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※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


1980年代、当時猛威をふるっていたAIDSに罹患し、余命30日を宣告されながら、自ら未承認治療薬を取り寄せるクラブを立ち上げ、7年もの間懸命に生き続けたロン・ウッドルーフの闘いを描く実録ヒューマンドラマ。
このところ、まるで映画の神が憑依したかの如く、ノリにノッているマシュー・マコノヒーが、今回も熱いテキサス魂を胸に生き抜こうとするロンサムカウボーイを熱演。
病で痩せこけた姿は、ほんの一年前の「マジック・マイク」のマッチョマンが嘘の様な変わり様だ。
端的に言えば、酒と女に溺れたその日暮らしの無頼漢が、死の病に罹ったことで人生を生き直す物語である。
ロンがAIDSの感染を告げられた1985年は、一般にもこの病気の名前が知られてきた頃だが、当時は同性愛者の病気という認識が強く、感染者は激しい差別に晒された。
保守的なテキサスの地で、ロンがまず直面したのが世界の激変だ。
自らも同性愛者を嫌悪していたロンが、一転して友人知人から拒絶されて差別される立場に。
職場も追われ、トレーラーハウスも締め出されてモーテル暮らしを余儀なくされる。
しかしこの男、めげないのだ。
図書館でAIDSの事を調べ上げ、AZTという臨床試験中の薬がある事を知ると、病院職員を買収して薬を手に入れる。
ところが症状は良くなるどころか悪化し、薬の管理が厳格化されて手に入らなくなると、つてを頼ってメキシコへと渡り、とある医師に巡り合う。
彼の元で、AZTは効果の割に副作用が大きく、もっとマシな治療薬が世界にはたくさんある事を知ったロンは、法の目を掻い潜りアメリカで未承認の薬を会員が“個人的に”入手するバイヤーズクラブを組織する。
もっとも、患者による患者のためのクラブとは言っても、良くも悪くもロンは俗物である。
クラブを立ち上げるのも基本的には自分の治療と食い扶持を確保するためで、会費が払えなければ患者も門前払い。
どうもこの時代には、全米各地に同じ様な仕組みの組織があったらしく、彼らの間でも競争原理が働いていた様だ。
そしてこの辺りから映画は、治療の選択の自由を求めるロンら患者たちと、あくまでも国内に流通する医薬品を自分たちの管理下におこうとする政府機関のFDA(食品医薬品局)とのいたちごっことなってゆく。
FDAの説明会に現れたロンは言い放つ。
「国民が(お前らを無視して)選択肢を持つのが怖いんだろう」
医療の現実に必要なのは政府に統制された安全か、それとも自己責任の自由なのか。
もちろん薬害リスクもあるわけだが、そもそも政府が真実を隠していたとしたら、安全は誰が担保できるのか。
オバマケアを巡る葛藤が高まっている今、これは米国では非常にタイムリーな題材だと思う。
ポイントとなるのは、ある意味ロンたちの立場は、国民の健康に国がある程度の責任を持つべきというオバマ政権の立場とは対極にあるという事で、むしろ反オバマ的な南部の自主独立のメンタルの延長線上なのである。
まあ考え方は色々あるだろうが、ある程度の水準まで国が責任を持ち、それ以上の領域においては個人の自由を認めるというシンプルな仕組みが何故できないのか。
やはり国内製薬業界の保護とか、許認可の既得権とか、諸々の利権が存在するのが一番の理由なのだろう。
重要なのは、本作で描かれているロンの孤独な闘いの構図は、少し視点を変えれば何も薬の問題だけにとどまらないという事だ。
いつの時代も、国家権力と個人の幸福というのは、必ずしも合致するものではないのである。
マコノヒーも素晴らしいが、ロンのビジネスパートナーとなる性同一性障害のレイヨンを演じるジャレット・レトも妖艶な凄みで魅せる。
ゲイ嫌いだったロンが、ひょんな事から巡り合ったレイヨンと、最後には家族のような絆を結ぶまでのサブプロットが、本作の物語をグッと味わい深くしているのだ。
現在に通じるテーマを描いた社会派作品としても、逆境で闘った男の生き様を描いたヒューマンドラマとしても完成度は高く、静かな余韻が長く後をひく秀作である。
今回は不屈の魂を持つテキサス男の話なので、テキサス州シャイナーのSpoetzl Breweryが生産する地ビール「Shiner Bock」をチョイス。
1909年創業だから、一世紀以上カウボーイたちの喉を潤してきた老舗だ。
ビールの仕上がりはその土地の気候や風土に大きな影響を受けるものだが、Shiner Bockもまた暑いテキサスで飲むとムチャクチャ美味しく感じる。
残念ながら日本には正規輸入されてないので、テキサス方面に旅行する時は是非味わってもらいたい。

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北方四島の人々の戦後が、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフに、幼い兄弟に投影して描かれる。
ソ連軍による占領とロシア人少女との淡い初恋、そして過酷な樺太での抑留生活。
ある日突然祖国から切り離され、故郷にいながら外国の虜囚となった子供たちが見た世界とは何か。
素晴らしいクオリティのアニメーション制作は、プロダクションI.G.が担当し、監督はベテランの西久保瑞穂。
「最後の忠臣蔵」の杉田成道が共同脚本とボイスキャストの演出を担当しており、アニメーションならではのファンタジックな表現と、写実的なリアリティが絶妙なコラボレーションを形作る。
殆どの日本人が知らないもう一つの戦後史は、実話をもとにした重量級の力作だ。
※ラストに触れています。
1945年夏。
北方四島の一つ、色丹島では戦時中とは思えないほど平和な日々が続いていた。
島で生まれ育ったジュンペイ(横山幸汰/仲代達矢)とカンタ(谷合純矢)は、村の“防衛隊長”を勤める父(市村正親)と漁師の祖父(北島三郎)と暮らしている。
しかし、敗戦によって暮らしは一変。
進駐してきたソ連軍によって、村人の財産は没収され、漁業すら禁止された。
