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マーサ、あるいはマーシー・メイ・・・・・評価額1600円
2013年02月28日 (木) | 編集 |
恐怖は、自分の中にいる。

カルト集団から脱走した若い女性を主人公に描く、異色の心理スリラー。
肉体的には自由になっても、心に深く刻み込まれたマインド・コントロールは彼女を簡単には逃さない。
監督は、本作で2011年度のサンダンス映画祭監督賞を受賞した若干29歳の新鋭、ショーン・ダーキン
「レッド・ライト」などで知られるエリザベス・オルセンが、過去の記憶によって現在を蝕まれる主人公を繊細に演じている。
※ラストに触れています。

孤独な環境で育ったマーサ(エリザベス・オルセン)は、ある時若者たちのグループに勧誘される。
そこでリーダーのパトリック(ジョン・ホークス)から“マーシー・メイ”という新たな名を授けられた彼女は、山奥の農場で集団生活を送ることになる。
だが、次第に暴力的になる集団に疑問を抱き、ある年の夏に脱走を決意。
唯一の家族である姉夫婦を頼ったマーサは、静かな湖畔の別荘に身を寄せる。
だが、安全なはずのそこでも、彼女の心には過去の記憶が蘇り、次第に“奴ら”が自分を取り返しに来るという妄想にとりつかれてゆく・・・


ショーン・ダーキン監督が本作の制作に乗り出したのは、実際にカルト集団で暮らしていた少女の手記を読んだ事が切っ掛けだったという。
フィクション、ノンフィクションを問わず、カルトを描いた作品は珍しくない。
しかし、ここまで徹底的に個人の内面に寄り添い、脱退後のマインド・コントロールの恐怖をフィーチャーした劇映画は観た事がない。
カルトというと宗教と思いがちだが、ここに登場するのはむしろカリスマリーダーを頂いた事で、歪に変形したヒッピー・コミューンの出来損ないの様なものだ。
アメリカでは60年代以降、非宗教ながら反社会的な傾向を持つこの種のコミューンが数多く現れ、今も人知れず存在している。
もっとも有名なのは、1969年に起こったロマン・ポランスキー監督の妻で女優のシャロン・テート殺害事件など、数多くの犯罪を犯した事で知られるチャールズ・マンソンと彼の信奉者たち、いわゆるマンソン・ファミリーだろう。
実際、本作でジョン・ホークスが演じるカルトリーダーのパトリックの人物造形には、ミュージシャンでもあり歌が上手く、女性にとても人気があったという、マンソンの影響が見て取れる。
ドラッグを用いて陶酔状態を作り出す、マインド・コントロールの手法も同じだ。

映画は、マーサが山奥の農場を脱走するシーンから始まる。
疎遠ではあったものの、唯一の血縁者である姉の元に身を寄せるが、空白の二年間に何があったのか、どんな生活をしていたのかは嘘で誤魔化す。
裕福な姉夫婦も、最初はボーイフレンドと山で暮らしていたというマーサの言葉を信じているのだが、直ぐに妹の奇妙な言動に面食らう事になるのだ。
人目のある湖に全裸で飛び込んだり、姉夫婦が夜の営みをしている最中に平然と部屋に入って来たり。
明らかに常軌を逸した行動を姉夫婦が咎めても、マーサ自身は何が問題だか理解できず、逆に彼女の言うところの「模範的行動」をとっていないと姉夫婦を非難する始末。
一体、彼女は二年もの間隔絶された世界で、何を見て、何を経験したのか。
本作の原題は「Martha Marcy May Marlene」で、マーシー・メイはパトリックから与えられた新たな名前で、最後のマーリンとは、農場に外から電話がかかってきた場合、女性のメンバーが名乗る偽名。
つまり彼女はカルト内部ではマーシー・メイ、対外的にはマーリンであり、二年の間マーサという女性は幽霊の様に消滅してしまっていたのだ。

ダーキンは、現在のマーサとカルト集団でマーシー・メイと呼ばれていた頃の過去を交互に描いてゆくのだが、暗転からの場面転換が上手い。
例えば一人で湖で泳ぐシーンからは、多くの仲間たちと川で泳ぐシーンへ、夜中に屋根に落ちる松ぼっくりの音に怯えるシーンは、集団での“仕事”として空き巣にはいるシーンで、屋根に石を投げて住人の不在を確認する描写に繋がる。
この様に現在のマーサの視点に、不意に過去が現れることで、彼女の心はまだカルトの影響下にあり、決して本当の自由を手に入れた訳ではない事がわかるのだ。
そして、マーサの現実を過去が侵食する頻度はだんだんと高まり、現在のリアルは忌わしい過去の記憶によって支配されてゆくのである。

ユニークなのは、本作における主人公の葛藤は、外的な要因によるものではなく、基本的に彼女の内面の問題だという事だ。
マーサをカルト集団が実際に取り戻しに来る様な描写は一切なく、彼女の感じている不安や恐怖は全て心に刷り込まれた二年間の体験から想起されている。
思うに、ああいう無私の集団生活というのは慣れてしまえば楽しいのだと思う。
同世代の若者たちと交歓する喜び、他人のために自主的に仕事をし、必要とされる愉悦、何よりも人生の理想に向かっているという実感は、普通に社会生活を送っていてはなかなか経験できるものではない。
だから若者たちはカルトに惹きつけられる訳だが、おそらくそこからの思考停止の度合いには個人差もあるのだろう。

マーサの場合は、集団の暴力化、特に命に対する考え方が、脱退への大きな切っ掛けとなる。
集団に馴染んだ頃、パトリックはマーサに病気の猫を銃殺させようとする。
マーサはどうしても殺すことが出来ないが、他のメンバーはむしろパトリックに認められようと積極的に引金を引くのである。
そして、ある夜盗みに入った家で、彼らは遂に一線を超えてしまう。
凄惨な殺人現場を目の当たりにして動揺を隠せないマーサに、パトリックは「死は皆が恐れるからこそ美しい」と意味不明な理屈で説得しようとするが、これによって心にフツフツと沸き起こった疑念によって、マーサは長い長い白日夢から目覚め、現実へと戻る事を決意する。

