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各国の政治の季節も一段落し、間もなく希望と不安が半分ずつの2014年がやってくる。
今年の日本映画を一言で表すなら、「イヤー・オブ・ジブリ」という事になるだろう。
映画史に残る「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の公開からちょうど四半世紀の節目の年に、宮崎駿と高畑勲は共に圧倒的なクオリティで自身の最高傑作を作り上げ、アニメーション映画の世界に地殻変動を起こした。
二人の天才にリードされた、一つの時代が終わったのが今年2013年だと思う。
一方の外国映画は世界各国から優れた作品がやってきたが、個人的には遂に3D技術を新たな演出手法として使いこなした作品が続出したのが印象深い。
それでは、今年の劇場公開作品から「忘れられない映画たち」を鑑賞順に。
「ライフ・オブ・パイ/虎と漂流した227日」は、アン・リー監督が到達した至高の物語論。無理数のπ(パイ)という割り切れない名を持つ少年の語る漂流記は、果たして真実なのか?虎のリチャード・パーカーは実在したのか?圧倒的な映像表現によって、観客は小さな救命ボートの同乗者となり、神性を求める哲学的冒険譚へと旅立つのである。
「ゼロ・ダーク・サーティ」は、ビン・ラディンという姿を見せない恐怖のアイコンによって、人生を支配された一人の女性の、悲しく切ない青春映画だ。世界一漢らしい映画を撮る女性監督、キャスリン・ビグローの演出は今回もキレキレで、息詰まる緊張が157分間に渡って続く。ラストシーンで主人公の頬をつたう涙は、一体何を意味するのだろうか?
「王になった男」は、影武者に仕立てられ15日間だけ王の代理を務める道化が、何時しか本物の“王”となってゆく物語。陰謀渦巻く宮廷劇であり、ラブストーリーであり、骨太のリーダー論であり、何よりも良く出来た人間ドラマだ。人間味溢れる魅力的なキャラクターをユーモアを隠し味に演じ、重厚な存在感を見せるイ・ビョンホンが素晴らしい。
「横道世之介」は、誰にでもある人生を黄金時代の物語。天真爛漫な世之介は皆を照らす太陽だ。特に特別なことが起こる訳ではなく、描かれるのはごく“普通”の80年代の青春。それでも二度と戻らない過去は登場人物それぞれの記憶の中で昇華され、美しい輝きを放つ。世之介世代の私には懐かしいアルバムを観る様だった。
「遺体 明日への十日間」は、3.11から10日間のある遺体安置所の出来事。タイトルも内容もストレートだが、そうでないと伝わらない事もある。 劇映画故にドキュメンタリーよりも距離が近く、より生身の人間たちを感じる。影響範囲が広い原発事故が大きなイシューとなった事で大元の震災と津波には早くも風化の兆しがある。災害の多い国で、喪失とどう向き合うかという意味でも重要な作品だ。
「汚れなき祈り」は、ルーマニアで実際に起こったエクソシスト事件を描いた作品。とは言っても、もちろんホラーではなく、二人の女性を軸に信仰と不寛容を問うた力作だ。信仰に生きる友を神の愛から取り戻そうとする者は、必然的に罪深い悪魔とされるしかない。愛と罪、個の意思と信仰など複雑な人間心理に迫ったズシリと重い作品だ。
「リンカーン」は、南北戦争末期、戦争終結と奴隷制に止めを刺す合衆国憲法修正13条の成立という相反する二つの政策を同時に成し遂げなければならなくなった大統領の苦悩を描く。 混乱と戦火の中で、弱き心を奮い立たせ、幾つもの重く辛い決断をした150年前のリーダーの姿は、今の我々に何を語りかけるのか?ゼロ年代以降のスピルバーグ作品のベスト。
「セデック・バレ」は、大日本帝国施政下の台湾で起こった先住民族の反乱、いわゆる霧社事件を描いた前後編実に4時間30分におよぶウェイ・ダーション監督の大力作。「文明が屈服を強いるなら、俺たちは野蛮の魂を見せてやる」虐げられた民の反乱に映画的カタルシスを感じる一方、自分が紛れもなく抑圧者の側である事に複雑な痛みを感じるのだ。
「きっと、うまくいく」は、いわばインド人がサービス精神満載で作った「横道世之介」だ。高度成長期真っ只中のインド版学園コメディは、真夏の太陽の様な熱を持っている。輝かしい青春の記憶は今を生きるエネルギーとなり、笑に涙、ミュージカルや社会風刺まで盛り込んでの2時間50分は全く長く感じない。全ての伏線を完璧に回収してゆく作劇も鮮やかだ。
「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」は、刹那的な生き方をする孤独なライダー、彼を射殺した警官、そして二人の息子たちの15年に及ぶ運命の物語。 141分の上映時間中、主人公が二度入れ替わる脚本構成が面白い。宿命的に出会った二人の男と父の背中を追う息子たちの物語は、父性を描く現代アメリの叙事詩に昇華される。
「はじまりのみち」は、原恵一による木下惠介トリビュートにして69年前に作られた「陸軍」へのアンサームービー、そして何より大いなる映画賛歌だ。木下作品のインスパイアから原恵一が生み出したゾクゾクする幾つもの映画的瞬間は、昭和と平成の名匠による時代を超えた素晴らしいコラボレーションであり、きな臭さを増す現代日本への鋭い警鐘となっている。
「さよなら渓谷」は、まことに不可解な人の心を描く秀作だ。ある事件が発端で、暴き出される隣人夫婦の驚くべき秘密。“妻”は本来憎むべき男を“夫”とし、今また彼を犯罪者に陥れようとする。究極の憎しみの果てにあるのは、一体何か。大森立嗣監督では、秋葉原通り魔事件を映画的に再解釈した「ぼっちゃん」も刺激的な秀作だ。
「モンスター・ユニバーシティ」は、名作「モンスターズ・インク」の前日譚だが、これ一本でも十分に堪能出来る上々の出来。夢いっぱいの大学生活は同時に自分自身が何者かと、この社会の現実を知ってゆく期間でもある。それでも夢への道は決して一つではないのだ。ディズニー・ピクサーではディズニーブランドながら、どちらかと言えばピクサー的な、ゲームキャラたちの“自分の居場所”を巡る物語、「シュガー・ラッシュ」も素晴らしい。
「風立ちぬ」は、宮崎駿の集大成にして、(本人曰く)引退作品。過去の作品の中でも今までで一番私小説的に振り切った内容で、遂にファミリー映画というくびきを逃れた。 呪われた宿命を受け入れてでも、力を尽くして生き、美しいモノを作る。宮崎駿が零戦の設計者である堀越二郎の半生に自らを投影して描く、とてつもなく残酷で、美しいアニメーション映画だ。
「ブランカニエベス」は、白雪姫の童話を20世紀前半のスペインに置き換え、白雪姫が実はマタドールだったというユニークな設定に落とし込む。全編モノクロ、音楽と一部効果音以外サイレントという作りも単に奇を衒った物ではなく、エンターテイメントとして昇華される。 異色のスパニッシュファンタジーの裏側には映画黎明期へのレクイエムが隠されているのだ。
「パシフィック・リム」は、人型ロボvs巨大怪獣という中二魂の夢の結晶。ルチャリブレの国のスーパーオタク、ギレルモ・デル・トロが作り上げた史上最強の怪獣プロレスは、文字通り環太平洋《パシフィック・リム》の各地で繰り広げられ、130分間怒涛の勢いでアドレナリンを燃やし尽くす。 日本の全ての怪獣映画ファンはラストの字幕に涙しただろう。
