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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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ショートレビュー「おじいちゃんの里帰り・・・・・評価額1650円」
2013年11月29日 (金) | 編集 |
おじいちゃんが、伝えたかった事。

これは愛すべき映画である。
1960年代の高度成長期、当時の西ドイツに移り住んだトルコ人のイルマズ家。
ほぼ半世紀の時が経ち、主のフセインはすっかりドイツ化した一族を連れて、遥かトルコ内陸部の故郷への旅に出る。
監督はトルコ系ドイツ人のヤセミン・サムデレリ。
実妹ネスリンと共に、自らの家族の体験を元に書き下ろしたオリジナル脚本は、二つの国と二つの文化に生きる移民家族の過去と今をユーモアたっぷりに描き出す。
おそらくはサムデレリ姉妹自身がモデルであろう、孫娘のチャナンの目線で語られる物語は、ニュートラルでありながら、家族のルーツたるトルコの魂に深い愛着を感じさせる。

現在のドイツでは、人口の1/5強を外国人、または外国出身者が占めると言う。
その先がけと成ったのが、第二次世界大戦の惨禍からの急速な復興期を支えたトルコ人たちだ。
チャナンが愛情たっぷりに語る物語の主人公、フセインは100万と1人目の移民労働者としてドイツへとやってくる。
やがて少しずつ蓄えを作ったフセインは、妻のファトマと三人の子供たちを呼び寄せ、一家でドイツで暮らし始めるのだ。
彼らはトルコの中でも、イスタンブールなどヨーロッパに近い都会ではなく、大陸深部の貧しいアナトリア地方の出。
当然ドイツ語など話せる訳も無く、全く異なる生活習慣から移民当初はトラブルの連続。
映画は、カルチャーショックから最初は戸惑いばかりだった一家が、徐々にドイツ化してゆく様を、適度に漫画チックにカリカチュアし、シニカルな笑いに包み込む。

そして現在。
トルコからやって来た子供たちと、ドイツで生まれた子や孫も含めて、三世代にまで広がったイルマズ家は、大きな転換期を迎えている。
フセインはファトマに引き摺られる様にして、しぶしぶながらドイツ国籍を取得。
チャナンはイギリス人の恋人と付き合っているが、妊娠してしまった事を家族に言い出せずにいる。
息子たちはそれぞれ失業や離婚の危機にあり、ドイツ人と結婚した三男の孫のチェンクは、学校で阻害されて自分はドイツ人なのかトルコ人なのかと悩む。
そんな時にフセインは、唐突に故郷の村に別荘を買ったと言い出すのだ。
彼はアイデンティティが薄れ、バラバラになろうとしている家族をもう一度一つにするために、故郷への長い旅に皆を連れ出すのである。

ドイツから遥か3000キロ、黄色いマイクロバスに乗って小アジアの奥地を目指すイルマズ一家。
大家族の中で、移民一世のフセイン、二世のチャナン、そして三世のチェンクという、世代も文化も違う三人でトライアングルを構成したのが上手い。
性格的に似たもの同士のフセインとチャナンの絆と家族への想い、そしてバスの中でチャナンがチェンクに語り聞かせる一族の“むかし話”を二つのコアに、それぞれの葛藤の解消へと向けてバスは走る。
それは、心のより所としての家族を再確認する時間であり、薄れながらも皆の心の奥底にあるトルコの血というアイデンティティを、肌で感じる経験でもある。
そして、旅の間に自分自身の内面と向き合った、家族それぞれが下す人生の決断。
移民問題という極めて社会的な題材を扱いながら、インサイダーとしてパーソナルで普遍的な家族の物語に落とし込み、ペーソス漂う賑やかな人情喜劇として仕上げたサムデレリ姉妹の手腕は見事。
主人公のフセインを演じるヴェダット・エリンチンをはじめ、個性たっぷりの俳優陣も好演している。

一家の旅を見届けた観客は、最後に出てくるこんな言葉に、深い共鳴を覚えるだろう。
「労働力を呼んだはずだが、やって来たのは人間だった」
その通り。“労働力”なんて生物はこの地球に存在しないのだ。
イルマズ家は、もうすぐ四世代になる。
生まれてくる子供も、きっといつかおじいちゃんの家を訪ねるに違いない。

今回は、トルコの酒「イエニ ラク」をチョイス。
ラクはブドウのエキスとアニスから作られる蒸留酒で、水で割ると白く濁る事から、トルコでは「ライオンのミルク」とも言われる。
香草を使ったお酒に共通するが、独特の香りが強いので、好みははっきりと別れるだろうが、人によってはクセになる。
水割りのラクと水だけのグラスを用意し、両方を交互に口に含んで、口内で更に割る様にするのが現地の飲み方らしい。
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ショートレビュー「ウォールフラワー・・・・・評価額1600円」
2013年11月29日 (金) | 編集 |
壁の花だって、咲ければいい。

1999年に出版され、一躍ベストセラーとなった小説「The Perks of Being a Wallflower」を、原作者のスティーヴン・シュポースキー自ら脚色・監督して映画化した作品。
ありがちな異業種監督のお遊びではない。
素人とはとても思えない実に巧みな脚本構成と、映像的なセンスの良さに驚かされる。
物語は、作者の分身である主人公のチャーリーが、“誰か”に向けて書いている書簡という形式で語られ、簡単に言えば作家志望の内気な少年が、破天荒な上級生と彼の超美形の義妹と出会った事で世界が開け、濃密な青春を謳歌するというお話。
特に目新しい内容ではないが、主人公のチャーリーを演じるローガン・ラーマンをはじめ、彼を未知の世界へと導くパトリックとサムの兄妹役のエズラ・ミラーとエマ・ワトソンら、正に今が旬の若手俳優たちが素晴らしい存在感を見せ、全編が瑞々しく輝いている。

てっきり現代劇だと思い込んでいたので、強烈な同時代感覚に驚いた。
私ごとだが、本作の舞台となっている1991年は、私がアメリカで大学生をやっていた時代に重なる。
大学と高校の違いはあれど、パーティーで知らずに葉っぱ入りブラウニーを食べさせられて乱れるとか、週末ごとに地元の映画館で「ロッキー・ホラーショー」のパフォーマンスを楽しむとか、主人公たちがやってる事が、ほとんど私自身の青春時代のネタばかり。
いつの間にか、彼らの仲間になった気分で、映画の中に再現された思い出を楽しんでいた。
今ではだいぶ廃れてしまった様だが、当時は全米のあちこちの学生街の名画座で、週一とか月一で「ロッキー・ホラーショー」ナイトがあって、数奇者たちが喜々としてパフォーマンスやっていたものだが、そらサムみたいな娘がいたなら私も一緒に下着パフォーマンスやりたかったよ(笑

しかし、ほんの20年ちょっと前なのに、世の中ずいぶん変わったものだ。
画面の中の誰一人として、スマホもタブレットも持ってない世界の懐かしさ。
恋した相手にカセットテープを作って渡すなんて事も、iPodの出現以降滅び去ってしまった文化の一つだろう。
シュポースキー監督は1970年の生まれだそうで、だとすれば実際に高校生活を送ったのは80年代の後半という事になる。
あえて91年を舞台とした理由は、この時代がパソコンとネット、それに続くモバイルディバイスの登場で、私たちの日常が劇的に変わる前夜だったからではないだろうか。
再び私事で恐縮だが、私はちょうどこの年に、大学でコンピューターのクラスを履修し、最初のパソコンとしてマッキントッシュ・クラッシックⅡを購入した。
この映画の世界は、当時を知る元若者には懐かしく、逆に今の若者には新鮮に映ると思う。

