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出生時に病院で息子を取り違えられた、二組の家族の姿を描く骨太の人間ドラマ。
デビュー作の「幻の光」以来、市井の人々の様々な葛藤を描いてきた是枝裕和監督は、もしも愛した息子が他人の子供だったら?という状況を通して、親は無条件で子供に愛を注げるのか、家族にとって本当に大切なものとは何だろうと問いかける。
選ぶべきは血か、それとも共有した時間か。
実際に同年代の子供がいる人はもちろん、全ての観客にとって、自分に置き換えて究極の選択を迫られる様な映画だ。
主人公のいけ好かない金持ち父さんを福山雅治、対照的な貧乏父さんをリリー・フランキーが好演。
二人の妻を、それぞれ尾野真千子と真木よう子が演じる。
子供への愛に関する男と女の感覚の違いも面白い。
大手建築会社に務める野々宮良多(福山雅治)は、妻のみどり(尾野真千子)と息子の慶多(二宮慶多)と都心の高層マンションで三人暮し。
人生の勝ち組としてエリート街道を迷うことなく突き進んできた。
ところがある日、病院からの連絡で息子が出生時に取り違えられていた事が判明する。
相手の家族は田舎街で小さな電気屋を経営する斎木雄大(リリー・フランキー)とゆかり(真木よう子)夫妻。
決して裕福とは言えない子沢山の一家だ。
病院は子供の交換を勧め、二組の家族は戸惑いながらも子供がお互いの家庭に慣れる様にと交流をはじめる。
そしていよいよ子供を交換する事になるのだが・・・・
是枝監督らしい、全く奇を衒った所の無い、どこまでも丁寧な作品である。
運命の悪戯によって、取り違えられてしまった二人の息子。
映画は、血のつながりか、共に過ごした歳月かの選択を迫られる二つの家族の一年を追いながら、じっくりとこの難しい問題の答えを探ってゆく。
もちろん、100組の家族がいれば100通りの家族の姿がある。
子供の取り違えだって、例えば赤ん坊の段階で発覚するケースもあれば、この映画の様に数年たって分かる事もあり得るだろう。
解決法だって家族の数だけあるはずだ。
少し前に、ブラジルで起こった事件の顛末をテレビで見たが、1歳の時に取り違えが分かった二組の夫婦は、息子を交換した上で近所に住んでお互いの姿を見られるようにしているという。
この映画は、ある種のシミュレーションとして、もしも自分に同じ事が起こった時どうするのかという問を通して、家族とは何かを考えさせる。
生まれてから経過した時間が6年という設定が絶妙だ。
ブラジルのケースの様に、子供がまだ一歳程度なら交換という選択の方が親にとっても子供にとっても傷は小さいというのはなんとなく理解できる。
しかし6年も経ってしまうと、もはや子供の人格もある程度出来上がっているし、当然親子の間の情も共に過ごした時間の分深まっている。
生物学的親子でないから、明日から赤の他人ですと割り切れる訳もあるまい。
逆に例えば10年とか15年が経ってしまえば、もう子供といっても半分大人な訳で、むしろ自分の人生を決めるのは彼ら自身、親による子供の交換はほとんどあり得ないだろう。
6年という歳月が、本作の登場人物たちの苦悩や葛藤の核心なのだ。
キャラクター造形は、是枝作品らしくしっかりと作り込まれている。
福山雅治演じる野々宮良多は、息子の取り違えが分かったときに開口一番こう言い放つ。
「やっぱり、そういう事か」
良多は今時珍しい仕事中毒のサラリーマン。
妻子と都心の高層マンションに住み、勤務先の大手建築会社では巨大プロジェクトを仕切り、家族との時間はほとんど持たない。
人生の勝ち組を自認する彼は、ひとり息子の慶多がおっとりとした性格で、自分のような強い男に育っていない事に内心苛立っていたのだ。
エリート意識丸出しで人を見下し、金でなびく相手と見るや、札束で頬を叩くような事も平気でする。
ダメ押しでイケメンという、ぶっちゃけ傲慢で鼻持ちならない男である。
対する斎木雄大は、リリー・フランキーがびっくりする位にはまり役。
彼は田舎町で今にも潰れそうな古い電機屋を営んでおり、妻のゆかりとの間に問題の子である長男の琉晴を筆頭に三人の子供がいる。
どこからどう見ても裕福とは言いがたく、取り違えが発覚しても、子供をどうするかよりも先に病院からいくら慰謝料を取れるかを皮算用する様な、子煩悩だが雑でセコイおっさんだ。
乗っている車も良多がレクサスの高級車なら、雄大は営業用の軽ワンボックスというのもいかにもなチョイス。
二人の父は分かりやすい対照を形作るが、金持ちだけど嫌な奴と貧乏だけど良い人という単純なステロタイプに陥らないように、雄大の側にもちょっとだけネガティブに見える部分を持たせており、観客はどちらの家族からも適度な距離をもって映画を眺める事が出来るようになっている。
そして挫折を知らないような良多の内面を徐々に描き、一見冷酷にも感じられる彼の行動の“なぜ”を明かしてゆく構造はさすがに上手い。
良多は幼い頃に自らも実母との別れを経験しており、それ故に慶多や琉晴がこれから乗り越えなければならない感情を良く知っている。
彼は完璧な夫、父という傲慢な仮面の下で自分なりに葛藤し、苦しみながら内なる父親像を模索しているのだ。
一方、男たち、特に良多がキッチリした決着をつけようとしているのに対して、女たちの反応は異なる。
彼女らもセレブ妻のみどりと切符の良い母ちゃんのゆかりとキャラクターは異なるものの、共に直感的に子供たちを愛し、むしろ現状維持を願っている。
これから成長するにしたがって、子供たちはどんどん相手の家族に似てくる。
それでも今まで通り愛せるか?という良多に対して、ゆかりは「愛せますよ、もちろん。似てるとか似てないとか、そんなことに拘ってるのは、子どもとつながってるって実感のない男だけよ」と即答するのである。
良多の頑なさに追い詰められ、苦悩を募らせるみどりも同様だ。
「やっぱり、そういう事か」という言葉に、歳月よりも血縁というはじめから結論ありきの良多の気持ちを感じ取っていたみどりは、遂に自らの胸のうちをぶつける。
四人の親たち、そして二人の息子の、お互いを思う気持ちのぶつかり合いに、ハラハラして物語の帰趨を見つめる観客の心も揺れ動く。
むろん、なぜ登場人物が子供たちに真実を伝えないのか、伝えた上で答えを共に探さないのかという疑問もある。
真実を明かさない事で生まれる矛盾を、端的に表現しているのが、子供を交換した後で良多が琉晴に自分を「パパ」と呼ぶようにと言うシーンだ。
「パパちゃうよ?」と言う琉晴に、良多はそれならばと「向こうはパパとママ、こっちはお父さんとお母さんと呼ぶんだ」と子供からすれば意味不明な事を要求する。
だが「なんで?」と聞き返す琉晴に、良多はきちんとした答えを返せず「なんでだろうなあ・・・」と言葉を濁すことしか出来ない。
真実を語っていないのだから当然である。
しかし、大人にも重すぎる事実を、子供に全てをオープンにして、彼らにも責任を負わせるという選択は、日本人の多くにとってリアルには感じられないのではないか。
生みの親と育ての親、血縁と歳月、そのどちらも真実には違いなく、何をどうすれば正しいのかという明確な線引きは難しい。
最も残酷な事実をうやむやなままに、可能な限り状況を繕おうとするのは良くも悪くも日本人の国民性と言えるだろう。
この映画の、優しすぎて真実を語る事を躊躇する大人たちもまた、リアルな日本人なのだ。
終盤の良多と慶多の長い散歩は本作の白眉だが、彼らの心が通じ合う様も良い意味で曖昧で、決して明快な言葉が紡がれている訳ではない。
その意味で、この映画は極めて日本的な物語であって、実に邦画らしい邦画だと言える。
海外での相次ぐ受賞は、むしろこの辺りのドメスティックなテイストが評価されたのではないかと思う。
家族とは単に結婚したとか子供が生まれれば、それだけで家族になれる訳ではない。
そこには共に積み重ねた歴史が必要だ。
この映画に描かれた二組の家族は、過酷な試練に直面し、それぞれに家族の一員として成長する。
そして静かな葛藤の末に、良多もまた自らを「できそこない」と認める事で、はじめて本当の“父”となり、新たな歴史を紡いでゆくのである。
本作は今年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞したが、その時の審査員長だったスピルバーグのプロデュースで、米国でのリメイクが決定したそうだ。
思うにハリウッド版では、家族の間で真実の扱いはある程度変わってくるのではないだろうか。
