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セデック・バレ・・・・・評価額1650円
2013年04月30日 (火) | 編集 |
野蛮の誇り。

大日本帝国施政下の台湾で、先住民のセデック族が蜂起、日本軍・警察と交戦し、双方に多大な犠牲を出した、いわゆる“霧社事件”の顛末を描いた歴史ドラマ。
「セデック・バレ」とは彼らの言葉で“真(まこと)の人”を意味するという。
監督は「海角七号/君想う、国境の南」のウェイ・ダーションで、台湾、香港、中国、韓国、日本とアジア各国からスタッフ・キャストが結集。
実際に先住民族の頭目であり映画初出演のリン・チンタイが、セデック族のカリスマ的リーダー、モーナ・ルダオを演じ、圧巻の存在感を見せる。
第一部「太陽旗」、第二部「虹の橋」、合わせて4時間36分に及ぶ堂々たる超大作だ。

1895年。
日清戦争の結果、台湾は日本領となり、先住民族の暮す奥地にも日本人が進出。
勇猛なセデック族タクダヤ藩は、日本の支配に抵抗するが、近代兵器で武装した日本軍に遂に制圧される。
それから長い歳月が流れた1930年秋。
霧深いタクダヤ藩の土地は霧社と呼ばれ、多くの日本人が暮す様になったが、セデック族はその下働きに甘んじていた。
だが結婚式での揉め事で、タクダヤ藩マヘボ社(村)の頭目モーナ・ルダオ(リン・チンタイ)の息子、タダオ・モーナ(ティエン・ジュン)が日本人の巡査を傷つけてしまった事から、ルダオは長年密に準備してきた蜂起を決意。
霧社の学校で運動会が開かれ、近隣の日本人が全て集まる日、遂に反乱の火蓋が切られた・・・


異民族との出会いと戦いの物語は、フィクション、ノンフィクションに関わらず今までも多くの映画の題材として描かれてきた。
比較的近年の作品でも、騎兵隊員とアメリカ先住民スー族との大平原での出会いを描いた「ダンス・ウィズ・ウルブズ」、同じく元騎兵隊員と時代遅れの侍たちの物語「ラスト・サムライ」、舞台を宇宙にまで広げ、人類と異星の先住民族との戦いを描く「アバター」も記憶に新しい。
しかし理由は後述するが、これらの映画よりも私が本作に既視感を感じたのは、実はジブリアニメの「もののけ姫」なのである。
ハリウッドやヨーロッパの映画では、たいてい“西洋=進んだ文明”と彼らにとっての“野蛮=遅れた部族社会”との出会いと葛藤が描かれるが、本作においての“文明”のポジションを占めるのは脱亜入欧を遂げた日本人だ。
抗日戦争映画における悪の日本兵とはまた異なる、善意の抑圧者として我々自身が描かれる事は珍しく、ある意味新鮮な映画体験だった。

もっとも、日本人を敵役として戦う映画だが、この映画には敵はいても悪はいない。
セデック族に彼らなりの動機がある様に、日本人にも文明の火で未開の部族を照らすという大義名分があるのだ。
本作の主観的な存在であるセデック族は、いわゆる首狩り族である。
映画の冒頭に描かれる様に、日本による台湾併合以前には、先住民同士の戦いで首狩りが習慣的に行われており、敵を殺してこそ一人前の男として認められる事から、併合後も抗争が絶えなかった様だ。
だから、日本という文明のくびきから逃れ、本来の姿に戻った彼らの戦いは凄まじい。
敵である日本人は、女子供であろうと皆殺し。
それどころか、軍との戦いが始まり、足手まといとなると悟ったセデックの女たちは、自ら率先して次々と命を絶つのである。

ぶっちゃけ、彼らの死生観は、我々の目にはあまりにもエキセントリックに見える。
セデック族側も、自らが野蛮で日本人が文明人であることは認めていて、だから「日本人は決して妊婦を殺さない」などという台詞が彼らから出てきて、実際傷ついたセデックの女性が日本人によって手厚く看護される描写もあるのだ。
四時間を越える長尺は、それぞれの立場のキャラクターを丁寧に描き、単純な勧善懲悪に陥らない多面性を作品に与えた。
戦争アクション映画として“盛ってある”部分はあるものの、事件全体の展開もほぼ日本側の記録通りである。
少なくとも日本人に対して、植民地支配の道義的、政治的責任を追及する様なニュアンスは本作には皆無であり、本作が反日のベクトルを持っていないことは明らかだ。

「文明が屈服を強いるなら、俺たちは野蛮の魂を見せてやる」と“真の人”モーナ・ルダオは語る。
生命の息吹溢れる強烈な木々の緑と、深山の切り立った断崖絶壁の作り出す、まるで仙境のような浮世離れした世界観。
この地で暮らす人々に、文明の常識を押し付けることが果たして正しいのか。
それはある意味、彼らが脈々と受け継いできた、物質では計れない精神世界を破壊する行為なのではないか。
圧倒的な自然の懐に抱かれ、敵の血を生贄として捧げるセデック族が見ているのは、外界とはかけ離れた異世界であり、そこでは何を持って人間の尊厳とするかも文明社会とは異なっている。
現在の我々には常識的な、戦いはいけない、殺してはいけないという概念すら絶対の物とは言い切れなくなるのである。
彼らにとって敵味方問わず“死”は自然と祖霊に捧げられる神聖なものであり、忌むべき事象ではないのだ。

ウェイ・ダージョン監督はしかし、一見すると正反対であるセデック族と日本人が激しく殺し合う物語を通して、やがてお互いがお互いの中に同根を見る構造としている。
深山のロケーションだけでなく、この仕掛けこそが、私が本作に「もののけ姫」の精神を感じた所以である。
あの映画では、日本列島の先住民族である蝦夷の少年アシタカが、本作の霧社を思わせる深い森で、自然の象徴たる巨大な動物たちと暮らすもののけ姫サンと、鉄を求め山を切り開こうとする“文明”との戦いに巻き込まれる。
本作のセデック族を、死を賭してでも森と自然の尊厳を守ろうとするサンと動物たちに、日本人を、鉄を求め鉄砲衆とたたら場を率いるエボシ御前の一党に置き換えれば、両作の類似性がよくわかると思う。
戦いの結果、数多くの死と破壊が齎され、森の大きな意思が失われても、最後には「生きろ」というメッセージが強く残るのも共通である。
劇中、セデック族による“切腹”の描写が二箇所あるが、これは明らかに侍を意識した描写だろう。
また、日本軍を指揮する鎌田司令官は、セデック族を野蛮人と断じ、掃討の為なら化学兵器の使用すら厭わない人物だが、たった300人で近代兵器で武装した数千の日本軍に一歩も引かない彼らに驚嘆し、遂に失われた武士道を見たと吐露するに至るのだ。
セデック族の信仰する虹も日本人が崇拝する太陽も、どちらも同じ空にあり、両者にはアニミズムと祖霊信仰、そして屈辱に塗れた生よりも、誇りある死を貴ぶという符合もある。
これは同じアジアの別の島で生まれ、同じ根を持ちながらも何時しか異なる道を歩み始めた二つの民族が、殺し合いという最大の葛藤の末に再び響き合うまでの、魂の激突を描いた悲しく、しかし崇高な物語なのだ。
しかし、霧社事件でセデック族が奮戦し、短期間とは言え日本軍を脅かした事が、第二次世界大戦で多くの戦死者を出した高砂義勇隊の悲劇、その後の国民党支配下での“親日部族”としての冷遇に繋がるのだから歴史とはなんとも皮肉なものである。

