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昼夜を問わず、ありと凡ゆる犯罪が起こるロサンゼルス、サウスセントラル地区を舞台に、パトロール警察官たちの死と隣り合わせの“日常”を描く異色作。
「ワイルド・スピード」「トレーニングデイ」などの脚本や、「フェイクシティ ある男のルール」などの監督として知られ、警察物を得意とするデヴィッド・エアーが監督・脚本を務める。
主人公の警察官をキレキレで演じるジェイク・ギレンホール、相方役のマイケル・ペーニャのコンビが素晴らしい。
低予算のインディーズ系ながら、本国では初登場一位を獲得する健闘を見せた、アメリカン・ニューシネマの香り漂う鮮烈なポリス・ムービーだ。
ロサンゼルス、サウスセントラル。
白人警察官のブライアン(ジェイク・ギレンホール)とヒスパニック系の同僚マイク(マイケル・ペーニャ)は、数々の重犯罪が多発するこの街でパトロールを担当している。
時には法律ギリギリの危険を冒しながらも、高い検挙率を誇る二人は警察の中でも一目置かれる存在だ。
麻薬ビジネスを巡り、人種間の緊張が高まる中、とある一軒家に踏み込んだ二人は、そこがメキシコの麻薬カルテルの重要なアジトだと知る。
組織にとって目障りとなったブライアンとマイクに対し、本国から暗殺指令が下り、遂に二人はメキシカン・ギャングたちによって襲撃されるのだが・・・
タイトルの「エンド・オブ・ウォッチ」とは、本来警察官が一日の業務を終える「勤務時間終了」を意味する警察用語だが、転じて「もう勤務する事がない」即ち「殉職」の隠語ともなっている。
犯罪が多発する街で、体を張って治安を守る警察官にとって、どちらの意味に転んでも不思議はないという訳だ。
ロサンゼルス中心部の南側に広がるサウスセントラル地区は、昔友人が近くに住んでいたので昼間は何度か通りかかった事はあるが、ぶっちゃけ夜には絶対入りたくないムードが漂う街だった。
ここを舞台にした映画と言えば、デニス・ホッパー監督の「カラーズ 天使の消えた街」が代表作だろうか。
警察官のバディ物である事、ギャング集団の戦いを描く内容も含め、本作とは共通点が多い。
元々黒人の街であったサウスセントラルには、80年代頃から急速にヒスパニック系移民が流入し、黒人ギャングとの抗争が頻発、更にニッチマーケットを求めて進出する韓国系移民との軋轢も深まり、人種間の火薬庫の様相を呈するようになる。
この街が抱え込んだ矛盾が一気に噴出したのが、ロス市警の警官が黒人男性を殴打した、所謂ロドニー・キング事件への無罪評決をきっかけに起こった1992年のロス暴動だ。
燃え上がるロスの街は日本でも大きなニュースになったので、ご記憶の方も多いだろう。
その後もヒスパニック系の人口増加は続き、映画に描かれた様に今ではすっかり街の主導権は彼らに移っており、治安も一時は改善の兆しがみられたものの、近年メキシコで続く麻薬戦争の余波で、麻薬カルテルの勢力が浸透し、新たな問題となっているらしい。
映画の中でも殺害されたバラバラ死体の山が出てくるが、これはメキシコの麻薬カルテルが敵対勢力を始末する時の典型的なスタイルだ。
ホッパーがこの街を描いた四半世紀前からは、警官が対峙する相手も手口も異なっているのである。
本作の監督・脚本を担当するデヴィッド・エアーは、この街のインサイダーだ。
生まれはイリノイ州のシャンペーンだが、10代で親に家を叩き出され、サウスセントラルに住むいとこの元に身を寄せた。
以降、有色人種が圧倒的多数を占めるこの街で、ごく少数派の白人として、多感な青春時代の大半を過ごし、彼自身も地元ギャングと繋がりがあったという。
1968年生まれだから、正しくホッパーが「カラーズ」で描いた頃のサウスセントラルに、若き日のエアーも蠢いていた事になる。
警察、ギャング、多民族の葛藤を間近に見たこの時期の経験が、彼の創作力の原点となっているのは間違いないだろう。
因みに彼の脚本家デビュー作は潜水艦映画の「U-571」だが、これも海軍に入隊して潜水艦乗りとして服務した経験が生きている。
エアーは、自らの第二の故郷であるサウスセントラルを、街の“ウォッチャー”である警察官の視線で観察するが、カッチリした物語構造は希薄で、特に前半は彼らの日々の仕事を淡々と描写する事に終始する。
ある時は、虐待された子供を救い出し、ある時は消防士の様に火災現場で救助活動し、またある時は黒人ギャングと職務を離れた本気のどつき合いをしたり。
危険と隣り合わせの仕事故に、負傷してリタイアを余儀無くされる同僚もいるし、FBIとの縄張りを巡る葛藤もある。
もちろん警察官だって勤務が終われば普通の人だから、ブライアンもマイクもそれぞれに愛する人がいて、デートもするし、結婚もするし、当然子供だって生まれる。
緊張漲る制服でのパトロール描写と、私服で過ごす平和な勤務外の描写が、短いスパンで切り替わる事で生じる作品世界のコントラストが効果的だ。
やがて彼らの正義感は、麻薬カルテルの怒りを買い、遂に重武装したギャングたちに襲撃される訳だが、それまでが比較的淡白な分、クライマックスのサスペンスがもたらす絶望感は凄まじい。
この街の生の姿を知るエアーは、リアリティたっぷり、それでいて極めて映画的でドラマチックなバディ物として、本作をまとめ上げるのである。
面白いのはジェイク・ギレンホール演じるブライアンが、大学の法学部進学を目指していて、そのためのプロジェクトとして自分たちの日常をドキュメントしているという設定だ。
彼が常に持っている普通のビデオカメラだけでなく、制服に取り付けたクリップカメラなど、常に何らかのカメラがまわっていて、所謂モキュメンタリー的な手法が取り入れられているのだ。
もっとも、スクリーンに映し出されているのがどのカメラの映像なのかは結構アバウトで、普通の第三者視点のショットも多く、モキュメンタリーにありがちな不自然さを抑えつつも荒々しい臨場感を作り出す事に成功している。
本作の観客は、まるで自分が主人公たちの同僚として、サウスセントラルの最前線に放り出された様な感覚を味わい、映画が終わって外へ出た時、思わず安堵のため息をつくだろう。
今回は天使の名を持ちながら、幾つもの顔を持つロサンゼルスの物語という事で「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、アプリコット・ブランデー15ml、カルバドス15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
フルーツの甘い香りと柔らかい味わいが特徴的だが、蒸留酒ばかりをミックスした一杯であるので当然度数は非常に高い。
天使の微笑みだったはずが、いつの間にか悪魔に変わっている、そんな危険なカクテルである。

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J.J.エイブラムス監督による、リブート版「スタートレック」第二弾。
前作の大成功を受けて、新シリーズとしての真価が問われる今回、エイブラムスは人類の運命を握る素晴らしく強力な敵を登場させる事で、本作がジーン・ロッテンベリーのスピリットを真に継承する作品であることを証明した。
宇宙艦隊の施設を狙ってテロ攻撃を行う謎の男、ジョン・ハリソンを巡って、エンタープライズ号とお馴染みのクルーたちが再び冒険の旅に出る。
冷酷にして最強の悪役を演じるベネディクト・カンバーバッチが、圧倒的な存在感でカークらの前に立ちはだかり、若き艦長は自らに託された使命の重さに葛藤するのだ。
前作以上に旧シリーズとの繋がりが濃い作品なので、出来れば劇場版の第二作と第三作を鑑賞しておく事をオススメしておこう。
※核心のネタバレに触れています。
エンタープライズ号の艦長に抜擢されたのもつかの間、カーク(クリス・パイン)は探査任務で規定を無視した上に、部下と艦危険に晒したとして降格処分を受けてしまう。
