大人も子供も大好きな、ゲームの世界を舞台とした痛快なCGアニメーション。
ヒーローになりたいと願う悪役キャラクターのラルフと、不良プログラムとしていじめられている少女ヴァネロペ。
孤独な二人が出会った事で、ゲーム界の存亡をかけた大騒動が巻き起こる。
ウォルト・ディズニー・スタジオ52本目の長編アニメーション作品は、子供はもちろん大人も大いに楽しめる快作だ。
監督は「ザ・シンプソンズ」などテレビアニメで知られるリッチ・ムーアーで、これが初の劇場用長編作品となる。
古典アーケードゲーム“フィックス・イット・フェリックス”の悪役キャラ、ラルフ(ジョン・C・ライリー/山寺宏一)は長年の悪役稼業に嫌気がさし、ヒーローになるために自分のゲームから飛び出してしまう。
ラルフは、戦闘ゲームの“ヒーローズ・デューティ”でヒーローの証であるメダルを奪取することに成功するが、ロケットの暴走でお菓子の国のレースゲーム、“シュガー・ラッシュ”に迷い込み、そこで不良プログラムの少女ヴァネロペ(サラ・シルバーマン/諸星すみれ)と出会う。
お互いの孤独な境遇を知り、次第に親しくなってゆく二人は、力を合わせてレースに出場しようとする。
だが、お菓子の国を支配するキャンディ大王(アラン・デュディック/多田野曜平)は、なぜか執拗にヴァネロペがレースに出る事を妨害する。
実は、“シュガー・ラッシュ”には大王しか知らない重大な秘密が隠されていた・・・
カラフルなお菓子の世界はいかにも子供が好きそうで、2.5頭身キャラクターたちも可愛いく造形されている。
子供たちがこの映画に魅了されるのは間違いないが、実は彼らを劇場に連れてくる“大きなお友だち”の方がずっと深く楽しめるだろう。
なぜならここには、過去40年間のゲームと映画の歴史があるからだ。
キャラクターたちの織りなす物語と、美しい3D画面で繰り広げられるアクションを観ているだけでも十分面白いが、散りばめられた“ゲームの記憶”が30代以上の観客にはプラスアルファの笑いを提供してくれる。
クッパ大王やザンギエフといった日本製ゲームのメジャーキャラクターとディズニーとのコラボはもちろん嬉しいが、“Tapper”のバーや懐かしの“Pong!”のパドルとボールなんていう今の子供たちには絶対わからない小ネタ、短い歴史の中で急激に進化したゲームの世代間スペック格差までギャグにしてしまう軽妙なセンスに脱帽。
“Q-bert”のフキダシなんて懐かし過ぎて大笑いした。
また、ゲームの中という世界観はディズニーの古典SF「トロン」を、人間が見ていない時間、キャラクターたちが実は・・・という設定はピクサーの長編第一作「トイ・ストーリー」を、業界キャラクター大集合というコンセプトは「ロジャー・ラビット」を思わせ、ディズニー・ピクサーの歴史をも内包しているのである。
ディズニー・スタジオ作品としては、伝統のプリンセス物「塔の上のラプンツェル」、人気キャラクターの新作「くまのプーさん」に続く作品だが、内容的にはむしろピクサー色が非常に強いのが特徴だ。
主人公のラルフは、長年悪役としてゲームの中でビルを壊し続けてきたが、他のキャラクターたちからは乱暴者と疎外され、孤独を募らせている。
悪役キャラのグループセラピー(笑)に参加したものの、他の悪役たちの様に、この役割をポジティブには受け止められない。
とうとう彼は、自分のゲームを飛び出して、他のゲームに紛れ込んでヒーローになろうとするのだ。
そして迷い込んだ“シュガー・ラッシュ”で出会ったヴァネロペもまた、不良プログラムとして蔑まれ、孤立している似た者同士。
二人が反発し合いながらも友情を育み、大きなチャレンジを成し遂げて、それぞれの“居場所”を見つけるのはもはや王道中の王道だ。
彼らの挑戦に、ゲームの世界を救うためにラルフを探すフェリックスと、ラルフによって“ヒーローズ・デューティ”から“シュガー・ラッシュ”に持ち込まれたあるモノを追う女傑カルホーン軍曹、そして重大な秘密を持つキャンディ大王の思惑が絡み合い、物語を単純な話型に陥らせないのはさすが。
孤独と可能性への渇望を抱えたキャラクターが、行動する事によって未来を切り開こうと葛藤し、そこへ重層的な伏線が巧みに張られた凝ったプロットは正にピクサー流。
冒頭のロゴをシンデレラ城からルクソールJr.に付け替えたとしても、全く違和感が無い。
面白いのは、本作の最後の最後に登場するボスキャラ的な悪役の正体で、これだけは今までのどのディズニー・ピクサー作品とも大きく異なる。
簡単に言えば、物凄く振り切った悪役なのだ。
大人の観客を意識するピクサーはもちろん、悪役を罰する事に倫理的な理由付を求めるディズニー作品でも、あまり単純な絶対悪に陥らない様に腐心しており、そのために悪役の末路にある種の悲哀を感じさせる作品が多い。
ところがこの作品では、伏線は張られているものの、悪役としてのネタばらしが良い意味で唐突。
しかも「Turbo-tastic!」と叫びながらひたすら他人の人生(?)を妨害しまくるという、ムスカ大佐級の超自己中キャラで、尚且つプログラムという無機質な存在ゆえに、全く同情心を抱かせずに痛快に滅んでゆく。
この位スッキリした悪役は久しぶりに見た気がする(笑
「シュガー・ラッシュ」は、その甘味な装いとは裏腹に、大人の鑑賞に十分耐える、いやむしろ大人の方が楽しめる作品である。
唯一残念なのは、子供向けのイメージでの展開故か字幕版が提供されない事だ。
本作の宣伝戦略には日米の文化の差がクッキリ出ている。
原題は「Wreck-It Ralph(ラルフ、ぶっ壊せ)」であり、劇中で彼がいるゲーム「Fix-It Felix(フェリックス、治して)」の対になっており、キービジュアルもラルフを中心にデジタルなゲーム感を強調したもの。
対して日本では、「シュガー・ラッシュ」のタイトルと共にカラフルな世界観が中心で、キャラも可愛らしさを強調した絵柄となっている。
子供向けに振った日本での方向性は、マーケットの嗜好を考えれば間違っていない。
だが、おそらく劇場サイドの要請なのだと思うが、吹き替えオンリーとなってしまったのは、ディズニーの大きなお友だちとしては残念だ。
もちろん日本語版の仕上がりは素晴らしい物だが、別の演出家によって別人が声を当てた時点で、作品の重要な要素がごっそり入れ替わってしまっており、オリジナルとは別物なのである。
やはり原語版で観たかったのが正直なところだ。
同時上映の短編は、本年度アカデミー短編アニメーション賞に輝いた「紙ひこうき」でこちらも必見の傑作。
