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昨年の東京国際映画祭で最高賞の東京サクラグランプリ、監督賞の二冠に輝いた作品が、ようやく劇場一般公開である。
大ヒット中の是枝裕和監督の「そして父になる」と同じ、新生児の取り違えをモチーフとした作品で、時節柄どうしても比較されてしまうが、この二作品は似て非なるもの。
ユダヤ系フランス人のロレーヌ・レビ監督による「もうひとりの息子」が是枝作品と大きく異なるのは二点。
一つは取り違えが発覚した時点で、子供たちがほぼ成人の年齢に達している事。
そしてこの悲劇に見舞われた二つの家族が、イスラエル人とパレスチナ人であるという事だ。
つまり、彼らは民族的には敵同士なのである。
イスラエル、テルアビブ。
この町に住むフランス系ユダヤ人一家シルバーグ家の息子、ヨセフ(ジュール・シトリュク)が兵役検査で健康診断を受ける。
ところがその結果は、ヨセフが両親と生物学的に親子で無いという驚くべきものだった。
母のオリット(エマニュエル・ドゥヴォス)が出産したのはちょうど湾岸戦争の時期で、イラクのミサイルを避けて避難した時、病院のミスで同じ日に生まれた男の子と取り違えてしまったのだ。
そしてオリットの本当の息子は、ヨルダン川西岸に暮らすアル・ベザズ家でヤシン(メディ・デビ)と名付けられ、パレスチナ人として育っている事が分かる。
対立する民族に属し、普段は分離壁で隔てられている二つの家族は、病院の手配で始めて面談する事になるのだが・・・
同じモチーフを扱っていながら、本作の家族が抱える葛藤は、「そして父になる」とは大きく異なる。
二人の子供たちは、5歳の幼児ではなく18歳という大人になりかけの年齢で、突然降りかかるアイデンティティの危機により、彼らの描く人生のグランド・デザインは大きな影響を受けざるを得ない。
ミュージシャン志望のヨセフは、生まれてからずっと信仰してきたユダヤ教のラビに、改めてユダヤ人になるために“改宗”を勧められ、徴兵検査は不合格となる。
国民皆兵のイスラエル社会では、それだけで異端の烙印を押される様なものだ。
一方、留学先のパリで医学の勉強をしているヤシンも、熱烈な民族主義者の兄に「お前は弟じゃない、敵だ」と罵られ、イスラエルへの憎悪が渦巻く西岸地区では、家族もヤシンの本当の出自をひた隠しにするしかない。
彼らの足元で、それまでの人生の基礎に当たる部分が、音を立てて崩れ落ちるのである。
単に子の取り違えというだけでなく、そこに民族対立も絡んでくるから親兄弟の葛藤もまた複雑だ。
豊かなイスラエルの街に暮らし、夫は軍の幹部で妻は医師という中流以上のシルバーグ家と、分離壁によって周りを囲まれ、許可書が無ければ壁を出ることすら出来ないアル・ベザズ家。
夫はエンジニアなのだが、村の外で仕事をする許可が出ないので、自動車の修理の仕事でなんとか生計を立てている。
普通に暮らしていれば、出会うことすら無いであろう両家は、突然民族も宗教もすっ飛ばして“家族”になってしまうのだ。
それでも女たちは、お互いに写真を見せあい、せっかく生んだのにキスすら出来なかった息子の存在を確かめ、交流を深めてゆく。
女たちが本能的にもう一人のわが子を受け入れてゆく一方、男たちが理念に囚われてなかなか現実を見ようとしないのとは対照的だ。
この辺り、「そして父になる」の真木よう子の鋭い台詞を思い出させ、男っていうのはどうやら世界中どこでも一緒なんだなあと苦笑い。
ユダヤ人とパレスチナ人は信じる宗教、言語や文化の違いはあるものの、元々何世紀もの間同じ土地に住み、人種的な差異はほとんど無い。
それ故に、この映画の二つの家族も、18年もの間全く気づくこと無く、取り違えられた子を育てていた訳だ。
はたして人間のアイデンティティを形作るのは、脈々と続いてきた血の繋がりなのか、それとも育った環境なのか。
監督のロレーヌ・レビの一族は、祖父がアウシュビッツでジェノサイドの犠牲となり、父は戦争中レジスタンスとして戦った歴史を持つ。
ユダヤ人迫害の歴史をその血で知るゆえに、フランス社会におけるマイノリティである自らのアイデンティティとルーツに自然と興味を持ったという。
遠い先祖の地で危機に陥った家族の物語を描くに当たって、彼女は現地でイスラエル人とパレスチナ人双方の人々の声を聞き、彼らの現実を物語に取り込んでいったそうだ。
だからだろう、映画は終始対照的な環境にある二つの家族をバランス良く描き、物語を地球上のどこでも理解される普遍的価値観に落とし込む。
異なる立場で同じ葛藤を抱えた二人の息子、ヨセフとヤシンはお互いの文化や生活を知ることで打ち解けて、何時しか本音を語り合う本当の兄弟の様になってゆく。
パーティーに行くためにドレスアップした二人が鏡の前に立った時、ヤシンは「見ろよ、イサクとイシュマエルだ」とつぶやく。
旧約聖書に登場するアブラハムの二人の息子、異母兄弟のイサクとイシュマエルはやがて異なる道を歩み、イサクはユダヤ人の太祖となり、イシュマエルはパレスチナ人を含む全てのアラブ人の始祖となった。
対立し憎み合う二つの民族も、元を辿れば同根。
図らずもお互いの人生をスワップしてしまったヨセフとヤシンは、それぞれが異なる宗教で信仰する神の見えざる手によって邂逅した、アブラハムの子たちなのかも知れない。
本作の場合、「そして父になる」と異なり、二つの家族の選択は最初から決まっていると言っても良いだろう。
18歳の青年が、それまでの人生を全て捨て、言葉も宗教も文化も異なるアイデンティティを選ぶことは現実的にはまずあり得まい。