時代性と普遍性は本作のキーワードだ。
当時から大きく分かったものもあれば、変わらないものもあり、スクールカーストもその一つ。
内向的で心の奥底にトラウマを秘めたチャーリーは、自他ともに認めるカーストの最下層。
パトリックと遊び友達となり、サムに恋をする事で、壁の花の境遇から脱出し、いわゆるジョックとクイーンビーの様な学園の保守本流とは異なるが、尖がった“はみ出し者”の枠で高校生活を大いに楽しむ。
だが、幼少期のある経験から、心の奥に深刻なトラウマを隠しているチャーリーはもとより、人気者のパトリックや誰が見ても美少女のサムも、それぞれに大きな葛藤を抱えている。
映画は、チャーリーにとっては高校に入学して最初の一年、上級生のパトリックたちにとっては大学進学を控えた最後の一年を通して、恋や失恋、喪失の痛みや発見の喜びを丁寧に描く。
彼らは皆、不安に苛まれ、挫折を知り、同時に希望を抱き、可能性を知る。
そして最後に、無限の世界へそれぞれの新しい一歩を踏み出すのだ。

原作小説は、アメリカでは新世代の「ライ麦畑でつかまえて」と評されているそうだが、なるほど内容からも“誰か”に語りかけるスタイルからもそれはわかる気がする。
残念ながら未読なので、はたしてサリンジャーの様に古典として残るかどうかはわからないが、少なくとも映画版は才能豊かな若手俳優たちの、今しかない輝ける時を活写した青春映画の佳作として、長く愛される様になるのではないだろうか。
スティーヴン・シュポースキー監督には、ぜひまた映画を撮ってもらいたいものである。

今回は、22年前にサムと飲みたかったカクテル「オレンジ・ブロッサム」をチョイス。
冷やしたジン 45mlとオレンジジュース15mlを、シェイクしてグラスに注ぐ。
美しいイエローのカクテルだが、そのルーツは禁酒法時代に粗悪な密造酒の匂いをオレンジの風味で誤魔化した事とも言われる。
現在のオレンジ・ブロッサムは、シャープなジンの味わいをオレンジの甘味と酸味が引き立てる、洗練された大人のカクテルだ。
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かぐや姫の物語・・・・・評価額1800+円
2013年11月25日 (月) | 編集 |
かぐや姫が、本当に欲しかったもの。

巨匠・高畑勲が78歳にして挑んだのは、日本における物語の祖にして最初のSFファンタジー、「竹取物語」の初の長編アニメーション映画化である。
137分の上映時間は、比類するものの無い至高の映画体験
天土火水、森羅万象の中の生命への慈愛が、スクリーンから溢れ出る。
ここにあるのは作家の小宇宙に再構築された、この美しき世界そのものだ。
作品の志向する先はある意味真逆だが、「風立ちぬ」における宮崎駿に続いて、高畑勲もまた自身の最も美しく、最も優れた作品を作り上げたのではないだろうか。
アニメーション映画史を揺るがし、永遠に記憶されるべき傑作中の傑作である。
※核心部分に触れています。

昔々。
山で竹を取り、様々な物に加工しては売ることで、慎ましく暮らす翁(地井武男)とその妻の嫗(宮本信子)がいた。
ある日、翁が竹やぶで不思議な光りを放つ竹の子を見つけると、その中から小さく愛らしい姫が現れる。
ところが姫を家に連れ帰ると、突然人間の赤ん坊に変身してしまう。
子供のない翁と嫗は、姫を天からの授かりものとして大切に育て始める。
急速に成長する事から、村の子供たちから“竹の子”と呼ばれた姫(朝倉あき)は、やがて美しい娘となる。
その頃、竹やぶの竹から黄金や高価な反物が出てくる事が相次ぎ、これは姫を幸せにせよという天命だと考えた翁は、姫を高貴な身分の貴公子と結婚させようと、黄金を使い都に壮麗な屋敷を構える。
“なよ竹のかぐや姫”の美しさは、瞬く間に都で評判となり、求婚者が押し寄せたが、窮屈な都の暮らしは次第に姫の心を曇らせてゆく・・・


映画が始まって間もなく、今は亡き名優・地井武男の命の火を燃やすような魂の演技に早くも涙腺が緩るむ。
本作のボイスキャストによる収録が行われたのは、2011年の事だという。
映像制作よりも先に、声と表情を録音・録画し、それに合わせて作画するプレスコ技法が生んだ奇跡だ。
隅々まで描き込むのではなく、広い余白に静の中の動を感じさせる和テイストの作画は、時に荒々しく、時に繊細で、観る者の心にえも言われぬ郷愁を呼び起こす。
もっとも、映像的には凝りに凝った素晴らしい仕上がりだが、それ自体が斬新であるとは言えない。
筆で描いた様なタッチの作品は、日本の商業映画では物珍しいかもしれないが、インディーズ作品や海外作品では過去にも数多く作られている。
「かぐや姫の物語」の白眉は、何よりも高畑勲の集大成というべき圧巻のアニメーション演出と、緻密に構成された脚本の力である。

話そのものは、誰もが知る「竹取物語」に極めて忠実だ。
竹から現れたかぐや姫が、翁と嫗に育てられ、やがて絶世の美女へと育つ。
だが、姫は誰とも結婚しようとはせず、求婚する貴公子たちに、決して手に入れられない贈り物を持って来いという無理難題を突きつけて追い返す。
遂には帝まで姫をそばに置こうとするものの、突然「実は私は月の世界の者」と告白し、月へと帰ってしまうというお話である。
成立してから既に千年以上という長い歴史の間には、様々なバリエーションが作られており、細部は伝承によって異なっているらしいが、大まかにはこんな話だ。
だが、プロットの流れは原作通りであるものの、実際に何をどう描くかは相当に脚色されており、決して昔話をただなぞっただけではない。

そもそも月の人であるかぐや姫は、なぜ地上へとやって来たのか。
原作では罪人として穢れた地上へと流されたとなっているが、では一体どんな罪を犯したというのか。
高畑勲と坂口理子の脚本は、元の物語には詳しく描かれていない“かぐや姫の動機”、そしてキャッチコピーにもなっている“姫の犯した罪と罰”に迫る。
構成上原作と大きく異なるのは、山里で育ったかぐや姫の幼少時代の描写だ。
原作では殆どスルーされているこのシークエンスは、上映時間のおよそ1/4を費やし、竹から生まれた姫が赤ん坊へと変身し、短い期間に人間の子供として生き生きと成長する様がじっくりと描かれている。
村の子供たちと遊び、仕事をし、時に悪戯し、そしてこれも原作には登場しない捨丸という少年との淡い初恋。
このどこか若き日の高畑勲の代表作「アルプスの少女ハイジ」を思わせる山里のシークエンスは、圧倒的なアニメーション技術の表現力もあって、正しく循環する生命の理想郷、日本人の心にあるハートランドの趣きを感じる。

