酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ショートレビュー「新しき世界・・・・・評価額1700円」
2014年01月30日 (木) | 編集 |
偽りの人生はどちらだ?

巨大暴力団のドンが不慮の事故死を遂げる。
跡目争いに乗じて組織を壊滅させるために、警察は作戦名“新世界”を発動。
密かに組織に送り込まれ、8年の歳月をかけてNO.4の地位にまで出世している潜入捜査官、イ・ジェソンに極秘の指令を伝える。
しかし、彼は同じ中国系韓国人で義兄弟の契りを交わした組織のNo.2、チョン・チョンを裏切っている事に複雑な葛藤を抱いている。
果たして、守るべきは任務への忠誠か、それとも友情なのか。
※核心部分にに触れています。

なるほど、「インファナル・アフェア」+「ゴッドファーザー」という売り文句に偽り無しだ。
潜入捜査物のサスペンスに、マフィア物の権力闘争が絶妙にミックス。
更に日本以上に血筋を重んじる韓国で、被差別階層である華僑を主人公とした事によって、独特の現代性と社会性が生まれ、効果的なスパイスとなった。
「悪魔を見た」の脚本家として知られるパク・フンジョンは、綿密に構成された物語を、これが監督第二作とは思えない円熟した演出でじっくりと見せる。
主人公を演じるイ・ジョンジェ、チョン・チョン役のファン・ジョンミン、彼らと敵対する武闘派幹部のパク・ソンウン。
野望と謀略、裏切りと友情が激しくぶつかり合う中、色気のある男たち、いや女もまた鮮烈に散ってゆく。

血で血を洗う抗争のシナリオを書くのは、チェ・ミンシク演じる警察のカン課長だ。
本作で、ヤクザよりも殺し屋よりも極悪非道なのは、実はこの人なのである。
目的遂行のためには手段を選ばず、部下を捨て駒として見殺しにする事すら厭わない。
新世界作戦の名目上の目的は暴力団の壊滅だが、仮に組織を潰したとしても直ぐに他の誰かが取って代わる。
それならばと、カン課長は偽情報によって組織の上層部を自ら殺し合わせ、その隙にジェソンを傀儡のトップに立てて、警察が闇社会を支配する構図を描いているのだ。
さすがは「悪魔を見た」でチェ・ミンシクを猟奇殺人犯に仕立て上げたパク・ジョンフン、彼の静かな恐ろしさを上手く生かしている。

自らの秘密を知り、命運を握るカン課長はジェソンにとっては決して逃れる事の出来ないくび木であり、疑似的な父親の様な存在だ。
映画は、前半をジェソンの正体がいつばれるか分からないという、潜入捜査物のお約束のスリルを軸に、カン課長と組織内の二大派閥の駆け引きを描く。
そして後半は、あまりにも多くの大切なものを失ったジェソンが、自分の人生を取り戻すための戦いが中心となる。

筋立ての面白さだけでなく、バイオレンスアクションとしての完成度も高い。
チョン・チョンの派閥とライバル派閥の大乱闘のシーンは、モブのあまりの数の多さもあって、まるで時代劇の合戦を見ているかの様だが、画面の隅々までしっかりと演出されている。
追い詰められたチョン・チョンと刺客たちの、狭いエレベーターの中での刺し合いは、見たことのない壮絶さだ。

そして、遂に決意を固めたジェソンが、自らの“新世界”を作り上げてゆく、終盤のシークエンスのもたらす映画的カタルシス。
明らかに「ゴッドファーザー」を意識した部分だが、それはアル・パチーノ同様に、ジェソンが内面に隠した本当の自分を認める瞬間でもある。
冒頭の殺人シーン、そしてラストが示唆する様に、ジェソンが本当に偽っていたのは一体どちらの自分だったのか。
物語的には綺麗に完結しているのだが、ビギニングも続編も無理なく作れそうではある。
思えば「インファナル・アフェア」も「ゴッドファーザー」も、第二作がオリジナルに勝るとも劣らない傑作だった。
イ・ジェソンの生涯を描く、韓国版「ゴッドファーザー・サガ」を期待したくなる、必見の娯楽映画である。

この種の映画に合うのは、やはり上質なウィスキーだ。
お隣の国という事でニッカ「余市」の10年ものをチョイス。
滑らかさよりも刺激が前に出るまだ若い酒だが、逆にこの時期にしか味わえない勢いもある。
この後20年、30年と楽しめるウィスキーの様に、映画も熟成を続けて欲しいものだが、果たして?
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ショートレビュー「さよなら、アドルフ・・・・・評価額1600円」
2014年01月28日 (火) | 編集 |
さよなら、無垢だった幼き日々。

敗戦で居場所を失った“ヒットラーの子供たち”の、生きるための旅路を描くロードムービー。
原題の「LORE」は主人公の少女の名前である。
1945年春の敗戦により、ナチス親衛隊の高官だった両親は連合軍によって拘束され、隠れ家に取り残された14歳のローレは、幼い妹・弟たちを連れて、遠く離れた祖母の住む街を目指して旅に出る。

なるほど、第二次世界大戦期のドイツを扱った映画は数多くあるが、ナチス幹部の家族の戦後を描いた作品は珍しい。
主人公の境遇などは、「火垂の墓」を連想させられる。
あの映画では日本海軍高官だった父を持つ幼い兄と妹が、戦争末期から戦後の混乱期の路上へと放り出され、大人たちの助けを得ることが出来ずに死んでゆく。
一方、日本と異なり連合軍の分割占領を受けたドイツ、しかもナチスへの憎悪渦巻く中での果てしない旅は、ある意味更に過酷だ。

