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2013年04月30日 (火) | 編集 |
野蛮の誇り。
大日本帝国施政下の台湾で、先住民のセデック族が蜂起、日本軍・警察と交戦し、双方に多大な犠牲を出した、いわゆる“霧社事件”の顛末を描いた歴史ドラマ。
「セデック・バレ」とは彼らの言葉で“真(まこと)の人”を意味するという。
監督は「海角七号/君想う、国境の南」のウェイ・ダーションで、台湾、香港、中国、韓国、日本とアジア各国からスタッフ・キャストが結集。
実際に先住民族の頭目であり映画初出演のリン・チンタイが、セデック族のカリスマ的リーダー、モーナ・ルダオを演じ、圧巻の存在感を見せる。
第一部「太陽旗」、第二部「虹の橋」、合わせて4時間36分に及ぶ堂々たる超大作だ。
1895年。
日清戦争の結果、台湾は日本領となり、先住民族の暮す奥地にも日本人が進出。
勇猛なセデック族タクダヤ藩は、日本の支配に抵抗するが、近代兵器で武装した日本軍に遂に制圧される。
それから長い歳月が流れた1930年秋。
霧深いタクダヤ藩の土地は霧社と呼ばれ、多くの日本人が暮す様になったが、セデック族はその下働きに甘んじていた。
だが結婚式での揉め事で、タクダヤ藩マヘボ社(村)の頭目モーナ・ルダオ(リン・チンタイ)の息子、タダオ・モーナ(ティエン・ジュン)が日本人の巡査を傷つけてしまった事から、ルダオは長年密に準備してきた蜂起を決意。
霧社の学校で運動会が開かれ、近隣の日本人が全て集まる日、遂に反乱の火蓋が切られた・・・
異民族との出会いと戦いの物語は、フィクション、ノンフィクションに関わらず今までも多くの映画の題材として描かれてきた。
比較的近年の作品でも、騎兵隊員とアメリカ先住民スー族との大平原での出会いを描いた「ダンス・ウィズ・ウルブズ」、同じく元騎兵隊員と時代遅れの侍たちの物語「ラスト・サムライ」、舞台を宇宙にまで広げ、人類と異星の先住民族との戦いを描く「アバター」も記憶に新しい。
しかし理由は後述するが、これらの映画よりも私が本作に既視感を感じたのは、実はジブリアニメの「もののけ姫」なのである。
ハリウッドやヨーロッパの映画では、たいてい“西洋=進んだ文明”と彼らにとっての“野蛮=遅れた部族社会”との出会いと葛藤が描かれるが、本作においての“文明”のポジションを占めるのは脱亜入欧を遂げた日本人だ。
抗日戦争映画における悪の日本兵とはまた異なる、善意の抑圧者として我々自身が描かれる事は珍しく、ある意味新鮮な映画体験だった。
もっとも、日本人を敵役として戦う映画だが、この映画には敵はいても悪はいない。
セデック族に彼らなりの動機がある様に、日本人にも文明の火で未開の部族を照らすという大義名分があるのだ。
本作の主観的な存在であるセデック族は、いわゆる首狩り族である。
映画の冒頭に描かれる様に、日本による台湾併合以前には、先住民同士の戦いで首狩りが習慣的に行われており、敵を殺してこそ一人前の男として認められる事から、併合後も抗争が絶えなかった様だ。
だから、日本という文明のくびきから逃れ、本来の姿に戻った彼らの戦いは凄まじい。
敵である日本人は、女子供であろうと皆殺し。
それどころか、軍との戦いが始まり、足手まといとなると悟ったセデックの女たちは、自ら率先して次々と命を絶つのである。
ぶっちゃけ、彼らの死生観は、我々の目にはあまりにもエキセントリックに見える。
セデック族側も、自らが野蛮で日本人が文明人であることは認めていて、だから「日本人は決して妊婦を殺さない」などという台詞が彼らから出てきて、実際傷ついたセデックの女性が日本人によって手厚く看護される描写もあるのだ。