おそらく子供に真実を早々に明かす展開になるような気がするが、それぞれの文化の家族観の違いが見られるかと今から楽しみである。
今回は主演の福山雅治のCMつながりでアサヒビールの「スーパードライ ドライプレミアム」をチョイス。
正統派ビールファンには邪道と言われる事もあるスーパードライだが、90年代初頭に世界中にドライビールのブームを巻き起こし、ジャパニーズビールの認知度を一気に高めた立役者であり、実際高温多湿の日本の気候で飲めば、実に美味しいビールであると思う。
ドライプレミアムはオリジナルのスーパードライよりも味に深みがあり、切れ味が鋭いのが特徴。
豊潤の秋に飲むにはオリジナルよりも合うだろう。

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アイルランドの異才ニール・ジョーダンが、ハリウッドで撮った「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」以来20年ぶりに手がけたヴァンパイアもの。
個人の中の秘められた歴史というのは、ジョーダンがほぼ一貫して描いているものだと思う。
その意味で、永遠の時を生きる不死者というモチーフは実に彼らしい。
誰にも言えない大きな秘密を抱えた少女が、200回目の16歳に出会ったはじめての恋。
宿命にあらがい、少女が自らの足で新しい人生へと踏み出す物語を、ジョーダン節全開のゴシック調の耽美な映像が彩り、青春の切ない情感を呼び起こす。
永遠の16歳を生きる慈悲深き赤頭巾のヴァンパイアを、「ラブリー・ボーン」のシアーシャ・ローナンが演じる。
現代のアイルランド。
人の血を吸う事でしか生きられないヴァンパイアの少女エレノア(シアーシャ・ローナン)は、母親のクララ(ジェマ・アータートン)と共に、正体を隠して町から町へと旅をしている。
とある海辺の保養地へと流れ着いた二人は、廃業した下宿屋“ビザンチウム”を新たな居とすると、クララはそこで売春宿を開業する。
一方エレノアは、白血病で余命いくばくも無い青年フランク(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)と出会い、自らの長い人生の物語を彼に託す。
それはまだ少女だったクララが、運命の人ダーヴェル(サム・ライリー)と出会った200年以上前に始まる物語・・・
タイトルの「ビサンチウム」にはいくつかの意味がある。
まずは映画の舞台となる古く退廃的な下宿屋の名前、かつての東ローマ帝国の首都、現在のトルコのイスタンブールの古名、そしてアイルランドの詩人W・B・イェイツの「Sailing to Byzantium(ビザンチウムへの船出)」の引用だ。
その冒頭はこんな感じ。
“That is no country for old men. The young
In one another's arms, birds in the trees
—Those dying generations—at their song,
The salmon-falls, the mackerel-crowded seas,
Fish, flesh, or fowl, commend all summer long
Whatever is begotten, born, and dies.
Caught in that sensual music all neglect
Monuments of unageing intellect.
あれは老いた者の国ではない。
恋する若者たち、木々で囀る鳥たちもまた、
死する運命の世代。
鮭が上る滝も、鯖の群れる海も、
魚も、肉も、鶏も、長い夏の間に命を受け、生まれ、死するもの全てを称える。
官能の音楽に囚われ、不滅の知性の記念碑に目を向けるものはいない。(ノラネコ拙訳)”
コーエン兄弟の「ノーカントリー」の原題にも引用されたこの詩で、イェイツは命の有限を忘却し、あたかもひと夏の祭りの様に生を燃焼する事が称えられる世界に、老人の居場所が無いと嘆く。
そして不滅の知性の記念碑がある理想の世界、 すなわち“ビザンチウム”へと旅立つのである。
イェイツは、この既に存在しない古の都を人間の精神の永続性を象徴する理想郷として描写しているが、全文を読むと、本作がこの詩に強くインスパイアされている事がわかる。
老いた詩人は、有限のこの世界から生と死を超越した永遠の世界への旅立ちたいと願うが、ヴァンパイアであるエレノアにとって、それは逃れられぬ宿命だ。
舞台となる建物の名が象徴する様に、彼女は既に現実世界から離れ、ビザンチウムに属する存在なのである。
だが、そこは理想郷というにはあまりにも過酷。
血を吸わなくては生きてゆけないから、定期的に人を殺さなければならない。
自ら死と安息を望むものだけを殺し、出来るだけ静かに生きてゆきたいエレノアはしかし、正反対のワイルドな性格の母クララの庇護から抜け出す事は出来ず、ずっと“子供”を演じ続ける。
彼女は無限の時という、理想郷の囚人なのだ。
ジョーダンは、エレノアの葛藤を軸に、絡み合う三つの愛の物語を交錯させる。
一つ目はもちろん、永遠の生という孤独の中で、支えあい共に暮らしてきたエレノアとクララの母娘の物語。
クララが売春宿を経営するのも、秘密に気づいた男を殺すのも、みな愛するエレノアを守るため。
だが、歳をとらないヴァンパイアゆえに、彼女らの関係も200年間変わらず、母は娘に執着し子離れする事が出来ない。
二つ目は、不思議な縁によって出会ったエレノアと不治の病で余命わずかなフランクの最初で最後の恋。
間も無く命を終えようとする青年のナイーブな心に、通じ合うものを感じたエレノアは、書き上げては破り捨てている自らの人生の物語を、はじめて彼に読ませるのだ。
彼ならば、曇りない目で本当の自分を見てくれると信じて。
だが彼が彼女の物語を受け入れ、孤独を共有する事は、クララにとっては娘が自分以外の拠り所を見出す事に他ならないのである。
そして、三つ目は全ての始まりである、クララとダーヴェルの愛。
しかしこの二人の間には、ヴァンパイアの掟という壁が横たわる。
不死者の“同盟”は男しかメンバーになることは許されず、女の存在はタブー。
特にエレノアはクララが密かに儀式を受けさせてヴァンパイアにしたので、同盟は彼女らを“処分”するためにずっと後を追っている。
クララとダーヴェルが再会するという事は、彼女らが同盟の手に落ちる事を意味するのだ。
同盟の正体は明かされないが、物語の終盤で十字軍がビザンチウムから持ち帰ったというある物が登場する。
ビザンチウムに行った十字軍と言えば、悪名高き第四次十字軍である。
本来イスラムから聖地エルサレムを奪還するというのが十字軍運動だが、この第四次十字軍はキリスト教国である東ローマ帝国を攻め、街を略奪し焼き払い、女性たちを強姦し、領土をバラバラに分割するなど悪行の限りを尽くし、結果的に小アジアにおけるキリスト教勢力を衰退させた。
キリスト教徒同士が戦ったこの戦争がヴァンパイアの同盟のルーツだとすると、女性を忌み身内同士で殺しあう同盟の性格もさもありなん。
それぞれが干渉しあう三つの愛は、エレノア、クララ、フランク、そしてダーヴェルという四人の主要登場人物全員の決意の物語として収束する。
人生の次の一歩を踏み出す決断をするのは、一人ではないのである。
永遠の生は、死を覚悟したものだけに与えられるという。
それまでの自分を脱ぎ捨て、生まれ変わる瞬間、滝が血で染まるのは新たな命の象徴か。
しかしビザンチウムへと渡った彼らは、何時しか永遠の意味を見失ってしまっていた。
これはそれを取り戻す物語であり、イェイツが理想郷に欲したのは芸術と英知だったが、ジョーダンの場合は愛だったといことだろう。
劇中で、エレノアが纏っている赤いフードが印象的だ。
思えば、ジョーダンの出世作の「狼の血族」もグリム童話の「赤ずきん」をモチーフに、大人の女性へ脱皮しつつある思春期の少女を描いたダークファンタジーだった。
ヴァンパイアは永遠の時を生きるが、本来赤頭巾が象徴する少女時代は短い。
たとえ見た目は16歳のままでも、止まった時計の針を動かし、前に進むことを決めたエレノアは、200年に渡る少女の時を終えたのである。
今回は、もうちょっと大人になったシアーシャ・ローナンのイメージで「レッド・ルシアン」をチョイス。