「日本の悲劇」は、小林政広監督による大変な問題作。登場人物は僅かに四人、一軒の家の中だけで展開する小さな物語は、日本人一億二千万人の縮図である。鬱病、リストラ、老い、そして震災。ほんの数年前まで細やかな幸せに包まれていた彼らは、なぜ悲劇に落ちてしまったのか?一つの家族というミクロを通して日本というマクロが見えてくる。 ユニークな音響演出が秀逸だ。
「ペインレス」は、スペイン内戦の時代に出現した無痛症の子供達を巡る歴史ミステリー。 白血病で余命幾ばくもない主人公の自らのルーツを探る旅は、いつに間にか1930年代に始まる痛覚を持たない奇妙な子供たちを巡る、血塗られた歴史の闇を掘り出してしまう。「パンズ・ラビリンス」に「灼熱の魂」を組み合わせた様な、哀しく切ない人間ドラマの秀作だ。
「許されざる者」は、オリジナルとリメイクがどちらも傑作になった稀有な例。基本プロットは元の話に忠実、しかしオリジナリティとして米国に無くて日本にあるもの、この国の歴史を持ってきた。考え方はシンプルだが仕上りはリメイクのお手本の様に見事。 雄大な自然の中で展開するのは、時代に忘れられ未開の大地の片隅でひっそりと生きる者たちの、哀しい業の物語だ。
「そして父になる」は、生まれた時に赤ん坊を取り違えられた対照的な二つの家族の物語。守るべきは血縁か?共に過ごした時間なのか?親は無条件に子供を愛せるのか?もしも自分ならどうするか。幾つもの重い問いを投げかけられ、ミステリアスな人の心を垣間見る濃密な2時間だ。内容は全然違うが、ただ結婚したり子供が出来ただけで家族になるのではなく、そこに歴史あってはじめて家族になる、というのはドイツ映画の佳作「おじいちゃんの里帰り」と同じテーマである。
「危険なプロット」は、フランソワ・オゾンの描く官能的でミステリアスな物語の迷宮。小説家崩れの文学教師がふと目を留めた生徒の作文。自らは恵まれなかった才能を感じた教師は生徒に“続き”を書かせる事にのめり込むが、何時しかその小説はフィクションを超えて現実を侵食し、物語の支配者になろうとした教師は破滅への道を転げ落ちる。ある種の物語論であり作家論でもある。
「ペコロスの母に会いに行く」は、85歳の森崎東監督が描き出す、団塊の世代の息子と認知症の母とのユーモラスで切ない黄昏の日々。やがて浮かび上がってくる母の人生。歴史の街長崎で、現代と過去、そして現代と未来が溶け合う瞬間の何と映画的な事! 今年は「愛、アムール」、「しわ」、「拝啓、愛しています」と同じ題材を描いた各国の作品が続いたが、四者四様のオチの付け方の違いが面白い。ユーモアがベースにあるからか本作が一番希望的に感じた。
「かぐや姫の物語」は、私的ムービー・オブ・ザ・イヤー。宮崎駿に続いて高畑勲もまた最も美しく、最も神々しい作品を作り上げた。「風立ちぬ」が芥川賞的作品だとすれば、こちらは直木賞的な王道の娯楽映画。かぐや姫が本当に欲しかったものとは?罪と罰とは何なのか?誰もが知る物語を通して描きあげられるのは、かけがえの無い命の物語であり、作家の小宇宙に再構築されたこの世界そのもの。映画史に残る娯楽アニメーションの傑作中の傑作だ。
「ゼロ・グラビティ」は、鬼才アルフォンソ・キュアロンの仕掛けた暗喩的サバイバルアドベンチャー。大宇宙一人ぼっち 、あの恐ろしい予告編がそのまま90分続くのだ。3D映像で、ただ圧倒的臨場感の宇宙空間を体感し、シンプルながら緻密に構成され、深い意味の隠された物語の妙を味わう。過去に類似した作品が全く無い、古くて新しい究極のアトラクション映画だ。
「ハンガー・ゲーム2」は、日本ではなぜかコケちゃった世界的ヒット作の第二弾。死のゲームを生き延びた主人公は、燃え上がる革命のアイコンとなる。これをバトロワの亜流的なキワものと思ってはいけない。ジュブナイル色の強い濃密な人間ドラマであり、前作を遥かに上回るドラマチックなディストピアSFの傑作である。 次回作が待ち遠しい!
以上が、今年の「忘れられない映画たち」である。
例によって観た時は凄く良かったけど、今振り返るとそれほど印象に残っておらず、外した作品もあるし、時間が経った今の方が存在感が高まってきた作品もある。
日本映画では他にも、3.11後の日常を見据えた山田洋次監督の「東京家族」や内田伸輝監督の「おだやかな日常」が現代日本の現実を突きつけ、三池崇監督は「藁の盾」をパワフルなエンターテイメントとして描きあげた。
伝説のテレビドラマを素晴らしき女性賛歌へと昇華した「おしん」、山崎貴監督がベストセラーを見事に映像化した「永遠の0」も優れた作品である。
外国映画ではブライアン・デ・パルマ監督の 「パッション」、ニール・ジョーダン監督の「ビザンチウム」、レオス・カラックス監督の「ホーリー・モータース」など、作家性の強いベテラン監督による久々の“らしい”作品が多く、全盛期を知るオールドファンとしてはうれしいサプライズ。
「偽りなき者」や「ハンナ・アーレント」など、個人と社会の関わりを見つめ、深く考察した秀作も目立った。
ジャンル映画では、タランティーノがマニアックに描いた「ジャンゴ 繋がれざる者」や、J.J.エイブラムスが鮮やかな職人技を発揮した「スタートレック イン・トゥ・ダークネス」、ホラー卒業を宣言した第一人者、ジェームズ・ワン監督の「死霊館」も素晴らしい。
ホラー系では、ジャンル解体を試みた大怪作「キャビン」、そして「死霊のはらわた」における新鋭フェデ・アルバレス監督の演出力も注目に値する。
また厳密にはホラーとは言えないかもしれないが、日本映画「桜、ふたたびの加奈子」のコワ哀しい独特のタッチも印象に残った。
さて、来年はどんな作品と出会えるだろう。
記事には書かなかったが、色々な映画祭の出品作品で日本で正式公開して欲しい作品も多かった。
それでは皆さん、良いお年を。

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スーザン・コリンズの同名ベストセラー小説を原作とする、サバイバルSF第二弾。
前作「ハンガー・ゲーム」で死のゲームを生き残ったカットニスとピータは、その後の平穏無事な人生を約束されたはずだった。
だが、カットニスの見せた機転と、ゲームのルールを覆した結果は、抑圧された大衆の意識を変化させる。
勝者カットニスとマネシカケスのシンボルを旗印に、革命の炎が燃え上がるのだ。
独裁政権を率いるスノー大統領は、歴代のゲームで生き残ったチャンピオンたちを集めた記念大会の開催を発表し、大衆の希望を体現するカットニスと、過去のゲームの勝者たちの抹殺を画策するのである。
この映画、全世界で興業的にも批評的にも成功した前作が、なぜか日本でだけ大コケ&酷評の嵐となってしまった結果、公開規模は縮小され、シネコンの箱も小さめ。
日本市場での失敗は、観客サイドが勝手にバトロワ的なキワ物を期待したゆえのギャップがあったと思う。
先入観は捨ててジュブナイル色の強いディストピアな人間ドラマとして観れば、なかなかに見応えのある作品なのだが、監督がゲイリー・ロスからフランシス・ローレンスにバトンタッチされたに作目は、前作を遥かに上回る傑作である。