劇中ではセデック族も日本人もガンガン日本酒を飲んでいたが、今回は日本の首都東京の地酒、小澤酒造の「澤乃井 純米 大辛口」をチョイス。
純米のやわらかさを持ちながら、シャープな辛口の味わいを持つ。
さすがに霧社ほど山深くは無いが、奥多摩に向かう山の街道に生まれた、味わい豊かな酒である。
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ラストスタンド・・・・・評価額1600円
2013年04月26日 (金) | 編集 |
ロートル保安官の不屈。

長らくカリフォルニア州知事を務めていたアーノルド・シュワルツェネッガーの、2003年の「ターミネーター3」以来10年ぶりの主演復帰作は、メキシコ国境の田舎町を舞台に麻薬組織と保安官たちの戦いを描くアクション映画だ。
政治家をやっている間に65歳の爺さんになっていたシュワちゃんに、もはや10年前のマッチョさは感じられないが、その衰えがむしろ良い味わいになっている。
監督は、「悪魔を見た」キム・ジウンで、これが初のハリウッド映画。
このところ、ポン・ジュノ、パク・チャヌクら黄金世代が続々と海を渡っている韓国映画界だが、その先陣を切った作品となった。
オールドファッションが敬遠されたのか、残念ながら米国では興業的には失敗作となってしまったが、なかなかどうして映画ファンの心の琴線に触れる娯楽快作である。

元ロサンゼルス市警の敏腕刑事だったレイ・オーウェンズ(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、今では都会の喧騒から離れてアリゾナ州の国境沿いの小さな町で保安官をしている。
だがある日、彼の元にFBIのバニスター捜査官(フォレスト・ウィテカー)から警戒を呼びかける電話が入る。
護送車から脱走した麻薬王コルテス(エドゥアルド・ノリエガ)が、国境の突破を狙って南へと向かっていると言う。
その頃、オーウェンズの部下が、町の郊外に展開する武装集団と遭遇、銃撃を受けて副保安官のジェリー(ザック・ギルフォード)が亡くなってしまう。
コルテスが向かっているのはこの町に間違いない。
SWATチームの応援も間に合わず、オーウェンズは保安官として、コルテスを止める最後の砦となる事を決意するが・・・


国境の田舎町に迫り来る悪の軍団。
援軍は来ず、迎え撃つのはロートルの保安官と僅かな数の仲間たち・・・というプロットはフレッド・ジンネマン監督の「真昼の決闘」以来、西部劇の王道の一つだ。
嘗て「グッド・バッド・ウィアード」で、満州を大西部に見立てたキム・ジウン監督は、使い古された設定を利用して、実に味わい深い“伝統的ハリウッド映画”を作り上げた。
しかし、開拓時代ならともかく、今時孤立無援となる可能性は低い。
21世紀にこの物語を成立させるために、本作の脚本チームは色々な工夫を凝らしている。
まずは逃走した麻薬王コルテスが駆る車を、最高速度300キロオーバーのコルベットZR-1カスタムとし、ヘリコプターすら追いつけないスピードを与える事によって、神出鬼没で長大なアメリカ・メキシコ国境のどこに向かうのか予測不可能とした。
更には応援のSWATチームを途中で粉砕する事で、オーウェンズらを崖っぷちの状況へと追い込むのである。

敵味方それぞれのチームも、良い感じにキャラ立ちしている。
主人公のオーウェンズ保安官は元LAPD麻薬捜査課の敏腕刑事だったが、多くの部下を死なせてしまった事で傷心し、今では田舎町で半隠遁生活・・・とこれまたお約束。
面白いのは、彼が移民だという設定だ。
シュワルツェネッガーは何十年もアメリカに暮らしているのに、母語のオーストリア訛りがなかなか取れない人だが、演じるキャラクターが移民であると劇中で言及されるのは珍しい。
オーウェンズは元アウトサイダーとして苦労を知るが故に、なおさら移民全体の面汚しとなるコルテスの様な男が許せないのだ。
また麻薬犯罪によって心の傷を背負わされたオーウェンズにとって、不利な状況でもコルテスに屈しない事は、自らの過去を克服し、死んでいった部下たちに報いる事も意味するのである。

彼と共にコルテスに立ち向かう四人の仲間も、対テロ戦争の帰還兵、コミックリリーフだがやる時はやるヒスパニックのおじさん、紅一点の女性副保安官、武器オタクでコレクションの銃にいちいち名前を付けてる変人、と個性豊かだ。
対する敵側のメンツも濃い。
スーパーカーでドライビングテクニックを見せつけ、ナルシスト全開のコルテスを筆頭に、不二子ちゃん的裏切りキャラで萌え担当のリチャーズ、コルト・ネイビーなんて超年代物の銃を愛用してる最狂の殺し屋ブルズ。
いくらなんでもプロがあんな非効率的な武器を使う訳がないけど、この映画ではそれが許せるのだ。
なにせここは大西部だから!

帰って来たスーパースター、シュワルツェネッガーという絶対的な存在、魅力的な悪役に、面白い王道の物語が揃えば、もう小手先のテクニックなどは必要ない。
キム・ジウンは、最近流行りの細切れ映像とCGだらけのアクション描写とは明確に一線を画し、この良い意味で古臭く大らかな物語に相応しい、伝統的なスタイルでキレ味鋭いアクションを繰り広げる。
正に西部劇さながらの銃撃戦から、コルベットvsカマロのちょい「ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア」を思わせるコーン畑のカーチェイス、そしてボスキャラ同士のどつき合いまで、過剰になり過ぎず程度な抑制をもって“気持ちの良い活劇”を見せてくれるのである。
アメリカ人のタランティーノが「ジャンゴ 繋がれざる者」でマカロニへオマージュを捧げるなら、ハリウッド映画ラブの韓国人キム・ジウンは、正統派西部劇で応える。
全体の雰囲気は、7、80年代位のイーストウッド主演のアクション映画を思わせ、実際オーウェンズのキャラクターは2、30年前なら彼にピッタリだっただろう。
ぶっちゃけ今風の作品で無いのは確かで、アメリカでコケちゃったのもわかる気はするけど、これはセンス・オブ・ワンダーに溢れた愛すべき正統派。
GWにスカッと楽しみたい映画好きには、イチオシの作品である。

今回は熱いアリゾナを舞台とした熱い映画に、アメリカンビールの代表的銘柄「ミラー ドラフト」をチョイス。
炎天下で水の様に飲めるスーパースムーズな喉ごしは、日本でもBBQなどのアウトドアにピッタリ。
連休には気持ちの良い映画を観て、気持ちの良いビールを飲みたい。
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リンカーン・・・・・評価額1800円
2013年04月22日 (月) | 編集 |
真のリーダーに、求められるもの。

所謂伝記映画とは少し違う。
アメリカの歴史上、最も敬愛され、そして最初に暗殺された大統領となったエイブラハム・リンカーンは、南北戦争末期に戦争の終結と奴隷制度を永久に葬る合衆国憲法修正十三条の成立という、相反する二つの政策を同時に成し遂げなければならなくなる。
これはリンカーンの人生全てを描くのではなく、政治家としての集大成となった暗殺前の最期の三ヶ月間の、苦悩と葛藤を描くポリティカルドラマだ。
ダニエル・デイ=ルイスが、例によって神演技で蘇らせたリンカーンを、名手ヤヌス・カミンスキーがフィルムへと刻み込み、巨匠スティーブン・スピルバーグが魂の名演出でスクリーンに結実させる。
正しく、現代アメリカ映画界最高のスタッフ・キャストによる至高の逸品。
今の世に響くテーマを考えても、アカデミー作品賞は本作に贈られるべきだった。

