酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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さよなら渓谷・・・・・評価額1700円
2013年06月30日 (日) | 編集 |
それは愛なのか、それとも復讐なのか。

「悪人」「横道世之介」と、映画化が相次ぐ吉田修一の同名小説を元にした人間ドラマ。
緑豊かな田舎町で起こった一件の殺人事件から浮かび上がる、一組の“夫婦”の不思議な関係と15年前に起こったある出来事。
隠された秘密に迫る事件記者は、やがて女が心に秘めた狂おしい葛藤、そして男が誓った悲壮な覚悟を知ってしまう。
「ぼっちゃん」が記憶に新しい大森立嗣監督が、脂が乗った演出を見せれば、7年ぶりの映画単独主演となる真木よう子は、深い傷を負った女の心の機微を、繊細に表現し圧巻の名演。
彼女の内縁の夫を大西信満、二人の過去を追う事件記者を監督の実弟でもある大森南朋と鈴木杏が演じる。
※ラストと物語の核心に触れています。

東京郊外の山深い渓谷で子供が殺される事件が起こり、実母の立花美里(薬袋いづみ)が逮捕される。
一件落着かと思われたが、美里がアパートの隣人の尾崎俊介(大西信満)と不倫関係にあったと供述した事から、警察は俊介を殺人教唆の疑いで取り調べる。
最初は否定して俊介だが、内縁の妻のかなこ(真木よう子)が、美里との不倫を裏付ける証言をすると、一転して事件への関与を自供。
俊介に興味を抱いた週刊誌記者の渡辺(大森南朋)は、取材を進めるうちに彼が15年前にある事件を起こしていた事、そしてかなこの驚くべき正体を知ってしまう・・・


冒頭、真昼間から情事にふける俊介とかなこ。
曇りガラスの向こうからは、住宅地にはそぐわない喧騒が聞こえてくるが、その声が何なのかはまだわからない。
だが、アパートの玄関が開きカメラが引くと、敷地の外には無数の報道陣が取り巻いており、その中をパトカーが何台もやって来る。
内と外、静と動の鮮やかなトランスフォームのなんと映画的な事か!
大森立嗣監督はどんな題材を撮っても、映画のダイナミズムを存分に感じさせてくれる。

本作は、前半と後半で大きく語り口を変える。
物語の発端は、山の渓谷で起こった殺人事件だ。
殺された子供の母親が容疑者として逮捕されるが、彼女がアパートの隣人の尾崎俊介と不倫していたと供述。
しかも俊介の内縁の妻のかなこが、その事を裏付ける証言をした事から、警察は俊介を事件の黒幕として拘束するのである。
週刊誌記者の渡辺は、俊介の過去を取材するうちに、彼がとんでもない秘密を抱えている事を知ってしまう。
それは15年前に、名門大学の野球部で起こった女子高生集団レイプ事件。
選手として将来を嘱望されていた俊介は、この事件によって大学を追われるが、その後何とか社会復帰を果たし、就職もし、恋人もいた。
ところが、彼は突然全てを捨てて、この山深い田舎に移って来たのである。
それは一体なぜなのか?15年の間に何があったのか?
映画の前半は、俊介と同じく挫折した元スポーツ選手という経歴を持つ渡辺の視点で、ミステリータッチに展開する。

そして、渡辺らを驚愕させるのが、キーパーソンであるかなこの正体。
実は彼女こそ、15年前のレイプ事件の被害者なのである。
一体、かなことは何者なのか。
なぜ彼女は“妻”として、自分を犯した男と暮らしているのか?
再び俊介を犯罪者にしようとする、彼女の証言は真実なのか?
もし嘘なら、俊介はなぜ証言を認めたのか?

映画の後半は、運命の悪戯によって再会したかなこと俊介が、やがて極限の愛憎を抱えた奇妙なパートナーとなるまでの、情念渦巻く旅を描くロードムービーへと姿を変える。
二人の関係は、犯罪の被害者が加害者と長く時を過ごす事で、加害者に親しみを感じるストックホルム症候群とも少し違う。
レイプ事件の被害者故に、世間の偏見と不寛容に晒されたかなこは、自ら命を絶とうとするまでに追い詰められ、一方の俊介も、ごく普通の幸せを目前にしながら、過去の罪の意識から逃れられないでいる。
かなこは自分の肉体も心も人生もメチャメチャにした俊介を恨み、彼は自らの犯した罪の重みに苦しみ、贖罪の機会を欲している。
再び二人が出会った時、女は荒涼とした風景の中を、凍えながらいつまでも歩き続け、男は何も言わずに女のあとをずっとついて行く。
この旅のシークエンスはそのまま彼らの心象の世界でもある。
お互いを突き刺す二人の感情はいつしか領域を侵食する蔓植物の様に絡みつき、常識では考えられない心の化学反応を起こし、激しく求め合うのだ。

レイプの様な性犯罪の場合、加害者を第三者が糾弾する事は多いが、被害者の心に寄り添って考える人はあまりいないのではないかと思う。
なぜなら加害者の心理、自分が理性を押し殺し、欲望の箍をはずしたならば、どう行動するかという(if)の想像はそれほど難しくはない。
そしてもしも罪を犯した時、その事実をどう捉え、感じるかもある程度想像できるからこそ、殆どの人はその痛みを耐え難く感じ、日常へと踏み止まるのだろう。
本作の語り部である渡辺が、経歴のかぶる俊介から事件へとアプローチするのも、彼の事を理解しやすいからである。
だが、被害者の気持ちはどうだろう。
せいぜい「かわいそう」「運が悪かったね」と同情する位ではないか。
たとえ性犯罪でなくても、自分が凶悪な犯罪に巻き込まれ、一生消えない心の傷を負った時の事など、正直言って私は全く想像できないし、実際にこういった犯罪の被害者の気持ちがわかるなどとはとても言えない。

おそらくは原作由来だと思うが、本作のかなこに対するスタンスも、一定の距離を保ったままで、彼女の心の内面には決して入り込もうとはしない。
後半のかなこの視点で語られる過去の物語も、あくまでも記者の渡辺が聞き取った内容であって、彼女自身が何を思い、何を考えていたのかが明らかになる訳ではないのである。
かなこが「私たちは、幸せになるために一緒にいるわけじゃない」と思わず吐露した言葉の意味も、いく通りもの解釈が可能だ。
そしてこの映画は、分からないことに無理に結論を出さない。
もしも15年前に戻れるなら、事件を起こしてかなこと再会する未来(つまりは現実)と、事件を起こさないでかなことも関わり合の無い未来のどちらを選ぶか?という渡辺が俊介に投げかける究極の問いも、彼女の本心を知り得ないからこそ成立する。
はたして、人間は深すぎる傷を超えて、憎しみの対象を愛する事が出来るのだろうか。
それとも、つかの間の夫婦生活は、かなこによるある種の復讐だったのだろうか。
俊介のかなこへの気持ちもまた、愛だったのか、それとも贖罪の延長だったのか。
まことに、人間の心とは不可解なものである。

本作は、奥多摩と思しき地を舞台としたビターな人間ドラマ。
ロケ地にもほど近い青梅市の地酒、小澤酒造株式会社の「澤乃井 純米大辛口」をチョイス。
純米酒らしいまろやかなふくらみと華やぐ香り、そしてピリリと引き締まった辛口の味わいが、絶妙な味のバランスを形作る。
渓谷で涼やかな川の流れを見ながら、川魚でも肴にしていただきたいお酒だ。
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「しわ」・・・評価額1600円 「森に生きる少年~カラスの日~」・・・評価額1650円
2013年06月25日 (火) | 編集 |
素晴らしきヨーロピアンアニメーションの世界。