既にネットでオフィシャルに公開されてるので鑑賞済みだが、スクリーンで観ると更に素晴らしいのである。
偶然の出会いから始まるラブストーリーは、セルアニメ調のモノクロ3Dの世界で展開する、完全に大人のためのファンタジー。
ヒロインのキャラクターデザインが素晴らしく、正にディズニー流の萌えキャラだ。
今回はカラフルな世界観に合わせて、カクテルの「パラダイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、アプリコット・ブランデー15ml、オレンジ・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
オレンジの甘味と適度な酸味が、アプリコットの優しい香りと共に楽園を演出し、ドライ・ジンがスッキリとまとめ上げる。
美しいイエローが印象的な、華やかなカクテルだ。

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![]() ケネディー大統領やフランクシナトラが愛したプレミアムジン!!タンカレー・ロンドン・ドライ... |
「まほろ駅前多田便利軒」の大森立嗣監督が、秋葉原無差別殺傷事件の犯人像をモチーフに、主人公の派遣労働者の青年が、日常の虚無の中に狂気を溜め込んでゆく様を描く。
新しい職場で人生ではじめての“友達”を得た青年はしかし、職場のイジメや叶わぬ恋に葛藤し、犯罪の片棒を担がされたりしながら、徐々に心の均衡を失ってゆく。
水澤紳吾、宇野祥平、淵上泰史が、それぞれに別種のダメ男をコミカルかつ味わい深く演じて皆素晴らしい。
派遣労働者の梶知之(水澤紳吾)は、家族も恋人も友人もおらず、自分の孤独な心情や劣等感をネット掲示板に書き込む事だけが生きがい。
長野県の佐久市の新しい職場にやって来た梶は、期間工の田中(宇野祥平)と意気投合し、はじめての友達となると、しだいに親しくなってゆく。
だが、ある日ドライブで山に出かけた二人は、突然現れたユリ(田村愛)から助けを求められる。
彼女は、社員寮で梶の隣室に住む岡田(淵上泰史)に監禁されそうになって逃げ出して来たと言うのだが・・・・
あの秋葉原事件の映画と聞いていたので、それなりに身構えて観たのだが、良い意味で期待を裏切られた。
これは現実の事件の顛末をリアルに描いた作品ではなく、事件を起こした犯人の人物像を考察した上で一度解体し、映画的に再解釈する事で作り上げた可能性の世界、パラレルワールドのアナザーストーリーと言えるだろう。
主人公である梶と、友達になる田中、そして彼らを支配しようとする岡田は、現実の事件の犯人の持つ異なるメンタリティを分割し、それぞれに別々の人格としてカリカチュアした様なキャラクターであり、本作は彼らの心象世界だ。
三人に共通するのは、内面でマグマのように蠢く強烈な劣等感。
映画の中で“基地外”と“基地内”という言葉が出てくる。
正社員でイケメソでリア充の男は“基地内”、派遣でブサイクで彼女も友達もいないのは“基地外”なのだそうな。
自他共に認める“基地外”である梶は、ガリガリの体にでっかい黒ぶちメガネの貧相なルックス。
おまけに性格も悪く、仕事は何をやっても長続きしない。
もちろん彼女なんている訳も無く、高校時代の同級生の写真を引き伸ばし、二次元の彼女にキスするのが精一杯。
日々感じる孤独な心の声を、誰が見ている訳でもないネット掲示板にせっせと投稿するのが日課だ。
そんな梶と友達となる田中は、言わば梶のマイルド版。
髪が薄くてズングリ体型、興奮するとてんかんの様な発作を起こして気絶してしまう。
ただ、病気とルックスへのコンプレックスは強いものの、生来の気持ちは優しくて、ネガティブ思考が服を着て歩いている様な梶よりは、やや希望的に人生を捉えており、チャンスさえあれば、こんな自分でも幸せになれると思っている。
そして二人の同僚で、ルックスはイケメン、元スピードスケート選手という肉体を誇示し、女にもモテる自称“基地内”が岡田だ。
だがこの男、実は本名を黒岩と言い、嘗て一度も勝てないライバルだった岡田という選手を殺害し、彼に成りすましているのである。
それだけでなく、ナンパした女性が心を許すと、突如豹変してサディストとなり、彼女らをレイプして殺してしまうという恐るべき嗜虐性を秘めたシリアルキラーなのだ。
歪んだ劣等感から、他人に対する攻撃性が突出してしまったキャラクターと言えるだろう。
彼ら三人は、同じ社員寮の並びの三部屋に住んでいる。
孤独と劣等感という共通点を持つ彼らを、現実の秋葉原事件の犯人の内面のメタファーと考えるならば、この三人以外誰も住んでいない風の閉鎖空間は“脳内”の様な物だ。
ここにネガティブな梶、マイルドな田中、サディストの岡田という三通りのメンタリティが出たり入ったりしながら葛藤し、お互いに影響しあっている訳である。
そこへヒロインのユリが、彼らの間に更なるドラマの燃料を投下するのだが、黒岩に殺害された岡田の妹である彼女もまた、相当に変な女性だ。
兄の名を騙る黒岩によって拉致されそうになったところを梶と田中に助けられると、すぐ近くに黒岩がいることを知りながらも警察に駆け込むでもなく、寮に留まっていつの間にか田中と恋仲になってしまうのである。
彼女もリアルに造形された現実の女性と言うより、ダメ男的な心象世界で理想化、象徴化された女性像と思った方がしっくりする。
物語の終盤は、ユリを軸に三人の“基地外”の葛藤が極限に高まり、とうとう田中はユリと共に社員寮を出てゆく。
梶と田中が、劣等感に支配された“脳内”に留まる中で、田中は問題を抱えながらも未来へと歩み始めるのだ。
だが、互いの中に自分を見ていた他の二人は、田中を“基地外”の仲間に止めおこうとし、遂に三人は正面からぶつかり合う。
現実では、ひたすら孤独を募らせた犯人が凶行に及んでしまった訳だが、映画では独立した人格に別れた三人が、相互に関わり合う事によって現実とは異なる化学反応を起こし、思いもよらない結末を導き出すのである。
私は、本作のパワフルなラストカットを観ながら、映画の力によって歴史をも痛快に改変してしまった「イングロリアス・バスターズ」を思い出した。
秋葉原の事件は確かに現実に起こってしまった悲劇だし、理不尽に他人の命を奪った犯人の行為は当然許されない。
だが、彼の事を殆ど何も知らない我々が、単純に“基地外”と彼の全てを否定する事は正しいのだろうか?彼の人生に他の可能性は無かったのだろうか?もしあったとするなら、何が必要だったのだろうか?