1865年1月。
南北戦争は終結に向かっていたが、リンカーン(ダニエル・デイ=ルイス)は奴隷制を法的に禁じる合衆国憲法修正十三条の下院での可決を急いでいた。
もしも法案成立前に戦争が終われば、議会内の奴隷制度維持派が勢いづき、奴隷解放宣言が骨抜きになりかねない。
修正十三条の成立に政治生命をかけるリンカーンは、与党共和党内部の権力闘争に挑みつつ、野党民主党の切り崩しにも取り掛かるが、票読みは芳しくない。
一方、リンカーンの長男ロバート(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)が陸軍入隊を志願した事で、妻のメアリー(サリー・フィールド)は取り乱し、リンカーンは内と外で追い詰められてゆく・・・


本作で描かれるのは、民主主義という制度の尊さ、厳しさ、そして清濁合わせ飲む覚悟を持った、リーダーの資質だ。
独裁や全体主義であれば、リーダーはそれぞれの理念に基づいて“理想”や“正義”に向かうのは簡単な事だ。
邪魔する者が現れれば、ただ無情に排除すれば良いのだから。
ヒトラーやスターリン、毛沢東ら歴史に名を残す独裁者はそうやって自分の理想を追求し、結果として一部の人間は幸福になったかも知れないが、同時に数千万人が犠牲となった。
人々の運命はリーダーの抱く理想に嵌れば天国、外れれば地獄なのは歴史が証明している。

一方、民主主義社会ではそうはいかない。
リーダーは多様な意見を聞き、反対派を懐柔し、自分の理想とする政策と反対意見とのバランスをとって実行する事が求められる。
本作のリンカーンは、子供の頃に読んだ伝記で描かれている様な聖人君子ではない。
奴隷解放を確実にする、合衆国憲法修正十三条という最大の政策目標を達成するためには、政敵と裏取引し、ロビイストを利用し利権をちらつかせて票を買う事すら厭わない。
150年前のワシントンを舞台にした物語は、現在の政治の世界とあまりにも似通って見えるだろう。

だが、それは当たり前だ。人間など何時の時代もそれほど大きく変わるものではない。
人々は変化を恐れるし、一度手に入れた利権はそう簡単には手放さない。
権力が分散する民主主義社会で、リーダーに託された権限は、独裁者たちよりもはるかに小さく、任期のある一人のリーダーが在任中に成し遂げられる事は僅かだ。
例えば、リンカーン政権は、奴隷解放を成し遂げた一方、アメリカ先住民族に対しては冷酷であったという批判的な意見もある。
しかし、この時代には奴隷たちは少なくとも合衆国の民であったが、先住民たちは必ずしもそうとは見なされていない。
西部では未だ入植者と軍、抵抗する先住民の果てしない抗争が続いており、事実リンカーンの祖父も彼らとの争いで殺害されているのだ。
16世紀以来の400年戦争が、実質的に先住民族側の敗北に帰結するのは、リンカーンの死後25年後のウーンデッド・ニーの虐殺によってである(抵抗運動はその後も続いているが)。
残念ながら、彼らの存在にまで理想を広げられる時代に、リンカーンは生まれていなかった。
彼の出来た事は奴隷解放までであって、そこから更に踏み込んだなら、より多くの政敵に囲まれ、奴隷解放以前に政治生命を絶たれていたかもしれない。

逆に、多くの人々のコンセンサスを得て少しずつ変化してゆくからこそ、数十年、百年という長期的なスパンで見れば、ほとんどの民主主義社会はベターに変化しているのもまた歴史が証明している。
この映画の時代、合衆国に暮らす多くの黒人は人権を認められない奴隷の身分で、彼らはもちろん女性にも参政権は無く、階級社会は今よりもはるかに強固で、同性愛者は息を潜め一生の秘密にするしか無かった。
たとえ一人ひとりができることは小さくても、誰かが倒れれば別の誰かが志を受け継ぎ、厳しく多様な意見に晒されながら、ベターな世界を目指し続けるスピリットの尊さこそ、本作においてリンカーンという偉大なアイコンが象徴している事なのである。

もちろん、本作はただ堅苦しいだけの政治映画ではない。
何としても残酷な奴隷制度に終止符を打ちたいが、政局に時間をかければ南北双方の若者たちが無駄に死んでゆく究極のジレンマ。
更に愛する我が子をも戦場へと送り出し、リンカーンは政治家としてだけではなく父親として夫として、複雑な葛藤に苦しむ事になる。
己の弱さに向き合い、幾つもの重く辛い決断をくださねばならない人間リンカーンのドラマは見応え十分で、150分の長尺も全く長く感じない。
彼と真剣勝負を繰り広げる政敵の策士たち、共和党保守派重鎮で和平交渉を画策するフランシス・プレストン・ブレアや、逆に過激な奴隷解放論者のサディアス・スティーブンスらとの駆け引きもスリリングだ。
特にトミー・リー・ジョーンズ演じるスティーブンスは、よくぞここまでという位の本人との激似っぷりで、終盤実に美味しい泣かせどころをさらってゆく。

しかし、歴史劇であり、複雑な政治的葛藤を描く物語ゆえに、日本人にとっては意外性のある話だろう。
一例をあげれば、現在の民主党=リベラル、共和党=保守というイメージはこの時代は真逆。
実は現在の住み分けは、民主党のリンドン・ジョンソン大統領による公民権法の制定によって、いわゆる“第二の奴隷解放”が行われて以来の、ここ半世紀ほどの間に確立したものなのだ。
また世界史の授業では、南北戦争とは奴隷解放のための戦いだったと大雑把に教えられるが、これも厳密には正確ではない。
元々奴隷制を維持するか否かの論争は戦争の何十年も前から合衆国を二分していて、北部の飛躍的発達と南部の相対的凋落と共に、南部経済を支える奴隷制度維持は深刻なイッシューとなってゆく。
反奴隷制を旗印とする共和党がホワイトハウスを掌握した事に対して、北部支配に恐怖を感じた南部諸州が合衆国から離脱し戦端を開いたのが発端であり、開戦の動機は奴隷解放そのものではないのである。
そのために戦争遂行の目的は第一義的には反乱の鎮圧であって、北部でも奴隷解放をゴールと考える人ばかりでは無かったのは映画に描かれた通り。
有名な奴隷解放宣言も、連邦にとって反乱軍である南部連合の奴隷を“捕虜”とみなして解放するという戦時立法であって、奴隷制度自体を否定した物ではない。
当然ながら、戦争が終われば宣言の法的根拠自体が消滅してしまう事が、リンカーンが修正憲法によって奴隷制の根幹を違法化しようとする理由だ。
日本版では本編上映前にスピルバーグ御大自らによる解説映像が流れるのだが、これは短すぎてあんまり解説になっていない(笑
予備知識無しで観ても一通り物語は分かるようになっているが、できれば奴隷制度や南北戦争の背景をある程度予習して行った方が、より深く楽しめるだろう。

今回はリンカーンの生まれ故郷の名を冠したバーボンカクテル、「ケンタッキー」をチョイス。
バーボン35mlとパイナップルジュース25mlをシェークしてグラスに注ぐ。
インパクトのある取り合わせだが、これが意外と合うのである。
しっかりとバーボンの味わいを残しつつ、飲みやすく甘めに仕上がっている。
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ショートレビュー「コズモポリス・・・・・評価額1550円」
2013年04月21日 (日) | 編集 |
爛熟の世界都市。

若くして全てを手にした大富豪の、破滅へ向かう1日を描いたドン・デリーロの同名小説を基に、異才デヴィッド・クローネンバーグが作り上げたのは、猛烈な勢いで富と情報が行き交い、もはや誰も制御することが出来なくなったキャピタリズム世界の終焉だ。
主人公のエリック・パーカーを演じるロバート・パティソンは、こういう顔色の悪い退廃的な若者がよく似合う。
過激なデモ隊と大統領の動向によってカオスへと陥った都市で、彼は床屋へ行くために僅か2マイルの距離を巨大な白いリムジンで一日かけて移動し、その間に様々な人間が乗り込んでは語り、去ってゆく。
またエリック自身も、しばしばリムジンを離れてはまた戻ってを繰り返すのである。

