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「ブルーバレンタイン」のデレク・シアンフランス監督が、主演のライアン・ゴズリングと再びタッグを組んだ異色のクライム・ムービーだ。
ゴズリング演じる破滅的な生き方をする凄腕のスタントライダー、理想と現実とのギャップに葛藤する若き警官、そして数奇な運命によって結び付けられる二人の息子たちの、世代を超えた15年間の物語が描かれる。
もう一人の主役である警官役にブラッドリー・クーパー、彼らの物語を引き継ぐ息子たちにデイン・デハーン、エモリー・コーエン。
エヴァ・メンデス、ベン・メンデルソーン、レイ・リオッタらが脇を固める。
「ヒステリア」のショーン・ボビットによる、瑞々しいカメラが素晴らしい。
※ラストに触れています。
ニューヨーク州スケネクタディ。
旅回りのスタントライダー、ルーク(ライアン・ゴズリング)は一年ぶりに戻った街で、ロミーナ(エヴァ・メンデス)に自分の子を生んだ事を知らされる。
父親として息子の為に何かしたいと考えたルークは、修理工のロビン(ベン・メンデルソーン)に誘われて銀行強盗を始め、持ち前のラインディングテクニックで警察を翻弄し、大金を手に入れる。
一本、正義の理想に燃える新米警官のエイヴリー(ブラッドリー・クーパー)は、追跡の末にルークを射殺するが、その時にある大きなミスを犯してしまう。
周囲に打ち明けられないまま、街のヒーローに祭り上げられるエイヴリー。
そして15年の歳月が流れ、父親たちの関係を知らない、二人の若者が出会う・・・
私はシアンフランス監督の「ブルーバレンタイン」が苦手だ。
とてもよく出来た作品なのだが、あまりにもリアルで遣る瀬なくて、こんな身も蓋もない辛い話をわざわざ映画で観たくない・・・と思ってしまった。
なので本作もおっかなびっくり鑑賞したのだが、良い意味で期待を裏切られた。
これは、神の見えざる手によって結び付けられた二人の男と、その息子たちに科せられた血の宿命の物語を通して、“父性”を描く漢の映画なのである。
冒頭、控室で出番を待つ、鍛え上げられたタトゥーだらけの肉体が映し出される。
カメラが男の背中を追って外へ出ると、そこはきらびやかなステートフェアの会場で、彼はそのまま球形の鉄の檻の中を、三台のバイクで疾走するという命知らずのスタントに身を投じる。
ここまでが、計算され尽くした長廻しのワンカット。
本作が“父の背中”を追う映画である事を、強烈に示唆する鮮やかなオープニングだ。
映画は140分の上映時間の中で、二度主人公が入れ替わるというユニークな三部構成となっている。
おおよそ最初の50分が、その日暮らしをしているルークが我が子の誕生を知らされ、彼に金を遺すために連続銀行強盗となって、遂に壮絶な死を遂げるまでの物語。
次の50分がルークを射殺したエイヴリーが、腐敗した警察と対決し、野望の道を歩み始めるまで。
そして最後の40分が、15年後に期せずして高校の同級生として出会う事になる、ルークの息子ジェイソンとエイヴリーの息子AJの物語だ。
普通、話の途中で主人公が入れ替わったら、視点が落ち着かず非常に観難い映画になってしまうが、シアンフランスはカメラをそれぞれのキャラクターに寄り添わせるのと同時に、前半三分の一で画面から消えてしまうルークの影に、映画全体を支配させる事によって、一本筋を通している。
教科書的では無いが、極めてロジカルに構成された見事な脚本構成である。
まるで死に向って生き急ぐ様なルークを危惧したロビンが、こんな事を言う。
“If you ride like lightning, you're gonna crash like thunder.(お前が稲妻の様に走るなら、雷鳴の様に死ぬだろう)”
あまりにも危うく、刹那的なルークの太く短い生き様は、彼と関わった全ての人々の中に、忘れ得ぬ想いを残すのだ。
特に、人生の中の一瞬の邂逅によって、生と死に分かたれる事になるエイヴリーは、決してルークの影から逃れられない宿命を背負わされる。
正義の理想に燃えるエイヴリーは、ルークと撃ち合った時、僅かに先に発砲してしまう。
だが、検察官の聴取に対して、彼が先に撃ったとウソをつくのである。
結果的に彼は、負傷させられながらも、凶悪犯を射殺したヒーローとして脚光を浴びる事になるのだ。
小さな罪悪感は、ルークの最期の姿と共に、エイヴリーの心を締め付け続け、彼が薬物絡みの警察の内部腐敗という試練を乗り越え、州司法長官の有力候補へと出席した15年後も変わらない。
父親たちの血塗られた因果は、やがて世代を超えて二人の息子を再び対決へと導くのである。
シアンフランスは、反復と反転のモチーフを巧みに用いて、二つの世代の物語を一つの神話的構造を持つ、現代アメリカの叙事詩へと昇華する。
ルークがバイクで走った新緑の情景を、15年後に記憶に無い父の真実を追うジェイソンが自転車で走る。
そしてルークを射殺して配置転換された事で、警察内部の薬物不正を知る事になり、内部告発によって今の地位を築いたエイヴリーの息子が、今度はジェイソンに対してクスリを無心する皮肉。
嘗て自らを狙う汚職警官から間一髪で逃れた森の小道で、今ジェイソンと対峙する事になるエイヴリーに、もはや封印された過去に顔を背ける猶予は残されていない。
何故なら彼もまた、道を誤ろうとしているAJに、自らの背中を見せなければならない父親だからだ。
ある意味、全ての発端となる運命の子、ジェイソンを演じるデイン・デハーンが良い。
ちょっと故リバー・フェニックスを思わせる繊細な存在感で、鋭く涼しげな眼光は若い頃のレオナルド・ディカプリオと共通する雰囲気もある。