本作は、映画というイリュージョンによって作り出された“if”もしもの世界によって、この問に一定の答えを出していると思う。
たぶん、これからも梶の孤独は変わらないだろうが、彼は最後の最後で踏みとどまった。
ほぼ“基地外”の範疇に入るダメ男の一人としては、彼が孤独を友としてでも、生き続けてくれる事を祈るのみである。
本作の舞台となる長野県佐久市は隠れた酒どころで、日本酒の蔵元が幾つかある他に、ワイナリーも存在する。
今は閉鎖されてしまったが、嘗てはメルシャンの軽井沢蒸留所も置かれて上質なウィスキーを生産していた。
そこで佐久の地酒、土屋酒造店の山廃純米「亀の海 夕焼け小焼け」をチョイス。
日本酒としてバランス良く、山廃純米らしい濃密さと上品な甘みが感じられる。
梶くんには佐久の地酒でも飲んで、せめて幸せな夢を見てもらいたい。

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![]() 【2012 秋】亀の海 「夕やけ小やけ」 山廃純米 1800ml |
幼稚園教師として平凡な人生を送っていた男が、親友の幼い娘の小さなウソによって破滅へと追い込まれてゆく。
「光のほうへ」で知られるデンマークのトマス・ヴィンターベア監督による、とても恐ろしく、スリリングな不条理劇だ。
人々が善意である事を前提とするコミュニティにおいて、反社会的人物のレッテルを貼られる事が何を意味するのか。
原題の「Jagten」とは、デンマーク語で“略奪者”を意味する。
タイトル通り、全てを奪われて、絶望のどん底へと突き落とされるマッツ・ミケルセンの名演技が光る。
小学校教師だったルーカス(マッツ・ミケルセン)は、学校の閉鎖に伴って今では幼稚園に勤務している。
別れた妻の元にいる息子のマルクス(ラセ・フォーゲルストラム)と再び暮らすメドもつき、気のおけない友人たちと狩に興じたり、幼稚園の同僚とのロマンスを楽しんだり、平和な日常を享受する日々。
ところが、親友のテオ(トマス・ボー・ラーセン)の娘のクララ(アニタ・ヴィタコプ)が、幼稚園でルーカスに性的虐待をされたと言い出し、まともに話も聞いてもらえないまま仕事を首になってしまう。
小さな街に噂は直ぐに広まり、ルーカスに対する人々の非難や嫌がらせは次第にエスカレートしてゆく・・・
幼い子供は純真無垢な存在なので、決してウソをつかない。
ルーカスを“変態”と蔑み、村八分にする映画の登場人物たちは、こんな考えを頑なに信じている様にみえる。
だけど自分の子供時代を振り返ってみれば、それは幻想に過ぎない事がすぐにわかるだろう。
私もクララ位の頃に、幼稚園をサボりたくてお腹が痛いと言ったり、おもらしを人のせいにしたり、小さなウソはしょっちゅうついていた記憶がある。
子供は決して大人と別種の生物ではない。
小さくても人間であり、男であり、女なのである。
なぜクララは、無実のルーカスを陥れるウソを言ったのか。
彼女は大好きなルーカスに、初恋とまではいかなくても、好意的な感情を抱いている。
ところが精一杯のプレゼントやキスを、やんわりと拒絶された事に腹を立て、細やかな復讐としてウソをつく。
彼女にしてみれば、ルーカスをちょっとだけ困らせてやろうと思っただけ。
もちろん性犯罪なんて概念すら知らないから、自分の一言が大人たちにどれほどの衝撃を齎すかなど全くの想定外だ。
だが、彼女の言う事に何の疑いも持たない大人たちは、一方的にルーカスの断罪に走る。
なんだか、自分の言ったが大騒ぎになっている、と気づいたクララが「アレは無かった事なの」と言っても、時既に遅し。
大人たちは、彼女の心がトラウマとなった恐怖の記憶を忘れようとしていると思い込んで、よけいにルーカスへの怒りを募らせという逆効果。
あげくに、他にも被害者がいるのではと追加調査が行われると、なぜか他の子供たちからもルーカスにイタズラされたという証言が出てきてしまう。
子供たちはなぜ皆ウソをつくのか。
映画に登場する大人たちは、子供たちを傷つけずに性犯罪の証言を引き出そうと、結果的に自分たちも意識しないままに誘導尋問をしている。
すると、子供たちは経験していない事まで、事実の様に語りはじめてしまうのである。
人間の記憶なんていい加減なもので、子供に限らず大人でも、会話しているうちに現実の記憶と虚構の記憶がごちゃ混ぜになるケースは珍しくない。
実際にアメリカでは、ある女性の催眠治療によって引き出された偽の記憶によって、無実の父親が幼い頃の彼女を性的に虐待したと訴追された例がある。
もちろん、だからと言って子供たちの言っている事を最初から疑ってかかると、今度は本物の性犯罪を見逃す危険があるのは言うまでもない。
だからこそ、記憶にのみ頼った事件の信憑性に関しては慎重さが必要なのだが、この映画の大人たちはそうではなかった。
一方で、蚊帳の外に置かれたルーカスは、自分に何が起こっているのかも把握できないまま性犯罪の被疑者となり、仕事も友も恋人も、それまでの人生で作り上げてきたコミュニティでの存在基盤を全て失ってしまう。
理不尽な冤罪の恐怖は、ケースは違えど日本でも例えば痴漢冤罪などで、誰にでも起こりうる悲劇だ。
ルーカスは一度逮捕されるも、追加調査で得られた子供たちの証言に信憑性がない事がわかり、すぐに釈放される。
しかし、真相が曖昧なままとなった事で、彼への疑いと嫌悪はますますヒートアップ。
遂には食料品店で販売拒否され、飼い犬を何者かに殺害されるという最悪の事態に至ってしまう。
誰もが知り合いの小さな街に、もはや“変態”の烙印を押された彼の居場所は無いように見えるが、結果的にルーカスを救うのもミニマムで密接なコミュニティの力なのである。
同じ街で生まれ育った故に、皆お互いを知り尽くしている。
クララの父親であるテオもまた、ルーカスの性格やウソをつく時の癖まで全てを知っているのだ。
事件以来、まともに向き合ってこなかったルーカスが、始めて面と向かってテオに感情を爆発させた時、遂に彼はルーカスの中にある真実に気付き、我が娘の言葉に疑いを向けるのである。
事件によって人生が壊れるのと同じく、小さなコミュニティ故に真相がわかった時の修復も早い。
人々は昔と同じように仲間の輪にルーカスを迎え入れ、表向きは全て元通りになったかのように見える。
ただ一人、ルーカス本人の心を除いて。
本作の英題「The Hunt」は、この国の伝統でもあり、街の男たちによって文化として代々受け継がれて来た“狩猟”の事だ。
ルーカスも嘗て仲間のたちと鹿を撃ち、今は成長したマルクスもその列に加わろうとしている。
しかし、一連の事件を通して、人々から“狩られた”ルーカスは、人間の心の闇を知ってしまったのだ。
狩の獲物となるのは、いつも真に無垢なる動物だけとは限らないのである。
今回は、天使の様なクララのイメージで「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライジン30ml、カルバドス15ml、アプリコットブランデー15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