この物語の全体構造は、虚構のパリをリムジンで巡りながら、幾つもの“役”を演じてゆく主人公を描いたレオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」とよく似ている。
ただし、こちらで描かれるのは当然ながら“映画の死”ではない。
エリックの乗るリムジンには、ハイテク機器が備え付けられ、全世界の情報にリアルタイムでダイレクトにリンクされている。
鉄と防弾ガラスによって外界の喧騒から隔絶されたSFチックな空間は、いわば現実世界に対する電脳世界のメタファーと言えるだろう。
この中にいる限りは、人間もまた情報装置の一つであり、外で何が起ころうと、情報を把握していれば事足りる。
しかし現実と電脳世界が混沌と融合した世界で、人間たちは逆に閉塞し、肉体感覚を求めるのだ。
暗殺者の影が迫る中、エリックはわざわざリムジンを離れ、セックスし、喰らい、殺し、排泄する。
生物としての人間と、人間が作り上げたシステムの葛藤が、崩壊寸前のカオスとして噴出しているのが“コズモポリス”であり、リムジンを降りたエリックもまた混沌の渦へと呑み込まれ、破滅から逃れる事は出来ない。

デリーロの原作では、主人公を追い詰めるのは円の変動だったが、クローネンバーグは映画化にあたって更に不気味な“人民元”という存在を浮上させた。
情報と可視化されたチャートが全ての主人公がキャピタリズムの象徴だとしたら、その終焉が全体主義と資本主義の狭間に産み落とされ、必ずしも市場原理によらない元によって齎されるというのは実に皮肉な話である。
本作はいかにもクローネンバーグらしい、現代性のあるトンがった作品だが、ぶっちゃけ潔い位に娯楽性を完全放棄してるので、物凄く客を選ぶ映画であることも確かだ。
何も知らずに観に行ったとしたら、8割位の客は怒って帰ってしまうだろうし、クローネンバーグのファンでも、例えば「ヴィデオドローム」とか「裸のランチ」系をも偏愛する人じゃないと多分ついて行けない。
これに比べれば、例えば「ザ・マスター」なんて遥かに普通の映画で、観やすい部類に入る。
まあ、その分ドラッグ的な魅力を見出す人もいるのだろうけど。

今回は、世界都市「コズモポリス」の住人「コスモポリタン」をチョイス。
ウオッカ30ml、ホワイトキュラソー15ml、クランベリー・ジュース15ml、ライム・ジュース10mlをシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。
お好みでクランベリーやレーズンを数個沈めても良い。
これは「セックス・アンド・ザ・シティ」の主人公たちが愛飲していたので、日本のバーでも一時ブームになったそうな。
口当たり良く色も美しいが、その実非常に強い飲み初めの気付けの一杯だ。
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ショートレビュー「桜、ふたたびの加奈子・・・・・評価額1650円」
2013年04月20日 (土) | 編集 |
喪失、再生、そして仄かな戦慄。

観る前と後でこれほど印象が異なる映画も珍しい。
キービジュアルや予告編からは、桜の頃に幼い娘を失った両親が、長い時間をかけて心の再生を果たす映画の様に見える。
いや、別にそれは間違っていないのだが、本作はただの感動作というだけでは終わらない。
新津きよみの原作の発行元はハルキ・ホラー文庫。
そう、本作は大切な存在を失った事で、死にとらわれてしまった一組の夫婦を描く再生のドラマであるのと同時に、切ない情感を持った異色のオカルト・ホラーなのだ。
もっとも、別に怖い映画ではなく、あえて言えば、「永遠のこどもたち」や「アザーズ」などのスパニッシュホラー、日本映画で言えば「ふたりのイーダ」などの系譜に連なる作品だろう。

主人公の桐原容子を演じる広末涼子が圧巻だ。
彼女は、愛娘の加奈子を、楽しみにしていた小学校の入学式の日に不慮の事故で亡くし、娘を守れなかった自分を責める。
そして加奈子の魂は、今も家に留まり、自分にはその姿が見えると言い始めるのだ。
一方、夫の信樹にはそんな妻がおかしくなってしまった様にしか思えず、夫婦の間は次第にギクシャクしだす。
ところが、ある日を境にして加奈子の魂は桐原家から姿を消してしまう。
女子高生のシングルマザー、正美から生まれた女の子が、加奈子の転生した姿だと信じる容子は、正美と娘に寄り添い、成長を見守りながら、いつか再び“加奈子”と親子になれる日を待ち続けるのである。
映画は原作をかなり脚色している様だが、監督・脚本の栗村実は娘を思う容子の狂気ギリギリの愛を軸に、シングルマザーの正美、彼女の元担任で図らずも同時期に母になる砂織ら、ぞれぞれの女性たちの物語を平行に描き、ある年のふたびの桜の季節に起こる“奇跡”に向けて物語を収束させてゆく。
おそらく、それまでのミスリードを一気に覆す、突然のオカルト、もといスピリチュアルな展開を受け入れられるか否かが本作に対する評価の分かれ目となるだろうが、綿密に伏線が張られており、画作りも音の使い方もはじめからホラーテイストなので個人的にはほとんど違和感はなかった。

実際、子供は5歳くらいまでは自分が生まれた時の記憶を持ち、人によっては前世の記憶を語る例もあるらしい。
私は幼い頃病弱で、しょっちゅう病院のお世話になっていたのだが、病院に行く度に、“トンネル”を探していたそうだ。
「この病院のどこかに僕が生まれてきたトンネルがあるんだ。僕は暗いトンネルを通って、光の方へ行くと、先生が僕を引っ張りだしてくれたんだ」と言っていたらしい。
さすがに「前の母さん」の記憶は無かった様で、成長と共にこの種の記憶は忘れてしまったが、魂の神秘を感じるではないか。

本作はビジュアルも個性的。
垂直俯瞰のたゆたう様な独特のカメラワークは、加奈子の魂目線という事だろう。
知恵の輪をはじめとする全編に散りばめられた数々の円のモチーフは、「始まりと終わりは同じ」循環する生命のイメージか。
正直、カメラに関してはあまりにも狙った画が多すぎて、もう少し落ち着かせた方が良かったと思うが、俳優の演技によって人間ドラマをしっかりと見せつつ、映像言語でも物語を紡ぐ丁寧な作りは好感が持てる。
回収されなかった最後の伏線が、パズルの最後のピースとしてピタリと嵌り、少しだけ背中をゾクッとさせてくれるラストまで、なかなかにウェルメイドな一本であった。

舞台となるのは栃木県足利市という事で、今回は栃木の地酒、菊の里酒造の「大那 純米吟醸 那須五百万石」をチョイス。
純米酒らしい華やかな吟醸香、スッキリとした辛口の飲みやすい酒だ。
花見のシーズンは終わってしまったが、これからの季節は冷で楽しみたい。
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ショートレビュー「汚れなき祈り・・・・・評価額1700円」
2013年04月20日 (土) | 編集 |
リアル・エクソシスト。

2005年に、ルーマニアで実際に起こった事件を基にした作品だ。
悪魔祓い、というと日本人にはなんだか遠く感じられるが、要は「狐憑き」などの民間療法として行われる憑き物おとしと同じ事である。
ハリウッド映画ではおなじみの題材だが、実際に悪魔祓いの結果、“憑かれた”とされる人物が命を落とす事件は記録にある限りでも何度か起きている。
1976年にドイツで起こった事件では、当時23歳のアンネリーゼ・ミシェルが衰弱死。
実際に悪魔祓いを行った神父と両親が、適切な治療を受けさせなかったとして裁判で罪に問われた顛末が、「エミリー・ローズ」として映画化されたのは記憶に新しい。
本作の基となった事件は更に新しく、たった8年前の現代、しかし舞台となるのがヨーロッパの中でも最貧国にして、数々の伝説と因習に彩られる魔女と吸血鬼の故郷、ルーマニア
しかも、周囲と隔絶した田舎の修道院の話という事で、登場人物の中世さながらの思考や行動も説得力がある。