全米で大ヒットした異色の青春SF「Chronicle」の主人公や、スピルバーグの「リンカーン」にも兵士役で出演していたが、今後注目の新進俳優だ。
タイトルの「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ」とは舞台となるニューヨーク州スケネクタディの事で、この地の先住民モホークの言葉で「松林の向こう」を意味する。
一瞬で巨大なエネルギーを放出する雷の様に、鮮烈に生きて死んだ父の幻影を追って、少年は松林を超えて行くのである。
今回は、ニューヨーク繫がりで「ブルックリン ラガー」をチョイス。
スケネクタディは州の中でも田舎の方だが、こちらは名前の通りブルックリンで作られる地ビールだ。
ウィンナースタイルで、香りはフルーティで華やか。
しっかりしたコク、苦味も適度にあり、ドライな味わいは梅雨の最中でも爽やかで飲みやすい。

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ある日突然、家族の目の前で、この世を去ってしまった父。
残された子供たちと妻は、やがて庭にそびえる巨木に彼の魂を感じ、少しずつ悲しみを乗り越えてゆく。
長編劇映画デビュー作の「やさしい嘘」で脚光を浴びたジュリー・ベルトゥチェリ監督が、シャルロット・ゲンズブールを主演に迎え、雄大なオーストラリアの自然を背景に、ある家族の喪失と再生を描いた人間ドラマだ。
オーストラリアに暮すドーン(シャルロット・ゲンズブール)は、夫のピーターと四人の子供たちと共に幸せな日々を送っていたが、ピーターが運転中に心臓発作を起こし、亡くなってしまう。
丁度家に帰って来たところだった彼の車は、庭のイチジクの木にぶつかって止まった。
あまりにも突然で、あっけない死を受け入れられず、悲しみに打ちひしがれる家族。
8歳の娘、シモーン(モルガナ・ディヴィス)は、木にパパがいると言い、木と会話するようになる。
最初は信じなかったドーンも、何時しか木に亡きピーターを感じる事で癒されてゆく。
やがて生活のために働く事を決意したドーンは、店のオーナーのジョージ(マートン・ソーカス)と、徐々に親しくなってゆくが・・・・
シャルロット・ゲンズブールが、普通の女の役をやっているのを久々に観た気がする。
近年はラース・フォン・トリアー作品などでエキセントリックなキャラクターが定番となっていたが、本作で彼女が演じているのは、母国フランスから遠く離れたオーストラリアへと嫁ぎ、ささやかな家庭を築いた女性だ。
ジュディー・パスコーの原作は未読だが、終始幼いシモーンの目線で語られる物語らしい。
対して、映画の視点は基本ゲンズブール演じるドーンに置かれ、途中でシモーンの視点へと移り、お互いの間を行き来する様に構成されている。
この変更は、監督のジュリー・ベルトゥチェリが、本作の制作前に撮影監督だった夫のクリストフ・ポロックを亡くしている事と無関係ではあるまい。
これをスクリーンの表と裏、虚構と現実で、それぞれに大切な存在を追悼し、人生の新たな一歩を踏み出そうとする、ある女性=監督自身の物語と捉えるとしっくりくる。
おそらくこの映画を作る事自体が、監督にとっては自らの喪失に向き合う“喪の仕事”であり、そのためには分身であるドーンだけでなく、シモーンという観察者の視点を加えた自己客観視が必要だったのだろう。
ピーターを深く愛していたドーンは、突然彼に先立たれた事で生きる気力を失い、抜け殻の様になってしまう。
しかし、悲しみの中でも家族は、それぞれのタイミングで時計の針を進め始めるのだ。
男として追うべき背中を失った長男は、塞ぎこむ母を横目で見ながら父の友人の木工会社でアルバイトを始め、娘のシモーンは家族と共に父の最期を看取ったイチジクの巨木から、亡き父の魂の声を聞く。
やがてシモーンからその“秘密”を聞いたドーンも、大地にどっしりと根を下ろした木に、今も地上に留まる夫の影を感じるのである。
もっとも、それは残された者の心を一時癒すことにはなっても、植物の様に歩まぬ存在に留め置く歪な状態だ。
ドーンが少しずつ心を修復し、今まで知らなかった家の外へと目を向け始めると、状況は大きく変わりだす。
先日読んだ吉田秋生の漫画「海街diary」に、夫を亡くして周りが心配するほどに嘆き悲しむ女性を見た主人公の一人が、「ああいう人は、(一人で生きられないから)すぐ別の頼れる人を見つける」と言い放つ描写があったのだが、本作のドーンもそんな感じだ。
良くも悪くも世間知らずの夢見る少女の部分が残っていて、寂しがりやで感情の起伏が激しい。
ピーターを亡くしてどん底まで落ちても、ジョージと出会えばわりと直ぐに親密になってしまう。
だが、ドーンが母親や妻ではなく、一人の女としての顔を見せる事は、パパが木と同化して見守っていると信じるシモーンにとっては、家族への裏切りに他ならず、彼女はますます木に固執する様になる。
家族の歴史を未来へと進めようとするベクトルと、過去に留まろうとするベクトルが、ドーンとシモーンによって体言され、葛藤を深めてゆくのだ。
本作において圧倒的な存在感を見せるのが、舞台となるオーストラリアの大地と、物語に組み込まれたアニミズム的モチーフであり、その象徴が「パパの木」となる庭のイチジクの巨木である。
四方へと複雑な枝を伸ばしたそのシルエットは、大陸に流れる悠久の時を感じさせる。
ベルトゥチェリの前作「やさしい嘘」は、グルジアに住むおばあちゃんに、パリで息子が死んだ事を知らせないために、偽の手紙を書き続ける娘と孫娘の物語だった。