しかしかぐや姫を溺愛し、貴公子と結婚させる事が天からの使命と考えた翁によって、彼女は命に満ちた山里の暮らしを失い、都の大邸宅で籠の鳥となってしまう。
自分が“なよ竹のかぐや姫”と名づけられた事を告知する祝宴で、男たちの心無い言葉を聞いた彼女が、嘗て自分が住んでいた里へと疾走する、現実とも夢ともつかぬ不思議なシークエンスは物語の大きなターニングポイントだ。
山の民は森のライフサイクルを守るために、定期的に土地を移るため、かぐや姫の愛した人々の姿はもうそこには無い。
幸せだった子供時代は永遠に帰らない事を知った彼女は、地上の生を謳歌する喜びをここで失うのである。
そして同じように、夢うつつで対となるエピソードが終盤にある。
月へと帰ることが避けられない運命と知ったかぐや姫が、満月の前にもう一度故郷の里へと戻ると、そこで成人した捨丸と出会うのだ。
子供の頃伝えられなかった想いをお互いに告白する二人は、喜びの感情と共にこの世界を飛び回る。
宮崎駿も真っ青の飛翔感たっぷりのこのシークエンスはしかし、既に失われたものへの束の間の幻想。
二つの“夢オチ”は、言わば理想郷の喪失と再発見であり、かぐや姫の心の状態にリンクし、三幕構成の区切りとなる役割も果たしている。
他にも、映画は数多くの対照性を物語に潜ませる。
例えば山里と都、庶民と貴人、月と地上、捨丸との二度の別れ、子供たちのわらべ唄と月の天女の歌。
これら対照性の状況や現象によって、映画はかぐや姫にとっての幸せ、即ちこの世界で本当に欲しかったもの、そして彼女が犯した罪と罰とは何なのかを描き出してゆくのである。

かぐや姫が地上へと降りた理由。
それは、嘗てこの世界から月へと戻った天女から子供たちのわらべ唄を聴き、命の喜びを知りたくなったから。
かぐや姫を迎えに来る月の使節団の中で、月の王と思しき人物が仏相なのがポイントである。
月が仏教で言うところの解脱者たちの世界だとすれば、彼らは人間の抱える所謂“四苦八苦”の葛藤と、生まれたものは全て死ぬ“無常”の業から解放され、不老不死で迷いも苦しみも持たない。
月の都は清浄だが人々には何の感情もなく、ただただそこに存在するだけ。
そんな世界で、無常の存在に心惹かれ、生まれては死ぬ生命の秘密に魅せられて、不浄なる地上への憧れを募らせたかぐや姫は、罪人として流されたのである。
劇中でも印象的に使われている、「まわれ まわれ まわれよ」から始まるわらべ唄は、水車の様に回り続けるこの世の命の理を表現した歌詞だが、「まわれ めぐれ めぐれよ」で始まる天女の歌は、もう手が届かなくなった愛おしい地上への想いを歌い、悲愁を帯びたものとなっている。
この二つの“うた”は、組み合わせて本作の物語の縮図となる様にできているのだ。

ささやかな暮らしだが、移り変わる四季と人々の喜怒哀楽の中で、生を満喫していたかぐや姫はしかし、都での窮屈な暮らしの中で、いつしかこの世の魅力を見失い、留まる意味が分からなくなってしまう。
だから誰も愛さず、何もせず、ただ日々を送るだけ。
一生懸命生きる事を諦めてしまったがゆえに、かぐや姫は月へと帰らねばならくなるが、失うことになって初めて、地上へとやって来た理由を再び見出す。
必滅の世界で、他の命と一緒になって一日一日を悔いなく生きる、それこそが彼女の喜びであり、幸せだったはず。
そして、この世に満ちているのは月の都で言われている様な“穢れ”ではなく“彩り”である事に気付き、同時に自らに課された罪と罰の正体を理解する。
本来月の人であるかぐや姫にとって、不浄の地上で感じる喜びは全て罪であり、逆に喜びを失う事による悲しみは全て罰なのである。
だからこそ月の天人たちは、自ら望んだ生を放棄すると言う、“罪の中の罪”を犯したかぐや姫に、この世界で過ごしたかけがえのない記憶を、全て忘れるという最大の罰を課す事で、彼女を月の世界に再び迎え入れるのだ。
原作ではかぐや姫が去る時に、不死の薬を残してゆくが、映画ではこのくだりがばっさりとカットされているのも、本作のテーマを考えれば納得がいく。
命の有限にこそ憧憬を抱いたかぐや姫が、最後に無限を象徴する物を地上に残すはずが無いのである。

「かぐや姫の物語」は全く奇を衒った所の無い、王道のアニメーション大作だ。
制作期間を考えれば偶然だろうが、山里での幼少期の描写が終盤でこの世界の命の理へと結びつく仕組みは、昨年細田守監督が発表したこれまた大傑作「おおかみこどもの雨と雪」を思わせる部分もある。
少なくとも、 「大人のジブリ」なるエクスキューズが必要だった「風立ちぬ」と比較しても、「かぐや姫の物語」の方が娯楽映画としての間口は遥かに広いと言えるだろう。
そして、感動の余韻を引き摺りながら映画館を出ると、きっと以前とは世界が少しだけ違って見えると思う。
私は、秋晴れの空、街路樹の紅葉、公園で佇む野良猫、着物を着た七五三の女の子の笑顔、目に入る全てが愛おしくてたまらず、訳もなく涙がでた。
そう、ここは人々が四苦八苦し、あらゆる命が森羅万象の中で限りある時を巡る、かぐや姫が生きたかった必滅の地上そのものなのだから。
この世界は生きるに値する事を、改めて実感させてくれる、まことに美しく、神々しい映画である。

ある意味究極の「まんが日本昔ばなし」たる本作には、やはり日本酒を合わせたい。
月やかぐや姫をモチーフとした銘柄は日本中に沢山あるが、今回は福井県で200年を超える歴史を持つ常山酒造の「月の雫 香月華 大吟醸」をチョイス。
上品な吟醸香がふわりと広がり、まるで満月の光のようななめらかな舌ざわり。
豊潤な優しい味わいが柔らかに喉を潤してゆく。
こちらもまた、日本のもの作りの技を堪能出来る逸品である。

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ショートレビュー「ペコロスの母に会いに行く・・・・・評価額1700円」
2013年11月22日 (金) | 編集 |
この愛しき、禿げちゃびん。

期待以上の素晴らしい作品だった。
観終わってすぐに書店に直行し、原作漫画を購入。
長崎在住の岡野雄一によるエッセイ漫画は、元々自費出版されたものだそうだが、ネットや口コミで評判を呼びやがてベストセラーに。
描かれているのは、認知症の母親と男やもめの団塊の世代の息子との、ユーモラスだが切ない黄昏の日々。
やがて浮かび上がって来るのは、山あり谷ありの母の長い人生だ。
タイトルの「ペコロス」とはベビーサイズの玉ネギの事で、アマチュアミュージシャンでもある原作者が、禿げ上がった頭から自ら名付けた芸名「ペコロス岡野」から。
認知症が進み、人の見わけがつかなくなっても、母はこの禿げ頭を見ると息子だと分かるのだ。
禿げは偉大なり(笑