元々この種のシリーズ化前提の作品は、世界観やキャラクター紹介が終わった二作目以降の方が出来る事が多いが、本作もサイモン・ボーファイとマイケル・アーントという名手二人の手による脚色が、実に上手く出来ている。
前回のゲームで、独裁政権を出し抜く奇策を使い、一人しか生き残れないという絶対のルールを打ち砕いたカットニスは、世界は意思と行動によって変えられるという事を人々に示した。
その事によって、本来大衆のガス抜きのはずだったゲームが、反体制の象徴となってしまい、結果的にカットニスは、自らの意思とは無関係に、危険分子として当局によって目をつけられ、再びゲームに送り込まれてしまうのである。
必然的に彼女の葛藤は、あくまでも自分が生き残る事だった前作から意識がぐっと広がって社会性を帯びたものとなり、その分苦悩も深くなる。
もうゲームなどには関わりたくない、ただ平和に暮らしたいという一人の人間としての願いと、大切な人々を守りたいという願い、そして無数の抑圧された大衆の希望のアイコンとしてのもう一人の自分との折り合い。
これは何も知らない田舎娘が、世界の現実を見て、様々な人と出会い、極限状態の中で成長を遂げてゆく物語なのである。
彼女だけでなく、相方のピータはもちろん、カットニスがゲームに志願する切っ掛けとなった妹のプリムら脇のキャラクターの人間的な成長もさり気なく描かれている。
またハンガー・ゲームのシークエンスも、物語の構造的な“仕掛け”と組み合わせて工夫されており、二番煎じにはなっていない。
ゲームの最中に起こる幾つもの事件と、敵か味方か分からない各キャラクターのしばしば引っかかる矛盾した行動が、終盤最終章へと向かう怒涛の流れに収束する一瞬は、物語のカタルシスを感じさせ、次回作への期待は高まるばかり。
しかし、観終わって真っ先に思うのは「早く続きを観せてくれ!」だ。
まあ、これはクライマックスに繋げるための「帝国の逆襲」であり「二つの塔」である訳だが、潔いぶった切り方に、マーベル映画のサービス精神がいかにありがたいか改めてわかった(笑
せめてちょこっとで良いから、予告編を見せて欲しかったなあ。
次回作を気長に待つか、思い切って原作を全部読んでしまうか、迷いどころである。
今回は、マネシカケスの衣装を纏ったカットニスのイメージで「ブルー・レディ」をチョイス。
ブルー・キュラソー30ml、ドライ・ジン15ml、レモン・ジュース15mlに卵白一つ分を加え、シェイクしてグラスに注ぐ。
卵白は混ざりにくいので、入念に。
グレナデンシロップ を使うピンク・レディの色違い版で、名前の通り鮮やかな青いカクテル。
卵白を入れないバリエーションもある様だが、入れたほうがやわらかい味わいになるので、個人的にはこちらが好きだ。

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1960年、南米で逃亡生活を続けていた元ナチス幹部、アドルフ・アイヒマンがイスラエルの諜報機関モサドによって拘束され、密かにエルサレムに移送される。
ユダヤ系ドイツ人女性で、ナチスの抑留キャンプから逃れて米国へ亡命した哲学者、ハンナ・アーレントはアイヒマンの裁判を傍聴し、その記事をニューヨーカー誌に連載する事になる。
世界はこの旧世界の恐るべき“野獣”の断罪を欲し、イスラエルの裁判所は当然のように絞首刑の判決を下す。
ところがアーレントの記事は、アイヒマンを邪悪な人物ではなく、どこにでもいる凡人であり、反ユダヤ主義者ですらないと評し、それどころか当時のユダヤコミュニティの指導者たちもまた、ナチスの政策に加担したと指摘したのである。
この記事によって、アーレントは世間の激しいバッシングを受けるのだ。
アーレントの視点によって描かれるアイヒマン裁判の断片を見る限り、彼女の記事は至極公正に思える。
アイヒマンは巨大な組織の単なる中間管理職で、上から流れてきた命令を事務的にこなしていた一役人に過ぎず、積極的に他人の破滅を作り出す意図は見えない。
実際、彼自身が手を下して殺害した犠牲者は一人もいないのである。
ところがイスラエル検察は、彼の職務とは直接関係ない犠牲者の遺族に証言させ、アイヒマンが虐殺の核心に関わった極悪人であり、彼の行為が重大な結果へと結びついたという印象を世界に向けて発信するのだ。
これは裁判とは名ばかりの、結果ありきの茶番である。
ところが、その事を端的に指摘したアーレントは、ナチス野郎と罵られ、世間から吊るし上げられる。
ここで重要なのは、彼女はアイヒマンの責任は認めている事だ。
自らも逃げ遅れたなら殺されていたかもしれない当事者の一人として、アーレントは彼の事を許すとは言っておらず、絞首刑という判決そのものには反対していない。
なのに、なぜ彼女は世間から攻撃されねばならなかったのか?
基本的に、人は信じたい事を信じるのだと思う。
それは、自らが観察し、思考して感情と理性を葛藤させ、苦悩の末に結論を導き出すよりもずっと楽だからだ。
実は彼女を誹謗中傷した人々は、自らもアイヒマンと同じ罠に嵌っている事に気づかない。
ナチスは絶対悪であり、彼らには人間性など存在しない、故に“理解”など不可能だ。
同時に、ユダヤ人は一方的な被害者であり、振る舞いに反省すべき点などある訳が無い、という常識と価値観に縛られ、そこで思考停止してしまっているのである。
ナチスの悪は根源的な悪ではなく、思考すること、即ち人間であることを放棄した、平凡な存在による凡庸な悪であるというアーレントの指摘は、人々にとって直感的に自分たちの心にもある影の部分を鋭く指摘されたのと同義だったのだ。
あなたも、私も、ユダヤ人だってアイヒマンになり得るのだと。
悪とは何か、その悪を裁く正義とは何かというハンナの投げかけた問いによって生じた波紋が、民族感情によって複雑に増幅されてゆく様は、靖国問題とも共通する部分がある。
大切なのは、長いものに巻かれるのではなく、偏見や思い込みを捨てて、個としての思考を続けること。
思考は知識ではないが、思考こそが善と悪、美しいものと醜いものを見極める力を与えてくれるのだ。
どんな圧力をかけられても、攻撃されても、人間が人間たる事を諦めなかった半世紀前の哲学者のドラマは、2013年末の日本の現実に、確実に響くのである。
今回は、アーレント教授の信念に敬意を表し、カクテルの「アイアン・レディー」をチョイス。
ウイスキー36ml、ドライ・ベルモット12ml、ポートワイン12 ml、オレンジ・ビターズ1dashをステアしてグラスに注ぐ。
ウィスキーに深みにポートワインの柔らかな風味が広がり、オレンジ・ビターズが大人の味わいを演出する。
ルビー色の見た目も美しい。

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実に見応えのある、堂々たる力作である。
百田尚樹の原作はだいぶ前に読んだが、なんと文庫本のベストセラー歴代1位を更新する大ヒット作となったらしい。
長大な原作の映像化がどうあるべきか、おそらく既読者は色々言いたい事も多いだろうが、私としては一本の映画として脚色のバランスも良く、山崎貴監督の作品としてはベストと言って良い仕上がりだと思う。