今回はスペインとフランスから届いた、新人監督による非常にクオリティの高い長編手描きアニメーション映画を二本。
スペインのイグナシオ・フェレーラス監督「しわ」は、高齢化社会の悲哀を描いた問題作である。
漫画家のバコ・ロカによる原作「皺」は日本でも出版され、文化庁メディア芸術祭の漫画部門の優秀賞に選ばれている作品だ。
誰にでも訪れる人生の黄昏をどう生きるか?という普遍的なテーマは、公開されると大きな反響を呼び、スペイン映画の最高賞とされる第26回ゴヤ賞では最優秀アニメーション賞と最優秀脚本賞の二冠に輝いた。

主人公のエミリオは、妻に先立たれた男寡。
息子夫婦の世話になっているが、認知症の初期症状が出始めた事から、介護老人ホームに連れて来られる。
そこで彼は、厭世的で金に抜け目のないルームメイトのミゲル、面会に来る孫にプレゼントするために、食事で出されるバターや紅茶などを集めている女性アントニア、認知症が進んだ夫のモデストの世話をする妻のドロレスらに出会う。
彼らはまだ自分の事は自分でこなす事が出来るが、心身の老いが進んで付きっきりの介護が必要になると、要介護者の暮らす“二階”に連れて行かれ、二度と一階に戻る事は無いのである。
二階の住人たちは、もはや現在に生きてはいない。
ある女性は、自分をイスタンブールに向かうオリエント急行の乗客だと思い込んでおり、永遠の旅を繰り返している。
妻のドロレスが介護してくれるので一階に暮らしているモデストも、彼女に愛を告白した十代の頃のまま、止まった時の中に生きているのだ。

しかし思い出のリピートの中に暮らしている二階の住人たちが、一階の老人たちより不幸とは限らない。
少なくとも彼らは、もはや自分の症状が進む事への恐怖を感じる事はないし、そもそもずっと浸っていたい美しい思い出など、全く無かったという人生だってあるのだから。
徐々に現実と幻覚の境界を失ってゆくエミリオに変わって、本作の終盤の視点を担うミゲルもそんな一人だ。
天涯孤独で「人生なんてくだらない」と嘯き、入居者を騙して金を巻き上げては、自分に“その時”が来た時のために自殺用の薬を買いためている男である。
彼にとっては、人生などただ目の前を通り過ぎてゆく時間以上の物ではないのだ。
だが、そんなミゲルも、エミリオと出会った事で少しずつ変わってゆく。
政府や入居者の家族に「ここが三ツ星ホテルだと思わせる為にある」誰も使わないプールに二人で飛び込み、深夜にオープンカーで暴走し、おそらくミゲルにとっては人生最初の気のおけない友達を得たことで、彼は幸せに老いる事の意味を考えはじめ、やがて“金づる”から“友人たち”に変わった入居者たちの助けをする様になるのである。
老いの悩みを誰よりも知るのは、血の繋がった若い家族よりも、同じ境遇にいて同じ問題を抱えている同世代の仲間たちなのかも知れない。

本作がユニークなのは、アニメーションならではのカリカチュアを活かして文化的・社会的な特異性を極力排し、どこの誰にでも起こりうる話となっている事である。
この映画には“スペインだから”、という部分が全くと言って良いほど無いのだ。
人間は誰でも老いるし、人生の最期をどう過すべきかという問題は、生活水準がそれほど変わらない社会ではどの国でも同じ様なものだろう。
キャラクターもシンプルにデザインされているので、人種的な特徴もそれほど目立たない。
日本ではスペイン語のままの公開だが、もしこれを各国の言葉で吹き替えるならば、世界中どこで公開しても、そのまま自分たちの物語として認識されるのではないか。
題材的には実写でも作れそうだが、おそらく人間の俳優で映像化したら、ぐっと生々しく、辛い話になってしまうはずで、これはアニメーションという手法故に、プラスアルファの普遍性を獲得している作品だと思う。
永遠の生は無く、今日の若者は、間違いなく明日の老人。
自分ならどういう選択をするだろうか?という以前に、どういう選択があるのだろうか?という所から、ずっしりと重い問いを投げかけられる89分である。

もう一本は、フランスのジャン=クリストフ・デッサン監督による、これまた素晴しいデビュー作「森に生きる少年~カラスの日~」である。
フランスはヨーロッパのアニメ大国であり、制作本数でもアメリカ、日本に続き世界三位。
過去にもポール・グリモーやルネ・ラルー、ジャン=フランソワ・ラギオニら数多くの巨匠・名匠を輩出し、日本の漫画・アニメにも大きな影響を与えているだけでなく、逆に日本の漫画・アニメのヨーロッパ最大のマーケットでもある。
本作の原作となったジャン=フランソワ・ボーシュマンの小説は大人向けらしいが、大幅に脚色されたそうで、こちらは親子で観るのにピッタリのファミリー・ムービーとなっている。

主人公のやせっぽちの名無しの少年は、筋骨隆々とした野獣の様な父親と、二人だけで森に暮らしていている。
彼は森の外は恐ろしい世界で、一歩でも森から出ると、人間は消えてしまうと教えられているのだが、この設定はレイ・ブラッドベリの名作短編「びっくり箱」やグリム童話の「髪長姫」に見られるものと共通の話型だ。
父親は嘗て許されない恋におち、事件を起こしてしまった事で妻と共に村を追われ、それ以来人間不信に陥って森に暮らしている。
そして、最愛の妻を出産によって失った事から、彼女の命と引き換えに生まれた息子に対しても複雑な葛藤を抱き、彼を無条件に愛す事が出来ないでいるのだ。
だが、不慮の事故によって、父親が大怪我を負った事から、少年は助けを呼ぶために生まれて始めて森を出て、他の人間の存在を知る事になる。
同世代の少女マノンとの交流を通して、今まで知らなかった人間の多くの感情を理解した少年は、父親は“愛”を森のどこかに隠していて、それを見つけ出して心に戻してやれば、自分や他の人間を再び愛する事が出来る様になると考えるのだ。
こうして再び森に戻った少年の愛を探す物語は、やがて悲しくも感動的なクライマックスを経て、少年の自立と新たな世界への旅立ちを迎えるのである。

本作のもう一つの主役というべきは、舞台となる森そのものだ。
神秘的な森は、死者の霊が宿る現世と常世の境目の世界として描写される。
少年は、母親を含めた死者の姿を見ることが出来るが、彼らがみな動物の姿をしているのが面白い。
これは少年が物心ついてから自分と父親以外の人間を知らず、命あるものの形は動物として捉えている、という解釈によるものだそうである。
母親の墓所に群れ、魂の変遷を象徴する美しい蝶たち、本来死を象徴する存在ながら、少年と友達となり危機を救う事になるカラスなど、自然の描写はスピリチュアルな意匠に満ちている。
同じラテンヨーロッパでも、イベリア半島やイタリアなどと比べると、フランスの文化はどちらかというと人間中心主義に誓い印象が強かったので、本作のアニミズム的世界観は新鮮だった。
もっとも、思い出してみるとジュリー・ベルトゥチェリ監督の「パパの木」なども結構アニミズムっぽかったから、単に私の思い込みかも知れないけど。

背景美術は印象派絵画、特にモネからインスパイアされており、独特の色彩と光の表現はとても美しい。
ちょうど先日公開された新海誠監督の「言の葉の庭」も、本作と同じ様にモネの影響を強く受けている。
そのために両作の色彩設計には似た要素があるのだが、観比べるとむしろ日本とフランスの自然の色の違いがはっきりと見えるのが面白い。
森の色は植生や太陽の光によって、同じ緑でも国や地域によってけっこう違う。
新海誠もジャン=クリストフ・デッサンも、その差異を見抜き、再現する事の出来る繊細な観察眼を持っているという事である。
フランスでも巨額の予算のかかる長編アニメーションの企画は、名のある作家でもなかなか簡単には進まないと聞くが、彼の次回作にも大いに期待したい。
因みに、本作はフランス映画際で本邦初公開となったが、まだ正式な配給は決まっていないそうだ。
子供はもちろん、大人が観ても十分に感動的な作品なので、是非一般の劇場公開を願いたいものである。