リンゴと杏のブランデーを、ドライジンの清涼さがスッキリとまとめ上げる。
ほんのりと甘口で優しい味わいの飲みやすいカクテルだが、幼女のウソの威力と同様、イメージとは違って結構強いのだ。

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![]() カルヴァドス ブラー グランソラージュ 700ml 40度 Calvados Boulard Grand Solage カルヴァド... |
ゼロ年代に入ってから、すっかり孤高のCGアニメーション作家になっていたロバート・ゼメキス監督の、12年ぶりの実写映画。
奇跡の不時着によって人々を救ったものの、アルコールとドラッグを摂取していた事がわかり、英雄から一転して犯罪者としてスキャンダラスに吊るし上げられる機長を、名優デンゼル・ワシントンが演じる。
宣伝ではまるでパニックサスペンス映画の様に見えるが、これは一人の人間が自分自身と向き合う事の困難さを、アルコール、ドラッグといった社会問題を背景に描いた、燻し銀の人間ドラマだ。
※ラストに触れています。
ベテラン機長のウィトカー(デンゼル・ワシントン)は、その朝もコカインを決めて二日酔いの目を覚ます。
今日のフライトは、フロリダ州オーランドからジョージア州アトランタまでの勝手知ったる空の道。
ところが、高度1万メートルでトラブルが発生し、機体のコントロールを失ってしまう。
皆がパニックに陥いる中、ウィトカーは残された機能だけで冷静沈着に操縦し、民家を避けた草原に不時着する事に成功する。
乗員乗客の犠牲者は僅かに4名。
ウィトカーは、多くの命を救った機長として一躍マスコミにヒーローに祭り上げられる。
だが数日後、パイロット組合のチャーリー(ブルース・グリーンウッド)から、弁護士のラング(ドン・チードル)を紹介される。
いぶかしがるウィトカーに、チャーリーは彼の血中からアルコールとドラッグが検出され、このままでは訴追されると告げる・・・
ここ十年来、ロバート・ゼメキスはパフォーマンス・キャプチャの技術によって、体の動きから細やかな表情まで、俳優の演技を丸ごと取り込んだCGアニメーションに取り組んできた。
2004年の「ポーラー・エクスプレス」から「ベオウルフ/呪われし勇者」「Disney's クリスマス・キャロル 」と続いたCG作品は、必ずしも興行的には成功しなかったものの、独自の映像技術を着実に進化させ、ピクサーやドリームワークスなどの作品とは一線を画した、現実と虚構の境界の様な不思議な世界観を構築していた。
そのゼメキスが、2000年の「キャストアウェイ」以来、久々に生身の人間を主人公に撮った本作は、トム・ハンクスの乗ったフェデックスの貨物機が太平洋上空で遭難した前作に続いて、またしても飛行機の墜落から始まる物語である。
上映時間は138分。
映画は、冒頭の30分を費やして、主人公であるウィトカー機長の人となりと、上空一万メートルからの生還劇をスペクタクルに描く。
ぶっちゃけウィトカー機長は、決して積極的に感情移入を誘うキャラクターではない。
酒で身を持ち崩した彼は、妻子にも愛想を尽かされて離婚し、以降もアル中人生まっしぐら。
フライト前日も泥酔してキャビンアテンダントと一夜を過ごし、眠い目を覚ますためにフライト前に気付のコカインを一発決める。
いくら凄腕でも、こんなトンデモ機長の操縦する飛行に乗りたい人はいないだろう。
事故後、一度は酒を絶つ決意をするものの、飲酒飛行疑惑で追い詰められるとストレスに耐えられず、再び酒に溺れる体たらく。
演じるワシントンも、酒太りに見える様にでっぷりと腹回りの贅肉をつけ、ドラッグでハイになったキャラクターは悪役といっても通じる傲慢不遜さだ。
まったく、酒飲みとしては他人事とは思えない人物だが、実際のところアメリカにおけるアルコール中毒は深刻な社会問題であって、その飲みっぷりは半端ない。
以前テレビの健康番組で見たが、元々日本人はアルコールの分解能力が白人やアフリカ系に比べると平均的に低く、たいていの人はアル中になるまで飲めない、あるいはその前に体を壊してしまうのだそうな。
だからアメリカのアル中は、日本人ならとうにトイレに頭を突っ込んで気絶してる位飲んでも、まだ酔い潰れる事が出来ず飲み続ける。
更にアル中はドラッグにはまる率も高い。
コカインなどのアッパー系ドラッグは、ウィトカーがやっていた様に、興奮作用で二日酔いの頭をシャキッとさせてくれるからだ。
まさにウィトカーは、アメリカの抱える大きな社会問題の、悪しきお手本の様な人物なのである。
酒とドラッグによって、自分の中にエセ天国を作り上げて溺れる男。
こんな人間は神ですら救えない。
本作では、ウィトカーの周囲にさりげなくキリスト教的メタファーが配置されているが、それらは何れも彼にとっては不吉なサインだ。
酔っ払い飛行で怒れる神が起こした様な嵐を強引にこじ開けたウィトカーは、瞬く間に機体故障によって天から追放されるが、不時着の過程で彼の翼は教会の屋根を粉砕し、神の家の前庭に落下するのである。
そして自分が酔っていたことを口止めするために、副操縦士を訪ねたウィトカーに、重症を負って二度と飛べなくなった彼は、神の御心を受け入れる事を勧めるが、ウィトカーは彼らの中に神の慈愛ではなく狂信を見るのだ。
それだけではなく、遂には自らの運命を決める公聴会の前夜、ホテルの隣室から偶然を装ってアルコールへと導く、狡猾な悪魔の軍門にくだってしまう。
そんなダメダメなウィトカーを救えるのは、結局神でも組合でも敏腕弁護士でもなく、同じ痛みを知る人間であり、何よりも自分自身なのである。
病院で出会い、恋人となるドラッグ依存症のニコールは、ウィトカーの合わせ鏡でもあり、癒しでもある重要な存在だ。
だが、もう一人の自分だけでは立ち直るには足りない。
ドラッグから足を洗い、人生を再生しようとするニコールに、ウィトカーはむしろ置き去りにされる孤独を感じ、更に酒に飲まれてしまうのだ。
それでも、保身のために真実をウソで塗り固め、公聴会であと一つだけウソをつけば晴れて自由になれるところまでコマを進める。
そのウソとは、不時着の時にシートベルトが外れた子供を身を呈して救い、結果犠牲になったキャビンアテンダント、しかも自分と恋仲にあった彼女に、機内で酒を飲んだという濡れ衣を着せることだ。
それまでのウソはいくらついても、単に自己正当化に過ぎなかった。
けれど、この最後のウソは、自分が助かるために既に言葉を封じられた死者の名誉を汚す事である。
写真の中で微笑む彼女を見て、ウィトカーは動揺する。
このシーンのデンゼル・ワシントンの演技が凄い。
彼に答えを迫る運輸安全委員会調査班長役は、ワンポイント出演のメリッサ・レオで、名優二人の間には目に見えない火花が散っている。
そして、遂にウィトカーは気付く。
一体自分は何をしようとしているのか?今の自分に守るべきものがあるのか?