取り違えの発覚は、彼らにとっては己が居場所を探す試練となったが、真実を知った後もヨセフは変わらずミュージシャンを目指して先に進むだろうし、ヤシンもまたパリへ戻って医学の勉強を続け、いつかは故郷の西岸に病院を建てるのかも知れない。
二人の親兄弟もまた、事態が落ち着けば再びありふれた日常へと戻ってゆくのだと思う。
ただ一つ、それまでと永遠に違うのは、壁の向こう側には“敵”ではなく“家族”がいるという事実。
喧嘩で傷ついたヨセフが「僕が死んだら、葬式はユダヤ式かイスラム式か」と自虐的なジョークを飛ばすと、民族主義者のヤシンの兄が「何を言っているんだ、命があってよかった、神に感謝しよう」と呼びかける。
家族のための祈りにユダヤもイスラムも無く、そこに小さな希望が見える。
イサクとイシュマエルの子孫は、数奇な運命を経て再び家族となったのである。
ユダヤ教とイスラム教は共にお酒の扱いには厳格だが、地中海気候のイスラエルはワインどころでもある。
今回はゴラン・ハイツ・ワイナリーの「ヤルデン シャルドネ」の2012をチョイス。
やや若いがしっかりとしたボディのドライな白で、洋梨やレモンの果実香、コストパフォーマンスも非常に高い。
来年、再来年辺りが飲み頃かもしれない。
このワイナリーのあるゴラン高原も、中東戦争以来の長年の係争地。
かの地に早く恒久的な平和が訪れる様に祈ろう。

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「彌勒 MIROKU」は、稲垣足穂の小説「彌勒(みろく)」を原作に、幻想的なモノクロ映像で描いた作品である。
87分の映画は二部構成に別れており、第一部「真鍮の砲弾」は、未来を夢見る5人の少年たちの物語。
ある者は科学者に、ある者は哲学者に、またある者は詩人になりたいと願っているが、夢想家の江美留だけは自分の将来を漠然としかイメージできない。
ところが、少年たちの一人がある日突然自殺してしまい、残された4人は空を見つめていた彼を悼んで山頂にある天文台を訪れる。
望遠鏡を覗く老天文学士に「何が見えるのか?」と聞く少年たちに、学士は逆に「教えてくれないか。僕たちはどこから来て、どこへ行くのかを?」と問いかける。
その答えを探す少年たちの中で、江美留は一冊の本に挟まれた彌勒菩薩の写真を見つけるのだ。
そこには「五十六億七千万年後に、人類全てを救済するもの」と書かれており、インスピレーションを得た江美留は、小説家になることを決意するのである。
第二部の「墓畔の館」は、それから数十年後、理想とは程遠い生活を送る大人になった江美留を描く。
小説は売れず、極貧生活の中で何か文章を書いてもその原稿を質入し、金を全て酒代に変えてしまう。
時には空腹に耐えかねて盗みまでも。
友人の放浪画家に背中を押されても、自分が何を書くべきかも分からない。
そんな江美留の夢には恐ろしい鬼が現れ、「お前の目指す人間とは何か?」と問う。
極限まで墜ちた精神状態の中で、やがて江美留は遠い過去の自分自身と出会うのである。
おそらく好き嫌いは明確に分かれるだろうが、私は嘗ての「夢見るように眠りたい」や「二十世紀少年読本」を思わせる本作のテイストが好きだ。
作品自体も特異だが、その背景や上映形態も含めて、なんとも型破りで従来の“映画”の定義には収まりきらない作品である。
スタッフや出演者は、京都造形芸術大学の現役の学生たち90人。
もちろん監督の林海象をはじめ、ベテランのプロフェッショナルたちがサポートしクオリティの担保はあるものの、制作作業は全て学生たちがこなしたという。
例えば、撮影監督の長田勇一がアングルをきって、実際に撮影するのは学生という風に。
キャストも第一部で五人の少年たちを演じるのは、全て俳優コースの学生たちだが、少年の役を少女が演じ、やたら文学的な台詞を口にする様はなんとも不思議な異世界感覚を呼び起こす。
制作スタイルだけでなく、興業形態もまたユニークだ。
宣伝媒体は用いず、公式サイトのほかはFacebookとTwitterの口コミのみ。
また本作には普通の映画の様に全ての音が入った「映画版」と、台詞と効果音だけが残され、音楽は生オケによって演奏される「生演奏版」の2バージョンが用意される。
後者は撮影が行われた京都下鴨神社での野外奉納上映に始まり、全国を行脚して上映会を繰り返すというまるでコンサートや芝居興業の様なスタイル。
私が鑑賞したのは、池袋の鬼子母神内の唐組・紅テントであった。
林海象監督が寺山修二の天井桟敷出身である事は良く知られているが、本当は状況劇場への入団を考えていたらしい。
ホントかどうかは分からないが、若き林青年が紅テントを訪ねた時、唐十郎が物凄い形相で小林薫を怒鳴りつけていて、その余りの迫力にビビッて止めたのだとか。
その後、映画監督となった林海象は1996年の「海ほおずき」で唐十郎を主演に迎えるのだが、今回は紅テントでの上映という事で、オマージュとしてこの作品のダイジェスト映像も流された。
天井桟敷出身の映画監督が、唐組の聖地・紅テントで演劇的構造を持った映画を生オケで上映する。
さらに上映前には映画で少年たちを演じた女優たちが、オープニングアクトで桟敷席をびっしり埋めた観客たちに直接呼びかけ、劇中で彼女らの回りを固めるのは佐野史郎、水上竜士、四谷シモンといった状況劇場出身の名優たち。
なるほどここには、マスメディアとしての映画が失ったもの、劇場という暗闇の非日常空間を共有するライブ感覚と熱気が確かにある。
第一部におけるメリエスの引用が示唆する様に、これは映画の再発見に関しての作品と言えるかもしれない。