国民学校の佐和子先生(仲間由紀恵)は、どんな事になっても平常心を失わない様にと指導するが、やがて島の小学校には、ソ連軍人の子供たちが転入してくる。
大人たちの心配をよそに、何時しか子供たちは交流を深め、ジュンペイは自分たちの家を接収した軍人の娘、ターニャ(ポリーナ・イリュシェンコ)に恋心を抱くのだが、やがて住人たちは島外へと移動させられる事になり・・・
太平洋戦争を描いた作品は沢山あるが、戦後ソ連によって占領された北方四島や南樺太を描いた作品は極端に少ない。
劇場映画では、本作の他には「樺太 1945年夏 氷雪の門」があるくらいだろうか。
やはり日本人の戦争の記憶の中でも、人口的に極端なマイノリティである事が、商業映画としての成立を難しくしているのだろう。
この作品の企画は、原案としてクレジットされている米国人留学生が、主人公のモデルでもある得能宏氏ら元島民らの手記を読み、研究リポートとしてまとめて杉田氏のところに持ち込んだ事からスタートしたという。
日本人が殆ど関心を持たない自分たちの過去を、外国人が思い出させるというのは、「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」もそうだった。
やはり外からの視点というのは、重要なのである。
色丹島の危うい戦後の日常を描く前半部分が、圧倒的に素晴らしい。
北方四島の問題解決を訴える作品だが、一方的に日本の主張を押し付けるのとは違う。
この映画には困難な状況はあれど、“敵”の存在は描かれていないのだ。
進駐してきたソ連軍の兵士は、実際にはもっと激しく略奪を行い、村人への暴行事件も多発したらしいが、それを訴えるのが映画の趣旨ではない。
どんな歴史にも多面性があるもので、映画に描かれたターニャやその家族との交流は、得能氏と亡くなった弟の実体験であるという。
日本人とロシア人で隣り合わせの教室を使う事になった子供たちが、何時しか壁越しに歌声の交歓を楽しみ、心の壁を取り払ってゆくシーンのなんという高揚。
政治的な軋轢や言葉の違い越えて、人間は通じ合えることを実に映画的に表現した素晴らしい描写だ。
タイトルが「ジョバンニの島」である事からもわかる様に、本作の重要なモチーフとなっているのは宮沢賢治の名作「銀河鉄道の夜」である。
ジュンペイの両親にとって思い出の本であり、ジュンペイとカンタはそれぞれに物語の登場人物から名付けられたという設定だ。
まあジョバンニはわかるけど、子供の名前をカムパネルラからとっちゃうのはどうなの?と思わなくもないが、ともかく彼らはロシア人たちからはジョバンニとカムパネルラと呼ばれ、小さな島には存在しない鉄道に憧れる少年として描かれる。
そして子供たちの創造力が生み出す「銀河鉄道の夜」のイメージは、残酷な現実を描く本作に、アニメーションならではの美しい幻想性を付与しているのである。
特に秀逸なのが、一軒の家を二家族で分け合う事になったジュンペイたちとターニャが、お互いの境界である襖越しに、鉄道模型を組んで走らせるシーン。
ろうそくの炎の揺らめきの中で、小さなヘッドライトを灯した列車が走るシーンは、実写では表現不可能な現実と非現実を軽やかに超えるイマジネーションの輝きに満ちている。
しかし、敗戦と占領という現実の中でも、日常の小さな喜びや希望が見えていた前半に対して、人々を飢えさせないために旧軍の食料を隠していたジュンペイの父が逮捕され、島民がたちが本土送還前に一時的に樺太へと移送される後半になると、物語は次第に死の香りに支配され、痛々しいものになってくる。
過酷な環境で男たちは労働を強制され、本土の土を踏む前に亡くなる人が続出。
やがてカンタもまた、当時不治の病と言われた結核を患ってしまい、日に日に衰弱してしてゆく。
ところが、逮捕されて以来行方が分からなかった父親が、同じ樺太の少し北の収容所にいる事を知ったカンタは、父に会うためにジュンペイや佐和子先生らを巻き込んで、北を目指す小さな旅に出る事を決めるのである。
ジュンペイとカンタがジョバンニとカムパネルラである時点で、鉄道の密行に始まるこの旅路の帰結する先は分かってしまうのだが、「銀河鉄道の夜」そのものが樺太で生まれたという事実は不勉強にも知らなかった。
最大の理解者であった妹を病で失った賢治が、失意の中で傷心旅行に出て、この南樺太で列車に乗った時に、最初の着想を得たのだという。
ただ、この死地への旅に出る動機付けは、どうしても父に会いたいというカンタの感情に他の登場人物の行動が依存している分、やや弱く感じる。
特に語り部であるジュンペイには、弟を思いやる気持ち以上の、彼自身の決断の理由がほしかったところだ。
本作のキャッチコピーは「忘れてはいけない物語」である。
確かにそれはその通りだと思うが、北方四島と南樺太の運命は必然だった訳ではない。
この時代の日本人の幾つもの愚かな選択の結果として戦争起こり、島の人たちに悲劇が降りかかってしまったのだ。
そもそも時代を遡れば、千島は近世以降に倭人がアイヌから奪った島々である。
また日本人にとって失われた島であるのと同時に、戦後70年の間に島で生まれ育ったロシアの人々にとっては与えられた島だ。
映画でもジュンペイたちと別れた後、ターニャはずっと島で暮らし、島で亡くなった事が示唆される。
物語のラストでは、ビザ無し渡航で50数年ぶりに島を訪れたジュンペイが、懐かしいターニャの面影を持つ少女と踊りを楽しむ。
このシーンが、戦後の学校で日露の子供たちが交流するシーンの対として配されているのは間違いないだろう。
歴史的な経緯がからむ領土問題は難しいが、例えば竹島や尖閣の問題が基本経済と軍事と面子の問題なのに対して、北方四島はそこに嘗て暮し、今も暮す人々の存在がより問題を複雑にもするし、逆に解決に近づける力となるのかも知れない。
ジョン・レノンの「IMAGINE」ではないが、いっそ国境など無ければ、と思う。
今回は北方四島を望む根室の地酒、碓氷勝三郎商店の「北の勝 鳳凰」をチョイス。
明治20年創業の日本最東端に位置する老舗酒蔵であり、根室の周辺を旅行すると必ずと言っていいほどどの店にも置いてある地産地消の地酒。