現代と過去を行き来する話なので、見せ場としてはそれほど多いわけではないが、白組の担当したVFXもさすがの出来栄えだ。
以前、鹿児島県の知覧特攻基地跡にある知覧特攻平和会館と、高倉健主演の映画「ホタル」でも知られる富屋食堂を復元した資料館に行ったことがある。
膨大な遺影や遺品の中でも、私は特に富屋食堂に展示されていた、隊員たちが家族や恋人宛てに書いた手紙や遺書に非常に強く心を揺り動かされた。
印刷ではない肉筆の文章からは、歴史という大きな括りの中で、特攻というもはや作戦とも言えぬ狂気の発想を受け入れ、彼らが自ら死を選んだ“理由”のほんの一部だが、十把一絡げのステロタイプではなく、感情を持った個人としてリアルに見えてくるのである。
彼ら一人ひとりには、それぞれの想い、それぞれの物語があったはず。
本作は、岡田准一演じる抜群の技量を持ちながら戦いを避け、海軍一の臆病者と呼ばれた男が、なぜ自ら特攻を志願したのか?という疑問を軸に、彼の足跡を追う孫の視点で、歴史に埋れた個人史に迫って行く。
70年前の日本は、遠いようで近く、近いようで遠い時代だ。
この時代の日本人を描くのに、感情移入しやすい21世紀の現代から過去を俯瞰し、ミステリータッチで謎に迫るという、原作の持つ物語のロジックの面白さを踏襲したのは良かった。
生きる事の意味を曖昧にしか捕らえられていない現代の若者が、生と死が隣り合わせの時代の血の繋がった家族を知る事で、意識が変化してゆく過程も丁寧に描写されている。
複数の生存者が「羅生門」的に異なる印象で語る祖父の人物像が、やがて一つの確固たる人格へと集約されてゆく展開も、伏線の張り方も巧みで十分な説得力だ。
しかし、物語のウィークポイントも原作そのままなのは少し残念。
現代から客観的に過去を描くという二重構造のため、あくまでも本作の主人公は三浦春馬演じる孫の方である。
ところが彼は基本的に聞き手というポジションのために、主人公としての葛藤が弱い。
なにしろ特攻への志願という、物語上もっとも重大な決断を下すのは、彼ではないのだ。
小説であればそれほど気にならないポイントだが、映画としては葛藤のピークに何らかの仕掛け、現代と過去の感情が溶け合う瞬間が欲しかった気がする。
いや、一応その様な描写があることはあるのだが、葛藤を共有するにはあそこではちょっと遅すぎで、それ故に終盤やや冗長な印象が残ってしまう。
もっとも、逆に言えば大きく気になるのはそこだけだ。
何よりも、この映画は2013年も終わろうとしている今だからこそ観る価値がある。
劇中で、元特攻隊員のある人物がこんな事を言う。
「わしらの世代は、あと10年もすれば殆どいなくなる」
この映画の舞台は、戦後60周年を翌年に控えた2004年に設定されている。
間もなくやってくる2014年は、映画で予告された10年後、戦後70周年の前年だ。
つまりこの映画は、今年が舞台ではもう成立しない。
大林宣彦監督は「この空の花-長岡花火物語」の中で、「まだ戦争には間に合う」と説いたが、その時は急速に去ろうとしているのだ。
リアルを知る証言者たちが、歴史の彼方に去ろうとしている時代、彼らの声に耳を傾ける事ができるのは今しかないのである。
今回は特攻基地のあった知覧の地酒である知覧醸造の芋焼酎「ほたる」をチョイス。
元々水に恵まれた知覧は蛍の多い街で、この酒は知覧の人々が戦没者への想いを街の象徴である蛍に重ね合わせた物。
芋焼酎の中では独特の風味はマイルドで、飲みやすく優しい味わいの酒だ。

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ターゲットはパリス・ヒルトン、オーランド・ブルーム、リンジー・ローハン、etc。
被害総額は実に300万ドル、セレブ専門の窃盗団はセレブに憧れる高校生たちだった。
著名人の一挙手一投足が報道され、大衆の興味を惹きつけるのは世界共通だろうが、今世紀に入ってからの米国社会のセレブリティへの興味の加熱はちょっと異様だ。
背景にあるのは、間違いなくテレビのリアリティ番組だろう。
その加熱ぶりは今年の夏にオバマ大統領までが、セレブたちが番組で自分たちの富を見せびらかすために、若者の成功への意識が変わり、社会に悪しき影響を与えていると批判するほどに。
なるほど、これは超お嬢様のソフィア・コッポラならではの、爛熟するセレブリティ文化と退廃するアメリカのセルフパロディだ。
2008年から2009年にかけて、ハリウッドの豪邸を次々に襲った窃盗団「ブリングリング」事件の顛末は日本でも報道されたので、覚えている人も多いだろう。
大胆不敵、神出鬼没の窃盗団のメンバーが、ごく普通の高校生たちだったという事実は世間を大いに驚かせた。
ネットでセレブのスケジュールを調べ、留守宅に侵入してブランド品を漁る。
とにかくはっちゃけた泥棒シーンが、思わず「混ぜて〜」と言いたくなるほど楽しそう。
彼らには罪の意識すら希薄で、盗品を身につけて写真を撮り、堂々と自らのSNSに掲載していた。
そもそも彼らが盗んだ物を本当に欲しかったのかもよくわからない。
むしろ憧れのセレブと同じ空間にいて、同じものを身につけることで、擬似的にセレブリティ社会の一員になった錯覚を楽しんでいたのかもしれない。
少女たちが弾けまくって事件を起こすのは、ハーモニー・コリンの怪作「スプリング・ブレイカーズ」に通じる部分もあるが、あれがある意味普遍的な青春の1ページを白日夢の様に描いた寓話だとすれば、本作はいわば現代アメリカという特殊なシチュエーションに対する“批評”である。
ソフィア・コッポラは、自らも属するセレブリティ社会と、虚構の文化に熱狂するアメリカ社会を冷めた目線で眺める。
この達観して突き放した視点は、生まれた時から華やかな映画界で育ち、裏も表も知り尽くした生粋のセレブにしか描けまい。
本作の登場人が、どんなえげつなくビッチな事しても、そこに没入感はなく、むしろ上品さすら感じさせるのも、作者の育ちの良さが透けて見える。
この辺りはソフィア・コッポラという作家の特質であり、同時に現時点での限界でもあると思う。
物語の語り部を少女たちではなく、メンバー唯一の男性に置いたのも、状況を客観視するスタンスを強調する。
ちなみに、ダサ男が学園のはみ出し者集団に受け入れられて、リア充化するのは「ウォールフラワー」的でもある。
どちらもそこにエマ・ワトソンがいるのも共通だ。
不思議なのは窃盗団の主犯格であるレベッカは、イマイチ垢抜けない彼になぜ声をかけたのかという事だが、もしかしたら彼は“男子”では無かったのかも知れない。
盗んだパリスのハイヒールを喜々として履いてたし、美少女ばかりのグループの中で誰とも男女の仲にならず、尚且つ少女らは彼には平気で着替えを見せてたりするし。
「ブリングリング」は青春映画というよりも、現代アメリカのセレブリティ文化を、インサイダーである作者が、多分に呆れ気味のスタンスでシニカルに皮肉った作品と言えるだろう。
何気に映画には一瞬しか出てこないが、一番印象に残るのは何度も泥棒に入られているのに、持ち物が多過ぎて全然盗まれた事に気付かないパリス・ヒルトン。
しかも本作に登場する彼女の自宅は、セットではなく現場ロケなのだという。
つまりあの衣装や靴は、全部パリス本人の本物!