しかし、外界を蔑み、自らの理想を維持するためなら殺人をも厭わぬ集団となってしまった彼らが、簡単に秘密を知るマーサを諦めるのか。
カルトの記憶が明かされてゆくと共に、マーサの心の奥底から噴出する恐怖は徐々に観客にも感染して行くのである。
はたして、彼女が感じているのは単なる妄想に過ぎないのか、それともパトリックの放った“奴ら”は虎視眈々と奪還のチャンスを狙っているのか。
遂に妄想と現実の区別さえつかなくなったマーサを入院させるため、病院へと向かう姉夫婦の車の中で、マーサをアップで捉えたラストカットが秀逸だ。
突然車の前に飛び出し、中を覗き込んで走り去る人影は、止めてあった車に飛び乗ると、背後から急速に追い上げて来る。
それが“奴ら”かどうかは明示されないが、少なくとも不安げな表情を浮かべるマーサの中では、それは逃れる事の出来ない過去から追っ手なのである。

今回は、“棘”や“毒針”、“皮肉”といった意味を持つ「スティンガー」をチョイス。
ブランデー45mlとペパーミント・ホワイト15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
落ち着いた琥珀色が美しいが、ブランデーの深いコクとペパーミントの清涼感が合わさると、名前の通り鋭い味わいとなる。
度数は高いので深酒すると思わぬ過去の傷が毒針の様に襲いかかって来るかも?

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横道世之介・・・・・評価額1750円
2013年02月26日 (火) | 編集 |
世之介さ~ん!大好き~!

不器用だけど一生懸命で、懐かしくも瑞々しい青春の記憶。
「悪人」「パレード」などで知られる吉田修一の同名小説を元に、「南極料理人」沖田修一監督が作り上げたのは、バブルが花開こうとする1980年代中期の東京を舞台に、大学生の横道世之介と彼を取り巻く人々を描く、詩的な味わいを持つユーモラスな物語だ。
綿密に作りこまれた四半世紀前のビジュアルは、世之介世代ど真ん中の私から見ても納得の出来栄え。
高良健吾が不思議な魅力を持つタイトルロールを好演、「ごきげんよう」が口癖のお嬢様ヒロインを演じる吉高由里子が超絶にカワイくて惚れてしまいそうだ。
※核心部分に触れています。

横道世之介(高良健吾)は長崎出身の18歳。
大学入学のために上京した彼は、ずうずうしくて空気が読めないが、誰とでもすぐに友達になれる特技を持っている。
同級生の倉持一平(池松壮亮)と一緒にサンバ研究会に入部したのを皮切りに、世之介は謎めいた年上女性の片瀬千春(伊藤歩)、同性愛者の加藤雄介(綾野剛)らと次々に仲良くなり、なぜか社長令嬢の与謝野祥子(吉高由里子)をガールフレンドにして青春を謳歌する。
そして長い歳月が流れた16年後、世之介の記憶がそれぞれの胸に再び響きだし・・・


誰にでもある、人生の黄金時代。
増村保造の映画でも有名な、井原西鶴の「好色一代男」の主人公と同じ、けったいな名前を持つ横道世之介は、眩い光で人々を照らす太陽だ。
冒頭、新宿駅東口に立つ斉藤由貴のAXIAの巨大看板を見た瞬間、心はあのころにタイムスリップ。
今にして思えばダサダサの若者たちのファッションや、おにゃんこクラブのパチモンみたいなアイドル、当たり前だが誰一人として携帯電話やモバイルデバイスに目を落としていない風景すらも、全てが懐かしい。
この街に降り立った横道世之介は、お人好しで押しが強く、出会った人と直ぐに仲良くなってしまう特質を持っているものの、それ以外はごく普通の地方出身大学生だ。
安アパートに暮らし、大学の講義はそこそこ出席しながら、サークル活動やバイトにも精を出す。
もちろん頭の半分位は女の子の事で占められており、ひょんな事から出会った年上の千春に憧れつつ、超お嬢様キャラの祥子に愛され、それなりにいい感じの仲になる。
ここにあるのは、誰もが経験する若き日の風景であり、160分もの長尺にもかかわらず特別にドラマチックな事件は何もない。
いや、正確に言えば後述する様に一つだけ起こるが、それとてスクリーン中では直接的には描かれない。

本作は、80年代中期を舞台にした青春物語と、主要登場人物たちの16年後の現在を描くゼロ年代のパートが混在するという独特の構成をとっているが、二つの時代はシームレスに繋がり、切り替わりをはっきり示すような演出は無い。
そのため、一瞬目の前で展開しているのがどちらの時代なのか分からずに、観客が混乱する様に作られているが、これはもちろん狙いだろう。
物語の視点は16年後の現在に置かれており、80年代の溌剌とした青春は過去である。
過ぎ去った時間は二度と戻らないから、心の書庫の中でそれぞれの物語として記憶され、それはまるで白日夢の様に儚く、切ない。
希望に満ちて東京生活を始めた頃、世之介の最初の友達となった倉持一平は、世之介によって後に妻となる阿久津唯と引き合わされる。
彼らにとって世之介は言わば恋のキューピッドだった訳だ。
また、同性愛という秘密を抱えていた加藤雄介にとっては、天真爛漫で何の偏見も持たない世之介は、初めて出来た腹を割って付き合える同性の面白い友達だろう。
ある意味、世之介は主役とは言えないのかも知れない。
記憶という物語の中で、それぞれの青春の傍らにいて、主役である自分の人生を彩ってくれた名バイプレイヤー