味わいはすっきりして全くと言っていいほど癖がなく、ほのかな酸味と柔らかで控えめのコク。
正に北海の海の幸のために存在するといって言いほど、地元産食材との相性は抜群である。
東京でも郷土料理の店などにたまに置いてあるが、特に魚を食べさせる店なら選んで間違いなしの一本だ。

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環境を汚染し人々に健康被害をもたらす悪徳企業をターゲットにする、謎の環境テログループ“イースト”に潜入した、民間調査会社の女性捜査官を描く社会派サスペンス。
製作・脚本・主演の三役を兼ねるのは、異色のSF心理ドラマ「アナザープラネット」で脚光を浴びた才媛ブリット・マーリングだ。
彼女が演じるサラは、元FBIの敏腕捜査官。
向上心が強く、危険な潜入捜査にも自ら手を上げ、任務の為なら自らを傷つける事すら厭わない。
肉体的にも精神的にも、高度に訓練されたプロフェッショナルだ。
そんな彼女が潜入する“イースト”は、カリスマリーダーのベンジーに率いられた奇妙なコミュニティ。
本作が面白いのは、一般的な潜入捜査物と異なり、潜入する側とされる側の善悪の境界が極めて曖昧である事だ。
サラが務めているのは警察の様な公的な機関ではなく、クライアント企業の依頼に応える事によって成り立っている私企業。
つまり彼らが守っているのは正義ではなく、あくまでもお客様の利益である。
一方の“イースト”はテロリストとは言っても、狙うのは悪徳企業の上層部。
それも、海洋を汚染した石油会社のCEOの家を油まみれにしたり、薬害企業の幹部には自社の薬を投与するなど、彼らが行った悪事を身をもって経験させるという懲罰的なものだ。
物語は、終始サラの視点で進行する。
トレインサーファーたちに混じり、実在するかどうかもわからない“イースト”のアジトを探す旅を経て、グループへの潜入に成功した当初、彼らはまるでカルト宗教の様に描かれる。
排他的で、独善的なイデオロギーによって支配された集団。
しかしその様な厳しい視点は、サラが“イースト”の仲間として共に行動するうちに、急速に弱まってゆくのである。
“イースト”に集うある者は薬害によって身内を殺され、ある者は深刻な環境汚染を引き起こしている企業経営者の娘。
メンバーたちは皆、それぞれに行動を起こさねばならない動機を抱えている。
やがてサラもまた、自らの立ち位置が何処なのか、答えを出すことを迫られるのだ。
利益至上主義によって世界各地で問題を引き起こす企業があるのは紛れもない事実だし、様々なタイプの環境テログループの活発な活動も現実の物である。
“イースト”はもちろん架空の存在だが、“地球解放戦線(ELF)”という実在の組織がモデルとなっているという。
本作で描かれるのは善悪ではなく、ある意味行き着くところまで行った資本主義社会という巨大なシステムの中で、個人の選択を巡る葛藤と言えるだろう。
劇中で何度も繰り返される、「あなた次第だ」というフレーズがキーワードだ。
もしもサラの立場に立たされたら、あなたならどうするだろうか?
しかし謎のテログループへの潜入捜査というサスペンスの果てに、ウィキリークスの誕生を描き出すとは、やはりブリット・マーリングの才気は侮れない。
正統派の美人女優でありながら、企画し脚本も演出もこなし、尚且つメジャーではなくインディーズを自らのフィールドとする、現代アメリカ映画界でも面白いポジションを確立しつつある。
彼女と本作の監督ザル・バトマングリが組んだ前作、「Sound of My Voice」もどこか公開してくれないだろうか。
今回は、スペルは全然違うがブリットつながりで「シルバー・ブリット」をチョイス。
ドライ・ジン40mlとキュンメル10ml、レモンジュース10mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
姫うぃきょうベースのリキュール、キュンメルのほんのりと甘く柔らかな香りが、レモンジュースの酸味と合わさってスッキリとした味わい。
仕事で選択を迫られすぎて、疲れた時などに飲みたい一杯だ。

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「グエムル 漢江の怪物」や「母なる証明」で知られる韓国の鬼才、ポン・ジュノ監督初の英語劇。
とは言っても先に米国進出したパク・チヤヌクやキム・ジウンのケースとは異なり、本作はあくまでも韓国発の合作企画で資本の多くも韓国から出ている。
言わば韓国製のハリウッド映画という、異色の成り立ちの作品だ。
フランスのバンデシネ「Le Transperceneige」を原作に、超氷河期となった近未来の地球で、人類の生き残りを乗せて走る列車を舞台としたサスペンスアクションである。
列車の乗客は、クリス・エバンス、ソン・ガンホ、ジョン・ハート、ジェイミー・ベル、オクタビア・スペンサー、そしてティルダ・スゥイントンにエド・ハリスまで、演技派オールスターの豪華な布陣が揃った。
※核心部分に触れています。
西暦2031年。
地球温暖化抑制のために実験的な冷却材を大気中に散布した結果、逆に極端な寒冷化を招いてしまい、地上が人類の生存できない凍りついた世界となってから17年。
僅かに生き残った人々は、永久機関で動き続ける自給自足可能な列車“スノーピアサー”の中で暮らしている。
だがそこは、先頭車両の富裕層が最後尾車両の貧困層を支配するディストピア。
最後尾に暮すカーティス(クリス・エバンス)は、奴隷の様な状況を打破するため、仲間たちと共に革命を画策するのだが・・・
SFの装いながら、この作品に科学的リアリティ云々を問うのはナンセンスだろう。
設定を見ただけでも、列車が細長く引き伸ばされたノアの方舟であり、ミニチュアの地球であり、本作が神話的な暗喩劇である事は明らかである。
列車自体は永久機関で動いているとしても、17年もの間一体誰が線路のメンテナンスをしているんだとか、いくらなんでも牛さん・豚さんは飼育できないだろうとか、いちいち突っ込んではいけないのだ。