この作品ではフランスとグルジアの距離が物語の成立に不可欠だった訳だが、本作においては、フランス人の監督から見た未知なるオーストラリアの自然という、異世界感溢れるビジュアルが、映画の影の主役であり、バックボーンとなっているのだ。
巨木はドーンとジョージが親しくなるにつれて、まるで意思を持って嫉妬するかのように急成長を始め、家の中にはコウモリやカエルが飛び込んでくる。
遂にはドーンの寝室に巨大に伸びすぎた枝を落とし、屋根を破壊してしまうのだが、面白いのは住人もそれほど動じない事。
自然もダイナミックスだが、屋根が無くても急いで修理する訳でもなく、そのまま暮らしている人間もまた野生的だ。
だが、パパの木によって、家が破壊されようとしてもなお、家族は木を伐採する事ができない。
ジョージと付き合い始めているドーンにしても、本心の部分ではピーターとの思い出に囚われたままなのだ。
そして、実際の大嵐を待って撮影したというクライマックスに至って、母なる自然と一体となったパパの木は遂に家族へと決断を迫る。
このまま自分と共に死ぬか、それとも生きるのかと。
肉体を失ったパパは、最後に自然そのものとなって、家族の背中を押すのである。
パパの木に象徴されるアニミズム的な寓意性が、本来対照的な文化圏出身の監督の中で完全に消化されないまま前面に出すぎているきらいはあるが、これはヨーロッパとオセアニアのカルチャーミックスによって生まれたユニークな力作。
スクリーンから、今を生きる元気をもらえる一本である。
これはフランス人の監督がオーストラリアで撮った映画なので、同じようにフランスのモエ・エ・シャンドンが、オーストラリアのヴィクトリア州で生産しているスパークリング・ロゼ「シャンドン・ロゼ」をチョイス。
すっきりフレッシュな果実の味わい、クリーミーで柔らかな喉ごしが爽やかだ。
これをアペリティフにして、肉厚のオージービーフにでも豪快にかぶりつきたい。

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「マイ・ネーム・イズ・ジョー」「麦の穂をゆらす風」などの名匠ケン・ローチ監督による、英国映画らしい痛快かつ毒気のあるヒューマン・コメディ。
どことなく岡村隆史似の札付きの不良が、父親になった事を契機に人生をやり直そうとするが、過去の因縁や世間の不寛容が立ちはだかる。
彼は生まれ持った才能を発揮して、裁判所から命じられた社会奉仕活動で出会った仲間たちと共に、時価100万ポンド(約1億5000万円)超の幻のウィスキーに、人生一発逆転の大勝負を賭けるのだ。
※ラストに触れています。
喧嘩ばかりしている不良のロビー(ポール・ブラニガン)は、恋人レオニー(シヴォーン・ライリー)が出産を迎えることから、カタギの人生を歩む決意をする。
しかし前科者に世間の目は冷たく、手に職を持たないロビーには生計を立てる術も無い。
そんな時、裁判所から命じられた社会奉仕活動で、ウィスキー愛好家でもある指導者のハリー(ジョン・ヘンショウ)と出会い、仲間たちと共に蒸留所を見学に行く事になる。
生まれて初めて飲むウィスキーに魅了されたロビーは、独学でウィスキーの知識を身につけてゆく。
そして、ハリーと出かけたテイスティング会で、見事な舌を披露したロビーに、ウィスキーコレクターのタデウス(ロジャー・アラム)が声をかけてくるのだが・・・
タイトルの「天使の分け前(Angel's share)」とは、ウィスキーを樽の中で熟成させる間、自然蒸発によって毎年2%ずつ減ってゆく現象を、粋に表現した言葉。
熟成で生まれる独特の香りや味という奇跡に感謝し、その一部は報酬として天使にお返ししますという訳だ
予告編の印象では、不良がひょんな事から人生の師と出会い、それまで気づかなかった天賦の才を花開かせ、ウィスキーのテイスティングでサクセスする話かと思っていたが、なるほどさすがはケン・ローチ。
そんなストレートな感動物を鼻で笑う、社会派風味のプチ・ルパン三世的な、痛快泥棒コメディを作り上げた。
元々ウィスキーとはスコットランドの古語、ゲール語で「命の水」を意味する「uisce beatha」がなまったもの。
ハリーとの出会いによって、神秘的な名前を持つ琥珀色の液体に開眼したロビーは、自らも積極的に学んで舌と鼻を鍛えてゆく。
ウィスキーの世界で身を立てたい、そんな想いを抱いた頃、彼は偶然ある幻のウィスキーのオークションが開かれる事を知る。
それは酒好きなら名前は知っていても、実際に飲んだ者はほとんどいない、実在のウィスキー、モルト・ミル。
1908年にピーター・マッキーによって、ラガヴーリン蒸留所の敷地内で創業されたモルト・ミル蒸留所は、二度の世界大戦や大恐慌を乗り越えたものの、1960年には操業を停止。
存続していた期間が半世紀と短く、蒸留所としても小規模だった上に、殆どがブレンデッド・ウィスキーに使用されたため、ピュアな状態で現存しているモルト・ミルは世界で僅か数本とも。
超稀少なウィスキー故に、もしも映画の様に一樽まるごと出てきたら、とんでもない金額がつけられるのは必至なのだ。
モルト・ミルの存在を知ったロビーは、社会奉仕活動で出会った三人の不良仲間とウィスキー・クラブをでっち上げる。
そして、オークション会場となる北部ハイランド地方の蒸留所に潜入すると、前夜のうちに樽の中味を盗み出し、オークションで落札出来なかった好事家に売り付ける計画を実行するのである。
本作の舞台となるのは、「マイ・ネーム・イズ・ジョー」や「やさしくキスをして」でもロケーションが行われたローチのフェイバリット・シティのグラスゴー。