氷を入れたグラスに、ウォッカ40mlにチェリー・ブランデー20mlを加えて軽くステアする。
チェリー・ブランデーの柔らかい香りが優しい印象だが、アルコール度数はかなり高く、これを飲んで血を吸われても気づかないかもしれない。

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クリント・イーストウッドが1992年に監督・主演した「許されざる者」は、西部劇のマスターピースにして、映画史にその名を刻む傑作中の傑作である。
テレビの「ローハイド」からマカロニウェスタンを経て、数多くのガンマンを演じてきたイーストウッドが、10年以上企画を暖めて作り上げた“最後の西部劇”は、もはや勧善懲悪的な二元論が説得力を持たなくなった20世紀末に、老ガンマンが銃を置く瞬間を描き、フロンティアの神話としての西部劇の終わりを印象付けた。
そして21年後に李相日監督によって作られたリメイクもまた、オリジナルと甲乙つけがたい見事な仕上がりである。
単にイーストウッド版をなぞるだけでなく、基本プロットは忠実ながら、巧みにオリジナリティを加えて、日本でしか作りえない作品に換骨奪胎しているのだ。
※ラストに触れています。
1880年の秋。
戊辰戦争の幕府軍の残党、人斬り十兵衛こと釜田十兵衛(渡辺謙)は、女子供ですら容赦なく斬り捨てる、冷酷な剣を振るうと恐れられた男。
今では北海道の奥地へ落ち延び、二人の幼子と共に人知れず静かな生活を送っている。
そこへ嘗ての盟友であった馬場金吾(柄本明)が訪ねて来て、女郎たちが仲間を切り刻んだ開拓民二人の首に巨額の賞金をかけたので、一緒に殺りにいこうと誘う。
一度は断った十兵衛だが、農作物の不作で子供たちに与える食事すら事欠く貧困から、最後の仕事を決意する。
やがてアイヌの血を引く青年、沢田五郎(柳樂優弥)も案内役として仲間に加わり、賞金首のいる鷲路を目指す。
だがそこは、町の秩序を保つためなら暴力もいとわず、逆らう者は徹底的に痛めつけ見せしめにする、警察署長の大石一蔵(佐藤浩市)が恐怖で支配する町だった・・・
時代劇がハリウッドでリメイクされるのは、黒澤明の「七人の侍」を翻案した「荒野の七人」を始め数多くある。
クリント・イーストウッドの出世作である「荒野の用心棒」も、黒澤の「用心棒」の(無許可)リメイクである事は良く知られているが、その逆に西部劇を時代劇化するのは珍しい。
特にアカデミー作品賞を受賞した作品が、日本でリメイクされるのは映画史上初めてとの事である。
時代設定の1880年はオリジナルと同一。
まったく同じ時代、同じタイトルを持ちながら、日米二つの「許されざる者」の表情は大きく異なる。
もっとも、物語の基本的な流れはオリジナルとさほど変わらない。
嘗て、その名を聞くだけで相手を震え上がらせた悪名が、生活苦から再び殺しを決意する。
同行者は昔なじみの老いぼれと、跳ね返り気味の若者で、殺しの相手は女を切り刻んだ小悪党二人組という簡単な仕事。
ところが、彼らが住んでいるのは、絶対権力を振るう保安官(警察署長)が牛耳る町だった、という辺りはまったくと言って良いほど同じだ。
本作の独自性は、登場人物たちが抱えている過去の呪縛、即ち舞台となる日本、中でも北海道という土地の持つ独特の歴史にある。
国の歴史は人の歴史。
本作の登場人物は、殆どイーストウッド版と対応する様に作られているが、それぞれの辿ってきた人生は当然異なる。
李相日監督自身によるアダプテーション脚本(脚色)は、明治維新の最終段階となった戊辰戦争、そして元々アイヌの土地であった北海道入植の歴史を色濃く反映させているのだ。
まずオリジナルの主人公であったウィリアム・ビル・マニーは、若い頃に強盗や殺人など悪の限りを尽くした男である。
その後妻と出会った事で銃(剣)を置き、真人間へと生まれ変わるという設定は同じだが、リメイク版の釜田十兵衛は別に悪人ではなく、明治維新という激動の時代あって、一剣士として忠実に自分の仕事をしたに過ぎない。
女子供も容赦しないという伝説も、新政府軍によって捏造されたものである事が劇中で言及されている。
このどこか土方歳三をイメージさせるキャラクターが背負っているのは、冷酷な人斬りとしての汚名だけでなく、過去に縛られ時代に忘れられた者の悲しみだ。
十兵衛のみならず、本作に登場する和人の男たちは、みな一様に明治維新の傷を引きずっている。
オリジナルでモーガン・フリーマンが演じたネッド・ローガンにあたる馬場金吾しかり、ジーン・ハックマンのダゲット保安官に対応する大石一蔵も、刀を持って町に入ろうとして大石にボコボコにされる元長州藩士の北大路正春も、そして十兵衛らの標的となる開拓民の兄弟もまた、戊辰戦争で敵味方として戦ったラスト・サムライなのである。
明治の世となり、敗者となった幕府軍の残党、十兵衛や金吾は社会に居場所を失い、辺境で世捨て人のように細々と暮らすしかない。
一方、勝者である薩長の側も、あくまでも侍として過去の栄光にすがって生きる正春のような男もいるし、北の大地で小さいながらも自分の城を持ち、下級武士の時代には考えられなかった権力を手にした一蔵のような人生もある。
彼らの生き方はどれも間違っているわけではなく、ただただ明治という未知の新時代を懸命に生きているだけだ。
もう一つ、本作の持つ重要なオリジナリティがアイヌの存在だ。
言うまでもなく北海道の先住民族は彼らであり、室町時代に和人の商人が所謂和人地を開いて入植して以来、二つの民族の間には長い軋轢の歴史がある。
明治に松前藩が廃された後の開拓使の政策的な流入は、アイヌ側にとってはそのまま侵略と迫害の歴史の総仕上げだ。
日本史とは、西日本の大和民族が列島を東西南北に征服していった歴史であり、その最終章となった北海道はドラマチックな史実の宝庫である。
にもかかわらず、アイヌの存在を積極的に取り上げた映画が作られなくなって久しい。
以前はその出来不出来や描き方が“政治的に適切か”はともかく、成瀬巳喜男監督の「コタンの口笛」や、アイヌの若者が重要なキャラクターとして登場する「君の名は 第二部」、はたまた小林旭がアイヌコタンを悪徳開発業者から守る「大草原の渡り鳥」なんていう和製西部劇まで、しばしばスクリーンに登場していた。
しかしその後、“アイヌ”という呼称自体が差別語だとタブー視された時代を経て、ドキュメンタリーは別として、娯楽映画からはすっかり姿を消してしまった。
ちなみに高畑勲の長編監督デビュー作であり、大塚康生や若き日の宮崎駿らも参加した日本アニメ史上の金字塔、「太陽の王子 ホルスの大冒険」も、アイヌユーカラをモチーフにした人形劇「チキサニの太陽を」が原作となっている。
本作では、十兵衛の亡き妻がアイヌの女であり、おそらくは新政府に追われた十兵衛がアイヌコタンに助けられた事が仄めかされる。
またオリジナルの若い賞金稼ぎ、スコフィールド・キッドに当たる沢田五郎を、和人とアイヌの混血と設定した。
これによって、元侍同士の争いから、物語の背景に和人とアイヌというより大きな対立が生まれ、物語をぐっと重層的にしているのである。
また、イーストウッド版と扱いが大きく異なるのが、物語上の女郎たちの立ち位置だ。
オリジナルでは争いの発端となる以上の役割は与えられていなかったが、本作では元敵味方の侍同士、アイヌと和人と共に、三番目の対立軸として位置付けられ、人を呪わば穴二つ、彼女らも自ら作り出した因果律から逃れることは出来ない。
一蔵との戦いを終えた十兵衛が外に出ると、そこでは女郎たちが、なぶり殺されて吊るされた金吾の遺体を降ろしている。
そこで十兵衛は、オリジナルではダゲットの名台詞である「 I'll see you in hell, William Munny. (地獄で会おう、マニー)」を、自ら呟くのである。
「地獄で待っていろ」
この言葉は、同じ宿命を背負って死んだ金吾へ向けたものであるのと同時に、女郎たちにとっては男たちを金で殺し合いさせた自分たちに投げかけられていると受け取れる、二重のニュアンスを持つ。
本作のタイトルはオリジナルの邦題と同じ「許されざる者」だが、実際のところこれは「許されざる者たち」と複数形の方がふさわしいのかもしれない。
また、忽那汐里演じる顔を切り刻まれる若い女郎、なつめは後記する様にテーマと直結する重要な役割を担っている。
イーストウッドは、元犯罪者のマニーと保安官のダゲットという一見対照的で、実は似たもの同士の対立を軸に、人間の中の善悪は絶対的な概念ではなく、結局選択の問題なのだと説いた。