題材は正反対だが、共に手描きアニメーションという手法で、素晴しい人間ドラマとなったこの二作品にはフランス、スペイン両国で親しまれている林檎を発酵させて作る酒、シードル(西語ではシードラ)を更に蒸留して生まれる、カルヴァドスの「ブラーX.O.」をチョイス。
林檎の蒸留酒は多いが、カルヴァドスを名乗れるのはフランスのノルマンディー地方で作られる物だけである。
カクテルベースとしても良いが、ここはあえてストレートでチビチビ。
けっこう強い酒なのだけど、消化促進効果があり、産地では食後酒として飲まれる事が多いという。
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華麗なるギャツビー・・・・・評価額1600円
2013年06月20日 (木) | 編集 |
若きアメリカの青春と、その死。

F・スコット・フィッツジェラルドによる、アメリカ近代文学の不朽の名作「華麗なるギャツビー(グレート・ギャツビー)」の四度目の映画化である。
狂騒の20年代、ニューヨーク郊外の“城”で夜な夜な盛大なパーティを主催し、政官財芸能界のセレブたちを集める謎の男、ギャツビーとは何者なのか。
アメリカの世紀の幕開けを象徴するタイトルロールを、レオナルド・ディカプリオが演じ、語り部のキャラウェイにトビー・マグワイア、運命の女デイジーにキャリー・マリガンと、旬な俳優たちが顔を揃え、パワフルにドラマを盛り上げる。
「ロミオ+ジュリエット」以来17年ぶりにディカプリオとタッグを組む、オーストラリアの鬼才バズ・ラーマンは、自身初となる3D映像を駆使して絢爛豪華なパーティームービーを作り上げた。

1920年代のニューヨーク。
大学を卒業し、証券会社に就職したキャラウェイ(トビー・マグワイア)は、隣家の豪邸で毎週末に繰り広げられるパーティに招かれる。
ホストの名は、ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)という若き大富豪。
パーティーを訪れたキャラウェイに、ギャツビーは唐突に身の上話を始める。
名家の御曹司として生まれ、ヨーロッパで超一流の教育を受け、第一次世界大戦で戦争の英雄となり、アメリカに帰還。
その出来過ぎなほどドラマチックな人生に、キャラウェイはどこか違和感を覚えるのだが、次第にエネルギッシュなギャツビーに惹かれてゆく。
そんなある日、キャラウェイは従姉妹で人妻のデイジー(キャリー・マリガン)と引き合わせて欲しいとギャツビーに頼まれる。
どうやらギャツビーとデイジーは過去に因縁がある様なのだが・・・


フィッツジェラルドの代表作である「グレート・ギャツビー」はアメリカを語る上で欠かす事の出来ない、所謂セレブリティカルチャーのパイオニアの一つと言えるだろう。
元々ミネソタ州の地方都市に生まれたフィッツジェラルドは、23歳の時に「楽園のこちら側」の大ヒットで作家として身を立てると、大都会ニューヨークに出てパーティーとゴシップ三昧の日々を送る事になる。
ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」で描かれた様に、妻のゼルダと共にしばしばヨーロッパを訪れる様になるのもこの頃からだ。
「グレート・ギャツビー」の物語は、空前の好景気を謳歌するニューヨークの、虚飾にまみれたバブルな日々から生み出されたのである。

謎の大富豪、ギャツビーの正体は名家の出身でも、オックスフォード卒の秀才でもなく、アメリカの田舎の極貧の家庭で育ったどこにでもいる平凡な男。
彼は5年前に出会い、一時は愛し合ったデイジーの事が忘れられず、今はもう人妻となった彼女を取り戻すためにニューヨークへとやってきたのだ。
偽の名士“ギャツビー”をでっち上げ、裏社会の広告塔となる事で巨額の資金を得て、毎週末のクレイジーなパーティーを主催するのも、いつかデイジーが噂を聞いてやって来る事を期待して。
ぶっちゃけ、ギャツビーのやっている事は、よくよく考えればストーカーと変わらないのだが、ただ一途な愛の為にここまでデカイ事をやってしまうと、もはやグレートとしか言いようが無い。
おそらくはフィッツジェラルド自身の、セレブ生活の虚しさの中で生まれた「グレート・ギャツビー」は、人間の果てしない欲望の核心に、究極の愛を求めるのである。
太く短く、刹那的に生きて死ぬギャツビー同様に、フィッツジェラルドも大恐慌時代の作家としての低迷、愛妻ゼルダの精神病での入院という悲劇を経て、44歳の若さでこの世を去るのだから、ある意味でギャツビーは作者自身をカリカチュアした様なキャラクターなのかも知れない。

同時にギャツビーが体現するのは、ヨーロッパの衰退によって、世界一の超大国へと浮上する、若きアメリカの夢そのものでもある。
第一次、第二次世界大戦間のつかの間の平和な時代は、アメリカの世紀の幕開けでもあった。
過去数世紀に渡るヨーロッパの軛に挑むアメリカの姿は、ニューヨークの社交界へ颯爽と現れたギャツビーの姿に被る。
あり余るエネルギーで瞬く間に世界の中心に立ったものの、新参者の成金故に伝統的なる社会にコンプレックスを抱えているのも同じ。
ギャツビーがオックスフォードでの学歴やヨーロッパ戦線での戦歴を詐称するのも、金以外の拠り所を持たないからであり、今もアメリカ人の意識に潜む、ヨーロッパ文化や貴族社会の持つ悠久の歴史に対する強い憧れの源泉がここに見える。

もっとも、古き階級社会の頭目たちも、ギャツビーが象徴する新興勢力も、その力の源が金であることは変わらない。
異なるのは、その目的である。
ギャツビーは金によって支配されず、彼が湯水の様に金を使って求めたのは、たった一つの愛だけ。
しかし、自らが作りあげた虚像の崩壊によって、それすらも幻の様に消えてしまうのだ。
究極の純情が滅びる時、アメリカの青春の夢もまた潰え、残るのは心の無い資本主義の原理原則によってのみ、支配される人間たちである。
本作の原作が出版されたのは1925年の事で、その4年後の1929年には大恐慌が起こるのだから、やはり時代に呼ばれた作品であったのだろう。
本作の語り部が、証券会社に務めるキャラウェイというのも暗示的だ。
彼は誰よりも資本主義の本質に近いところにいるからこそ、物質主義の象徴たる金を利用して、愛という精神を求めたギャツビーに惹かれてゆき、そして彼の死に絶望するのである。

本作は本質的に心の距離を描いた作品だが、バズ・ラーマン監督は、ギャツビーとデイジーの間に横たわる5年という歳月のギャップを、両者を隔てる空間の距離に置き換えて、3Dの奥行きを持って表現するというユニークなチャレンジをしている。
ギャツビー邸の対岸のデイジーの屋敷の桟橋に光る緑のライトは、手が届きそうで届かないデイジーの愛のメタファーだ。
夜の闇の中で光に手を伸ばす彼の後ろ姿は、そのまま過去の愛という幻想を、今現実に取り戻そうとする心情を雄弁に物語る。
まあ、彼らの間の距離は、決して埋める事の出来ない男と女の見ている世界の違いでもあるのだが、元来ロマンチストでナルシストなラーマンは、その辺りは比較的優しくに描いている様に思う。