溢れんばかりのイマジネーションを、小説として形にする事を選んだ江美留は、言わば創作のメタファー。
「人はどこから来て、どこへ行くのか」という問いは、同時に「(人の創作物である)映画とは何で、どこへ行こうとしているのか」と読み替える事が出来る。
デジタル技術とシネコンの登場によって、映画を取り巻く環境、映画そのものの定義も大きく変わりつつある現在。
メディアミックスで宣伝され、全国のシネコンで一斉に上映されるメジャー映画は、もちろん産業の保守本流としてあっていい。
しかし映画とは、本来自由なものだ。
本作は言わば過去と現代、アナログとデジタルのごった煮が生んだ異色の映画体験。
いかにもクラッシックな雰囲気でも撮影はHD、宣伝にSNSを駆使する試みはデジタル時代の現在だが、神社や芝居小屋での生オケつき興業、しかも映画のキャストがオープニングアクトで観客を直接スクリーンへと誘う演出など、映画と観客との距離感はアナログ感がたっぷりだ。
レオス・カラックスは「ホーリー・モーターズ」で、人間たちが“光る機械”に興味を失い、暗闇の中で創造の叡智=イデアを観るという神秘の共有体験の終わりを、劇場の衰萎による本質的な映画の終焉として予見して見せた。
「彌勒 MIROKU」はカラックスの描いた未来に対する、一定の答えを示している様に思う。
映画の未知なる可能性は、まだまだ残されている。
おそらく本作は、「映画版」と「生演奏版」では著しく印象が異なるだろう。
また「生演奏版」は毎回オープニングアクトなどに異なる演出が施されているそうだ。
私はまだ「映画版」を観ていないし、「生演奏版」は場を含めた興業全体を含めて一つの作品だと思うので、今回評価額は差し控える。
ちなみに「生演奏版」は今年だけでなく、来年も全国行脚を行うそうだ。
一つ言える事は、このユニークな体験をもう一度味わうために、私は確実に来年も行くだろうという事である。
今回は本作が生まれた京都は西陣の佐々木酒造の「京生粋 純米吟醸」をチョイス。
水はもちろん酒米は「祝」、吟醸酵母は「京の琴」と全て京都産に拘って作られた逸品だ。
フワリとした吟醸香が広がり、なんともたおやかで優美な仕上がりで、京料理との相性は抜群。
冷でも美味しいが、これからの季節はぬる燗にするのもお勧めだ。

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現代ハリウッド随一のホラーマイスター、ジェームズ・ワン監督が、1971年にロードアイランド州で実際に起こった事件を基に映画化したオカルト・ホラー。
購入した古い屋敷で怪奇現象に襲われた一家は、数々の心霊事件を解決していた著名な心霊研究家のウォーレン夫妻に助けを求める。
あの手この手で一家を追い詰めるお化け屋敷の支配者と、近代的な機器を駆使してその正体を突き止めようとする調査チームの攻防は実にスリリングで、かなり怖い。
「ミッション:8ミニッツ」のベラ・ファーミガと、ワン監督の前作「インシディアス」にも出演しているパトリック・ウィルソンが、実在のオカルトハンター、ウォーレン夫妻を演じる。
競売でロードアイランドの古い家を購入したロジャー・ペロン(ロビン・リビングストン)は、妻のキャロリン(リリ・テイラー)と三人の娘と共に引っ越してくる。
だが、新しい生活を楽しめたのもつかの間。
その家で奇妙な現象が次々と発生し、遂に家族に危害が及んだことから、一家はマスコミでも注目されていた心霊研究家のエド・ウォーレン(パトリック・ウィルソン)と妻で霊能者のロレイン(ベラ・ファーミガ)に助けを求める。
調査チームとともに屋敷を訪れた夫妻は、やがてその家に恐るべき呪いがかけられていることを突き止めたものの、家に巣食う邪悪な魂は、その狙いをキャロリンに定め、次第に彼女の心を支配してゆく・・・
パトリック・ウィルソンが、いつ悪魔にとり憑かれて凶悪化するのかとハラハラだったけど、いやそれは「インシディアス」の方だった。
どちらもジェームズ・ワン監督のオカルト映画で主演も一緒だが、米国では本作が今年の7月、「インシディアス 第二章」が9月と二ヶ月違いで公開され、連続ナンバー1の快挙を達成したそうな。
「インシディアス」シリーズと違って、こちらは実話との触れ込みだが、まあその是非を問うのは野暮というものだろう。
本作は極めてロジカルで良く出来た、お化け屋敷型オカルト・ホラーの秀作である。
あえて似た作品を上げるとすれば、それは「ポルターガイスト」ではないかと思う。
ジェームズ・ワン監督はよほどあの映画が好きだと見え、「インシディアス」でもお化けが家具を積み上げる悪戯描写の再現などでオマージュを捧げていたが、今回もストーリー構成やキャラクターに類似性が見られる。
前半は新居に引っ越してきた一家が超常現象に襲われ、後半心霊プロフェッショナルが登場して解決を図るのはもはやお約束のパターンとなったが、お化け屋敷という一般には現代科学の外側にあると考えられている不条理な現象に対して、最新の計測機器などを駆使して科学的・論理的アプローチでその正体をとらえようとするのも同じである。
面白いのは、本作では前半は奇妙な現象に襲われるペロン一家、後半は彼らを助けようとするウォーレン夫妻の視点で描かれ、完全に主役が入れ替わることだ。
物語のターニングポイントで視点が変わる作品はたまにあるが、うまくやらないと物語の腰が折れてしまう。
本作の場合は冒頭にウォーレン夫妻の担当した1968年の“アナベル事件”のエピソードを前段として配し、ラストでまた次の事件へと向かう事で、映画全体を「オカルトハンター夫妻の残した記録の一つ」という括弧でくくる事で全体の統一を維持している。
