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■TITLE INDEX
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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


昼は孤独な少女ゾエの従順な飼猫、夜はパリを荒らしまわる怪盗ニコのパートナー。
二つの顔を持つ猫のディノが、ひょんな事から卑劣な悪漢の手に落ちたゾエを救うために、ニコと共に大活躍するスタイリッシュなフレンチ・アニメーションだ。
監督・脚本はこれが長編劇場用映画デビュー作となるアラン・ガニョル、共同監督をジャン=ルー・フェリシオリが務める。
先日急逝したベルナデット・ラフォンやドミニク・ブランら実写の名優たちがキャラクターに声を与え、第84回アカデミー賞の長編アニメーション賞へノミネートされた他、各国の映画祭で高い評価を得た軽妙な佳作である。
※ラストに触れてます。
パリ警察の警視ジャンヌ(ドミニク・ブラン)は、娘のゾエ(オリアンヌ・ザニ)と猫のディノと暮らしている。
やはり刑事だった夫がギャングのコスタ(ジャン・ベンギーギ)に殺されて以来、ゾエはショックで言葉を失ったまま。
ジャンヌはもっとも娘と触れ合いたいと思いながらも、頻発する事件に追われて忙しく、乳母のクロディーヌ(ベルナデット・ラフォン)に任せっきりにしてしまっている。
そんなある日、夜な夜などこかへ出かけて行くディノが、ダイヤモンドの埋め込まれた魚の形をしたアクセサリーを持ってくる。
一体、これをどこで手にいれたのか?
ある夜ディノの後をつけてパリの屋根の上に歩み出したゾエは、ディノにもう一人の飼い主がいる事を知ってしまう。
何とディノは神出鬼没の怪盗ニコ(ブルーノ・サロモネ)のパートナーだったのだ・・・
飼い主が見ていない時、猫は何をしているのだろう?
猫飼いなら、誰でも一度は疑問に思った事があるのではないか。
特に出入り自由な家の猫は、半分外猫の様な物だから、自由気ままに歩き回り、他人の家でもご飯をもらっているちゃっかりさんも珍しくない。
表の顔と裏の顔どころか、立ち寄り先の数だけ、名前を三つも四つも持っている猫だっているだろう。
本作のディノもそんな半外猫。
昼間は父を失ったショックで失語症になってしまったゾエを優しく見守るナイトとして暮らし、夜になると怪盗ニコの相棒として泥棒稼業に精をだす。
本作の上映時間は僅かに70分。
話は無駄なくサクサク進むが、構造は結構凝っており、人間関係は入り組んでいる。
物語の中心軸にいるのは、孤独な少女ゾエと愛猫のディノだ。
ゾエの母親はパリ警察の敏腕警視ジャンヌで、二つの事件を追っている。
一つは夫を殺したギャングのボス、コスタが秘宝“ナイロビの巨像”の強奪を狙っている事件で、もう一つはパリ市内のあちこちで発生しているニコによる連続盗難事件だ。
ある夜、ゾエは夜な夜な出かけて行くディノをつけているうちに、偶然にコスタ一味の密談を立ち聞きし、しかも乳母のクロディーヌが彼らの仲間だという事を知ってしまい、一味に追われる事になる。
そんな彼女を助けるのが怪盗ニコとディノという訳だが、コスタvsニコのゾエ争奪戦にジャンヌら警察も割って入る。
ここで、ゾエが声を失っている設定が生きる。
コスタたちの事を伝えられないゾエを、ジャンヌはあろうことかクロディーヌに預けてしまうのである。
ようやく騙された事にジャンヌが気づくと、いよいよニコとディノのコンビに彼女も加わってのゾエ救出作戦が始まるという訳だ。
スパイダーマン並みの身体能力のニコとディノがパリの街を縦横無尽に駆け抜け、決戦の舞台、ノートルダム寺院に至る、疾走感のある追いかけっこは見応え十分。
そして、どう見ても身軽には見えないが、執拗にゾエを追うコスタの偏執狂的なキャラクターは、監督がオマージュを捧げたという「狩人の夜」のロバート・ミッチャムを思わせる所もあるし、手下のおバカ4人組のコードネームを巡るエピソードは、タランティーノの「レザボア・ドッグス」の様だ。
そして、「カリオストロの城」の様なアクションの果てに、コスタの妄想が炸裂し、あるモノがゴジラよろしく登場するクライマックスに至っては、監督が自らの映画愛を投影させ、一番愛おしく描いているのは、この悪漢の様な気さえしてくるのである。
純粋なアニメーション技術という点では、それほど特筆すべき所は無い本作だが、何よりもデザインとして優れている。
パースが歪んでキュビズムの様に摩訶不思議な風景となったパリの街の造形から、シンプルな中に性格を感じさせるキャラクター、そして日本のアニメでは絶対に出てこないであろう独特の色彩感覚。
停電のシーンの闇の中の表現や、香水の香りが夜空に広がるビジュアルのアイディアは、センス・オブ・ワンダーに溢れており、アニメーションである事以前に、一枚一枚の絵としてワクワクする楽しさがあるのだ。
あとはやはり猫のディノの描写が秀逸で、おそらくよほど猫を研究したのだろう、ゾエの腕の中にスルリと潜り込む動きは、全ての猫飼いを納得させる画力であった。
「パリ猫ディノの夜」は、70分というコンパクトな時間の中に、洒落た映像とムードのある音楽、フランスのエスプリを詰め込んだ小さな宝石箱の様な、愛すべき小品だ。
まあ、ラストでしれっとニコがジャンヌと良い感じになってたりするのは「オイオイそいつ泥棒だぞ、逮捕しないの??」と思ってしまったが、そこを突っ込むのは野暮というものなのだろう。
丁寧に描かれた美しい絵本を読んでいる様な、心地よい気分にさせてくれる一本である。
今回は、猫の映画ゆえに「キャッツ・アイ」をチョイス。
ドライジン20ml、コアントロー15ml、ドライベルモット15ml、レモンジュース10ml、キルシュ2dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
レモンの酸味、コアントローの香り、ドライベルモットの風味をジンの清涼感がまとめ上げている。
酔いが進むと、体も猫の様に軽くなる?