抱えている問題を解決するには、自分と真摯に向き合い、自身のダメさ加減を認めるしかないのだ。
「父さんは、何者なの?」
物語のテーマ的には、疎遠だった息子が、映画のラストでウィトカーに投げかけるこの一言が全てだ。
奇跡を起こした機長、ウィトカーの物語は、客観的にみれば転落人生かもしれない。
しかし、少なくとも彼は長い葛藤の末に自分自身が何者かを知り、どう生きるべきかに答えを出したのである。
アル中の怖さを描いた作品に酒を合わせるのは難しいが、今回はライトなテイストのロシアンビール、「バルティカNo.3」をチョイス。
適度な苦味とキレ、きめ細かい泡立ちが楽しめる飲みやすいクラッシックラガーで、ロシアでナンバーワンのベストセラーというのも頷ける。
劇中では主人公がウォッカをガブ飲みしていたが、ウォッカの母国ロシアでは、近年酒税のかからないビールに押されて消費が激減しているらしい。
そこでウォッカ業者の声に押されて今年からビールにも酒税をかけるようになったそうだが、アメリカに輪をかけたアル中大国としては、ハードリカーよりソフトリカーが普及した方が良いのでは・・・f^_^;)

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![]() ロシア ビールバルティカNo.3 (500ml×24)缶ik |
昨今のビギニングブームは、遂に誰もが知る古典タイトルにまで及んだ。
「オズ はじまりの戦い」は、ライマン・フランク・ボームが1900年に発表した児童文学の金字塔、「オズの魔法使い」の前日譚にあたる物語だ。
まだドロシーがオズの国へやってくる以前、偉大なるオズの魔法使い(Wizard of OZ)の誕生秘話が描かれる。
監督は「スパイダーマン」のサム・ライミ、タイトルロールの奇術師オズを、同シリーズのハリー・オズボーン役でブレイクしたジェームズ・フランコが演じる。
彼に絡む三人の魔女役で、ミッシェル・ウィリアムズ、ミラ・クニス、レイチェル・ワイズら旬のビッグネームが競演するのも話題だ。
※ラストに触れています。
奇術師のオズ(ジェームズ・フランコ)は、いつかフーディーニやエジソンの様な偉大な男になりたいと思っているが、現実はしがない旅回りの身。
ある時、気球に乗って移動中に竜巻に巻き込まれ、魔女たちが支配する奇妙な世界“オズ”に墜落する。
この国には、「オズという名の偉大な魔法使いが現れ、国を救う」 という予言があり、西の魔女セオドラ(ミラ・クニス)は、予言の魔法使いが現れたと思い込む。
エメラルドシティへと案内されたオズは、そこでセオドラの姉である東の魔女エヴァノラ(レイチェル・ワイズ)と会い、邪悪な南の魔女グリンダ(ミッシェル・ウィリアムズ)を倒せば、この国の莫大な財宝と王座はオズの物になると告げられる。
オズは、空飛ぶサルのフィンリー(ザック・ブラフ)を相棒に、黄色いレンガの道を行き、途中で助けた陶器の少女(ジョーイ・キング)も仲間に加えて、グリンダの住む森へと向かうが、彼らは何時しかオズの国の存亡をかけた陰謀に巻き込まれてゆく・・・
サイレント映画時代の昔から、何度も映画やアニメーションとして映像化されてきた「オズの魔法使い」だが、このタイトルを聞いて殆どの人が思い浮かべる決定版は、ヴィクター・フレミング監督、ジュディ・ガーランド主演で1939年に発表されたミュージカル映画だろう。
「虹の彼方に」などの名曲と共に世代を超えて愛されている傑作だが、実は当時史上初のカラー長編アニメーション映画、「白雪姫」の大ヒットで勢いにのっていたディズニーも、「オズの魔法使い」のアニメーション映画化を狙っていた。
実際には、ディズニーのアプローチ以前に、映画化権を押さえられてしまっていたため計画は頓挫するのだが、その後ディズニーは「魔法使い」以外の「オズ」シリーズの権利を取得し、1985年には再びオズの国へ戻ったドロシーが繰り広げる冒険をダークなタッチで描いた後日譚、「オズ」を製作している。
今回は「魔法使い」を挟んで時代を遡り、原作シリーズには描かれない、オズの支配者の誕生の秘密を新たな物語として映像化した訳だ。
オリジナルの「オズの魔法使い」をはじめ、多くのファンタジー作品で不思議の世界へと誘われるのは、往々にして思春期を迎えようとする少女である。
子供から大人の女性へと変化する年齢の少女たちを描こうとする時、様々なメタファーを駆使できるファンタジーの世界は、生々しい感情をオブラートに包んで描ける打ってつけの舞台なのだ。
ところが、本作の主人公であるオスカー・ディグス、通称オズは、この種の映画の主人公としてはかなり異色の存在といえる。
何しろ彼は、いつかビッグになる野望を抱いてはいるものの、金と女にだらしのない半分ペテン師の様な奇術師で、オズの国で悪の魔女退治を引き受けるのも、莫大な財宝に目がくらんだ故という情けなさ。
劇中で彼を襲う困難も、多分に女たらしの性格に起因している。
そう、この映画は心根は優しいがダメ男であるオズが、冒険を通じて真に偉大な男、タイトル通りの“the Great and Powerful” へと成長してゆく物語なのである。
当初、エメラルドシティを支配する東の魔女エヴァノラに言われるがままに、南の魔女グリンダを退治するために旅に出るオズだが、実は全てはエヴェノラの陰謀。
オズがただの人間なのを知りながら、あわよくば彼に邪魔なグリンダを殺させようとしていたのだ。
真相を知ったオズが逆にグリンダ側に取り込まれると、エヴァノラはオズを愛する妹セオドラの、グリンダに対する嫉妬心を利用して、彼女を怒りの化身の様な邪悪な魔女へと変身させ、オズとグリンダをまとめて始末しようとする。
魔法の世界であるオズで、無力な人間が如何にして強力な魔力を持つ魔女に勝利するのか。
それは勿論、知恵と勇気、そして単独では弱い人間ならではの友情と信頼の力によるものなのだが、サム・ライミはそこに“映画史”というギミックを付与した。
冒頭、カンザスのサーカスのシークエンスは、クラッシックなモノクロのスタンダード画面で始まり、気球がオズの世界へと入ると、一気スクリーンがカラーのシネスコサイズへと広がる。