いや〜、転んでもただでは起きないと言うか、なんという逞しさだろう。
まさしくエマ・ワトソンの最後のセリフを、そのまんま体現してるではないか(笑
今回は弾け過ぎちゃった若者たちの話なので、カリフォルニアの「グローヴ・ストリート プライベート・キュヴェ・スパークリングワイン」をチョイス。
華やかな果実香が泡とともに立ち上がり、ほんのり甘い口当たりに、スッキリとした喉ごしを楽しめる。
クリスマスパーティーにもピッタリだ。

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![]() 【29%OFF】 ■グローヴ ストリート プライヴェート キュヴェ スパークリング ワイン カ... |


メキシコの鬼才、アルフォンソ・キュアロン監督の、「トゥモロー・ワールド」以来となる最新作は、地上600キロの宇宙を舞台としたサバイバルサスペンス。
無限に広がる空間に、たった一人取り残される恐怖。
手を伸ばせば届きそうな地球に、帰れないという無情。
撮影技術の開発だけで四年半を費やしたという、体感する3D映像は圧巻の仕上がりだ。
まるで自分が本当に宇宙空間を漂い、絶体絶命の危機また危機の真っ只中へと放り出された様な感覚を味わえる。
2013年時点での映像技術の到達点と言える作品であり、映画館で完全な非日常に浸りたい人には絶対のおススメ作品だ。
※ラストに触れています。
NASAのミッションスペシャリスト、ライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)はマット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)と共にスペースシャトル・エクスプローラー号の船外で作業中、スペースデブリとの衝突事故に遭遇する。
シャトルは大破し乗組員は全員死亡、ライアンとマットは有人機動ユニットを使い、何とか国際宇宙ステーション(ISS)にたどり着くものの、マットは機体をつかむ事が出来ず、宇宙の彼方へと漂流してしまう。
ライアンはISSのエアロックを開ける事に成功するが、他のクルーは既に脱出した後で、残されていたのはダメージを受けて、大気圏再突入が不可能なソユーズ宇宙船だけだった。
再びデブリの嵐が到来する前に、ライアンは100キロ離れた中国の宇宙ステーションまでソユーズを飛ばそうとするのだが・・・・
「宇宙なんて大嫌い!絶対行きたくない!」
サンドラ・ブロックじゃなくても、この映画を観た殆どの人がこう思ってしまうのではないか。
もしも子供が観たら、トラウマ化は必至。
将来なりたい職業に、“宇宙飛行士”とは決して書かなくなるだろう。
予告編が公開されて以来、可能な限り情報を入れない様にしていたのだが、勝手にレイ・ブラッドベリの傑作小説「万華鏡」の様な作品なのだろうと予測していた。
宇宙空間で事故に遭い、もはや死を避けられない運命の主人公が、いかにして自分の最期を受け入れるかを描いた哲学的な作品だろうと。
ところが、実際の映画は全く違ったのである。
本作は、「これぞハリウッド!」と言うべき、極限からのサバイバルを描くどストレートな娯楽映画であり、あのとんでもなく恐ろしい予告編が、そのまま90分間ずっと続くのだ。
何はともあれ、目の前に広がる宇宙空間にどっぷり浸って楽しんで欲しい。
鑑賞はできればIMAX3Dで、スクリーンが上下左右の視界ギリギリに迫る前の方の席がベストだろう。
字幕がわずらわしいので、いっそ吹替え版でも良いかもしれない。
映画史に3D革命を起こした「アバター」とはまた別の意味で、これほど3Dである事を生かしきった作品はあるまい。
四の五の言わず、ただ圧倒的臨場感の宇宙空間を体感する。
こういう感覚の映画は過去に観た事が無いが、あえて言えばテーマパークや万博の体感型巨大映像が一番近い。
迫り来る無数のデブリに、何度首を振ってよけようとしてしまった事か(笑
これは古くて新しい、良い意味で究極のアトラクションムービーなのだ。
そして「トゥモローワールド」でも中盤のワンカットに度肝を抜かれたが、今回も冒頭20分近くに及ぶとんでもないシークエンスがある。
まあだからこそ四年半もかかったんだろうけど、どうやって撮ってるのかわからなかった。
凝りに凝った映像とは対照的に、ストーリーは驚くほどシンプルだ。
「宇宙で事故にあった主人公が、勇気を奮い立たせて危機を克服し、生還する話」と、一行で書き表せてしまう。
だが、本作の場合は、これで良いと思う。
演出と物語というのは、ある程度までは両方に力を入れる事が可能なのだけど、どちらかを振り切ろうとすると片方が希薄化する傾向がある。
分かりやすいのは、キューブリックの「2001年宇宙の旅」や、テレンス・マリックの一連の作品、あるいは宮崎駿のゼロ年代の作品だ。
彼らは皆生粋の演出家であり、物語への関心は相対的に低いと言わざるを得ない。
演出とは、基本的に画に関する事象である。
プライオリティは人によって違いがあるが、どの様な画面を構成し、どの様に俳優を動かし、どの様な芝居を求め、それをどう撮るのかに、その持てる才能を注ぎ込む。
画面の中の事象を徹底的に突き詰め、映像言語によってテーマを描き出すので、登場人物への過度な感情移入も求めない。
「2001年宇宙の旅」なんて、あらすじを聞かされても特に終盤など映像を観ないと意味不明だろうし、震えるほど美しかったマリックの「ツリー・オブ・ライフ」など、ぶっちゃけ観終わってもどんな話だったのかよくわからない(笑
映像のダイナミズムは圧巻の「崖の上のポニョ」や「ハウルの動く城」も、物語を評価する人は少数だろう。
しかしこれらの作品にもっと複雑なプロットや、登場人物の捻った関係とか葛藤を与えてたとしたら、果たしてそれはよりベターな作品になるのだろうか?
その答えはおそらく否であろう。
本作のアルフォンソ・キュアロン監督ももちろん、典型的な演出の人なのである。
もっとも、シンプルとは言っても物語に色々な暗喩を含ませてあり、一筋縄ではいかない。
例えば、本作に登場するテクノロジーは全て既存のものだが、実は登場する宇宙船や宇宙ステーションの年代は微妙に現実とは異なっている。
最初にライアンが搭乗しているスペースシャトルは、2013年の現実世界では既に全機が退役済み、即ち“過去”である。
次に、衝突事故の後でライアンとマットがたどり着くISSは、今も軌道上に存在する現役、つまり“現在”だ。
そして、マットを失ったライアンが、最後の希望として目指す中国の宇宙ステーション・天宮だけは、中国が2020年頃に完成を目指しているもので、2013年現在ではまだ存在していない。
ライアンは、シャトル、ISS、そして天宮へと過去から未来へ向けて移動している。
これは、彼女自身が娘の死という地上に残してきた過去のトラウマと向き合い、現在の葛藤を克服し、あらためて未来に生きようとするプロセスのメタファーになっているのだ。
更に巨視的に考えるなら、天上の世界へと踏み込んだ人類が、自ら犯した過ちによって過酷な試練を受ける話でもある。
宇宙という無限空間は、同時に大地から切り離された究極の閉鎖空間だ。
助けてくれる人は誰もいないという孤立感と、果たして人生は生きるに値するのかという虚無感。
無重力という強大な“力”によって翻弄されながら、危機に立ち向かい、自らの生きる意味、地上の世界のかけがえの無さを実感した人類は、“神の舟”という名の宇宙船によって生き直すために地上へと帰るのである。
宇宙でもしつこい位に水滴によって強調されていた水のメタファー、宇宙船が落下した先が湖である事ももちろん意味がある。
母なる地球の羊水に受け止められ、古い宇宙服を脱ぎ捨てて浮上するのは再生のイメージ。
岸に泳ぎ着き、重力のくびきを全身で感じながら、二本の足で大地に立ち上がるライアンの眼差しのなんと力強い事か。