蒸し暑い夏の夜に飲みたくなる一杯だ。

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改めて、宮崎駿の凄さを思い知らされた。
零戦の設計者として知られる航空機技師・堀越二郎の半生をベースに、同時代の作家・堀辰雄の代表作で、山口百恵主演の同名映画でも有名な「風立ちぬ」のストーリーをミックス。
空に魅せられた若き二郎が、関東大震災の混乱の中で、少女・菜穂子と運命的に出会い、やがて戦争へと向かう巨大な時代の激流の中で懸命に生き抜こうとする姿を描く。
本作は、飛行機という夢に取り憑かれた一人の男の物語であると同時に、まだ見ぬ美しいモノを作ろうと、覚悟を決めた創造・創作に関わる全ての人々の物語でもある。
ある意味、宮崎駿の自叙伝の様でもあり、一人の日本人として今の時代に言いたい事を全て詰め込んだ巨匠入魂の一本だ。
※ラストに触れています。
1923年。
帝大工学部の学生・堀越二郎(庵野秀明 )は、汽車で東京に向かう途中関東大震災に遭遇し、偶然乗り合わせた里見菜穂子(瀧本美織)を助ける。
やがて三菱に入社して、航空機技師として頭角を現す二郎は、同期の本庄(西島英俊)らとともに技術提携先のドイツに派遣され、その進んだ航空技術に大いに刺激を受けて帰国。
しかし初めて設計主務として挑んだ海軍の七試艦戦は墜落事故を起こし、不採用となってしまう。
失意の二郎は、休暇で訪れた避暑地で成長した菜穂子と再会すると、瞬く間に恋に落ちる。
菜穂子は当時不治の病とされていた結核に冒されていたが、二人は運命に突き動かされる様に結婚。
しかし、戦争の影は次第に二人の間にも忍び寄り、二郎は新たな海軍の試作機、九試単戦の設計を命じられるのだが・・・
3.11の後だっただろうか、宮崎駿が「しばらくはファンタジーは無理でしょう」と言っていたのは印象的だった。
実際、その後に封切られた「コクリコ坂から」は団塊の世代の青春映画だったし、本作は堀越二郎という実在の、それも言わば戦争の象徴とも言うべき零戦の生みの親を描く物語なのだ。
ところが、映画はいきなり自作飛行機で家の屋根から飛び立つという、二郎少年の夢で始まり、ファンタジー色濃厚に展開してゆくのである。
正直「えええ?言ってる事とやってる事が違うんじゃないの?」と戸惑った。
しかし、幻想と現実を軽やかに行き来し夢を追う二郎の青春に、後半になると急速に死の香りが漂い始める。
宮崎駿は、ファンタジーで物語の幕を上げ、戦争が時代を侵食し始めると同時に、自らファンタジーを殺しにかかるのだ。
本作の背景となるのは1910年代から1945年の終戦までだが、その中でも物語のコアとなるのは1923年の関東大震災から、二郎が後の零戦へと繋がる九試単戦を完成させる1935年までの12年間だ。
人工の翼に人生を賭けた二郎が、航空機技師として歩んでゆく物語には、二人の人物が密接に絡みあう。
一人目は、アヴァンギャルドな飛行機の設計で知られるイタリアの先駆者、ジョヴァンニ・バッチスタ・ジャンニ・カプローニ伯爵だ。
美しい飛行機を作るという同じ志を持つ二郎にとって、カプローニは憧れであり、教師であり、同志でもある。
映画の前半で、二郎はしばしば夢の中でカプローニを訪れ、彼と語らい、導かれるようにして夢へと邁進するのだ。
ところが、二郎が航空機技師として独り立ちを迎える物語の中間地点で、カプローニは自らの引退飛行に二郎を招待し、その後はプッツリと画面に登場しなくなる。
カプローニと入れ替わる様に、七試艦戦の失敗で失意のどん底にあった二郎の前に現れるのが、嘗て関東大震災の最中に運命的な出会いをした菜穂子だ。
堀辰雄の「風立ちぬ」のプロットと「菜穂子」のキャラクターに材をとった濃密なロマンスが描かれる後半は、ただ二郎の見果てぬ夢に突き進むだけだった前半とは、明らかにタッチが異なる。
菜穂子は、当時日本人の国民病とも言われ、極めて死亡率の高かった結核に罹患している。
そして二人の恋が燃え上がる時期は、中国大陸で満州事変が勃発し、日本が国際連盟を脱退、その後の泥沼の戦争に突入する時代とシンクロしているのである。
戦争による時代の閉塞と、愛する人の病という厳しい現実の前に、生と死は表裏一体となり、明日はもやは必ずあるとは限らない。
前半色濃かったファンタジー要素は急速に希薄化し、二郎と菜穂子の新婚生活も、まるで死に向かって生き急ぐかの様に悲壮感に満ちているのだ。
しかし、映画は1935年から終戦までの、二郎が航空機技師として最も活躍し、同時に大きな苦悩を味わう時期を描かないのである。
本作のラストで、折り重なる飛行機の残骸の向こうに、二郎は再びカプローニと出会う夢を見る。
そこで二郎の作り上げた零戦は、「紅の豚」でも描写された帰らざる者たちの空の隊列に加わり、消えてゆく。
後半を映画的リアリズムで進めながら、もっともドラマチックな太平洋戦争をスキップし、ラストを呪われたモノ作りの夢で落とした事はおそらく大きな賛否を呼ぶだろうが、私はこの選択を是としたい。
何故なら本作は堀越二郎の実像を描く物語ではなく、むしろ軍需工場経営者の息子として生を受け、飛行機マニアとして育った宮崎駿が、自らを二郎に投影した私小説的な物語だからだ。
本作において、登場人物たちが繰り返し口にするのが「美しい」と「矛盾」という二つの言葉である。
二郎が作りたいのは美しい飛行機だが、それは同時に兵器でもある。
しかし二郎の夢の中でカプローニは言うのだ。
「飛行機は戦争の道具でもないし、商売の手立てでもない。飛行機は美しい夢だ」
兵器であるにも関わらず、戦争の道具ではないという矛盾。
実際劇中の二郎も、朴訥としたキャラクター故でもあるが、自分が作っている飛行機が、戦場で使われる事に対しては大した葛藤を抱えていない様に見える。
見方によっては、これは宮崎駿の逃げであると捉える事も出来るだろうが、私はもう二郎は矛盾を抱え込み、それでも自分の夢を追求する覚悟を決めているのだと思う。
カプローニの言葉の「飛行機」を「映画」あるいは「アニメ」に置き換えてみれば、それはそのまま作者自身の覚悟となる。
アニメは飛行機と違って人を殺さない、と言う人もいるだろうが、アニメや映画は立派な戦争の手段だ。
戦闘機の様に直接命のやり取りをしないだけで、例えば戦意高揚映画は世界中で戦争遂行に重要な役割を果たしてきた。
何しろ日本最初の長編劇場用アニメーションは、太平洋戦争末期に作られた戦意高揚映画「桃太郎 海の神兵」なのである。
戦争に利用されることが分かっていても、黎明期のアニメーターたちは爆弾の降る中で美しいアニメーションを作ることを選んだのだ。
人間は元来矛盾した生き物であって、矛盾に対して葛藤する事こそが創造力の源泉なのは二郎も宮崎駿も同じである。
根本的な矛盾があることは知っているし、決して解消しないことも分かっている。
無理に結論を出そうとしても綺麗事になるか、開き直るかのどちらかしかあり得まい。
戦争は嫌だ、しかし戦闘機は美しい、作りたい、そんな相反する葛藤を自己の内面に抱え込み、一生付き合ってゆく覚悟を決めた人間だけが、世界中のどこにもない飛行機、あるいは映画を作り上げることが出来るのだろう。
逆に、この映画で観念的な葛藤に留まらず、戦時中に自分の作った飛行機でバタバタと若者たちが死んでゆく事への二郎の苦悩を正面から描いたら、それはおそらく本作で作者が描きたい事とはずれてしまうのではないか。
思うに、技術的にも物語的にもやりたい事は全部やった作品だと思う。
これが夏休み全国超拡大ロードショー作品である事を、一瞬疑ってしまう程の航空機関係のマニアックさはもちろんだが、関東大震災の大地がのたうつ描写や、世界を吹き抜ける風の視点など、宮崎駿にしかデザインできないであろう圧巻の映像が次々にスクリーンに現れる。
そして何よりも、結婚式のシーンの菜穂子の超絶萌えな可愛さはどうだ!