艦長は再びパイク(ブルース・グリーンウッド)となり、カークは副官に選任される。
しかし、ロンドンで宇宙艦隊の秘密施設、セクション31が狙われる爆発テロが起こり、更に艦隊の幹部会議も襲撃され、パイクが死亡。
犯人とされた元艦隊士官ジョン・ハリソン(ベネディクト・カンバーバッチ)は、惑星連邦と敵対するクリンゴン帝国の惑星クロノスへ逃亡。
艦隊が動けば戦争となってしまうために、マーカス提督(ピーター・ウェラー)はエンタープライズを再びカークに委ね、ハリソン暗殺の為に密かに単艦でクロノスへと送り込む。
任務遂行のためにセクション31が開発した72発の新型宇宙魚雷が積み込まれるが、素姓のわからない武器を艦に載せることをスコット機関主任(サイモン・ペグ)が拒否し、カークはやむなく彼を解任する。
クロノスに飛んだカーク達に、宇宙魚雷の存在を知ったハリソンはあっさり投降するも、宇宙艦隊内部の恐るべき陰謀と、自らの正体をカークに明かす・・・
前作を超える、素晴らしい仕上がりである。
本作におけるエイブラムスの仕事は、シリーズ物の娯楽映画作りのお手本となり得るのではないか。
冒頭のいかにも「宇宙大作戦」的な未知の惑星での冒険エピソードから、地球に戻ったカークが降格され、パインにリーダたるものの在り方について説教される事で、本作のバックボーンが、嘗てのテレビシリーズに描かれた5年間の大冒険を率いるべく、“キャプテン”カークに課された成長物語なのが明確になる。
そしてハリソンによる連続テロ攻撃によって父親の様な存在だったパインを殺され、復讐心に駆られたカークが、エンタープライズでハリソン暗殺に向かうと、もはや全編危機また危機のつるべ打ちで、これぞ「スター・トレック」というスペクタクルなシチュエーションの連続である。
しかし当初、本作の敵役であるハリソンは、宇宙艦隊の元士官と説明される。
つまりは身内同士の内紛劇である訳で、なんだか壮大な世界観の割にはちっちゃな話だなと思っていると、映画は中盤で驚きの展開を用意する。
ジョン・ハリソンは偽名で、本当の名前はなんと“カーン”だと言うのだ!
そう、本作でベネディクト・カンバーバッチが外連味たっぷりに演じているのは、全てのトレッキーの脳裏に深く刻まれたシリーズ屈指の名悪役、カーン・ノニエン・シンの若き日の姿なのである。
テレビシリーズの第22話「宇宙の帝王」、そしてニコラス・メイヤー監督による劇場版第二作「スター・トレック2 カーンの逆襲」でリカルド・モンバルタンが演じ、エンタープライズと死闘を繰り広げたカーンは、元々20世紀の地球で人工的に遺伝子操作されて作り出された優生人間だ。
旧シリーズでは、人類との戦争に敗れて仲間と共に宇宙船で地球を脱出し、300年後に宇宙空間を漂流しているところを、カーク率いるエンタープライズに救助される。
前作で、旧シリーズのパラレル・ワールドとなった今シリーズでは、一足先に宇宙艦隊によって救出されていたという訳だ。
だが、クリンゴン帝国などの異星人との戦争に勝つために、カーンの人工冬眠を解き、仲間を人質にとって利用するだけ利用した惑星連邦と宇宙艦隊への憎しみが、彼をテロ攻撃へと走らせる。
優生人間の存在そのものを隠蔽したいマーカス提督は、裏事情を知らない血気盛んなカークに秘密裏にカーンを抹殺させようとするのだ。
しかもエンタープライズに載せられた宇宙魚雷には、実はカーンの72人の仲間が冷凍状態で詰め込まれており、もしも計画通りにカークがカーンを攻撃すれば、必然的に皆殺しで証拠も残らないという非人道ぶりである。
だが、マーカスの思惑に反してカークがカーンを捕らえてしまい、地球で裁判にかけると言い出し、更に魚雷の秘密を知ってしまった事で、今度はエンタープライズも体制の敵となってしまうのだ。
この皮肉な物語構造に影響を与えているのは、おそらくオサマ・ビン・ラディンとアルカイダの存在であろう。
旧ソ連のアフガニスタン侵攻に対抗するために、アメリカは莫大な金をつぎ込んでビン・ラディとその組織を育てあげ、利用した。
ところが彼がアメリカへ反旗を翻すと、一転して自らが育て上げた“怪物”を必死で探し出し、暗殺に奔走する羽目となる。
本作のロンドン攻撃とクライマックスの高層ビル街への墜落シーンが、9.11と映像的に符合する様に作られているのは明らかだ。
カークとカーン、それぞれの中にある断固とした大義の衝突が今回の対立構図であり、彼らは一見対照的に見えて実は極めてよく似ている。
二人は、いや我々人類と優生人間は、合わせ鏡の関係なのである。
そして、本筋であるカークの艦長としての成長の証も、「カーンの逆襲」を観ているとより感慨深い。
カーンを追って、クリンゴンの星系へと向かう作戦自体が、「スター・トレック」の世界で、宇宙艦隊アカデミーの候補生たちがその資質を試されるシミュレーション・テスト、“コバヤシマル・シナリオ”の類似系であり、このテストがシリーズ史上最初に言及されたのが「カーンの逆襲」だった。
カークは絶対に勝つことが出来ない“コバヤシマル・シナリオ”に唯一勝った男なのだが、それはインチキをしてプログラムを事前に書き換えていたからなのは、前作に描かれた通り。
今回カークは絶対インチキの出来ない、リアルなテストに挑まねばならないのである。
また機関故障し、地球へと真っ逆さまに落ちて行くエンタープライズを救うために、カークは放射能で汚染された機関部へと単身飛び込み、エンジンを復活させるのだが、このシークエンスは「カーンの逆襲」で、スポックが自らの死を賭して艦を救った行動の、立場を入れ替えたリメイクとなっている。
本作よりもずっと未来の話である「カーンの逆襲」の時点で、カークは既に提督となり、エンタープライズの艦長はスポックだった。
直情型のカークと論理派のスポックが、奇しくも艦長として艦とクルーを救うため、全く同じ行動をとることで、エイブラムスは本シリーズにおけるリーダーシップのあり方を簡潔に表現してみせたのである。
もちろん、旧シリーズを知らなくとも、少なくとも前作さえ観てさえいれば、十分に楽しめる作品だろうし、本作を観てから旧シリーズにトライするのも良いだろう。
その際に、本作ではカーンの存在以外にも、父マーカス提督への反発からエンタープライズに乗り組む事になるキャロル・マーカスの名前や、スールーが“艦長の椅子”の座り心地を覚えるシーンなどを記憶して置くと、旧シリーズをより楽しむ事が出来るだろう。
それにしてもエイブラムスは、ジーン・ロッテンベリーが育て上げたテレビシリーズ、そして劇場版の長い歴史を受け継いだ上で、全く新しいシリーズへと生まれ変わらせるという離れ業を見事に成し遂げたと思う。
これは勿論、タイムパラドックスを用いたパラレルワールドにしてしまうという、前作の脚本のアイディアが秀逸だった訳だが、結果的にエイブラムスは次回作へのフリーハンドを残しつつも、“ビギニング二部作”として綺麗に時の輪を閉じてみせた。
次を誰が撮るにしても、いかようにも展開可能な見事なオチの付け方である。
例えばクリストファー・ノーランの「バットマン」シリーズの様に、力技で自らの作家映画にしてしまうのではなく、シリーズ物のカラーを最大限生かしながら、思いもよらない切り口で新鮮に蘇らせるエイブラムスの器用さはハリウッドでも貴重だろう。
彼自身はこれでもう一つのビッグタイトル、「スター・ウォーズ」 へと移る訳だが、改めてリブート職人としての手腕を証明した事で、ますます期待が高まった。
今回は前作同様、宇宙艦隊の本拠地があるサンフランシスコから、歴史ある港町らしい名を持つ「アンカー・スチーム」をチョイス。
アメリカンビールと言えばメジャー銘柄の影響で薄味という印象が強いが、こちらは高温醗酵のスチームビールならではの、華やかな香りと深いコク、適度な苦味をもつ本格派。
それでいて飲みやすく、どんな料理にも合う西海岸を代表する地ビールの銘柄である。
23世紀にもたぶん存続している?