霊能力を持つロレインが、心霊事件に向き合うたびに命を削っているとうのも、いかにも米国的なリアリティだ。
アメリカ史上最も有名な心霊能力者は、やはりエドガー・ケイシーだろう。
彼は1945年に亡くなるまで、人々の求めに応じて能力を使ったが、特に多くの人が彼の力にすがった第二次世界大戦中の能力の酷使によって自らの死期を早めたと言われている。
その力が真か否かはともかく、ノブレス・オブリージュの考え方の強いキリスト教圏では、こういった能力を神から授かったギフトと捉え、わが身を削って人々に奉仕する霊能者が多いのは事実だ。
それ故にこの種の事件に関しても非常に多くの記録が残され、研究が行われており、本作の様な映画にも絵空事以上の説得力を付与しているのである。
原題の「The Conjuring」とは“霊的な呪文を唱える事”を意味するが、同時に“奇術”の事でもある。
本作で屋敷に巣食っているいるのは、悪魔化した魔女の呪いなのだが、原題が示唆する通り、とにかく過去のホラー映画に登場したどんな悪魔よりも恐怖の引き出しが多いテクニシャンである。
ポルターガイスト現象はもちろん、子供を夢遊病で操ったり、幻視によって恐ろしげな姿を見せたり、エクソシストよろしく憑依したり、果ては屋敷の外にまでその影響力を及ぼす最恐っぷりだ。
ペロン夫妻の視点で描かれる前半は、ただ訳もわからず恐ろしい現象に振り回される恐怖編。
ウォーレン夫妻が屋敷の謎の正体に迫り、キャロリンを支配しようとする悪魔と対決する後半は、スペクタクル編という感じだろうか。
特徴的なのは、この種のオカルト・ホラーではたいていの場合若い娘がとり憑かれるのに対して、本作では悪魔のターゲットとなるのが一家の母親であるという事。
あのセイラム事件をルーツとし、この屋敷で非業の死を遂げた魔女は、自らの呪いの領域を犯す家族の母親に憑依し、自分の子供を殺させる事で残酷な復讐を遂げるのだ。
ここでウォーレン夫妻にも幼い娘がいるという設定が生きる。
映画は、子供に対する母の愛というもっとも崇高な感情を支配しようとする悪魔と、邪悪な魂に憑依されながらも必死に耐えるキャロリン、そして彼女を救おうとするロレインという二人の母親という明確な対立軸を持つに至り、にわかエクソシストをやる羽目になったエドも加わったクライマックスは、正に手に汗握るスリリングな対決となって大いに盛り上がる。
実にウェルメイドな本作に続編があるとすると、やっぱりラストで言及されていたあの映画のリメイクになるのだろうか。
一応あの事件は住人の金目当ての狂言説が有力となっているけど、真相は果たして?
それとも時代を遡って冒頭のアナベル事件をしっかり映像化するのも面白そうだ。
現在「ワイルド・スピード」の7作目を制作中のワン監督は、もうホラーは卒業と言っているそうだが、「是非とももう一本!」と、どうしても続編を願わずにはいられない、素晴らしい仕上がりである。
今回は、カクテルの「ディアボロ」をチョイス。
日本でディアボロといえばジャグリングなどで使う空中独楽の事だが、元々の語源は“悪魔”の意である。
ホワイト・ラム36ml、ホワイト・キュラソー12ml、ドライ・ベルモット12ml、アロマチック・ビターズ2dashをシェイクしてグラスに注ぎ、オレンジピールを飾る。
さっぱりとした爽やかな味わいは、怖いけどスッキリとした本作の後味にも通じる。

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1983年から1984年にかけて放送され、平均視聴率52.6%の大記録を打ち立てたほか、世界68カ国で放送され人気を博した伝説の朝ドラ、「おしん」の30年ぶりのリメイク映画化。
明治40年の東北を舞台に、小作農の娘おしんが、ひたむきに家族を想い、過酷な奉公生活や厳しい自然環境に耐え、成長する姿を描いている。
オリジナルで小林綾子が演じた谷村しん役を、映画初主演の濱田ここねが圧巻の存在感で魅せ、母ふじ役は上戸彩が母の深い愛と大人の色香を感じさせて、キャリアベストの好演だ。
監督は「あの空をおぼえている」で知られ、舞台となる山形出身の富樫森が務め、脚本の山田耕大は、長大な物語を109分のコンパクトな映画に纏め上げた。
昭和のテレビ史上に残る傑作ドラマを、平成の作り手たちは見事に換骨奪胎して素晴らしい“日本映画”に仕上げている。
ドラマ版を知っている人も、知らない人も、共に楽しむことが出来るだろう。
明治40年の東北の寒村。
貧しい小作農の谷村家に生まれたおしん(濱田ここね)は、一家の食い扶持を減らすために七歳にして町に奉公に出される事になる。
おしんは、奉公先の材木問屋で働きづめの日々を送りながら、雪解けの頃には年季があけて、愛する母ふじ(上戸彩)の元へと帰れると信じて、過酷な毎日を乗り越えてゆく。
しかしある日、店から50銭が盗まれる事件が起こり、濡れ衣を着せられたおしんは、たまらずに店から飛び出してしまう。
吹雪の森をさまよい、倒れたおしんを助けたのは、山中で世捨て人の様に暮らす俊作(満島新之介)だった。
行くあての無いおしんを小屋に留め、本を読めるようにと文字を教えてくれる俊作にはしかし、誰にも言えない秘密があった・・・
オリジナルの「おしん」は、明治・大正・昭和の激動の時代を生きた主人公の谷村しんが、自らの人生を振り返る構成だった。
もちろん、1年間に渡って放送されたドラマを全て一本に詰め込む事はどだい無理なので、本作はあくまでもおしんが初めて奉公に出てから2年間を描く少女編に絞ったリメイク。