このシーンの菜穂子は、過去の宮崎作品のヒロイン全ての面影を組み合わせたかの如く、理想の女性を全力でスクリーンに作りあげている。
画だけでなく、人間の声を利用した効果音もなかなか面白い効果を上げていたし、話題の庵野秀明の声も最初だけは少し違和感があるものの、直ぐにこういう喋り方の人かと気にならなくなり、二時間経ってみると、もはやこの声以外の二郎は想像出来ないのだから大したものだ。
むしろ主人公が、ごく普通のイケメン声優芝居だったらと想像すれば、結果的にこのキャスティングは正解であると思う。
そして、震災に始まり空襲で終わるこの映画が、ある意味現在日本のアニメーション的なカリカチュアであり、相似形を形作っているのは言わずもがなだ。
本作では、二郎と菜穂子の間に常に風が吹き、二人は風によって結ばれている。
汽車の上での最初の出会いは、風に飛ばされた二郎の帽子を菜穂子がキャッチし、再開のシーンではやはり強風で飛ばされた菜穂子のパラソルを二郎がキャッチ。
恋文代わりは、風に乗った紙飛行機のやり取りである。
だが、人生の一瞬、一瞬の邂逅もまた、過去へと吹き抜ける風と同じで二度と戻る事はない。
だから最愛の菜穂子が去り、たった一人で残骸の山に残ったとしても、二郎は生きている限り時間という風の中を歩まねばならないのだ。
例え呪われた宿命だったとしても、力を尽くして生き、人を愛し、美しいモノを作る。
そんな二郎の物語を通して、72歳の巨匠が矛盾だらけの現代日本に突き付けるのは、途轍もなく美しく、残酷なアニメーション映画なのである。
映画のラストから12年後に、戦後初の国産旅客機、YS-11の設計に参加した二郎は、新生日本の最初の、そして自らの最後の夢に美しい形を与え、航空機技師としての人生を終える。
では果たして、本作は宮崎駿にとってのYS-11なのだろうか。
鈴木敏夫プロデューサーはこれが宮崎駿の遺言と語ったらしいが、いやいや少なくとも映画を観る限り、まだまだ風は吹いていそうに思えるのだけど。
カプローニが誘うので、なんだかワインを飲みたくなる。
今回はカプローニとも縁の深いトレンティーノ=アルト・アディジェ州から、サン・ミケーレ・アッピアーノの「サンクト・ヴァレンティン アルト・アディジェ・カベルネ」をチョイス。
あの草原で、辛口フルボディのパワフルな赤を飲みながら、カプローニ伯爵と堀越二郎と共に、ヒコーキの夢を語り合いたい。

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冷戦時代からのスパイの都、ベルリンを舞台にした韓国発のサスペンス大作。
邪悪な陰謀に巻き込まれた北朝鮮のスパイ夫婦の逃避行に、世界各国の諜報機関の思惑が絡み合い、スケールの大きなアクションが展開する。
主人公の北朝鮮スパイを「チェイサー」のハ・ジョンウが演じ、彼を追う韓国のスパイにスクリーンではお久しぶりの名優ハン・ソッキュ、狡猾な北朝鮮監察員を韓国版「容疑者X」などで知られるリュ・スンボム、
そしてハ・ジョンウの薄幸の妻役を演じるチョン・ジヒョンは、繊細な抑えた演技で新境地を開いている。
監督・脚本は若きアクション派として知られるリュ・スンワンだが、なかなかどうして物語の完成度も相当に高い。
※ラストに触れています。
在ベルリン北朝鮮大使館に所属する工作員、ピョ・ジョンソン(ハ・ジョンウ)は、アラブ系武装組織との武器取引を韓国情報院のチョン・ジンス(ハン・ソッキュ)に阻止される。
情報は何処から漏れたのか。
折しも北朝鮮の指導者が金正日から金正恩へと代替わりしたばかりで、平壌はベルリンに保安監察員のトン・ミョンス(リュ・スンボム)を送り込んでくる。
そんな時、ジョンソンは妻で通訳官のリョン・ジョンヒ(チョン・ジヒョン)がアメリカへの亡命を計画しているという嫌疑をかけられている事を知る。
妻への愛と、祖国への忠誠の間で葛藤を深めるジョンソンだったが、彼自身も既に陰謀の渦に巻き込まれている事に気づき、ジョンヒと共に逃亡を決意。
一方、ジョンソンの正体を追うジンスも、別の角度から事件の真相に迫っていた。
ジョンソンの逃避行は、やがてCIAやモサド、アラブ系武装組織をも巻き込みながら、生き残りをかけた最後の戦いへと突き進んでゆく・・・
「ベルリンファイル」という、金王朝の存亡を左右する機密を奪い合うスパイ戦かとミスリードさせておいて、実はそうでは無い。
物語の構図はこうだ。
金正日体制から金正恩体制への過渡期の今、平壌は若い新指導者の力量に猜疑の目を向ける在外公館の忠誠心を信じていない。
造反の可能性のある在外公館のスタッフを粛清し、自らの息のかかった人間に入れ替えたいのだ。
特に世界中から情報が集まり、資金調達の要であるベルリンの大使館は最重要拠点。
金正恩に擦り寄って成り上がったトン将軍を父に持つミョンスは、ジョンソンらベルリンのスタッフに裏切り者の汚名を着せて、自ら大使館を支配しようとする、という訳である
まあ、これだけでも面白い映画は作れそうだが、ぶっちゃけ北朝鮮内部の、それも一大使館の利権を巡る権力闘争というちっちゃな話だ。
そこでリュ・スンワン監督は、北朝鮮のカウンターとしての韓国情報院だけでなく、アラブ系武装組織や、イスラエルの諜報機関モサド、CIAまでをもミョンスの陰謀に巻き込まれる形で物語に組み込んでスケール感を演出している。
もちろん膨らませるだけでは、ただ単にとっ散らかった大味な話になってしまうので、物語にはしっかりとした中心軸が通されている。
縦軸にはジョンソンとジョンヒという権力の駒として使い捨てられるスパイ夫婦の悲劇を置き、横軸にはジョンソンとハン・ソッキュ演じる韓国情報院のジンスとの敵同士ながらやがて奇妙な絆で結ばれる“バディ物”としての構造を配し、物語をパーソナルな視点へと巧みに落とし込んでいるのだから大したものだ。
主人公のハ・ジョンウから濃い悪役のリュ・スンボムまで、相変わらず俳優がパワフルだが、特に驚かされたのがチョン・ジヒョンだ。
「猟奇的な彼女」で脚光を浴びた頃は、猫の目の様にコロコロと表情が変わる押し出しの強い女の子という印象だったが、本作では非情の世界に生きる薄幸の女性という殆ど表情を封じられたキャラクターを、繊細に表現している。
ここへ来て彼女は、本作の様に超シリアスなものから、「10人の泥棒たち」の様なコミカルなキャラまで演じ分けられる、非常に懐の広い役者になって来ており、いわゆる演技開眼という時期を迎えているのかもしれない。
そして韓流ブームの前、一時期は韓国映画の“顔”だったハン・ソッキュも、物語の重石となる役柄を好演し、健在ぶりを見せる。
彼ら俳優陣のクオリティの高い演技が、本作に更なる深みを与えている事は間違いないだろう。
もちろん、リュ・スンワン監督と武術監督のチョン・ドゥホンが組んだチームの作品だから、冒頭のウェスティン・ホテルでの銃撃戦から、「007 スカイフォール」を思わせる荒れ野のクライマックスまで、ハリウッド映画顔負けのアクションの見せ場も盛り沢山だ。
格闘やカーチェイスと言った派手なアクションだけでなく、ハイヒールのチョン・ジヒョンに屋根の雨樋の上を歩かせたり、それぞれのシチュエーションの空間特性を活かしたサスペンス演出は手に汗握る。
モサドやアラブ系まで入り乱れる戦いも、ベルリンという伝統的なスパイ銀座を舞台とする事によって、一定の説得力が生まれている。
まあいくらなんでも主人公たちが大暴れし過ぎで、ドイツ警察が完全に蚊帳の外なのはおかしいとか、突っ込みどころはあるものの、設定によって単なる観光地映画ではない、世界観の必然性が担保されているのである。
ちなみに、ミョンスの陰謀の全貌が明らかになるのは、物語も終盤に差し掛かった頃で、それまでは基本的に、ジョンソンとジンスが知り得た情報しか、観客には開示されない。
ただでさえ登場人物の数が多く、人間関係がやたらと入り組んでいる上に、互いが全力で騙し合っている話である。