本作を観ていて、私はロバート・レッドフォードがギャツビーを演じた1974年版に比べると、ずいぶんとマイルドな印象を持ったのだが、何よりも大きく異なるのはデイジーの描き方だ。
ミア・ファローが演じた74年版のデイジーは、映画史上最悪のヒロインと評する人がいるくらいにヒドイ女で、観ているうちにどんどんとレッドフォードが可哀想になって来るほど。
対してキャリー・マリガンが可憐に演じる本作のデイジー像は、そこまで男性目線ではなく、優柔不断ではあるものの、彼女の迷いもまた理解できる様に描かれている。
ギャツビーの考える愛と、デイジーが考える愛は、おそらく別のものなのだ。
最も純粋な男が心に秘めていた感情は、アメリカの青春を象徴する「グレート・ギャツビー」と共に永遠に死んだのである。

今回は劇中のパーティーでも供されている「ハイボール」をチョイス。
これはアメリカ開拓時代にルーツを持つ歴史あるカクテルで、蒸気機関車のボール信号が名前の由来であるという説が有力だ。
日本ではウィスキーや焼酎のソーダ割が一般的だが、本場のハイボールはバーボンが原則。
氷を入れたグラスにバーボン1に対してソーダを3〜4の比率で注ぎ、マドラーでサッと混ぜる。
乾燥した西部の開拓地では、酔っ払えてソーダの清涼感もあるハイボールはさぞ美味かった事だろう。
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オブリビオン・・・・・評価額1650円
2013年06月14日 (金) | 編集 |
忘却の、未来戦士。

トム・クルーズが、「トロン:レガシー」のジョセフ・コシンスキー監督とタッグを組んだSF大作。
スカヴと呼ばれるエイリアンに侵略され、人類は勝利したものの、荒廃した地球からの移住を余儀無くされる。
最後まで地球に残り、スカヴの残党の監視任務に就いているジャック・ハーパーは、ある日墜落した宇宙船から乗員の女性、ジュリアを救出した事から、自らと地球の運命に関わる重大な秘密を知ってしまう。
コシンスキー監督自身が手がけたコミックを原作とする物語は、過去のSF作品へのオマージュに溢れ、白を基調としたどこか70年代テイストのビジュアルデザインも美しい。
アイデンティティを巡る戦いも先を読ませずドラマチックに展開し、これは万人にオススメ出来る、なかなかにウェルメイドな一本である。
※完全ネタバレです。観る前に読まない事をオススメします。

地球が未知のエイリアン、スカヴの侵略を受けてから60年後。
人類は辛くも勝利したものの、核兵器の使用で地球の大半は汚染され、スカヴによって月が破壊されたために起こった天変地異によって、地上の文明は滅亡した。
残された人々は木星の衛星タイタンへの移住を決意、軌道上のステーション“テット”で暮らしながら、地球の海水から長旅の準備のために核融合燃料を製造中だ。
ジャック・ハーパー(トム・クルーズ)とヴィクトリア(アンドレア・ライズボロー)は、核融合プラントをスカヴの残党から守る監視任務のため、二人だけで最後まで地上にとどまっている。
ところがある日、墜落した旧式の宇宙船から、乗員のジュリア(オルガ・キュリレンコ)という女性を救出したジャックは驚く。
彼女こそ、ジャックの夢に繰り返し登場し、ミステリアスな微笑みを投げかける女性だったのだ。
一体彼女は何者で、どこからやって来たのか。
そして、誰もいないはずの地上で、ジャックを捕らえた謎の男ビーチ(モーガン・フリーマン)によって、遂に真実が明かされる・・・


ジョルジュ・メリエスが1902年に発表した、シーン構造を持つ最初の劇映画「月世界旅行」は、同時に史上初のSF映画でもあった。
ジョセフ・コシンスキー監督は、メリエス以来一世紀以上に渡って、映画史を彩ってきた古今東西のSF映画のモチーフを、解体した上でセンス良く組み合わせ、レトロモダンテイストのSF映画の快作を作り上げた。
こう言うと、「なんだパクリか」と思う人もいるだろうが、そもそも凡ゆる創作は先人の影響を何らかの形で受けている物であって、完全なスタンドアローンはあり得ない。
もちろん、出来上がった作品がパクリを超えて愛情あるオマージュに昇華されるには、センス・オブ・ワンダー溢れる創造性が不可欠で、これを欠いた作品は無残だ。
引き合いに出して申し訳ないが、例えば我が日本の「少林少女」は、数々の歴史的功夫映画の記憶を取り込みながらも、怒りを覚える程に劣化したコピー商品に堕落していた。

その点、コシンスキー自身が原作コミックから手がけた本作は、作り手の漲るSF愛がスクリーンに結実し、見事に成功した一本と言えるだろう。
トム・クルーズとアンドレア・ライズボロー演じるジャックとヴィクトリアのペアは、エイリアンの残党監視のために最後に地上に残された人類という事になっているが、彼らは機密保持のために、任務についた5年前から以前の記憶を消去されている。
ところが、ジャックの夢にはなぜか60年も前に消滅したニューヨークの風景、そして自分に向かって微笑む見知らぬ女性が繰り返し現れるのだ。
この辺りの情景は、地球に一人ぼっちで残されたロボットを描く「WALL・Eウォーリー」的でもあり、主人公の設定は「月に囚われた男」の様な、管理社会からの脱出を描いたディストピアSFを想起させる。
だが、このパーソナルな視点から、物語は謎が謎を呼ぶ形で展開し、宇宙船“オデッセイ号”の墜落事件、謎の美女ジュリアの登場、遂にはビーチ率いる人類のレジスタンス部隊との接触によって、世界観は急速に拡大するのである。

本作の大きなバックボーンになっているのは、SF映画史上の金字塔「2001年宇宙の旅」の反転ともいえる構造だ。
あの映画では、調査のために木星へ向かっていた宇宙船ディスカバリー号で、コンピュータのHALが反乱を起こし、コールドスリープ中の乗組員を殺害、難を逃れたボウマン船長がHALとの“星を継ぐもの”を選ぶ戦いに挑む。
最後に生き残った船長が、木星軌道上で巨大な謎の石板“モノリス”と出会って、人類を超越した“スターチャイルド”へと進化すまでを描く、壮大な宇宙の叙事詩である。

一方、本作が描くのは、もしもモノリス自体がHALと一体化し、人類を滅ぼすための存在となったとしたら、その後に何が起こるのか?という話だ。
木星に向かっていた宇宙船“オデッセイ号”はもちろん「2001年宇宙の旅」の原題「2001: A Space Odyssey」のもじり。
コールドスリープしていなかった二人、すなわちジャックとビクトリアは、モノリス=テットによって記憶を消去されたクローン人間として量産され、テットの攻撃から逃れて地上でレジスタンスする僅かに生き残った人類を、実際には存在しないエイリアン“スカヴ”として抹殺する任務を遂行させられているのである。
ジャックが自らの正体を知った時、彼はアイデンティティを賭けた戦いに身を投じる決意を固め、ここから映画は比較的コンパクトなシチュエーション物から、人類の存亡を巡るいかにもハリウッド的なSF冒険活劇へと大きく変貌するのだ。

それにしても、本作におけるコシンスキーの仕事は、ややぎこちなかった「トロン:レガシー」より遥かに良い。
前記した「2001年宇宙の旅」や「月に囚われた男」以外にも、人類のレジスタンス部隊のルックスや基地の描写、まん丸の戦闘ドローンとの峡谷での空中戦はもちろん「スターウォーズ:エピソードⅣ」だし、高所恐怖症なら悪夢に震えそうな、雲の上に突き出たジャックの家は「エピソードⅤ」のクラウドシティのミニチュア版だ。
ジャックが封印された過去に目覚めるのは「トータル・リコール」だし、テットを破壊するために敵陣深くに入り込むのは「インディペンデンス・デイ」を思い起こさせる。
126分間に散りばめられた豊富な映画的記憶は言わばSF全部入り、SF幕の内弁当だ。
しかしこれほど多くの要素をミックスしているにも関わらず、例えばタランティーノ映画の様にオマージュが突出する事なく、上手く統一された世界観に埋め込まれている。