そして一度火のついた暴力の連鎖は、そう簡単に止められないと。
対してリメイク版は、既に過去となった侍の時代からの因縁に加え、支配者となった和人と迫害されるアイヌ、男性社会と虐げられた女たちといくつのも対立軸を重ね合わせる。
事件の火種は、彼ら全ての中でずっとくすぶっていたものだ。
ここでいう“許されざる”対象とは、血で血を洗う暴力という手段でしか因縁を断ち切れず、それでも現世で生きねばならない人の世の悲しい定め、誰もが逃れられぬ業である。
だからこそ、本作はオリジナルとまったく異なるラストを用意する。
ダゲットを倒した後、マニーは子供たちの待つ家へ帰り、その後それなりに幸せな人生を送った事が示唆される。
ところが本作は、自ら血塗られた運命を選択した十兵衛に、もはや安息の日々を与えない。
旧幕府の残党という罪に加えて、警察官を大量殺人した男として、決して帰ることの出来ない修羅の旅路を歩ませるのだ。
アイヌの妻との間に出来た、二人の幼子が待つ十兵衛の隠れ家に帰るのは、沢田五郎となつめの若い二人。
虐げられた和人の女と罪を背負ったアイヌの男、そして二度と戻らぬ十兵衛の子供たちもまた、アイヌと和人の混血だ。
対立の狭間に生まれた若い世代に、本作は未来へのかすかな希望を託すのである。
人間たちの物語を、晩秋から初冬の北の大地の、雄大かつ厳しい自然の中に写し取った笠松則通のカメラが圧巻。
そして北海道川上町に組まれた、全長350メートルに及ぶ鷲路の町の巨大なセットをはじめ、アイヌコタンの風景や十兵衛の暮す海辺の小屋など、リアルな生活感と非日常的時代感溢れる美術の素晴らしさ。
大雪山麓はその殆どが国立公園に指定されており、撮影許可を得るだけでも一苦労で、更に10月中旬には雪が降り始める、過酷な環境での撮影だったという。
しかし、その苦労は十二分に報われていると言って良いだろう。
私は、シネマスコープの大画面に映し出された、大自然の中で蠢くちっぽけな人間たちの悲しき物語に魅了され、実に映画らしい映画を観たという深い感慨にひたった。
日本最高レベルの俳優陣、壮大な舞台、そして既に評価が定まった完璧な物語があったとしても、それだけで良い映画が出来る訳ではない。
李相日監督が描こうとした新たなテーマを、全てのスタッフ・キャストが理解した上で、しっかりと最終的なイメージを共有していないと、これほど完成度の高い娯楽映画は作り得まい。
「Unforgiven」と「許されざる者」は、オリジナルとリメイクが共に傑作となった数少ない例として、映画史に記憶されるだろう。
余談だが、本作とほぼ同時期の北海道を描いた手塚治虫の漫画「シュマリ」では、五稜郭の戦いの後も土方歳三が密かに生き残っていたという設定で、彼が変名として使っているのが“十兵衛”という名前である。
これが李相日監督からのオマージュなのかどうかは分からないが、手塚漫画の中でも傑作の部類に入る作品なので、本作を気に入った方には是非おススメしたい。
さて、今回は北海道を代表する銘柄の一つ、北の誉酒造のその名も「純米原酒 侍」をチョイス。
北海道の地酒は、その土地柄ゆえかキリリとした端麗辛口の酒が多いが、「侍」は純米原酒らしく濃厚なコクと日本刀の様に切れ味鋭い辛口が特徴。
この酒を飲みながら、北の大地のラスト・サムライたちに思いを馳せたい。

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自らの命の終わりを予感した父親が、自らの年金にすがって生活している息子のために、最後に残そうとしたものとは。
「バッシング」「春との旅」の小林政広監督が描くのは、社会全体の高齢化が進み、一方で格差はとめどなく拡大を続ける現代日本の抱える、悲しく深い闇の情景。
自室の扉を釘で打ち付け閉じこもり、静かな自殺を宣言した父親と、家族も仕事も失った息子。
お互いを思いやりながらも、何も出来ない現実と、ただ過ぎ去った幸せな日々への追想が切ない。
その深い皺に悲しみを湛えた仲代達矢と、息子役の北村一輝の扉越しの演技合戦も見ものだ。
肺癌で余命が幾ばくも無いことを知った不二男(仲代達矢)は、亡き妻の遺骨と共に自室に閉じこもり、一切の食べ物を取らずこのまま死ぬと言い出す。
不二男は、うつ病を患い、震災で妻子を失った一人息子の義男(北村一輝)のために、自分が死んでもそのことを隠し、年金を受け取れる様にと考えたのだった。
父の行動を理解出来ない義男は、扉越しの説得を続けるが、不二男はガンとして聞き入れない。
次第に衰弱する不二男の脳裏には、ほんの数年前までの幸せな人生の光景が、走馬灯の様に蘇っていた・・・・
「日本の悲劇」というタイトルからは、映画ファンなら1953年に公開された木下惠介監督作品が思い浮かぶだろう。
女手一つで息子と娘を育て上げながら、相次いで子供たちに見捨てられ、自ら死を選ぶ戦争未亡人の姿を描く文字通りの悲劇だ。
ある意味で、希望的な代表作「二十四の瞳」の対になる作品であり、地べたを這いつくばる様にして必死に生活している庶民の生きざま、死にざまを通して、戦後日本における家族の崩壊を描いた問題作だった。
そして60年後の平成の世の「日本の悲劇」は、未来に希望を持てない子供のために、親が命を捨てる。
映画の物語自体はフィクションだが、2010年に足立区で白骨化した老人の遺体が見つかった実際の事件にインスパイアされているそうだ。
この人物は1978年に「即身仏になる」と言い残して部屋の扉を閉じ、実に32年もの間そのまま放置されていた。
老人が死亡した後も家族が届け出ず、年金を受け取り続けていた事で詐欺罪に問われたが、その後日本中に同じような生死不明の高齢者が沢山いる事が判明し、社会問題としてクローズアップされたのは記憶に新しい。
本作の登場人物は僅か四人、一軒家の中だけで展開する物語である。
映画は入院していた不二男が息子の義男に伴われ、家に戻ってくるシーンから始まり、やがて不二男は自室の扉を釘で打ち付け、自分はミイラになるんだと言って閉じこもる。
扉の内でゆっくりと死へと向かう不二男と、扉の外で生へと留めおこうとする義男。
そして、二人の脳裏に去来する、幸せだった日々の記憶。
絶望の現在とほんの数年前の幸福な過去が交互に描かれる構成、一軒家の舞台をさらに絞り込んだ演劇的空間をカラーのシネマスコープで撮影し、モノクロ処理するなど、映画としての作りは極めて特徴的である。
基本はフィックスの長回しで、正確に数えた訳ではないが、全体のカット数は僅かに60ほどだろうか。
大きなテーブルの置かれた台所と不二男の自室、そして二つの部屋の間にある廊下に絞られたカメラポジションは、ほんの数パターンのみという簡潔さ。
非常に面白かったのは、スクリーンの外をイメージさせる音響演出だ。
シネマスコープを採用した映像は、フィックスでも生活空間をそれなりに広く描写する事が出来る。
ところがこの映画、決め込まれた構図のフレームから、人物が外れている時間が非常に長いのだ。
その間、画面には無人の空間が残されているだけだが、代わりに雄弁に語りだすのは画面の外から聞こえてくる様々な音である。
フレームを外れていても、そこに人がいない訳ではない。
映画館のマルチチャンネルの音響を生かして、義男の声や生活音、家の外から聞こえてくる雑音など、あらゆる音が四方から主張し、映像では殆ど描写されない家の構造までなんとなくわかるのだ。
これによって映画は四角く切り取られたフレームという視覚の頚木から放たれ、観客の想像力を刺激し、三次元の空間として認識されるのである。
トーキーの発明によって、映画という芸術は視聴覚を併せ持つようになったが、しばしば視覚に比べて軽視されがちな聴覚を、これだけ効果的に利用した演出はユニーク。
だが、考えてみれば、私たちは家で過ごす時は、家族の存在を実際に音で感じている事が多くないだろうか。
例えば台所で料理をしている時、リビングでテレビを見ている時、あるいは自室で読書をしている時など、視覚が特定の物事に集中していても、耳は家族の動向を逐一キャッチして息吹を感じている。
たとえ扉で隔てられ姿は見えなくても、そこで音がする事で、義男は不二男の、不二男は義男の存在を確かなものとしてとらえているのだ。
本作は視覚の情報をあえて限定する事で、聴覚の役割を増大させ、結果的に観客がその家にいるかのような臨場感を作り出す事に成功している。