ラストカットの後で映し出される「Gravity 」のタイトルはガツンと来るものがあるのだけど、邦題は「ゼロ・グラビティ」で逆の意味。
まあ宇宙の話だという事を強くイメージさせる意図は分かるけど、無重力を描く事で重力を感じさせる逆説の効果が薄れてしまったのは少し残念。
やはり邦題とは難しいものだ。
しかし、2013年の冬を代表するであろう、本作と「かぐや姫の物語」という東西の二本が、共に宇宙(月)から眺めた地球をモチーフとしているのは面白い。
届きそうで届かない、離れた所で見るからこそ、その本当の美しさ、そこに生きる事の価値がより分かりやすくなるという事だろうが。
今回は、ソユーズにも搭載されているらしい、ウォッカをベースにした宇宙的カクテル「ルナ・パーク」をチョイス。
ウオッカ20ml、クレーム・ド・バイオレット20ml、飲むヨーグルト10ml、アセロラ・ジュース10mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
クールなホワイトが月の表面をイメージさせる、美しいカクテルだ。
まあヨーグルトの独特の風味があるので、好みは分かれるかもしれない。
ところでロシアがISSに自国のクルーもいるにも関わらず、スパイ衛星を破壊して大惨事を引き起こしたり、中国の神舟宇宙船は、どうせソユーズのパクリだから、ソユーズが操縦できれば何とか動かせちゃうとか、最近の映画にしてはロシアや中国の扱いが結構ぞんざいなのも王道のハリウッド映画らしくて良い。
監督はメキシカンだけど(笑

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世界を戦争の嵐が吹き荒れる時代。
創作意欲を失った老彫刻家が、あるモデルとの出会いで再び心に火をつけられる。
フェルナンド・トルエバ監督作品という以外、殆ど予備知識無しで鑑賞したのだが、主人公の老彫刻家マーク・クロスのキャラクターは、どうやら20世紀前半のフランスを代表する彫刻家、アリスティド・マイヨールをイメージしている様だ。
名前をはじめ人物の詳細はかなり異なっているが、劇中で制作している作品はマイヨールの初期の代表作「地中海」そのもの。
だとすると、クロスの創作魂を復活させるモデルのメルセは、マイヨール最後のミューズであるディナ・ヴィエルニーなのだろうか。
まあ「地中海」の時のモデルは、まだヴィエルニーじゃないんだけど、その辺りは映画的な脚色という事だろう。
モノクロの中に豊かな季節の彩を感じさせる、ダニエル・ビラールのカメラが素晴らしい。
シンプルな空間設計で知られるマイヨールの美学、特に純白の石膏像を制作するまでのプロセスを表現するのに、むしろ色という要素を削り落としたのは正解に思える。
舞台となるのは第二次大戦下、スペインとの国境近くのフランスの片田舎だ。
世界的に知られた彫刻家だが、長い間インスピレーションを得ることが出来ず、創作活動をしていなかったクロスは、妻が町で見つけてきたメルセの若い肉体に魅了される。
メルセは隣接するスペインのカタルーニャ地方出身で、スペイン内戦でフランコ軍の支配から逃れて国境を越えて来てるという設定だ。
意欲も希望も失ったクロスの心情と、陰鬱な戦争の時代という物語の背景がうまくシンクロしている。
ドイツの占領に対して、連合軍の反攻が始まった頃に、クロスはメルセという最高のモチーフを得て、再び創作への熱い想いを取り戻す。
彫刻家の想像力が無生物の石や粘土に命を与える用に、運命的に現れたミューズによって老いた彫刻家は再び命を吹き込まれたのだ。
一方のメルセにとっても、クロスとの出会いは人生の転機となる。
田舎娘の彼女は、もともと芸術の素養など無いが、彫刻家の手から新たな美が生み出されてゆく秘密を目の当たりにし、自らもその一部として体験する事で、未知の世界へと惹き込まれてゆく。
ふたりは、負傷したレジスタンスのピエールを匿ったり、ドイツ軍人でクロスの旧友のヴェルナーの突然の訪問を受けたりしながらも、山のアトリエでいまだこの世に存在しない美を追求し続ける。
だが、作品が少しずつ完成に近づくと共に、戦争も終わりへと近づく。
それは、若者たちが自由で平和な大空へと飛び立てる時代の到来であり、メルセもまたクロスの元から旅立つ事を意味する。
おそらくは人生最高の作品の完成と同時に、愛したモデルが去った時、老いたる創作者はどう生きれば良いのか。
作品がアトリエから運び出され、メルセは一人自転車で都会を目指す。
クロスの人生を刻んだ、二つの愛と美の結晶が彼の元から旅立つ時、彼の下す選択が心に鋭く刺さり、そしてジワリと余韻を残す。
創作者にとって、命は一つではない。
彼の魂は、メルセや未来に作品を鑑賞する人々によって、永遠に継承されてゆくのである。
これは芸術と命の循環に関する、切なく、美しい作品だ。
今回は、メルセの出身地であるカタルーニャのカヴァ「ディボン ブリュット ロサド」をチョイス。
グルナッシュ種100%で作られるスパークリングは、きめ細かな泡が勢いよく立つ。
甘い香りと、適度な酸味をもつフレッシュな味わいもなかなか。
庶民的なお値段を考えればビックリするくらいのクオリティで、クリスマスのお供にもピッタリだ。

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とことん本気出さない女、タマ子の(ほぼ)何もせず(ほぼ)何も起こらない一年を描く人間ドラマ。
ぶっちゃけ、ドラマチックな展開は何も無く、ただただひたすら寝て食って漫画読んでるタマ子の日常と、周りの人たちとの関係が描かれるだけ。
それでも85分の尺を退屈する事なく過ごせてしまうのは、スクリーンの中のキャラクターにリアリティと説得力があるからだ。
これを平成の小津と言ってしまったら褒め過ぎだろうか。
だが、庶民の日常の風景を淡々と捉え、その中で起こるほんの小さな葛藤や、心情の変化を実に映画的に写し取る山下敦弘監督の映像センスは、ここに来て絶妙のバランスを見出したように思える。
前作の「苦役列車」では、まだエキセントリックな主人公のキャラクターという特殊性があったが、本作のタマ子はある意味超のつく凡人だ。
大学を卒業しても就職もせず、実家のスポーツ用品店に戻ってダラダラと自堕落な生活を送り、就活すらやる気のないパラサイトニート。
いや、唯一ちょっとやりたい事はあるのだが、それはタイトルロールを演じる前田敦子のセルフパロディとしてのある職業(笑
舞台となる甲府の四季の風景が効いている。
この街を舞台にした映画といえば、地方の産業空洞化や外国人移民が直面する問題を扱った富田克也監督の「サウダーヂ」が記憶に新しいが、同じ街を舞台にしていても、あくまでもパーソナルな本作に流れる空気はだいぶ異なる。
夏から始まった物語が秋、冬、春と巡り、再び夏がやってきても、結局タマ子は本質的に何も変わらない。
ただ、男やもめの父に訪れた新たな出会いとか、パシリに使ってる近所の中学生の恋と失恋とか、回りの人々の人生との関わりで、少しだけ背中を押されて、先に進んでみようかなとは思っている。
もっとも、モラトリアム期間が終わって実家を出たとしても、たぶん彼女のやる気のないキャラクターはあまり変わらない気がする。
まあ人生なんてドラマチックな変化はそうそう起こるものではないし、たとえ明日やるべき事があろうがなかろうが否応なしに時間は進み、世界も自分も少しずつ変わってゆくのである。
タイトルロールの前田敦子がビックリするくらい良い。
ドラマの「幽かな彼女」の教師役でも思ったが、この人は“気怠い雰囲気でやる気の無い役”を演じさせたら、今日本一かも知れない。
山下監督は「苦役列車」でも彼女を魅力的に撮っていたが、ショットによって可愛くもなるしブスにも見える愛すべきキャラクターを良くわかっている。
前田敦子の持つ雰囲気は、現代の綺麗どころというよりは、なんとなく昭和50年代頃の映画女優を思わせる。