スコットランド最大の都市の中でも、主人公が住むのはパディ・コンシダイン監督の「思秋期」でも象徴的に描かれていた、低所得者向けの公営住宅街が広がるエリアだ。
グラスゴーは失業者の比率がスコットランドで最も高く、一度ネガティブスパイラルに陥った住人が、生まれ育った街を出てゆくのは容易な事ではない。
親の代から続くストリートギャングの対立によって、親が敵なら息子もまた敵という理不尽な理由で、物心ついた頃から訳もわからず喧嘩をふっかけられ、やがて暴力と犯罪の連鎖に染まってゆく。
そんな環境ではまともな教育を受ける事も難しく、導いてくれる様な大人もおらず、結果定職にも付けないまま、貧困は世代を超えて受け継がれ、階級社会は固定化される。
ロビーは、たまたま社会奉仕活動でハリーという良き指導者と出会う事が出来、自らの中に眠る才覚に気づいた事で、スパイラルに立ち向かう決意をするのだ。
過去に様々な社会問題を描いて来たローチは、悪人が心を入れ替え、善人となってサクセスする綺麗事の“良い話”ではなく、不良が世知辛い社会の秩序に抗い、不良の流儀で自分の人生にきっちりと落とし前をつける物語によって、現代イギリスに一石を投じるのである。
だが、酒好きとして唯一引っかかるのが、ロビーがボトル4本分を抜き取った後、減った分を誤魔化すために樽の中身に他の酒をブレンドしてしまう事だ。
ウィスキーを愛し、ウィスキーの世界で生きようとする人が、果たしてそんな事を出来るだろうかという疑問は残る。
もっとも、ロビーのウィスキー愛好歴はまだ浅く、好事家の感覚とは異なり貧困から脱出する手段に過ぎないのかも知れない。
またブレンドされた樽の落札者が、試飲してもその事に気づかない舌バカである事が露顕する描写は、本物を理解する能力も無いのに、ただ高価な物をありがたがる金満主義への痛烈な批判にもなっている。
盗み出したモルト・ミルの一本が、本当にそれが飲まれるべき相手の元へ、「天使の分け前」として密かに届けられるオチによって、物語として一応の筋は通っていると言えるだろう。
悪たれロビーとおバカな仲間たちの旅立ちを見送る、老匠ローチの厳しくも優しい眼差しに、考えさせられながらも、ほっこり爽やかな後味を感じられる良作である。
さすがに飲んだ事も見た事も無いモルト・ミルは無理なので、劇中エジンバラのテイスティング会で登場した「ラガヴーリン 16年」をチョイス。
ラガヴーリンはモルト・ミルを併合し、その蒸留釜を受け継いだ蒸留所であり、その味わいの一部は受け継がれているだろう、たぶん。
映画では「 実にエレガントなアイラ島のプリンス」と評されていたが、塩の染み込んだピートの効いたアイラモルトの独特の香りは、好きな人は病み付きになるが、結構好みが別れると思う。
正露丸のにおいとか、病院のにおいとか感じてしまい、受け付けない人は結構多い。
いずれにしても庶民が気軽に楽しめるのはこの位のお値段だよねえ・・・。

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制作本数ダントツの世界一を誇る映画大国、インドで歴代興行収入ナンバーワンを叩き出した大ヒット作。
大学生活を謳歌する学園のヒーロー、ランチョーと仲間たちの輝かしくもちょっとビターな青春ストーリーと、忽然と姿を消した彼を探す10年後の一日が並行して描かれる。
軽妙なコメディながら、インド社会の矛盾をあぶり出す社会風刺を内包し、人間ドラマとしても実に秀逸。
いわゆるマサラ風味は比較的薄目で、普遍性のある物語なので、インド映画が苦手という人にも自信を持ってオススメ出来る。
観客は大いに笑って、少し泣いて、最後には最高に気持ちよく映画館を後にするだろう。
監督・脚本のラージクマール・ヒラニは娯楽映画の大傑作を作り上げた!
長らく音信不通だったランチョー(アーミル・カーン)が帰って来ると連絡を受けた、ファルハーン(マドハヴァン)とラージュー(シャルマン・ジョシ)は母校に向かう。
彼らはインド屈指の名門理系大学ICEの同窓生。
ランチョーは成績優秀で何者にも媚びず、異議があれば鬼学長(ボーマン・イラニ)にすら遠慮しない、学園一の人気者だった。
彼ら三人と学長の娘・ピア(カリーナー・カプール)は、10年前に青春を共に過ごし、そしてランチョーは誰にも何も告げず、姿を消したのだ。
しかし、ファルハーンとラージューの前に現れたのは、ランチョーではなく、彼をライバル視していたチャトゥル(オミ・ヴァイディア)だった・・・
輝かしい青春の記憶は、今を生きるエネルギー。
インド人がサービス精神満載で「横道世之介」的、あるいは「サニー 永遠の仲間たち」的物語を作るとこうなる。
邦題は、何となくシネスイッチ系の真面目な作品を思わせるが、原題は「3idiots(三人のおバカ)」なので、ノリは推して知るべし。
インド映画のスーパースター、アミール・カーン演じるランチョーと仲間たちの大学生活は、波乱万丈、抱腹絶倒。
映画は、大学卒業から10年後の現在、行方不明のランチョーが街に帰って来るという情報がファルハーンとラージューに齎され、二人が母校のICEに向かうところから始まる。
ランチョーは言わば横道世之介と「桐島、部活やめるってよ」の姿無きキーパーソン、桐島を合体させた様なキャラクターだ。
とにかく真っ直ぐな性格で冒険心に溢れ、誰に対しても媚びず、物怖じしない。
権威主義的な大学を批判し、友人の落第の危機を救い、壮大なイタズラをしかけ、よりにもよって天敵の鬼学長の愛娘と恋に落ちる。
そして、彼と出会った全ての人に忘れ難い思い出を残して、幻の様に姿を消すのだ。
一体、ランチョーとは何者だったのか?彼の人生に何が起こったのか?