氷に覆われた地球を一年かけて一周する長大なスノーピアサーには、人類が抱える多くの対立が象徴的に配され、葛藤を引き起こしている。
それは表面的には貧富の差による階級闘争だったり、環境負荷だったりするのだが、本質はもっと根源的な、この世界における人間存在のあり方の問題だ。
本作の大きな特徴は、物語まで舞台となる列車と同じ特異な構造をしている事だろう。
ゲーム業界には、日本製RPGを揶揄する「一本道」という言葉がある。
比較的自由度の高い欧米のゲームに比べて、日本製のゲームはベースの物語重視で、作者の設定したストーリーラインを大きく外れる事が許されない、という特徴から生まれた言葉だが、本作で主人公たちが突き進むのも、ただひたすら一本道だ。
何しろ物語構造には、サブプロットがほぼ全く存在しないのである。
例えば全編ワンカット風のサスペンス映画「サイレント・ハウス」など、メインプロットのみで構成される作品は他にもあるものの、一般論としてサブプロットとのミックスを放棄し、メリハリのある長編作品を作り上げるのは難しい。
観客に対して、主人公が得られるのと同じ情報しか開示出来ないので、物語は一本調子となるし、キャラクターの役割分担も限られてしまう。
スノーピアサーの内部は、それ自体が寓話的な象徴性を持つ空間である。
ポン・ジュノと共同脚本のケリー・マスターソンは、最初列車の全体像を不明のままにし、一両進んで行くごとに少しずつ謎が解かれて世界観が広がってゆく様に工夫しているが、それでも基本的には次の車両の扉が開と困難と戦い、進んでゆく事の繰り返しで展開する話なので作劇の不利は否めない。
かといって、主人公のカーティスに凄く魅力があるとか、感情移入しやすいキャラクターという訳でもない。
彼自身は、ただただ先頭車両へ行くという目的に執着している、どちらかと言えばとっつき難いキャラクターとして描写されている。
リーダーとしての資質を持ってはいるものの、重大な過去のトラウマを抱えていて、その秘密が明かされるのは映画も終盤になってからなのだ。
本作において観客の感情移入の対象は、物語の展開にしたがって移り変わる。
最初は子供を先頭車両の富裕層に奪われたオクタビア・スペンサー演じる母親ら、最後尾車両のアンサンブル。
そして戦いの中で彼らが一人、また一人と退場した後は、ソン・ガンホがいつもの調子で演じるセキュリティスペシャリストの娘、ヨナが終盤までその役割を担う。
中盤以降は特に能動的でもないこのキャラクター以外に、本作には観客が自己同一化できる存在がいないのだ。
ぶっちゃけ、この難しい作品に観客を引き付け、グイグイと前に進める原動力になっているのは監督の圧倒的な演出力、強引な力技以外のなにものでもない。
前へ、前へという主人公の行動力は、ポン・ジュノの与える熱によって加速してゆく。
画面の隅々まで計算されつくされ、アニメーションの様に緻密に作りこまれた画力は健在だ。
細長い閉鎖空間の中で、色々な工夫を凝らしたアクションも見応えがある。
特に列車がU字橋を渡る時に、前方の車両と後方の車両に別れた敵味方が窓越しに正対して狙撃しあうシーンは、長大な列車という設定を生かした実に映像的な見せ場となっていて素晴らしい。
そして、世界を駆け抜ける冒険の果てに、ポン・ジュノは問いかける。
はたして、方舟に“神”は必要なのか?
地球は神が制御せず、人間が好き勝手に行動した結果破綻した。
ならばミニチュアの地球生態系であるスノーピアサーを生き延びさせる為には、誰かが神を演じなければならないのか?
しかし、本当に地球に神はいなかったのだろうか。
人類の出現も破綻も、壮大なるプログラムの一部だとしたら、方舟の存在自体が姿なき意志の証であり、人間が如何に神のように振舞おうとも、列車の運命はまた明らかなのである。
物語の最後に訪れるのは、希望か絶望か。
見方によってどちらにもとれる、捻りの効いたオチがいかにもポン・ジュノらしい。
なるほど確かに彼の過去の作品に比べると、ドラマ性に物足りない部分もあるが、それでもこのシンプルな暗喩劇をしっかりとしたエンターテイメントに昇華しているのは賞賛に値する。
あえて困難な題材に挑んだ大変な意欲作で、十分に映画館で観る価値のある作品だ。
今回はスノースタイルのカクテル、その名も「雪国」をチョイス。
ウォッカ40ml、ホワイトキュラソー10ml、ライムジュース10mlをシェイクして、砂糖でスノースタイルにしたグラスに注ぐ。
グリーンチェリーを沈めて完成。
うっすらと見えるチェリーが森の緑を、スノースタイルがその上に積もった雪を連想させる。
1959年に井山計一氏によって考案された、日本生まれの美しいカクテルだ。

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昨年公開されたオムニバス映画、「V/H/Sシンドローム」の第二段。
ビデオテープに録画された恐怖のエピソードが後から発見されるという、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」以来ブームとなった所謂ファウンド・フッテージ物のバリエーションだ。
POVのモキュメンタリースタイルで描かれているのは前作同様だが、なるほど「V/H/Sネクストレベル」という邦題通り、そのクオリティは前作を遥かに上回る。
俎上にあげられるのは、幽霊、ゾンビ、オカルト、そしてSF。
まさにホラー全部入り、一本で四度、いや五度美味しいお得な一本である。
「サプライズ」のアダム・ウィンガードや「キャビン・フィーバー2」のタイ・ウェストら、新進気鋭のホラーヲタクたちが結集した前作では、とあるビデオテープを盗み出して欲しいと依頼された不良四人組が、忍び込んだ家にあったおびただしい数のVHSテープを見つける。
目的のビデオを探すために、片っ端から再生してゆくと、そこには恐ろしい映像が収録されており、更に再生するたびに仲間が一人ずつ消えてゆく、という仕掛けだった。
今回は、連絡の取れない大学生の息子を探しだす事を依頼された男女の探偵コンビが、荒れ果てた息子の家でやはり膨大なVHSテープの山に遭遇する。