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ローランド・エメリッヒ監督による、スペクタクルなアクション大作。
謎の武装勢力によって占拠・封鎖されたホワイトハウスで、チャニング・テイタム演じるシークレットサービスの試験に落ちた警察官と、ジェイミー・フォックス演じるオバマっぽい大統領が出会い、危機に立ち向かって行くというプロットは、いわば「ダイ・ハード」話型のバリエーションだ。
エメリッヒと言えば“キング・オブ・大味”であり、もはやそれが個性となっている人だったはずだが、シェイクスピアの正体に迫った歴史ミステリー「もうひとりのシェイクスピア」で新境地を開き、本作でも良い流れは継続中。
今までは「デイ・アフター・トゥモロー」とか「紀元前一万年」とか「2012」とか、やたらと壮大な世界観とド派手な破壊描写が売り物だったが、本作の舞台となるのはホワイトハウスという比較的狭い閉鎖空間である。
作品世界が無駄に広がらない分、ディテールが充実した。
登場人物が多い傾向は相変わらずでも、物語の中でのポジションは整理され、キャラクターを活かす細かな伏線もあちこちに張られており、意外と言っては失礼ながら話の作りは丁寧だ。
全く同じ題材で、非常に似たストーリー構造を持つ「エンド・オブ・ホワイトハウス」とのそっくりさん対決でも、出来栄えは明らかにこちらに軍配が上がる。
本作でホワイトハウスを陥落させ、大統領から核のスイッチを奪おうとする武装集団の正体は、戦争で見捨てられて捕虜になったり、身内を失ったりしてアメリカ国家に強い恨みを抱くものたち。
そして彼らを操る真の悪は、大統領の提唱する中東和平に反対する産軍複合体である。
世界が平和になっては困る彼らは、国内の不満分子を密かに操って大統領を殺させ、合法的に権力を掌握するというクーデターを仕掛けるのだ。
少なくとも「エンド・オブ・ホワイトハウス」の様に、北朝鮮の跳ねっ返り部隊が奇襲攻撃で制圧するよりは、設定に説得力があるしテーマも分かりやすい。
また「エンド・オブ〜」では大統領の息子、本作では主人公の娘という違いはあれど、子どもがキーパーソンになるのも共通。
だが、中途半端に途中退場してしまう「エンド・オブ〜」よりも、クライマックスのサスペンスまで大活躍させるこちらの方がキャラクターとしての活かし方は上だ。
さらにYouTubeをアイテムとして上手く使っており、内と外での情報の取り合いとなる描写はなかなか面白かった。
まあ十一歳にして政治オタという変な娘の、「ブログなんて死語よ」には参ったけど(笑
もちろんホワイトハウスという閉ざされた空間の複雑な構造を逆手にとって、「ダイ・ハード」的銃撃戦からまさかのカーチェイスまで、アクションのバリエーションはテンコ盛り。
娯楽大作としての見応えも十分で、実に良くできた夏休み映画である。
唯一、犯人グループのハッカー男がなぜ突然地下トンネルに行ったのか、仕掛けられていた爆弾はなぜ爆発したのかが大きな謎。
あそこだけ全く前後の脈略が無く、編集ミスの様に見えてしまったのだが、一体どういう事だったのだろう。
今回は、ホワイトハウスが舞台のスカッとした映画なので、米国建国の父の一人の名を冠した「サミュエル・アダムズ ボストン・ラガー」をチョイス。
バドやミラーなどとは一線を画す作りで、マイルドでありながらもコクがあり、モルトの強い風味を味わえる。
元々はボストンの地ビールだったが、今では世界的な銘柄となった。
アダムズは合衆国独立に深く関わったボストン出身の政治家で、マサチューセッツ州知事を勤めた人物である。
因みに彼の又従兄弟のジョン・アダムズは、合衆国第二代大統領であり、始めてホワイトハウスに入居した大統領でもあるのだ。

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史上最強の身体能力を持つ不死者の軍団が大暴れする、ウェルメイドなゾンビ映画。
キャラクターやゾンビの設定を含めて、マックス・ブルックスの原作小説のストレートな映画化と言うよりは、スピンオフ的な作りになってる。
まあ原作は対ゾンビ戦争「ワールド・ウォーZ」が終結した後、ゾンビとの戦いを経験した世界中の様々な人たちから聞き取ったインタビューの纏めという、かなり特殊な構造の作品なので、そのままでは映画化は難しい。
ブラッド・ピット演じる国連調査官ジェリーを主人公にして、一本筋を通すという考えは十分アリだろう。
映画はフィラデルフィア、韓国の米軍基地、イスラエル、そして英国のWHO施設と、大きく四つのステージに分けられ、それぞれに見せ場が設定されており、平和な主人公の一家が、訳も分からないうちにゾンビパニックに巻き込まれる冒頭から、一気呵成に動きだす。
どうやらジェリーという男は、長年の紛争地調査官の経験から、行動し続けないと死ぬという信条を持っているらしく、ぶっちゃけその行動原理は恐ろしく雑なのだけど、たとえ一寸先は闇でも無鉄砲にも動き続ける彼のおかげで、とりあえず飽きる暇はない。
本作におけるゾンビの特徴は、感染後僅かに12秒でゾンビ化が完了するというスピードである。
とにかく増殖のスピードが凄まじく、過去の同ジャンルの作品と比べると集団としての脅威が顕著で、無数のゾンビの群がまるで一つの群体生物の様に、塊となって襲いかかってくるビジュアルは過去に観た事のない凄まじさだ。
特にイスラエルの都市を囲む壁にゾンビが折り重なる様に積み上がり、遂には津波が防波堤を押し潰すかの如く壁を超えて押し寄せ、あっという間に市内が阿鼻叫喚の地獄となるシークエンスは圧巻。
過去のゾンビ映画の様に、個々のゾンビに喰われそうになる恐怖よりは、例えばローランド・エメリッヒのディザスター映画の様に、津波や地割れと言ったカタストロフィのスケール感で魅せる作品に近い。
しかし、イスラエルの滅亡と続く航空機パニックのシークエンスというスペクタクルな映像の連続の後で、肝心のクライマックスではWHOの施設を舞台とした、オーソドックスなゾンビ映画へと先祖返りしてしまうのである。
別にこの部分の出来が悪いという訳ではないのだが、それまでのスケールと比べるとギャップが大きい。
聞くところによると、本作のクライマックスは本来ロシアに設定されており、実際に撮影も行われたらしい。
ところがそのシークエンスのゾンビ軍団との戦いが、余りにも血みどろの様相になってしまったが為に、レイティングへの影響を考慮し、全面カットしてゼロから撮り直したのだそうな。
当然予算も底を付き、完成した映画では明らかにそこだけカラーの違う作品となってしまった。
まあ、結果的に流血は最小限に抑えられ、従来のゾンビ映画よりも広い客層を獲得しているのは確かだろうが、できればモスクワのスプラッター決戦バージョンも、何らかの形で観られる様にして欲しいものだ。
今回は、ゾンビの故郷にしてブゥードゥーの島、ハイチ産のラム「バルバンクール 15年」をチョイス。
フランス人のバンバンクールが、コニャックの蒸留法を島に持ち込み、150年前に作り出した酒だ。
カクテルベースにも良いが、香り豊かでコクのある上質なラムは、シンプルにストレートかロックが良い。