主人公となるのは二人の女性。
ドイツで働いているアリーナは、同じ孤児院で育った幼馴染のヴォイキツァと再開するために、故郷へと戻ってくる。
一緒にドイツへ来て欲しいというアリーナに、修道女となり俗世を捨てたヴォイキツァは、戸惑いを隠せない。
どうやらこの二人は、単なる親友同士というよりは、過去に同性愛的な関係にあった事が示唆され、それ故に信仰と背徳の狭間でヴォイキツァは葛藤するしかない。
だが、彼女の煮え切らない態度に苛立つアリーナは、次第に精神を病み、修道院に対する敵意をむき出しに、暴力的な言動をする様になって行くのである。
本作にはいくつもの対立構図が組み込まれている。
修道院という聖域と荒んだ俗世、姿を見せぬ神と顕著化する悪魔、神父が体言する宗教と病院に象徴される科学。
そしてヴォイキツァを挟んだアリーナと神との三角関係。
アリーナは無信心故にそもそも愛する人を奪った神がどこにいるのかわからない。
修道院の信仰の対象である特別なイコンを、「本当はそんな物ないんでしょ?」と挑発し、淫靡な言葉で神父を侮辱する。
エスカレートするアリーナに、神父は遂にエクソシストの機密を実行するのである。

名目は俗世に染まり、悪魔に憑かれた哀れな女を救うため。
しかし、聖域は周りに広がる俗世があるから聖域なのであって、決して俗世から隔絶された存在ではあり得ないのである。
信者たちの不審をかわない様に、アリーナの存在はひた隠しにされ、神の家に“都合の悪い者”は次第に衰弱してゆく。
彼らは自分でも気づかないうちに不寛容と独善に溺れ、俗世の者たちと同じ事なかれ主義を実践している事に気づかない。
風の音、雪を踏み鳴らす足音、遠くから響く工事、もしくは飛行機のエンジン音の様な環境音が、ヴォイキツァの内面をかき乱す。
「生きるのが怖い?」とアリーナは問う。
なるほど俗世は誘惑と悪に満ちているが、真に悪魔に魅入られたのは、そこから逃げ出して、神の名の下に身を寄せ合う弱き者たちの方だったのかもしれない。

今回は、ワインどころでもあるルーマニアの血の様なフルボディな赤、「ダヴィーノ フランボヤード2009」をチョイス。
ドラキュラでも酔いつぶれそうなパワフルな赤は、ルーマニア固有品種のフェテアスカ・ネアグラをカベルネ・ソーヴィニオンとメルローで包んだワイン。
芳醇な香りとともにがっつりした葡萄の味わいに圧倒される。
血の滴る肉料理にぴったりだ。

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ショートレビュー「ザ・マスター・・・・・評価額1650円」
2013年04月15日 (月) | 編集 |
激突する魂。

ポール・トーマス・アンダーソンの作品を、面白いかと聞かれれば、どれを観ても特別に面白くはない。
ただ、毎回グッタリとした疲労感と共に、「何だか凄いモノを観た」という独特の感覚を味わうのである。
スクリーンの登場人物から怒涛の勢いで迸る葛藤の大波が、ダイレクトな圧力となって観客に映画を体感させる、とでも表現出来ようか。
特に本作のホアキン・フェニックスフィリップ・シーモア・ホフマンという組み合わせは、濃厚過ぎる二種類のスープを同時に飲む様だ。

舞台となるのは第二次世界大戦直後のアメリカ。
フェニックス演じる帰還兵の青年フレディは、社会生活に順応出来ず、季節労働者として各地を渡り歩き、密造酒を自作しては酔いつぶれるという孤独で刹那的生き方をしている。
そんなある日、偶然に新興カルト“ザ・コーズ”と言う大きな家族を束ね、人々から"マスター"と呼ばれるランカスター・ドッドと出会ったフレディは、彼を人生の拠り所として身を委ねようとするのだ。
ランカスターのモデルとなっているのは、ハリウッドスターにも信者が多いことでも知られるサイエントロジーの教祖、ラファイエット・ロナルド・ハバードだと言われているが、人間的でありながら静かなカリスマ性を持つキャラクターを、ホフマンがさすがの貫禄で味わい深く造形している。
彼とフレディの間柄は、話の取っ掛かりの部分では擬似的な父と息子と言えるだろう。
帰還船に乗って戦争から戻ったフレディは、肉体は陸地に足をつけているものの、魂は漂流したままだ。
そして、密航した船で再び海へ出て、新たな人生の指針であり導き手となるランカスターと出会うのである。

ここからアンダーソンは、徹底してこの二人の関係に寄り添い、彼らの内面の葛藤を描く。
全ての映像が二人をフォーカスし、物語性すら希薄化させ、最終的には彼ら以外の要素は殆ど印象に残らない程だ。
人は皆、何かを求めて、何かを心の拠り所として生きてゆく。
“マスター”と呼ばれ崇拝されるランカスターさえも、本質は己の作り上げてきた物、これから作ろうとする物によって支配されている。
当初はランカスターへの信仰に目覚めるかに見えたフレディは、すぐにそこに答えは無い事を知ってしまう。
なぜなら彼とランカスターは、やがて教祖と信徒という擬似親子から、お互いの中にお互いを見る関係へと変化するからだ。
フレディはランカスターの瞳の中に自分の可能性の未来を見て、逆にランカスターは迷える若者に嘗ての自分を見る。
カルトという閉じた殻の中で、両者が共存する事は不可能なのだ。

過去のアンダーソン作品と同じく、登場人物の誰にも感情移入は出来ない。
しかし決してスクリーンから目を離せず、作品の余韻は不協和音となって心の中に長く響き続ける。
それは我々が彼らを理解不能だからではなく、むしろ映画が抉り出す彼らの内面に、自分自身の心の奥底にもあるが一度掘り出してしまうと無視する事が難しい部分を感じ取るからだろう。
観客は無意識のうちに、スクリーンの内側の彼らと精神的な三角関係を形作らされており、共感を拒否しているのは、フレディやランカスターではなく我々自身なのである。

船と海が重要なモチーフとなる本作には錨のラベルのサンフランシスコの地ビール「アンカースチーム」をチョイス。
スッキリした味わいと適度なコクを持つ琥珀色の液体は、ジリジリと火花を散らす演技合戦でカラカラとなった喉を優しく潤してくれるだろう。
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ショートレビュー「ホーリー・モーターズ・・・・・評価額1600円」
2013年04月15日 (月) | 編集 |
映画の黙示録。
※ラストに触れています。

異才レオス・カラックス13年ぶりの劇場用長編作品は、幻の都で“映画の死”を描く先鋭的な実験映画だ。
運転手付のリムジンでパリを巡りながら、様々な役柄を演じてゆく謎の男。
ある時はホームレスの老婆、ある時はモーションキャプチャの俳優、ある時は殺し屋、ある時は瀕死の病人。
カラックスが1エピソードを担当した2008年のオムニバス映画「TOKYO!」で、地下道から出没して人々を恐怖に陥れた怪人“メルド”も、本作の主人公が演じるキャラクターの一人として登場する。
彼の前にはカメラは無いし、観客もいない。
ただ、指定された場所へいって、一つの人生のごく短い断片を生き、終わればまた次なる断片の主人公へと姿を変える。
ここは言わば、スクリーンの枠の中だけに存在するパリという名の劇場で、主人公は永遠の虚構を生きる“映画”の象徴だ。