数々の人間喜劇を描いてきた森崎東監督は85歳、タイトルロールの“ペコロスの母”を演じる赤城春恵はなんと89歳なのだそうだ。
お二人は認知症とは無縁そうだが、同世代の多くが抱える葛藤に対して真摯に向き合い、キャラクターに愛情をたっぷりこめて演出、演技して実に魅力的に物語を仕上げている。
オレオレ詐欺の電話を受けても、電話がかかってきたこと自体をすぐ忘れるので詐欺にならないとか、駐車場で息子の帰りを待ち続けて子供たちに妖怪に間違われるとか、汚してしまった下着を箪笥いっぱいに詰め込んだりとか、この母ならば数々の問題行動も何とも可愛く感じる。
もちろん自らももう若くはない息子の雄一にとっては大変なのだけど、超ポジティブ人間の彼はそんな母との日々を自作漫画に綴り、更に現在ではなく過去に生き始めた母の記憶を辿り始めるのだ。
島原の子沢山の家に生まれ、沢山の兄弟姉妹の世話に明け暮れた戦前、結婚した相手が酒乱で、苦労の末に雄一を育て上げた戦後、晩年に酒を辞めた夫や孫との穏やかな思い出。
そして幼くして亡くなった妹、長崎に立ち上るきのこ雲、原爆症で亡くなった幼馴染との悲しい記憶。
歴史の街長崎で、春節を告げるランタンフェスティバルを舞台に、過去と現在、現在と未来が溶け合う瞬間のなんと映画的な事!

今年は、巨匠ハネケが老夫婦の終の日々を描いた「愛、アムール」、認知症が進み老人ホームへと預けられた人々の姿をアニメーションで表現した「しわ」、人生の黄昏を迎えた四人の男女の物語「拝啓、愛しています」と、同じ題材を取り上げた各国の作品が続いたが、四者四様のアプローチとオチの付け方の違いが面白い。
オーストリア、スペイン、韓国、そして日本。
多少の差はあれ、生活水準はそれほど極端には変わらないだろう。
ある程度成熟した市民社会で、少子高齢化社会という点も共通しており、それゆえにそれぞれの映画の登場人物たちの選択は、それが悲劇であれ、喜劇であれ、自分に置き換えて感じ、考えることが出来る作品となっている。
どれも愛情深く、そして切ない物語なのだけど、唯一老人本人ではなく息子視点で、ユーモアがベースにあるからかだろうか、本作が一番希望的に感じた。
「ボケるとも、悪かことばかりじゃなかかもしれん」
本当にそう思える終の日々を迎えることが出来れば良いのだけど。

若き日の母を演じる原田貴和子と、その薄幸の幼馴染を演じる原田知世との20年ぶりの姉妹ツーショットとか、禿げ頭を隠し続ける竹中直人のキャラとか、あざとさギリギリのサービス精神もこの世界観ならフィットしている。
高齢の親を持つ世代なら誰もが感情移入できるだろうし、そうでない人たちにも一級の人間喜劇として十分に楽しめ、ホロリと泣けるだろう。
まこと愛すべき秀作である。

今回は、ペコロスの母の出身地である島原の地酒、浦川酒造の「一鶴 時代の酒」をチョイス。
一鶴は生産量の殆どが島原で消費されるという正しく地産地消の地の酒で、全国的にはあまり知られていない酒だが、焼酎文化と日本酒文化の境界地の一つである長崎には、こうした比較的小規模な蔵の多い様だ。
時代の酒は山廃仕込みらしく、しっかりとしたコク、濃厚な酒の味が強烈。
長崎は海外の影響が濃く、ユニークな食文化を持つ土地柄だが、この酒の強い個性は例えば中華料理などと合わせても決して力負けする事はない。
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夢と狂気の王国・・・・・評価額1600円
2013年11月19日 (火) | 編集 |
王国の支配者は誰か?

癌に倒れた父の最期の日々を追った「エンディングノート」で注目された、若きドキュメンタリスト、砂田麻美監督が、「風立ちぬ」の制作が佳境を迎えた2012年秋から今夏の引退会見後までの一年間に渡って、宮崎駿に密着取材したドキュメンタリー。
ジブリの裏側を描いた作品は、映画の公開前後にテレビでも沢山放送されたが、本作は所謂メイキングとは趣が異なる。
建物からして異世界感覚満載の、スタジオジブリに迷い込んだ作者が、好奇心の目を開いて描き出すもの。
それは創造の夢にとり憑かれ、自らの内面の矛盾に葛藤する巨匠と、彼に関わる人々を巡る人間ドラマである。
砂田監督は同じ映画作家として、偉大な先輩でもある宮崎駿に大いなる尊敬と共感と興味を隠そうとせず、巨匠もまた他ではあまり見たことの無い本音トークで答える。
「風立ちぬ」は、おそらく宮崎駿が最後にして初めて、自己矛盾に対して向き合い、呪われた夢に一定の答えを出した作品だが、本作を観るとその根底にあるものが更に深く感じ取れるのは確かだろう。

しかし、宮崎作品によって世界で最も有名なアニメーションスタジオの一つとなった、スタジオジブリの未来は、決して順風満帆とは言い難い。
本作のポスターに並ぶのは宮崎駿、鈴木敏夫、そして高畑勲というジブリの創立メンバー三人である。
すっかり白髪となった今の彼らと比較する様に、砂田監督は80年代の創立当時やそれ以前の若き日の映像を挟み込む。
今年2013年は、実は「となりのトトロ」と「火垂の墓」が二本立て公開されてからちょうど四半世紀の節目の年であり、ほぼ一世代が経過した事になる。
数々の偉大な仕事を成し遂げ、アニメーション映画史を永遠に変えた彼らはもう若くない。
これから実際にどうなるかは分からないが、72歳の宮崎駿は引退表明し、78歳の高畑勲もその制作ペースから考えて、これから長編を作るのは難しいかもしれない。
大プロデューサー鈴木敏夫だって、もう65歳だ。
宮崎駿は「スタジオの将来?それはもう立ち行かなくなりますよ」と辛らつに言い放つ。
ポスト宮崎・高畑の時代にジブリというブランドはどうなるのだろう?と、皆がなんとなく思っていた事を、本人もやっぱりそう感じていた訳だ。
その言葉を受けた砂田監督は、後を託されたというよりもオヤジ世代に巻き込まれたと言った方が良いかも知れない宮崎吾朗、「かぐや姫の物語」の担当として過去8年間に渡って高畑勲と向き合った西村義明プロデューサーら若手スタッフの葛藤にも冷静な目を向ける。
宮崎駿のいわば愛弟子だが、ジブリという器の外で育ち、「エヴァンゲリヲン」という大輪の華を咲かせた、庵野秀明との奇妙な距離感も面白い。

そして、単にアニメーションスタジオとしてではなく、日本という巨大な共同体の一部としてのジブリ。
鈴木敏夫は「自由にモノが作れた時代は宮崎・高畑の時代で終わり」と言う。
民法のみならずNHKですら、作品内容に制約が多くなっていて、きな臭さを増す社会の大勢の意に沿わない作品は作りにくい世の中になりつつある。
元々高畑勲は東映動画の労組副委員長、宮崎駿は書記長出身というバリバリの左派であり、ジブリの社内には「NO 原発」の標語が張られる。
そんな人々や会社が居場所を失う時代が、もうすぐやってくるのかもしれない。
が、これからの日本社会の荒波に立ち向かうのは、言いたいことは言い尽くし、今去ろうとしている宮崎世代では無いのだろう。
彼の言葉からは、もどかしい想いと同時に、自分がどう抗おうとも、結局は次の世代の課題だという突き放しも感じるのである。

