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2013年11月25日 (月) | 編集 |
かぐや姫が、本当に欲しかったもの。
巨匠・高畑勲が78歳にして挑んだのは、日本における物語の祖にして最初のSFファンタジー、「竹取物語」の初の長編アニメーション映画化である。
137分の上映時間は、比類するものの無い至高の映画体験。
天土火水、森羅万象の中の生命への慈愛が、スクリーンから溢れ出る。
ここにあるのは作家の小宇宙に再構築された、この美しき世界そのものだ。
作品の志向する先はある意味真逆だが、「風立ちぬ」における宮崎駿に続いて、高畑勲もまた自身の最も美しく、最も優れた作品を作り上げたのではないだろうか。
アニメーション映画史を揺るがし、永遠に記憶されるべき傑作中の傑作である。
※核心部分に触れています。
昔々。
山で竹を取り、様々な物に加工しては売ることで、慎ましく暮らす翁(地井武男)とその妻の嫗(宮本信子)がいた。
ある日、翁が竹やぶで不思議な光りを放つ竹の子を見つけると、その中から小さく愛らしい姫が現れる。
ところが姫を家に連れ帰ると、突然人間の赤ん坊に変身してしまう。
子供のない翁と嫗は、姫を天からの授かりものとして大切に育て始める。
急速に成長する事から、村の子供たちから“竹の子”と呼ばれた姫(朝倉あき)は、やがて美しい娘となる。
その頃、竹やぶの竹から黄金や高価な反物が出てくる事が相次ぎ、これは姫を幸せにせよという天命だと考えた翁は、姫を高貴な身分の貴公子と結婚させようと、黄金を使い都に壮麗な屋敷を構える。
“なよ竹のかぐや姫”の美しさは、瞬く間に都で評判となり、求婚者が押し寄せたが、窮屈な都の暮らしは次第に姫の心を曇らせてゆく・・・
映画が始まって間もなく、今は亡き名優・地井武男の命の火を燃やすような魂の演技に早くも涙腺が緩るむ。
本作のボイスキャストによる収録が行われたのは、2011年の事だという。
映像制作よりも先に、声と表情を録音・録画し、それに合わせて作画するプレスコ技法が生んだ奇跡だ。
隅々まで描き込むのではなく、広い余白に静の中の動を感じさせる和テイストの作画は、時に荒々しく、時に繊細で、観る者の心にえも言われぬ郷愁を呼び起こす。
もっとも、映像的には凝りに凝った素晴らしい仕上がりだが、それ自体が斬新であるとは言えない。
筆で描いた様なタッチの作品は、日本の商業映画では物珍しいかもしれないが、インディーズ作品や海外作品では過去にも数多く作られている。
「かぐや姫の物語」の白眉は、何よりも高畑勲の集大成というべき圧巻のアニメーション演出と、緻密に構成された脚本の力である。
話そのものは、誰もが知る「竹取物語」に極めて忠実だ。
竹から現れたかぐや姫が、翁と嫗に育てられ、やがて絶世の美女へと育つ。
だが、姫は誰とも結婚しようとはせず、求婚する貴公子たちに、決して手に入れられない贈り物を持って来いという無理難題を突きつけて追い返す。
遂には帝まで姫をそばに置こうとするものの、突然「実は私は月の世界の者」と告白し、月へと帰ってしまうというお話である。
成立してから既に千年以上という長い歴史の間には、様々なバリエーションが作られており、細部は伝承によって異なっているらしいが、大まかにはこんな話だ。
だが、プロットの流れは原作通りであるものの、実際に何をどう描くかは相当に脚色されており、決して昔話をただなぞっただけではない。
そもそも月の人であるかぐや姫は、なぜ地上へとやって来たのか。
原作では罪人として穢れた地上へと流されたとなっているが、では一体どんな罪を犯したというのか。
高畑勲と坂口理子の脚本は、元の物語には詳しく描かれていない“かぐや姫の動機”、そしてキャッチコピーにもなっている“姫の犯した罪と罰”に迫る。
構成上原作と大きく異なるのは、山里で育ったかぐや姫の幼少時代の描写だ。
原作では殆どスルーされているこのシークエンスは、上映時間のおよそ1/4を費やし、竹から生まれた姫が赤ん坊へと変身し、短い期間に人間の子供として生き生きと成長する様がじっくりと描かれている。