色の無い暗い世界の中で、唯一色彩の光を取り戻すカラーのカットも、それまでとのコントラストがあるから非常に印象強く、それが過去のイメージである事が現在の悲劇性をより際立たせるのである。
四人の家族の中でも、殆どは父と息子の二人だけの会話劇として物語が進む。
仲代達矢と北村一輝の絶妙なコンビネーションによる、まるでライブの演劇の様に緊張感溢れる演技のせめぎ合いも本作の大きな見所だ。
特に仲代達矢が演じる不二男の、やり過ぎギリギリの役作り、全てを突き放すような独特の語り口調は、どこかユーモラスで重い題材を救っている。
小林監督はこのキャラクターに、彼の代表作の一つである「切腹」の再現を狙ったという。
なるほど、決断したら梃子でも動かない頑固なオヤジの姿は、まるで覚悟を決めた侍の様だ。
異なる世代の二人の俳優のキャラクターへのアプローチが、この作品の持つリアルなシチュエーションでありながら、戯画的・演劇的な世界観の輪郭を、確固たるものにしていると思う。
本作に描かれる人々は、日本のどこにでもいるごく普通の家族だ。
待ち望んだ初孫に恵まれ、二世代の家族が集う数年前の幸せな光景と、全てが崩壊しただ一人残った義男が、もはや返事の無い扉に語りかける現在のコントラストが描き出すのは正に悲劇。
映画は声高に何かを主張してる訳ではないが、彼らが抱えるうつ病、失業、癌、介護の問題、そして震災といった、この国の誰にでも起こりうる小さな悲劇の連鎖を通して、静かに社会に疑問を問いかける。
この家族は日本人一億二千万の縮図であり、彼らの悲劇は即ち「日本の悲劇」なのである。
映画のモチーフとなった足立区の事件の後、高齢者の死亡を隠して年金を詐取した事件が続々と発覚した。
人々は浅ましいと怒りを感じ、マスコミもバッシングを浴びせたが、では私たちは彼らの人生に何が起こったのかを想像したり、思いやったりしただろうか。
つい先日も、札幌で91歳の母親と59歳の娘が自宅で倒れているのが発見される事件が起こった。
母親は既に死亡しており、娘も2週間水だけしか飲んでおらず衰弱しきっていたという。
この事件では後に娘が死体遺棄容疑で逮捕されたが、彼女は母親の介護をするために仕事を辞め、発見された時に家にあった現金は数十円だけで、冷蔵庫も空だったそうだ。
はたして、私たちは彼女を犯罪者と責められるのだろうか。
行政に相談したら・・・とか外野から眺めて言うのは簡単だ。
しかし、後を絶たないこの種の事件は、当事者はそんな事は当然分かっていても、先の見えない絶望に耐えられないのだと思う。
根深い孤独と孤立こそ、この国の悲劇の原点なのかもしれない。
この映画をみたら、無性に父と酒を飲みたくなった。
我が親父殿の故郷の地酒、名手酒造店の「黒牛 純米吟醸」をチョイス。
紀州の酒は温暖な気候ゆえか、芳醇に香りまろやかで、比較的甘いのが特徴だ。
今度実家に帰る時は、この酒を持って行く事にしよう。

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所謂ビート・ジェネレーションの寵児、ジャック・ケルアックが1957年に発表した自伝的小説の映画化である。
第二次世界大戦後間もない1940年代後末、NYに暮す作家志望の若者サルは、放浪癖のある型破りなバカヤロウのディーンと出会い、憧れの西部へと続く「オン・ザ・ロード」へと歩みだす。
青春の旅を描く物語と、「モーターサイクル・ダイアリー」などで知られるウォルター・サレス監督とのマッチングはバッチリ。
過ぎ去りし過去へのビターな情感漂う、ロード・ムービーの秀作となった。
人、モノが行き交い、広大な大陸を隅々まで結ぶ路上は、ある意味社会のあらゆるステージに繋がっているフロンティアだ。
若者たちは生まれ育った街を出て、自らの無限の可能性と希望の未来をその先に見るが、いつゴールにたどり着くのか、そもそもゴールは存在するのかは人それぞれ。
フレンチ・カナダからの移民をルーツに持つケルアックは、揺れ動くアイデンティティの確立をアメリカ西部への旅に求める。
作者自身の分身であるサルは、西部劇のカウボーイを思わせる自由人のディーンを慕い、まるでヘミングウェイの小説の様に南からの季節労働者と共に寝起きし、徐々に自身の中の“アメリカ人”に輪郭を与えてゆく。
だが、本来道というものはどこかからどこかへと行くための通過点で、永遠にそこにとどまり続けることは出来ない。
ディーンの“妻”の一人メアリールーは、根無し草の夫に愛想を尽かし、故郷で待つ堅実な恋人のもとへと帰り、別の妻のカーミュもまた子供と共にディーンから去って行く。
本作においては、女たちが早々に“路上”に見切りをつけて“家”を求めるのと、男たちが見果てぬ何かを追い求め路上の魔力からなかなか逃れられないのは対照的だ。
彷徨い続けたサルの中でも、やがてポスト・フロンティアとしてのアメリカの姿と共に、自身のアイデンティティが確立すると、彼にとっての路上はその瞬間過去となる。
そして、路上の出来事の記憶は膨大な言葉に姿を変え、本作の原作として結実するのだ。
彼らの破天荒な生き様を描いた小説が、多くの若者たちに影響を与え、大きな文化ムーブメントとなったのは、本作で描かれたのがアメリカという国自体の青春の終わりだったからに他ならない。
基本的に私小説なので、主人公以外の登場人物もほぼ実在の人物のアレンジだ。
よく知られている様に、ディーンにはニール・キャサディというモデルがいるし、友人のカーロは「HOWL」などで知られる詩人のアレン・キンズバーグ。
クリスティン・スチュワートとキルスティン・ダンストが演じた、ディーンの二人の妻も同様だ。
ウィリアム・バロウズ夫妻をモデルとしたブル・リーとジェーンが、ヴィゴ・モーテンセンとエイミー・アダムズだったり、ちょっとしたキャラクターまでも意外な大物が演じていて驚く。
麻薬中毒のブル・リーが拳銃で遊んでいる描写などは、後に彼が起こすウィリアム・テルごっこをしていて妻を射殺してしまった事件などを知っていると意味深に感じるだろう。
まあキャストで一番ウケたのは、ブシェミだったけど(笑
しかし本作で描かれた時代の後、ニール・キャサディは1968年に41歳の若さで急逝し、ケルアックも晩年アルコールで身体を壊し、まるでキャサディの後を追う様に翌年に亡くなっている。
どうやら路上とは、留まり過ぎると寿命を縮めるほどの魔力を持っている様である。
とにかく登場人物が酒を飲みまくっている映画だが、今回は西部の旅に持って行きたい、メキシコはハリスコ州テキーラからやってきた「サウザ ゴールド」をチョイス。
美しい黄金色の液体は、テキーラとしては比較的まろやかで飲みやすい。
もちろん割っても美味しいが、ストレートでチビチビやるのも悪くない。
ちなみにアレン・キンズバーグの人生は、2010年にジェームズ・フランコ主演で代表作と同じ「HOWL」のタイトルで映画化されているのだが、これもけっこう評判良かったのに日本未公開のままなのは残念だ。

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過去にも「銀河鉄道999」への客演や、若き日のハーロックを描く「わが青春のアルカディア」などスピンオフ的な作品はあったが、意外にも「キャプテン・ハーロック」のタイトルで劇場用長編映画化されるのはこれが最初である。
もっとも、過去の漫画やテレビアニメに慣れ親しんだ世代は、本作にはいささか戸惑うかもしれない。
これは、漫画やアニメのリメイクというよりも、異なる時間軸の中での「キャプテン・ハーロック・ビギンズ」的な物語であり、キャラクターや世界観もかなり異なっている。
邦画では異例の18ヶ月もかけたというプリプロのおかげで、ビジュアルの充実、特にスチームパンク風の美術は素晴らしい。
アニメ版とは趣が異なるが、映像的には十分世界レベルの力作であると言って良いだろう。
※ここより完全ネタバレ。
本作を特徴付けるのが、帰るべき地球を失った人類というコンセプトだ。
全宇宙に広がった人類が、種の老年期を迎えて地球へといっせいに戻ってくるというのは藤子・F・不二雄の傑作短編「老年期の終わり」と共通する。
ところが増えすぎた人類の間で地球の争奪戦争が起こり、結果的にガイアサンクションという統治機構によって、地球は不可侵の聖地として管理され、人類は永遠に帰ることの出来ない心のよりどころとして地球を眺めている。
だが、実は本物の地球は最終戦争によってダークマターに汚染され、見るも無残な姿に変わり果てており、ガイアサンクションは人々にホログラムで作られた偽りの地球を見せて、自らの権威を守っているのである。