四時間を越える長尺は、それぞれの立場のキャラクターを丁寧に描き、単純な勧善懲悪に陥らない多面性を作品に与えた。
戦争アクション映画として“盛ってある”部分はあるものの、事件全体の展開もほぼ日本側の記録通りである。
少なくとも日本人に対して、植民地支配の道義的、政治的責任を追及する様なニュアンスは本作には皆無であり、本作が反日のベクトルを持っていないことは明らかだ。
「文明が屈服を強いるなら、俺たちは野蛮の魂を見せてやる」と“真の人”モーナ・ルダオは語る。
生命の息吹溢れる強烈な木々の緑と、深山の切り立った断崖絶壁の作り出す、まるで仙境のような浮世離れした世界観。
この地で暮らす人々に、文明の常識を押し付けることが果たして正しいのか。
それはある意味、彼らが脈々と受け継いできた、物質では計れない精神世界を破壊する行為なのではないか。
圧倒的な自然の懐に抱かれ、敵の血を生贄として捧げるセデック族が見ているのは、外界とはかけ離れた異世界であり、そこでは何を持って人間の尊厳とするかも文明社会とは異なっている。
現在の我々には常識的な、戦いはいけない、殺してはいけないという概念すら絶対の物とは言い切れなくなるのである。
彼らにとって敵味方問わず“死”は自然と祖霊に捧げられる神聖なものであり、忌むべき事象ではないのだ。
ウェイ・ダージョン監督はしかし、一見すると正反対であるセデック族と日本人が激しく殺し合う物語を通して、やがてお互いがお互いの中に同根を見る構造としている。
深山のロケーションだけでなく、この仕掛けこそが、私が本作に「もののけ姫」の精神を感じた所以である。
あの映画では、日本列島の先住民族である蝦夷の少年アシタカが、本作の霧社を思わせる深い森で、自然の象徴たる巨大な動物たちと暮らすもののけ姫サンと、鉄を求め山を切り開こうとする“文明”との戦いに巻き込まれる。
本作のセデック族を、死を賭してでも森と自然の尊厳を守ろうとするサンと動物たちに、日本人を、鉄を求め鉄砲衆とたたら場を率いるエボシ御前の一党に置き換えれば、両作の類似性がよくわかると思う。
戦いの結果、数多くの死と破壊が齎され、森の大きな意思が失われても、最後には「生きろ」というメッセージが強く残るのも共通である。
劇中、セデック族による“切腹”の描写が二箇所あるが、これは明らかに侍を意識した描写だろう。
また、日本軍を指揮する鎌田司令官は、セデック族を野蛮人と断じ、掃討の為なら化学兵器の使用すら厭わない人物だが、たった300人で近代兵器で武装した数千の日本軍に一歩も引かない彼らに驚嘆し、遂に失われた武士道を見たと吐露するに至るのだ。
セデック族の信仰する虹も日本人が崇拝する太陽も、どちらも同じ空にあり、両者にはアニミズムと祖霊信仰、そして屈辱に塗れた生よりも、誇りある死を貴ぶという符合もある。
これは同じアジアの別の島で生まれ、同じ根を持ちながらも何時しか異なる道を歩み始めた二つの民族が、殺し合いという最大の葛藤の末に再び響き合うまでの、魂の激突を描いた悲しく、しかし崇高な物語なのだ。
しかし、霧社事件でセデック族が奮戦し、短期間とは言え日本軍を脅かした事が、第二次世界大戦で多くの戦死者を出した高砂義勇隊の悲劇、その後の国民党支配下での“親日部族”としての冷遇に繋がるのだから歴史とはなんとも皮肉なものである。
劇中ではセデック族も日本人もガンガン日本酒を飲んでいたが、今回は日本の首都東京の地酒、小澤酒造の「澤乃井 純米 大辛口」をチョイス。
純米のやわらかさを持ちながら、シャープな辛口の味わいを持つ。