この世界は映画で出来ている。
が、そこは何故か死の香りが充満しているのである。
物言わぬ人々が、まったく無反応にスクリーンを見つめる冒頭部分と、逆に“カーズ”の車の様に言葉を持ったリムジンたちが、映画と観客について語るラスト。
基本的に移動の間以外素を持たない主人公にとって、演じるキャラクターの死もまた虚構。
しかし、その中で唯一本物の死をイメージするシーンが終盤にある。
観客の心の中で生の断片として積み重ねられ、永遠の命を持つかに思われる映画もまた、人々が興味を失うと共に、その虚構性の光を失うのかもしれない。

映画の死はしかし、フィルムかデジタルかなどという些細な事ではない。
人間たちが“光る機械”に興味を失う。
それはつまり、洞窟の中揺らぐ炎の光で壁画を見ることで、静止した絵から動きを感じ取った古代の体験から続く、暗闇の中で時空を超越する創造の叡智=イデアを観るという数万年に及ぶ神秘の共有体験の終わりである。
カラックスは、それこそが映画の死を意味すると考えている様だ。
映画は、トーマス・エジソンによってそのハードはほとんど完成されていたが、今日映画の発明者とされているのはエジソンではなく、リュミエール兄弟である。
彼らが、暗闇の劇場に張られた銀幕に、虚構と現実の狭間に存在する光の世界を映写する事で、初めて映画は完成したのだ。
未来の光であるデジタルで本作を撮りながら、同時に劇場の衰萎による本質的な映画の終焉を予見して見せたカラックスは、さすがに鋭い。
もっとも、それはネットワークを無限の共有空間とし、今までの定義では語る事の出来ない新しい時代の“ネオ映画”の誕生なのかも知れないのだけど。

今回は「パリジャン」をチョイス。
ドライジン30ml、ドライ・ベルモット15ml、クレーム・ド・カシス15mlをステアしてグラスに注ぐ。
美しいルビー色に濃厚な味わいを持つ甘口のカクテルだ。
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ヒッチコック・・・・・評価額1600円
2013年04月10日 (水) | 編集 |
メイキング・オブ・ヒッチコック。

サスペンス映画の神と呼ばれ、映画史に燦然と輝く数多くの傑作を残しながら、華やかな映画賞とは無縁だった無冠の天才、アルフレッド・ヒッチコック
彼の傍らには常に、最大の理解者であり脚本家でもあった、ミセス・ヒッチコックことアルマ・レヴィルの存在があった。
これはホラー映画の歴史を変えた「サイコ」のビハインド・ザ・シーンを背景に、英米の映画業界で長年トップランナーとして走り続けた夫婦が迎えた、思いがけない熟年の危機を描いたヒューマンドラマだ。
アンソニー・ホプキンスが茶目っ気たっぷりに演じるヒッチコックは、あんまり本人とは似ていないが、なんともチャーミング。
アルマを演じるのはヘレン・ミレンだが、こちらもあんまり似てはいない。

1959年。
「北北西に進路を取れ」を大ヒットさせたアルフレッド・ヒッチコック(アンソニー・ホプキンス)は、次回作の題材を探していて、実在の殺人鬼エド・ゲインをモデルとした小説「サイコ」と出会う。
しかし血生臭い内容に二の足を踏むパラマウントに出資を拒否され、自主制作を決意したヒッチコックは、自宅を抵当に入れて資金を調達する。
撮影準備のドタバタが続く中、ヒッチコックはふとした切っ掛けで長年連れ添った妻のアルマ(ヘレン・ミレン)が、脚本家のホィットフィールド(ダニー・ヒューストン)と浮気しているのではと疑い始める・・・・


ヒッチコック爺ちゃんがかわいいのである。
美女大好きで、惚れっぽく、粘着質で、皮肉屋で、ストーカー体質。
けれども60歳になっても女心は理解できず、妻の浮気を疑いながら、同時に娘ほどの年齢の女優に冷たくされてガッカリ落ち込んでしまう様子は、まるでどこかの中学生の男子の様だ。
まあ創作の世界で天才とか鬼才とか呼ばれる人は、どこか子供っぽい部分があるものだが、そんなリアル中二病の手綱を握るのは、やはりしっかりものの妻なのである。

ワガママな夫の影となり、才能を引き出すアルマは、言わば“アルフレッド・ヒッチコック”という作品のプロデューサーだ。
冷静な目で創作者としての夫を観察し、批評し、助力する。
本作の内容がどこまでがリアルでどこまでがフィクションなのかはわからないが、この映画のヒッチコックは、望み通りに映画を撮り、愛おしいブロンド女優たちに夢中になり、好き放題に生きながらも、根っこの部分でアルマに依存している。
ところが、作家として更なる冒険を望むヒッチコックが、ロバート・ブロックの小説「サイコ」と危険な出会いを果たし、一世一代の賭けに出た時、二人の関係もまた大きな危機を迎えるのである。

冒頭いきなりノーマン・ベイツではなく、そのモデルとなったエド・ゲインの殺人シーンから始まるのに面食らうが、その後懐かしの「ヒッチコック劇場」へと繋げる遊び心。
サーシャ・ガヴァシ監督は、ヒッチコックにとっての「サイコ」は、実は私小説的な作品であったと解釈している様だ。
彼が「サイコ」の製作に固執するのも、偏執や窃視症など多分にゲインのキャラクターに自分自身と重なる部分を読み取ったからで、実際に作品の制作が始まると、ヒッチコックはゲインの姿をまるで自らの合わせ鏡、あるいは相談役のセラピストの様に幻視し、対話する様になるのである。
そして、現場がテンパリ始めたのと時を同じくして、ヒッチ爺さんの脳内に湧き上がる妻への疑念と抑え難い嫉妬の炎。

一方のアルマも、自らも豊かな才能を持ちながらも、“天才ヒッチコックの妻”という日陰の仕事を何十年も続けて来た自負がある。
これは彼女に限らないだろうが、ずっと人の作品のために仕事をしていると、やはり“自分の作品”と呼べる物を作りたくなるものだ。
決して一流とは言えない脚本家のホイットフィールドと組んだのも、彼の所有する海辺のロッジでの共作に夢中になるのも、そこは夫との共有の空間ではなく、自由な創作を味わえるからだろう。
だがヒッチコックにとって、アルマは妻であると同時に大いなる包容力で自分を包み込んでくれる母の様な存在でもあり、「大切な“ママ”に裏切られているのでは」という彼自身の不安と葛藤の心理が、そのままノーマン・ベイツの狂気へと投影されてゆく様はなるほどと思わせる説得力がある。

結局、二人の関係は単なる夫婦ではなく、母と息子であり、生き馬の目を抜くハリウッドで闘う戦友であり、相互補完の関係にある偉大なクリエイター。
「サイコ」という映画史上の金字塔が生まれるには、一人では足りず二人のヒッチコックが必要だったのである。
ジョン・マクラフリンの脚本は、一本の映画制作を主人公のメンタリティのメタファーとして展開させ、同時に夫婦が葛藤を乗り越えるドラマをロジカルに組み込んだ。
またこれは、マクラフリンがバレエ「白鳥の湖」の制作を背景に、創造のプレッシャーから崩壊するヒロインの心理を描いた、「ブラック・スワン」のハッピーエンド版と言えるかもしれない。
あの映画にも倒錯した関係の母子(娘)が出てくるが、主人公のニナと本作のヒッチコックの違いは、やはり“こちら側”に引き止めてくれる人がいたかどうかだろう。