計六話で構成されていた前作は、似通ったエピソードが多い上にブツギリ感が強く、ほとんどの話が途中で放り出されたような雑さで、正直なところ面白いとは言い難い作品だ。
しかし、今回は良い意味で期待を裏切られた。
狂言回し的な探偵コンビの話を除けば、劇中エピソードは四話。
前回よりも話数が減った分、一話あたりの尺が増え、結果きちんと三幕構造の物語として構成され、それぞれに弱いながらも一応のオチがついている。
特にオムニバス映画の場合、これは意外と大きな要素だ。
エピソードが次から次へと進んでゆくので、全くオチていない作品があると、モヤモヤを次のエピソードまで引き摺ってしまい、最終的に中途半端なものを観たという印象になってしまう。
だからオムニバス物では、エピソードにオチをつけて観客を次の話に送り出してあげる事が、単体の短編作品よりも重要なのである。
前作から続投のアダム・ウィンガードをはじめ、恐怖を愛するストーリーテラーたちは、ホラーの各ジャンルをユニークな視点で切り取り、ロメロからスピルバーグ、果てはウィリアム・ガードラーまで、過去の名作・珍作へ愛情たっぷりにオマージュを捧げた禍々しい小品が並んでいる。
ウィンガードが担当した最初のエピソード、「Phase I Clinical Trial(第I相臨床試験)」は、人口眼球を装着した結果、なぜか幽霊が見えるようになってしまった男の悲劇。
これはもちろん角膜移植の結果、霊能力を持ってしまった女性を描く、タイ製ホラー映画のマスターピース「The EYE 【アイ】」が元ネタだろう。
このジャンルでは反則技の、ボディーコンタクトありの幽霊の凶悪っぷりが怖い。
二本目の「A Ride in the Park(公園で自転車)」は、エドゥアルド・サンチェス監督。
森でバイクライド中にゾンビに襲われて感染してしまう男の話なのだが、終始男がヘルメットにつけているGoPro映像の設定なのがユニーク。
社会風刺からラブストーリーまで、いい加減やりつくされた感のあるこのジャンルも、ゾンビ側の視線で見ると新鮮に見えるから不思議だ。
三本目のティモ・ジャイアント、ギャレス・エヴァンス共同監督の「Safe Haven(聖域)」は、とあるカルト教団に取材に訪れたテレビクルーを襲う恐怖。
人里はなれた教団の建物では、死後の世界をこの世に現出させ、永遠の命を得るための恐るべき儀式の準備が進んでいるが、そのためにはある人物が必要で、実はそれは・・・という話。
懐かしの70年代オカルトスペクタクル、「マニトウ」を思わせるB級テイストが嬉しい。
ラストのあるキャラクターの一言には、思わずコーラ噴いた(笑
そして最終話「Slumber Party Alien Abduction(パジャマパーティのエイリアン事件)」は、ジェイソン・アイズナー監督作品。
両親の留守中に若者たちがバカ騒ぎをしている湖畔の家に、謎の怪光が出現。
光の中に現れた異形のモノたちは、圧倒的な力で彼らを連れ去ろうとする。
スピルバーグの「未知との遭遇」にシャマランの「サイン」をミックスした様な、シンプルだが良くできたプチ侵略SFで、これもGoProの使い方が面白い作品だ。
超小型アクションカメラの登場は、POVの新たな可能性を広げたといえるかもしれない。
これら四本を、サイモン・バレット監督の探偵のエピソード「Tape 49」が纏め上げている。
それぞれのエピソードは良くできているだけでなく、良い意味で猥雑なジャンル映画の趣があり、作り手が心底楽しんで作っているのが滲み出る悪意と共に伝わってくるのだ。
普通に観ても十分面白いが、ホラー映画好きならより突っ込んで楽しめる。
冬の夜長にコタツで一杯飲みながら見るのにぴったりの、ホラーヲタの稚気愛すべき快作オムニバスである。
出来ればVHSの荒い画質で観た方が恐怖感倍増な気がするが、もはや出ないだろうなあ。
今回は、この映画にぴったりな「ミラードラフト」をチョイス。
ポップコーンを肴に水のように薄いアメリカンビールで、ほろ酔い気分で楽しむのがこのジャンルの古き良き楽しみ方である。
そういえばホラージャンルの中でも、今回は伝統的なモンスターが出てこなかったけど、ネタ的にはいくらでも続けられそうな作品なので、「V/H/S 3」(邦題は「サードレベル」かな?)も期待しておこう。

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「プレシャス」「ペーパーボーイ/真夏の引力」など、ハードな人間ドラマを得意とするリー・ダニエルズ監督の最新作。
ホワイトハウスで34年間に渡り執事を勤めた実在のアフリカ系アメリカ人、ユージン・アレンの生涯にインスパイアを受け、人種解放闘争の視点から合衆国現代史を俯瞰した重厚な歴史ドラマだ。
アイゼンハワーからレーガンまでの7人の大統領の傍らに、執事としての誇りを胸に“空気”の様に存在した男が見つめてきたものとは何か。
フォレスト・ウィテカーが20世紀の目撃者となる主人公の執事を、その妻を実写劇映画の本格出演は久々のオプラ・ウィンフリーが演じる。
歴代大統領の役で、意外な大物俳優たちが続々登場するのも楽しい。
※核心部分に触れています。
1920年代。
未だ奴隷制度の名残が残る南部で育ったセシル(フォレスト・ウィテカー)は、成長すると北部へと旅立ち、苦難の放浪を経て安ホテルに職を得る事に成功。
見習いボーイから一流ホテルの執事となったセシルは、結婚し二人の男の子の父となる。
やがてその仕事ぶりを認められたセシルは、スカウトされホワイトハウスへ。
世界を動かす重要政策が決定され、様々な情報が語られる国家の中枢で、執事に求められるのは自らの存在感を消し去ること。
決して自己主張せず、忠実に職務に生きる事を信条とするセシルは、激動の60年代に夫として父としての大きな葛藤に直面するのだが・・・・
昨年公開された本国では、人種問題というヘビーな題材にも関わらず、ボックスオフィス三週連続1位という快挙を成し遂げた本作、なるほど期待に違わぬ大力作だ。