上映時間は例によって2時間50分もある長大さ。
インド映画はミュージカルがあるからその分尺が長くなると言う人もいるが、本作はその辺りはかなり控えめ。
一応踊りも歌もあるにはあるが、せいぜい10分か15分程度だろう。
その分物語は濃密そのものだ。
「横道世之介」同様に、基本の視点は消えたランチョーの謎を追う現在のパートに置かれ、そこから10年前のハチャメチャな学園ドラマへと時系列を行ったり来たりしながら、二つの流れのプロットが並行に描かれる。
三バカvs鬼学長の卒業をかけた丁々発止の騙し合いがあり、親父とは似ても似つかぬ学長の美しい娘とのもどかしい恋あり、更には大嵐の夜に新しい命を救うというスペクタクルな感動あり、長大な物語には喜怒哀楽が詰め込まれ、ほとんど人生の全てがある。
過去と現在で幾つもの出来事が絡み合う複雑なプロットの中で、全ての伏線を完璧に回収してゆく作劇も鮮やかだ。
本作は娯楽として優れているだけでなく、社会派的な硬派さも併せ持つ。
急激な経済成長を続ける一方、激しい身分差別や性差別が残り、人口の3割が一日僅か1ドルで暮らすというインド社会の持つ数々の矛盾。
エリートが集うICEと言えど、生徒たちの背景は千差万別だ。
ランチョー、ファルハーン、ラージューの三人の実家は、それぞれ超格差社会となったインドの、上流、中流、貧困層に設定されていて、それ故に抱える葛藤も異なる。
爪に火をともす様にして学費を捻出し、息子たちの未来に希望を託す親たちの想いは、そのままプレッシャーとなって彼らを押し潰す。
若者たちの自由な探究心よりも、自らの権威を守る事にプライオリティを置き、学生には服従を強いる大学は、勝利至上主義からはみ出す者を無常に排除するが、それは学生たちにとって人生を奪われる事に等しい。
若者たちの、未来への希望に満ちた大学生活は、一方でこの世界の現実を知ってゆく日々でもあるのだ。
実際、インドでは学歴や経済的な成功を求めるあまり、現実とのギャップに悩んで命を断つ、若い自殺者が非常に多いという。
ただ楽しいだけでなく、現代インドの闇からも目を背けなかったからこそ、この映画には単純なエンタメ以上の深みと情感がある。
現状に葛藤する三バカが、鬼学長率いる大学という権威の城に抵抗しながらも自分らしい生き方を見つけ、同時に既存の価値観に縛られた大人たちの目を開かせてゆくドラマは、インド社会全体のメタファーでもあるのだろう。
似た構造を持つ「横道世之介」と「サニー 永遠の仲間たち」が、過ぎ去った過去への強い郷愁を感じさせるのに対して、日本や韓国と違って今が高度成長期真っ只中のインドで作られた本作は、現在と過去がぐっと近い。
この時間までもが凝縮された大きな塊感も、社会全体の胎動するマグマの様な変革のエネルギーを強烈に感じさせる。
日本の様な色々な意味で覚めた社会から見ると、この熱はとても眩しいのである。
今回は、インドの映画の都、ボリウッドの由来でもあるムンバイの古名、ボンベイの名を持つジン「ボンベイ・サファイア」をチョイス。
これ自体はイギリスの酒だが、イギリス統治下のインドでジンの人気が高かった事から名付けられたという。
カクテルベースとしては勿論だが、この酒はジンの中でも香りが抜群に良く、ロックでシンプルに味わうのもオススメだ。
暑い夏にジンの清涼感はピッタリ。
インドの青春に乾杯!

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マーベル・ユニヴァースのヒーローたちの中でも、屈指の人気を誇る「アイアンマン」シリーズ第三弾。
思えば、アイアンマンというのはユニークなキャラクターだ。
スーパーマンにしろスパイダーマンにしろ、図らずも超人的なパワーを持ったヒーローたちは、その圧倒的な力故に、自らの成すべき事は何か、正義とは何かについて葛藤する。
ところがアイアンマンの中の人、トニー・スタークはメカヲタクの大富豪で、誰に頼まれた訳でもなく、勝手にパワードスーツを作ってヒーローを名乗っている。
ぶっちゃけ、彼にとってのアイアンマンとは、成金が乗り回すフェラーリの延長線上にある贅沢なオモチャであり、ヴィランにしても商売上の敵とか私怨の結果として戦う相手が多い様に思う。
ところが、今回はトニー・スタークに変化が見られるのである。
「アベンジャーズ」の戦いによって、絶体絶命の危機と、愛する者を失う恐怖を味わった事が、スタークにとって大きなトラウマとなってしまっているのだ。
戦いが怖くてPTSDを患ったヒーローなんて初めて見たが、心に傷を抱えた彼が何をしているかというと、例によってアイアンマンスーツの改良(笑
何時、何処にいてもスーツが装着できるように遠隔操作でパーツごとに飛んでくる様にしたり、中の人がいなくても自立機能でスーツをコントロールできたり、人間としての弱さを、スーツを強化することで乗り越えようとしているのである。
しかし、どんなに武器としてのスーツを強化したとしても、心に潜む恐怖を退けることはできない。
今回のヴィラン、まさかの名優ベン・キングスレーがノリノリで演じるマンダリンは、まんまビン・ラディンだ。
2011年に殺害されるまで、見えない恐怖の象徴としてアメリカを支配したビン・ラディンのモドキがヴィランで、さらにそれが本物の悪によって作られた虚像であるという設定は、何ともこのシリーズらしい皮肉っぽさ。
大統領が石油利権の人だったり、本作はさりげなくだが、対テロ戦争のセルフパロディとしての構造を持っているのである。
さて、愛するペッパーを奪われ、最大の危機に陥ったアイアンマンは、スーツのバリエーションを大集合させて総力戦を繰り広げるも、今回の真のヴィランは金属のスーツを無力化してしまう能力の持ち主。
力の象徴たるスーツはあくまでも牽制にしかならず、遂にスタークは生身の人間として敵の前に立たねばならなくなる。
過去二作と比べても、今回はアイアンマンとして活躍するシーンが少なく、結果的にトニー・スタークという中の人がフィーチャーされているのが特徴だ。
そう、本作は鋼鉄の繭によって、本当は弱く、虚栄心の固まりである自らを守ってきたオトナコドモの大富豪が、愛する人を守るために、遂に繭を破って本物の男になる成長物語なのである。
まあ「アベンジャーズ2」を含めてシリーズはまだまだ続きそうなので、スタークは再びアイアンマンスーツを纏うのだろうが、一皮剥けた彼にとってスーツの持つ意味は確実に変わるということだろう。
今回は、アイアン繋がりでアイアンストーン・ヴィンヤーズの「アイアンストーン シャルドネ 2009」をチョイス。
やわらかい風味で、適度な酸味とトロピカルなフルーツ香を楽しめる、リーズナブルなカリフォルニアの白。
トニー・スタークには宇宙人や怪人との戦いに疲れたら、ヲタクなスーツよりも酒に溺れていただきたい(笑

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サム・ライミの長編デビュー作にして、ホラー映画史のマスターピース、「死霊のはらわた」の32年ぶりのリメイクである。