とは言っても、このパートだけでも32回もの放送分があり、映画はここからかなり大胆に、描写するシークエンスを大きく三幕構成に絞り込んでいるのだ。
土地を持たない小作農は、働いても働いてもその分搾取され、蓄えを増やすことは出来ない。
貧困から家族と別れ、おしんが奉公に向かった材木問屋では、朝早くから夜遅くまでこき使われ、満足な食事すら与えられない過酷な日々。
挙句の果てにはいい加減な思い込みで泥棒扱いされ、暴力すら振るわれる。
この酷い奉公先は、今で言うところのブラック企業の様なもの。
耐え難い仕打ちに店を飛び出したおしんを救い、匿うのが、ドラマでは中村雅俊が、本作では満島真之介が演じる俊作だ。
無学だったおしんに文字を教え、教師の役割を果たすこの人物は、実は日露戦争の激戦地、203高地で受けた傷に苦しむ脱走兵であり、与謝野晶子の詩を引用しておしんに戦争の悲惨さ、非人間性を教えるのである。
俊作はおしんを親元へと返すため、山を降りたところを運悪く憲兵隊に見つかり、逃亡を図って射殺されてしまう。
そして彼の非業の死と家族との再会の後、映画の後半でおしんが奉公する加賀屋は、誤解が招いたいくつかのトラブルはあったものの、おしんだけでなく従業員たちが楽しく仕事をし、人々の笑顔が絶えない店として描かれる。
ここに来て、それまでの苦労は報われ、おしんはようやく未来を感じることが出来るのだ。
今なぜ「おしん」なのか?という誰もが感じる疑問への答えも、この物語の取捨選択に見える。
ドラマが生まれた1983年は高度成長期が一段落し、オイルショックをも乗り越えた日本が、“ジャパン・アズ・ナンバー・ワン”の掛け声と共に、バブル時代へと突入する少し前。
誰もが豊かな生活を享受し、貧しかった嘗ての日本が忘れ去られようとする頃に、ある意味で時代へのアンチテーゼとして登場した作品だった。
ならば30年後の現在、この国の今はどうか。
一億総中流といわれた日本は既に無く、格差社会などという言葉が連日の様にテレビやネットに踊る。
映画の材木問屋さながらに、従業員を使い捨て、時に死に追いやるブラック企業が社会問題となり、隣国との対立は日常化し、その是非はともかく平和憲法はもはや風前の灯だ。
映画は、多くの貧しさと僅かな豊かさが混在し、新たな列強勢力として国際舞台に日本が飛び出していった明治末という時代を、現在の合わせ鏡としている様に思えるのである。
物語の中で、おしんは三人の人物から三回大切なものを贈られる。
最初は奉公に旅立つ時、祖母から渡されるなけなしの50銭。
これは結局、おしんが泥棒と疑われた時に、店の者に奪われてしまう。
二度目は、俊作からもらったハーモニカ。
これはハーモニカを欲しがった加賀屋の娘かよとの軋轢と葛藤を齎すが、結果的に和解の切っ掛けとなり、かよはおしんの親友となる。
そして最後は、三度目の奉公に旅立つ時に、母から贈られる50銭だ。
これは実は材木問屋で奪われたのと同じ硬貨。
おしんの無実がわかった後に返還された物を、今度はふじが祖母の形見としておしんに手渡すのである。
これらは困難な時代に生きる人々が、幼いおしんへと託した皆の命と未来の象徴であり、時に激しく、時に優しく背中を押された彼女は、一歩、また一歩と大人へと成長して行く。
時代の閉塞に対して映画が描く希望、それはこの国を生み、育て、守ってきた全ての女たちの溢れんばかりの無償の愛だ。
オリジナルでおしんの母ふじを、本作ではおしんを暖かく見守る加賀屋の“大奥様”を演じる泉ピン子の台詞が心にしみる。
ふじが温泉街に働きに出ている事を知ったおしんは、母がいかがわしい職についているのではないかと疑い、ショックを受けるのだが、そんな彼女を大奥様はこう諭すのだ。
「おしん、女ってのはなあ、自分のために働いでいるんではねぇんだぞ。みんな親や亭主や子供の為に働いでいるんだぁ。つゆほども自分のこど考えねえでなぁ・・・ 」
終盤、祖母の危篤を聞いて、実家に戻ったおしんが見るのは、正にこの言葉通りの母の姿だ。
物語のラスト、新たな旅立ちを前に夕暮れの台所で語らう母と娘の姿の神々しい美しさは、本作のテーマを象徴する名シーン。
昭和を代表する名作ドラマ「おしん」は、全ての母なるもの、全ての女たちへ最高の親愛と敬意を捧げた、大いなる女性賛歌として21世紀に蘇ったのである。
今回は、舞台となる山形の地酒、高橋酒造の「東北泉 雄町 辛口純米」をチョイス。
以前山形へ行った時に地の物のお店で飲んだ酒で、日本海産の肴との相性は抜群だが基本的にどんな料理にも合うと思う。
蔵元では冷蔵を薦めているが、確かに冷で飲むと酒のシャープなキレがより際立つ。
東北の厳しい気候が育てた日本酒文化の粋を、ストレートに味わえる一本だ。

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予備知識無しで観たので、てっきりマルコ・ベロッキオが川端康成を映画化したのかと思っていたら、ぜんぜん違った。
イタリアで国論を二分した、エルアーナ・エングラーロの尊厳死事件という実話を題材に、三人の「眠れる美女」を巡る、三つの愛の物語が描かれる。
事故で17年間植物状態にあったエルアーナの両親は、娘の尊厳を守るために延命措置の停止を求めたが、自殺を大罪とするカソリックの影響の強いイタリアにあって、彼らは長い裁判を闘わねばならなかった。
ようやく2008年になって最高裁が両親の訴えを認める判決を出したものの、実際に延命措置の停止を行う病院の前には賛成・反対両派のデモ隊が陣取り、国会では保守派のベルルスコーニ首相も、エルアーナの延命措置を続行させる法案の採決を目指していた。
映画は、彼女の生死を巡りイタリアが深く葛藤していた、2009年2月を舞台に展開する。