旅の間に子供たちを襲うのは、飢えや暴力だけではない。
教えられていた事が全て嘘だった、愛する両親が恐るべき戦争犯罪の加担者だったという冷酷な現実は、まだ幼い心を崩壊させてゆく。
連合軍が、ナチスの残虐性を市井の人々に周知させるために貼ったホロコーストの写真。
そこに写っているぼやけた一人の将校の姿が、ローレにはどうしても父に見えてしまう。
そして困難な旅の協力者となる謎めいた青年の明かす出自は、ローレの心に更なる葛藤をもたらすのである。

ケイト・ショートランド監督は、手持ちカメラによるクローズアップを多用する事によって、記憶と現実の間で揺れ動き、閉塞するローレの心象風景を繊細に描写する。
水浴や洗髪だけでなく、全編に配された水のモチーフは、彼女らを常に寒々しく濡らし、決してスッキリと乾かす事は無い。
繰り返し映し出される湿った足元の描写は、戦後の世界で方向を見失ってさ迷う魂を象徴しているのかもしれない。
今まで隠されていた世界の本当の姿を知ってしまったローレは、祖母の家にたどり着いても、もはや大人たちにとっての純真な良い子供でいることは出来ない。
14歳にして童心に決別せざるを得ない彼女が、物語が終わった後どうなったのか、実際に沢山いたであろう、ヒットラーの子供たちの辿った人生が気になる。

面白いのは、本作が純粋なドイツ映画ではなく、オーストラリアの監督による合作映画だという事。
原作のレイチェル・シーファーも豪独のハーフで英国育ちというバックグラウンドを持つ。
デリケートな題材ゆえに、これはドイツ国内だけではなかなか作れない映画なのかもしれない。
フランス人がイスラエル・パレスチナで撮った「もう一人の息子」もそうなのだが、歴史や因習が絡むイシューには、外からの視点が新しい切り口を与えてくれる事が多々ある。
こういう映画作りはアジアでももっともっと行われるべきだろう。

春から夏の話にも関わらず寒々とした映画なので、今回は冬の日に身体を温められるホットワイン、ケスラー・ツィンクの「グリューヴァイン」をチョイス。
グリューヴァインは赤ワインをベースに蜂蜜やシナモンなど甘味とスパイスを加えたもので、自分でお好みの味を作っても良いが、お手ごろ価格で色々な醸造業者が製造している。
寝る前にこれを一杯飲むと体がポカポカしてとても寝つきが良くなるので、今の時期にはお勧めだ。
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MUD-マッド-・・・・・評価額1700円
2014年01月24日 (金) | 編集 |
14歳、まだ愛を知らず。

ある日突然世界の終わりを予感し、庭に巨大なシェルターを作り始める男を描いた異色の心理サスペンス、「テイク・シェルター」の成功で注目された俊英、ジェフ・二コルズの最新作。
アメリカ南部を流れるミシシッピ川を舞台に、少年が中州の森に潜伏する謎の男“MUD(マッド=泥)”と出会い、不思議な縁によって惹かれあう。
少年はひと夏の間、逃亡者であるマッドとその恋人、マッドの育ての親、離婚の危機にある自らの両親ら大人たちとの関わりを通して、“愛”という不可思議な感情の秘密を知ってゆくのである。
瑞々しい思春期の成長物語と、大人たちの多様な愛のドラマ、そしてニューシネマ的なアウトローの逃亡劇が生み出すサスペンスがバランスよく融合し、娯楽映画として上々の仕上がりだ。
おそらく今のハリウッドで一番南部の田舎が似合う男、タイトルロールを演じるマシュー・マコノヒーが素晴らしい。

14歳のエリス(タイ・シェリダン)は、アーカンソー州の川に浮か古びたボートハウスに両親と暮らしている。
ある朝、彼は親友のネックボーン(ジェイコブ・ロフランド)と共に、ミシシッピ川の中州に向かう。
中州の森の木の上に、大洪水の時に流出したボートが引っかかっているのをネックボーンが見つけたので、二人の秘密の場所にするつもりだったのだ。
ところが、ボートには思わぬ先客がいた。
マッド(マシュー・マコノヒー)と名乗った男は、恋人のジュニパー(リース・ウィザースプーン)をここで待っているという。
何者かに追われて身を隠しているらしいマッドは、少年たちに食べ物を持ってきてくれと頼む。
最初は怪しんでいた二人も、次第にこの奇妙な男に惹かれてゆくのだが、街にはマッドを追って怪しげな男たちも現れて、不穏な空気が漂いはじめる・・・


「スタンド・バイ・ミー」的な青春の通過儀礼を描いた寓話であり、同時にマーク・トウェインの小説を彷彿とさせるアメリカ南部の“川の文化”に関する作品でもある。
エリスとネックボーンと迷信深く、かつ勇敢なマッドの関係に、トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、逃亡奴隷のジムを連想した人は多いのではないか。
またこれは、山ではなく低地のヒルビリーを描いた、もう一つの「ウィンターズ・ボーン」とも言えるだろう。
舞台となるアーカンソー州は、あの映画でジェニファー・ローレンスが苦闘していたミズーリ州の南隣で、オザーク山地が州を跨いで繋がっている。
エリスの家の対岸のボートハウスに住むマッドの育ての親トムは、ブランケンシップというスコットランド系に多い姓を持つ。
つまりマッドもまた、世代を超える貧困にあえぐ遅れて来たスコットランド系移民の子孫、ヒルビリーの出身なのである。