彼女には是非この昭和な女路線で、大きな花を咲かせてもらいたい。
今回は、舞台となる甲府盆地の登美の丘ワイナリーの「甲州 2012」をチョイス。
国産ワインは中身は欧州産のブレンドが多いが、こちらは甲州種100%。
フワリとした優しい柑橘系の香りと、ドライでありながらしっかりとした複雑な果実味を持つ。
ホリディシーズンにふさわしい華やかなイメージの一本だ。
ところで、エンドクレジット後におまけがあるから急いで席を立たないように。
ある意味一番ビックリなシーンで、やっぱ大物だと思ったわ(笑

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2009年、ソマリア沖で実際に起こった海賊事件の顛末を、ポール・グリーングラス監督が映画化した骨太のサスペンス映画。
事件当時海賊の人質となったリチャード・フィリップス船長が、ステファン・タルレイと共著した回顧録「A Captain's Duty」を、社会派ドラマを得意とし「ニュースの天才」などで監督としても知られるビリー・レイが脚色している。
134分の上映時間は、前半が海賊襲撃によるパニック編、後半が救命艇に立て籠る海賊vsアメリカ海軍の手に汗握るレスキュー編と綺麗に二等分。
前後それぞれが一つの映画の様にキッチリと構成され、一粒で二度おいしい。
元々ジャーナリスト出身のグリーングラスの演出も、十八番のハンディカメラを駆使し臨場感たっぷりで、存分に持ち味を発揮している。
※ラストに触れています。
リチャード・フィリップス(トム・ハンクス)は、長年世界の海を駆け巡って来た生粋の船乗り。
新たな任務はマークス・アラバマ号の船長として、アデン湾からケニアのモンバサに向う航海の予定だった。
だが、航路となるソマリア沖は、海賊が出没する世界で最も危険な海だ。
フィリップスの不安は的中し、船は海賊に襲撃され、彼も人質にとられる。
だが、隠れていた船員たちが反撃、海賊の一人アブディワリ・ムセ(バーカット・アブディ)を捕える事に成功。
船員と海賊の交渉の結果、互いの人質を交換し、海賊たちは救命艇で船を離れる事に合意する。
だが、身代金がほしい海賊たちはフィリップスを解放せず、彼を乗せたまま救命艇を海に落下させる。
ソマリアに向かう小さな救命艇の中には、四人の海賊と人質のフィリップス。
事件の発生を受け、アメリカ海軍はフィリップス救出の為に、艦隊を差し向けるが・・・・
大陸の東端に張り出し、アフリカの角と呼ばれるソマリア沖の海域は、30年に及ぶ内戦による無政府状態の結果、海賊が跋扈する無法の海と化してしまい、毎年多くの船が襲われている。
海上自衛隊を含む多国籍海軍の艦隊が護衛や取り締まりを行っているものの、小さなボートを駆って広大な海の上で活動する全ての海賊を把握するのは難しく、隙間を突かれて襲撃される船は今も後を絶たない。
多くの場合、海賊に乗っ取られた船はソマリアの港へと回航され、海賊と保険会社が船や人質の開放について交渉するが、中には船側の抵抗にあい、目論見が失敗する場合もある。
本作のベースになっているのもその一つで、今から4年前の2009年に、アメリカ船籍のコンテナ船、マークス・アラバマ号がシージャックされた事件だ。
ポール・グリーングラスのスタンスもいつもの通り。
映画に強いメッセージを込めるのではなく、その時起こった事、人々の選択を、サスペンスフルに、しかし淡々と描き、それをどう捉えるかは観客一人一人に委ねるというものだ。
そのために、グリーングラスは物語のバランスを崩さない範囲で、可能な限りのインフォメーションを作品に盛り込み、物事の対照性を形作っている。
それは前記したような前半と後半の対比もそうだし、巨大な貨物船と小さなボート、大国と小国、襲う者と襲われる者など多岐にわたる。
マークス・アラバマ号へと海賊のボートが迫る中、フィリップスとアブディワリ・ムセがお互いの姿を双眼鏡で眺めるシーンは極めて象徴的だ。
これら全編にわたる対照性で物事を比較する事によって、観客は本作を一級のサスペンス映画として楽しみつつも、フィリップスや海賊たちと同じ救命艇に乗り合わせた様な臨場感を感じ、この事件をどう捉えたらいいのか、自分ならどの様な選択をしただろうかと自問自答するのだ。
映画の冒頭、マークス・アラバマ号の出航準備の対照として、海賊側の事情も描かれる。
彼らは最初から海賊だった訳ではなく、元は平凡な漁民たち。
だが外国の大型漁船が根こそぎ魚を獲っていった結果、漁場は枯渇し彼らの貧弱な道具では十分な漁獲量は見込めない。
更には内戦中に各地に勃興した軍閥や武装組織によって村々が搾取される構図の中で、やむなく海賊行為に手を染めているのだ。
たとえ保険会社から何百万ドルせしめたとしても、その殆どは軍閥の“ボス”に吸い上げられ、末端の海賊たちにはほとんど残らない。
だから、海賊が“ソマリア沿岸警備隊”を自称し、マークス・アラバマ号から“税”を徴収するのだという主張は、彼らの立場になればある程度正当化できるのである。
とは言え、映画は海賊に対して感情移入を誘っている訳ではない。
いわゆるハリウッドのお約束的な、登場人物のヒューマニズムをことさら強調する様な要素は本作には皆無だ。
この世界の厳しい現実として、海賊側の事情も客観的に描かれはするが、彼らを過度に人間的に造形して、主人公と心を通じ合ったりはしない。
あくまでも船長目線で、起こった事だけを描き、それ以外の要素は補完的インフォメーションに留めるという原則は、最後まで貫かれている。
海賊行為は海賊行為であって、彼らにどんな事情があろうと、それは被害者にとってはどうでもいい事なのである。
唯一、フィリップスは年少の海賊には同情的な言動をしているが、これは同じ年頃の子を持つ親心と見るべきだろう。
映画は、事実と同じように、救命艇の海賊たち三人が特殊部隊SEALSによって射殺、フィリップスは無事救出され、交渉の為に米軍艦艇にいたアブディワリ・ムセは逮捕という結末を迎える。
身代金を得たらその金でアメリカに行くんだ、と無邪気に語ってたアブディワリ・ムセは、夢とは異なる形でアメリカへと送られ、今後30年塀の中だ。
この事件だけを見れば、持たざる者たちが、持てる者から奪おうとしたが、失敗して破滅したという単純な事象に過ぎないかもしれない。
だが、世界は固定化されてはいないのである。
映画の冒頭、空港へ向かうフィリップスが妻と交わす会話に出てくる「これからはサバイバルの時代だ」という言葉がキーだ。
彼は、グローバル経済という激烈な競争社会に生きる息子の行く末を案じ、僕たちの時代は良かったけど、彼らは大変だという意味で使うのだが、まさか直後に自分自身がサバイバルするとは夢にも思っていなかっただろう。
フィリップスはサバイバルに勝ち抜き、海賊たちは敗れた。
しかし、今持てる者が未来永劫そうだとは限らない。
実際、ホンモノのフィリップスは、当時の船員たちに自分たちを危険に晒したと訴訟を起こされているらしいし、人生一寸先はわからないものだ。
私たちとソマリアの海賊たちの境遇が入れ替わる時だって、いつの日にかやって来るかもしれないのである。
フィリップスを演じるトム・ハンクスが、圧倒的に素晴らしい。
特に後半の密室劇で、ギリギリの緊張感に疲弊してゆく様、そしてクライマックスとなるラスト10分の極限状態の演技は、まるで本物の事件現場に立ち会っているようなリアリティを感じさせ、全く見事だ。
そして全員がオーディションで選ばれ、これが映画デビューという、海賊キャストの存在感。
どう見てもホンモノじゃないの?というくらいの彼らの熱演が、この作品に一層のリアリティと深みを与えている事は間違いないだろう。
細部に至るまで、誠実に作られた秀作である。
今回は、シージャックされなければ、フィリップス船長が辿り着いていたはずの目的地、ケニアのビール「タスカー」をチョイス。