そして、過去と現在を振子の様に行き来するうちに、だんだんと物語を覆ってゆく不安と死の香り。
世之介は?現在の世之介は何処にいるのだ?
これは、予告編や公式サイトでも示唆しているから書いても良いと思うが、ゼロ年代の今、彼はもういないのだ。
その事が明示されるのが、彼の愛した二人の女性、千春と祥子の現在を描くパートである。
2001年に新大久保で起きた列車事故を記憶している人は多いだろう。
線路に転落した男性を助けようとして、韓国人留学生と日本人カメラマンが線路に下りたが、間に合わずに三人とも亡くなってしまった事故。
どうやら横道世之介は、このカメラマンをモデルとしている様なのである。
もちろん、本作は完全なフィクションで、世之介と実在のカメラマンも全くの別人だ。
だけど、見ず知らずの他人のために頑張って、その結果命を落としてしまうという人生には、悲しみと同時に「なるほど世之介ならやるかもね」というどこか突き抜けた希望を感じる。

バブル時代にオヤジを転がしていた千春は、実は東北の田舎の出身。
世之介に憧れられながら、かつての自分の様な彼をどこか姉の様に見守っているキャラクターだ。
そして、ラジオDJとなった現在、自局のニュースで懐かしい人の悲しい死を知るのである。
一方、ガールフレンドの祥子は、世之介との付き合いで大きく人生を変える。
彼女が長崎の世之介の実家に遊びに行った時、70年代から80年代にかけて大きな問題になっていたベトナムからの難民船、所謂ボートピープルに偶然にも遭遇してしまうのだ。
その悲惨な境遇に衝撃を受けた彼女は、現在では難民救援のために世界を駆け回る仕事をしている。
運転手付きのセンチュリーに乗ってヒラヒラのドレスを着て、足の立つプールですら溺れてしまう様なお嬢様にとって、世之介は青春の象徴であると共に人生の転換期の大切なパートナー

80年代の過去を描く物語は、祥子が海外への短期留学を決意し、世之介がカメラマンへと進路を定める所で終わっている。
その後の彼らに何が起こったのか、どんな人生を歩んだのかは一切描かれない。
現在の祥子は、幼い女の子に初恋の人の思い出を聞かれ、ちょっとだけ考えて「普通の人」と答え、ただ過ぎ去りし日に未来へと歩む世之介と自分自身に追想の笑みをたたえるだけ。
そう、横道世之介はユニークではあるが、普通の青春を送った普通の人だ。
だからこそ、彼の存在はスクリーンを飛び出して、観客一人ひとりの記憶の物語を呼び覚ます。
まるで、私やあなたの青春にも世之介がいて、あの天真爛漫な笑顔で手を振っているかの様に。

毎度食事シーンに拘る沖田修一監督らしく、今回もやたらと食べるシーンが多く、なおかつ量も多い。
「南極料理人」の伊勢海老フライを思わせる巨大ハンバーガーとか、スイカとか皿うどんとかラブラブなクリスマスケーキとか、観てるだけでお腹いっぱい。
テレビで吉高由里子が「私も高良くんもパンパンです」と言っていたが、なるほど二人共頬っぺたが膨らんでる。
でもそれがいかにも育ち盛り伸び盛りの若者らしくてとても良い。
スクリーンで躍動する彼らを通して、自己の中にあるほろ苦い青春の痕跡をふと垣間見て、明日を生きる力をもらう。
切なくて愛しい、宝箱の様な傑作である。

今回は、80年代の大学生の話という事で、私も当時よく飲んだ昭和の安酒の代表「焼酎のポッピー割り」をチョイス。
冷やしたビールジョッキに甲種焼酎を注ぎ、これまたキンキンに冷やしたホッピーを焼酎1に対して5注ぎ入れるだけ。
元々甲種焼酎が安いのに、それが5倍も楽しめる庶民の一杯。
当時バブルの時代に乗った人は高級酒バンバン飲んでたけど、普通の大学生なんてだいたいはこの手の安酒で一晩楽しんだ物だ。
栄光の80年代に乾杯!
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王になった男・・・・・評価額1650円
2013年02月20日 (水) | 編集 |
“真の王”の資質とは。

十七世紀、実在の朝鮮王朝第十五代国王・光海君の治世を舞台に、暴君の影武者となった道化師が、ひょんなことから15日間だけ本物の“王”となる歴史ドラマ。
史実にフィクションを巧みに織り込み、骨太のテーマをもつエンターテイメント大作として上々の出来栄えだ。
冷酷な王と人情味溢れる道化の二役を演じたイ・ビョンホンが素晴らしく、間違いなく彼の代表作として記憶されるだろう。
脚本は「オールド・ボーイ」で知られるファン・ジョユン、監督は「拝啓、愛しています」のチュ・チャンミン

道化師のハソン(イ・ビョンホン)は、ある日突然捕縛され、国王・光海君の側近であるホ・ギュン(リュ・スンヨン)の前に引き出される。
彼は、暗殺の危険にさらされている王と瓜二つであるハソンを、影武者として雇うというのだ。
渋々ながら引き受けたハソンだったが、実際に暗殺未遂が起こり、王が昏睡状態に陥ってしまう。
一計を案じたホ・スギョンは、王が回復するまでの間政敵を欺くために、ハソンを王とすり替えて代役に立てる事にする。
最初は言われた通りに王を演じていたハソンだったが、硬直した国の制度に苦しめられる民のために、次第に本物の王として振る舞い、改革に乗り出してゆく・・・


権力者の偽者が主人公の話は数多い。
日本人ならすぐに思い浮かぶのが黒澤明の「影武者」だろうし、最近ではサダム・フセインの息子、ウダイの影武者を描いた「デビルズ・ダブル-ある影武者の物語-」が記憶に新しい。
また本人の意向に関わらず、偽者が何時しか本物になってゆく物語は、「チャンス」や「サボテン・ブラザーズ」、「ギャラクシー・クエスト」などハリウッド映画の王道の一つだ。
それらの中でも、本作にとくに影響を与えていそうなのは、大統領の替え玉として雇われた瓜二つの男が、思いがけず本物へと祭り上げられるアイヴァン・ライトマン監督の「デーヴ」だろう。
主人公が雇われる経緯や、政敵との関係、本物が仮面夫婦である事、周囲の人々が次第に偽者の人間性に惚れ込んでゆくプロセスなど、プロットの前半部分は半分リメイクと言って良いほど良く似ている。