面白いのは、宮崎駿というエキセントリックな天才をフィーチャーすればするほど、画面にほとんど登場せず、まるで謎のカリスマの様な扱いの高畑勲の存在感が増してくる事だ。
作中、西村義明は言う。
「高畑勲が常に何かをはじめる」
それは1968年に封切られた、彼の長編監督デビュー作、「太陽の王子 ホルスの大冒険」から始まる歴史を振り返ればよくわかる。
アイヌユーカラを元にした人形劇、「チキサニの太陽を」を原作とするこの作品は、厳しい自然の元で生きる少年ホルスが、自らの過酷な運命と闘いながら、重大な秘密を抱えるヒロインのヒルダや村人たちと力を合わせて、悪魔グルンワルドを倒すまでを描いた異世界ファンタジーだ。
様々な意味で、日本アニメーション史における重要なターニングポイントとなったこの映画を今観ると、キャラクター造形やテーマ性、世界観など、私たちの感じる“ジブリ的なるもの=宮崎駿的なるもの”のイメージが全て備わっている事に気付く。
ホルスは宮崎駿が場面設計・美術設計担当のメインスタッフとして初めて本格的に関わり、同時にその恐るべき才能を最大限発揮した作品だが、もちろん監督は高畑勲である。
誤解を恐れずに言えば、生涯一アニメーターを自認する宮崎駿の原点は「ホルス」で、彼は50年間ずっとその延長線上でぶれていない。
私たちの知っているジブリ的なるイメージは、ぶっちゃけると高畑勲が基礎を作り、宮崎駿がそこに建て、長年改築を続けてきた家の様なものだ。

もちろんそれはすばらしい仕事なのだが、一方の高畑勲は最初に建てた家などには目もくれず、次々と全く新しいコンセプトの家を建て続けているのである。
それは単に見た目でわかる作品のスタイルという事だけではなく、映像制作の技法からプロダクションの方法論にいたるまで多岐に渡る。
例えば実写映画を作る時は、事前にロケ地を調査するロケーションハンティングが行われるが、現在ではアニメーションでも現実世界の話はもちろん、架空の世界が舞台でもモデルとなる土地に出向いてロケハンするのは普通の事だ。
作中で鈴木敏夫も言っていたが、私の知る限りでも、日本のアニメで初めて本格的な長期ロケハンを行ったのは、「アルプスの少女ハイジ」のプリプロダクション時が最初だと思う。
今では、アニメの舞台となった実際の土地をファンが訪れる“聖地巡礼”などという言葉もあるが、徹底的にホンモノを調べ上げ、アニメーションという絵の中に閉じ込めたのは高畑勲がパイオニアなのである。
また、声と俳優の表情を先に録音・録画するプレスコ手法にこだわり、徹底的な演技のリアリズムを追求したり、世界の度肝を抜いた「となりの山田くん」でのデジタルツールを使いながら水彩の様な映像、そして実に8年の歳月を費やしたという「かぐや姫の物語」に至る78歳の今もなお、常に新しい何かを追い続けている。
だが、しばしば暴走気味に独自の世界に拘る結果問題も多く、予算と時間不足の「ホルス」では見せ場の多くが静止画フィニッシュになってしまい、「火垂るの墓」の時は封切に完成が間に合わず、一部のシーンが未彩色の線画のまま公開された。
「かぐや姫の物語」も当初「風立ちぬ」と同時公開の予定が、遅れに遅れて11月に先送りされたのは本作中にあるとおり。

変幻自在ゆえに知名度や興行実績では大きな差が出来てしまったものの、宮崎駿を最初に大抜擢したのは高畑勲であり、出版人だった鈴木敏夫に映画のノウハウを教えたのも彼。
結果的に今のジブリを描けば、そのバックボーンたる高畑勲の存在を感じざるを得ないという事だろう。
もちろん誰にでも二面性はあるだろうし、モノ作りに携わる人間など皆どこかに夢と狂気を両方宿している。
しかし良い意味でストレートで、面白さも欠点もわかりやすい宮崎駿が、本作のタイトルが言うところのジブリの“夢”を象徴する人物だとすれば、誰も観た事のないもの、言い換えれば出来上がるまでは誰にもその魅力が理解できないものを作り続ける高畑勲こそは、ジブリの真の“狂気”なのかも知れない。
「夢と狂気の王国」は、基本的に宮崎駿と「風立ちぬ」巡る人々とその歴史を描いたドキュメンタリーだが、観終わって最後に強い印象を残すのは、意外にもほとんど画面に登場しないが、全ての人々に影響を与え、彼らの創作の原点となっている高畑勲の影だった。
今週末にはいよいよ「かぐや姫の物語」が公開されるし、まさかこれもジブリ一流のマーケティングの結果ではないだろうが、何とも不思議な印象の映画である。

ジブリ作品にたびたび出演する猫キャラクターのモデル(?)である、スタジオ猫の牛柄のウシさんがとても可愛く、癒されたのを付け加えておく。

辛口な言葉も多い宮崎駿。
今回はジブリからもそれほど遠くない東京都青梅市の地酒、小澤酒造の「澤乃井 純米 大辛口」をチョイス。
純米酒の柔らかさを持ちながら、キリッと引き締まった辛口の味わい。
この蔵の大辛口には本醸造もあるのだけど、そちらはちょいキレキレすぎる。
食事と一緒に味わいを楽しむなら、日本酒らしい旨味の強いこちらの純米バージョンがお勧めだ。
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ショートレビュー「サプライズ・・・・・評価額1550円」
2013年11月14日 (木) | 編集 |
次に殺られるのは誰だ?

いやあ楽しい。
なにこのステキにチープな80年代スラッシュホラー感覚(笑
両親の結婚記念日を祝うために、田舎の別荘に集まった総勢10人の大家族が、突如として現れたトラ、ヒツジ、キツネのアニマルマスクを被った謎の男たちに襲撃される。
次々と残酷に殺されてゆく家族。
はたしてアニマルマスクの正体は何者なのか、目的は何なのか、究極のサバイバルを生き残るのは誰か。
「V/H/S シンドローム」のアダム・ウィンガード監督と、アニマルマスクの一人として出演もしている脚本のサイモン・バレットは、ミスリードを取り混ぜつつ、物語を意外な方向へと導いてゆく。
如何にも今風な不条理ホラーの装いで始まり、前半はもしかしたら「キャビン」的なジャンル映画の解体へと向かうのかと思いきや、映画は一見まじめな装いで実はステキにくだらない大バカ映画という新しい着地点を見出すのである。
※以下、一部ネタバレです。

突然の殺戮にパニックになる家族の中で、次男が連れてきた恋人のエリンだけが妙に冷静。
いったい何故なのかと思っていたら、彼女はおもむろに語りだす。
「実は私、子供のころサバイバルキャンプで育ったの」
エリンは終末の到来を信じたイカレた父親に連れられて、どんな状況でも生きていける様にと、人里離れた土地でありとあらゆるサバイバル術を習得したスペシャリストだったのだ!
・・・って、なにそのご都合主義(笑
ともかく、エリンは家にあった日用品を駆使してトラップを仕掛け、猛然と反撃を開始。
相手にそんな恐ろしい女がいるとは知らない哀れなアニマルマスクたちを、次々と血祭に上げてゆくのである。
昔懐かしい80'sホラーにも、殺人鬼が襲った相手はサバゲーのチャンピオンだったという「悪魔のサバイバル」というZ級の珍品があったが、これは7、80年代のホラー映画の要素をごった煮的にぶち込んだネタ映画なのだ。
ジャンル的には微妙に違うけれど、作品の狙った所としては「ザ・フィースト」あたりが一番近いかもしれない。