実質的な主人公であるエリスの一家、親友のネックボーンも同様に経済的には恵まれていない。
両親のいないネックボーンは、川で貝の潜水漁をしているおじと小さなトレーラーハウスで暮らしているが、日々の暮らしに精一杯。
一方、古いボートハウスに暮らすエリスの家族は、崩壊の危機にある。
こちらも川で魚を獲って細々と食いつないでいるものの、経済的に先の見えない状況に母親は陸に上がって暮らす事を決意し、川の生活にこだわる父親とは毎日喧嘩ばかり。
今まさに初恋の炎が燃え上がろうとしているエリスには、愛し合って結婚したはずなのに、別離を口にする両親の心は理解できないのだ。
そんな時に、臆面もなく一人の女への一途な純愛を口にし、彼女を辱めた男を撃ち殺して追われているマッドの存在は、エリスには愛の純粋さの象徴の様に感じられるのである。

しかし、彼はまだ“愛”というシンプルな言葉に隠された本当の意味、人が人を想う気持ちの複雑さを知らない。
ニコルズは、マッドとの関わりを軸にして、ひと夏の間エリスに幾つもの愛の形を体験させてゆく。
「一生を船で過ごすのは嫌だ」と言う母親は、少年から見れば川で生計を立て川を愛する父と自分を捨てようとしている様に思える。
憧れていた上級生には、ファーストキスを捧げるものの、後から彼女から自分は真剣な恋愛対象ではなかったという残酷な事実を告げられる。
女性の愛に不審を募らせるエリスには、困難を承知でマッドと共に逃亡しようとするジュニパーは、言わば理想を体現する最後の砦。
ところが彼女もまたマッドを裏切り、彼がそれを受け入れて二人の間を終わりにしようとする時、エリスは遂に複雑怪奇な愛という感情の深層に足を踏み入れざるをえない。
本作に描かれるのは、男女の愛だけではない。
将来を巡る葛藤を繰り返す両親、ネックボーンを心配する叔父、マッドを叱り付けるトム、そして息子の仇としてマッドを付けねらうファミリーも、彼らなりの愛に突き動かされて行動している。

ゆったりとした流れを湛える大河ミシシッピは、文字通りそこに暮らす人々の人生の流れそのものだ。
ずっと中州に留まったまま、人は生きてゆく事は出来ないのである。
物語の始まりの時点で、最も原初的な愛しか知らなかったエリスは、自分自身の経験、そして大人たちの様々な愛の形を目撃する事で、その奥深さを知り、最後にはお互いを想い、愛するがゆえに別かれる、という選択肢を認められる程には成長しているのだ。
同時に、泥の色の大河に投げ込まれた、少年の「愛とは一体何なんだ?」というピュアな問いは、彼と向き合った大人たちの人生にも小さな波紋を生じさせ、皆それぞれに少しずつ生き方を変えてゆく。

タイトルロールのマコノヒーだけでなく、全てのキャスティングが絶妙に決まっている。
エリスを演じるタイ・シェリダンのナイーブな存在感、ネックボーンのジェイコブ・ロフランドの凜とした面構え。
珍しくはすっぱなファムファタールを好演している、リース・ウィザースプーンも新境地だ。
トム役のサム・シェパードと、マッドを追い詰めるファミリーを率いるジョー・ドン・ベイカーの二人の危険な“父”に至るまで、殆どキャラクターは皆当て書きなのではないかというくらいに、他の俳優を想像できないハマリっぷり。
サム・シェパード以外の人がクライマックスのアレをやったら、下手すりゃギャグになってしまうだろう。
しかしジェフ・ニコルズ、長編三作目にしてこれ程の作品を作り上げるとは、やはり恐るべき才能である。

今回は南部の物語という事でバーボンを。
ケンタッキー州クラーモント産の、コストパフォーマンス抜群の庶民の酒「ジムビーム ホワイト」をチョイス。
マイルドなテイストで飲みやすく、そのままストレートやロックでも、カクテルベースにしても美味しい。
ジムビームは先日160億ドルという巨額買収でサントリーの傘下に入ったが、どうやら日本限定のバーボンなども出してくる模様。
こちらの動きも楽しみだ。
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エンダーのゲーム・・・・・評価額1600円
2014年01月20日 (月) | 編集 |
彼らは、子供でなければならなかった。

未知のエイリアンとの宇宙戦争に挑む子供たちを描いた、オースン・スコット・カードの傑作SF小説「エンダーのゲーム」初めての映画化である。
監督・脚本は南アフリカ出身で、「ツォツィ」で脚光を浴びたギャヴィン・フッド。
タイトルロールを演じる「ヒューゴの不思議な冒険」のエイサ・バターフィールドをはじめ、ヘイリー・スタインフェルド、ハリソン・フォード、ビオラ・ディビス、ベン・キングスレーら若手もベテランも演技派がずらりとそろった。
SF的な世界観やビジュアルの面白さだけでなく、心理ドラマとしても見応えありだ。
※核心部分に触れています

謎の昆虫型エイリアンによる地球攻撃から半世紀。
何とか撃退に成功した人類は、敵の再侵攻に備えて、特別な能力を持った子供たちを宇宙艦隊の指揮官として養成するプログラムを進めている。
アンドリュー・“エンダー”・ウィッギン(エイサ・バターフィールド)は、教育を担当するグラフ大佐(ハリソン・フォード)によって選抜され、宇宙空間に浮かぶバトルスクールへと送り込まれる。
幾つものチームに分かれた生徒たちが競い合う中、はみ出し者たちを集めたチーム“ドラゴン”をまかされたエンダーは、急速に指揮官としての資質を開花させてゆく。
そして、訓練の最終段階に進んだエンダーとドラゴンの仲間たちは、エイリアンとの実戦を想定したシュミレーションゲームに挑む事になるのだが・・・・