村の子供たちと遊び、仕事をし、時に悪戯し、そしてこれも原作には登場しない捨丸という少年との淡い初恋。
このどこか若き日の高畑勲の代表作「アルプスの少女ハイジ」を思わせる山里のシークエンスは、圧倒的なアニメーション技術の表現力もあって、正しく循環する生命の理想郷、日本人の心にあるハートランドの趣きを感じる。
しかしかぐや姫を溺愛し、貴公子と結婚させる事が天からの使命と考えた翁によって、彼女は命に満ちた山里の暮らしを失い、都の大邸宅で籠の鳥となってしまう。
自分が“なよ竹のかぐや姫”と名づけられた事を告知する祝宴で、男たちの心無い言葉を聞いた彼女が、嘗て自分が住んでいた里へと疾走する、現実とも夢ともつかぬ不思議なシークエンスは物語の大きなターニングポイントだ。
山の民は森のライフサイクルを守るために、定期的に土地を移るため、かぐや姫の愛した人々の姿はもうそこには無い。
幸せだった子供時代は永遠に帰らない事を知った彼女は、地上の生を謳歌する喜びをここで失うのである。
そして同じように、夢うつつで対となるエピソードが終盤にある。
月へと帰ることが避けられない運命と知ったかぐや姫が、満月の前にもう一度故郷の里へと戻ると、そこで成人した捨丸と出会うのだ。
子供の頃伝えられなかった想いをお互いに告白する二人は、喜びの感情と共にこの世界を飛び回る。
宮崎駿も真っ青の飛翔感たっぷりのこのシークエンスはしかし、既に失われたものへの束の間の幻想。
二つの“夢オチ”は、言わば理想郷の喪失と再発見であり、かぐや姫の心の状態にリンクし、三幕構成の区切りとなる役割も果たしている。
他にも、映画は数多くの対照性を物語に潜ませる。
例えば山里と都、庶民と貴人、月と地上、捨丸との二度の別れ、子供たちのわらべ唄と月の天女の歌。
これら対照性の状況や現象によって、映画はかぐや姫にとっての幸せ、即ちこの世界で本当に欲しかったもの、そして彼女が犯した罪と罰とは何なのかを描き出してゆくのである。
かぐや姫が地上へと降りた理由。
それは、嘗てこの世界から月へと戻った天女から子供たちのわらべ唄を聴き、命の喜びを知りたくなったから。
かぐや姫を迎えに来る月の使節団の中で、月の王と思しき人物が仏相なのがポイントである。
月が仏教で言うところの解脱者たちの世界だとすれば、彼らは人間の抱える所謂“四苦八苦”の葛藤と、生まれたものは全て死ぬ“無常”の業から解放され、不老不死で迷いも苦しみも持たない。
月の都は清浄だが人々には何の感情もなく、ただただそこに存在するだけ。
そんな世界で、無常の存在に心惹かれ、生まれては死ぬ生命の秘密に魅せられて、不浄なる地上への憧れを募らせたかぐや姫は、罪人として流されたのである。
劇中でも印象的に使われている、「まわれ まわれ まわれよ」から始まるわらべ唄は、水車の様に回り続けるこの世の命の理を表現した歌詞だが、「まわれ めぐれ めぐれよ」で始まる天女の歌は、もう手が届かなくなった愛おしい地上への想いを歌い、悲愁を帯びたものとなっている。
この二つの“うた”は、組み合わせて本作の物語の縮図となる様にできているのだ。
ささやかな暮らしだが、移り変わる四季と人々の喜怒哀楽の中で、生を満喫していたかぐや姫はしかし、都での窮屈な暮らしの中で、いつしかこの世の魅力を見失い、留まる意味が分からなくなってしまう。
だから誰も愛さず、何もせず、ただ日々を送るだけ。
一生懸命生きる事を諦めてしまったがゆえに、かぐや姫は月へと帰らねばならくなるが、失うことになって初めて、地上へとやって来た理由を再び見出す。
必滅の世界で、他の命と一緒になって一日一日を悔いなく生きる、それこそが彼女の喜びであり、幸せだったはず。
そして、この世に満ちているのは月の都で言われている様な“穢れ”ではなく“彩り”である事に気付き、同時に自らに課された罪と罰の正体を理解する。
本来月の人であるかぐや姫にとって、不浄の地上で感じる喜びは全て罪であり、逆に喜びを失う事による悲しみは全て罰なのである。