一方、ハーロック暗殺を命じられて、アルカディア号に乗り込む本作の事実上の主人公であるヤマは、実はガイアサンクション軍のイソラ司令官の弟だ。
彼らはヤマの起こした不幸な事故によってお互いの心と身体に傷を負い、愛憎半ばする奇妙な関係にある。
二人の絆を結び付けているのは、イソラの妻であり、ヤマの初恋の人であるナミなのだが、彼女は事故によって肉体の自由を失った意識のホログラム、言わばゴーストの様な存在なのだ。
ホログラムの地球とナミという二つの“フェイク”は、マクロとミクロの相似形であり、本作のテーマを象徴する。
パイロット版を含めた本作のプリ・プロダクションは2009年、プロダクションは2011年春にスタートしており、時期を考えると偶然なのだろうが、汚染で失われた故郷、過酷な現実から逃れて幻影を信じたがる人々とか、妙にリアルな日本を感じさせるのは面白い。
しかし、本作においてもっとも驚くべき幻影は、実はキャプテン・ハーロックその人なのである。
実は、ガイアサンクションの偽善を許す事が出来ず、地球をダークマターで汚染させてしまったのは、ハーロック自身なのだ。
ダークマターの呪いによって不死の身体を与えられたハーロックは、宇宙のあちこちに次元振動弾を設置し、時間をゼロに戻すビッグバンを再現しようとしている。
過去の作品に描写された、威風堂々とした男の中の男、男が惚れる男のハーロック像はここには無い。
ハーロックは、自らの犯した過ちの重さに耐えられず、全宇宙を巻き添えに集団自殺を図ろうとするパラノイアなのだ。
この人物造形に戸惑っていると、映画はさらに思いも寄らない方向へと舵を切る。
物語の終盤で“キャプテン・ハーロック”とは、一人の人物の固有名詞というよりも、自由を求めるスピリットの象徴として定義されるのだ。
見たくない現実に真摯に向き合い、生きるために必死に抗う時、人ははじめて心の自由を得る。
物語を通じてパラノイアのハーロックもそうして自由を手に入れるのだが、結局二人のハーロックが並び立つラストとか、どうにも物語の収束点としては収まりが悪い。
SFの装いながら、例えばダークマターの地球に落ちたアルカディア号が、突然あの形になって蘇った訳や、ハーロックが不死となった理由は強引にスルーし、ほとんどファンタジーの魔法の様に処理してしまっているのも如何なものか。
プロットの構成やキャラクター造形を含めて、正直脚本力にはかなり疑問が残るが、全体のテーマの明確さとテンポ感のある見せ場の連続に救われた印象だ。
もちろんスコープサイズで展開するスペクタクルな宇宙戦の映像は、それだけでも大スクリーンで鑑賞する価値がある。
ハーロックというと、赤ワインの印象があるが、本作でもやっぱりミーメと飲んでいた。
という訳で、今回はカリフォルニアからその名も「アルカディアン ピノノワール スリーピーホローヴィンヤード」の2007年をチョイス。
1996年創業の比較的若い銘柄だが、複雑なフルーツのフレーバーが絡み合う、フルボディの重厚な味わいはなかなかのものだ。

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「REC レック」シリーズのルイソ・ベルデホが脚本を手がけたと聞いて、てっきりホラー映画だと思っていたが、いやあ騙された。
これは「パンズ・ラビリンス」+「灼熱の魂」とでも形容出来るだろうか。
忘れられた歴史の闇に、巧妙にフィクションを絡ませた実にウェルメイドなスパニッシュ・ミステリーだ。
主人公のデヴィッドは敏腕外科医。
過労から交通事故を起こし、婚約者は死亡、彼女のお腹にいた赤ん坊だけは、何とか命を取り留める。
しかもデヴィッド自身も白血病に罹患している事がわかり、肉親からの骨髄移植の必要があるのだが、その事を聞いた両親は、彼が養子である事を告白するのだ。
生みの親を探す現在のデヴィッドの旅は、やがて歴史に埋れた血塗られた秘密を暴き出してしまう。
それは1930年代に、スペインの片田舎で発見された奇妙な子供たちに纏わる物語。
彼らは皆、先天的に痛みを感じる事が出来ない。
自らを傷つけても、他人を傷つけても、それが命を脅かす行為であると分からないのだ。
ゆえに、周りにとっても、彼ら自身にとっても危険な存在であると見なされ、ピレネー山脈の奥地にある精神病院に監禁される事になるのである。
ドイツからやって来たユダヤ人医師によって、一時は社会復帰の為のプログラムが進められるのだが、やがて時代はスペイン内戦へ。
映画は、生きるために自らのルーツを探すデヴィッドの旅と、激動の時代に生きた無痛症の子供たちが辿った運命を、交互に描いてゆく。
子供たちの中でも、特に危険とされた17号室の少年は、やがて戦争とその後の狂気の独裁の時代の中で、“ベルカノ(再生の意)”と呼ばれる特別な存在となる。
はたして、現在と過去はどう繋がるのか、デヴィッドの本当の母は何者なのか。
監督と共同脚本を兼務するファン・カルロス・メディナは、巧みなミスリードを取り混ぜつつ、次第に物語を核心へと導いてゆく。
思うにスペイン人にとって、内戦とその後のフランコ独裁政権の歴史は、喉に刺さったまま決して抜けない棘の様な物なのだろう。
「カインはなぜアベルを殺したか知っているか?人類最初の殺人は嫉妬が原因だった。実にスペイン的だ」
劇中にある人物は語るこの台詞が象徴する様に、同じ民族同士が殺し合い、今も当時の敵味方が同じ国に暮らすという現実の裏側には、外からでは計り知れない因縁が渦巻いていてもおかしくない。
独房に響く初恋の娘の歌声、涙の二つの意味、父から子へと受け継がれる瞳の色。
緻密に配された幾つもの伏線が二つの時代で登場人物の感情と共鳴し、歴史に翻弄されたある家族の残酷な運命の物語を紡ぎあげる。
しかし、なぜ1930年代のスペインに、突如として無痛症の子供たちが現れたのか。
物語の前提となっているこの大きな謎に、映画は答えを出さない。
私は観た直後、この部分を描かないのは片手落ちではないかと考えたのだが、ふと彼らが現れたのは後の戦争の時代の予兆であり、神の“しるし”なのではないかと思い至った。
痛みを感じる事がなければ、たとえ無慈悲な大人たちに殺される時でも苦しむ事はない。
あまりにも残酷な解釈だが、こう考えれば物語の中で起こる全ての事が腑におちるのである。
また当然ながら、神の見えざる手が起こした事を、物語の上で合理的に説明出来る訳がない。
この解釈が当たっていて、観客がそこまで考える事を予測しているとするならば、ファン・カルロス・メディナ恐るべし。
「スクリーム・フェスト スペイン2013」なんて枠に括られての公開なので、B級ホラー映画だと思って敬遠している人も多いだろうが、これはホラー要素はほぼゼロ。
クラッシックな怪奇映画のムードを纏った、人間の哀しく切ない業を巡るミステリアスな寓話である。
今回は、スペインを舞台とした物語なので、リベラ・デル・ドゥエロのワイナリー、ドミニオ・ロマーノから燃える様なフルボディの赤、「カミーノ・ロマーノ」の2008をチョイス。
果実の味わいと適度な酸味がバランス良く、パワフルでありながらエレガントさを感じさせる。
なるほど、スペイン人の血の情念は、この赤ワインの様に濃いのだな。

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もちろん全て観ている訳ではないが、エルマンノ・オルミの作品は、キリスト教的な寓話の要素が強い。
貧しい生活の中で、強固な信仰を心の糧とする人々の物語「木靴の樹」、飲んだくれのホームレスに訪れる奇跡を描く「聖なる酔っぱらいの伝説」、そして現代のキリストをモチーフにした「ポー川のひかり」など、どの作品にもキリストへの信仰が深く刻まれている。
その傾向は本作において特に色濃く、ほとんどその部分だけに純化した様な作品と言えるだろう。
イタリアのとある街で、信徒の減少から教会が廃止され、ずっと信仰に生きてきた司祭は失意に沈む。
ところが廃墟となった神の家に、当局に追われたアフリカからの不法移民の一団が助けを求めてやって来るのだ。
司祭は彼らを受け入れ、自らの使命とは何かを考え、人生を捧げてきた信仰について葛藤を深めるのである。
舞台となるのは教会の内部のみ、つまり神の胎内という閉鎖空間で展開する、極めて演劇的な物語。