アイゼンハワーが率いた黄金の50年代から公民権運動やベトナム反戦運動の60年代、そして衰退の70年代を経て強いアメリカの復権を掲げたレーガン政権の80年代まで、ただひっそりと時代に寄り添った男。
タイトルロールの“The Butler(執事)”セシルはある種の狂言回しであって、壮大なクロニクルの真の主人公は、わずか一世代の間にまるで別の国の様に変貌したアメリカの現代史そのものである。
“白人が黒人を殺しても罰せられない”1920年代の南部の光景から、オバマ大統領が登場するまでの80年間の劇的な時代の流れはどうだ。
超保守的な南部の農園で生まれたセシルは、幼くして親を失う。
母をレイプした白人に抗議しようとした父は、問答無用で射殺され、母はショックから心を病んで廃人に。
このエピソードは、本作の後半にも登場するマルコムXの少年時代を思わせる。
マルコムの父アールは白人至上主義者によって惨殺されるが、警察は自殺と処理し捜査せず、その後母のルイーズは精神病院送りとなった。
本作ではセシルの母親をマライヤ・キャリーが演じているが、ルイーズもやはり白人と黒人のハーフであったという。
セシルのキャラクターはユージン・アレンをモデルとしているものの、本作は完全な実録物ではないので、色々な人物のエピソードをミックスしているのかもしれない。
親を殺した白人の家で、様々な家事をこなす“ハウスニガー”となったセシルは、皮肉にもここで天職である給仕の仕事を覚える。
そして成長し一人で生きてゆく事を決意したセシルは、農園を出るとやがてその資質を開花させ、ホテルの執事として頭角を現してゆく。
遂にはホワイトハウスで働く事になった彼は、実に30年以上にわたって合衆国政治の中枢を間近で見つめる事になるのである。
執事という仕事に求められるのは、決して主張せず、出しゃばらず、その場の空気として存在し、もしも主人たる大統領に何かを問われれば「望まれる言葉」を返す事。
徹底的に“私”を封印して生きるセシルは、キューバ危機からケネディの暗殺、ベトナム戦争の嵐に揺れるアメリカ社会の傍観者である。
社会がどれだけ激震に見舞われても、彼自身はほとんど変化しない。
成長した長男のルイスが自分たちの未来のために公民権運動に身を投じる事にも、自らの役割に甘んずるセシルは、理解を示そうとはしないのだ。
父親に拒絶されたルイスは、やがて武装闘争路線の過激な黒人解放運動、ブラックパンサー党の結党に関与し、一方の次男はベトナム従軍によって国への忠誠を示すという正反対の道を歩みだす。
しかし、セシルが頑ななまでに主張しない生き方にこだわる間にも、彼の仕えた7人の大統領、即ち民意が、少しずつ、少しずつ社会を変革してゆく。
国の成り立ちからの多様性故に、その葛藤の激しさは日本の様な比較的均質な社会とは比べ物にならない。
何より、人々の強烈なまでの当事者意識の強さがある。
マーティン・ルーサー・キング牧師、マルコムX、そして多くの無名の若者たちの犠牲と献身によって生まれたホワイトハウスの外側の大きなうねりは、オーバルルームに決断を迫るのだ。
本作を見るとアメリカはやはり究極のPeople’s nationであり、民主主義の巨大な実験場なのだと感じる。
そして、物語も終盤になって、変わらない男にもようやく転期が訪れる。
セシルがホワイトハウスの中で、忠実に職務を遂行していた間に、世間はすっかり様変わりしてしまった。
制度としての人種隔離は過去のものとなり、過激な運動にのめり込んでいたルイスは本格的に政治の道へ進み、ベトナムへと渡った次男はアーリントンの土となった。
父が殺された南部の農園も、既にその面影すらない。
嘗て忌み嫌っていた変革者たちによって齎された、奴隷同然だった子供の頃には考えられなかったベターな未来がそこにはある。
変わらなかったのは、実は自分だけだった事にようやく気づいたセシルは、遂にホワイトハウスの外へ出る決意をするのだ。
長年疎遠だった長男は、駆け出しの政治家としてレーガン政権に反対している。
デモに集まった群集の中に、父の姿を見たルイスは言う。
「仕事を失うよ」
「私はお前を失った」
ルイスがホワイトハウスの空気である事をやめて、一人のアメリカ市民へと戻るこの時は、親子の絆が蘇る瞬間でもあり、感動的だ。
現実のユージン・アレンは、映画のセシル同様にバラク・オバマ政権の誕生を見届けた後、2010年に90歳で亡くなっている。
まあ、ある意味でハリウッドのオバマ大統領のシンパ大集合的な政治色故か、アカデミー賞では見事に無視されてしまった本作だが、人間ドラマとしても歴史劇としても、色々な意味で見応えたっぷりの大作である事は間違いない。
そしてこれは人種問題の観点から見たもう一つの「フォレスト・ガンプ」であり、オプラ・ウィンフリーの代表作である「カラー・パープル」を彷彿とさせる部分もある。
アメリカ史に興味のある人にとっては、特にたまらない作品だろう。
今回は、ホワイトハウスでも提供された歴史を持つ、カリフォルニアはアンダーソンヴァレーのシャッフェンベルガー・セラーズのスパークリング、「シャッフェンベルガー・ブリュット」をチョイス。
ピノ・ノワール65%、シャルドネ35%の組み合わせで、プラムや洋梨などの複雑な果実香が楽しめる。
味わいは上品でバランスよく、シチュエーションを選ばない。
泡立ちもクリーミーで、品質の割にコストパフォーマンスが抜群なのも嬉しいポイントだ。

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60年を超える歴史を持つオープンホイールレースの最高峰、F1グランプリを舞台にしたHOT&COOLな人間ドラマ。
通算三度の世界タイトルに輝いた冷静沈着なドライビング・マシン、ニキ・ラウダと、“壊し屋”の異名をとりながらも、火がつくと手の付けられない速さを見せたジェームズ・ハント。
全てが対照的な二人の天才の運命は、今も語り継がれる1976年シーズンに遂に激突する。
20世紀の伝説のチャンピオンたちを、ダニエル・ブリュールとクリス・ヘムズワースが長年のF1ファンも納得の好演。
「アポロ13」「ビューティフル・マインド」など、実録ものを撮らせると非凡な才能を発揮するロン・ハワード監督は、モーターレーシングをモチーフとした、映画史上最良の作品を作り上げた。