オリジナルのユニークさは、超低予算の中で“ホラー”を追求した結果、過剰なまでのグチャグチャ、ドロドロにプラスして主演のブルース・キャンベルの涙ぐましいオーバーアクトもあって、結果的に恐怖を突き抜けて笑いを生んでしまった事だろう。
もっとも、ライミ自身はひたすら怖い映画を作ったつもりだったらしく、少なくとも第一作をホラーコメディとする評には不満を述べている。
嘗て、恐怖と笑は元々裏一体であり、匙加減次第でどちらにも転じると言ったのは楳図かずお先生だったが、若きライミは図らずも二つの間の壁を粉砕してしまった訳だ。
「死霊のはらわた」から強い影響を受けた作品といえば、つい最近「キャビン」が公開されたばかりである。
ライミ版の持つ恐怖と笑いのミックス要素を、恐怖映画の“パッケージ”に取り込んでパロディ化するというのは非常に秀逸なアプローチだったが、正統派のリメイクとしては同じ手は使えない。
そこで、ウルグアイ出身の俊英フェデ・アルバレス監督は、オリジナルの最大の特徴だったお笑い要素を完全に封印するという策に出た。
32年前のオリジナルは、製作費僅か37万ドル、16ミリスタンダードの自主映画である。
対してリメイク版はハリウッド映画としては比較的低予算なものの、オリジナルの50倍近い1700万ドルをかけてシネマスコープの大画面で作られている。
アルバレスは、超ビンボー故の勢いから生まれた面白さは最初から捨て去り、当時のライミが目指したであろう、シリアスな恐怖演出で勝負に出た。
シンプルな基本プロットは変わらないものの、ディテールをブラッシュアップ。
若者たちがどう考えてもバカンス向けで無い、山奥の薄汚いコテージを訪れる理由付や、そこで起こった過去の事件など、物語の背景も綿密に描きこまれ、より洗練された劇映画として生まれ変わらせている。
ラフ&派手な特殊メイクがやりすぎ感を生んでいたライミ版に対して、こちらはスプラッター描写もより生々しく、肉体の痛みを感じさせるもの。
次に何が起こるかわかっていても、観客の身を捩じらせて苦悶させるのだからたいしたものだ。
もちろん、本作のプロデューサーでもあるライミへのリスペクトも抜かりは無く、地下室に閉じ込められた死霊が鎖で縛られた扉の隙間から恨めしく覗き込む描写や、動き出す森の植物、そして80年代当時の8ミリ少年たちの間で大流行した、なんちゃってステディカムこと“シェイキイカム”が森の中を疾走するショットも再現されている。
そして、徐々に物語がライミ版から離れるクライマックスには、アルバレスのホラー・ワンダーランドの幕が上がる。
ここにはオリジナル以外にも、70年代のオカルトブームからJホラーに至るまでの豊富な映画的記憶があるが、それらは皆作品世界の中にしっかりと取り込まれ、昇華されている。
端的に言って、フェデ・アルバレスはザック・スナイダーが見事な長編デビューを飾った「ドーン・オブ・ザ・デッド」以来の、リメイクホラーの秀作を作り上げたと言って良いだろう。
ちなみに、オリジナルファンへのクールなプレゼントが最後の最後にあるので、エンドクレジットで決して席を立たないように!
真剣に怖がった後には、悪魔の名を持つカクテル、「ディアブロ」を飲み干してしまおう。
ホワイト・ポートワイン40ml、ドライ・ベルモット20ml、レモンジュース1dashをシェイクしてブラスに注ぐ。
名前とは反対にすっきり爽やかな気持ちの良いカクテルだ。

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「ハッシュパピー バスタブ島の少女」という柔らかい邦題よりも、「Beasts of the Southern Wild」という原題の方がしっくりくるパワフルな作品だ。
主人公の少女、ハッシュパピーとワイルドなオヤジ、ウィンクが暮すのは、大河の河口にある小さな島、バスタブ。
ここでは人々がヒッピーコミューンの様な集落を作って、自由気ままに生活している。
海にある巨大な堤防の彼方には大都市が存在するが、どうやらバスタブの住人たちは向こう側の暮らしを嫌悪しているらしい。
一見すると、これは人々の暮らしが二極化した異世界の話なのかとも思えるが、話が進むとそういう訳でもない事がわかってくる。
本作は言わば、6歳の少女の目を通して見た“ありのままの世界の姿”であり、リアルとファンタジーの境界線上に存在するシネマティック・ワールドだ。
理想郷に暮らす少女は、ここで世界の終末と再生への旅立ちを経験するのである。
アメリカ南部、ルイジアナで撮影された本作からは、スタジオジブリのアニメーション、特に宮崎駿作品の強い影響を見て取れる。
劇中ではっきりとは言及されないものの、ハリケーンカトリーナの様な大嵐がもたらす洪水によって、バスタブでの暮らしはあっけなく破綻してしまう。
潮水に陸が侵食され、死の世界となったバスタブは、都会の人々によって強引に閉鎖されてしまうのだ。
更に追い打ちをかけるように、ハッシュパピーの唯一の家族であるウィンクが倒れ、余命幾ばくも無い事が明らかとなる。
崩壊する世界の中で、ハッシュパピーは記憶の中の母親を求めて子供達と共に海へと向かい、まるで竜宮城の様な店で幻想の母と邂逅し、遂には破壊と混乱の象徴たる太古の巨大な獣たちと出会うのだ。
この辺りの現実と死の香り漂う幻想が溶け合った冒険のイメージは、やはり大洪水によって現世と常世が融合する「崖の上のポニョ」を思わせるし、都会の人々と自然と共生するバスタブの人々の価値観の違いは、宮崎アニメの多くに見られるモチーフである。
しかし、一見ジブリアニメの様な装いであっても、本作はワイルドな原題通りに描写には全く容赦がない。
大洪水から始まる破壊は、バスタブという理想郷だけでなく、ついにハッシュパピーからウィンクをも奪い去る。
だが「崖の上のポニョ」の宗介とポニョと同じように、内的なファンタジー世界での冒険によって、ある種のビジョンクエストを経験したハッシュパピーは、既に大人への階段を登り出しているのだ。
海の彼方の常世へと、父の亡骸を送り出した彼女は、自らの足で陸を踏みしめ、力強く歩み出すのである。
本作で鮮やかなデビューを飾ったベン・ザイトリン監督だが、彼がダン・ローマーとの共同作業で紡ぎ出した躍動感溢れるテーマ曲も素晴らしい。
主人公の名前の“Hushpuppy”とは、元々アメリカ南部の郷土料理であるトウモロコシのパンの事で、この地域に何世代もの間受け継がれてきた、命の食べ物だ。
これは、混乱する世界の中でも、めげずに生き抜く生命の力強さを描いた寓話的作品であり、少女が主人公でも、観るべきは大人たちなのである。
今回は映画のロケ地、「ルイジアナ」の名を持つカクテルを。
ドライ・ジン15ml、レモン・ジュース60ml、砂糖適量をシェイクして、氷を入れたタンブラーに注ぎ、最後にソーダを注いで完成。
レモンの風味が爽やかで、高温多湿な日本の夏にもピッタリだ。

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普段何気なく使っている辞書を作るのに、これほどの時間がかかっていたとは!