嘗てフェデリコ・フェリーニは「甘い生活」の冒頭で、ヘリコプターに吊り下げられた巨大なキリスト像という強烈なイメージを見せつけて、それが退廃しモラルを失った時代の物語である事を示唆してみせた。
本作のオープニングシークエンスでも、役目を終えた教会からキリスト像がクレーンに吊り下げられて運び出される。
オルミ流の偉大な先輩に対するオマージュ、と言うか半世紀後の世界に生きる作家としてのアンサーか。
もはやキリストの家ではない聖なる空間に、入れ替わる様に大勢のイスラムの客たちがやって来る。
彼らの中には父親のいない赤ん坊、即ちキリストを彷彿とさせる人物もいれば、自爆テロを企てているグループもいるし、突然カメラに向かって身の上話を語りかける老人もいる。
しかし、これはいわゆる社会派映画ではない。
例えば、同じモチーフを扱っていても、海に生きるイタリア人とアフリカからの密入国者を描く「海と大陸」の方がずっと社会的な視点が強い。
本作はいわば作者の分身である司祭の見た、信仰が失われた社会に訪れた神の啓示、黙示録の風景を描いた遺言的寓話なのだと思う。
物資的には豊かだが、その進むべき目標を信仰と共に失ってしまった社会。
隣人を愛さず、現状に閉じこもる現代ヨーロッパは、老巨匠の目にはゆっくりと滅びへと向かっている様に見えているのだろう。
廃墟の教会堂の中に作られたダンボールの村は、終末であり希望でもある、いわば可能性の未来の象徴だ。
絶望と葛藤の末に、遂に司祭は「信仰よりも善行の方が尊い」とつぶやく。
この時点で彼の行為は、既にキリストとかイスラムといった宗教を超越している。
人々を愛し、導くために本当に必要なものは何なのか。
82歳のエルマンノ・オルミは、静かに、しかし思慮深く我々に問いかけるのである。
いぶし銀の輝きの映画には、イタリア最古のビール銘柄として知られる「ビッラ モレッティ」をチョイス。
創業は1859年に遡り、当時のオーストリア帝国の影響を色濃く受けた、クラッシクでバランスの良いピルスナー。
マフィアっぽい髭のおじさんのラベルも特徴的で、イタリア料理店にいくとつい頼みたくなる一本だ。

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1950年代のフランスを舞台に、タイプライターの早打ちコンテストに挑むヒロインの恋と挑戦を描いた、オシャレで軽妙なロマンチック・コメディ。
てっきり完全なフィクションだと思ってたけど、一部実話ベースとは驚いた。
漢字、ひらなが、カタカナと三種類も文字のある日本では、タイプライターはそれほど普及しなかったが、世界ではこんな大会が開催されていたのね。
一分間に500文字以上を入力し続けるために、基礎体力作りに勤しむヒロインとか、ほとんど昭和スポ根物のノリなのが可笑しい。
もっとも、本国でもクリーン・ヒットを飛ばしたというこの映画、単にレトロでキュートなだけの作品ではない。
物語の背景となっているのは、第二次世界大戦の記憶と、女性の社会進出に伴うジェンダーの葛藤である。
デボラ・フランソワ演じる主人公のローズは、ノルマンディの片田舎の出身だ。
昔気質の父親に、無理やり結婚させられそうになり、人生を自ら切り開くために、花の都パリへとやってくる。
唯一の得意技であるタイピングで、街の保険会社の秘書の職を得るものの、おっちょこちょいの田舎娘は失敗ばかり。
そこで雇い主のルイから突きつけられるのが、タイピングの全国大会で優勝する事、さもなくばクビという無理難題だ。
男たちの人手を軍隊に取られた第二次世界大戦は、多くの国々で女性の社会進出のターニングポイントであった。
戦後、フランスでも職業を持つ女性が増える一方で、ローズの父親の様に古き価値観からなかなか逃れられない人々もまだ多くいる時代。
そんな中で、女性のたちの憧れの職業の一つが“秘書”であり、その仕事のツールであるタイプライターのチャンピオンは、いわばウーマンリブの時代の寵児だったのだろう。
一方、ローズをタイピング女王に育て上げる雇い主のルイは、嘗てのドイツ軍との戦いでただ一人生き残り、仲間を助けられなかったトラウマから逃れられない男だ。
自分を許せない気持ちから、本気で恋に向き合う事も出来なくなり、今は親友の妻となった幼馴染の女性にも心を残したまま、先に進めないでいる。
ローズに対しても、雇う段階から既に男として口説きたい気分と、良き人間として助けなければという気分が葛藤し、あえて鬼コーチを装う事で恋心を抑え込む。
そして、実際にローズの才能が開花すると、彼女がアプローチを待っているのを知りながら、自分の役割は終わったとばかりに、身を引こうとしてしまうのだ。
惹かれ合いながらも素直になれない二人の仲を、ずっと見守ってきた周囲の人々が後押しし、タイピング世界大会決勝戦という、ものすごくわかりやすいクライマックスで、全てが結実する展開も鮮やか。
ローズとルイは、今風に言えば戦後フランス版の肉食女子と草食男子の様な物かもしれない。
これは男たちが自信を失い、女たちが自立した生き方を見つけようとする時代の、新しいロマンスの形を描いた物語。
ソール・バス風のレトロなオープニングタイトルから、粋なセリフで締めるラストまで、エスプリの効いた実に楽しい佳作である。
この映画にピッタリなのは、華やかなスパークリング・ロゼ。
フランスのモエ・エ・シャンドンが、オーストラリアのヴィクトリア州で生産している「シャンドン・ロゼ」をチョイス。
果実のフレッシュな味わいと、立ち昇る泡の絹の様に柔らかくクリーミーな喉ごしが、映画の爽やかな後味を強調して、残暑の蒸し暑さも軽減してくれるだろう。

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なるほど、タイトルが「スーパーマン」でない事も納得である。
「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン製作、「ウォッチメン」のザック・スナイダー監督という、アメコミ映画の両雄が手を組んだリブート版の「マン・オブ・スティール」は、ぶっちゃけ今までのシリーズとは別物だ。
ラッセル・クロウ、ケビン・コスナー、ダイアン・レイン、マイケル・シャノンら錚々たる名優たちが、クリプトン人として生を受け、地球人として育った宿命の子を導き、やがて若き超人は二つの世界の命運を託される。
これは黙示録の時代に生まれた、滅びと再生の神話であり、描かれるのは昏い葛藤を心に秘めた、新たな救世主の誕生の物語だ。
高度な文明を持つ惑星クリプトンが滅亡の時を迎えていた。
科学者のジョー・エル(ラッセル・クロウ)は、生まれたばかりの息子カル・エルを、小型宇宙船に乗せて宇宙へと送り出す。
地球に到達した赤ん坊は、カンザスの農夫ジョナサン(ケビン・コスナー)とマーサ(ダイアン・レイン)のケント夫妻に拾われ、クラークと名付けられる。
人間の子としてすくすくと育つクラークだが、成長するにしたがって不思議な力を発揮する様になり、他の子供たちとの違いに悩むようになる。
やがて成長したクラークは、謎の物体が太古の氷に埋もれているというニュースを聞き、カナダへ。
それは大昔に地球へ探査に来て、そのまま打ち捨てられたクリプトンの宇宙船だった。
ジョー・エルの残した映像から、自分が何者で、何のために地球へとやって来たのかを知るクラークだが、偶然居合わせたジャーナリストのロイス・レイン(エイミー・アダムズ)に正体を見られてしまう。
時を同じくして、クラークが宇宙船を起動した事を、宇宙を彷徨っていたクリプトンの生き残り、ゾッド将軍(マイケル・シャノン)が感知。
クリプトン再興の鍵を握る“コデックス”を、ジョー・エルが息子と共に脱出させた事を知るゾッドは、クラークがコデックスを持っていると考え、進路を地球へと向けるのだが・・・
映画、テレビシリーズ、アニメと過去何度も映像化された「スーパーマン」の中で、誰もが知る決定版は1978年に作られたリチャード・ドナー監督、クリストファー・リーヴ主演の映画だろう。
この作品は、その後2006年にブライアン・シンガーが監督した「スーパーマン・リターンズ」に至るまで、共通のカラーを持ったシリーズを形作る。
しかし今回、クリストファー・ノーランとザック・スナイダーのチームが作り上げたのは、ドナー版の持つ作品イメージの軛から逃れ、異なる世界観と哲学を持った全く新しい映画だ。
例えばオリジナルへ深いオマージュを捧げ、世界観を生かした上で、新しいイメージを付与するJ.J.エイブラムスの「スター・トレック」とは、同じリブートという言葉を使っていても、アプローチは真逆と言えるだろう。