そう言えばゾンビが酒飲むとどうなるんだろう。

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“驚嘆”とか“素晴らしい”を意味する“Wonder”という単語は“奇蹟”という意味を含む。
「トゥ・ザ・ワンダー」とは即ち「奇蹟へ」である。
なるほどテレンス・マリックは、前作の「ツリー・オブ・ライフ」で見せた、神の視点という路線を極めようとしている様だ。
一応、筋立てらしきものも無くはない。
パリに暮らすシングルマザーのマリーナは、アメリカ人のニールと運命的に恋に落ち、彼の国へと移り住むが、娘のタチアナが新しい環境に馴染めず、二人は共にパリへと去ってしまう。
だがタチアナが父親と暮らしはじめた事から、マリーナは再びアメリへと戻り、ニールと結婚するものの、二人の間にはすぐに秋風が立つ。
映画は、この二人の出会いと別離を軸に、神の所在を求めるカソリックの神父クインターナの信仰への葛藤を絡ませながら、ゆったりとしたテンポで展開してゆくのである。
マリックの映画話術におけるテクスト要素は前作よりも更に希薄化し、ストーリーはもはや大まかな流れ程度しか存在しない。
言葉と文法の代わりにあるのは、縦横無尽に動き回るカメラによって、流れる様に紡がれる映像詩だ。
テーマ的には、ラストのモノローグが全てと言って良いだろう。
マリックは私たちの周りに溢れる、男女の情愛に限らない大いなる“愛”の姿を、映像という視覚の言語によってによって浮かび上がらせようとしている。
エマニュエル・ルベツキによるカメラは相変わらず素晴らしく、オルガ・キュリレンコの見惚れるほどの美しさも相俟って、1ショット1ショットを静止させて、額に入れて眺めていたくなる程だ。
もしも写真を趣味とする人たちが観たら、どうすればこれ程に美しい瞬間を活写する事が出来るのかと嫉妬するだろう。
本作におけるカメラは空気であり、風であり、感情である、いわばマリックの小宇宙である映画の世界を満たす、エーテルと一体となった存在なのである。
唯一無二の作家性故に、普通の恋愛物と思って観に行くと痛い目に合うだろう。
何しろ主人公のベン・アフレックとオルガ・キュリレンコが、直接言葉を交わすシーンすらごく僅かしか無いのだ。
だが二人が同じ家の中にいて、互いを意識しながらも目を合わせず、すれ違いながら暮らしている事を、一つの情景として切り取った映像の何と雄弁な事か。
説明性を殆ど排した映画ゆえに、終映後耳に入って来たロビーの会話を聞くと、事実関係を勘違いしてるお客さん多数。
しかしそれでも特に問題無いのがこの映画の面白いところだ。
美しい詩は例え言葉の意味を一つ取り違えたとしても、全体としてはやはり美しいままなのである。
この映画をお酒でイメージするなら、軽やかで冷たい風を感じさせるロゼ。
今回はプロヴァンスからドメーヌ・タンピエの「バンドール・ロゼ」をチョイス。
美しい桜色に繊細な果実香、僅かに苦味を残したドライなフィニッシュは、ムシムシした夏を心から追い出すための清涼剤。
マリックの映像詩に味覚という更なる彩りを加えてくれるだろう。

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![]() [2011] バンドール・ロゼ / ドメーヌ・タンピエBandol Rose / Domaine Tempier |


1933年にラジオドラマとして始まり、以来80年の歴史を持つ往年の人気シリーズ「ローン・レンジャー」のリメイク。
基本的なキャラクターや設定は嘗てのテレビシリーズを踏襲しているが、ゴア・ヴァービンスキー監督とジョニー・デップが再び組んだ本作は、言わば西部劇版の「パイレーツ・オブ・カリビアン」でもある。
ジャック・スパロー船長がそのまま悪霊ハンターのトントとなり、オーランド・ブルームが演じたウィルは、アーミー・ハマーのローン・レンジャーとなる。
さすがに世にもハチャメチャな大珍作となっていた「ワールド・エンド」ほどではないが、第二作の「デッドマンズ・チェスト」以上のパワーは維持しており、監督が変わった「生命の泉」の普通っぷりに不満を覚えたであろう、多くの(?)パイレーツファンにとっては、溜飲を下げる快作となっている。
※ラストに触れています。
鉄道網が急速に発展する、開拓時代の西部。
無法者ブッチ・キャヴェンディッシュ(ウィリアム・フィクトナー)一味にテキサス・レンジャーの兄を殺され、自らも瀕死の重傷を負った郡検事のジョン・リード(アーミー・ハマー)は、コマンチの悪霊ハンター、トント(ジョニー・デップ)に助けられ死の淵から蘇る。
トントは幼い頃に悪霊に取り付かれた白人たちに部族を皆殺しにされ、それ以来敵を討つために荒野を彷徨っている。
正体を隠し、黒マスクのヒーロー、ローン・レンジャーとなったジョンは、ブッチに攫われた兄嫁のレベッカ(ルース・ウィルソン)母子を救出するために、トントとコンビを組んで一味を追跡する。
ところが、ブッチの背後にはコマンチの居留地に眠る莫大な銀を狙う、鉄道会社の重役レイサム・コール(トム・ウィルキンソン)の巨大な陰謀が隠されていた。
ジョンとトントは、鉄道開通の日の式典を狙い、銀とレベッカ母子を奪還しようとするのだが・・・
いやあ、なんとも痛快な映画だ。
例によってやってる事はかなりムチャクチャだが、その自由さが心地良い。
近年のメジャー系ハリウッド映画のプロットは、物語構造の科学的な研究が進み、基本的に全て三幕構成を細分化した構成にテンプレ化しているので、物語の展開はどれも似通っている。
本作もそれは変わらないのだが、「パイレーツ」シリーズ同様に人物関係や描写が無駄に複雑で、幾人もの登場人物の行動が同時進行で描かれるので、良くも悪くもテンプレ構造を逸脱気味なのである。
更に全体を年老いたトント(の蝋人形?)を語り部とした“昔話”へ落とし込む事で、結果的に「ローン・レンジャー」だけでなく、過去の西部劇の要素をごった煮的にぶち込んだ、実にフリーダムな雰囲気のエンターテイメント大作が出来上がった。
「パイレーツ」の時は、本来脇役であったジャック・スパローの存在がシリーズが進むにつれてどんどん大きくなり、キャラクター間のバランスを保つのに苦労していたが、今回は基本の目線をジョン・リードに置きつつも、物語全体を語り部であるトントに俯瞰させる構造とした事で、うまく二人を対等に扱いバディ物として成立させている。
ローン・レンジャーことジョンを演じるアーミー・ハマーはなかなかの存在感だし、トントを演じるジョニー・デップも白塗りのルックスはインパクト絶大なれど、心に影を抱えたキャラクター故に演技そのものは案外と抑え気味。
ご都合主義ギリギリのスーパーな活躍を見せる馬のシルバーや、ヘレナ・ボナム=カーター演じる義足に銃を仕込んだ女将レッドも、良い具合にアクセントとして機能している。
モニュメントバレーをはじめ、西部劇で御馴染みのロケーションで矢継ぎ早に展開する危機また危機の連続は、正しく連続活劇だ。
もちろん、圧巻は宣伝でも強調されているクライマックスの怒涛の鉄道チェイスである。