一つ目の物語は、保守政党に属するウリアーノ・ベルファッディ議員とその娘のマリアの物語。
ウリアーノは妻を尊厳死させた経験があり、自らの信念を曲げてまでエルアーナの延命措置を続行させる法案に賛成票を投じるか迷っている。
一方、マリアは母の死に際しての父の行動に不信感を抱き、逆に延命賛成のデモに参加を決めるのだ。
ここでは、姿なきエルアーナの存在が、父娘の間に横たわる過去の傷を浮かび上がらせるのである。
二つ目は、真面目な医師バリッドと、自殺未遂して昏睡状態に陥る薬物依存症の女ロッサの物語。
彼の務める病院では、同僚の医師たちが患者の治療そっちのけで、エルアーナがいつ死ぬかを賭けの対象にしている。
そんな殺伐とした職場で、バリッドは死に魅せられた一人の患者を救うために、ただ彼女に寄り添う。
最後は、植物状態の娘の看護のために、栄光のキャリアを捨てた伝説的大女優と俳優志望の息子フェデリコの物語。
彼女は娘と同じ境遇のエルアーナの報道に心をかき乱され、ひたすら奇蹟を神に祈り続ける日々を送っている。
女優としての母を崇拝し、彼女からの愛に渇望する息子は、母を振り向かせるためにある行動に出るのだ。
ベロッキオは、エルアーナ事件に対するイタリア社会のあまりに保守的な反応への憤りから、この映画を企画したそうだが、着想から実際に制作するまでに二年かけている。
おそらくは考えに考えて、事実をそのまま映画化するだけでは、描ききれないと判断したのだろう。
ある種のマクガフィンとしてエルアーナの存在が背景にあるものの、それぞれのエピソード間に直接的なつながりは無く、三つの物語が断続的に平行して描かれ、最後まで絡み合う事はない。
この挑戦的な作劇のスタイルは、キャラクターへの安易な感情移入を拒絶し、観客に物語からの一定の距離感をキープさせるのである。
もちろん尊厳死の問題は、宗教的な部分も含む個人の死生観が大きく影響してくるから、これが正しいという結論を出すのは難しい。
本作の三つの物語も、明確なオチがある話は一つもないのだ。
ベロッキオ自身が一番自身の感情に近く描いているのは、やはり議員のウリアーノだろうが、映画そのものは特定のイデオロギーの立場をとらない。
観客は三人の眠れる美女を巡る、人間たちの葛藤とそれぞれの選択を冷静に眺め、自らの心に生じた波紋に対して自問自答する事になるのである。
物語に対して、完全な答えやメッセージを求める人には物足りないかもしれないが、人間を真摯に見つめた重厚なドラマは見応え十分だ。
本筋とは関係ないが、ちょっと面白かったのが、イタリアの議会に精神科医が常駐していて、建物の中に(?)ローマ風呂があるという描写。
議員たちが浴場のモニターで政局を眺めている画は、「テルマエ」っぽくてなかなかシュールだったが、これは本当にあるのだろうか。
カソリックの文化が重要な背景となっている本作だが、キリスト教ではワインはキリストの血に例えられる。
今回は今回は、イタリアはトスカーナからテヌータ・ディ・トリノーロ「レ・クーポレ・ディ・トリノーロ」の2009をチョイス。
パワフルなボディの赤で、滑らかな舌触り、フルーティさと微妙なスパイシーさのバランスも良い。
味のレベルを考えれば、コストパフォーマンスも抜群だ。

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久々に鬼才の映像マジック全開の、ウェルメイドなサスペンス映画だ。
舞台となるのは、世界的広告代理店のベルリン支社。
ここを仕切るクリスティーンは、生馬の目を抜くこの業界で若くして成り上がったやり手。
その美貌に群がる男たちを転がし、会社の上層部には実績を猛烈にアピール。
ところが、親密な部下だったイザベルの手柄を横取りしたところ、思いがけず彼女からの手痛い反撃を喰らった事から、二人は熾烈な報復合戦を繰り返す。
そしてある夜、クリスティーンが何者かに惨殺される。
警察は当然イザベルを疑うが、イザベルの部下のレズビアンの女性や、クリスティーンとイザベルに二股をかけていた情夫も含めて人間関係は複雑。
はたして、イザベルは本当にクリスティーンを殺したのか、もし嵌められたなら真犯人は誰かのか?
白と黒のコントラスト、ブロンドに白い衣装のクリスティーンをレイチェル・マクアダムズ、ダークヘアに黒い衣装のイザベルをノオミ・ラパスが演じる。
デ・パルマのサスペンスと言えば「殺しのドレス」のナンシー・アレンや、「ボディ・ダブル」のメラニー・グリフィスら、魅力的なビッチたちが印象深い。
本作では以前ほど直接的ではないものの、セクシャルなイメージがサスペンスと絡み合う彼らしさも健在だ。
何しろ冒頭で、クリスティーンとイザベルが顔を寄せ合ってMacの画面見てるだけの描写すら、何とも言えない官能の香りを漂わせているのだから。
劇中ではバレエ「牧神の午後」が重要な意味を持つが、直接的なモチーフになっているのはバレエの元となったマラルメの詩「半獣神の午後」だろう。
これは半獣神がニンフたちとの目眩くエロスな体験を、はたしてあれは夢現かと思い出している様を描いたもので、物語の内容とも微妙に被っているのだ。
お互いに裏切られた女たちが、「やられたらやり返す!倍返しよ!」と叩きあっているうちにドツボにはまって行き、さらに人を呪わば穴二つとばかりに、予期せぬ落とし穴が待ち構える。
先の読めない展開を彩るのは、悪夢、双子、同性愛、変態セックス、マスクといったミステリアスなスパイス。
そして「私が、生きる肌」などアルモドバル作品で知られるホセ・ルイス・アルカイネの外連味たっぷりのカメラ!