1976年のF1グランプリ。
前年のチャンピオン、フェラーリのニキ・ラウダ(ダニエル・ブリュール)とマクラーレンのジェームズ・ハント(クリス・ヘムズワース)が激しくタイトルを争っていた。
理論派でドライビングを“ビジネス”と割り切るラウダは、オーストリアの名家の生まれで、資金調達の才能にも長け、下積みのF3時代から順調にキャリアを積み重ねてきたエリート。
一方、自由奔放なプレイボーイのハントは、長年下位チームでくすぶり、ようやく戦闘力のあるマシンを手に入れた苦労人。
正に水と油の様な二人は、開幕から勝ち星を分け合ってきた。
しかし、悪天候に見舞われたニュルブルクリンクのレースで、ランキングトップのラウダのマシンが大クラッシュし、彼は瀕死の大やけどを負ってしまう・・・・
本作の舞台となる1976年は、日本のモータースポーツファンにとっては歴史的な年だ。
それまでヨーロッパとアメリカ大陸でしか開催されていなかったF1グランプリが、遂に大陸を超えて極東の島国へとやって来たのである。
この年は前チャンピオンのニキ・ラウダが、はじめて戦えるマシンを手に入れたジェームズ・ハントの挑戦を受ける構図が鮮明だった。
しかし、ラウダ優勢のまま中盤戦へと突入した所で、ニュルの大事故が起こってしまう。
ライバル不在の間に、着実にチャンピオンシップポイントを追加したハントが僅か3ポイント差まで肉薄し、次に勝った方がチャンピオンという劇的な状況で、最終戦の日本グランプリを迎える事になったのである。
当時の男の子たちはハント派とラウダ派に分かれて、どっちが勝つか盛り上がったものだ。
因みに私は日本グランプリ前はラウダ派で、後述する様にグランプリ観戦中にハント派に鞍替えした。
1950年に始まったF1グランプリ史は、そのまま数々のライバル伝説の歴史だ。
黎明期のフォン・マヌエル・ファンジオvsアルベルト・アスカリ、60年代のジム・クラークvsグラハム・ヒル、日本でF1人気が過熱した80年代後半にはアイルトン・セナvsアラン・プロスト、90年代にはミヒャエル・シューマッハvsデイモン・ヒルのタイトル争いがシーズンを盛り上げた。
逆にセバスチャン・ベッテルの独走で、誰も彼を脅かせなかった2013年シーズンのF1は、前年比で全世界5000万人ものテレビ視聴者を失ったという。
太陽が強く燃え盛るほどに、月もまた輝きを増す。
プロスポーツの世界において、お互いを引き立てるライバル関係は不可欠なのである。
しかし、映画の世界でこのスポーツを描いた作品は意外と少なく、その出来栄えも今ひとつなものが多い。
F1グランプリをモチーフとした作品で最も有名なのは、ジョン・フランケンハイマー監督の「グラン・プリ」だろう。
三船敏郎のハリウッド進出作としても知られるこの映画は、四人のドライバーの戦いを描く上映時間3時間の超大作だったが、悪くはないものの正直絶賛するほどの作品でもない。
F1以外のサーキットレースを扱った作品でも、スティーブ・マックイーンが主演とプロデューサーを兼務した「栄光のル・マン」がやや目立つくらいで、概ね凡作が並んでいる。
私が本作以前のレース映画の中で最も面白いと思っているのは、実は「カーズ」だったりするのだ(笑
本作の素晴らしい点は、このカテゴリを扱った過去の多くの作品が陥った罠、レースそのものを描こうとしなかった事にある。
モーターレーシングを愛するファンなら同意してもらえると思うが、映画がいくら頑張って映像を作ったところで、ホンモノには絶対かなわない。
かと言って映画でしか出来ない事をやろうとすると、今度はどんどんリアリティを失ってしまう。
また、一度コックピットに座って走り出してしまえば、基本的に狭い空間の中での孤独な戦いとなり、他者との関わりを描けないレースは、あらゆるプロスポーツの中でも、本質的に最も劇映画に向かないカテゴリなのだ。
しかも本作はそもそも実録ものであって、最終的な勝者が誰かははじめから分かっている。
単に抜いた抜かれたで盛り上がる訳が無い。
ロン・ハワードと脚本のピーター・モーガンは、レースを背景としてあくまでも人間を描く。
クライマックスの日本グランプリ、激しい雨が降る中レースは決行されるが、その時点でランキングトップのラウダは僅か二周で自らピットインし、マシンを止める。
10月の冷たい雨に濡れながら、ラウダvsハントのレースを楽しみにしていた小学生当時の私は、彼の行動に心底がっかりし、逆に豪雨の中で魂の激走を見せるハント派に乗り換えたのだ(笑
スポーツとしてのレースは、その時その場で起こった事が全て。
だが、ラウダがマシンを止めた本当の理由はサーキット、あるいはテレビでレースを見ているだけでは分からない。
本作は、そこに至る彼の心の変化を描いており、だから映画として面白いのだ。
愛する人との出会いと結婚、雨が発端となったニュルの事故、ハントの活躍に刺激を受けての壮絶なリハビリと復活、そして富士を襲った再びの雨の悪夢。
それら全てのプロセスを経て、葛藤の末に導き出した途中棄権という決断は、ドラマとして重い説得力がある。
そして一方のハントが走り続けた理由も、二人のレースドライバーとしての哲学の違いもまた、しっかりと描きこまれている。
必ず帰らねばならないラウダと、最速を証明できれば帰れなくても良いハント。
チャンピオンと挑戦者という立場だった二人が、最後にチャンピオン同志として言葉を交わすシーンは、それまでの長い歳月の物語があるからこそ納得できるのである。
もっとも、人間ドラマが中心とはいっても、レース描写自体は素晴らしい出来栄えで、細部まで拘って忠実に再現された当時のグランプリシーンなど、ビジュアル面も見どころの一つだ。
特にクライマックスの富士スピードウェイは、後に大幅な改修の結果全く別のサーキットに生まれ変わっているので、まるで70年代にタイムスリップしたかのような情景には驚かされる。
76年と言えばユニークな6輪車ティレル P34が活躍した年でもあるのだが、富士のシーンでちゃんとカウルにひらがなで“たいれる”と入ってる!