1903年に公開された西部劇の元祖といわれる「大列車強盗」以来、鉄道はハリウッド映画における重要なアクションモチーフだった。
これを大いに活用したのが、喜劇王バスター・キートンの代表作にしてアクションコメディのマスターピース「大列車追跡」であり、以降作られる多くの作品に影響を与えている。
そして1984年にはスティーブン・スピルバーグが、「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」で蒸気機関車を小さなトロッコに置き換え、スピードとスリル満点の驚きの追撃戦を見せる。
本作にもキートン、スピルバーグの影響は明らかで、トロッコを再び汽車に戻した重量感たっぷりの追いかけっこは、これら鉄道アクションの正当な進化系だ。
「ローン・レンジャー」の代名詞でもある「ウィリアム・テル序曲」が鳴り響く中、巨大な蒸気機関車同士が追いつ追われつ、列車を飛び移りながらの敵味方の工夫を凝らした攻防戦は、一瞬たりとも目を離せない。
あと「パイレーツ・オブ・カリビアン」が、ディズニーランドの同名アトラクションを原作としているのは良く知られているが、本作も同じくディズニーランドにある“ウェスタンリバー鉄道”と“ビッグサンダーマウンテン”という二つの鉄道アトラクションを思わせるのは、もちろん偶然ではないだろう。
このクライマックスの鉄道チェイスだけでも、本作を観る価値は十分あると断言できる。
だが、本作は単にアクション映画として良く出来ているだけではない。
広大な北米大陸に、蜘蛛の巣の様に広がり続ける鉄道網は、合衆国の輝かしい未来を約束するものであるのと同時に、この土地に住む先住民族にとっては侵略と収奪の歴史の象徴だ。
また鉄道工事や銀山で働かされてるのは、清朝中国からの移民労働者たちであり、実際に西部の鉄道の多くが彼らの多大な犠牲の上に築かれたのは、アメリカの黒歴史の一つである。
ヴァービンスキーは、コロンブス以来の西部開拓400年の影を、物語を構成するレイヤーの背面へと配置し、年老いたトントによって語られる物語全体を、失われた時に対するレクイエムとする事で昇華しているのである。
それを象徴するのが、物語の中で繰り返し登場する懐中時計というモチーフだ。
少年時代のトントは、銀を産出する川の源流の場所を若き日のコールである白人のプロスペクターに問われ、安物の時計と引き換えに源流への道を教える。
だが、プロスペクターたちはその秘密を守るために、トントの部族を皆殺しにするのである。
少年は、資本主義という“悪霊”の手に落ち、時の彼方に愛する者を全て失ってしまうのだ。
懐中時計はまた、鉄道会社が功労者に対して与える記念品としても設定されている。
物語の最後で、悪事を防いだとして時計を贈られたローン・レンジャーは、受け取りを拒否して大西部の荒野へと戻って行く。
そして、映画はまるで過ぎ去りし者たちの幻影を追うかの様に、年老いたトントがヨロヨロと荒野を歩く、長く物悲しいラストショットで幕を閉じるのである。
娯楽映画として大いに楽しませながら、米国が資本主義の帝国となった二十世紀から、古き良き正義が説得力を持った、ある種の理想郷としての大西部を俯瞰する。
なかなかに良く出来た作品で、正直なぜこの映画がアメリカの批評家に不評だったのか理解に苦しむ。
ジョンとトントの冒険はこれからが良い所で、是非続きが観たいのだが、どうやらその願いは叶いそうにないというのが残念だ。
今回は意外としみじみとした後味を残す作品なので、バーボンをチビチビと。
ケンタッキー州クラーモント産の、コストパフォーマンス抜群の庶民のバーボン「ジム・ビーム ホワイト」をチョイス。
創業は1795年まで遡るので、この映画の時代には既に70年の歴史を持っていた事になる。
マイルドなテイストで飲みやすく、ロックやストレートだけでなく、コーラ割りなど気軽にいろいろな飲み方がアレンジ出来るのが嬉しい。
高級品ももちろん良いけど、やはり普段の家飲みにはこういう安くて、それでも美味しい酒が良い。
そう言えば唐突に登場する“ウォビット”は一体何だったんだろう?(笑

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こんなにも中二魂を刺激される映画があっただろうか。
未知の深海から出現する巨大怪獣!迎え撃つのは人型戦闘兵器!
オタクを自認するメキシコの鬼才、ギレルモ・デル・トロが作り上げたのは、嘗ての日本製怪獣映画やロボットアニメのエッセンスを抽出し、全く新しい次元で結実させた、壮大な“特撮映画”だ。
少なくとも「ゴジラ」と「ウルトラマン」と「マジンガーZ」と「ガンダム」で育った大人気ない大きなお友達たちは、これら偉大な作品のDNAを受け継ぎ、ハリウッド超大作となって蘇った「パシフィック・リム」に馳せ参じなければなるまい。
アラスカ、香港、そして太平洋の深海へと展開する巨兵たちの死闘は、最新のテクノロジーを駆使し細密かつダイナミックに描写され、ルチャリブレの国からやって来た素晴らしきファット・オタク野郎によって、血湧き肉踊る二十一世紀の怪獣プロレスとして昇華されるのである。
西暦2020年。
太平洋の海底に突如として次元断層が開き、そこから現れるカイジュウと呼ばれる巨大生物と人類の戦いが始まって7年。
人型戦闘ロボット、イェーガーを開発した人類は、カイジュウとの戦いを優勢に進めている。
しかし、アメリカのイェーガー、ジプシー・デンジャーのパイロット、ローリー・ベケット(チャーリー・ハナム)はアラスカに出現した今までよりも巨大なカテゴリー3のカイジュウ、ナイフヘッドとの戦いで、パートナーだった兄を失う。
5年後、次々に出現する強力なカテゴリー3のカイジュウたちによって、各国のイェーガーは倒され、今や僅かに四機が残るのみ。
次元断層を閉じるため、最後の戦いを決意した環太平洋防衛軍のペントコスト司令官(イドリス・エルバ)は、残るイェーガーを香港のシャッタードーム基地に集結させ、アラスカの戦い以降、イェーガーを降りていたローリーを呼び戻す。
ローリーは、イェーガーの改良を担当していた日本人女性の森マコ(菊地凜子)を、新たなパートナーとして選び、再びジプシー・デンジャーに登場するが、二人のパイロットの精神リンクが暴走し、起動テストに失敗してしまう。
そして作戦決行直前のある夜、香港沖にカテゴリー4のカイジュウが同時に二体出現、人類の運命は風前の灯となる・・・
日本のお家芸でもあった怪獣と人間が操縦する巨大ロボットだが、両者が戦う映画は意外と少ない。
実写映画では、平成ゴジラシリーズの「ゴジラvsメカゴジラ」と、その後の所謂「機龍二部作」で、メカゴジラが対ゴジラ用の兵器として設定されていたのが記憶に新しいくらいだ。
本作と設定が最も似通っているのは、“使徒”を怪獣の一種と見なせば、やはり「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズだろう。
単に異形の侵略者vs人型兵器というだけでなく、映画のはじまりの時点で既に戦いが現在進行形であったり、世界規模の防衛組織によってロボットが管理されていたり、何かと類似点が多い。