だからこそ月の天人たちは、自ら望んだ生を放棄すると言う、“罪の中の罪”を犯したかぐや姫に、この世界で過ごしたかけがえのない記憶を、全て忘れるという最大の罰を課す事で、彼女を月の世界に再び迎え入れるのだ。
原作ではかぐや姫が去る時に、不死の薬を残してゆくが、映画ではこのくだりがばっさりとカットされているのも、本作のテーマを考えれば納得がいく。
命の有限にこそ憧憬を抱いたかぐや姫が、最後に無限を象徴する物を地上に残すはずが無いのである。
「かぐや姫の物語」は全く奇を衒った所の無い、王道のアニメーション大作だ。
制作期間を考えれば偶然だろうが、山里での幼少期の描写が終盤でこの世界の命の理へと結びつく仕組みは、昨年細田守監督が発表したこれまた大傑作「おおかみこどもの雨と雪」を思わせる部分もある。
少なくとも、 「大人のジブリ」なるエクスキューズが必要だった「風立ちぬ」と比較しても、「かぐや姫の物語」の方が娯楽映画としての間口は遥かに広いと言えるだろう。
そして、感動の余韻を引き摺りながら映画館を出ると、きっと以前とは世界が少しだけ違って見えると思う。
私は、秋晴れの空、街路樹の紅葉、公園で佇む野良猫、着物を着た七五三の女の子の笑顔、目に入る全てが愛おしくてたまらず、訳もなく涙がでた。
そう、ここは人々が四苦八苦し、あらゆる命が森羅万象の中で限りある時を巡る、かぐや姫が生きたかった必滅の地上そのものなのだから。
この世界は生きるに値する事を、改めて実感させてくれる、まことに美しく、神々しい映画である。
ある意味究極の「まんが日本昔ばなし」たる本作には、やはり日本酒を合わせたい。
月やかぐや姫をモチーフとした銘柄は日本中に沢山あるが、今回は福井県で200年を超える歴史を持つ常山酒造の「月の雫 香月華 大吟醸」をチョイス。
上品な吟醸香がふわりと広がり、まるで満月の光のようななめらかな舌ざわり。
豊潤な優しい味わいが柔らかに喉を潤してゆく。
こちらもまた、日本のもの作りの技を堪能出来る逸品である。
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巨匠・高畑勲が78歳にして挑んだのは、日本における物語の祖にして最初のSFファンタジー、「竹取物語」の初の長編アニメーション映画化である。
137分の上映時間は、比類するものの無い至高の映画体験。
天土火水、森羅万象の中の生命への慈愛が、スクリーンから溢れ出る。
ここにあるのは作家の小宇宙に再構築された、この美しき世界そのものだ。
作品の志向する先はある意味真逆だが、「風立ちぬ」における宮崎駿に続いて、高畑勲もまた自身の最も美しく、最も優れた作品を作り上げたのではないだろうか。
アニメーション映画史を揺るがし、永遠に記憶されるべき傑作中の傑作である。
※核心部分に触れています。
昔々。
山で竹を取り、様々な物に加工しては売ることで、慎ましく暮らす翁(地井武男)とその妻の嫗(宮本信子)がいた。
ある日、翁が竹やぶで不思議な光りを放つ竹の子を見つけると、その中から小さく愛らしい姫が現れる。
ところが姫を家に連れ帰ると、突然人間の赤ん坊に変身してしまう。
子供のない翁と嫗は、姫を天からの授かりものとして大切に育て始める。
急速に成長する事から、村の子供たちから“竹の子”と呼ばれた姫(朝倉あき)は、やがて美しい娘となる。
その頃、竹やぶの竹から黄金や高価な反物が出てくる事が相次ぎ、これは姫を幸せにせよという天命だと考えた翁は、姫を高貴な身分の貴公子と結婚させようと、黄金を使い都に壮麗な屋敷を構える。
“なよ竹のかぐや姫”の美しさは、瞬く間に都で評判となり、求婚者が押し寄せたが、窮屈な都の暮らしは次第に姫の心を曇らせてゆく・・・
映画が始まって間もなく、今は亡き名優・地井武男の命の火を燃やすような魂の演技に早くも涙腺が緩るむ。
本作のボイスキャストによる収録が行われたのは、2011年の事だという。
映像制作よりも先に、声と表情を録音・録画し、それに合わせて作画するプレスコ技法が生んだ奇跡だ。