同名の原作は日本語訳の文庫版で上下二巻になる長大な物で、114分という本作の上映時間を聞いた時は、正直この長さではまともな映画は期待出来ないだろうと失望した。
しかし、やはり映画は実際に観るまでわからない。
完成した作品は、ある程度薄まりながらもしっかりと原作のテーマに向き合い、ダイジェスト感はあるものの、かなり忠実に映像化することに成功しているのである。
ハリウッドのSF大作には珍しく、監督との兼務で単独脚本を書き上げたギャヴィン・フッドは、なかなかに良い仕事をしていると思う。

原作が出版された1985年は、82年末のゲーム業界崩壊、所謂アタリショックを乗り越え、ニンテンドー・エンターテイメント・システム(ファミコン)の登場によって、米国で家庭用ビデオゲーム機の新たなブームが起こった時代。
また84年には初代マッキントッシュが発売され、パソコンの急速な普及が始まり、いち早くこの新しいツールを使いこなした若者たちによるクラッキング事件が、相次いで世間を騒がせたのもこの頃だ。
83年に公開されたジョン・バダム監督の「ウォーゲーム」は、ペンタゴンのコンピューターに侵入したクラッカーの少年が、ゲームと勘違いして本物の核戦争プログラムを起動させてしまうという物語で、本作の原作発表時には幾つかの類似性が指摘されていた。
カードは、これら現実に相対するヴァーチャル世界の出現という静かな革命を巧みに物語に取り込み、子供たちによるゲーム感覚の宇宙戦争という、時代性を反映した独特のSF設定を作り上げたのだ。

アンドリュー・ウィッギンという名を持つ主人公がエンダー(Ender)と呼ばれるのは、彼が“戦争を終わらせる者”だから。
エイリアンによる二度目の侵略を防ぐため、宇宙艦隊を統べる司令官となるべく、生まれた時から運命付けられているエンダーは、チームの子供たちと共に、シュミレーションの戦争ゲームに明け暮れる。
最終試験となったエイリアンの母星への侵攻作戦で、あまりの難易度の高さに味方を犠牲に捨て身の作戦をとったエンダーは、遂に敵の母星を焼き尽くす事に成功する。
だが、実は彼がゲームだと思っていたのは、全て超高速通信を介した実戦
エンダーの指揮によって、本物の宇宙戦争は彼自身の知らないうちに終結していたのだ。
二つの種族の命運という重荷に耐え、常に冷静な判断を下せる人間はいない。
だからこそ絶滅作戦の指揮官は戦術を柔軟に使いこなし、強い共感能力によって敵を理解出来つつも、訓練のためのゲームであるという設定に疑問を抱かず、大人たちの期待に応えようとする子供でなければならなかったのである。

それは大人たちなりに、子供に重圧を背負わせないための優しさなのかもしれない。
だが、エンダーの持つ最大の特質は相手を理解する共感能力だ。
彼はエイリアンを顔のない絶対悪と考える大人たちと異なり、対話できる相手と認識している。
知らぬ間に人類を救った英雄となったエンダーはしかし、その共感能力と感受性故に、自分たちと同じように命ある種族を滅ぼした大虐殺者でもあるという事実から逃れられない。
米国のSFとしてはかなりの異色作である本作が生み出された80年代はまた、アニメーションや漫画などを中心に日本のSF作品が欧米市場になだれ込み、SF世界における東西の相互影響力が大きくなりつつあった時代でもある。
子供たちをリアルな未来の戦場に送り込んだのは、やはり富野由悠季あたりが元祖だろうか。
エンダーの設定には「ガンダム」のニュータイプに通じるものがあるし、彼が見せるどこかシンジ君的な戦う事への葛藤、戦い終わった後の彼なりの究極の決断は、おそらく日本人にはとても分かりやすい心理劇となっている。

「戦争の終わらせ方が問題なのだ」とエンダーは言う。
とにかく勝てば良い、敵を排除すれば良いという大人たちを支配しているのは、未知なる存在への不寛容と恐怖だ。
だが、その理屈で言えば、宇宙に人類以外の生命が存在する限り、それは基本的に敵であり、人類は永遠に宇宙の孤児という事になってしまう。
エンダーは相手を理解する事によって、大人たちの限界を超えてゆくのだが、彼の選択する孤独な先駆者としての旅路は、過去に幾多の戦争を経験したアメリカ社会への提言でもあるのだ。
原作者のカードは、1951年生まれのベビーブーマーで、多感な十代に公民権運動やベトナム反戦運動をリアルタイムで目にした世代であり、モルモン教の宣教師として活動した経歴もある。
20世紀の半ば、太平洋を越えてきた未知なる東洋の敵に対して、核兵器を持って排除する事を選択したのは、カードの世代にとっての“大人たち”なのである。

既に原作の発表から30年近く経った訳だが、80年代にはSFだった遠隔操作の兵器によるゲームライクな戦争は、21世紀の現在では実現してしまっている。
例えば世界中で展開するアメリカ軍の無人機は、全て戦場から遠く離れた本土の基地から操縦されており、オペレーターは自らの命を一切危険に晒す事無く、敵を攻撃する事が出来る。
こういった無人機やロボットによる新たな戦争は、相手を人間と認識し、命を奪うことへの躊躇する気持ちを薄れさせてしまうと批判され、規制の必要性が叫ばれているのは昨今の報道の通り。
原作の「司令官は、子供でなければならなかった」と言う台詞は、現在のほうがより恐ろしく響く気がする。
人類は、不寛容と恐怖による支配から、いつか脱却できるのだろうか。