見せ場である格闘シーンも、皆キレキレの動きをしていて、似たような黒ずくめなので、油断しているとどっちがどっちだかわからなくなってしまう。
本作は決して難解な話ではないが、物語的にもビジュアル的にも、無駄な要素を極力排除するスタイルは、置き去りにされない様に観客にも其れ相応の集中力が要求される。
その分、観終わった時には重量級の力作を観た時特有の、心地良い脳の疲れを感じられるのだ。
ところでエンドクレジットを眺めながら、本作の続きがあるとすれば・・・と夢想していたら、心に傷を追った凄腕の工作員、殺された最愛の妻、生まれられなかった子供などと言ったキーワードから自然に「アジョシ」になってしまった。
ハ・ジョンウはウォンビンよりだいぶ無骨だけど(笑
今回は、ベルリンの名を持つ「ベルリーナ・ヴァイセ」をチョイス。
これは特定の銘柄ではなく、小麦と大麦両方を原料に乳酸発酵させ、比較的強い酸味を持たせたスタイルで、ベルリンで生産された物だけがこの名を名乗る事が出来る。
ドイツ以外にも、ドイツ系移民が多い米国の一部で同様の物が作られている様だ。
アルコール度も3%前後と低い、このビールの飲み方はちょっと変わっていて、そのまま飲むよりも甘めのシロップと混ぜてビアカクテルとして飲むのが一般的なのだ。
ラズベリーの赤とハーブの緑で割られた、カラフルで甘酸っぱいベルリーナ・ヴァイセは暑い夏の風物詩。
日本では見たことが無いが、ヨーロッパ方面に旅行する際には是非お試しあれ。

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回を重ねるごとにスケールも面白さも、そして興行収入も加速してゆく稀有なシリーズ、「ワイルド・スピード」の待望の第六弾。
「MEGA MAX」の次だから、邦題は「GIGA MAX」かと思っていたら違った(笑
今まで南北アメリカ大陸を舞台としていたドムたちの大暴れは、今回初めて大西洋を超えてヨーロッパへと進出。
敵もギャングや麻薬組織ではなく、高度なドライビングテクニックと戦闘能力を備え、世界を危機にさらす軍事機密奪取を狙う傭兵部隊へとグレードアップされた。
もちろん売り物のカーアクションはテンコ盛りで、遂には戦車や巨大輸送機まで投入される大サービスでお腹いっぱいである。
ブラジルで、暗黒街のボスから一億ドルを強奪したドム(ヴィン・ディーゼル)とブライアン(ポール・ウォーカー)は、愛する家族と共にスペインで悠々自適の生活を送っているが、平和なリゾート暮らしにどこか違和感を覚えている。
その頃、元SASのオーウェン・ショウ(ルーク・エヴァンス)が率いる傭兵部隊が、モスクワで軍事機密を強奪。
神出鬼没のドライビングテクニックを駆使するショウ一派を捕らえるために、FBIのホブス(ドゥエイン・ジョンソン)はドムに協力を要請する。
最初は気乗りしないドムだったが、ショウの仲間に死んだはずのレティ(ミッシェル・ロドリゲス)がいる事を知らされると、彼女を取り戻すために協力を決意する。
ロンドンに潜伏するショウを捕らえるために、久しぶりに“ファミリー”が結集するのだが・・・
2001年に第一作が封切られた「ワイルド・スピード」が、まさかこんなブロックバスターシリーズに成長するとは、当時誰も思わなかっただろう。
90年代に派手なエアロを纏った日本車が、西海岸の若者たちに大流行した事で企画された第一作は、まずまずの出来で興業も好調だったが、流行を追った色物B級アクションの域を出る程では無かった。
実際二作目、三作目とパワーダウンが激しく、興行成績も急降下、しかし第三作「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」から登板したジャスティン・リン監督が、シリーズの仕切り直しを図り、原題もオリジナルから“The”を取った「Fast and Furious」として原点回帰した第四作「ワイルド・スピードMAX」が大成功。
シリーズは見事に息を吹き返して怒涛の快進撃を開始、本作では遂に製作費1億6千万ドルに達する堂々たる超大作となった。
一応、お話的には軍事機密のチップの奪い合いではあるが、これは「ミッション・インポッシブル3」のラビットフット同様ほとんどマクガフィンみたいな物で、扱いもアバウトだしアクションの理由付け以上の意味は持たない。
本作において、ドムたちが狙う真のターゲットは、記憶を失い敵の一員となっているレティなのだ。
彼女を奪還したいドムと、ショウを捕らえたいホブスの思惑が一致し、ドムは“ファミリー”全員の恩赦と引き換えに、ホブスと手を組む事を決断する。
まあ死んだはずの彼女が生きている理由については、やや無理やり感もあるのだが、そこはあえて突っ込むまい。
面白いのは、今回の敵はドムに対応するリーダーのショウを初め、メンバーのキャラクターがドムのファミリーの合わせ鏡の様になっている事だ。
展開が早いので、敵側の一人一人のキャラを立たせるまでには描写出来てないのは少し残念だが、要するにアベンジャーズvsダークアベンジャーズみたいな対立構図があって、その二つの鏡の間に立っているのがレティという訳だ。
過去の記憶を持たないが故に、如何様にでも染められる彼女の心が、ドムたちのファミリーライクな絆を選ぶのか、それともショウのビジネスライクなチームを選ぶのかという葛藤を軸に、ヨーロッパ大陸を股に掛ける争奪戦が展開するのである。
「MEGA MAX」の巨大な金庫室を引きずりながらのカーチェイスも凄かったが、今回もテンコ盛りのアクションは、よくまあこんなネタを考え付くものだと感心してしまう。
大規模なカーチェイスの見せ場は三つ。
ロンドンの市街地の大暴走は、ショウのチームの駆使する、フォーミュラーカーに装甲を付けた様な、異様に背の低いマシンが面白い。
相手の車の下に潜り込んで、横転させてしまうのである。
更に、彼らは車のコンピュータチップを遠隔操作する武器を持っているために、現代のハイテク車は次々と餌食になり、第一ラウンドはショウの快勝。
そこでドムたちは、次なるスペインの高速道路でのバトルには、電子制御されていない旧車を用意する。
お馴染みのドムの愛車、ダッジ・チャージャーにレーシングエアロを装着したダッジ・チャージャー・デイトナや、フォード・エスコートMark1などの名車が、突然乱入する戦車(笑)に挑むのだ。
ここはGT-R使いのブライアンにはハコスカにでも乗って欲しいところだが、当時の欧州では売って無かったのでいたしかたない。
それでも彼がドライブするのは英国フォードのエスコートで、どこまでも右ハンドル命なのは思わず笑ってしまったけど。
そして、凄まじい金属のぶつかり合いのオチに持ってくるのが、もうやり過ぎ、スーパーマンも真っ青な肉体の飛翔と愛の抱擁なのだから参った。
レティを巡る話に一応の決着がついた後も、ジャスティン・リンのサービス精神はもはやブレーキを失って暴走する。
真のクライマックスは、ショウたちを載せて離陸しようとする巨大なアントノフ輸送機を追って、機内と滑走路上で展開する怒濤の立体アクション。
まあ、この滑走路一体何十キロあるんだよ!とか、戦車ひっくり返すとかどんだけ丈夫なワイヤーなんだよ!とか前作同様に細かな突っ込みどころは無数にあるが、とにかく面白い物、見た事のない物を作りたいという作り手の熱気がスクリーンから吹き付ける。
本作に「インディ・ジョーンズ」や「007」から連なる、アクションの見本市の様な連続活劇の系譜と、ハリウッド伝統の暴走系カーアクションの系譜の幸福なマリアージュを観たと言えば褒め過ぎか。
そして、前回もそうだったが、次作への期待の繋ぎ方が上手い。
「ワイルド・スピード MAX」から本作までを三部作と考えると、ようやく時系列の異なる「 TOKYO DRIFT」の時代に追いつき、ループする四部作が完成した事になる。
ジゼルとハンを失ったドムたちは、新しいチームを編成するのだろうか。