もちろん、現代アメリカのライトなコメディに比べて、400年前を舞台とした宮廷劇はずっとシリアスで後半の展開も異なるが、伝統的なハリウッド映画のスタイルを換骨奪胎して蘇らせた作品と言ってもあながち間違いではないと思う。
実際本作は、ある意味ハリウッド映画よりもハリウッド的な、娯楽映画のフルコースとなっているのだ。
歴史書「朝鮮王朝実録」に記された「隠すべき事は、残すべからず」という謎めいた一文から構想された物語には、権謀術数渦巻く宮廷劇のサスペンスがあり、真実の愛を巡る切ないラブストーリーがあり、信念に生きる男同士の友情があり、そして民草の為に真の王とはどうあるべきかという重厚なリーダー論がある。
これほどの多彩な内容を、多少のダイジェスト感はあれど、131分という常識的な上映時間の中で、破綻なく描き切っているのだから大したものだ。

物語の絶対的な要にいるのが、イ・ビョンホンが圧倒的な存在感で演じる影武者のハソンである。
当初いやいやながらも金に目がくらんで影武者を引き受けたハソンが、王宮で暮らすうちに政治の矛盾に気づき、次第に本来の役割から逸脱して本物のリーダーへと変貌してゆく様が作品全体の軸となり、全ての人間関係、全ての事件の起点となるのだ。
ハソンを取り巻く人々のうち、物語上特に重要なのは二人。
一人目は王の側近にして、王命を家臣へと伝達する都承旨の職にあるホ・ギュン
そしてもう一人は、王と愛し合って結ばれながらも、何時しか冷え切った関係になってしまった王妃だ。
ホ・ギュンは、改革の志を持ちつつも、政権基盤の弱い王を守り、政敵との暗闘の日々を生きるうちに、人間的な感情を押し殺し、目的のために手段を選ばぬ政治の流儀に慣れてしまっている。
ところが王としての役割に目覚めたハソンの、何よりもこの国を良くしたい、人々を守り、幸せになってほしいという余りにも実直な正論を前に、為政者の存在意義の根源を改めて思い起こされる事になるのだ。
一方、光海君の愛が失われると共に、笑顔をも封印してしまった王妃は、偽者のハソンに嘗ての朗らかで熱い心を持っていた若き王の面影を感じる。
映画は、ハソンを中心にホ・ギュンと王妃との葛藤を物語の両輪に配し、更に毒見役の薄幸の女官サウォルの悲劇、忠義者であるゆえに王を偽物と疑う衛士のト部将とのエピソード、そして宦官のチョ内官とのユーモラスなやりとりを同心円状に配し、ハソンの人間性によって王宮という閉鎖社会が変わってゆくプロセスを綿密に描写するのである。

私が本作で一番感銘を受けたのは、クライマックスで意識を回復した光海君が、空白の15日間にハソンが行った改革の記録を読むシーンだ。
土地面積に応じて地主に課税する大同法、明国への義理を立てながらも、メンツを捨てて戦争を回避する外交など、それまで抵抗勢力によって阻まれていた政策が並ぶ。
それを可能にした力は、以前は自分の中にも燃えさかっていたはずの、国と民を思う強い情熱と信念であった事を、光海君は一瞬で読み取ったのだろう。
「王座に座った卑しい者を殺してしまえ」と命ずる光海君の目には、明らかに自分が出来なかった事を、偽者によって成し遂げられてしまった衝撃と敗北感が浮かんでいる。

ハソンに嘗ての自分自身を感じたからこそ、王は彼が生きている事を許すことが出来ないのである。
果たして物語を史実で落とすのか、フィクションで落とすのか、観客はハソンの運命の行方に固唾を呑んでスクリーンに釘付けになるが、制作者たちが用意したラストは実に映画的で鮮やかだ。

「王になった男」は、普遍的なヒューマニズムに裏打ちされ、芯の通ったテーマ性を持つ優れた娯楽映画である。
ハリウッド映画的な人情ドラマと、アジア的無常観は物語の中で無理なく結びつき、ラストには深い余韻が心に長く響く。
本作が韓国で公開された2012年9月は、正に次なるリーダーが問われる大統領選挙を目前に控えた時期で、思うにこのタイミングで本作が作られたのは、一定の政治的メッセージを国民へと届けるためだったはずだ。
その目的が達せられたのかどうかはわからないが、昨年は韓国だけでなくアメリカや中国、もちろん日本でも選挙や世代交代のあった政治の年だった。
果たしてそれぞれの国の新リーダーは光海君なのだろうか、それともハソンなのだろうか、未来への一票を投じた一人として考えざるを得なかった。
これは映画館で見るべき秀作であり、特に政治家の皆さんには是非鑑賞して、我が身を振り返っていただきたいものである。

今回は、韓国へ行ったらやはり飲みたくなるジンロの「マッコリ」をチョイス。
元々伝統酒を作るときの沈殿物に水を添加した残り物の酒だったそうで、古くから庶民の楽しみとして飲まれていた物がルーツ。
今のマッコリはずっと洗練された味わいだが、圧倒的なコストパフォーマンスは変わらない魅力だ。
この映画を観て飲めば古の人々の暮らしに思いを馳せる事が出来るだろう。
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故郷よ・・・・・評価額1600円
2013年02月15日 (金) | 編集 |
封印された、故郷への哀歌。