しかし、予想外に良く出来ているからこそ、やはり短い尺によって切り捨てられた幾つものエピソードを勿体無く感じてしまうのも事実。
エンダーの背負った重荷の過酷さも、もう少し時間があればよりしっかりと描けたはずだし、それによって作品のテーマ性も深まった事だろう。
もしも前後編に分けて4時間、いや3時間少々の尺があれば、本作はSF映画史に残る傑作になっていたかもしれない。
ギャヴィン・フッドは巧みな取捨選択により賞賛に値する仕事をしているが、114分尺という条件下では、良作止まりとまってしまった事が残念。
本作の興業が失敗に終わった事によって、シリーズでの映画化はなかなか難しい状況になってしまったが、いつの日か「死者の代弁者」となったエンダーの次なる冒険もスクリーンで観たいものだ。

今回は、ドラゴンつながりで「グリーン・ドラゴン」をチョイス。
ドライ・ジン35ml、クレーム・ド・マント・グリーン15ml、キュンメル5ml、レモン・ジュース5mlをシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。
透き通った緑が目に楽しく、穀物のスピリッツに香草などで香り付けしたキュンメルの風味が独特。
甘酸っぱく、スッキリとした後味のカクテルだ。
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ビフォア・ミッドナイト・・・・・評価額1700円
2014年01月15日 (水) | 編集 |
ミッドナイトに光はあるか?

1995年に封切られた「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)」、その9年後の「ビフォア・サンセット」に続くリチャード・リンクレイター監督による人気シリーズ、18年目の第三弾。
共同脚本家でもある主演のイーサン・ホーク、ジュリー・デルピーはもちろん続投。
監督と二人の主演俳優が9年ごとに再会し、一緒に脚本を執筆し、物語とキャラクターを成長させるというのは、おそらく映画史的にも例がないのではないか。
第一作のウィーン、第二作のパリに続いて、今回は地中海に面した風光明媚なギリシャを舞台に、40代に突入したジェシーとセリーヌのミドルエイジ・クライシスが描かれる。
不思議な運命に導かれて出会った二人は、前作の思わせぶりなラストから、どんな人生を歩んできたのだろうか。
※核心部分に触れています。観る前に読まないことを強くおススメします。

小説家として活躍するジェシー(イーサン・ホーク)は、作家仲間の招きでギリシャでバケーションを過ごしている。
別れた妻との息子ハンク(シーマス・デイヴィー=フィッツパトリック )を、一緒に時間を過ごすためにシカゴから呼び寄せていたが、夏休みが終わり彼が帰国することになり空港へとやってくる。
そして、名残惜しみながらハンクを見送ったジェシーが駐車場へ戻ると、そこに待っていたのは・・・・


ヨーロッパを走る列車の中で、アメリカ人のジェシーとフランス人のセリーヌが偶然出会ったのは23歳の時。
古都ウィーンの街を、ビフォア・サンライズ、即ち夜が明けるまでの時間ずっと歩き続ける二人の会話劇は、まるでドキュメンタリーを見ているかの様にナチュラル。
独特のストーリーテリングのスタイルは、阪神大震災の記憶をモチーフとしたNHKのドラマ「その街のこども」や、二人の男女23年間にわたる7月15日を描く「ワン・デイ 23年目のラブストーリー」など後発の作品にも大きな影響を与え、映画史のエポックの一つとなった。
心を通じ合った二人が再会の約束を果たすのは、共に32歳になった9年後。
ウィーンでの思い出の夜を小説として発表し、プロモーションのためにパリを訪れたジェシーを、懐かしいセリーヌが訪ねて来る。
今度はビフォア・サンセット、夕刻のジェシーの飛行機の時間まで、パリの街を巡る二人の物語がほぼリアルタイムで進行するのだ。

そして現在、初めての出会いから早18年が過ぎ、二人は41歳になっている。
前作のラストで、セリーヌのアパートを訪れたジェシーは、果たして飛行機に乗ったのか?その後二人はどうなったのだろう?
第一作と二作目と同様に、今回も9年という歳月が流れているが、思うにこの時期に経験する変化は20代から30代の間の変化よりもずっと大きい。
時間の流れはどんどん速く感じるようになり、仕事でもプライベートでも色々な意味で人生のターニングポイントに差し掛かっていることを実感させられる事が増えてゆく。
不惑を過ぎたジェシーとセリーヌの二人の関係も、前二作とは決定的に異なっている。
息子のハンクを空港で送ったジェシーが、駐車場へと戻ってくると、車にはセリーヌと共に、双子の娘が待っているのだ!
なんと、二人は結婚していたのである。

私は幸いにも予告編を始め、本作に関する情報に殆ど触れないまま鑑賞できたので、このオープニングはある意味衝撃であった。
前二作は、恋人未満な二人の微妙な関係が作りだす雰囲気が絶妙で、たぶんこの二人は結婚しないだろうなあと思っていたら、まさかのデキ婚とは(笑
もう二人は、たった一日の再会を愛おしく感じる、恋する若者ではないのである。
7歳の双子を持つジェシーとセリーヌの会話は、ウィーンやパリのワクワクする一日とは打って変わって生活感満載。
すっかり普通のおっさんとおばさんと化した二人に共感出来るかどうかが、シリーズとして本作を受け入れられるかどうかのキモであろう。
「やめてくれ、確かに現実的かもしれないけど、こんな所帯じみた二人を見たくなかったよ」という人も決して少なくはないだろうし、その意味で本作は前二作の創造的破壊であるとも言えるかも知れない。