日本でもアフリカ系レストランでお馴染みのケニアNo.1銘柄だが、暑い国のビールの例に漏れず、麦芽の風味を効かせつつ、ドライでとても飲みやすい。
いかにもアフリカらしい象のラベルもかわいいが、アフリカ料理だけでなく、意外と和食にも合うのだ。

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「ブランカニエベス」とは、スペイン語で「白雪姫」の事。
グリム童話をベースに、舞台を二十世紀前半のスペインに移し変え、数奇な運命を辿った美しき女闘牛士の物語として再生させた異色のファンタジーだ。
スペインの伝統文化と誰もが知る童話を合体させるという着想のユニークさ、ソビエトのモンタージュ技法からドイツ表現主義までも取り込んだ古くて新しい映像表現の豊かさ。
パブロ・ベルヘル監督は、モノクロ・スタンダードの無声映画という一見クラッシックなスタイルの本作を、実に魅惑的で斬新なエンターテイメントとして昇華している。
いや、むしろ今となっては非日常性を帯びた手法故に、独特の魔術的な世界観とラテン映画特有の詩情をより強く感じさせるのかもしれない。
※ラストに触れています。
1920年代のスペイン。
大富豪で名闘牛士のアントニオ・ビヤルダ(ダニエル・ヒメネス・カチョ)は、ある日闘牛場で瀕死の重傷を負う。
妊娠中だった妻のカルメンは、そのショックで女の子を出産して亡くなってしまう。
半身不随となったアントニオは、看護師のエンカルナ(マリベル・ベルドゥ)と再婚するが、人目を避け引きこもった生活を送るように。
カルメンシータと名づけられた女の子(マカレナ・ガルシア/ソフィア・オリア)は、祖母の家で育てられるが、やがて祖母が死ぬと一度も会った事の無いアントニオに引き取られる事になる。
だが、大邸宅でカルメンシータを待っていたのは、体の自由を失い、生気なく生ける屍の様になった父と、屋敷の女主人として君臨するエルカンナだった・・・
一昔前の劇場を思わせる、真っ赤なカーテンが開くと映画がスタート。
白と黒のカリカチュアされた世界で展開する寓話劇は、なんとなく手塚漫画っぽいのである。
初期の手塚治虫が、古典映画を詳細に観察し、その手法を紙の上に再現するという実験を繰り返していた事は良く知られているが、ベルヘル監督もおそらくは多くの黎明期の古典から様々なインスパイアを得ているに違いない。
カルメンシータの初聖体の日の白いドレスが黒く染められ、祖母の死と運命の暗転をイメージさせるシーン、洗濯物のシーツに映るシルエットの変化だけで、幼いカルメンシータが美しい女性へと成長するシーンの、画面に映るものだけで全てを伝える映像言語の鮮やかさ。
近年作られているモノクロ無声映画は、殆どの場合その視覚的イメージのみを利用し、脚本や演出手法自体は現代のものだ。
ところが本作の場合は、言わば古典手法の直接的なブラッシュアップを試みているのである。
上記したような映像演出のみならず、作品の脚本構成自体もユニークだ。
例えば最初の一時間の構成は“一巻もの”の構造になっていて、冒頭の闘牛シーンから、ほぼ10分から12分ごとに父の再婚や祖母の死、父との再会といった新しい事件が起こり、物語が展開してゆく。
これは映画がまだ短編中心だった20世紀初頭に流行した、“一巻のおわり”で次週へと引き継ぎ、約1時間で全体が完結する、いわゆる連続活劇の踏襲だ。
カルメンシータは継母のエルカンナの苛めに耐えて美しく育ち、屋敷の実権を失った父は、密かに彼女に闘牛士としての訓練を授ける。
だが、エルカンナはアントニオを謀殺すると、その遺産を独占するために、カルメンシータを毒牙にかけようとするのである。
哀れ白雪姫は、継母の下僕によってその命を狙われ、生死の境をさ迷う・・・が、ここから映画はガラリとその作りを変えるのだ。
登場するのは、7人のドワーフならぬ、6人の“こびと闘牛団”の面々。
彼らは記憶を失ったカルメンシータを助けるが、ひょんな事から彼女が闘牛の才能を示すと、一座の看板として迎え入れる。
後半は一巻ものの構成は見られなくなり、独自の三幕構造を持つ物語として構成されている。
そして小人の数が一人足りない事からも示唆される様に、グリム童話からも少しずつ離れてゆくのだ。
美貌の女闘牛士の人気に目をつけたプロモーターによって、彼女は嘗てアントニオが活躍した大闘牛場でデビューする事になる。
ところが、その事を雑誌記事で読んだエルカンナはカルメンシータが生きている事を知り、例の毒リンゴによる暗殺を試みるのだ。
大闘牛場で記憶を取り戻した彼女は、亡き父母の想いと一体となり、観衆の喝采を浴びる活躍を見せるも、直後に差し出された毒リンゴによって倒れるのは童話と同じ。
だが、この映画に王子は登場せず、白雪姫と違ってカルメンシータは目覚めない。
こと切れた後も美しい姿のままの彼女は、プロモーターとの“永遠の専属契約”によって、眠り続ける美女“白雪姫”として見世物小屋で晒されるのである。
しかも観客から金を取って、目覚めのキスを試させるという、ディズニー版のファンからすれば悪夢の様な境遇となって。
比較的忠実にグリム童話を脚色しながら、なぜ白雪姫は目覚めないのか。
実はこの映画、前半一時間が御伽噺、後半はその裏返しという構造になっていて、更に物語の中に映画史を内包するという構造を持つ。
前半の最後で、エルカンナの刺客によって瀕死のカルメンシータを助けたのは、小人闘牛士の一人。
彼は川で溺れた彼女を引き上げて人工呼吸で息を吹き返させ、そして彼女が目覚めた後もずっとカルメンシータに想いを寄せている事が示唆される。
もともとグリム版の「白雪姫」では、ガラスの棺に入れられた白雪姫を見てその美しさに魅了された王子が、亡くなっていてもいいから遺体を譲って欲しいとドワーフたちに頼み込む。
だが、王子の従者が棺を運ぶときにつまずいてしまい、その衝撃で毒リンゴが吐き出される。
それが、ディズニーのアニメーション版で王子のキスによって目覚めるという脚色が加えられるわけだが、おそらく今では白雪姫の結末といえば、これが世界のスタンダードだろう。
つまり、小人闘牛士の一人に人工呼吸=キスで救われた時点で、既に御伽噺は終わっているのである。
カルメンシータを愛する小人闘牛士は、映画のラストでも見世物小屋のスタッフとして彼女に寄り添っている。
彼は興業が終わった後、目覚めぬ彼女の髪をやさしく梳かし、そっと唇にキスをするのだ。
すると彼女の目じりから一滴の涙が流れ落ち、映画は幕となる。
この涙の意味は様々に解釈できるだろうが、私はこれはカルメンシータの目覚めを意味するのでは無いと思う。
一巻ものの流行から、どんどんとその映像言語を洗練させ、ついには自在に物語を語れるまでに発展した無声映画はしかし、正しく本作の舞台となっている1920年代の終わりに出現したトーキーに駆逐され、急速に表舞台から消え去ってしまう。
21世紀のモノクロ・スタンダードの無声映画は、いわば白日の夢。
本作がそのまま黎明期の映画史の縮図であり、現代からのレクイエムだとするなら、美しい姿のまま永遠に眠り続ける“ブランカニエベス”こそが、一瞬をフィルムに記録する映画そのもののメタファーと言えるのではないだろうか。
今回はスペインの白雪姫という事で、「シードラ レアル」をチョイス。
シードラとはリンゴを醗酵させた酒で、フランスのシールドと基本的に同じもの。
こちらはやや甘口で、微発泡の口当たりも柔らかく、爽快な味わいを楽しめる。
もちろん、これを飲んでも永遠の眠りにつくことは無い。
ところで一つ分からないのは、映画本編はスタンダードサイズなのに、冒頭のカーテンやクレジット画面はビスタという変則的なアスペクト比。
カットマスクがスタンダードサイズに対応出来ない劇場が多い事を見越して、あえて割り切ったのだろうか??

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