チェルノブイリ原発事故によって、生まれ故郷を失った人々の、事故後の数日間と10年後を描くビターな人間ドラマ。
美しい大地に人々の素朴な生活が息づくプリピチャの街で、原発技師の父と息子はリンゴの木を植え、幸せな花嫁は最愛の夫との人生最良の瞬間を楽しんでいる。
ところが、彼らの人生と故郷は未曾有の大事故によって、一夜にして永遠に奪い去られてしまうのだ。
監督はイスラエルに生まれ、ウクライナ人の母を持つ女性監督ミハル・ボガニムで、これが長編劇映画第一作。
残酷な運命に翻弄される主人公のアーニャを、「007/慰めの報酬」のボンドガールとして知られるオルガ・キリレンコが、人生の悲哀たっぷりに演じているのも見所だ。
同じ様に原発事故を経験した日本人にとって、深く静かに心に響く物語である。
※ラストに触れています。

チェルノブイリ原発の城下町として栄えていた、ソビエト連邦、ウクライナ共和国のプリピチャ。
1986年4月26日、原発技師のアレクセイ(アンジェイ・ヒラ)は、幼い息子のヴァレリーと共に、ドニプロ川の岸辺にリンゴの木を植える。
同じ日、アーニャ(オルガ・キリレンコ)とピョートル(ニキータ・エムシャノフ)のカップルは結婚式の真っ最中だったが、“森林火災”発生を受けて呼び出された夫は、二度と戻ることは無かった。
数日後、プリピチャは軍によって封鎖され、5万人の住民は故郷を失う。
そして1996年、アーニャは亡き夫の眠る廃墟、プリピチャのガイドとして働いている。
成長したヴァレリー(イリヤ・イオシフォフ)は、父のアレクセイが死んだことが信じられず、立ち入り禁止になっている元の我が家に、父親へのメッセージを残す。
一方、正気を失ったアレクセイは、既に存在しない故郷の幻影を求めて、国中をさまよっていた・・・


チェルノブイリ原発の事故のニュースは、良く覚えている。
史上初の、そして福島の事故が起こるまでは唯一のレベル7の原発事故で、汚染は広範囲に広がり、ユーラシア大陸の反対側の日本でも放射性物質が検出されたほどで、イタリア産のパスタがスーパーから姿を消したり、欧州産の農産物などは日本でも影響が大きかった。
現地で対策にあたった消防士や作業員も多数亡くなり、被爆による被害は今も続いているという。
これは、そんなチェルノブイリのあったプリピチャの街で、慎ましくも幸せに暮らしていた市井の人々を主人公に、原発事故が彼・彼女らの人生をいかに変えたのかを描く物語だ。
映画が始まってからの40分は、1986年4月26日の事故当日から街が封鎖されるまでの4日間に何が起こったのかが描かれ、後半の一時間で人々の10年後を追う構成となっている。

物語の語り部は二人。
一人は事故当日に結婚式を挙げていた花嫁のアーニャで、もう一人は原発技師の父を持つ少年ヴァレリーだ。
映画は1996年の“現代”から、父と共にリンゴの木を植えた思い出を振り返るヴァレリーの独白から始まり、基本的にアーニャとヴァレリーの視点で二人の独白と共に進んでゆく。
結婚式当日に呼び出されたアーニャの夫は、大量被爆によって面会も叶わぬまま帰らぬ人となる。
事故を知らされた技師のアレクセイは、密かに妻とヴァレリーを街から脱出させるが、守秘義務のために他の人々に真実を告げられず、せめて黒い雨に打たれない様にと、傘を配る事しかできない。
やがて、情報は隠蔽されたまま、街は軍によって封鎖される。
飼っていた動物は殺され、荷物すら持ち出せない状態で、人々は生まれ育った故郷を追われるのだ。
事故後、チェルノブイリから半径30キロは、立ち入り制限区域として居住は禁止され、原発から僅か3キロにあったプリピチャの街は当然廃墟となり、住民たちは散り散りとなる。

だが家を追われた人々は、それでもなおその土地から離れられないのだ。
旅立てば新しい人生が開けるかもしれないが、皆渡り鳥の様にプリピチャへと戻って来てしまう。
10年後のアーニャは、チェルノブイリの廃墟を見学に訪れる外国人のために、ツアーガイドとして街に留まっている。
彼女には優しいフランス人の婚約者がおり、パリへの移住を夢見てもいるが、どうしても街を離れる決断を出来ないでいるのだ。
また、チェルノブイリで死んだと思われているアレクセイは、もはや正気を失い、今はもう存在しない“プリピチャ行き”の列車を探して国中を放浪している。
一方、そんな父の死を信じることの出来ないヴァレリーは、慰霊のために立ち戻ったプリピチャで、かつての思い出の痕跡を辿って当所無くさまよい歩く。
彼のリンゴの木は黒い雨でとっくに枯れてしまっているのに。

本作で人々の人生を詩的に象徴する重要なモチーフが、透明で何にでもなりえる“水”だ。
ミハル・ボガニムは要所要所で水を印象的に描写する。
悠久の時を流れるドニプロ川、涙の様に降り注ぐ黒い雨、穢れを洗い流すシャワー、そして未来への切ない希望を湛える黒海の輝き。
だが、カメラが最後に映し出すのは、もはやどこへも流れてゆく事の出来ない濁った水溜りなのである。
本作の登場人物は皆、忽然と奪われた過去と故郷のくびきに囚われた人々だ。
フランスへと戻る婚約者にアーニャが残す「私たちがここを去ったら、誰が語り継ぐの」という言葉が重い。
たとえ危険なことはわかっていても、故郷を永遠に失う痛みはそれよりも更に強いという事か。

本作の二人の語り部は、物語の中で二度邂逅する。
一度目は暖かい春の日差しの中、結婚式のパーティのシーンで、花嫁と偶然通りかかった少年として。
そして二度目は、物語の最後で寒々しい曇り空の下で、もうどこにも行くことの出来ない二人として。
愛する者を失った時、アーニャは言う。
「私たちは若く、子供だった。子供は秩序を信じ、従えば幸せになれると信じている」
ああ、私たちも同じだった。
10年、20年後に日本でも、同じ様な喪失の物語が作られるのだろうか。