明るい夜明けに向かう「サンライズ」、日暮れ前の「サンセット」、そして今回は「ミッドナイト」である。
光に向かい、光の中にいて、恋が夢を見させてくれる時代は過ぎ去り、もう日は落ちて夜は更けるばかり。
二人の前に広がるのは、暗闇だ。
空港からの帰り道、ジェシーが発した「シカゴにいる息子と暮らしたい」という何気ない一言が、一家の(もはや二人のではない)未来を左右する亀裂を広げてゆく。
それでも気の置けない仲間たちとのランチタイム、日暮れ前の町を巡る前二作を思わせるちょいロマンチックなシークエンスの間は、何とか抑えられている静かな感情の沸騰は、二人きりになったホテルの部屋で遂に大爆発するのである。
相変わらず完全な会話劇だが、そこにあるのはウィットに富んだ言葉のジャブの応酬による恋の駆け引きではなく、長年積もりつもったお互いの本音と不満をストレートにぶつけ合う、ユーモラスだが激しい大バトル。

ぶっちゃけ単なる痴話喧嘩なのだけど、作者たちの実体験が込められているのか、とにかく圧倒的リアリティを醸し出すのだ。
一度共感出来れば、男性の観客はジェシーの気持ちで、女性はセリーヌにどっぷり感情移入して、二人の口から流れ出す言葉の洪水を見守ることになる。
この二人の気持ちに入れるかどうかは、独り身か既婚者かというよりは、人生経験、あるいは年齢による差異が大きいかもしれない。
ジェシーとセリーヌに近い年の人なら、ほぼ間違いなく自分の夫や妻、あるいは恋人との会話を思い出して、「ああ!この会話あるある」と感じるはずだ。
例えばジェシーの決まり文句である「僕は論理的に話しているだろ!君が感情的過ぎるんだ!」は、殆どの男がパートナーに一度は言った事がある言葉ではないだろうか。
逆に、23歳の頃、32歳の頃の二人の物語から、この作品が全く想像できない様に、あまり若い人が観てもいま一つピンと来ない様な気がする。

しかし、本作の作り手は映画の夢を見せる事を完全に忘れた訳ではない。
激しくリアルな大喧嘩の後だからこそ、二人が改めて“出会い直す”ラストはほっとさせてくれる。
このシリーズ、今回で一応の三部作完結らしいが、出来れば監督と主演の二人が生きている限り続けて欲しい。
50代、60代のジェシーとセリーヌがどうなってゆくのか。
作り手も観客も映画と共に年を重ねて成熟してゆける物語なんて、そうそうあるものではない。
人生の時も一日のサイクルと同様に巡りゆくもの。
永遠の夜も永遠の昼もなく、お互いを思いやり、尊重し、何よりも本当に相手を愛する気持ちさえあれば、真夜中の次にやってくるのは、再びの夜明けなのである。
たぶん、いや、きっと(笑

今回は舞台となるギリシャの名産品、フレーバーワインの「クルタキス レッチーナ・オブ・アッティカ」をチョイス。
サヴァティアノ種から作られる安価な白ワインで、現地では1本5、600円程度だそうだが、醸造中に松脂を加えることで独特の風味を持たせている。
元々古代ギリシャ時代にワインの貯蔵に使われていたアンフォラと呼ばれる壷の蓋を封印するために松脂が使われており、結果的にそれが天然の酸化防止剤兼風味剤となった事から生まれた独特の酒である。
松脂の香りが強烈で、かなりクセのある味わいなので好みは別れるだろうが、映画同様に個性的であることは間違いない。
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ショートレビュー「ソウルガールズ・・・・・評価額1550円」
2014年01月10日 (金) | 編集 |
歌声が紡ぐ、良き未来への夢。

1960年代末のオーストラリア。
虐げられた先住民族、アボリジニの女性たちによって結成されたボーカルグループ、“サファイアズ”を描く、実話ベースの音楽映画だ。
脚本家の一人であるトニー・ブリッグスが、自分の母親がサファイアズのメンバーだった事を知り、舞台化のために脚本を書き下ろした。
本作はその舞台ミュージカル“THESAPPHIRES”の映画化である。

物語の構造自体は、女性グループのサクセスストーリーを描く典型的なパターンを踏襲したもの。
才能豊かだが、社会的な差別や自身の抱える問題故に飛び立てないでいる女性たちの前に、彼女らの才能を見出す一人の指導者が現れる。
この指導者も困難を抱えている事がポイントで、指導者と女性たちがお互いに影響を与え合いながら、成長してゆくというのが骨子だ。
ペニー・マーシャル監督の「プリティ・リーグ」や李相実監督の「フラガール」、本作の邦題におもいっきり影響してそうな「ドリームガールズ」など、全てこの黄金のストーリーテンプレートに当てはまる。

では、構造的には“ありがちな話”である本作を、非凡な一本にしている独自性は何か。
それは先ず作品のモチーフでもある音楽性と、オーストラリアという知っている様で意外と知らない、独自の文化圏の歴史の融合である。
冒頭で少女たちによって歌い上げられる、どこか郷愁を誘われるアボリジニのゴスペル「Ngarra Burra Ferra」から始まって、 グラディス・ナイト&ザ・ピップスの「悲しいうわさ」、フォートップスの「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」など、この時代を代表するソウルミュージックの名曲が盛りだくさん。
メインボーカルのジュリー役を演じるジェシカ・マーボイは、本職の歌手という事もあって、ステージシーンは実にパワフルで、思わず体が動き出してしまいそうなリズム感に満ちている。
そして、彼女たちが歌う曲の歌詞にも込められた未来への想い。