本作に描かれるのは、全く新しい辞書「大渡海」の編纂に挑む人々の、15年間に渡る創造の物語だ。
15年でも驚きなのに、劇中で言及される三省堂の「大辞林」に至っては、実に28年かかったという。
あの辞書は1988年初版だから、高度成長期の1960年からバブル真っ只中まで延々と作業していたという事か。
生半可な覚悟では向き合えない、正に一生をかけた職人の仕事である。
これは映画の世界の職人たちが、世の中の縁の下の力持ち的存在である、辞書作りの職人たちへとエールを贈り、まるで作品自体が辞書の様に、丁寧に拘りを持って作り込まれた愛すべき佳作だ。
本作には、まだ存在しない物を創造する喜びと厳しさ、モノ作りの醍醐味が詰まっている。
主人公の馬締光也は、昭和の下宿屋然としたレトロなアパートに、無数の本に埋れて暮らす本オタクだ。
友達はおらず、言葉を交わすのも大家のおばちゃんとトラ猫のとらさんだけという、内向的でコミュニケーション能力ゼロな性格故に、営業マンとしては無能扱いされ、出版社の中でも日の当たらない辞書編集へと移動する事になる。
劇中で馬締が辞書作りという天職と出会う1995年は、ウィンドウズ95が発売されネット時代の幕が開いた年であり、彼が身を置く出版の世界でも、来るべき変化を予感し紙の辞書はいつか潰えるのではないかと説く人もいる。
しかし、馬締は言うのである。
「時代とか関係ないです。僕は大渡海を作りたいです」と。
たとえ紙の辞書がいつか消えてしまうとしても、やりたい事、作りたいモノに誠実に向き合い、自分らしく生きてゆく人々の人生は観ていて気持ちが良い。
馬締と共に辞書を作る仲間たちも個性豊かで、特にオダギリジョー演じるチャラい先輩は絶品だ。
まあ、超マジメ人間の元にかぐや姫が舞い降りるのは、現実にはファンタジーだろうけど、許しましょう(笑
惜しむらくは、全編が均一なタッチで淡々と紡がれてゆくので、物語的、映像的な抑揚に乏しい事。
15年に渡る辞書作りの間には、企画中止の危機があったり、馬締の恋があったり、監修者の先生の病気があったり、結構な事件が起こるのだが、元々主人公がポーカーフェイスなので彼の内的葛藤があまり画面に顕在化しないのである。
更に外的葛藤に関しても、おそらくは狙ってあっさりと描いているが故に、物語の根幹を揺さぶるほどには響かないのだ。
どこか一箇所でも物静か過ぎる主人公のパッションの爆発、映画的なピークがあれば、もう一歩突き抜けた作品になった様に思うのだが。
もっとも、まるで丁寧に作られた辞書を読んでいる様な本作のタッチこそ、作り手がやりたかった事なのかもしれない。
何れにせよ、辞書大好き人間としては、一字一句に込められた魂に、今までより一層愛着を感じるようになった。
今回は、「大渡海」編集部の皆に「ヱビスビール」を捧げよう。
123年の歴史を誇る、日本のプレミアムビールを代表する銘柄であり、日本のビール職人の伝統を伝える芳醇な一杯。
ここにも、モノ作りの真髄がある。

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福岡、東京間1100キロ。
被害者の遺族から「殺してくれたら10億円」という、巨額の賞金をかけられた猟奇殺人犯を護送するサスペンスフルなロードムービー。
護送チームは、要人警護のスペシャリストである二人のSP、二人の一課の刑事、一人の福岡県警のベテラン刑事の五人。
しかし、日本国民一億二千万人の誰もが暗殺者となりえる極限状況で、クズを守るべく命じられた彼らは、あまりにも脆い「藁の盾」に過ぎない。
高速道路、新幹線、どこにも安全な場所はなく、史上最大の護送作戦は、やがて誰も信用できない悲壮な逃避行へと姿を変える。
主人公の心に傷を抱えたSPを演じる大沢たかおは、間違いなく彼のベストアクトだ。
少女が惨殺される事件が起き、清丸国秀(藤原竜也)が容疑者として指名手配される。
清丸は同じような殺人事件で有罪判決を受け、仮釈放されたばかりだった。
被害者の祖父で財界のドン、蜷川隆興(山崎勉)は「清丸を殺し、有罪判決を受けた者に10億円の謝礼を支払う」という新聞広告を出す。
身の危険を感じた清丸が福岡県警に出頭し、敏腕SPの銘苅一基(大沢たかお)と白岩篤子(松嶋菜々子)は清丸の護送中の警護を命じられる。
捜査一課の奥村(岸谷五郎)と神箸(永山絢斗)、福岡県警の関谷(伊武雅刀)と合流した二人は、福岡から陸路で護送を開始するが、それは誰もが暗殺者となりえ、身内すら信用できない、壮絶な旅の始まりだった・・・・
原作者の木内一裕は、「ビー・バップ・ハイスクール」などで知られる漫画家のきうちかずひろ。
これは彼の小説家としての第一作だそうだが、映画監督としてもバイオレンス映画の秀作「カルロス」を放った人物であり、なるほど作品世界と三池崇史監督との親和性は高そうだ。