売り物の立体映像も、今どき珍しい見世物精神たっぷりの飛び出し系。
立体演出では、飛び出してくるオブジェクトがスクリーンの縁で遮られた瞬間、立体効果を失うのが欠点だが、本作の冒頭では狭いスタンダード画面から飛び出した物が、余白である左右の黒味部分にまではみ出すという、逆転の発想で立体効果を高めている。
フレームの中の光の芸術である映画の特質を、巧みに生かした見事な導入だ。
また、主人公の持ち物の中には、アニメーション機械のプラクシノスコープがあり、クライマックスの魔女エヴァノラとセオドラとの決戦のために、彼が“発明”するのがこの機械の原理を使い、煙のスクリーンに映像を映写する機械なのである。
史実では、フランス人のシャルル・エミール・レイノーによって1888年に発明された投影型アニメーション機械、テアトルオプティックもどきを、本作ではオズが作り上げてしまうのだ。
そう、これはある意味ライミ版の「ヒューゴの不思議な発明」であり、映画という新時代の魔術が、古の魔法を打ち破る物語でもある。
あの映画に登場する“最初の映画監督”ジョルジュ・メリエスは、元々オズ同様に映像の可能性に気づいた奇術師だ。
そして、オズが自分もこうありたいと願う“偉大な男たち”が、ハリー・フーディーニと映画の発明者の一人であるエジソンというのも象徴的。
フーディーニもまた稀代の奇術師であっただけでなく、サイレント期の映画監督・俳優としての顔も持ち、また奇術の知識によって、数々の超能力や幽霊現象といった“魔法”のトリックを暴いたサイキック・ハンターとしても知られた存在である。
しかし、ファンタジーの世界へと旅した多くの少女たちと異なり、本作のオズは冒険を終えた後も現実世界へ戻らない。
サーカスでオズの傲慢さに愛想を尽かしているマネージャーのフランクとの関係は、空飛ぶサルのフィンリーとの友情へ、奇術では救うことの出来ない車椅子の少女の願いは、足を折られた陶器の少女の救済へと置き換えられている。
もちろん「オズの魔法使い」との整合性の問題はあれど、この種の映画のセオリーに従えば、物語のラストは成長したオズがカンザスへと戻り、現実の彼らと以前とは異なる関係へと踏み出すのが王道だろう。
では何故オズは、自らと同じ名を持つ魔法の国へと留まるのか。
それは本作が、「オズの魔法使い」へと連なる前日譚であるのと同時に、奇術と科学が融合し、非日常を作り出す新たな魔術、“映画誕生”のメタファーであり、オズとは映画そのものだからだ。
文字通り“映像の魔術師”としてこの世界の象徴となったオズにとって、自らの存在すべき場所は、もはやスクリーンのこちら側ではなく、向こう側にしかあり得ないのである。
今回は、オズの都エメラルドシティのイメージで、カクテルの「エメラルド・ミスト」をチョイス。
ドランブイ45ml、ブルーキュラソー20mlを軽くステアし、クラッシュド・アイスを入れたグラスに注ぐ。
最後にレモンピールを飾って完成。
ブルーキュラソーの色が氷を染めてエメラルドの様に輝き、冷やされたグラスの表面は名前のとおり霧で覆われた様になり美しい。
甘口だが度数は高く、魔女の魔法のように危険なカクテルだ。

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![]() ドランブイ 750ml |
映画監督にしてエンスージアスティックな映画マニア、クエンティン・タランティーノが今回俎上に載せるのは、彼自身が一番好きだという西部劇だ。
しかも 換骨奪胎するのはハリウッド保守本流ではなく、イタリア製の所謂マカロニ・ウェスタンである。
なるほど、一般に白人のジャンルの印象が強い西部劇にも関わらず、本作のヒーローはジェイミー・フォックス演じる解放奴隷のジャンゴで、パートナーとなるのは外国人賞金稼ぎのシュルツ。
伝統的な西部劇の世界観ではアウトサイダーである彼らが、超白人至上主義者の農園主と対決するのだから、これは西部劇に対する大いなるオマージュであるのと同時にアンチテーゼでもある。
※ラストに触れています。
南北戦争勃発の二年前。
歯科医から賞金稼ぎへと転進したドイツ人のシュルツ(クリストフ・ヴァルツ)は、賞金首の顔を知る奴隷のジャンゴ(ジェイミー・フォックス)を奴隷商人から強引に買い取る。
ジャンゴが生き別れになった妻のブルームヒルダ(ケリー・ワシントン)を捜している事を知ったシュルツは、彼をパートナーとすると、次々にお尋ね者を殺して賞金を荒稼ぎ。
遂に、ブルームヒルダを買ったのが、南部の大農園主ムッシュ・キャンディ(レオナルド・デカプリオ)である事を突き止める。
だがキャンディは、鍛え上げた奴隷同士を死ぬまで戦わせて楽しむ様な極悪人で、そう簡単にブルームヒルダを買い戻せるとは思えない。
シュルツは、キャンディをペテンにかける計画を立て、 ジャンゴを黒人の奴隷商人に仕立て上げると、農場へ乗り込むことに成功する。
だが、キャンディの部下のスティーブン(サミュエル・L・ジャクソン)が、ジャンゴとブルームヒルダが顔見知りだと気づき・・・・
タランティーノの最大の特質は、娯楽映画としての巧みな脚本構成と、わかりやすいマニアックさにあると思う。
今回も、冒頭がいきなりセルジオ・コルブッチ監督のマカロニの名作、「続 荒野の用心棒」のほとんどフルコピー。
タイトルロールの“ジャンゴ”自体がこの映画でフランコ・ネロが演じたキャラクターと同名であり、オリジナルでは彼がマシンガンの入った棺桶を引きずって登場するが、今回引きずられているのは奴隷であるジャンゴ自身という訳だ。
更に劇中には、ご丁寧にネロとフォックスの新旧ジャンゴが顔を合わせるシーンまである。
他にも「殺しが静かにやって来る」「マンディンゴ」「黒いジャガー」など、一見しただけでもわかる引用作品は数多い。
もちろん、タランティーノは単に古い映画の再現をやって喜んでいる訳ではない。