エンドクレジットのおまけで、悪役っぽく登場したアイツは、どういう風に物語に絡んでゆくのだろうか。
二大カーアクションシリーズの融合という夢を観て、早くも来年登場する「Fast & Furious 7 」を楽しみに待ちたい。
監督は、自ら始めた時の輪を繋ぎ終えたジャスティン・リンが降板し、「SAW」のジェームズ・ワンにバトンタッチされるが、ニトロ注入でシリーズが更に加速するか、それとも大ブレーキになってしまうか、先ずはお手並み拝見だ。
このシリーズはやはりビール。
舞台となるスペインの「マオウ シンコ エストレージャス」をチョイス。
マオウはスペインでシェア3割を持つ最大手。
サッカーファンにはレアル・マドリードのスポンサーとしてもお馴染みだ。
シンコ・エストレージャスは典型的なピルスナースタイルで、軽やかな中にも適度なコクと苦味が楽しめ、日本人の好みにも合うだろう。

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2001年に公開されたピクサー・アニメーション・スタジオの長編第四作、「モンスターズ・インク」の前日譚。
人間の子供の悲鳴をエネルギー源とするモンスターの世界で、“怖がらせ屋”として活躍するマイクとサリーがいかにして出会い、無二の親友にして最高のチームとなったのか、彼らの波乱万丈の大学生活が描かれる。
「カーズ」のスピンオフ短編、「メーターと恐怖の火の玉」のダン・スキャロン監督が、初のアニメーション・フィーチャーのメガホンを取り、上々のデビューを飾った。
モンスターズ・インクの怖がらせ屋に憧れる少年マイク(ビリー・クリスタル)は、努力の結果難関を突破し、遂に最強の怖がらせ屋養成機関であるモンスターズ・ユニバーシティに入学する。
しかし、小柄でかわいらしいマイクは、見た目がどうしても怖くないという根本的な欠点に悩み、何とか怖さを出そうと必死に勉強する日々を送る。
そんな時に出会った同級生のサリー(ジョン・グッドマン)は、巨体を誇る名家出身のサラブレッド。
マイクはサリーをライバル視するが、サリーは全く相手にしない。
しかし生まれながらの才能に欠けるマイクも、プライドだけに頼って努力を怠ったサリーも、共にハードスクラブル学長(ヘレン・ミレン)に怖がらせ屋失格の烙印を押されてしまう。
だが、夢をあきらめ切れないマイクは、サリーたちとチームを組んで大学伝統の怖がらせ大会にチャレンジする事になるが・・・
日本では一般に“社交クラブ”と訳されるが、アメリカの大学にはフラタニティ(女性のみの場合はソロリティ)と呼ばれる組織があって、学園物の映画などに良く出てくる。
フラタニティには様々な形態があり、だいたいにおいて「オメガ」とか「カッパ」などギリシャ文字で表される名を持ち、大学近くの宿舎に共同生活をしている事が多い。
大学にもよるが、これらフラタニティには明確なスクールカーストが存在していて、一流校の一流フラタニティのメンバーになるには学業スポーツなどで一定の成績を修める必要がある。
そのため、新入生は先ずドームと呼ばれる一般の寮で生活し、憧れのフラタニティへ加入するチャンスを待つのだ。
またフラタニティには秘密結社的な役割もあり、メンバーには生涯に渡る絆が生まれる。
人気のあるフラタニティの主催するフラット・パーティには、それこそ数百人単位の客が集まる事もあり、正に学園の重要な社交場なのである。
本作の主人公であるマイクとサリーも、大学生活をドームで始める。
てっきりマイクのルームメイトがサリーなのかと思ったら、意外な人物、もといキャラクターが現れたのにはビックリ。
アイツが、最初はこんな良い奴だったと思うと、人生は切ない。
大学のデザインのモデルになっているのはハーバードだろうか。
キャンパスの前を流れる川にかかる橋のデザインや、レンガ造りの校舎のイメージなどは良く似ている。
最恐の怖がらせ屋になる夢を叶えるために、モンスターズ・ユニバーシティにやって来たマイクだが、社会に出る前段階である大学生活とは、自分自身が何者なのか、現実を知ってゆくプロセスでもある。
まん丸で小さな身体に愛らしいモノアイと、どこから見てもキュートなマイクは、決定的に怖くないという致命的な欠点を抱えている。
それはどんなに勉強しても、努力しても補うことの出来ない生まれ持った資質だ。
一方のサリーは、恵まれた体躯と怖がらせ屋の名門の出身という、親の七光に胡坐をかいて、まったく努力をしない。
努力だけで夢が叶わないのと同じくらい、才能だけで叶う夢も無いのだ。
だが、対照的な二人が同じ挫折を味わった時、思いもよらない化学反応が起こる。
六人制で競われる怖がらせ大会に、弱小フラタニティのウーズマ・カッパのチームとして挑んだマイクは、次第に豊富な知識と行動力でリーダーとしての持ち味を発揮する様になり、傲慢で協調性の欠片も無かったサリーもまた、チームとして輝く喜びを知る。
足りない部分があれば、お互い補い合い、最後にすばらしい結果を出せば良いのである。
そして本作が秀逸なのは、スクールカーストを打破する決勝戦と、その後の真のクライマックスとなる大騒動の顛末の結果を、安易なハッピーエンドとしなかった事だろう。
大人になるという事は、自分の行動の責任をとるという事でもある。
その結果として、落ちてゆくかそれとも這い上がるかは人それぞれ。
ピクサー・アニメーション・スタジオが大ディズニーの傘下に入ってから7年。
最近では「カーズ」のスピンオフである「プレーンズ」が何故かピクサーではなくディズニー作品として公開されたり、ここへ来てアイデンティティが微妙にぶれている感もあるが、これはやや大人気ない大きなお友達向けの正真正銘のピクサーブランド。
もちろん、子供が観ても楽しめるだろうが、嘗ての学園生活を実体験として振り返れる大人の方が、より楽しめるのは間違いないだろう。
既に未来のパートである「モンスターズ・インク」が存在しており、過去を振り返る視点を持つ事から言っても、本作はある意味CGアニメ版の「横道世之介」であり「きっと、うまくいく」なのである。
私は、本作のエンディングを観ていて、スティーブ・ジョブズが亡くなる数年前に、スタンフォード大学の名誉学位を贈られた時の伝説的なスピーチを思い出した。
彼は大学をドロップアウトし、きちんとした学位を持っていない。
スピーチの中でジョブズは、全ての“点”は後から見たら“線”として繋がっているという例えで、人生のそれぞれの一瞬一瞬の重要性を説いている。
これは穿ち過ぎな観方かもしれないが、怖がらせ屋という夢に向かって、回り道をしながらも、それぞれのステージで輝きを放ってゆくマイクとサリーのキャラクターには、もしかしたらジョブズと盟友のスティーブ・ウォズニアックのイメージが投影されているのではなかろうか。
まあ、彼らはさすがに郵便係はやらなかっただろうけど(笑
本作には、サシュカ・ウンゼルト監督のこれまたセンスの良い短編「ブルー・アンブレラ」が同時上映となる。
大都会の雑踏の中、偶然隣り合わせた赤い傘に恋してしまった青い傘の物語。
キャラクターが人間か無生物かの違いはあれど、ちょっと「シュガー・ラッシュ」の同時上映作の「紙ひこうき」と似たムードがある。
命無き存在に魂を与え、動かすのはアニメーションの原点。
傘だけでなく、ポストや雨どい、更には道路の側溝の蓋など、街中の様々なモノたちに“顔”が見出され、キャラクターとして表現されているのが面白かった。
今回はハーバード大学のあるボストンを代表するビール、「サミュエル・アダムズ ボストン ラガー」をチョイス。
フラット・パーティーにはビールサーバーがお約束だけど、ビールにしては妙に酔いが早い事がある。
そんな時はだいたいサーバーの中に大量のマリワナが突っ込まれていたりするのだ。
まあ今にして大学時代を思うと、そんなアブナイ部分も含めて、大い社会勉強をさせてもらった様な気がする。
懐かしの学園生活に乾杯!