本作では、ロシア歌謡の名曲「百万本のバラ」が、望みえぬ幸せを束の間の恋に見るアーニャの心を代弁し、哀愁を掻き立てる。
そこで、歌のイメージでカクテルの「ローズ」をチョイス。
ドライ・ベルモット45ml、キルシュ15ml、チェリーブランデー10mlをシェイクしてカクテルグラスに注ぎ、仕上げにマラスキーノチェリーを沈める。
文字通りのバラ色が印象的な美しいカクテルで、甘い香りとすっきりした味わいが特徴だ。
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ゼロ・ダーク・サーティ・・・・・評価額1750円
2013年02月10日 (日) | 編集 |
この世界の、闇に生きる。

全世界に衝撃を与えたオサマ・ビン・ラディン殺害作戦の背景を、一人のCIA情報分析官の目を通して描いたサスペンスフルな問題作。
ジャーナリストでもある脚本家のマーク・ボールが、世界一漢な映画を作る女性監督、キャスリン・ビグロー監督と「ハート・ロッカー」に続いて再びタッグを組み、関係者への綿密な聞き取り調査を元に、闇に包まれた世界のもう一つの姿を白日の下に晒す。
地球全域を股にかける情報収集、拷問、謀略、そして暗殺、報復の連鎖。
ここにあるのは、血の流れない静かな諜報戦などではなく、殺った殺られたの命のやり取りであり、正に報道されない最前線の戦いだ。
タイトルの「ゼロ・ダーク・サーティ」とは、軍事用語で真夜中0時30分の事。
※ラストに触れています。

CIA情報分析官のマヤ(ジェシカ・チャスティン)は、アルカイダの最高司令官オサマ・ビン・ラディン追跡の任務を帯びてパキスタンの米国大使館に赴任する。
9.11から数年が経過しても、ビン・ラディンの行方は全く掴めておらず、世界はテロの脅威に晒されたままだった。
アルカイダの人間関係を調べ直したマヤは、アブ・アフメドという謎の人物が、ビン・ラディン直属の連絡員だと目星を付けるものの、上層部は単なる憶測だとなかなか取り合ってくれない。
アフメドの正体を探り始めたマヤだったが、別の人脈からビン・ラディンを追っていた同僚のジェシカ(ジェニファー・イーリー)のチームが、二重スパイの罠にハメられて爆殺される事件が起こる・・・


ビン・ラディンが殺害された日、私はちょうどアメリカで米国人の従姉妹の結婚式に出席していて、その一報はパーティの最中に届けられた。
既に盛り上がっていたその場は、更に異様な興奮に包まれたのを覚えている。
ビグローによれば、本作の構想がスタートしたのは2006年。
もちろん当時はまだビン・ラディンの所在は明らかになっておらず、作品はアフガニスタンのトラボラで失敗した彼の捕獲作戦を描く物になる予定だったそうだ。
その後、「ハート・ロッカー」の成功を受けて、企画を再始動した所でビン・ラディンが殺害され、一旦全てをストップしてゼロからやり直したのが本作である。
脚本のマーク・ボールは、ジャーナリストとして培った人脈を駆使し、ワシントンでの数ヶ月間に渡る関係者への聞き取りと、パキスタンや周辺国での現地調査を経て脚本を書き上げた。
結果的に、本作に描かれるエピソードは、その殆どがこの十年間にそれぞれの現場にいた人々が、実際に体験した内容で構成されているという。
劇中では2005年のロンドン同時多発テロ、2008年のマリオットホテル爆破、2010年1月の米軍基地内での自爆攻撃など、記憶に新しい事件も多く描かれ、単なるフィクションを超えた作品である事を強く印象づける。

本作の特異性は、やはり政治性を帯びた実話を元に作られた映画、「アルゴ」と比較すれば明らかだ。
イラン革命下での決死の脱出作戦を描いたあの作品では、アメリカ側が知りえない情報、例えばイラン当局がその時どう行動したかなどは、大胆に推測されて補われており、史実をモチーフにしてはいるものの、作品トータルでみれば限りなくフィクションの娯楽サスペンス映画としての色彩が強い作品となっている。
対して本作のスタンスは、「知らない事は描けない」という対照的なものだ。
映画は、CIAの若い女性情報分析官、マヤの体験をベースとして語られ、始まってから2時間がビン・ラディンの居場所を突き止めるまでの数年間に渡る諜報戦のパート。
そして終盤の40分を費やして描かれるのが、特殊部隊シールズによる、2011年5月2日未明から始まったビン・ラディンの隠れ家急襲作戦という変則的な構成となっている。

カメラは徹底的にマヤら現場の視点に寄り添い、それ以外の要素、例えばアルカイダ側の動きなどは全く描写せず、そのため観客も登場人物以上の情報を得ることが出来ない。
言わば観客一人ひとりが、CIAチームの一員となった様な感覚となり、それがジリジリとした緊張感と危機感を煽るのだ。
「アルゴ」が、敵味方の描写が交錯させる事で、良い意味で古典的、映画的な追いつ追われつのスリルを作り出しているとすれば、こちらは情報を遮断することによって、全く別種のサスペンスを生み出しているのである。
その効果は、終盤の急襲作戦のシークエンスでも最大限発揮される。
敵側から見た描写が一切無いので、一体ターゲットがどこにいるのか、いつ撃ってくるのかまったく予測出来ない。
暗闇の中で本当に戦闘に参加しているかの様な臨場感は、ドキュメンタリー以外で殆ど経験した事のないものだ。