また、過去の作品を新しい装いにまとめ上げるだけでなく、観客が世界に入りやすくするための細かな工夫を凝らしているのだ。
荒唐無稽に陥りがちなSF活劇を、劇中で印象的に使われるワイエスの絵画「クリスティーナの世界」や、レコードから流れるレッド・ツェッペリンの「ランブル・オン」、プロコル・ハルムの「青い影」と言った楽曲が、ぐっと現代の我々に近づける。
大草原を這って家を目指す女性を描いた「クリスティーナの世界」は、実在の女性をモデルした作品で、ポリオで歩行障害を持ちながらも、何にでも挑戦し自分でこなす彼女の逞しい生き様に感動したワイエスが描いた。
また「ランブル・オン」は、小説の「指輪物語」にインスパイアされた当てのない旅に出る男の歌で、どちらも本作のテーマを端的に示唆している。

「オブリビオン」は、非常に良くできた娯楽SFの秀作であるが、ではこれが本作がオマージュを捧げた「2001年宇宙の旅」や「スターウォーズ」に匹敵する映画史のエポックたり得たかというと、正直なところそこまでの高みには到達していなと思う。
既存の食材と調理法を駆使して、素晴らしい料理に仕上がっているが、全く新しい味わい=映画体験までにはなっていないのである。
とは言え、十分に楽しめる事は間違いなく、ジョセフ・コシンスキー監督の次回作も楽しみになった。
噂ではあのディズニーの「 ブラック・ホール」や「2300年未来への旅」のリメイク企画にも名前が上がっているらしいが、この路線ならピッタリかも。

今回は、廃墟のニューヨークが重要な舞台となっており、ヒロインはウクライナ出身のオルガ・キュリレンコ。
という訳でこの街の名を持つ、ウォッカベースのカクテル「ビッグ・アップル」を。
多目の氷を入れたタンブラーにウォッカを注ぎ、アップルジュースを適量加えて軽くステアし、最後にカットしたリンゴを飾って完成。
エンパイア・ステートビルの夜景でも眺めながら、ゆっくりと味わいたいロマンチックな一杯だ。

ところで、あのオチだとジュリアが暮らすジャックの理想郷には、そのうち記憶に目覚めたジャックのクローンがワラワラと押し寄せる事になるんではないか。
ちょっと今後の成り行きを心配してしまったが、一番可哀想なのは薄幸のヴィクトリアよ。

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ショートレビュー「インポッシブル・・・・・評価額1550円」
2013年06月11日 (火) | 編集 |
生きることを、諦めない。

実に23万人もの犠牲者を出した、2004年のスマトラ島沖地震による大津波。
本作は旅先のタイでこの津波に遭遇し、一家離散しながらも壮絶なサバイバルを生き延びて再会を果たした、あるスペイン人家族の体験を映画化した物語だ。
人によっては、この映画を日本で公開するのは、まだ早いと感じるかもしれない。
なにしろ前半1/3を占める津波とその破壊の描写は凄まじい。
このシークエンスだけで準備期間を含めて1年が費やされたそうだが、例えばイーストウッドの「ヒア アフター」など過去の作品の津波描写と比べてもそのボリュームとリアリティの差は歴然だ。
終始キャラクター目線に寄り添うカメラは、圧倒的な自然の破壊力の前に、何もできずに翻弄される恐怖を掻き立てる。
配給会社でも相当な葛藤があったと聞くが、少なくとも今の日本で万人にお勧めできる作品でない事は確かだろう。観ない、という選択は当然ありだ。

しかし、個人的にはなかなか感銘を受けたし、死者に対する真摯な姿勢で作られている作品だと思う。
最初の津波を生き延びた母親と長男は、瓦礫の中を安全な場所を求めてさまよい歩く。
東日本大震災でも、津波が複数回押し寄せた事を知っているから、このあたりはまったく安心できない。
たとえ津波の届かない高所にたどり着いても、今度は身体に負った傷が少しずつ、生きるエネルギーを奪ってゆくのである。
一方の父親と次男、三男は濁流に消えた妻と長男を探し続ける。
だが、時間の経過と共に生存者は減り、遺体の発見が増え続け、希望はやがて絶望へと変わってゆく。
全編傷だらけ、感染症で浮腫んだ顔で、瀕死の妻を演じるナオミ・ワッツが本作の白眉。
オスカーノミネートも納得の名演だ。

タイトルの「インポッシブル(THE IMPOSSIBLE)」は、山へと避難した次男が、このシーンだけゲスト的に顔を見せるジェラルディン・チャップリンと交わす会話の中に出てくる。
満天の星の光は、何千年、何万年もかけて地球へと届くから、今見えている星の中には既に死んでしまっている物もあるかもしれない。
「生きている星と、死んでいる星を見分けることはできるの?」という次男に、チャップリンは「インポッシブル」と答えるのである。
通常「インポッシブル」という単語は「不可能」と訳されるが、同時に「ありえない」「信じられない」という語意も含む。
人間の生きる力は強く、諦めなければ「ありえない」事でも起こるのが人生。
このシーンを見た前後で、タイトルの意味が観客の中でも変わる、見事なターニングポイントであった。
そして、再会を果たした家族の心には、未曾有の惨事の中で知った多くの“名前”が刻み込まれる。
なぜ彼らは助かり、他の人々は亡くなったのか、その答えは毎日を懸命に生きて、一生をかけて問い続けるしかないのだろう。
彼らが一日でも長く生きて、記憶する事自体が、救われなかった多くの命の追悼に他ならないのだ。

本作は、良い映画だと思うが、家族が再会するシークエンスは少し疑問がある。
まるでピタゴラスイッチみたいに、一つの展開からトントン拍子にいってしまうのは、そこまでの展開にリアリティを感じるゆえに、逆に少々出来過ぎに感じた。
映画のモデルとなったマリア・ベロンさんによれば、基本的に映画に描かれていることは事実だそうだが、このあたりも映画通りだとすると、本当に神の見えざる手を感じざるを得ないのだけど。

今回は英語劇ではあるが、スペイン人をモデルにしたスペインの映画という事で、リベラ・デル・ドゥエロのワイナリー、ドミニオ・ロマーノから「カミーノ・ロマーノ」の2008をチョイス。
パワフルなフルボディでフルーティな甘みと適度な酸味がエレガントにバランスしている。
赤ワインはキリスト教では血に例えられるが、やはり明日を生きるパワーをもらえるのである。
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ショートレビュー「殺人の告白・・・・・評価額1600円」
2013年06月11日 (火) | 編集 |
「殺人の追憶」への追憶。

邦題が思いっきり示唆するように、本作のモチーフになっているのはポン・ジュノ監督の傑作「殺人の追憶」と同じ、華城連続殺人事件である。
1986年から1991年にかけて、京畿道華城郡で10人の女性が殺害された事件は、最後の犠牲者が出て20年以上が経過した現在でも未解決のままだ。
もしもこの事件の犯人が、時効成立後に名乗り出ていたら?というところから発想された本作は、ポン・ジュノ作品にオマージュを捧げながらも、まったく別の面白さを持つ快作となった。