今でこそ人種融和の象徴とも言われる他民族国家だが、昔は社会科の授業でオーストラリアを学ぶ時“白豪主義”というキーワードがあった。
徹底的な白人優位社会を国是とし、有色人種は排斥され、先住民のアボリジニには市民権すら与えられなかったのである。
また1869年から100年間に渡って、混血の“白いアボリジニ”の子供が政府によって強制的に親元から隔離され、白人社会で白人として教育を受けさせる政策が行われた。
アボリジニとしてのアイデンティティを否定された子供たちは“盗まれた世代”とも言われ、本作でもサファイアズのメンバーの一人が幼少期に連れ去られ、アボリジニ社会で育った幼馴染たちと葛藤を抱える描写がある。
オーストラリア政府が、公式に過去の先住民政策に謝罪を表明したのはほんの6年前、なんと2008年になってからなのだ。

数万年前にオーストラリア大陸に上陸したアボリジニの人種はアフリカ系とは異なり、現在では南アジア系に近いという説が有力になっているが、本作でアボリジニは自分たちを“ブラック”と呼んでいる。
映画の舞台となる60年代後半は、海を隔てた米国では公民権運動が燃え上がり、一方ベトナムではナパームがジャングルを焼き尽くしていた時代。
あまり知られていないが、オーストラリアもベトナム戦争への派兵国だ
物語の後半は、サファイアズが慰問ツアーでベトナムを訪れる事になるのだが、アメリカの黒人たちの魂であるソウルミュージックを、やはり差別に苦しむアボリジニの女性たちが歌い、戦場の白人兵士たちを熱狂させるのである。
この筋立てからも、本作が60年代の末のオーストラリアとアメリカで起こっていた事をリンクさせて、一つの文脈上で語ろうとしているのは明らかだ。
これは、少しだけ昔の南半球を舞台に、失った自由と尊厳を取り戻すために、力の限り歌った女性たちの知られざる戦いの物語
熱き魂の叫びに、ドンと背中を押されるような、気持ちのよい元気をもらえる一本だ。
彼女らの周りにいる、ダメ人間だけどユーモラスな愛すべき男たちのキャラクターもよかった。

今回は、オーストラリアのビターでパワフルな女性たちの物語なので、ヴィクトリア州を代表するビールの銘柄「ヴィクトリア・ビター」をチョイス。
国全体でも3割ものシェアを持つ定番商品で、その名の通りホップの苦味が際立っている。
他には特にこれと言った特徴の無いビールだが、適度にコクもあって、味わいはスッキリしており良い意味で優等生。
ずっと飲み飽きないのはこういう一本なのかもしれない。
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少女は自転車にのって・・・・・評価額1650円
2014年01月07日 (火) | 編集 |
そのペダルは、自由への翼。

様々な因習や宗教戒律によって、女性の行動が厳しく制限されているサウジアラビアを舞台に、10歳の少女が自転車に乗りたいという願いを叶えるために、悪戦苦闘する姿を描いたヒューマンドラマ。
サウジアラビア映画と聞いて、過去に何があっただろう?と記憶をいくら遡ってみても何も出てこない。
それもそのはずで、なんと本作は同国で作られた最初の長編劇映画だという。
サウジ初の長編映画監督となったハイファ・アル=マンスールは、おてんば少女の目を通してこの国の女性の置かれた厳しい現実をさりげなく、しかしリアリティたっぷりに描き、深い余韻を残す。
未知なる国からやって来た、勇気ある秀作である。
※ラストに触れています。

首都リヤドに住むワジダ(ワアド・ムハンマド)は、ある日近所の男の子アブドゥラ(アブドゥルラフマン・アル=ゴハ二)と喧嘩をする。
ちょっかいを出して、自転車で逃げ去ってしまうアブドゥラに、ワジダは自分も自転車を買ってもらって勝負すると言い放つ。
だが母(リーム・アブドゥラ)は、自転車なんて女の子が乗るものではないと、あっさりと彼女の願いを却下。
諦めないワジダは、自転車を買うために自作のミサンガを学校で売り始めるも、厳格な校長先生(アブドゥ)に見つかって大目玉を食らう。
そんな時、コーランの暗唱大会が開かれる事を知ったワジダは、優勝賞金目当てに出場する事を決めるのだが・・・・


少年少女の登場するイスラム圏の映画というと、やはり中東の映画大国イランのアッバス・キアロスタミやマジッド・マジディらの作品が印象深い。
なぜ子供を描く映画が多いのか、以前映画祭で会ったイラン人の映画関係者に聞いた事があるが、たくさんの社会的・宗教的タブーが存在し、政治的にも表現の自由が十分とは言えない環境でも、子供の目というクッションを通して社会を描くことで、検閲当局の締め付けが弱まるからではないかとの事。