隅々まで描き込むのではなく、広い余白に静の中の動を感じさせる和テイストの作画は、時に荒々しく、時に繊細で、観る者の心にえも言われぬ郷愁を呼び起こす。
もっとも、映像的には凝りに凝った素晴らしい仕上がりだが、それ自体が斬新であるとは言えない。
筆で描いた様なタッチの作品は、日本の商業映画では物珍しいかもしれないが、インディーズ作品や海外作品では過去にも数多く作られている。
「かぐや姫の物語」の白眉は、何よりも高畑勲の集大成というべき圧巻のアニメーション演出と、緻密に構成された脚本の力である。
話そのものは、誰もが知る「竹取物語」に極めて忠実だ。
竹から現れたかぐや姫が、翁と嫗に育てられ、やがて絶世の美女へと育つ。
だが、姫は誰とも結婚しようとはせず、求婚する貴公子たちに、決して手に入れられない贈り物を持って来いという無理難題を突きつけて追い返す。
遂には帝まで姫をそばに置こうとするものの、突然「実は私は月の世界の者」と告白し、月へと帰ってしまうというお話である。
成立してから既に千年以上という長い歴史の間には、様々なバリエーションが作られており、細部は伝承によって異なっているらしいが、大まかにはこんな話だ。
だが、プロットの流れは原作通りであるものの、実際に何をどう描くかは相当に脚色されており、決して昔話をただなぞっただけではない。
そもそも月の人であるかぐや姫は、なぜ地上へとやって来たのか。
原作では罪人として穢れた地上へと流されたとなっているが、では一体どんな罪を犯したというのか。
高畑勲と坂口理子の脚本は、元の物語には詳しく描かれていない“かぐや姫の動機”、そしてキャッチコピーにもなっている“姫の犯した罪と罰”に迫る。
構成上原作と大きく異なるのは、山里で育ったかぐや姫の幼少時代の描写だ。
原作では殆どスルーされているこのシークエンスは、上映時間のおよそ1/4を費やし、竹から生まれた姫が赤ん坊へと変身し、短い期間に人間の子供として生き生きと成長する様がじっくりと描かれている。
村の子供たちと遊び、仕事をし、時に悪戯し、そしてこれも原作には登場しない捨丸という少年との淡い初恋。
このどこか若き日の高畑勲の代表作「アルプスの少女ハイジ」を思わせる山里のシークエンスは、圧倒的なアニメーション技術の表現力もあって、正しく循環する生命の理想郷、日本人の心にあるハートランドの趣きを感じる。
しかしかぐや姫を溺愛し、貴公子と結婚させる事が天からの使命と考えた翁によって、彼女は命に満ちた山里の暮らしを失い、都の大邸宅で籠の鳥となってしまう。
自分が“なよ竹のかぐや姫”と名づけられた事を告知する祝宴で、男たちの心無い言葉を聞いた彼女が、嘗て自分が住んでいた里へと疾走する、現実とも夢ともつかぬ不思議なシークエンスは物語の大きなターニングポイントだ。
山の民は森のライフサイクルを守るために、定期的に土地を移るため、かぐや姫の愛した人々の姿はもうそこには無い。
幸せだった子供時代は永遠に帰らない事を知った彼女は、地上の生を謳歌する喜びをここで失うのである。
そして同じように、夢うつつで対となるエピソードが終盤にある。
月へと帰ることが避けられない運命と知ったかぐや姫が、満月の前にもう一度故郷の里へと戻ると、そこで成人した捨丸と出会うのだ。
子供の頃伝えられなかった想いをお互いに告白する二人は、喜びの感情と共にこの世界を飛び回る。
宮崎駿も真っ青の飛翔感たっぷりのこのシークエンスはしかし、既に失われたものへの束の間の幻想。
二つの“夢オチ”は、言わば理想郷の喪失と再発見であり、かぐや姫の心の状態にリンクし、三幕構成の区切りとなる役割も果たしている。
他にも、映画は数多くの対照性を物語に潜ませる。
例えば山里と都、庶民と貴人、月と地上、捨丸との二度の別れ、子供たちのわらべ唄と月の天女の歌。
これら対照性の状況や現象によって、映画はかぐや姫にとっての幸せ、即ちこの世界で本当に欲しかったもの、そして彼女が犯した罪と罰とは何なのかを描き出してゆくのである。
かぐや姫が地上へと降りた理由。