ロボットと操縦者が精神リンクによって繋がるという設定もエヴァ的で、本作では更に操縦するのに二人のパイロットのシンクロが必要という設定が目新しく、演出上のポイントにもなっている。
ロボットのデザインは、日本製ロボットアニメの影響は顕著だが、「トランスフォーマー」の様に変形を前提としたゴチャゴチャしたディテールは無く、いかにも兵器然とした無骨なもの。
しかも、それぞれに開発国のお国柄が出ているのが面白い。
チェルノ・アルファという名前が既にやばいロシア製は、ただひたすら巨大な拳で怪獣をぶん殴るというシンプルかつ男らしいマシン。
中国のクリムゾン・タイフーンは、ド派手な赤い躯体に、丸ノコ付の三本腕で怪獣相手に功夫やらかしてくれる。
回想シーンの東京の戦いのみに、ちらっと登場する日本製第一世代イェーガー、コヨーテ・タンゴのシルエットは明らかにガンキャノンだ(笑
もっとも、これら外連味の強いマシンは、登場したときから死亡フラグの付いた脇役。
主役級はやはり、カウボーイのイメージでデザインされたというアメリカのロートルマシン、ジプシー・デンジャーと、パイロットを含めて主人公のライバル役となる、オーストラリアの最新型ストライカー・エウレカの二機種だ。
これらカッコ良いイェーガーが、いかにも凶悪そうな大怪獣たちと、がっぷり四つになって戦うのだからたまらない。
しかも技を出す時、ロボットアニメの様に、いちいち「エルボー・ロケット!」とか「エア・ミサイル!」とか叫ぶのである。
怪獣も怪獣で、イェーガーと対決する時に、「俺のほうが強い」とばかりに咆哮し、見栄まで切ってくれるのだから、もう嬉しくて泣けてくるではないか。
しかし、日本の影響は目立つものの、まんまという訳ではない。
例えば、異次元の知的生命体によって、兵器として創造されたクローン生命という怪獣の設定は、その存在そのものが地震や台風の様な怒れる自然のメタファーであり、ある種の荒ぶる神と捉える日本の、なかでも日本型怪獣のイメージを決定付けた、全盛期の東宝怪獣のあり方とは異なっている。
怪獣のデザインテイスト、特にその皮膚感覚はレイ・ハリーハウゼンのモンスター映画の影響を強く感じるし、本作における怪獣は、やはり漢字の“怪獣”そのものではなく、デル・トロの中で消化されて生み出された“カイジュウ”なのだろう。
またギミック満載のイェーガーの発進基地は、世界中の男の子を熱狂させたジェリー・アンダーソンの名作シリーズ「サンダー・バード」の秘密基地の趣もある。
実際映画のラストの献辞で、デル・トロは本作を日米の“モンスター・マスター”、本多猪四郎とレイ・ハリーハウゼンの二人に捧げており、これは言わば少年時代のデル・トロが夢中になり、イマジネーションの源泉となった要素を全て詰め込んだ、夢のオモチャ箱なのである。
物語的には、面倒臭い背景の部分は、主人公ローリーのモノローグでサクッと説明してしまい、いきなりアラスカ沖でのジプシー・デンジャーvsナイフヘッドの大バトルへ。
以降、この戦いで心に深い傷を負ったローリーの敗者復活の物語を、ヒロインにしてパートナーとなるマコや、「AKIRA」の“大佐”を元にキャラクター造形されたというペントコスト司令官との関係を絡ませながら、香港での戦い、太平洋の海底でのクライマックスと展開させる。
以前から感じていたが、菊地凜子は日本映画よりも西洋人の監督が撮った時の方が、確実に美しく見えるのは気のせいか。
今回も名前の通り凜とした雰囲気で、戦闘美少女(という年齢でもないけど)の系譜に連なるキャラクターを好演している。
また、出番は回想シーンのみで台詞も殆ど無いのだが、マコの子供時代を演じる芦田愛菜が強い印象を残す。
古今東西の怪獣映画を思い出しても、巨大生物に襲われた演技で、本作の彼女以上のものは観たことが無い。
未知の存在への自然な恐怖が観客へと伝わり、デル・トロの絶賛も決して単なるお世辞ではないだろう。
ローリーの再生と戦いが物語の縦軸だとすれば、横軸的なサブストーリーの主役が、コミックリリーフでもある怪獣学者のマッドサイエンティスト二人組みだ。
彼らは怪獣の秘密を探るため、イェーガーの操縦システムを応用し、なんと怪獣の脳と自分の脳をリンクしようとしており、そのためにフレッシュな怪獣の脳を探し回る。
今までの怪獣映画では、倒された巨体がどうなるかは殆ど描かれる事が無かったが、本作では怪獣の体が、漢方薬の原料としてブラックマーケットで高く売れるという設定がユニークだ。
なるほど、ここで舞台が漢方の本場、香港である事も生きてくるのである。
怪獣の体の切り売りという怪しげな商売を仕切る、“怪獣マフィア”として暗躍するのが、デル・トロ映画には欠かせないロン・“ヘルボーイ”・パールマンなのも嬉しい。
この怪獣の脳みそを巡るサブストーリーは、後半縦軸の話とも絡み合って機能しており、パールマンも登場シーンは少ないながらも、実に美味しいところをさらってゆく。
もちろん、多くの大きなお友達が夢見たであろう、陸海空を又にかけた怪獣vsロボットのバトルシークエンスは、さすがこのジャンルを知り尽くしたデル・トロが素晴らしい仕事を見せる。
徹底的なリアリズムというよりも、映像的なカッコ良さを突き詰め、格闘のショットは適度な高さでカメラを動かす。
3D効果もあって、CGでありながら若干のミニチュア感があるのだけど、本作においては、それが観客の記憶に刷り込まれた懐かしい興奮を呼び起こすのだ。
ハリーハウゼンのモンスター映画の軽快さと、本多猪四郎の怪獣映画の重量感、更に二十一世紀ならではのデジタル映像の臨場感を得た怪獣プロレスは、正に手に汗握る名場面の連続だ。
だが、冒頭、中盤、終盤と三回にわたる大掛かりなバトルシークエンスが、全て夜とか海の底とか暗い場所の設定なのはちょっともったいない。
テレビニュースとして映し出されるシドニーの戦いや、回想シーンの東京の戦いなどを見ると、別に怪獣が出現するのは夜とは限らないはずで、一回くらいは明るい太陽の下でのどつき合いを観たかった。
またクライマックスとなる、太平洋海底での戦いは、怪獣との戦いと、次元断層を爆破するという二つのスリルが分離してしまっているのが残念。
せっかくカテゴリー5の無茶苦茶強そうな奴が登場したのに、扱いは他の怪獣とあまり変わらず。
思ったよりあっさり殺られてしまい、続く次元断層の爆破シークエンスは、ぶっちゃけ設定も展開も既視感がいっぱいで、次に何が起こるのか全て読めてしまう。
これはやはり怪獣との戦いを最後まで絡ませ、今まで観た事の無いものを見せて欲しかったところだ。
「パシフィック・リム」はメイド・イン・ジャパンの怪獣映画やロボットアニメのムーブメントが、タイトル通りに環太平洋へと広がって行き、海の向こうで大輪の花を咲かせた、創作の連鎖の幸福な象徴だ。
映画では対怪獣戦争は12年の長きにわたって続いている設定なので、ここから例えば2013年から2025年までの年代記の様な形でスピンオフのテレビシリーズを作ったりしても面白いのではないだろうか。
ジプシー・デンジャーの戦い、チェルノ・アルファの戦いという風に、イェーガーごとに描いても面白いだろうし、若きペントコスト司令官がガンキャノンを操って、日本を舞台に奮戦する話も観てみたい。