物語がいよいよターニングポイントに差し掛かると、映像もまた登場人物の心象を反映し始める。
光と影が縞の様になった照明、不安感を強調する傾いた構図、スプリットスクリーン。
近年のデ・パルマ映画では、なりを潜めていた凝りに凝ったビジュアルが、ここぞとばかりにスクリーンから主張してくる。
音楽までも懐かしいテイストだなと思ったら、「レイジング・ケイン」以来20年ぶりのタッグとなるピノ・ドナッジオではないか。
サスペンス、ホラーで頭角を現し、一時はヒッチコックの後継者と呼ばれたブライアン・デ・パルマは、「アンタッチャブル」の大成功以降、徐々に軸足をジャンル映画から遠ざけていたが、本作はまるで80年代の再現の様な大胆な原点回帰。
ぶっちゃけB級テイストなのだけど、作劇ロジックもビジュアル演出も、一目でデ・パルマだと分かる押しの強さを見ていると、嘗ての映像の魔術師っぷりを知るオールドファンとしては、なんだかとても嬉しくなってしまうのである。
今回は主役の二人のイメージカラーから、白と黒のカクテル「ブラック・ベルベット」をチョイス。
スタウトビールとキンキンに冷やした辛口のシャンパンを、1:1の割合で静かにゴブレットに注ぐと、スタウトの黒と白い泡の綺麗なモノトーンが出来上がる。
深いコクとシャンパンの爽やかさを併せ持ち、名前の通りベルベットの様にきめ細かい泡の舌触りを楽しめる。

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なんとも意表を突く、終末世界のロミオとジュリエット。
世に歩く死者を描く映画は数あれど、なるほどこれは色々な意味で新しい。
何しろゾンビの青年“R”が、自らの視点で人間の女性とのラブストーリーをモノローグしてゆくのだ。
舞台となるのは死者が蘇る謎の奇病が蔓延し、ゾンビとの戦いが長年続いている世界。
人間軍のメンバーだったヒロインのジュリーは、とある任務でゾンビの集団に襲われ、絶体絶命の危機に陥る。
ところがゾンビの中のイケメン男子が、彼女に一目惚れしてしまうのだ。
この世界のゾンビには段階があって、我々がよく知るゾンビの段階では僅かながら知性や感情が残っているものの、激しい飢えに突き動かされて人間を襲う。
やがてゾンビ化が進むと、肉は腐り落ちて殆どガイコツだけの様な状態となり、こうなるともう一切の人間性は失われる。
面白いのは、ゾンビが犠牲者の脳を食うと、相手の記憶や感情を追体験する事が出来るという設定だ。
そう、実は“R”はジュリーの彼氏を食った事で、その記憶を受け継いてジュリーに惚れてしまったのである。
最初はてっきりコメディだと思って観ていたので、ゾンビたちが人間的過ぎて、あんまりギャップで笑えないなあと感じていたが、後半の物語の流れを見ればなるほど納得。
人間たちはゾンビと戦ってはいるものの、実はゾンビの事を何も知らない。
そもそもゾンビという呼称自体が、過去の映画やドラマの印象からそう呼んでいるだけで、彼らが僅かながらも人間性を残してる事すら分かっていない、いや分かろうとすら思っていないのだ。
ジョン・マルコビッチ演じる人間軍のリーダーは、ゾンビの跋扈するエリアと人間の住むエリアを巨大な防護壁で隔てている。
「ワールド・ウォーZ」のイスラエルのシークエンスでも似たような壁が出て来たが、あれは誰が見ても実在のパレスチナの壁のメタファーだった。
本作においてもそれは同じで、心のあるゾンビとそれを知らぬ人間の戦争は、現実世界の様々な不寛容をカリカチュアした寓話的世界観なのである。
タイトルが「ウォーム・ボディーズ」と複数形なのがポイントだ。
“R”とジュリーが恋をした事によって、物語の世界に生じた波紋はゾンビたちの間に広がり、やがて冷たく、鼓動を止めた心臓に微かな変化が訪れる。
だが、二つの世界の間に立ちはだかっているのは、実は物理的な壁よりも高い人間たちの猜疑心だ。
それまでに配した伏線を回収しながら、押し寄せるガイコツの軍団と、人間性を取り戻したゾンビたち、そして新たな変化に戸惑う人間たちが三つ巴となるクライマックスはなかなかなかの盛り上がりをみせる。
そして、最後まで消えなかった未知なる存在への恐れを取り除くのは、やはり最初に心の壁を壊した若い二人の愛なのである。
ゾンビメイクをしていてもなぜか爽やかで、どこか若い頃のトム・クルーズを思わせる“R”役のニコラス・ホルトが良い。
グロいシーンは無いので、ゾンビ映画が苦手な人にもオススメできる、気持ちの良い佳作である。
今回は取り戻した体温を更に温めるホットカクテル、「カルーア・コーヒー」をチョイス。
耐熱のグラスにカルーア30ml、ホットコーヒー150mlを注ぎ、最後に生クリームを浮かべる。
ちなみにサンフランシスコでコッポラが経営していたバー・トスカには、このカルーア・コーヒーっぽいけど何か違うトスカ・スペシャルという美味しいカクテルがあり、私も何度も再現しようとしたのだけど、結局できなかった。
あのレシピを知りたいものだ。

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製作費1200万ドルの低予算映画ながら、2012年2月に米国で公開されるやランキングトップに躍り出て、全世界で製作費の十倍以上の興行収入を叩き出したヒット作。
にも関わらず日本公開がなかなか決まらなかったので、私は痺れを切らして海外版Blu-rayを買ってしまった。
今回ようやく劇場公開されたので、改めて鑑賞。
結果的に日の目を見た事は良かったが、ある意味日本の映画市場のガラパゴス化を象徴する作品であり、外国映画興行の先行きを不安視せざるを得ない。
監督のジョシュ・トランクと脚本のマックス・ランディスが作り上げたのは、三人の多感な思春期の少年たちを巡る兎穴の寓話だ。
同時にこれは、巨大な力を持ってしまった人間の悲劇を描いた、もう一つの「AKIRA」であり、男子版の「キャリー」でもある。
トランク監督もこれら作品の影響を受けたと語っているが、モキュメンタリー的な手法を取り込んだり、図らずも超能力を持ってしまった三者三様の反応を対比させる事で、単なる模倣に留まらないフレッシュなSi-Fi青春映画の佳作として昇華させている。
奇妙な洞窟に入った事によって超人となるのは、天真爛漫な学園の人気者スティーブ、複雑な家庭に育った孤独な少年アンドリュー、そして彼の従兄弟でもある平凡な高校生マットだ。