しかし、あれだけ沢山の名作を撮ったにも関わらず、ヒッチコック自身は映画界の最高栄誉、オスカーとは遂に無縁のままだった。
渡米第一作の「レベッカ」は作品賞を受賞しているが、これはプロデューサーに送られる賞。
サスペンス、スリラーというジャンルへの偏見が強かった時代もあったのだろうが、監督賞には5度もノミネートされるも受賞ならず、1968年に功労賞であるアービン・G・タルバーグ賞を贈られたのが全てだ。
そんな男をモチーフにした本作が、メイクアップ賞のノミネート以外オスカーからは無視される結果になったのもまた、歴史の皮肉を感じる。
基本は基本的にはワガママ夫としっかり者の妻の話なので、ヒッチ映画を知らなくても楽しめると思うが、少なくとも「サイコ」は観ていた方が面白さ倍増だろう。
まさかトイレ一つにあれほどの駆け引きがあったとはね(笑

この物語に合うのはやはり熟成された英国の酒。
ヒッチコック夫妻の歴史にはまだまだ及ばないが、英国スペイサイドにある蒸留所、グレンリヴェットから、「ザ・グレンリベット アーカイヴ 21年」をチョイス。
世界でもトップクラスのベストセラー、グレンリベットも21年になると滑らかさはそのままに、グッとコクと深みを増す。
強い酒だが、ストレートでチビチビと味わって飲むのが一番楽しめる。
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パラノーマン ブライス・ホローの謎・・・・・評価額1600円
2013年04月06日 (土) | 編集 |
街の歴史に秘められた謎を探れ!

魔女伝説のある街を舞台に、幽霊が見える特殊能力者の少年の冒険を描く長編人形アニメーション
超絶クオリティの映像は「コララインとボタンの魔女」で知られるストップモーション専業スタジオ、ライカの大労作だ。
監督・脚本は「コラライン」でストーリーボード・スーパーバイザーを務めたクリス・バトラーで、これが長編初監督。
共同監督に、アードマン初のCGアニメーション「マウス・タウン ロディとリタの大冒険」サム・フェル
CG全盛の現代にあって、米国では6週に渡ってトップ10圏内に食い込むという健闘を見せたヒット作だ。

300年前の魔女狩りによって、殺された魔女の呪いが今も残るという魔女伝説の街、ブライス・ホロー。
内気な少年ノーマン(コディ・スミット=マクフィー)は、生まれつき死者を見て話ができる能力があるが、それ故に家でも学校でも浮いた存在だ。
ところがある日、親戚のプレンダーガスト(ジョン・グッドマン)の幽霊が現れ「自分は死んだので、これからはお前が役割を引き継がなければならない」と告げる。
魔女は自分を死に追いやった7人の人間に不死の呪いをかけており、彼らの復活を阻止するためには毎年墓の前でおとぎ話の本を朗読する儀式をせねばならないと言う。
ノーマンは、言われた通りに7人の墓で本を読むのだが、なぜか儀式は効かず、ゾンビが復活してしまう・・・


ブライス・ホローのモデルとなっているのは、マサチューセッツ州セイラムだ。
魔女狩りの地として知られるこの街では、1692年3月から始まった魔女裁判によって200人以上が告発され、25人が処刑されたり獄死したりして犠牲となった。
忌まわしい記憶は数々の恐怖小説や映画のモチーフとなり、今では魔女の街として世界的に知られた観光地であり、古い街並みのあちこちに魔女のアイコンが飾られた風景は映画のブライス・ホローとよく似ている。

主人公のノーマンは、ホラー映画好きの心優しい少年だが、死者が見えて、彼らと話せるという特殊能力者ゆえに、周囲からは変人扱いされている。
家族には信じてもらえず、学校でもいじめられ、唯一の友達は太っているためにやはりいじめられっ子のニールだけ。
街中の幽霊とは皆知り合いだが、生者の世界では孤立した異端者だ。
そんなノーマンが、死んで幽霊となったブレンダーガストから突然託された“使命”とは、処刑された魔女によって、彼女を死に追いやった魔女裁判の判事ら、7人の市民にかけられた“ゾンビの呪い”を阻止する事。
同じ特殊能力者だった彼は、毎年儀式を行う事で、7人がゾンビとなる事を防いでいたのだ。

ところが、ブレンダーガストのおっちょこちょいもあって、儀式はあっさりと失敗し、復活したゾンビたちが街に侵入してしまう。
普通のホラー映画なら、ここでゾンビが人々を襲いはじめ、街がパニックに陥るところだが、映画は意外な方向に舵を切る。
異形のゾンビを見たブライス・ホローの人々は、まるで300年前に魔女狩りを行った人々と同じように、問答無用でゾンビを狩り立てるのである。
そう、魔女の呪いとは、7人の不死者によって街を襲わせる事ではない。
不気味な姿の彼らを街に行かせる事で、忌み嫌われ、追われ、殺されるという自分と同じ体験を永遠に味わわせる事なのだ。
ユーモラスに描いてはいるが、異端の者への盲目的な恐怖によって、あっけなく理性を失い暴走する人々の姿は、昨年公開されたティム・バートンの「フランケンウィニー」、あるいは身に覚えの無い性犯罪の嫌疑をかけられ、小さな街で居場所を失う男を描いた「偽りなき者」とも共通する。

人々に欠けているのは、自分とは異なる存在に対する理解と寛容
ノーマンは自らも異端者であるがゆえに、ゾンビたちの痛みを理解し、今度は呪いの大元である魔女の心と向き合おうとする。
今では恐怖の怪物として語り継がれている魔女の本当の姿は、ノーマンと同じ特殊能力を持っていた少女アギー。
ノーマンは、誰からも理解されず、孤独のうちに不条理な死に追いやられたアギーに寄り添い、はじめての友達となる事で、凍りついた彼女の心を解放しようとする。
それが可能なのは、騒動の過程でノーマン自身が自らを受け入れてくれる家族や仲間と共に、自分の居場所を見つけることが出来たからだ。
人間社会はいつの世も排他的な部分を持つが、それでも数十年、数百年というスパンで見れば、少しずつ寛容の度合いは増していると思う。
忘れられた魔女の墓場で、ノーマンと哀しみの鎧を纏ったアギーの魂が対峙するクライマックスは、物語としてドラマチックであるだけでなく、映像的にもアナログとデジタルが絶妙の融合を見せ、絵画的な美しさを持つ名シーンとなった。

ただ、作劇的には欠点も目立つ。
例えばノーマンだけが死者と話せるという設定は、中盤以降騒動の要因が実体を持ったゾンビになってしまい、幽霊そのものが話に絡まなくなるので、魔女の霊との対話を決意するクライマックスまであまり活かされていない。
そのゾンビたちは7人もいるのに、リーダーの“判事”以外は殆どエキストラ状態で、全くキャラ立ちしてないのも勿体無い。
ノーマンを中心にして家族や仲間が結束するという、テーマと直結する部分も、それまでのプロセスでノーマン以外の人物の心情が殆ど描かれていないので唐突に感じる。

もっとも、幾つかの欠点を差し引いたとしても、綿密にデザインされた世界観と、映画ならではの広がりのある美しい映像、冒険心を刺激されるワクワクするストーリー、そして何より作り手の魂がたっぷりと注入された本作は、十分に魅力的な作品だ。
しかし元々アニメーションが物凄く丁寧なのに加えて、3Dプリンターで細かなパーツを量産しだした事で、ますますCGとの見分けがつかなくなってきたのは皮肉。
もちろん、動きにブレが無いために起こるフリッカー現象だけ見ても、これがアナログな手法で作られた作品なのは疑い様がないのだけど。
立体映像の飛び出しはごく控えめだが、この映画の場合精密に作り込まれたディテールを立体的に観察できるだけでエクストラの価値がある。
タイトルロールの主人公ノーマンに、コディ・スミット=マクフィー、薄幸のアギーにジョデル・フェルランドら、マニア泣かせのツボをおさえた豪華キャストも聞き所だ。
ちなみにエンドクレジット後に、本作が紛れもなく昔ながらの人形アニメーションである事が粋な演出で証明されるので、お見逃しなく。