映画では事件の名称や細部は変えてあるが、時効の成立から2年後の2007年、パク・シフ演じるイ・ドゥソクという男が、自分が17年前の事件の犯人だと名乗り出るところから物語が動き出す。
マスコミが大騒ぎする中、彼は事件の詳細を書いた本を上梓し、その甘いマスクも相まって一躍ベストセラー作家として脚光を浴びるのだ。
しかし、事件の担当刑事だったチェ班長は彼の告白を信じない。
なぜなら、彼は17年前に一度犯人を取り逃がしており、その時に二人だけしか知らない会話を交わしていたからだ。
そして、イ・ドゥソクとチェ班長がテレビの討論番組で対決した時、真犯人だと名乗る“J”という謎の男から電話がかかってくる。
ここから、物語はイ・ドゥソクvsチェ班長vs“J”の三人に、真犯人に復讐を誓う事件の被害者遺族のグループまで加わった四つ巴の騙し合いに突入する。
イ・ドゥソクを誘拐する遺族グループに、奪還しようとする警察の大バトル、“J”が送りつけてくる新たな“証拠”に隠された秘密。
物語は二転三転し、まったく先を読ませないままに119分間を突っ走る。

これが長編劇映画デビュー作となるチョン・ビョンギル監督は、アクション畑の出身。
だからだろうか、本来物語の面白さで見せる話なのに、イ・ドゥソク誘拐のシークエンスやクライマックスの怒涛のカーチェイスなど、ジャッキー・チェン顔負けのアクションもてんこ盛り。
キャラクターもシリアスな人物もいれば、まるで別の映画から飛び込んで来た様な漫画チックなキャラクターまでごちゃ混ぜだ。
ポン・ジュノからスピルバーグまで、過去の映画的記憶を総動員したコテコテのテイストはお世辞にも洗練されているとは言いがたいが、バランス云々はともかく、やりたい事を全部詰め込んで、徹底的に面白いモノを見せてやる!というスクリーンから迸るようなパワーには圧倒されるしかない。
イ・ドゥソクがどう考えても若すぎるとか、彼をホテルのプールから誘拐するのにマムシを使うとか、凄いのか間抜けなのか良く分からない部分も、なんだか勢いで気にならなくなってしまうのだ。
これは言わば、「殺人の追憶」の続編的なアイディアから出発し、「悪魔を見た」などの猟奇殺人物や、さらに「グエムル~漢江の怪物~」のコメディテイストまで取り込んだ、ロマンス以外の韓流フルコース
少々濃すぎて胃もたれする部分もあるが、お腹いっぱいに堪能できる。

今回は、こってり系なのでスッキリ、サッパリの「ハイト プレミアム ドラフト」をチョイス。
発泡酒にスピリットを添加した日本で言うところの新ジャンルの一本。
ビールの様なコクや深みにが欠けるが、蒸し暑い梅雨の夜にはこの軽さがむしろ良い。
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ショートレビュー「グランド・マスター・・・・・評価額1650円」
2013年06月11日 (火) | 編集 |
最後まで立っていたのは誰か。

拳法の流派が北と南に分かれて争い、その統一を託すための「グランド・マスター」を決める戦いが始まる・・・予告編からは、そんな天下一武道会、あるいは「北斗の拳」的世界観をおもいっきり夢想していたのだけど、全くそういう映画ではなかった。
まあ、王家衛(ウォン・カーウァイ)がそんな香ばしい映画を撮る訳も無いんだけど。
実際の作品は、原題の「一代宗師」が物語る様に、武道家として激動の時代を生きた実在の人物、葉問(イップ・マン)を語り部にした、20世紀前半の中国武道クロニクル
むろん冒頭の雨の中の大乱戦から、幾つもあるアクションの見せ場は結構ボリュームも見応えもあるが、決してそれメインではないので、所謂功夫映画を期待して行くと肩透かしを喰らうだろう。
それぞれの道を究めながらも、戦争という時代の波に流され、懸命に抗う一代宗師たちの 儚くも美しい生き様を描いた叙情的な人間ドラマである。

中心となる人物は四人。
詠春拳の使い手・イップ・マン、東北の拳法界を支配する宮家の一人娘で八卦掌の継承者・宮若梅(ゴン・ルオメイ)、宮家の門弟でありながら、やがて仇敵となる形意拳の達人・馬三(マーサン)、そして一匹狼の八極拳の使い手・一線天(カミソリ)である。
当初、英語タイトルは「The Grandmasters」と複数形で発表されていたが、最終的には“s”が取れて単数となった。
一代宗師たちが倒れてゆく中で、最後にはイップ・マンだけが残ったという意味だそうな。
あれ?確かにルオメイとマーサンは途中で倒れるが、カミソリは最後まで残ったはずでは?と思ったら、本作に登場するイップ・マン以外の一代宗師たちは、それぞれにモデルはいるものの、大幅に脚色されて創り出されたオリジナルの人物らしい。
元国民党の地下活動家という設定のカミソリにもモデルの人物はいる様だが、彼の経歴はやはり国共内戦で国民党のために働き、戦後香港への亡命を余儀無くされたイップ・マン自身にも被る。
もしもイップ・マンとカミソリが本来同一人物のイメージなら、英語タイトルが単数で、二人の直接対決が描かれないのも納得・・・なのだが、実際には葉問vsカミソリのバトルは撮影されいたというから不可解。
思うにウォン・カーウァイも、はじめからこの映画に対する明快なビジョンを持っていた訳ではなく、制作しながらもどんどんと変化していって、結果的に完成したのが今の形という事なのだろう。

劇中曲の使い方も面白い。
予告でも「それから」のテーマ曲が印象的だったが、本編では他にも「ワンスアポン・ア・タイム・イン・アメリカ」や李香蘭の「何日君再來」など数々の曲が印象的に引用されており、これらの使い所を見ると本作の狙いがよくわかるのだ。
どんな道でも極めれば極める程に孤独になり、寄り添う者はいなくなる。
時系列が行き来するので年代がわかりにくいが、香港時代のイップ・マンが開いた道場に、一人だけ年若い少年がいて、イップ・マンが彼の姿に嘗ての自分を思い出して見守っている描写がある。
たぶんこの少年こそが、のちに太平洋を渡り、ブルース・リーとなる人物なのだろうが、彼の名すら既に歴史。
これは必滅の宿命を背負わされた、一代宗師たちの夢の墓の様な作品だ。
彼らの哀しきクロニクルは、今も続いているのである。

今回は、雪原の雪の様に美しく儚い、チャン・ツィイーのイメージで「ホワイト・ローズ」をチョイス。
ドライ・ジン40ml、マラスキーノ15ml、オレンジジュースとレモンジュースをそれぞれ1tsp、そして1/2個分の卵白を、シェイクしてグラスに注ぐ。
卵白が全体を柔らかくまとめ上げ、優しい味わいを持つ一杯である。
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ショートレビュー「言の葉の庭・・・・・評価額1600円」
2013年06月09日 (日) | 編集 |
梅雨空の、プラトニック・ラブ。

新海誠監督の最新作は、新宿御苑(と思しき公園)を舞台に、雨の午前中に出会った一人の高校生と、歳上の女性との淡い恋を描くリリカルな佳作。
46分という上映時間が心地よい。
長過ぎず短過ぎず、ちゃんと「映画を観た」という満足を与えてくれる。
近年は長編も撮ったりしているが、本作を観るとやはり新海誠は中短編作家なんだと思う。
彼の名前が一気に知られる切っ掛けとなった「彼女と彼女の猫」も、短編ながら何気にフルバージョンよりも刈り込まれたショートバージョンの方が良かった。
本作では万葉集の短歌が象徴的に使われているが、これは言わば映像短歌とでも形容すべき作品なのかもしれない。
新海作品の特徴とも言える圧倒的に情報量の多い情景描写を、そのまま登場人物の心象とする語り口は、そぎ落とした引き算の映画文法の方がより生きてくるのは間違いなかろう。