さすがに霧社ほど山深くは無いが、奥多摩に向かう山の街道に生まれた、味わい豊かな酒である。
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大日本帝国施政下の台湾で、先住民のセデック族が蜂起、日本軍・警察と交戦し、双方に多大な犠牲を出した、いわゆる“霧社事件”の顛末を描いた歴史ドラマ。
「セデック・バレ」とは彼らの言葉で“真(まこと)の人”を意味するという。
監督は「海角七号/君想う、国境の南」のウェイ・ダーションで、台湾、香港、中国、韓国、日本とアジア各国からスタッフ・キャストが結集。
実際に先住民族の頭目であり映画初出演のリン・チンタイが、セデック族のカリスマ的リーダー、モーナ・ルダオを演じ、圧巻の存在感を見せる。
第一部「太陽旗」、第二部「虹の橋」、合わせて4時間36分に及ぶ堂々たる超大作だ。
1895年。
日清戦争の結果、台湾は日本領となり、先住民族の暮す奥地にも日本人が進出。
勇猛なセデック族タクダヤ藩は、日本の支配に抵抗するが、近代兵器で武装した日本軍に遂に制圧される。
それから長い歳月が流れた1930年秋。
霧深いタクダヤ藩の土地は霧社と呼ばれ、多くの日本人が暮す様になったが、セデック族はその下働きに甘んじていた。
だが結婚式での揉め事で、タクダヤ藩マヘボ社(村)の頭目モーナ・ルダオ(リン・チンタイ)の息子、タダオ・モーナ(ティエン・ジュン)が日本人の巡査を傷つけてしまった事から、ルダオは長年密に準備してきた蜂起を決意。
霧社の学校で運動会が開かれ、近隣の日本人が全て集まる日、遂に反乱の火蓋が切られた・・・
異民族との出会いと戦いの物語は、フィクション、ノンフィクションに関わらず今までも多くの映画の題材として描かれてきた。
比較的近年の作品でも、騎兵隊員とアメリカ先住民スー族との大平原での出会いを描いた「ダンス・ウィズ・ウルブズ」、同じく元騎兵隊員と時代遅れの侍たちの物語「ラスト・サムライ」、舞台を宇宙にまで広げ、人類と異星の先住民族との戦いを描く「アバター」も記憶に新しい。
しかし理由は後述するが、これらの映画よりも私が本作に既視感を感じたのは、実はジブリアニメの「もののけ姫」なのである。
ハリウッドやヨーロッパの映画では、たいてい“西洋=進んだ文明”と彼らにとっての“野蛮=遅れた部族社会”との出会いと葛藤が描かれるが、本作においての“文明”のポジションを占めるのは脱亜入欧を遂げた日本人だ。
抗日戦争映画における悪の日本兵とはまた異なる、善意の抑圧者として我々自身が描かれる事は珍しく、ある意味新鮮な映画体験だった。
もっとも、日本人を敵役として戦う映画だが、この映画には敵はいても悪はいない。
セデック族に彼らなりの動機がある様に、日本人にも文明の火で未開の部族を照らすという大義名分があるのだ。
本作の主観的な存在であるセデック族は、いわゆる首狩り族である。
映画の冒頭に描かれる様に、日本による台湾併合以前には、先住民同士の戦いで首狩りが習慣的に行われており、敵を殺してこそ一人前の男として認められる事から、併合後も抗争が絶えなかった様だ。
だから、日本という文明のくびきから逃れ、本来の姿に戻った彼らの戦いは凄まじい。
敵である日本人は、女子供であろうと皆殺し。
それどころか、軍との戦いが始まり、足手まといとなると悟ったセデックの女たちは、自ら率先して次々と命を絶つのである。
ぶっちゃけ、彼らの死生観は、我々の目にはあまりにもエキセントリックに見える。
セデック族側も、自らが野蛮で日本人が文明人であることは認めていて、だから「日本人は決して妊婦を殺さない」などという台詞が彼らから出てきて、実際傷ついたセデックの女性が日本人によって手厚く看護される描写もあるのだ。