ちなみに、本作はエンドクレジット後に意外な(?)複線の回収があるので、あわてて席を立たないよ~に。

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おそらく「コン・ティキ」というタイトルに胸の高鳴りを覚えるのは、私の世代くらいまでなのではないか。
今の子供たちは余り知らない様だが、昭和の頃には教科書にもその抜粋が載っていた「コン・チキ号漂流記」の映画化である。
ポリネシア人の祖先がアジアから島伝いにやって来たのが常識とされた時代、そうではなくユーラシアから北米大陸を通って、南米大陸へと到達した人々が、筏で海流に乗って大洋を航海したのだと主張したノルウェーの人類学者がいた。
マーベル映画で御馴染みの雷神の名を持つ、トール・ヘイエルダールは、古代の南米大陸で手に入った材料だけで、インカの太陽神の名を冠した大型の筏“コン・ティキ”を建造し、戦後間もない1947年に、5人のクルーと共にポリネシアを目指してペルーから出航するのである。
彼らの辿った遠大な航路は、実に102日間、8千キロ!
映画は、危険大好きなヘイエルダールの性格を端的に表す、少年時代のエピソードから幕をあけ、戦前のポリネシアで南米渡来説のヒントを得ると、前半1/3が資金集めに奔走する陸上編、後半の2/3が過酷な航海を描く海上編である。
漂流物というと「ライフ・オブ・パイ」が記憶に新しいが、あちらはある種の哲学的ファンタジーであり、物語論を描くフィクションなのに対して、こちらは実録物。
話を過剰に盛るわけにも行かないし、映画の大半はだんだんと薄汚くなってゆくおっさんたちが筏に乗っているだけの動きの無い話であって、物語的なダイナミズムには乏しい。
そこでこの映画の作り手たちは、リーダーであるヘイエルダールのぶれないキャラクターを軸にした、密室心理劇とする事で飽きさせずに物語を構築している。
未知の大洋は時には凪ぎ、時には荒れ狂う嵐に豹変してちっぽけな筏を翻弄し、巨大なサメは死の象徴となってクルーの心の体力を奪ってゆく。
やがて極限の恐怖に耐えられなくなり、隠し持っていたワイヤーで船体を補強して欲しいというクルーの願いを、ヘイエルダールは無情に却下しワイヤーを海に投げ捨てるのだ。
雷神の船長は、太陽神の筏と、同じ航路を旅したであろう太古の人々の英知を信じた。
実際、もしも進言を受け入れてワイヤーを使ったなら、柔らかなバルサ材の丸太は細い金属によって切り裂かれ、船体はばらばらなってしまった可能性が高いという。
現在、ヘイエルダールらが命がけで証明しようとしたポリネシア人の南米起源説は、DNA鑑定などで否定されてしまったが、彼らは単に一つの仮説を裏付けたのではない。
彼らが証明したのは確固たる信念を持ち、覚悟を決めた人間の可能性そのものだ。
映画は、コン・ティキ号の冒険を通し、文字通りに人間の距離と地球の距離の壮大な対比を見せてくれるが、隠し味的に効いてくるのが、さり気なく仕込まれた男と女の心の距離。
ヘイエルダールが、この歴史的冒険の後に離婚していたのは初めて知った。
もしかしたら本に書いてあったかもしれないが、子供心にはそんな事はどうでもよかったのだろう。
しかし大人になってから観ると、男が冒険の野望と引き換えに、ささやかな幸せを犠牲にせざるを得なかったという事実に、物語に絵空事ではないビターな後味、そして浪漫に生きた男の人生の詩を感じるのである。
今回はコン・ティキ号で飲みたい、ノルウェービールの「ヌグネ IPA」をチョイス。
ヌグネ・オーはクラフトビールの世界では世界的に知られ、なぜか最近では日本酒の醸造をも手がけているという変り種のブリュワリー。
IPAはとにかく香りがパワフルで、フルーティで複雑な味わいと共に、一本でもじっくりと楽しむことが出来る。
こんなの、見渡す限り水平線しか見えない海の上で飲んだら最高だろうな。

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鳥を飼った事のある人は知っているだろうが、タイトルの「風切羽~かざきりば~」とは鳥類の翼の後端に並ぶ、長い羽の事。
ここを切られると羽ばたいても十分な推進力を得られないので、僅かな距離しか飛ぶことは出来なくなる。
神経や血管が通っておらず痛みを感じないため、鳥を室内飼いするために風切羽を切る人は多い。
本作の主人公であるサヤコは、母親から虐待を受けて育ち、今では児童養護施設に暮らしている。
彼女は、幼い頃に飼っていた風切羽を切られたインコに、自分自身の姿を見ているのだ。
母親には虐待によって心を閉じ込められ、今は自由の無い施設に暮らす閉塞感。
そして、金にだらしのない父親によって、将来のために貯めていた貯金を盗まれてしまい、金を取り戻そうと走り回るうちに、奇妙な“自分探し”をする自転車の少年、ケンタと出会う。
彼は、少年時代に暮らしたこの街で、自分を知る人を探しているのだ。
孤独な二つの魂が出会った事で、切ない情感を持ったワンナイト・ロードムービーが始まる。
公式HPによると、本作は最初に完成した時には後半の48分間しかなかったという。
このバージョンを観ていないので正確にはわからないが、おそらくサヤコが施設を飛び出して、ケンタと出会う辺りから始まる物語だったのだろう。
たぶんそれだけでも、一本の物語として完結させられるだろうが、前半部分に彼女が抱える背景をしっかりと描きこんだことで、作品の間口は広がり、世界観は奥行きを持ったと思う。
殆ど出ずっぱりでサヤコを演じる秋月三佳の、伸びやかな肢体の持つ肉体感覚が良い。