劇映画らしからぬ本作のスタイルは、キャラクターの内面の描写にも寄り添いながら、突き放すという独特の距離感を作り出している。
ビン・ラディンの影すら見えない中、長引く戦いは徐々にマヤをはじめとする登場人物たちを疲弊させてゆく。
情報を聞き出すために捕虜を拷問すれば、それは心の傷となって自らに跳ね返ってくるし、新たなテロを防げなければ、それもまた自分の責任として受け入れるしかない。
それに、諜報戦を戦っているのはCIAだけではない。
敵もまた総力をあげてCIAの動きを探り、情報を集めているのだ。
当然、身元を特定されれれば、永遠に暗殺リストに載る事となり、その危険は兵士の様に前線を離れれば安全という訳にはいかない。
街中だろうか、自宅だろうが、いつどこで襲われるかもわからず、身も心も休まる時の無い状況が何年も続く。
本作における諜報戦は、真剣勝負の殺し合いに他ならないのだ。
そして、仲間の死という過酷な現実を見せつけられた時、マヤの中で何かか壊れる。
彼女はそれまで以上にビン・ラディンに執着し、彼を見つけ出し、殺すという目標に、しばしば組織の上層部とぶつかり合いながらも取り憑かれた様に突き進んで行くのである。

「ゼロ・ダーク・サーティ」は、世界一有名なテロリストの追跡と殺害という極めて政治的題材を扱いながら、映画自体には政治性は殆ど皆無だ。
イデオロギーはもちろん、登場人物それぞれの主義・思想も全く描かれない。
本作におけるビン・ラディンは、作劇的にはある種のマクガフィンと言えるだろう。
生きているのか死んでいるのか、そもそも彼が本当にテロの指揮を執っているのかも不明で、実体を持った脅威というよりも、むしろ死と破壊の象徴という役割を、本人の思惑を飛び越えて持たされてしまった存在。
誰もがビン・ラディンによって振り回され、その影響から逃れられず、マヤもまた彼を追いながら、同時に人生を支配されているのである。
だから、長年追い続けたビン・ラディンが、呆気なくシールズによって射殺された瞬間、マヤは10年近くに渡って青春を捧げた目標を失ってしまう。
これは世界のダークサイドで、人の姿をした“恐怖のシンボル”に人生を縛られた、哀しき人間たちの熱いドラマだ。
超ハードなドラマの果てに、米国へと帰る輸送機の機中で、彼女が一人静かに流す涙の意味は何か。
グッと胸を締め付けられる余韻と共に、ラストの解釈はまた議論を呼びそうである。

今回は、任務を終えたマヤに心を癒して欲しいホームランドのお酒、キスラーの「シャルドネ ソノマ・コースト レ・ノワゼッティエール 」をチョイス。
レ・ノワゼッティエールはヘーゼルナッツの事で、その名のとおり独特のナッツの香りが特徴的。
柔らかくもしっかりとした味わい、ナッツとフルーツの混ざり合った複雑なアロマも楽しく、魚介系のカリフォルニア・キュイジーヌと合わせたら最高だろう。
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ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日・・・・・評価額1800円
2013年02月05日 (火) | 編集 |
割り切れない、宇宙の理。

太平洋のど真ん中を、トラと共に救命ボートで227日間に渡って漂流・・・。
一人のインド人少年の極限のサバイバルを描いた、ヤン・マーテル原作のベストセラー小説「パイの物語」の完全映画化。
普通に考えれば、あっと言う間にトラのランチになってしまいそうだが、少年はなぜ絶望的な状況で生き延びる事が出来たのか?神秘の海で、彼は何を見たのか?
一作毎に異なるジャンル、異なるテーマに挑戦する台湾出身の名匠、アン・リー監督が今回取り組むのは、単なる海洋アドベンチャーではない。
これは言わば「ツリー・オブ・ライフ」ミーツ「ビッグ・フィッシュ」だ。
聡明な少年の目を通した、壮大で哲学的な神性を求める冒険であり、同時にリー監督にとっては野心的な物語論となった。
※完全ネタバレ注意。

インドのボンディシェリで動物園を経営していたパテル家は、動物たちを北米に売却しカナダに移民する事を決意。
ところが太平洋上で嵐に遭遇し船は沈没、一家の末っ子パイ(スラージ・シャマル)だけが数頭の動物たちと救命ボートで脱出する。
小さな方舟に乗り合わせたのは少年とオラウータンとシマウマとハイエナ、そして獰猛なベンガルトラのリチャード・パーカーだ。
だが、やがて動物たちは殺し合い、遂にボートには人間とトラだけが残される。
このままでは自分もエサになってしまうと考えたパイは、なんとかリチャード・パーカーを飼い慣らそうと考えるのだが・・・・


極めてロジカルに構成された物語は、神話的な暗喩劇である。
本作は、カナダ人の作家が、成人したパイから聞き取った物語という形式で語られ、少年の冒険が始まるまでに、およそ30分に渡って彼のルーツ、人となりや育った環境などが事細かに描写される。
穏やかな南インドの風土を背景に纏った、この冒頭部分が決定的に重要だ。
パイの本名はピシン・モリトール・パテルで、意味は「(パリの)モリトールのプール」である。
水泳の名人だった父の親友にちなんで、水の様に心の綺麗な人間になる様にと名付けられた。
ところがピシンの発音が英語の「小便」と似ていた事から学校で虐められ、彼は自らにパイ(π)というニックネームを付けるのだ。
パイは3.14から続く無理数で永遠に割り切れない。
そして彼は物心ついた頃から、ずっと心にを求め続けている。
インドのごく一般的な家庭環境からヒンズーの神々に囲まれて育ち、成長期にはまずキリストの受難を知り、ついでアッラーに祈りを捧げる。
つまりこれは、水の様に透明な心を持った少年が神、即ち世界の理を求め、決して割り切れない解を求めて冒険の旅に出る物語なのだ。

幼いパイに、母親がヒンズーの逸話を語るシーンがある。
赤ん坊の頃のクリシュナ神が、友達に土を食べたと濡れ衣を着せられ、養母のヤショダが子供の姿をした万物の神の口を開けさせると、そこには悠久の宇宙が全て、ヤショダ自身をも含め、存在していたという話だ。
同じ様に、物語の後半でリチャード・パーカーと共に大洋の深淵を覗き込んだパイは、そこに時空を超えた森羅万象の全てを見る。
本作において、時として雷を放ちながら荒れ狂い、愛する者たちを奪い去り、時として極限の静寂と共に、生への希望を与える天と海は、そのまま不可思議な神のメタファーなのである。
故に3Dによって迫力満点に描写される本作の自然は、ナショナルジオグラフィック風のリアリズムというよりは、むしろ宗教画の様に華麗にして荘厳で、見る者を驚嘆させて畏怖の念を感じさせる物だ。