四時間を越える長尺は、それぞれの立場のキャラクターを丁寧に描き、単純な勧善懲悪に陥らない多面性を作品に与えた。
戦争アクション映画として“盛ってある”部分はあるものの、事件全体の展開もほぼ日本側の記録通りである。
少なくとも日本人に対して、植民地支配の道義的、政治的責任を追及する様なニュアンスは本作には皆無であり、本作が反日のベクトルを持っていないことは明らかだ。
「文明が屈服を強いるなら、俺たちは野蛮の魂を見せてやる」と“真の人”モーナ・ルダオは語る。
生命の息吹溢れる強烈な木々の緑と、深山の切り立った断崖絶壁の作り出す、まるで仙境のような浮世離れした世界観。
この地で暮らす人々に、文明の常識を押し付けることが果たして正しいのか。
それはある意味、彼らが脈々と受け継いできた、物質では計れない精神世界を破壊する行為なのではないか。
圧倒的な自然の懐に抱かれ、敵の血を生贄として捧げるセデック族が見ているのは、外界とはかけ離れた異世界であり、そこでは何を持って人間の尊厳とするかも文明社会とは異なっている。
現在の我々には常識的な、戦いはいけない、殺してはいけないという概念すら絶対の物とは言い切れなくなるのである。
彼らにとって敵味方問わず“死”は自然と祖霊に捧げられる神聖なものであり、忌むべき事象ではないのだ。
ウェイ・ダージョン監督はしかし、一見すると正反対であるセデック族と日本人が激しく殺し合う物語を通して、やがてお互いがお互いの中に同根を見る構造としている。
深山のロケーションだけでなく、この仕掛けこそが、私が本作に「もののけ姫」の精神を感じた所以である。
あの映画では、日本列島の先住民族である蝦夷の少年アシタカが、本作の霧社を思わせる深い森で、自然の象徴たる巨大な動物たちと暮らすもののけ姫サンと、鉄を求め山を切り開こうとする“文明”との戦いに巻き込まれる。
本作のセデック族を、死を賭してでも森と自然の尊厳を守ろうとするサンと動物たちに、日本人を、鉄を求め鉄砲衆とたたら場を率いるエボシ御前の一党に置き換えれば、両作の類似性がよくわかると思う。
戦いの結果、数多くの死と破壊が齎され、森の大きな意思が失われても、最後には「生きろ」というメッセージが強く残るのも共通である。
劇中、セデック族による“切腹”の描写が二箇所あるが、これは明らかに侍を意識した描写だろう。
また、日本軍を指揮する鎌田司令官は、セデック族を野蛮人と断じ、掃討の為なら化学兵器の使用すら厭わない人物だが、たった300人で近代兵器で武装した数千の日本軍に一歩も引かない彼らに驚嘆し、遂に失われた武士道を見たと吐露するに至るのだ。
セデック族の信仰する虹も日本人が崇拝する太陽も、どちらも同じ空にあり、両者にはアニミズムと祖霊信仰、そして屈辱に塗れた生よりも、誇りある死を貴ぶという符合もある。
これは同じアジアの別の島で生まれ、同じ根を持ちながらも何時しか異なる道を歩み始めた二つの民族が、殺し合いという最大の葛藤の末に再び響き合うまでの、魂の激突を描いた悲しく、しかし崇高な物語なのだ。
しかし、霧社事件でセデック族が奮戦し、短期間とは言え日本軍を脅かした事が、第二次世界大戦で多くの戦死者を出した高砂義勇隊の悲劇、その後の国民党支配下での“親日部族”としての冷遇に繋がるのだから歴史とはなんとも皮肉なものである。
劇中ではセデック族も日本人もガンガン日本酒を飲んでいたが、今回は日本の首都東京の地酒、小澤酒造の「澤乃井 純米 大辛口」をチョイス。
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