単純にリアルというよりも、映画的リアリティのある彼女のキャラクターの強さによって、画面にグイグイ引き付けられるのである。
そして、殆ど後半しか登場しないケンタとは何者か。
飛べない鳥と、飛べない飛行機。
ケンタがなぜもう一人の自分を探すのか、いや探さねばならないのか、その理由が明らかとなる時、映画は思いもよらない方向に大きく舵を切り、さり気なく仕込まれた伏線は回収されて、メタファーとして結実する。
元々ヘビーな題材の映画だが、終盤の展開は更に切なく痛々しい。
物語の結末にも、はっきりした救いがある訳では無いし、彼らの苦しい人生は今後も続くのだろうけど、ほんの僅かに光を感じさせるラストの後味は、決してバッドエンドとは思いたくはない。
例えば、同時期に公開されている「真夏の方程式」が、大人たちの溢れんばかりの愛に守られた子供たちの物語だとしたら、「風切羽~かざきりば~」の子供たちは、愛し方を知らない大人たちに育てられ、必死に愛を求める子供たちの物語と言えるかも知れない。
あえて後者の様な辛い作品を観に来る人は少数派なのだろうけど、ずっしりとした問いを投げかけられる、観応えのある力作であった。
翼を失った彼らが、いつか再び飛べる様に、「エンジェル・ウィング」をチョイス。
クレーム・ド・カカオ・ブラウン20ml、プルネル・ブランデー20ml、生クリーム適量(他の材料と同じ厚み)を、静かにビルトしてゆく。
ブラウン、イエロー、ホワイトが三色の層となって、とても美しい。
生クリームの甘みが口当たりを優しくし、名前の通り天使の羽で唇を撫でられている様な不思議な感触のカクテルである。

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![]() クレーム・ド・カカオ・ブラウン / ボルス |


天才物理学者・湯川学が難事件に挑む「探偵ガリレオ」シリーズの映画版第二弾。
東野圭吾の原作は、前作の「容疑者Xの献身」を始め何本か読んでいるのだけど、「真夏の方程式」は未読。
世評の高かった「容疑者Xの献身」は、原作由来のストーリーのロジックの破綻がどうしても気になってしまい、いま一つ乗り切れなかったが、今回はなかなか良く出来ていると思う。
少なくとも、展開がテンプレ化してしまっていたテレビの第二シーズンよりは数段面白かった。
意外にも、物語の中核に置かれているのは事件そのものではなく、水晶の様にきらめく美しい海を誇る町・玻璃ヶ浦の開発計画のアドバイザーとして招かれた湯川先生と、夏休みを過ごすためこの町の旅館・緑岩荘にやって来た少年・恭平との夏休みの交流だ。
理科嫌いの恭平に、子供嫌いの湯川先生が科学の素晴らしさを教えようと、ペットボトルロケットを作るエピソードに、風光明媚な町で起こる一件の不可解な殺人事件が絡み合う。
玻璃ヶ浦では開発派と反対派が町を二分する論争を繰り広げているが、人間ドラマの背景に“経済”を置く事でテーマを浮かび上がらせるというスタイルは、西谷弘監督の前作「任侠ヘルパー」にも共通する。
アドバイザーとしての湯川先生の主張は、未来を選び取るためには、たとえ都合の悪い事実にもしっかりと向き合い、知るべき事を知らなければならない、という事だ。
現在の玻璃ヶ浦で起こった事件は、やがて16年前に東京で起こったもう一件の殺人事件と結びつき、ある家族の抱える悲しい秘密が浮かびか上がってくる。
そして湯川先生は、「ある人物の人生が捻じ曲げられる」事を防ぐために、珍しく自分から事件の真相に迫ってゆくのである。
とは言っても、本作の場合謎解き要素はそれほど多くなく、湯川先生も物語の中盤には既に事件の全貌にたどり着いている様子。
本作のキモは、東野圭吾の小説に多く見られる“大切な誰かのための秘密と自己犠牲”というモチーフである。
だから今回のガリレオはテレビドラマの様に、突然閃いて難解な数式を書き散らかす様なパフォーマンスはしないし、ノリの良いテーマ曲すらエンドクレジットの途中から控えめに使われるだけだ。
映画のクライマックスは、取調室で湯川先生と事件の核心人物との対話という地味なものであり、ここで彼は科学では決して解き明かす事の出来ない、心の方程式の解を丁寧に導き出すのである。
現代の事件を起こす人物の行動がやや性急過ぎたり、被害者となる元刑事がなぜ16年前の事件の結果に疑念を抱いたのかが描かれないなど、いくつか気になる点もあるが、物語の展開と共に絡み合った人間関係が紐解かれゆくプロセスは良く出来ている。
これは心のミステリーを描く、丁寧に作られた本格的な人間ドラマ。
子供たちは、大人たちの精一杯の愛を受けて、哀しみの向こうに未来を選び取るのである。
本作のロケは主に西伊豆で行われたそうで、美しい海が印象的だった。
伊豆の地酒、万代醸造の「純米吟醸 萬耀 」をチョイス。
静岡産の酒米・誉富士と静岡酵母で作られた、正にザ・地酒。
芳醇な味わいとなめらかな吟醸香のバランスが良く、伊豆の海の幸を肴にして飲みたい。
これからの季節は冷が美味しいだろう。

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![]() 誉富士 伊豆萬耀 純米吟醸720ml |


あなたが、ファーストフード店の店長だとしよう。
ある日突然、警官を名乗る男から電話がかかってきて、店員に財布を盗まれたという被害届が出ていると通告される。
事件を穏便に処理するから、責任者としてあなたが該当の店員の服を脱がせて、金を隠していないか調べてくれ、と言われたらどうするだろうか?