スナイダーの「マン・オブ・スティール」は、過去のシリーズを完全な“レガシー”とする事で成立しているのである。
ストーリー的には、旧シリーズの第一作と、リチャード・レスター監督による第二作を組み合わせた様なプロットとなっている。
滅びゆく惑星クリプトンから、地球へと送り込まれた宿命の子が、ゾッド将軍との戦いの中で自らの存在の意味をつかみとり、スーパーマンとなるまでの物語であり、即ち今後作られてゆくであろう新シリーズの“ビギニング”に位置付けられる作品だ。
もっとも、基本的ストーリーラインとキャラクター設定に共通点は見えるものの、本作のチームは最低限のリスペクトをさりげなく表現する以上に、旧作との関連付は行わない。
その意味で、本作は今までの作品を観た事が無い、一見さんにこそフィットする作品となっているのかも知れない。
本作の骨格を形作るのは、カル・エル、クラーク・ケント、そしてスーパーマンという三つの名を持つ主人公と、彼の三人の“父”との物語である。
実の父であるジョー・エルは、崩壊するクリプトンから命を賭して赤ん坊のカル・エルを地球へと脱出させ、死してなお思念として成長した息子を導く。
重要なのは、文明が進み過ぎた結果硬直化してしまったクリプトンでは、全ての子供は遺伝的に“設計”され、人工子宮から生まれるという設定である。
科学者も、戦士も、政治家も、生まれた時からその運命が決定されており、可能性の未来があり得ない世界。
カル・エルは、禁じられた自然出産で生まれたクリプトン最後の子であって、父ジョー・エルにもその将来は予測できない、しかしだからこそ“希望”なのである。
地球へと到達したカル・エルに、クラーク・ケントという名を与え、人間の子供として育てるのが、養父ジョナサン・ケントだ。
彼はクラークが異星人であり、人智を超える能力を持つこと知りながら自分の息子として受け入れ、この世界で生きるための知恵と目的を授ける役回りだ。
ジョナサンは、自らのアイデンティティに葛藤する息子に、ここへ来た事の意味を考えさせる一方で、その力を人類はまだ受け入れられない事を悟り、彼が独り立ちする日まで、秘密を守り抜こうとする。
朴訥なカンザスの農夫の信念はしかし、ジョー・エルと同じように、息子のためなら自らの命をも惜しまない程に強い物であり、この父にして真理を追い求める善良なアメリカ人、クラーク・ケントが形作られるのである。
そして、クリプトンと地球という二つのアイデンティティを受け入れたクラークを、スーパーマンへと成長させるのが、ジョー・エルを殺しクリプトン再興のためにカル・エルを追って地球へと襲来するゾッド将軍だ。
もちろん、彼はクラークの生物学的な父でもなければ育ての親でもない。
しかし、彼の理念と大義はジョー・エルの対であり、クラークが地球の人々を導くスーパーマンとなるために、彼との対決は避けて通ることの出来ない壁として立ちはだかる。
地球をクリプトン型惑星へとテラフォーミングし、人類を絶滅させてでも母星の人々を蘇らせるというゾッドの大義は、戦士として設計され、クリプトン人を守る事だけを存在意義とする彼にとっては至極当然。
自由な未来を自分で選択できるクラークと違って、哀しきゾッドは定められた宿命に抗う事は出来ないのだ。
生まれてすぐに超えるべき父を失ったクラークにとって、この最強のヴィランとの対決は擬似的な父殺しに他ならない。
では、それぞれに役割を持つ、三人の父に育てられたスーパーマンとは何者か。
ジョー・エルによって、人々を導く存在になると示唆される彼は、超常の力を持つ奇跡の人であり、現代アメリカにおけるキリストのメタファーである。
「スーパマン・リターンズ」のブライアン・シンガーは、9.11以降の暗雲に覆い尽くされた世界で、なぜスーパーマンが必要なのかを説いてみせる。
元々アメリカは、迫害された清教徒たちが、自由と博愛を求めて作り上げた理想主義的な実験国家だ。
もちろん、その歴史が理想通りでない事は事実だが、自由・博愛・平等の精神は、依然として多くのアメリカ人にとって理想であり、無償の善意が尊ばれる社会である事には変わりがない。
ところが、いつの間にか世の中は変わってしまい、善意のはずのアメリカは世界中で嫌われ者となり、猜疑心が新たな敵を生むという悪循環に陥ってしまった。
シンガーは、そんな世界で自己の存在意義に葛藤するスーパーマンに、愚直なまでの無償の善意という原点への回帰、傷つき、倒れても、人々のために行動する、アメリカが本来理想としていたはずの美しいキリスト教精神を体現させたのである。
だが、同じく現代に蘇ったキリストだとしても、本作のスーパーマンの運命は、シンガーの解釈がもはや牧歌的に見えるほどにハードだ。
キリストが人類全ての原罪を一身に負って、ゴルゴダの丘で磔にされた様に、脚本のデヴィッド・S・ゴイヤーは、スーパーマンに途轍もなく残酷な十字架を背負わせる。
彼の肉体には、ジョー・エルによって“コデックス”に記録されていた全てのクリプトン人のDNAデータが書き込まれており、彼の存在そのものがクリプトンの箱舟なのだ。
もしもゾッドの計画に協力すれば、結果的に育ての親である人類を滅ぼす事になり、逆にゾッドを倒せば自らの種であるクリプトンの再興が潰える。
人類かクリプトンか、スーパーマンは一つの種族にとって救世主となり、もう一つの種族にとっては絶滅を宣告する大悪魔となる、究極の選択を余儀無くされるのである。
二つの種族の間で思い悩むスーパーマンが、教会に立ち寄って牧師と話をするというシーンは象徴的だ。
「ゾッドも、地球人も、どちらも信じられない」というスーパーマンに対して、牧師は「まずは信じてみる事だ」と答えるのだが、この言葉は本作のテーマとも直結し、物語のターニングポイントともなっている。
そして妥協や共存の余地のないゾッドの計画を阻止し、地球人の可能性を信じたスーパーマンは、過去のシリーズでは例のない圧倒的な都市破壊の後に、人類を導く救世主として姿を現す。
このクライマックスのシーケンスは、ローランド・エメリッヒも真っ青、二人の超人の格闘だけで世界が滅んでしまうのではないかと思う程の凄まじさだ。
おそらく巻き添えだけで何千、何万も死んでいそうだが、スーパーマンは最終的にその場に居合わせた一組の家族を救うというミニマムな状況で、ただ一人残った同族を殺し、自らの種を滅ぼす決断をくだす。
ブライアン・シンガーは、原点への回帰はまだ間に合うと信じたが、本作は現代のキリストは大破壊によるアポカリプスを経て、彼自身も再び重い十字架を背負わなければ現れないと説く。
映画を社会の鏡だと考えるならば、どうやら世界はあまり良い方向には進んでいないようだ。
デヴィッド・S・ゴイヤーの見事な脚本を得て、ザック・スナイダー監督は、クリストファー・ノーランの闇の神話「ダークナイト」の系譜に連なる、新たな光の神話を作り上げた。
しかし、古きスーパーマンを愛する一ファンとしては、この作品は素直には受け止められない、複雑な感慨を抱かせるのも事実だ。
あまりにもストイックな鋼の男には、嘗てのスーパーマンの味わいであったユーモアやロマンチシズムが微塵も感じられない。
飛行シーンも、気持ちよく風にのるというよりは、足にロケットでもついているかの様に、風を切り裂く感じで、ロイス・レインと優雅なニューヨークの空中デートを楽しむ様には見えないのである。
何よりもスーパーマンが、周りの犠牲を顧みず、街をぶっ壊しながら暴れまわるというのは、どうしても違和感が拭えないのだ。
最後の最後で、顔の見える個々の市民を守るために行動するものの、前記した様にその結果はあまりにも重い。
自由な大空を思わせるスカイブルーから、ダークなネイビーブルーとなったコスチュームが象徴する様に、この映画には私の愛したアイディアリズムのロマン溢れるスーパーマンは、もはやいないのである。
マッシブな鋼の男には、甘いカクテルなどは似合わない。
鳥だ!飛行機だ!どころではなくロケット級にスピーディーな本作には「レッドロケット・エール」をチョイス。
カリフォルニアのワインどころで作られる、パワフルなボディを持つスコティッシュ・レッドエールだ。
独特の強い香りと強い後味はクセになる魅力があり、濃密な143分でカラカラとなった喉を潤してくれるだろう。

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