もっとも、本作が秀逸なのは、逆説的だがマニア臭を主張し過ぎない事である。
ホラーヲタには、詰め込まれたあるあるネタへのノリ突込みで楽しめる様に作りながらも、表面的にはマニアックな要素はそれほど目立たず、一般の観客には普通のスラッシュホラーとして楽しめる様になっているのだ。
一家の長女の彼氏である自称芸術家の映画監督が真っ先に殺されたり、シニカルなギャグをスパイスにしながら、豊富な映画的記憶に裏打ちされたスプラッター劇はパワフルに展開し、終盤に意外な黒幕が現れ、エリンの仕掛けたあるトラップが、伏線として絶妙に回収されるオチまでノンストップ。
観終わった後は、良質なおバカ映画特有の爽快感が残る。
ゴアシーンも充実しており、コアなホラー映画好きにお勧めの一本だ。

この映画を肴に飲みたいのは、やはり水のように薄いアメリカンビール。
という事でもはや説明いらずで「バドワイザー」をチョイス。
本作はもちろん映画館で観て欲しいが、この種の映画はソフト化された時に家でみんなでワイワイ言いながら観るのも楽しい。

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ショートレビュー「キャリー・・・・・評価額1500円」
2013年11月14日 (木) | 編集 |
ただ、普通でいたかっただけなのに。

スティーブン・キング原作、ブライアン・デ・パルマ監督によるSFスリラーの金字塔「キャリー」の、37年ぶりの劇場用映画としてのリメイク。
今回、シシー・スペイセクとパイパー・ローリーの代表作となった悲劇の母娘を演じるのは、クロエ・グレース・モレッツとジュリアン・ムーアだ。
元々デ・パルマ版からしてそうなのだが、本作も原作の流れに極めて忠実。
更にオリジナルへのリスペクトを公言するキンバリー・ピアース監督は、ビジュアルイメージも含めてデ・パルマへのオマージュを捧げる。
旧作を知る観客としては、次に何が起こるかを知っているからこそ、逆に切なさがこみ上げてくるのだ。
ただ、基本オリジナルのモダナイズという作りではあるものの、異なる点も幾つかある。

何よりも決定的に違うのが、タイトルロールを演じるクロエちゃんが、どこからどう見ても美少女以外の何者でもないという事である。
失礼ながら、容姿端麗とは言いがたいシシー・スペイセクが演じたキャリーは、見るからにネクラでパッとせず、いじめられっこ設定に圧倒的な説得力があった。
思いもよらずプロムに誘われて、うれしそうに自分でドレスを縫う姿は、それまでの強烈なネガティブオーラゆえに観る者の心を強烈に揺さぶるのだ。
一方のこちらは、クラスの全女子の中で明らかにキャリーが一番カワイイじゃないか(笑
いくらブス芝居をしても素材の良さは隠しようがなく、こんな娘がスクールカースト最下層というのはちょっと無理があった。
もっとも、そのあたりはピアース監督も心得ていて、本作ではキャリーへの心情的な寄り添い方のベクトルが少々異なっているのだ。

リメイク版の作劇上の最大の特徴は、キャリーの超能力に対するスタンスである。
最後に観たのはだいぶ前なので記憶がおぼろだが、オリジナルではキャリー自身も忌むべき力と認識していたはずの超能力を、本作ではむしろ積極的に調べ上げ、自らの力として習得してしまう。
ゆえに本作におけるキャリーの能力は、オリジナルにおける思春期のコンプレックスによって顕在化し、制御不能となった感情の大暴走とは意味づけが違うのだ。
むしろ先日公開された「クロニクル」の、現状の不条理に対する攻撃性、怒りのメタファーとしての超能力の方が近いかもしれない。
いわば力を手にした能動的マイノリティによる、マジョリティの抑圧に対するテロリズムと位置づければ分かりやすいだろう。
例えばプロムのパートナーとしてキャリーを誘うトミーや、親切な先生の位置づけなど、オリジナルとの微妙な差異も、そもそものキャリーのキャラクター変化の結果と思えばしっくり来るのである。

もちろん、この37年間の映像技術の進化は凄まじく、怒りと破壊の化身と化したキャリーが引き起こす、阿鼻叫喚のクライマックスのスペクタクル描写は迫力満点だ。
比較的低予算だったオリジナルでは手を出す事が出来なかった終盤のある部分も、今回はバッチリ描かれる。
本作をデ・パルマ版と比較して、作家性を前面に出した全く新しいイメージを期待するなら、やや拍子抜けだろう。
しかし、旧作を忠実にトレースした上である程度の現代的な改変を加え、最新の視覚効果でデコレーションしたバージョンとして観ればよく出来ている。
そもそも、デ・パルマ版を全く知らない世代も増えている現在、こういう方向性も十分アリだろうと思う。

今回は、大人っぽくなったクロエちゃんのイメージで、ピンクがかった赤色が印象的な「ルビーカシス」をチョイス。
氷を入れたタンブラーに、クレーム・ド・カシス30ml、ドライ・ベルモット20ml、適量のトニックウォーターを加えてステアする。
クレーム・ド・カシスの甘酸っぱさとドライ・ベルモットの香草の清涼感が、バランスしながら引き立てあい、とても飲みやすくスッキリとした味わいだ。

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ショートレビュー「恋するリベラーチェ・・・・・評価額1650円」
2013年11月11日 (月) | 編集 |
この愛すべき大奇人!

50年代から80年代にかけて、ド派手なパフォーマンスで大人気を博したピアニスト、リベラーチェの物語を、彼の晩年の“恋人”であったスコット・ソーソンの自叙伝を元に、スティーブン・ソダーバーグ監督が描く。
本来は米HBO製作のテレビ映画だが、本国以外では劇場公開される。
ソダーバーグは監督引退を宣言し、一応今年相次いで公開された三本が最後らしいのだけど仕上がりで言えば本作がベスト。
よく出来てはいるが、あまりエモーションを刺激されない「マジック・マイク」「サイド・エフェクト」よりもずっと面白い。

物語的には所謂芸能界の内幕物のカテゴリに入るだろうが、本作の白眉は間違いなく病から大復活を遂げたマイケル・ダグラスの怪演だろう。
物語の舞台となるのは、マット・デイモン演じるソーソンがリベラーチェと出会う70年代後半から彼が亡くなる87年までのおおよそ10年間。
出会った時点で既にリベラーチェは還暦間近だった訳だが、 まだまだ精力が服着て歩いてる位にエネルギッシュ。
ド派手なのはステージだけでなく、私生活も成金趣味丸出しのキンキラキン、ゲイで若い男が大好きで、そして何よりこの男、自分大好きのナルシストなのだ。
何しろ恋人となったソーソンを身近に置くだけでは飽き足らず、若い頃の自分そっくりに整形させてしまう位なのだから。
だが、ステージとプライベートが表裏一体、良くも悪くも虚構を生業として生きるリベラーチェにとって、自分がゲイである事、カツラを取れば禿げた爺さんであることは決して公に出来ない秘密。
華やかなセレブリティの裏の裏に隠された孤独は、この破天荒なキャラクターに複雑さと深みを与え、感情移入を誘うのである。