高校一年生にして、靴職人を目指している主人公のタカオは、近藤喜文監督の「耳をすませば」の聖司をもうちょいリアルにした感じのキャラクター。
彼が、雨の日の午前中は学校をサボる、という自分で設定した“ルール”に従って、新宿御苑で出会うのが、チョコレートを肴に発泡酒を飲むミステリアスな女性、ユキノさんだ。
短歌に季語は不要なれど、ここでは“梅雨”という季語が非日常空間への導入としてうまく機能している。
過剰な程に細やかな雨のディテール描写は、1943年に発表された政岡憲三監督によるセルアニメーションの傑作、「くもとちゅうりっぷ」を思わせる・・・と言うかそっくりだ。
逆に言えば、70年も前に本作に匹敵する様なリアルな自然描写を作り上げていた日本人は、やはり季節や天気といった自然の変化に敏感で、これはそんな日本の風土と文化が生んだ作品なのかも知れない。

新緑の緑に囲まれた東屋で、めぐりあいを繰り返すうちに、タカオはやがて素性を知らないユキノさんに、憧れ以上の感情を抱く様になる。
本作のキャッチコピーは、「“愛”よりも昔、“孤悲(こい)”のものがたり。 」である。
これは万葉の時代に、「恋」を「孤悲」と書いた事に由来し、孤独に想い悲しむ気持ちなのだそうな。
なるほど、恋は何時の世も始まりは孤独、そして想いが強ければ強いほど悲しみも増える。
ユキノさんが心に抱える、ある大きな秘密を知った時、タカオは自らの無力さと幼さと向き合い、乗り越える勇気を持たなければならなくなる。
そう、いつだって恋と冒険は男の子を大きく成長させるのだ。
そしてユキノさんへの淡い憧れから始まった"孤悲ものがたり”は、ぶっちゃけ少年にとって理想的過ぎる展開を辿るが、これが許せてしまうギリギリの非日常性が新海誠の持ち味だろう。
昔と違って今回は一人で作ってる訳じゃないけど、これは久々の“一人ガイナックス”風味、なかなかの良作であった。

本編前には短編「だれかのまなざし」が同時上映される。
これは本来野村不動産グループによるイベントのために製作されたショートムービーで、僅か7分ほどの小品だが、実に味わい深い秀作なのだ。
一人暮らしをはじめた“あーちゃん”と家族の物語は、語りべである“だれか”によって見守られ、語られるのだが、この“だれか”がわかった時には思わず涙腺決壊。
ジンワリした余韻を保ったまま本編が始まるのも良かった。

今回は劇中でユキノさんが美味そうに飲んでいる「金麦」をチョイス。
タカオは「ビール」と言っていたけど、これは発泡酒だからね。
まあ、高校生から見たら全部ビールだろうから、劇中の台詞としては真に正しいのだけど。
本作を観ると、無性に新宿御苑で飲みたくなるが、映画の最後に驚愕の「お断り」がスクリーンに映し出される。
それによると現実の新宿御苑では飲食禁止らしい。残念!
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ショートレビュー「イノセント・ガーデン・・・・・評価額1600円」
2013年06月09日 (日) | 編集 |
鏖殺の庭へ、ようこそ。

初のハリウッド映画にも、気負いなし。
怒涛のシャレードの嵐は、どこからどう観てもパク・チャヌク印の作家映画である。
西部劇マニアのキム・ジウンが、古き良き大西部にオマージュを捧げた「ラストスタンド」といい、韓国黄金世代は異国へ行っても良い具合に持ち味を発揮してる。
「復讐三部作」をはじめ、一貫して人間の心に潜む暗い情念に纏わる物語を描いてきたパク・チャヌクが、渡米第一作に選んだのは、事故死した父の葬儀の日に、突然現れた謎めいた“叔父さん”と不思議な超感覚を持つ少女を巡る、スタイリッシュなスリラーだ。

パク・チャヌクと言えば才気の塊の様な映像テクニックの人だが、本作でもそれは健在。
車から降り立つ少女が“何か”をしているオープニングから、凝りに凝った画面にグッと引き込まれる。
自由奔放、大気の波にたゆたう様な流麗なカメラは、韓国時代からの相棒チョン・ジョンフンだ。
しかし、しばしばテクニックに溺れて、物語が破綻しがちなのもパク・チャヌク映画の特徴であり、魅惑の映像と相対的に弱い構成力は彼の大きな欠点だった。
本作の場合、ウェントワース・ミラーによるオリジナル脚本である事も幸いしたと思う。
思春期の少女を巡る赤ずきんちゃん話型のバリエーションと言える物語は、クールかつロジカルに構成され、パク・チャヌクが自分で書いた時に陥りがちな、勢いがつきすぎてつんのめる様な破綻が無い。

本作の原題「Stoker」は、主人公一族のファミリーネームであるのと同時に、“火をくべる者”という意味の名詞でもある。
ミア・ワシコウスカ演じる異常に鋭い五感を持つ女子高生のインディアは、心の奥底に暗い炎を隠した赤ずきんちゃんだ。
ただし、この物語における狼=叔父さんは、赤ずきんを食べに来たのではない。
インディアと同じく超感覚を持つ彼は、一族の血に潜む獣性が彼女に受け継がれいる事を確信し、少女を自らのパートナーとして覚醒させるため現れたのだ。
スカートの下に入り込む蜘蛛、明らかに性行為をイメージさせるピアノの二重奏、そして突然の殺人。
温和な仮面の下に、恐るべき嗜虐性を秘めた叔父さんによって、少女は徐々に女に目覚め、同時に自分自身の正体に気づいていて行くのである。

彼女の内面に隠れていた本性を最初から知っていたのは、叔父さんだけではないだろう。
亡き父親は、燻る炎をコントロールさせようとインディアに狩猟を学ばせ、ニコール・キッドマン演じる母親もまた、女としての直感で彼女の中の獣を忌み恐れている。
年齢はだいぶ離れているが、黒髪ロングのミア・ワシコウスカは「親切なクムジャさん」のイ・ヨンエを思わせる。
処女性を感じさせる女の内面に、ダークに渦巻く情念というモチーフは、おそらくパク・チャヌク好みなのだろう。
オープニングとリンクする戦慄のラストカットで見せる、捕食者となったインディアの不気味な笑顔には、思わず背筋がゾクッ。
生まれ育った“無垢なる庭”に無数の墓標を残し、狼は赤ずきんちゃんの皮を被った美しきシリアルキラーとなって、スクリーンの幻影の向こうに去ってゆくのである。

今回はカクテルの「グリーン・スパイダー」をチョイス。
ウォッカ45mlとクレーム・ドミント・グリーン15mlを氷を入れたグラスに注ぎ、ステアする。
爽やかな緑が印象的な、フレッシュで甘口のカクテルだが、本作のインディアの様に見た目とは裏腹に相当に強い。
飲みすぎると、気付いた時には狩られている、多分。
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はじまりのみち・・・・・評価額1750円
2013年06月04日 (火) | 編集 |
本当に大切なものは、立ち止まった時に見える。

現代アニメーションの第一人者、原恵一監督が初の実写映画に挑み、昭和の邦画黄金期を代表する巨匠、木下惠介監督との時空を超えたコラボレーションを試みた意欲作。
第二次世界大戦末期、映画を撮れなくなった木下惠介が、疎開のために病気の母親をリヤカーに乗せて山越えしたという実話を元にした本作は、人間ドラマと木下作品の映像アーカイブが混在する、劇映画としては極めてユニークなスタイルを持つ。
戦争という時代の荒波に抗い、あくまでも信念を貫こうとする息子と、彼を優しくも厳しい眼差しで見守る母親の情愛の物語は、正に木下映画への大いなるトリビュートであり、同時にきな臭さを増す現代日本社会に対する鋭い警鐘ともなっている。
※ラストに触れています。