それは、嘗てこの世界から月へと戻った天女から子供たちのわらべ唄を聴き、命の喜びを知りたくなったから。
かぐや姫を迎えに来る月の使節団の中で、月の王と思しき人物が仏相なのがポイントである。
月が仏教で言うところの解脱者たちの世界だとすれば、彼らは人間の抱える所謂“四苦八苦”の葛藤と、生まれたものは全て死ぬ“無常”の業から解放され、不老不死で迷いも苦しみも持たない。
月の都は清浄だが人々には何の感情もなく、ただただそこに存在するだけ。
そんな世界で、無常の存在に心惹かれ、生まれては死ぬ生命の秘密に魅せられて、不浄なる地上への憧れを募らせたかぐや姫は、罪人として流されたのである。
劇中でも印象的に使われている、「まわれ まわれ まわれよ」から始まるわらべ唄は、水車の様に回り続けるこの世の命の理を表現した歌詞だが、「まわれ めぐれ めぐれよ」で始まる天女の歌は、もう手が届かなくなった愛おしい地上への想いを歌い、悲愁を帯びたものとなっている。
この二つの“うた”は、組み合わせて本作の物語の縮図となる様にできているのだ。
ささやかな暮らしだが、移り変わる四季と人々の喜怒哀楽の中で、生を満喫していたかぐや姫はしかし、都での窮屈な暮らしの中で、いつしかこの世の魅力を見失い、留まる意味が分からなくなってしまう。
だから誰も愛さず、何もせず、ただ日々を送るだけ。
一生懸命生きる事を諦めてしまったがゆえに、かぐや姫は月へと帰らねばならくなるが、失うことになって初めて、地上へとやって来た理由を再び見出す。
必滅の世界で、他の命と一緒になって一日一日を悔いなく生きる、それこそが彼女の喜びであり、幸せだったはず。
そして、この世に満ちているのは月の都で言われている様な“穢れ”ではなく“彩り”である事に気付き、同時に自らに課された罪と罰の正体を理解する。
本来月の人であるかぐや姫にとって、不浄の地上で感じる喜びは全て罪であり、逆に喜びを失う事による悲しみは全て罰なのである。
だからこそ月の天人たちは、自ら望んだ生を放棄すると言う、“罪の中の罪”を犯したかぐや姫に、この世界で過ごしたかけがえのない記憶を、全て忘れるという最大の罰を課す事で、彼女を月の世界に再び迎え入れるのだ。
原作ではかぐや姫が去る時に、不死の薬を残してゆくが、映画ではこのくだりがばっさりとカットされているのも、本作のテーマを考えれば納得がいく。
命の有限にこそ憧憬を抱いたかぐや姫が、最後に無限を象徴する物を地上に残すはずが無いのである。
「かぐや姫の物語」は全く奇を衒った所の無い、王道のアニメーション大作だ。
制作期間を考えれば偶然だろうが、山里での幼少期の描写が終盤でこの世界の命の理へと結びつく仕組みは、昨年細田守監督が発表したこれまた大傑作「おおかみこどもの雨と雪」を思わせる部分もある。
少なくとも、 「大人のジブリ」なるエクスキューズが必要だった「風立ちぬ」と比較しても、「かぐや姫の物語」の方が娯楽映画としての間口は遥かに広いと言えるだろう。
そして、感動の余韻を引き摺りながら映画館を出ると、きっと以前とは世界が少しだけ違って見えると思う。
私は、秋晴れの空、街路樹の紅葉、公園で佇む野良猫、着物を着た七五三の女の子の笑顔、目に入る全てが愛おしくてたまらず、訳もなく涙がでた。
そう、ここは人々が四苦八苦し、あらゆる命が森羅万象の中で限りある時を巡る、かぐや姫が生きたかった必滅の地上そのものなのだから。
この世界は生きるに値する事を、改めて実感させてくれる、まことに美しく、神々しい映画である。
ある意味究極の「まんが日本昔ばなし」たる本作には、やはり日本酒を合わせたい。
月やかぐや姫をモチーフとした銘柄は日本中に沢山あるが、今回は福井県で200年を超える歴史を持つ常山酒造の「月の雫 香月華 大吟醸」をチョイス。
上品な吟醸香がふわりと広がり、まるで満月の光のようななめらかな舌ざわり。
豊潤な優しい味わいが柔らかに喉を潤してゆく。
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