本作の物語のベースになっているのは、今なお人種間対立に影を落とし、アメリカ人が一番触れられたくない黒歴史、奴隷制度の悲劇であり、人道主義を標榜する現代から、米国史が抱え込む矛盾への痛烈な自己批判である。
勝手に歴史を改変してまで、ナチズムをコテンパンにした「イングロリアス・バスターズ」に続いて、タランティーノは嘗て白人が演じたジャンゴというアイコンを、あえて黒人に置き換えることで、実に痛快に奴隷制度を粉砕してみせる。
ハリウッド映画ではなく、タランティーノの民族的ルーツでもあるイタリア人が、西部開拓史を戯画的に描いたマカロニをベースにしたのも、生々しすぎるモチーフだからなのかもしれない。
映画作家としてのタランティーノのやりたい事は、決して実録物の様なリアリズムではなく、あくまでも虚構としての映画力、シネマティック・イリュージョンによってテーマを表現する事なのだと思う。
実際、長い歴史を持つハリウッドでも、物語のバックグラウンドやサイドストーリーではなく、正面から奴隷制度を描いた作品は少ない。
本作にも強い影響を与えていそうなリチャード・フライシャー監督の「マンディンゴ」や、日本でも大きな話題になったテレビドラマの「ルーツ」、それにスピルバーグの「アミスタッド」あたりが思い浮かぶ位だろうか。
アメリカの奴隷制度の暗部を赤裸々に描いた初めての作品は、私の知る限りではハンガリーのゲザ・フォン・ラトヴァニ監督が1965年に発表した「アンクル・トム」だ。
原作はもちろん、1852年に出版されたハリエット・ビーチャー・ストウの米国古典文学「アンクル・トムの小屋」で、当時のアメリカで大論争を巻き起こし、南北戦争の遠因になったとも言われている小説だが、この映画は西ドイツ・フランスなどヨーロッパ資本の合作によって製作された。
またマカロニ・ウェスタンを生み出したイタリア映画界では、1971年にモンド映画の巨匠グァルティエロ・ヤコペッティがドキュメントタッチの異色作「残酷大陸」を発表。
奴隷制度を描く劇映画に関しては、アメリカよりもタブーから自由なヨーロッパが先んじていたのである。
本作においても、ドイツ人であるシュルツは、人間を家畜の様に扱う奴隷制度に、何の疑問も抱かないアメリカ人の野蛮さに辟易している。
そして彼が自由にしたジャンゴと、その妻ブルームヒルダの物語に、母国ドイツの英雄叙事詩「ニーベルンゲンの歌」重ね合わせるのだ。
本来の叙事詩の主人公、英雄ジークフリートは、唯一の弱点である背中を貫かれて息絶えるが、シュルツはドイツ人の誇りにかけてアメリカの荒野で物語の結末を書き換えようとするのである。
面白いのは、この役を演じているクリストフ・ヴァルツが、「イングロリアス・バスターズ」では、邪悪なナチス将校を演じていた事で、今度は真逆の立場で卑劣漢のアメリカ人たちをぶっ殺すのだから、やはりタランティーノのセンスはユニークだ。
またこのキャラクターは、ムッシュ・キャンディに体現される傲慢なアメリカの白人たちに対する、ジャンゴの復讐心のストッパーの役割をも果たしている。
冒頭の奴隷商人たちから、ドン・ジョンソン演じるKKKの元祖(?)に、デカプリオが怪演するムッシュ・キャンディとその一党にいたるまで、本作に登場する“白いアメリカ人”たちは、とにかく奴隷サイドから見た血も涙も無い極悪人として描写されており、それ故に物語の終盤でシュルツが退場すると、もはや誰もジャンゴを止められる者はいなくなる。
無敵のジークフリート、いやジャンゴは、自らを虐げた白人たちに徹底的な破壊と殺戮を齎すダークヒーローと化すのである。
もちろん、タランティーノ自身はアメリカの負の歴史を描きながらも、自分が加害者サイドの白人である事も十分認識しており、だからこそ自らスクリーンでジャンゴと対決し、ある意味劇中で最も壮絶な最期を遂げて見せたのだろう。
娯楽映画として本作のバランス感覚が非常に優れている点は、単純な“悪の白人vs正義の黒人”という構図に陥らせないように、物語の軸にシュルツというジャンゴにとってもリスペクトの対象となる白人を配置し、同時に最終的なボスキャラのポジションを、黒人でありながら黒人を支配するスティーブンに設定したことだろう。
これによってジャンゴの殺戮は、肌の色によるものでなく、あくまでも非人道的な悪を対象とした行為である事が強調され、観客は彼の拳銃が火を噴くたびに悪漢たちが倒される事に、心おきなく映画的カタルシスを感じる事ができるのだ。
もっとも、いくら痛快とは言ってもそれが暴力の連鎖に変わりはないことも、本作は時代設定によって示唆する事を忘れない。
大爆発するムッシュ・キャンディの屋敷と共に、ジャンゴの“戦争”は終わったかもしれない。
しかし、彼らのすぐ先にある未来、それは決して平穏な時代ではなく、同じ国の国民同士が殺し合い、60万人以上の犠牲を出した“南北戦争”という史実であり、その後の長い長い人種間対立の歴史なのである。
今回は1888年創業の、代表的なケンタッキーバーボン「フォア・ローゼス・プラチナ」を。
ラベルに描かれた薔薇は、一説によるとこの酒の生みの親ポール・ジョーンズがプロポーズした相手が、結婚OKであれば四輪の薔薇をつけて舞踏会に来ると約束した事に由来するという。
テイストは適度なコクがあり、クリーミーでまろやかで比較的飲みやすい。
現在では日本のキリンビールのグループ会社になっている事もあって、日本でも一番手に入りやすいバーボンである。

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「クローバーフィールド/HAKAISHA」の脚本家、ドリュー・ゴダードの監督デビュー作は、山奥のキャビン(山小屋)を訪れた5人の若者に降りかかる恐怖を描いた、超異色のホラー映画。
プロデュースと共同脚本には「アベンジャーズ」のジョス・ウェドンが名を連ね、若者たちの一人を演じるクリス・“神”・ヘムズワースも同作繋がりだ。
当初は2010年に公開予定だったものの、配給のMGMの財政破綻などの余波により、本国公開まで2年以上もお蔵入りした不運の作品。
まあ、その間に関係者が次々と有名になった事を見ると、むしろ幸運の作品でもあるのかもしれないが。