最初は念力でスカートめくりしたり、子供のオモチャを動かして驚かせたり、馬鹿馬鹿しい悪戯を楽しんでいたものの、彼らの能力は急激に成長し、危険なほど強大なものになってゆく。
もしかしたら自分たちの能力を使って何か偉大な事が出来るかもしれない、しかしその力を晒せば、おそらく人々から恐れられ拒絶されるだろうという、スーパーマンはじめあまたのスーパーヒーローがぶつかった超人のジレンマに、彼らも陥ってしまうのである。
無邪気な悪戯からはじまって、三人が遊び方を見つける感覚でどんどんと力を“開発”してゆくプロセスは、モキュメンタリー手法のおかげで観客も彼らの仲間になった様な臨場感を味わえる。
通常この種の映画は、劇中の登場人物の手持ちカメラや街中の監視カメラの映像を使っているという縛りがあるので、どうしてもカメラワークに制約が出るが、何しろ彼らは超能力者だ。
カメラポジションだって空中に浮かせて自分撮りも出来るし、移動撮影も思いのまま。
映画の設定と手法をうまく組み合わせて、新しい感覚の映像を見せてくれる。
そして、不治の病に苦しむ母と飲んだくれの父の元で育ち、この世界の不条理に複雑な思いを抱くアンドリューは、本気で望めば何でも出来るという超人としての自分と、無力な十代の若者としての自分との間で葛藤し、次第に自らの心の均衡を失ってゆく。
アンドリューが内面の怒りに支配され、暴走してゆくプロセスは心理ドラマとしてもなかなかの出来栄え。
遂に自分を人類に対する“捕食者”と位置付けたアンドリューと、彼を阻止しようとするマットという二人の超人による、シアトルのダウンタウンを舞台とした都市破壊と空中戦は、低予算を感じさせないスペクタクルだ。
改めて観ると、このシークエンスは似たシチュエーションの「マン・オブ・スティール」のクライマックスに明らかな影響を与えている事が分かる。
何しろアンドリューの暴走を止めるために、マットが直面する苦渋の決断すらほぼ同じ流れなのだから。
ところでタイトルの「クロニクル」とは単純に“記録する”という意味もあるが、本来は“年代記”の事である。
ジョシュ・トランク監督は本作のヒットを受けて抜擢され、マーベルの「ファンタスティック・フォー」を制作中だが、「クロニクル2」にも前向きだという。
果たしてバットマンよろしくある土地へと消えた登場人物がこれからどうなるのか、新たなる“超人年代記”の実現を期待したい。
こちらには、学生のパーティにはつきもののアメリカン・ビールの代表「ミラー ドラフト」をチョイス。
バドワイザーなどと同様、水の様に薄いのでガバガバ飲めてしまうが、私はどちらかと言えばミラー派。
念力で空を飛びながら飲んだら気持ち良いだろうな。
酔っ払って意識を失ったら落ちて死ぬだろうけど(笑

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南アフリカ発の異色の社会派SF、「第9地区」で大ブレイクしたニール・ブロムカンプ監督の待望の第二作。
舞台はアフリカ大陸から遥か北米へ、しかしそのSFマインドと社会性は健在だ。
時は22世紀、人類の富裕層は環境の悪化した地球を捨て、巨大なスペース・コロニー“エリジウム”に住んでいる。
光と緑に満ち、飢えや紛争とは無縁で、どんな病気や怪我もたちどころに完治する、まさに楽園だ。
一方、貧困層の人々は荒れ果てた地球に住み、エリジウムの富裕層によって徹底的に搾取されている。
彼らは富裕層の経営する工場で使い捨ての駒として酷使され、十分な医療すら受ける事が出来ないのだ。
もちろんエリジウムへの密航を企てる者もいるが、彼らの殆どは辿り着く事無く、宇宙の藻屑となる運命だ。
そんな究極の格差社会で、余命5日を宣告された男が一人。
不運な事故で致死量の放射線を浴び、助かるにはエリジウムで治療するしかない。
マット・デイモン演じるマックスは、かくしてパワードスーツを体に接合するサイボーグ手術を受け、エリジウムへと潜入するという訳だ。
荒廃し、スラム化した地球の風景、無骨な魔改造が施された車のビジュアルなどは、「マッド・マックス2」を思わせる世界観。
主人公の名前を含めて、これはブロムカンプからのオマージュだろう。
本作は基本英語劇だが、スラムの住人が喋っている言葉は、メキシコ訛りのスペイン語が耳に付く。
そしてエリジウムの人々は英語と共にフランス語を話している。
「第9地区」で母国のアパルトヘイトを比喩したブロムカンプが、今回俎上に載せるのはアメリカとメキシコの間の経済格差だ。
スペイン語を話す地球の人々は、富める国境の向こうを目指すメキシコ人たち。
そして彼らを無情に排斥するエリジウムは、もちろんアメリカ合衆国のメタファーだ。
彼らがこれ見よがしにフランス語を喋るのは、アメリカの上流階級にとってフランス語が憧れの言語だからである。
そしてエリジウムへと侵入するマックスを追うのが、「第9地区」の主役だったシャルト・コプリーが強烈な南ア訛りの英語で演じる傭兵クルーガーというのが面白い。
このキャラクターは、ハリウッドという異邦で暴れる監督自身だったりするのだろうか。
エリジウムとは、ギリシャ神話に出てくる西方の大地の果てにあるという死後の楽園、“エリュシオン”の英語読みである。
ここには神々によって愛された英雄たちの魂が眠る地であり、つまり本来生身の人間が暮らすべき所ではない。
死後の世界の名を持つスペースコロニーは、現実世界の搾取によってのみ成立している偽りの楽園なのだ。
だからこそ、主人公マックスの運命は、彼がエリジウム行きを決めた時点で決まっていたの知れない。
SF世界を現実の合わせ鏡として、明確な社会性を持たせるというブロムカンプのスタンスは良い。
しかし、後半に行くに従って物語の展開が雑になってしまうのはちょっといただけない。
特に珍しく悪役を演じたジョディ・フォスターの扱いはビックリするくらい酷く、よくこれでOKしたものだ。
まあパワフルではあるものの、「第9地区」ほどの漲る熱気が感じられないのは、やはり母国をモデルにした作品と、客観的に見られる外国をモデルにした作品のテンションの差なのだろうか。
今回は、見ているだけで喉が渇くほど埃っぽい地球でも美味しい、メキシカンビール「コロナ エキストラ」をチョイス。
南国のビールらしく軽やかで飲みやすく、日本やアメリカのライト系ビールとはまた違った爽やかな後味が気持ちいい。

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