これが神の宇宙に投げ出された人間の物語であるならば、それは必然的に人が自分自身が何者かを発見する旅ともなり、ボートに乗り合わせた動物たちにも意味がある。
これは後述する驚きの仕掛けにも関連するが、シマウマ、オラウータン、ハイエナ、トラはそれぞれ人間の精神の異なる側面の象徴となっている。
極限状況の中、シマウマ、オラウータンがハイエナの欲望の前に相次いで倒されるが、そのハイエナもリチャード・パーカーによって呆気なく命を奪われる。
状況が悪化すればするほどに強まる、この気高く美しいベンガルトラの存在感は、人間の持つ本能的な獣性の象徴と言って良いだろう。
数学的な名前を持つパイが、物言わぬリチャード・パーカーと何時しか心を通じ、彼との共存を果たすまでの興味深い冒険の描写は、自らの内面に疼く野生の攻撃性を知恵と理性によってコントロールするプロセスでもあるのだ。

そして、遠大な心の旅路の途中、ブッダやイエスと同じ様にパイもまた悪魔の誘惑を受ける。
ボートは、ミーアキャットの大群が暮らす奇妙な浮島にたどり着くのだが、夜になると食虫植物の様に生物を喰らうこの肉食の島は、邪悪な意思によって支配された偽りの楽園だ。
私は、この島のシークエンスを観て、H・P・ラヴクラフトの「狂気の山脈にて」を思い出した。
南極大陸の深淵に、古のものによって作られた狂気山脈には、本作のミーアキャットの様に、アルビノのペンギンの群れが暮らしており「テケリ・リ!」と叫ぶ。
彼らの奥には、ジョゴスと呼ばれる太古に封じられた不定形の存在があり、やはり「テケリ・リ!」という神秘の言葉を放つのである。
ペンギンたちは、言わば思考無き盲信者たちの様にその場に寄り添っているのだ。

この「テケリ・リ!」とは、元々ラヴクラフトに大きな影響を与えたエドガー・アラン・ポーの小説、「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」からの引用で、実はこの本にはリチャード・パーカーという人物が登場する。
彼は作中で海難事故に遭い、難破船で漂流する四人の男の一人で、食料が無くなった事から、くじ引きで選ばれて他の三人に喰われてしまうという、何とも悲劇的な最後を遂げるのだ。
これら奇妙な符号は、おそらく本作の原作者のヤン・マーテルが、先人たちの仕事に密やかなオマージュを捧げた痕跡であり、リチャード・パーカーというトラの名はポーの小説の反転なのである。

さて、誘惑に打ち勝ったパイは、リチャード・パーカーと共に漂流を続け、遂にメキシコに流れ着くのだが、本作の核心はここからだ。
船会社のある日本からやって来た調査員に対して、パイは自分の冒険譚を語って聞かせるのだが、余りにも突飛な話を日本人は信じようとしない。
彼らが求めるのは“物語”ではなく、トラも肉食の島も登場しない、“信じられる話”なのである。
そこでパイは、もう一つの話をする。
ボートに乗ったのは、パイと母親、船のコックと負傷した船員の四人の人間で、やがてお互いに殺し合い、最後に残ったのが自分だと。
ここでは四頭の動物たちはそれぞれに人間に置き換えられ、リチャード・パーカーがパイ自身である。
ここでパイは問いかける。
どちらが事実だとしても船は原因不明のまま沈み、家族は全員死んで、自分は苦しみをたっぷりと味わった。
結果が同じならば、どちらがよりよき物語、語られるべき物語なのか?
答えは明らかだ。
なぜなら神を求め続けた少年は、227日間の内なる神との対話を通じて人間とは何かを知ったが、片方の物語に神はおり、片方にはいないからだ。
「人生とは手放す事だ」と成人したパイは言うが、ただ生きるだけでも手に入るものは増えてゆき、無理数のパイが永遠に割り切れない様に、この世界の理を求める冒険は命ある限り続いてゆく。
リチャード・パーカーが振り向かなかったのは、パイが既に未来に向かおうとしていたからである。
ジャングルに消えた親友と共に、それまでのパイ自身もまた、彼の物語の一部になったのだ。

「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」は、アン・リーのベストにして映画史に残る傑作である。
脚本のデヴィッド・マギーは、ヤン・マーテルによる人生の神学的考察を忠実に、しかし巧みに取捨選択し、一部を映画的に膨らませつつ仕上げ、アン・リーはそれをスペクタクルな映像で彩り、映画作家としての自らの物語論として昇華した。
また圧倒的な存在感を持つベンガルトラのリチャード・パーカーとその他の動物たちは、大半の登場シーンでリズム&ヒューズ社によるCGで作られているが、おそらく殆どの観客は彼らが現実の存在でないなど想像すらしないだろう。
ネコ族の細やかな仕草までリアルに再現したデジタルキャラクターは、圧巻の出来だった。
それにしても、カナダ人作家の小説をアメリカ人が脚色し、台湾人の監督がインド人を主人公に映画化するとは、まるでこの映画自体が創造の方舟の様ではないか。

今回は、もう一人の主役とも言えるリチャード・パーカーにちなんで「ティフィン・タイガー」をチョイス。
紅茶のお酒であるドイツのティフィン・ティー・リキュールを使ったカクテルで、別名「ティフィン・オレンジ」とも呼ぶ。
氷を入れたタンブラーにティフィン30mlとオレンジジュース90mlを注ぎ、ステアする。
ベンガルトラの様な鮮やかな黄色が印象的で、危険そうな名前とは逆にとても優しく穏やかな味わいである。
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