造株式会社の「墨廼江 特別純米酒」をチョイス。
東北の酒らしく辛口で味のバランスに優れる純米酒で、お米の旨みがストレートに味わえる。
柔らかい喉越しと適度なコクを持ち、ゆっくりと食事をしながら冷で楽しみたい一本だ。
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はちみつ色のユン・・・・・評価額1700円
2013年01月07日 (月) | 編集 |
二つの国、二人の母さん。

紛争、貧困、あるいは親の暴力など、様々な理由で国境を渡る子供たちがいる。
これは、幼くして韓国から遠くベルギーへと養子に出され、後にバンデシネ(ベルギー・フランスのコミック)のアーティストとして知られる様になる“ユン”が、自らのアイデンティティを巡る旅を綴った魂の物語。
現代のソウルを訪れたユンの姿を実写ドキュメンタリーとして、物心ついた頃から十代までの過去がアニメーション映画として描かれる異色作である。
バンデシネのタッチを再現したような、独創的なCG表現はユニークで、アニメーション映画祭の最高峰、アヌシー国際アニメーションフェスティバルでは観客賞とユニセフ賞の二冠に輝いた。
監督・脚本はユン自身とローラン・ボアローが共同で務める。
※ラストに触れています。

1970年代初め。
韓国の路上で保護された幼いユン(アルチュール・デュボア他)は、孤児として国際養子縁組でベルギーの夫婦に引き取られる。
その家には年齢の近い4人の実子もおり、子供ならではの適応力ですぐに異国での生活に馴染んだユンは、やがて悪戯好きの問題児へと立派に成長。
しかし思春期になると、彼は次第に白人の家族とは違う“はちみつ色”の自分のアイデンティティの葛藤に苦しみ、両親との仲もギクシャクし始める。
そして現在、アーティストとなった40代のユンは、自らの出生の真実を求めてソウルへと降り立つが・・・


韓国から海を渡る養子を描いた物語と言えば、フランスで育ったウニー・ルコント監督の自叙伝的な傑作「冬の小鳥」が記憶に新しいが、これはあの映画のその後を描いたような作品だ。
朝鮮戦争後の60年代から70年代にかけて、実に20万人を超える韓国人孤児が、養子となってヨーロッパやアメリカへと渡ったという。
初期には戦争で親を失った子供たちもいたが、多くは経済的に養育できなくなったり、戦後韓国人女性とアメリカ兵との間に出来た私生児で、儒教の伝統のある韓国社会で、忌むべき存在として捨てられた子供たちだった様だ。
本作の作者にして主人公であるユンも、そんな失われた子供たちの一人。
映画は、雪深い韓国の孤児院で、子供たちが「アリラン」を歌唱するシーンから始まり、バンデシネタッチのCGアニメーションで描かれるユンの成長の物語と、現代のソウルで自分のルーツを探す彼の姿を追う実写パートが、短いスパンで交錯しながら交互に描かれてゆく。

言葉もわからぬ異郷で、ある日突然赤の他人と“家族”となる。
そんな青天の霹靂にも、子供の柔軟な頭と心は適応し、ユンはベルギー人の子供としてすくすくと成長してゆく。
離れて暮らすおばあちゃんがずっと他人行儀だったり、感情のコントロールの苦手な養母がたまに口にしてしまうキツイ一言に傷ついたりするものの、基本的に両親や兄弟たちとはごく普通の家族関係を築けている。
ユンの成長期の物語には、時折8ミリフィルムに記録された実際の映像が差し挟まれ、そこに映る幼いユンの姿は、比較的裕福な家族の中で、とても幸せそうに見える。
けれども、家族の肌は白く、“はちみつ色”は自分だけ。
ユンの心の奥底には、「他の子とは違う」という小さな違和感が、鋭い棘の様に突き刺さっており、記録フィルムからは見えない心象の世界が、アニメーションによって対比されるのである。
本作におけるアニメーションは、決してリアルに対するフィクションではなく、むしろ個人の“記憶”という見えない世界を、現実に表現するための手法と捉えるべきだろう。
このあたりは、一兵士の失われた戦争の記憶を追った「戦場でワルツを」や、異能のアニメーション作家、ライアン・ラーキンとの語らいをエキセントリックなCGで描いた「ライアン」といったドキュメンタリーアニメーションとも通じる考え方だ。

当時のベルギーでは、どうやら韓国やベトナムなどからの養子受け入れがある種のブームの様に行われていた様で、街や学校にも同じルーツの子供たちはいる。
だがユンは、他の養子たちとは意図してあまり交流せず、アジア人としてのルーツをむしろ日本に求める。
ゴジラ、アトム、サムライに憧れたユン少年が、自分を日本人だと思い込むほど日本かぶれになってゆくのは、おそらく時代背景もあるのだろう。
彼が育った70年代のヨーロッパは、アニメなど日本のサブカルチャーが大量進出しはじめた時代で、日本の情報・文化がアジア関連で一番手に入りやすかったのだと思う。
実はバンデシネのアーティストとしてのユンは、日本関係の題材を多く描いている事で知られている。
妄想の日本に遊んでいるうちに、何時しか絵を描くことに喜びを見出すユンの姿を観ると、なるほどこういう経緯があったのかと、作家の背景が解き明かされる様で実に興味深かった。

本作は社会的なモチーフを扱ってはいるが、メッセージ性が前面に出る事は無い。
数奇な運命を辿った一人の少年が、普通の人より少し複雑な葛藤を抱えながら人生と向き合い、やがてありのままの自分を受け入れるまでを描いた極めて私的な物語だ。
女性のウニー・ルコントが描いた「冬の小鳥」では、大好きだった父に捨てられた少女が断ち切りがたい父性への愛にもがくが、男性のユンがその繊細な魂を揺さぶられるのは、韓国とベルキーの二人の母なる存在である。
揺らぐアイデンティティに撞着するユンは、家族との衝突を繰り返し、遂には家を飛び出してしまう。
しかし、彼がいくら空想の中にしか存在しない韓国の母を求め、彼女の姿をスケッチブックに描いても、決して顔を描き入れる事が出来ないのだ。
そして慣れない一人暮らしで、病に倒れてしまったユンに、養母はある話をする。
彼女の最初の子は死産だったこと、そしてユンの事をその子の生まれ変わりだと信じて愛している事を。
養母は、決してかわいそうなアジア人の子供を、ファッションや同情心から養ってあげている訳ではなかった。
ユンの愛すべき母さんのいる家は、最初からそこにあったのである。

「空想の母は愛せない。ただ夢見るだけです。私には母がいます。目の前にいます。」

韓国で生まれ、ベルギーで育ったユンが、はちみつ色の自分に注がれる愛を素直に受け入れるラストは、荘厳で静かな感動に満ちている。
一方で、ユンと同じ苦しみを抱えながら、答えを出すことが出来ず、悲劇的な人生を送った多くの子供たちがおり、その一人がやはり韓国から養子に迎えられた彼の妹、ヴァレリーだというビターな現実には心が痛む。
幸せになれなかった子供たちには、何が必要だったのだろうか?

今回は、はちみつ色のゴールデンエール、ベルギーはブリュッセルの北、メッレのヒューグ醸造所の、その名も「ラ・ギロチン」をチョイス。
ユニークな名前が示唆するようにキレのある味わいで、アルコールも後からグイグイくる9度と高め。
フルーティな香りと、強めの酸味、パワフルなボディはベルギービールの真骨頂。
お肉料理との相性は抜群で、これ一本で満足させてくれる。
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