まあしかし、それは「ゴジラ」や「ガンダム」に対する大いなるアンサームービーを受け取った日本人が、デル・トロへの返礼としてやるべき仕事なのかもしれないけれど。
いずれにしても、本作のインパクトは、やがて新たなる創作の連鎖に繋がってゆく事は間違いないだろう。
今回は、献辞を捧げられた日本の怪獣マスター・本多猪四郎監督の出身地、山形は鶴岡のお酒、加藤嘉八郎酒造 の「大山 純米吟醸」をチョイス。
柔らかな芳醇さと優しい口当たりが特徴で、バランスが良く合わせる料理を選ばない。
今の季節なら、太平洋の怪獣ならぬ日本海の海の幸を肴に、冷でスッキリと飲みたい一本だ。
ちなみに本作もクレジット途中に意外なオチがあるから、席を立っちゃダメよ。

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ある殺人事件を巡る、マザコン少年の最初で最後の究極の恋の物語。
キービジュアル以外の内容の予備知識無しで観たので、てっきり爽やかな青春成長ストーリーだと思っていた。
まさかこんな「スプリング・ブレイカーズ」と「青い体験」と「悪魔のいけにえ」が合体した様な映画とは思わなかったよ。
1969年の夏という設定が良い。
公民権運動は既に大きな成果を挙げている時期だが、いまだに差別は色濃く残り、本作でも人種間の微妙な関係が、いかにも何かが起こりそうな雰囲気を醸し出す。
物語の背景となるのは、警官を殺害したとして、沼地に住むヒラリーという粗野な男が死刑判決を受けた事件。
主人公のジャックは、フロリダの田舎町のローカル新聞社の息子で、両親の離婚で幼くして実母を失い、父の後妻に納まろうとしている女とはわだかまりを抱えている。
彼は、マイアミで新聞記者をしている兄のウォードと、同僚のヤードリーの取材活動を手伝う事になり、事件と関わってゆくのだ。
冤罪を疑うウォードは、ヒラリーと獄中結婚したシャーロットという軽薄な女に協力させて、彼と面会を重ねる作戦をとるが、やがてジャックは年上のシャーロットに恋心を抱いてしまうのである。
「プレシャス」で脚光を浴びたリー・ダニエルズ監督は、事件の謎解きはあくまでも背景に留め、むしろシャーロットを軸にした男女の複雑な因縁話にフォーカスしてゆく。
ここで、登場人物たちの心象を象徴するのが“水”のモチーフだ。
ジャックの住む街は、海沿いに広大な沼地が広がり、ヒラリーの一族はまるで世捨て人の様に、ボートでしか行けない人里離れた沼の奥に暮らしている。
ジリジリと照りつける真夏の太陽に、むせ返る様な湿気。
沼地は強烈な引力で事件に関わった人々を惹きつけ、迷路の様な水路に彷徨う彼らは、シャーロットを触媒として、まるで沼の毒気にあてられたかの様に次々と泥水へ落ち、隠していた内面を暴き出される。
有能な事件記者であるウォードは、現代よりも遥かにタブー視されていた同性愛者という一面を持ち、ヤードリーもまた白人社会でのし上がるため、目的のためなら手段を選ばない隠された顔を露呈する。
むろん彼らが救おうとしているヒラリーも、一筋縄では行かない多面性を秘めているのである。
そして人々の思惑が交錯し、遂にヒラリーが法の頚木を逃れた時、ジャックもまた愛する女のために自分をさらけ出し、腐臭漂う泥水の中を這い蹲る事となるのだ。
嘗て水泳の選手だったジャックは、いつもきれいなプールで泳いでいた。
だが、一夏で濃密極まりない一生分の経験をしたジャックは、純粋だった頃の透明な水には、もう二度と戻れないのである。
恋の妄想に耽る童貞ジャックを演じるザック・エフロンや、ジョン・キューザックのイカレキャラも良いが、やはり本作の白眉はニコール・キッドマンのビッチっぷりだだろう。
ミア・ワシコウスカの母親役を演じた「イノセント・ガーデン」でも、恋愛体質のキャラクターを好演して映画を引き締めていたが、本策では全ての男たちを虜にし、文字通り世界と共に朽ち果ててゆく。
46歳にして強烈な色香を放つこのファム・ファタールは、彼女にしか演じられまい。
えげつない話のえげつないキャラクターだが、本作のキッドマンには間違いなく目を離せない映画力があるのだ。
今回は暑苦しい映画なので、清涼なビールの代表「コロナ エクストラ」をチョイス。
バブルの頃、カットしたライムを突っ込んでラッパ飲みするのが流行したけど、これやるとリサイクルの時に面倒なので、最近は絞り汁だけ流し込むのが主流かな。
非常にライトな味わいで、特に熱帯夜の続くこの季節に飲みたくなる一本だ。

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五人の監督による、オムニバスアニメーション映画である。
幻想の世界への扉を開くのは、「アニマトリックス」の森本晃司監督によるオープニングアニメーション。
以下、大友克洋監督「火要鎮」、森田修平監督「九十九」、安藤裕章監督「GAMBO」、カトキハジメ監督「武器よさらば」の四作品によって構成されている。
タイトルは大友克洋の短編集と同一だが、これが直接の原作という訳ではなく、それぞれの作品は何らかの形で「日本」をモチーフにしている以外完全に独立した作品で、物語的にも手法的にも共通点は無い。
ちなみにタイトルは「SHORT PIECE(短編)」ではなく「SHORT PEACE(束の間の平和)」なのだな。
大友克洋の関わった劇場用オムニバスアニメーションは、過去に「迷宮物語」と「MEMORIES」があるがいずれも同じようなスタイルであった。
最初の「火要鎮」から「GAMBO」までが時代劇、最後の大友克洋の短編漫画を原作とした「武器よさらば」だけが未来を舞台とした物語となっている。
江戸時代の所謂“振袖火事”をモチーフとした「火要鎮」(こう書いて「ひのようじん」と読むとは、この映画で初めて知った)は、全体公開より先に文化庁メディア芸術祭で大賞を受賞しており、既にあちこちで上映済み。
改めて観てもやはりそのビジュアルは圧巻である。
まるで絵巻物がそのまま動き出したような構成は、主人公男女の幼少期から青年期までを描く前半のパートは動きを抑え、物語は基本横スクロールで展開し、画のパースまでも絵巻物風の平行パースで描かれる。
そしてアクション編となる後半には、それまでの平面の頚木を振り切るように、カメラは一気にダイナミックに動き始めるのである。
正しく日本でしか生まれ得ない、独特のアニメーションと言えよう。
続く「九十九」は、嵐の山中雨宿りしたお堂で、古い器物に宿るとされる、九十九神と出会った男の話。
打ち捨てられた傘や着物が、男の技によって美しく蘇る寓話で、どこか「日本昔ばなし」にありそうなムードがある。
実際この話の話型は、狐狸妖怪に囚われた人間が、その優しさと才覚によって窮地を脱するという民話のものをそのまま踏襲しており、本編中でも一本の短編としてはもっとも堅実に構成されたエピソードといえるだろう。
対照的に「GAMBO」は相当な異色作である。
舞台となるのは十六世紀の東北で、古の日本で何故か白クマと赤鬼が大バトルするのだ。
突如として天空から舞い降り、村を襲う巨大な赤鬼は、攫った人間の女に自分の子を身ごもらせる。