過去のどんな映画にも似ておらず、何とも形容のしがたい大怪作で、本当に日の目を見て良かったと思う。
ホラー映画ファンほど騙され、楽しめる事は確実だ。
※核心部分に触れています。
真面目な女子大生のディナ(クリステン・コノリー)は、友達のジュールス(アンナ・ハッチソン)とその彼氏のカート(クリス・ヘムズワース)、彼のアメフト仲間のホールデン(ジェシー・ウィリアムズ)、変人のマーティ(フラン・クランツ)の5人で、カートのいとこが買ったという山奥のキャビンにバカンスへ出かける。
その夜、早速飲んで踊って楽しい時間を過ごしていると、突然地下室への扉が開く。
5人が恐るおそる入ってみると、そこには古びた絵画や人形、時代を感じさせる様々な宝飾品などが雑然と置かれていた。
ディナは、一冊の日記帳を見つけるが、それはずっと昔にこのキャビンで、家族同士が殺し合った惨劇の記録だった。
日記には、ラテン語で復活の呪文が書かれているのだが、何も知らないディナはそれを読んでしまう・・・
冒頭、この手の映画には似つかわしくない、リチャード・ジェンキンスとブラッドリー・ウィットフォード演じる、二人のおっさんの会話で始まることに面食らう。
近代的な研究所のようなところに勤めている彼らは、どうやら全世界規模のプロジェクトの一つを動かしているらしい。
本作の物語のベースになっているのは、H・P・ラブクラフトらによって創造された所謂「クトゥルー神話」だ。
嘗て強大な力で地上を支配した太古の邪神は、今なお地中や海中深くに眠って復活の時を待っているというアレである。
古き神々を目覚めさせないために、人類はグローバルな秘密組織を作り、人知れず人間の血を生贄として捧げる事で、この世界を維持しているというのが本作の世界観なのだ。
つまり冒頭のおっさんたちは、組織のアメリカ支部の担当者たち。
毎年用意周到に“淫売”“愚者”“学者”“競技者”そして“処女”の役割を与えられた5人の若者たちを、やはりラブクラフトの影響の強い「死霊のはらわた」に出てきたのとそっくり(どちらかと言えばゲーム版だが)な山奥のキャビンに送り込み、怪物に殺させるのが任務だ。
現れる怪物の種類は地下室にある数多くのホラーアイテムの中から、生贄たち自らによって“偶然”選ばれ、本作においては「死霊のはらわた」と同じく、復活の呪文によって死の引き鉄がひかれ、ゾンビ一家が蘇るという訳である。
面白いのは世界中で行われている死の儀式は、それぞれのお国柄が出ているらしい事で、例えば日本支部から送られている映像には、あの“貞子”の様な幽霊が映し出されている。
「リング」「呪怨」に代表されるJホラーは、80年代以降パターン化したアメリカンホラーの世界に、大きなインパクトと共に全く新しい恐怖のイメージを齎したエポックだったので、これはハリウッドからJホラーへの嬉しいオマージュだろう。
もっとも、生贄といっても殺される方も必死で抵抗するから、いつも首尾よくいくとは限らない。
各国の支部が行う儀式で、どこか一つだけでも成功すれば良いが、もしも全て失敗し生贄が手順どおりに捧げられなければ、古き神々が復活し世界は滅びてしまう。
劇中では他国の儀式が次々と失敗に終わり、人類最後の砦がアメリカ支部という事になり、組織はあの手この手でゾンビ一家をサポートし恐怖を演出する事になるのだ。
ドリュー・ゴダードは、まるでクリスタル・レイクの様な湖が近くにある山奥のキャビンという、典型的な80年代ホラーの舞台装置に、これまた典型的なアメリカの若者グループを配し、“ホラー映画あるある”的にこのカテゴリを戯画化してみせる。
死すべきキャラクターは死なず、本来ヒーローとなるべきキャラクターはあっさりと死んだり、お約束の意図的なハズシによって、ホラーを知る観客ほど笑えるという寸法だ。
だがここまでなら、例えばウェス・クレイブン監督が自作を含む低予算ホラーをセルフパロディ化した「スクリーム」シリーズや、ジョン・ギャラガー監督の「ザ・フィースト」シリーズなどが既にやっている。
世界を救う秘密組織が、人知れずホラー祭りをやっているという「トルーマン・ショー」的な構造は目新しいが、冒頭からいきなりネタ晴らししているので、これも世界観の仕掛け以上の衝撃は無い。
実は、本作が本当の意味で特異性を発揮するのは、上映時間の2/3が過ぎて普通の作品であれば生き残る者が大体決まり、物語の収束点へと向かって動き出す辺りからである。
ここからはもう何を書いてもネタバレになってしまうので出来るだけ自粛するが、ある人物の意外な行動を切っ掛けにして、物語は予想もしない方向へと進みだし、ブレーキの壊れた機関車のように、ありとあらゆる“ホラーの常識”を破壊しながら暴走するのだ。
この種の映画の熱烈なファンほどに嬉しくなってしまう怒涛の展開と、クライマックスの唐突な“あの人”の登場。
思うに“あの人”は、もはや西部劇におけるジョン・ウェインの様に、ジャンル映画のアイコン化しているのだろう。
そして、とてもじゃないけど物語の入り口からは想像すら出来ない、豪快かつ壮大なラストカットのインパクト。
これは、ある意味でラブクラフト以来のアメリカン・ホラーの系譜に現れた大カタストロフィであり、長年の間マンネリの手垢に塗れたこのジャンルの創造的な解体だ。
おそらく相当に観客を選ぶ作品だろうが、「我こそはホラーファン」と自認する人は、真っ先に劇場に駆けつけるべき作品であることは間違いない。
今回は、過去にも何度か付け合せたボトラーズ・ブランド、コンパスボックス社の「ピートモンスター」の新パッケージをチョイス。
ラベルのモンスターは、怖いというよりはどこかユーモラスで、昔ジム・ヘンソンが作った「ストーリー・テラー」の「恐怖を知らなかった少年」というエピソードに出てきた沼の主に似ている。
中身の方はスモーキー&スパイシー、適度なピート感とフルーティーさもあり、名前とは裏腹に比較的マイルドで美味しいお酒だ。

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