10億円の賞金がかかったクズを殺そうとする人々と、逆にクズを守れと命じられたSP。
ユニークな設定は、「逃がしてくれた奴に一億ドル払う」と叫ぶ麻薬王を巡る、無法者と警察の攻防を描いた「S.W.A.T.」の逆バージョンだが、こちらの方が出来は良い。
おそらくは原作由来であろう、巧妙に練られたプロットの面白さはもちろんだが、娯楽サスペンスとして十分楽しませつつテーマ性も結構深いのだ。
金が他人の生殺与奪権を握る資本主義の格差社会で、法治国家の正義とは一体何か。
そもそも確実に死刑になる猟奇殺人犯に、命がけで守る価値などあるのか。
メジャーリーグのトップ選手が一年で稼ぐ額と考えればたかが10億、しかしサラリーマンの平均年収の243年分と思えばされど10億である。
もしもこれだけの金が手に入るなら、10年くらい刑務所に入ってもかまわないと考える人は決して少なくないだろう。
おまけに、未遂に終わっても1億円貰えるとなったら、分母は同じでもとりあえず狙ってみるかと考える分子は確実に増える。
映画は、福岡から東京へと向かう護送作戦を三段階に分け、それぞれに工夫を凝らしてサスペンスを盛り上げる。
当初、圧倒的な数の警察車両で挑んだ高速道路での護送は、逆走する巨大トレーラーの特攻によって車列が粉砕され、おまけにウジャウジャいる警察官の中から清丸を狙う者が出て作戦失敗。
次に密かに乗り込んだ新幹線では、何者かによって乗車車両の情報がリークされ、今度は列車ゆえの逃げ場の無さが一行を追い詰めるのだ。
護送チームの中にも裏切り者がいる可能性が生まれ、いつ誰が敵になるのか分からず、お互い疑心暗鬼となって対立が生まれる。
おまけに襲撃によって犠牲者が出ることで、ますます命がけで清丸を守る事の意味が、それぞれの中で問われるのである。
このあたりは、たった一人の兵士を救うために、多大な犠牲を払って救出作戦を行う「プライベート・ライアン」のジレンマにも共通するが、あちらが救うのは国のために働き、危機に陥った一兵士なのに対して、こちらは猟奇殺人犯、人間のクズだ。
さらに、清丸を殺そうとする人々、守ろうとする人々それぞれの背景が明かされる度に観客の気持ちも揺れる。
当然ながら、殺人犯となってでも10億が欲しい人々それぞれにも、切実な動機があるのだ。
殺すべきか、守るべきか、もしも自分がこの場にいるならどうするだろうか?
そんな中で唯一ぶれないのが、大沢たかお演じるSPの銘苅である。
彼は、無謀運転の再犯者によって妻をひき殺された過去があり、本来清丸の様な犯罪者を一番許しがたく思っているはず。
にもかかわらず、彼はたびたびの誘惑にも動じず、新幹線を降りていよいよ孤立無援となっても、任務を遂行しようとするのである。
実は、銘苅が清丸の護送任務に選ばれた事自体が、金の力で警視庁内部にまで入り込み、用意周到に仕掛けられた蜷川のトラップ。
卑劣な犯罪によって家族を失った銘苅なら、最後の最後で清丸を殺したいという願望に抗えないはず、という訳だ。
ここにきて、映画は清丸という人間のクズを挟んで、金で権力をも買い自分の復讐を遂げようとする蜷川と、心の奥に疼く黒い願望を法と正義に基づく理性によって押さえ込んできた銘苅の、全く異なる理念を持った二人の男の対決となるのである。
果たして、「正しいことをする」とはどういう事なのか。
清丸の様な男を憎む気持ちは同じだが、蜷川は人を憎み、銘苅は罪を憎む。
また蜷川のやっていることは、金によって貧者を踊らせ、自分の換わりに罪を犯させる卑劣な行為だ。
過去に何度も問われてきた“正義の意味”が、この映画でもクライマックスの葛藤となるのである。
もっとも、映画の出した答えは、それまでの超ハードな展開からすると、やや類型的で肩透かしであった。
もちろん、倫理的に正しい正義が傷つきながらも勝ち、間違った者は流された血を見て非を認めるというのは、教科書的には真に正しい展開だ。
だが、正直そこまでの展開は予想をはるかに上回る力作である。
例えば、力と力の激突の結果、銘刈の絶望の果てに、テーマを浮かび上がらせるような考え方があっても良かったと思う。
もちろん賛否両論は必至だろうが、そうなれば映画史に残る傑作になっていたかもしれない。
しかし、それを差し引いても本作は今年の邦画を代表する一本となるのは間違いないだろう。
是非劇場のスクリーンで観届けるべき大力作である。
今回は、旅の起点であり、原作者の故郷でもある福岡の地酒、高橋商店の「繁桝 純米大吟醸」をチョイス。
九州といえば焼酎のイメージが強いが、北部の県は日本酒も美味しい。
こちらはフルーティな吟醸香と、スッキリした喉ごしが楽しめる一本。
玄界灘の海の幸にあわせて、冷でいただきたい。

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