そして白クマはどうやら神の使いらしいのだが、スサノオ神話や大魔神よろしく村に最後に残った幼い少女の願いを聞き入れ、赤鬼を倒すべく死闘を繰広げるのだ。
赤鬼が宇宙人である事を示唆する描写もあり、二頭の怪物の戦いは、まるでアニメ版「フランケンシュタイン対地底怪獣」あるいは「サンダ対ガイラ」の趣がある。
そして最終作となる「武器よさらば」は、唯一の原作もの。
大友克洋の同名短編を比較的忠実に映像化した作品で、これまでの三作と異なり、このエピソードだけが未来の日本を描くSFとなる。
廃墟と化した近未来の東京を舞台とした五人の人間vs自立型無人戦車の戦いは、戦争アクション映画としてなかなか良く出来ている。
神出鬼没でターミネーター並みに不死身の戦闘マシンとの戦いは、手に汗握らされ、ワンシチュエーションものの短編として上々の仕上がりだ。
これら四編、オープニングを加えれば五編の作品は、それぞれに個性的で作家性に富み、デジタル技術を駆使したビジュアルも、現代日本アニメーションの水準の高さを十二分に示すものだ。
しかし、これらを纏めて一本のフィーチャー作品として観ると、どこか物足りなく感じるのも事実なのである。
単純に、一編一編の尺の短さが原因ではあるまい。
もっと短い作品だって、“映画を観た”という満足感を与えてくれる作品はいくらでもある。
本作に感じるのはもっと根本的な、肝心のところを見せてくれない寸止め感だ。
特にそれは「火要鎮」と「GAMBO」に顕著であると思う。
「火要鎮」で言えば、静的な前半が終わり、遂に火事が始まって、「さあこれから主人公二人はどうなるのか!」という所で、エピソードは唐突に幕を閉じてしまうのだ。
純粋な短編なら、あえてオチを作らずここでスッパリ切るのもありだろうと思う。
だが、五作一纏めの一編となると、戸惑いの整理が出来ないまま、「はい次の話ね」と展開されてしまい、結果的にモヤモヤが穴として残ってしまうのである。
まるでコース料理を楽しんでいて、また食べ終わってないのに、強引に皿を下げられて次の料理が運ばれて来た様な感覚だ。
「GAMBO」の場合は、物語に一応のオチはついているものの、もっとも面白そうな世界観に全く触れられず終わってしまう事で、同様の穴を感じてしまう。
まあ、これはあくまでも全てのエピソードが繋がって、一本の映画として観た場合の印象である。
実際「火要鎮」を単体で観た時は、この様な物足りなさは感じなかった。
オムニバスという構造の難しさを感じさせる部分はあるが、それぞれのエピソードは良く出来ている。
どちらかと言えば、物語の面白さより個性的な“画力”で魅せる、ユニークな実験映画五本立てと思えば、十分楽しめる作品だと思う。
今回は日本のアニメ職人の手練れの技を楽しめる作品なので、酒の職人の逸品をチョイス。
石川県の車多酒造の「天狗舞 古古酒純米大吟醸」をチョイス。
純米吟醸ならではの芳醇な吟醸香、やわらかな旨味はもちろんだが、この酒のハイライトはやはり熟成が生み出す深いコク。
日本酒の職人の技を十二分に味わえる一本だ。

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アニメーションから実写、インディーズからハリウッドまで、軽々とボーダーを踏み越えて作品を作り出す、異色の映画作家リチャード・リンクレイターが、実際の殺人事件の顛末を描いた作品だ。
もちろん彼が撮るのだから、ただの劇映画にはあらず、例によって作りは相当にユニーク。
本作のベースとなった事件は、1996年に、テキサスの田舎町カーセージで起った。
39歳の元葬儀業者バーニー・ティーディが、81歳の資産家の未亡人マージョリー・ニュージェントを殺害した容疑で逮捕されたのだ。
ところが、バーニーが起訴されると、町中の人が「あんな良い人が人殺しなんてする訳ない」「被害者が悪かったに決まっている」と、なぜか被害者を非難し、容疑者を擁護する声が街中で沸き起こるのである。
彼の人気が余りにも高かったために、これでは陪審員の公正さを疑われると、わざわざ遠く離れた別の地域で裁判を行う羽目となってしまう。
この事件は、“殺人犯が大人気!”と当時アメリカで結構な話題となり、日本のバラエティ番組でも過去に取り上げられた事がある。
私も先日その番組の再現ドラマを観ていたのだが、リンクレイターの映画まで再現ドラマの様な作りだったのには驚いた。
とは言っても、これはまんま再現ドラマという訳ではなく、更にモキュメンタリーとドキュメンタリーを合体させ、現実とフィクションが交じり合う不思議な作品だ。
主人公のバーニーを演じるジャック・ブラックや、被害者マージョリーのシャーリー・マクレーン、地方検事のマシュー・マコノヒーら、事件とその後の裁判の主だった関係者はプロの役者が演じ、役柄の人物という設定でインタビューを受けたりする。
一方、バーニーと直接的に関わらない一般の人々は、現実のカーセージの住人たちが “Townsperson” として出演し、実際にインタビューに答えているのである。
リンクレイターは、この事件を扱った多くの媒体が着目した「バーニーとは何者か?なぜ彼は殺人者となったのか」にはあまり興味が無い様だ。
もちろん、関係者の証言による事実関係は、記録通りに淡々と再現されているのだが、彼の人となりや事件の動機に関しては、既に知られている事と同じで、特に新しい解釈は提示されない。
本作の面白さは、やはりフィクションとノンフィクションの混在、特にフィクションの側が事実関係を冷静かつ多面的に捉えているのに対して、ノンフィクションの側、つまり現実のカーセージの人たちの言葉は、バーニー・ティーディという人物のごく一面的な印象論、事実の断片から彼らが自分たちの心の中に作り上げた人物像から出ていない事である。
彼らが信じているのは、バーニーが被害者である街一番の嫌われ者、マージョリーの資産を湯水の様に使い、町に寄付金をばら撒いて作り上げた、“愛すべきバーニー”という虚像のキャラクターだ。
それは陪審員裁判で、今度は検察官によって作り上げられる“悪魔の様なバーニー”の対となり、結局人間にとっての真実とは必ずしも客観的事実によるものではないという事が明確となるのである。
現実と虚構を同時に内包する、フェイクの再現ドラマという独特の構造とする事で、リンクレイターは、ここに様々な“演出”によって浮かび上がる劇場国家アメリカの、シニカルな縮図を作り上げようとしたのではないだろうか。
客観的な構造故にキャラクターとは距離感があるので、普通の映画の様に物語に没入は出来ないが、試みとしてはユニークでなかなか面白かった。
今回はテキサスはシャイナーの地ビール、「Shiner Bock(シャイナー・ボック)」 をチョイス。
味そのものはわりとあっさり目のアメリカンスタイルなのだが、このビールの特徴は炭酸の強さ。
シュワーッと爽やかに喉に広がる風味が熱く乾燥したテキサスの風土にピッタリだ。
残念ながら日本では正規輸入されていない様だが、テキサスへ行く機会があれば、現地の郷土料理と一緒に是非お試しあれ。
ビールはやはり地の物が一番美味いのである。

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