昭和20年春。
映画監督・木下惠介(加瀬亮)は「陸軍」を完成させるが、そのラストシーンが戦意高揚的ではないと批判され、次回作の企画が中止されてしまう。
好きな物を撮れない時代に絶望した惠介は、松竹に辞表を提出して帰郷するも、浜松の実家も空襲で焼かれてしまう。
本土決戦の噂が広まる中、木下家は山奥の親戚宅に疎開する事を決めるが、問題は脳溢血で倒れ、体の不自由な母たま(田中裕子)をどう運ぶか。
バスで悪路を走る事が体に良くないと考えた惠介は、家族の反対を押し切って、リヤカーで峠を越えようとするのだが・・・・


原恵一監督の作品が、木下惠介と比較される様になったのはいつの頃からだっただろう。
彼の作品に登場するキャラクターたちは、アニメーション的なカリカチュアの中でも生身の俳優以上に人間のリアリティを感じさせ、充実のヒューマンドラマを演じきる。
「クレヨンしんちゃん」から「河童のクゥと夏休み」そして「カラフル」へと、どんどんと写実性を高めてゆくのを観て、「ああ、この人はいずれ実写を撮るだろうな」と思っていたが、それがなんと木下惠介の物語とは、何という巡り合わせだろう!

映画は、浜松の砂浜に置かれたスクリーンに、昭和18年に公開されたデビュー作、「花咲く港」が映し出されるところからはじまる。
同年「姿三四郎」でデビューした黒澤明と共に、将来を嘱望されていた新人監督はしかし、翌年発表した「陸軍」で挫折を味わう。
ラストで出征する息子を見送る母親の描写が女々しく、これでは戦意高揚にならないと軍からマークされ、次回作の企画を握りつぶされてしまうのだ。
芸術が戦争という現実に翻弄され、母親の子に対する当たり前の愛情、いや人間性すら否定される歪な時代である。
木下惠介はこの出来事によって一時映画界を離れ、浜松の実家に戻る事になるのだが、この頃に病床の母親をリヤカーに乗せて、山奥の疎開先まで徒歩とトロッコで運んだという史実に、原恵一は戦後花開くの木下映画の原点を見出した様だ。

物語は、実家から疎開先まで二日間かけて旅をするというシンプルな物だが、その行程には木下作品にインスパイアされ、原恵一によって生み出された幾つものゾクゾクする映画的瞬間が散りばめられている。
母親を息子が山へと運ぶ、というモチーフはもちろん姥捨て伝説を描いた「楢山節考」の反転であり、本作の旅は捨てるのではなく親子の情愛を再確認するためのものだ。
未舗装の山道を、惠介と兄の敏三、荷物を運ぶために雇われた便利屋の三人がリヤカーを引いて一歩一歩登ってゆく。
照りつける太陽はやがて豪雨となるが、荷台に横たわる母親は、ただ無言で耐えるのみ。
ぶっちゃけ、いくら悪路で乗り心地が悪いとはいえ、バスの方がお母さんも楽じゃないの?と思えなくもないが、そのあたりを含めて惠介がぶれない信念の人であり、その人格はこの母親あっての物である事が伝わってくる。
田中裕子の演じる母親像は、明らかに「陸軍」の田中絹代を意識して造形されており、宿屋に到着した惠介が、旅路で汚れた母の顔を拭き、髪に櫛を入れる瞬間は69年の時を経て両者が重なる。
このシーンの崇高さすら感じさせる母の表情は、本編の白眉の一つであり、「天城越え」の雨の中のシーンに匹敵する田中裕子のベストショットだと思う。

そして旅の途中の山中の宿場で、本作の語り部でもある宮崎あおい演じる“先生”との一瞬の邂逅は、「二十四の瞳」の原風景となり、惠介が映画監督だと知らない、カレー好きの便利屋によって語られる「陸軍」への想いは、観客の声として惠介の心を大きく動かす。
ここで原恵一は便利屋の回想という形で、約5分間の「陸軍」のラストシークエンスを丸ごと見せるのである。
勇ましく行進する新兵たちの中に息子を見た母は、二度と帰らないかもしれない彼の姿を追って必死に走る。
その悲壮な表情に戦意高揚の意図がない事は明らかだが、逆に言えばこれほどに我が子を想う母に感情移入しない人もいないだろう。
「自分の息子に、立派に死んでこいなんて言う母親はいない!」という木下に、映画に深く感動したという便利屋は「こんな映画をもっと観たい」と答えるのだ。

本作の上映時間はわずか96分だが、そのうちほぼ20分間を木下作品の引用が占めるという、特異な構造となっている。
冒頭の「花咲く港」のタイトルに、この「陸軍」のラストシークエンス、そして映画の終幕15分間近くに渡って繰り広げられるのは原恵一セレクション、戦後木下映画の圧巻の名場面集だ。
長い旅路の果てに、疎開地へとたどり着いた惠介に、脳卒中で言葉が不自由になった母は思いの丈を綴った手紙を書く。
戦争という抑圧の時代に、表現者としての夢を諦めかけていた惠介は、便利屋の言葉に続いて、母の手紙に力強く背中を押され、本名の木下正吉から映画監督・木下惠介への復帰を決める。
原恵一は、母と歩んだ道を今度は一人で戻ってゆく惠介の背中に、タイトルの「はじまりのみち」の意味を重ね合わせるのである。
母に、いつかこんな映画を作りたいとアイディアを語った「わが恋せし乙女」から、便利屋と主人公の頑固オヤジのキャラクターが被る「破れ太鼓」、日本初の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」、そして「二十四の瞳」から「日本の悲劇」へ。
これら名場面集は、そこまでの物語をしっかりと受けて全体構成の一部となっているので、突然そこにポンとはめ込まれている様な違和感はない。
そして最後を飾る「新・喜びも悲しみも幾歳月」の大原麗子のある台詞は、「陸軍」の田中絹代の対となって本作のテーマを象徴する。

一人の映画作家が過去の作家に対して、これほど真摯に正面から向き合い、作品の中に作品を内包する形で映画を作るのは、おそらく世界的にも過去に例が無いのではないか。
その意味でこれは一本の劇映画であると同時に、原恵一による木下惠介の作家論とも言える。
ただ、原恵一は偉大な先人に対する最大限のリスペクトを捧げつつ、ノスタルジーには決して走らない。
戦争の記憶が風化し、右傾化する日本全体がいつか来た道に向こうとしている現代、一貫してヒューマニズムを原点にして人間を描き続けた木下作品は、今だからこそ強い説得力を持つ。
原恵一は、本作を通じて木下作品の持つ映画力を蘇らせるのと同時に、自らもその精神性を継承する宣言をした様に思えるのである。

本作は冒頭の「花咲く港」と最後の「新・喜びも悲しみも幾歳月」という木下作品の括弧で閉じられているが、本当のラストカットは、息子の引くリヤカーの荷台で、母が見上げている雲の画である。
ここはアニメーション監督・原恵一ファンとしては、嬉しくなる「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」へのセルフオマージュ。
あの映画の冒頭とエンディングでは、お姫様がぽっかり空に浮かんだ雲を眺めて、密かに愛しい人を想っている。
例え離れていても、見ている空は同じ。
母にとっての青空侍は、木下惠介その人だったのだろう。

今回は遠州の地酒、英君酒造株式会社の「緑の英君 純米吟醸」をチョイス。
名前の通り初夏の森を思わせる爽やかな吟醸香、適度な酸味とやや辛口の味わいのバランスも良い。
劇中で便利屋が、まるで落語家の蕎麦の様に美味そうにエア食していた、白魚のかき揚げなんかを肴に飲んだら最高だろう。
※本当は本作の満足度は1800円だが、これはあくまでも木下作品があっての作品。木下惠介監督に敬意を表して1750円にしました。

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