ところが、同じイスラム圏とは言っても、サウジアラビアの映画事情は更に厳しい。
何しろ広大な砂漠の王国には、映画館が一つもない。
イスラム教スンニ派の中でも、復古思想で知られるワッハーブ派を国教とし、絶対王政が支配する厳格な原理主義社会。
結婚式など親戚の集まり以外では集会が禁止されているので、人の集まる映画館は作れない。
またシーア派のイランと異なり、偶像崇拝がタブーなために広告のデザインなどにも大きな規制があり、必然的に映画を劇場で観るという文化が存在しないのだ。
とはいえ家々にはテレビがあり、人々はスクリーンではなくテレビモニターを通じて、外国映画やドラマを楽しんでいるという。
本作のハイファ・アル=マンスール監督も、そうして映画に魅せられた一人。
この国においては比較的リベラルな家庭で育ち、カイロのアメリカン大学で教育を受け、米国人の夫を持ち、オーストラリアで映画を学んだ彼女が、母国サウジアラビアで作られる最初の長編作品として選んだモチーフが、リアルなサウジ女性たちの今だというのはとても興味深い。

物語の構造はとてもシンプルだ。
主人公のおてんば娘ワジダは、近所に住む幼馴染のアブドゥラと勝負する(遊ぶ)ために自転車が欲しい。
ところが母親に自転車はダメ!と反対される。
曰く「自転車に乗ると妊娠できなくなるから」と言うのだが、全く納得できないワジダはナニワのおばちゃん並の逞しさとしたたかさで、自ら購入資金を集め始めるのだ。
彼女が自転車という夢に向かってゆくストレートな物語に、両親や学校の先生、上級生らのエピソードが絡み合い、そこに女性にとってのサウジアラビア社会の現実が浮かび上がるというワケ。
90分ほどの物語に込められた情報量は相当なものだが、その描き方は主人公の日常の中に巧みに組み込まれ、メッセージはさり気なく、あくまでも少女ワジダの感情を通して自然に観客に伝わる様になっている。

政府よりも国民の方が保守的と言われるほど、様々な不文律が存在する世界。
超男性優位社会の中で、女性たちに決定権は殆ど無い。
全身をアーバヤと呼ばれる黒い布で覆い、知らない男たちには素顔を見せる事はもとより、声を聞かれる事すら許されず、親族以外の男性とデートする事など言語道断。
女性は車の運転も禁じられているので、仕事場まで行くのにもわざわざ運転手を雇うしかない。
一夫多妻が認められているから、夫が第二婦人を娶ると決めても、それに異を唱える事も出来ないが、そのくせ夫は妻の職場に男がいると激しく嫉妬する。
ワジダの母親や、彼女に厳しく接する校長先生は、そんな現実を社会の常識と捉え、その中で生きてゆく事を受け入れている、いや受け入れざるをえなかった人々だ。

だけども、ワジダの幼い瞳は見ている。
夫が第二婦人を娶る事に、彼の愛を信じていた母親が深く傷ついている事を。
いつもアッラーの教えを説く厳格な校長先生にだって、愛した恋人がいる事を。
スカーフを付けずに学校に行き、コンバースのスニーカーで走り回り、テレビゲームでコーランを覚え、ラジオで“悪魔の音楽”とされる外国のロックを楽しむワジダにとって、大人たちはあまりにも本音を隠しすぎている様に思えてならない。
しかし彼らよりも、ほんの少し正直に生きようとするワジダは、因習に囚われた社会では問題児。
一念発起して懸命に勉強した結果、コーランの暗唱大会で優勝しても、正直に賞金で自転車を買うと宣言したワジダから、大人たちはお金を取り上げてしまうのだ。
小さな夢を奪い取られた少女の頬に伝う涙。

だが、この我々の価値観から見たら中世の様に思える国にも、意識の変革は少しずつだけれども、着実に訪れている。
何より本作がサウジアラビア国内で作られた事自体が、時代の変化を象徴する出来事と言ってもいいだろう。
一部王族の後ろ盾があって許可が下りたとはいえ、やはり国内では保守派に攻撃されたそうだが、過去に映画が一本も無かった国では大きな一歩なのは間違いない。
願わくば、本作の後に続く作品が今後出てくると良いのだけど。

以前、20世紀のモータリゼーションが市民意識の変化に大きな影響を与えたという説を読んだ事がある。
鉄道や船といった公共交通機関と異なり、何時でも何処まででも自分の意思で移動する事を可能にした自動車の発明は、個人の意識を共同体への隷属から自立させ、自由主義の可能性をリアルに感じさせたのだと。
車の運転すら禁じられたサウジの女性たちにとって、自転車は現状で何とか手が届く自由の象徴だ。
夫と第二婦人との結婚式を、屋上から見ている事しか出来ない母親にとって、ワジダの夢を手助けする事は、彼女にとってもささやかな抵抗なのである。
本作のラストで、念願の自転車を手に入れたワジダは、アブドゥラをぶっちぎるほどに力強くペダルをこぎ続ける。
これから大人になってゆけば、ワジダはもっと大きな壁にぶつかるだろう。
でも、彼女はもう自由の風を知っている。
数々の障害を物ともせず、爽やかな笑顔で軽快に走り抜けるワジダ、そして淡い恋心を抱きながら、彼女の自転車を懸命に追うアブドゥラ。
子供たちの姿は、ベターな未来への微かな希望を感じさせるのである。

サウジアラビアは、もちろんアルコールはご法度なので、この国のお酒は映画館同様に存在しない。
今回はスノースタイルの「フローズン・マルガリータ」を砂漠に見立ててチョイス。
冷やしたテキーラ30ml、ホワイトキュラソー15ml、レモンジュース15ml、クラッシュアイス、砂糖1tspをミキサーでシャーベット状にし、塩でスノースタイルにしたグラスに注ぐ。
マルガリータは、考案者のジャン・デュレッサーが事故で亡くなった恋人を想って、カクテルにその名を残したと言われる。
ロマンチックで優しい味わいが特徴の、飲みやすい一杯だ。
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