これは1990年代から10年近くに渡って、70件近くの被害を出した所謂“ストリップサーチ悪戯電話詐欺”を描いた心理サスペンス。
登場人物や店の名前は変えてあるものの、一連の事件の中で最後に報告され、全容解明の切っ掛けとなったマウントワシントンのマクドナルドで起こった事件の顛末を、事実に忠実に再現した実録作品である。
90分の間、登場人物の馬鹿さ加減にイライラしっぱなしだ。
なぜ相手の身分を確認しないのか、明らかにおかしな事を要求されているのに、なぜ疑問を感じないのか。
「自分ならこんな馬鹿げた嘘には引っかからないよ!」と殆どの観客は思うだろうが、これは要するにオレオレ詐欺などとも共通する心理だろう。
客観的に考えればおかしなことだらけでも、なぜかその場でもっともらしい受け答えをされるとそれ以上追求出来ずに騙されてしまう。
しかし、オレオレ詐欺のターゲットは、相談する相手のいない個人だが、本作では被害者の若い女性を含めたファーストフード店の関係者全員が、コロッと騙されてしまうのはなぜなのか。
鍵になるのは、タイトルの「コンプライアンス(Compliance)」という単語だろう。
企業の不祥事絡みで日本でも一般的に使われる様になってきて、「法令尊守」などと訳される事が多いが、元々は「命令に従う、言いなりになる」という意味の言葉だ。
この映画で恐ろしいのは、電話口でただ一言 “警官”という肩書きを聞かされただけで、関係者全員が思考停止してしまう事である。
「警官=権威=正しい=命令に従うべき=反抗すれば面倒な事になる」という公式が、ほとんど無意識のうちに全員の頭の中で成立してしまっているのだ。
人間はいかに権威・権力に弱く、盲従してしまうのか。
自分では法の執行者に従って、正しい事をしているつもりで、いつの間にか人間として許されない不作為の罪を犯している事に気付かない。
全員が馬鹿げた悪戯電話に騙される中、嘘を見破るのが見た目は一番ダメっぽそうな薄汚い身なりのおっさんなのも良かった。
彼だけが権威ではなく、自分自身の良心に従ったのである。
ジリジリとした焦燥感が喉をカラカラにする映画だ。
観終わった後はスッキリとしたビールが飲みたい。
アメリカンビールの代表的銘柄「ミラー ドラフト」をチョイス。
コクや深みよりは水の様にスーッと飲めるライトビールだが、ひたすら喉の渇きを癒したい時はこういう方が良い。
もちろん高温多湿の日本の夏にもピッタリだ。

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ポルトガルの異才ミゲル・ゴメス監督による、極めてユニークなスタイルのメロドラマだ。
これと似た作品を過去に観ただろうか?としばし考えてみたが、思い浮かばない。
死期を悟った孤独な老女アウロラは、人の良い隣人のピラールとアフリカ出身のメイドのサンタに、消息の分からないベントゥーラという男を捜して欲しいと頼む。
やがて映画は、半世紀以上前のポルトガル植民地戦争直前のアフリカを舞台とした、ベントゥーラとアウロラの禁じられた恋の物語を語り始めるのである。
一応メロドラマの体裁はとっているが、中味は特異な実験映画と言って良い。
全編が今どき珍しいフィルム撮りのモノクロのスタンダードで、しかも現代のリスボンを舞台としたパートは35ミリ、過去のアフリカのパートは16ミリで撮影され、同じフォーマットでも質感を変えるなど、細かな工夫が凝らされている。
しかし本作を独創の作品としているのは、何よりも前半と後半でまるで別の映画のように切り替わるストーリーテリングの手法だろう。
ぶっちゃけ本作を一言で表せば、嘗て不倫関係にあった男女の、今と過去を描くありきたりな恋愛話だ。
死にゆくアウロラの為に、ピラールとサンタが骨を折る前半の展開は、消息不明のはずのベントゥーラはいとも簡単に見つかってしまい、移動撮影などに面白い試みはあるものの、特にドラマチックな内容ではない。
ところが後半、舞台が半世紀前のアフリカへ移ると、映画は変則的なサイレント映画の様な、奇妙なスタイルへと変貌する。
このパートでは、登場人物の台詞は封じられ、老いたベントゥーラの回想のモノローグ、所謂“心の声”によって、感情を含めた全てが語られてしまうのである。
教科書的な考え方をすれば、映画とは第一義的に画によって語られるべき芸術であって、過剰なテクストによる表現は安易という事になる。
だが、この手法が過ぎ去った過去と現代の距離感となって、独特の詞的な情感を作り出すのだから面白い。
例えば現代からのモノローグと、手紙という後に残る物の朗読以外に台詞が存在しないのも、それがどんな言葉を交わしたかすら憶えていない、遠い過去の情景である事を強くイメージさせるのである。
本作の原題の「Tabu」には三つの意味がある。
一つ目は後半の舞台となるタブー山麓の地名、二つ目はアウロラとベントゥーラが陥った恋の禁忌を意味するタブー、そして最後は映画文法の禁じ手としてのタブーである。
本作は、あえてそのタブーを破ることで、映画とは自由なものであることを改めて認識させてくれる。
古典的な不倫劇の輪郭を利用したのも、“実験”を行うためには、物語そのものはシンプルかつスタンダードな物の方が適しているという事だろう。
ミゲル・ゴメスは、既に歴史の一部になりつつあるフィルム映画そのものをメタファーとし、消え行くもの、失われしものに関する挑戦的なレクイエムを作り上げたのである。
今回はポルトガルのお酒、ポートワインを使ったカクテル、その名も「ユリシーズ」をチョイス。
ブランデー20ml、ポートワイン・ホワイト20ml、ピーチ・ブランデー20ml、アブサン1dashをステアしてグラスに注ぐ。
このカクテルはポートワインを使わないレシピも一般的だが、個人的にはポートワインのまろやかさでこのレシピを推したい。
ユリシーズはもちろん、苦難の大冒険をした古代ギリシャの英雄オデュッセウスの事だが、アウロラやベントゥーラの様にごく普通の人にも意外な歴史があるのかもしれない。

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平日のガラガラの映画館、後ろの席で観ていたいかにもギャル風の二人組みが、終わって開口一番「中味がなさ過ぎてびっくりした!」と素直過ぎな感想を述べていた(笑
まあ確かにこれはドラッグとお尻とおっぱいに満ちた、ハーモニー・コリンのジャンキーな楽園、ピラニアの出ない「ピラニア3D」みたいなものだ。
日本の春休みとほぼ同じくらいの時期、1~2週間の“スプリング・ブレイク”は、夏休みの様に飽きるほど延々と続く訳でもなく、クリスマスやサンクスギビングの様に半ば義務的に実家に帰らねばならない事もなく、言わば日常の谷間に忽然と現れる、好き勝手に過ごせる非日常。
永遠の春休みのイメージは「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」を思い出した。
あの映画では、諸星あたるを愛するラムちゃんの思念を受けた妖怪無邪鬼によって、永遠に続く学園祭前夜が作り出されていた訳だが、本作には春休みが終わらない様に願うラムちゃんが四人もいるのだから、パワーも強烈。
彼女らの願望を受けて、夢を夢に留め置く無邪鬼的キャラクターが、ジェームズ・フランコがノリノリで演じるラッパーのエイリアンだ。
ドレッドヘアにタトゥー、ゴールドのネックレスやリングに金歯という超分かりやすいルックスは、ハロウィーンの時期にアメリカのスーパーで売っている“ラッパー”のコスチュームセットそっくり。
このキャラクターは、もはや完全にステロタイプ化された“ネタ”なのだ。
どこにそんなの売ってるんだよと突っ込みたくなる、ピンクの目出し帽を被って銃を担いだビキニの女の子たちが、エイリアンのピアノ演奏でブリトニーの「Everytime」を合唱するシーンでは、LSDの作り出した幻覚の様なぶっ飛んだ世界観がスクリーンからあふれ出す。
同じ台詞や描写が、視点を変えて何度も繰り返されるのも、極彩色の悪夢っぽさを高めており、これがある種の通過儀礼としてのスプリング・ブレイクを描いた寓話だという事が強調されるのである。
しかしエイリアンに象徴されるおバカな男たちが、必滅の楽園を永遠の夢とするために生きて死んでゆくのに対して、女の子たちはどの段階でという違いはあれど、皆一様に目覚めて去ってゆく。
スプリング・ブレイクへと向かう時の、希望と好奇心がパンパンに膨らんだテンションMAXな笑顔と、全てが終わって日常へと戻る時のドンヨリした表情の落差。
終わり無き時は無く、滅び無き楽園もまたどこにも存在しないけれど、だからこそ終わって欲しくない、「スプリング・ブレイク・フォーエヴァー!」と叫びたくなる青春の切なさ。
本作には確かにギャルの言うとおり、特に物語らしい物語は無い。
けれども、どんなに弾けまくってビッチな事をしても、スプリング・ブレイクが終われば、しれっと日常へと帰ってゆく、したたかな女子パワーに圧倒されるのはけっこう心地良いのだ。
今回はスプリング・ブレイカーズと飲みたい「パラダイス」をチョイス。
ドライ・ジン30mlとアプリコット・ブランデー15ml、オレンジ・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ジンの清涼さとオレンジの甘みと酸味、アプリコットの柔らかい香りの三重奏が、楽園気分を演出してくれる華やかなカクテルだ。

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