一方のソーソンにとっても、リベラーチェとの出会は人生の一大転機となる。
まだまだ同性愛のタブーが今よりずっと強かった時代だ。
天涯孤独の身で養父母の牧場で育ち、自分の性癖を隠して暮らしてきたソーソンにとって、同じゲイで有りながら、目も眩む様な成功を収めたリベラーチェに見染められた事は、未知の可能性が目の前にパッと開けたのと同義だっただろう。
しかし、リベラーチェとの関係はやがてソーソンに深刻な葛藤をもたらす。
彼と出会わなければ、想像すらできなかったゴージャスな暮らし。
しだいに、ずっと歳上で絶大な権力を持つエンターティナーを深く愛する様になったソーソンは、いつか彼に捨てられる日が来るのではないかと怯え、自分より若いゲイへの嫉妬からドラッグに溺れる様になる。
遂にリベラーチェとの別れを決意しても、鏡を見る度にそこにはもう自分はおらず、若き日のリベラーチェの顔があるだけなのだ。

パワフルでエキセントリックな希代の天才と、彼に魅せられ愛された擬似的な分身。
これは二人の“リベラーチェ”による、シニカルなテイストを持つ良くできたブラックコメディであり、同時に切なくビターなラブストーリーである。
生粋のショウマン、リベラーチェの母にデビー・レイノルズをキャスティングする粋なセンス。
ロブ・ロウが怪しさたっぷりに演じる整形外科医とか、キャスティングの妙は隅々まで効いている。
ソダーバーグの(一応の)集大成としても納得の仕上がりだ。

今回は白装束のオネエにふさわしく、「ホワイトレディ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、コアントロー15ml、レモン・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
薄っすらと透き通った乳白色が美しい。
ジンのすっきりした清涼さと柔らかな果実香が楽しめる、エレガントなカクテルだ。

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ショートレビュー「ばしゃ馬さんとビッグマウス・・・・・評価額1600円」
2013年11月11日 (月) | 編集 |
人生は、シナリオどおりに進まない。

今やってる仕事の制作が佳境を迎え、生みの苦しみから一時逃れるために映画に行ったら、ものすごくリアルな創作の葛藤の物語を見せられて、余計に苦しくなったというオチ(笑
まあ私の悩みはともかく、映画自体はすばらしい仕上がり。
「ばしゃ馬さんとビッグマウス」はシナリオライターを目指す二人の主人公を通して、夢を目指すこと、夢を手放すことの意味を問う、青春映画の佳作である。
原稿に綴られる言葉一つ一つが、そのままシームレスに映像へと繋がる秀逸なオープニングに心をつかまれる。

麻生久美子演じるばしゃ馬さんこと馬渕みち代は、シナリオの道を志して十数年、ただの一度もコンテストに通った事がない。
自分の才能の無さを自覚しつつも、ただひたすらストイックに寝る間も惜しんで原稿を書き続ける。
そんなみち代が、もう一度初心に戻るために受講したビギナー向けのシナリオ講座で出会うのが、ビッグマウスこと天童義美だ。
安田章大が不思議な存在感で演じるこのキャラクターは、自分はまだ一行もシナリオを書いた事が無いくせに、誰に対しても偉そうな上から目線でダメ出しをする。
所謂「オレはまだ本気出してないだけ」な自称天才ダメ男だ。

正に水と油の二人は当然の様に反発しあうのだけど、実は創作の仕事をしている人は、本物の大天才でない限り、誰でも自分の中にばしゃ馬さんとビッグマウスを両方宿していると思う。
正確に言えば、ほとんどの人はビッグマウスを経てばしゃ馬さんになるのだ。
劇中、義美がいかに尊大でバカかを元彼に語るみち代に、昔の彼女を知る元彼は「みち代も昔はそうだったじゃないか」と言う。
挫折を知らない若い頃は、本気で世界は自分のもの、自分が頑張れば何でも出来る、何でも叶うと思っている。
しかし、大きな夢を抱いて実社会に打って出て、何時しかそんな考えは打ち砕かれ、やがて人は選択する。
夢破れて身の程を知り、全く別の道に転進するか、どんなに惨めでも、報われなくても夢にしがみついて生きるか。
本作はそんな人生の岐路に立ったばしゃ馬さんと、ようやく夢への第一歩を歩みだしたばかりのビッグマウスの、青春の始まりと終わりのコントラストが生み出すビターな光と影の物語。

みち代と義美のそれぞれの家族のエピソードや、同じシナリオ講座の生徒で、一握りの成功者となるマツキヨさんのエピソードなど、サブストーリーも本筋と絡み合いうまく機能している。
多分に吉田恵輔監督の実体験が反映されていそうなこの作品、特に物作りを生業にしている人で、全く感情移入できないという人はまずいないのではないだろうか。
思うに、創作の世界で生き残っているのは、ばしゃ馬さんになりつつも、根拠の無い自信とか、どこかビッグマウス的な部分を残している人が多い気がするな。
クリエイターは「Stay hungry, Stay foolish」であれという事か。

今回はばしゃ馬さんと飲みたい日本酒、演じる麻生久美子の地元、千葉県は田中酒造店の「旭鶴 勘三郎 大吟醸酒」をチョイス。
千葉は水源が豊富で、田舎町の小さな蔵元が多い。
殆どが地産地消されてしまうので、他地域にはあまり出回らない銘柄が多いが、こちらはパワフルなボディのコクのあるやや辛口。
このエリアを訪れる事があったらお土産にもお勧めだ。

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ショートレビュー「42 世界を変えた男・・・・・評価額1650円」
2013年11月05日 (火) | 編集 |
先駆者の茨道。

130年を超えるメジャーリーグの歴史で、初のアフリカ系選手となったジャッキー・ロビンソンの苦闘を描く骨太の野球ドラマだ。
舞台となるのは1940年代後半、今よりは遥かに人種差別の激しかった時代。
人々の不条理な意識という目に見えない壁に立ち向かった男の物語は、今なお時代を超えて私たちの胸を熱くする。
情報量が多いのでややダイジェスト感はあるが、時代や社会背景は丁寧に解説され、野球の事すら知らなくても楽しめる良きハリウッド映画であり、老若男女誰にでもお勧めできる。

第二次世界大戦は、多大な犠牲を出しただけでなく、結果的に様々な意味合いで世界規模の大きな社会変革の基点となった。
若い男たちという産業文明の基盤となる労働力を戦争に取られた事で、女性の社会進出は盛んになり、ウーマンリブの機運が盛り上がる。
最近ヒットした「タイピスト!」も、戦後のジェンダーの葛藤を背景とした物語であり、多くのメジャーリーガーが兵役についた野球の世界でも、戦時中の1943年に女子プロ野球が産声を上げたのは、ペニー・マーシャル監督の映画「プリティ・リーグ」に描かれたとおり。
またアメリカ軍においては、アフリカ系の黒人を筆頭に多くのマイノリティたちが戦場で戦っており、国のために命を捧げにも関わらず、有色人種が差別される社会への疑問は、徐々に高まりを見せてゆくのである。