今回はセイラムのあるマサチューセッツから少し南、ニューヨーク州ロングアイランドのべデル・セラーズの「ノース・フォーク・オブ・ロングアイランド メルロー」をチョイス。
アメリカのワインと言うと日本では西海岸のナパやサンタバーバラが知られているが、東海岸のロングアイランドもワインどころとして有名な土地だ。
こちらはホワイトハウスでも使用されている銘柄で、マイルドなミディアムボディ。
豊かな果実香が楽しめ、タンニンも適度で飲みやすい。
映画はたぶん日本ではややマニアックな受けとめ方をされるだろうが、ワインは万人向けだ。
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アンナ・カレーニナ・・・・・評価額1600円
2013年04月01日 (月) | 編集 |
そこは出口の無い、愛の牢獄。

19世紀末の帝政ロシアの社交界を舞台に、青年将校と禁断の恋に落ちる人妻の悲劇を描いたトルストイの古典「アンナ・カレーニナ」
過去に幾度となく映画化されてきた作品だが、「つぐない」で知られるジョー・ライト監督が作り上げたのは、“劇場”をモチーフにした超エキセントリックな実験映画だ。
物語の大筋は原作に忠実に、しかし愛憎“劇”の登場人物たちは、文字通り劇場に囚われている。
かつてクレタ・ガルボ、ヴィヴィアン・リー、ソフィー・マルソーら錚々たる大女優たちが演じた、恋に狂う主人公アンナをキーラ・ナイトレイが熱演。
夫のカレーニンを老けメイクのジュード・ロウが、青年将校ヴロンスキー伯爵をアーロン・テイラー=ジョンソンが演じる。
おそらく好みはハッキリと分かれる作品だろうが、このチャレンジ精神は結構好きだな。
※ラストに触れています。

帝都サンクトペテルブルグに住むアンナ(キーラ・ナイトレイ)は、兄夫婦の浮気の仲裁に向かったモスクワで、青年将校ヴロンスキー伯爵(アーロン・テイラー=ジョンソン)と出会い、恋に落ちる。
夫であるカレーニン(ジュード・ロウ)と別れ、ヴロンスキーとの結婚を願うアンナだったが、政府高官であるカレーニンは世間体を恐れて離婚に応じない。
ヴロンスキーの子を妊娠したアンナは、産後の肥立ちが悪く瀕死の状態となり、カレーニンに許しを請う。
妻を寛大に迎え入れたカレーニンだったが、回復したアンナは再びヴロンスキーの元へと走り、彼女の不貞は社交界全体に知れ渡る。
白眼視され、徐々に心の均衡を失ってゆくアンナは、ヴロンスキーが自分を捨てて若い女に走るのではないかという妄想にとりつかれてゆく・・・・


何だか変わった映画らしいという事は聞いていたが、実際に観て驚いた。
ジョー・ライト監督は広く知られた古典を現代に映画化するに当たって、サンクトペテルブルグとモスクワの貴族社会に生きる登場人物たちを、物語ごと“劇場”に閉じ込めるという大胆な奇策に出た。
もちろん、劇として演じられる「アンナ・カレーニナ」を、観客が見ているという単純な劇中劇ではない。
舞台の上で繰り広げられる貴族たちの煌びやかなパーティ、そして客席の人々もまた登場人物であり、ごちゃごちゃした舞台裏はそのまま貧民街の雑踏となる。
草原での逢瀬は、セットがそのまま自然の実景へとシームレスでつながり、再び舞台へと戻ってくる。
本作における“劇場”とは、アンナが生きる貴族社会、いや彼女にとっての“世界”そのものなのである。

では、なぜ劇場なのか?
ジョー・ライトによると、ありきたりな時代物では無い、独自の「アンナ・カレーニナ」を撮りたいと思っていた彼は、英国の歴史家オーランド・ファイジズの「19世紀のサンクトペテルブルグ貴族は、人生を舞台の上で演じているかのようだった」という記述にヒントをもらったという。
当時、急速に西欧化を進めるロシアでは、貴族たちの間に洗練された“フランス風”の文化が大流行しており、彼らはあらゆる面でフランスを真似る“演技”をしていた。
そこから、文化だけではなく一人ひとりもまた本音と建前的な意味で、それぞれの役割を人生という芝居の中で“演じている”というコンセプトが生まれたのだ。
ヴロンスキーと出会う前のアンナは“良妻賢母”を演じ、カレーニンも“寛大な夫”であり、“厳格な政治家”を演じている。
一見すると絢爛豪華な彼らの舞台は、実際には舞台裏である貧民街の犠牲によって成り立っているハリボテの虚飾の世界に過ぎないが、世界が劇場である事を認識していない登場人物たちは、自らが芝居の一部である事を知り得ない。
それ故に、社交界の掟という芝居のルールを犯したアンナは、もはやそこに居場所がない事を知りながらも、劇場から逃れる事が出来ないのである。

貴族たちが劇場に囚われる一方で、自らの意志で劇場を離れる者もいる。
地方の地主のリョーヴィンと、アンナの兄嫁の妹キティである。
ヴロンスキーへの恋にやぶれたキティは、自分を待ち続けたリョーヴィンの愛を受け入れ、二人でモスクワを去って地元の農民たちと共に暮らす道を選ぶ。
ライトは、彼らの暮らす田舎を劇場の外にある現実の世界として描写し、地に足をつけて純朴に生きる人々と、虚構の芝居を演じ続ける貴族社会を対比する。
ヴロンスキーとの愛欲に溺れたアンナは、常に彼の愛を求め続ける。
彼女にとって愛は与えられる物であり、だから相手の心がわからなくなると、それはイコール愛を失う事になってしまうのだ。
アンナを含め、カレーニンもヴロンスキーも、劇場の登場人物は基本的に欲望にのみ正直で、一度手に入れた物は手放したがらない人々として描写される。
対照的に、リョーヴィンが妻子に伝えようとした“言葉”とは一体何だったのか。
生まれたばかりの我が子を優しく見つめる彼の愛は、誰かから与えられるものではなく、大切な存在を守り、抱くためのものだ。
終始自分の欲望に忠実に生きたアンナは、虚飾の劇場で悲劇的な最期を迎えなければならなかったが、愛する者のために生きる事を決めたリョーヴィンは、現実の世界で幸せを掴んだのである。
カレーニンと亡きアンナの忘れ形見たちが遊ぶ花畑が、彼らもまた決して劇場から出られない事を示唆するラストは、人間の業を感じさせて切ない。

21世紀の現代に蘇った「アンナ・カレーニナ」は、物語と登場人物をそのまま“劇場”というモチーフに閉じ込める事で単純化・象徴化するというユニークな試みによって、記憶に残る作品となった。
その作りから多分に演劇的な要素を持つ本作は、いわば歌を封じられたミュージカルの様でもあり、実際いつ登場人物が歌い出したとしても違和感は無かっただろう。
だがこの手法によって、逆にキャラクターと観客との心理的な距離は遠くなった様に思う。
人間心理のメタファーと化した貴族社会の人々は、誰もが感情移入を拒否するのだ。
もっとも、リョーヴィンとキティ夫婦の描写は例外的に劇場の象徴性から解放され、登場時間的にはごく短いにも関わらず、虚飾の中の真実として強い印象を残す。
テーマを考えれば距離感は計算されたものなのだろう。

今回は、凍てつく様な冬のロシアと貴婦人アンナのイメージから「ホワイトレディ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ホワイト・キュラソー15ml、レモン・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
半透明のホワイトが名前の通り雪を思わせる美しいカクテルで、フルーティで華やかな味わいを辛口のジンがキュッとまとめ上げている。

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