本作は“戦後”という大きな変革のチャンスにかけたブルックリン・ドジャースの社長兼GM、ブランチ・リッキーが、黒人たちの独立リーグであるニグロリーグで大活躍していた快足ショート、ジャッキー・ロビンソンをドジャース傘下でマイナー契約するところから始まる。
ハリソン・フォードが見事なメイクで演じるこの人物は、ロビンソンがぶち当たるであろう有形無形の様々な壁を予見した上で、「やり返さないガッツを持て」と言う。
もしもロビンソンが切れて白人を傷つけたら、それは白人社会へ更なる黒人への恐れと偏見を植え付ける事になってしまう。
だが根っからの野球人であり、野球を愛するリッキーは知っているのだ。
ロビンソンが逆境で尊厳を保ち、批判への答えを野球の結果として出すならば、時間はかかっても彼が人々のリスペクトを勝ち取るであろう事を。

もちろん、映画が描いているのはロビンソンが1945年にマイナー契約をしてからメジャーでキャリアをスタートさせる1947年までの3年間だけであり、それはスポーツの世界における差別撤廃の重要な節目ではあるものの、新たな闘争のはじまりに過ぎない。
ロビンソンと彼に続いた黒人選手たちの活躍によって、フィールドでの差別こそ徐々に低減してゆくものの、スタジアムを一歩出れば黒人差別は60年代の公民権運動の時代まで公然と続く。
現在のメジャーでも人種差別はゼロではないと聞くし、同性愛は未だ多くのプロスポーツでタブーのままだ。
だが、だからこそ最初の一歩の物語は21世紀の現在でも、大いに説得力があるし、人々の心を打つのである。

たかがスポーツ、されどスポーツ。
産業としてのスポーツの規模が、日本よりも遥かに大きなアメリカでは、メジャースポーツでの目に見える変化は日本では考えられないくらいに大きなインパクトを社会へ与える。
例えばロビンソンから50年後、ドジャースに入団した野茂英雄のビフォーアフターでアメリカ社会でのアジア系のイメージは劇的に変わった。
映画で快足を生かしてニンジャの様に盗塁を決めまくるロビンソンの姿に、イチローが被った人も多いだろうし、フェンウェイパークのマウンドで躍動する上原や田沢も、ロビンソンや野茂の大いなる一歩の先を歩いている。
私はこの映画をワールドシリーズ決勝の翌日に観たが、これは今や日本人にとっても決して他人事ではない、感慨深い映画だろうと思う。

ロビンソンを演じるチャドイック・ボーズマンの精悍な面構えが良い。
ブライアン・ヘルゲランド監督と言えば、12年前に駆け出しのアイドル俳優だったヒース・レジャーを「Rock You!」で初のハリウッド映画主演に抜擢した人物。
ボーズマンもまたブレイクの予感がする。

今回はブルックリン時代のドジャースの話なので、「ブルックリン ラガー」をチョイス。
もともとブルックリン地区はドイツ系移民が多く、一時は48もの醸造所があったという。
その後悪名高き禁酒法によって廃れてしまったわけだが、このブルックリン ラガーは1998年になって、ブルックリン地ビールの復活を目指して創業した新しい銘柄。
伝統的な手法で作られるウィンナースタイルで、適度な苦味と深いコク、豊かなホップの香りは食欲を刺激し、アスリートの様に食べたくなってしまう。

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ショートレビュー「危険なプロット・・・・・評価額1700円」
2013年11月05日 (火) | 編集 |
「続く」の先にあるものは?

フランソワ・オゾンが描く物語の迷宮。
小説家崩れの国語教師ジェルマンは、新学期早々に出した“週末の出来事”を書く作文の宿題で、クロードという生徒の提出した作品に目を留める。
それは彼が類型的な郊外の中流家庭である友人の家族を皮肉りながら、友人の母に魅せられてゆく様を描いた私小説の様な作品だった。
独特の文体と人間観察の鋭さに、自らは恵まれなかった才能を感じとったジェルマンは、彼に“続き”を書かせるための個別指導にのめり込むが、やがてその小説はフィクションを越えて現実を侵食してゆく。

短編作家として知られたオゾンのはじめての長編作品となったのは、1998年の「ホームドラマ」である。
この作品はまるで舞台劇のようにスクリーン上の緞帳が開き、郊外の豪華な一軒の前に車が止まり、父親が帰って来るところから始まる。
家の中から聞こえる楽しげな「ハッピーバースデー」の歌声は、すぐにただならぬ叫び声へと変わり、銃声が響き渡ると静寂へ。
一体この家で何が起こったのか?
観客の心をつかみ、続きを期待させる秀逸なオープニング。
本作の主人公ジェルマンも、そんな物語のマジックに捕まってしまった一人だ。
「ホームドラマ」の場合は、父親が一匹のネズミを買ってきた事から、それまで隠されていた家族が次々と本性をさらけ出し、平和な家族が崩壊してゆくが、本作において “郊外の家族”はクロードの書く小説の中へと閉じ込められる。
ジェルマンは、危険な官能の香りを漂わせる小説の魔力に魅せられ、その続きが知りたくて、いやその続きを書きたくてたまらない。

昔本を一冊出したものの、小説家としては成功できなかったジェルマンは、若く才能にあふれるクロードの指導を通して、自らの暗い欲望を満たすチャンスを見出すのだ。
教師という立場でクロードを思いのままに操る事で、嘗て果たせなかった物語の支配を達成しようとしているのである。
しかし、いつしか映画の中で語られる物語という入れ子構造の複雑性の中で、その関係は逆転してゆく。
客観的な読者であり、論評する立場であったはずのジェルマンは、美青年エルンスト・ウンハウアー演じるクロードの物語に自ら立ち入り、その帰趨する先をコントロールしようとするが、実は現実の方が小説の影響を受け始めている事に気づかない。
同様にクロードもまたジェルマンとの共同作業に混乱し、書き手としての客観性を失ってゆくのである。
マリオネットの様に操られているのは、クロードかジェルマンか、それとも人間か小説か。

二人の主人公の創造を巡る葛藤は、もちろんオゾン自身の投影であり、それゆえに本作の結末はビターでありながらも、「ホームドラマ」のはじまりにも似た、実に映画的なワクワクする情感に満ちている。
本作はミステリアスな心理劇であるのと同時に、ある種の物語論であり作家論ともなっており、オゾンの過去の作品を紐解く上でも興味深い作品と言えるだろう。
面白いのは、主人公のジェルマンを演じるファブリス・ルキーニが、独特のせっかちな喋り方、自虐的なキャラクターだけでなく、ウッディ・アレンに見えてしょうがない事である。
劇中には「マッチポイント」のポスターも出てきたし、オゾンはアレンに何か思い入れがあるのだろうか。
まあ考えてみると、作家性という点ではなんとなく通じる所がある気もするけど。

いつの間にか現実とフィクションの関係性が入れ替わる、悪夢的構造を持つ本作には「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40mlとキュラソー20ml、それにペルノ1dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
やわらかそうなオレンジの色合の甘味なカクテルだが、当然かなり強く、ペルノが香り付けとしていいアクセントになっている。
ほどほどに飲めば、映画とは違って良い夢を見られそうだ。

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