これはF1をはじめて生で見る日本人ファンに向けた、チームの粋なサービスだったのだが、こんな細かいところまで再現しているとは脱帽。
もっとも7年間にわたる物語を二時間に圧縮しているので、事実と異なる点もいくつか。
例えば、映画ではヘスケスがチームを畳んだのでハントはマクラーレンに移籍した事になっているが、実際には資金難に悩まされながらもチームは何とかグランプリに踏みとどまり、78年シーズンまで参戦している。
まあこの辺りは映画的ウソとして十分許容範囲だろう。
本作に描かれた76年シーズンの後、ラウダは翌77年に二度目のタイトルを獲得し、79年にハントとラウダはそろって引退を表明。
その後、グランプリに戻らなかったハントに対して、ラウダは82年に嘗てのハントが所属していたマクラーレンで復帰し、三度目のチャンピオンとなった後の85年に引退した。
映画は、途中ハントの視点になったりラウダの視点になったりするものの、物語の最初と最後はラウダのモノローグでまとめられている。
ハントをはじめ、チームメイトのクレイ・レガッツォーニ、エンツォ・フェラーリ、ハーベイ・ポスルスウェイトら、映画に登場する多くの人物は既に故人。
F1グランプリ自体も、当時とは比べものにならない位に洗練された巨大な産業となり、ドライバーの死亡事故も過去20年間起きていない安全なスポーツへと変質した。
これは過激な時代の生き証人であるラウダの言葉で紡がれる、嘗て共に地上で最速を目指し、今はもう地上にいない人々へと贈るレイクイエム。
38年の時の流れを実感する、感慨深い映画体験だった。
今回はレース観戦で飲みたい、本場オーストリアの代表的なピルスナー「ゲッサー」をチョイス。
苦味は適度で、ドライで喉越しスッキリ爽やか。
欠点らしい欠点の無い、バランスが絶妙な上品な味わいは、なるほど全てに完璧を求めるニキ・ラウダのイメージに重なる。
夏場のサーキットにピッタリな一本だ。

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ある老女の心の内に70年間秘められていた秘密を巡る、ミステリアスな心理ドラマだ。
山田洋次にとっては、挑戦的な新境地と言っても良いと思う。
舞台は昭和10年代、東京山の手の住宅地に建つ赤い屋根の小さな洋館。
山形の寒村から上京した少女・タキは、この家で女中として働きはじめる。
玩具メーカーの重役を務める旦那様と都会的で垢抜けた時子奥様は優しく、幼い一人息子にも懐かれ、タキは忙しくも楽しい日々を送っている。
しかしある日、旦那様の部下・板倉が登場する事で、小さなおうちには目に見えない愛の嵐が吹き荒れる様になるのだ。
直木賞を受賞した原作は未読。
偶然だろうが、物語の構造が「永遠の0」とよく似ている。
冒頭はどちらも昭和から平成を生きた一人の老女の葬儀のシーンで、現在の若者の視点で過去の人々の人生を辿って行き、現在から見た過去のイメージとリアルの乖離を指摘するのも同様だ。
妻夫木聡演じる親戚の青年・健史は、タキの人生に興味を抱き、生前の彼女に自叙伝を書くように勧める。
映画は、タキの書いたノートを健史が読むという形式で、現在と過去を行き来しながら展開してゆくのだが、この時代を実際に生きた人の生の記憶に触れているのに、健史は「戦時中がこんな様子だったはずはない」と浅はかな知識で否定するのである。
映画のタイプとしては全く異なるが、この二本は見比べると非常に興味深い。
どんな時代であれど、そこにいるのは感情を持った人間だ。
その時が平和でも戦時中でも、楽しい事があれば笑い、狂おしくも人を想う。
変則的な三角関係を構成するタキと時子、板倉は極めて現代的なキャラクターに造形され、だからこそ生々しい存在感を持つ。
愛に関する人間の心を紐解く物語は、70年前の世界を鏡像として、21世紀の今を描いてみせるのである。
心の内を決して表に出さない彼らの関係は、まるでアスガー・ファルハディ監督の心理ミステリーを思わせる静かな緊張感を湛えたまま、戦時下の日常の裏側で推移してゆく。
前作「東京家族」から加速がかかった小津的な画作りは、あるシーンで突然の手持ちカメラへ切り替える事により、登場人物の揺れる心、エモーショナルな意味づけをより際立たせる。
それは、タキがこの家で犯し、生涯に渡って抱えてきたある“罪”が生まれた瞬間でもあるのだ。
劇中、健史のガールフレンドが、バージニア・リー・バートンの同名絵本「ちいさいおうち」に言及するシーンがある。
この絵本は、全編が一軒の小さな家を中心とした構図で構成されている。
牧歌的な田舎に建つ家の周りは、少しづつ開発が進み、やがて高層ビルの林立する大都会となってしまう。
ビルの谷間でボロボロになって忘れられた小さな家を救うのは、かつてこの家で生まれ育った一人の女性だった、という物語だ。
だが、タキにとって、幸せと贖罪の象徴である小さなおうちは、絵本とは違って戦争という人間の最も愚かしい行為によって、もはやこの世界に存在しない。
理想郷は失われ、タキは罪を告白する機会を永遠に失ったまま、その人生を終えるのである。
彼女の残した想いを健史が受け継ぎ、残された人々が全てを知ることで、罪が氷解するラストは感動的だ。
しかしこの映画、おそらくタキの抱えてきた秘密の全ては、あえて明確には描いていないのではないかと言う気がしている。
そのヒントは序盤に一瞬だけ登場する、ある一枚の絵の存在だ。
あの絵をどう解釈するかによって、タキの“戦後”は相当に変わってくるのではないだろうか?
ジンワリとした余韻と共に、奇妙な引っかかりも残す、不思議な味わいの作品だ。
昭和初期の洋館を舞台とした物語に合わせて、近代日本で始めてワイン醸造が行われた甲州からグレイズワインの白、「甲州 鳥居平畑」の2012をチョイス。
名前の通り、勝沼の鳥居平の区画の甲州種を用いて醸造されている。
本場ヨーロッパでの評価も高く、ドライで柑橘系とスパイスの複雑な香りを楽しめる、メリハリの効いた一本だ。

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![]() 勝沼産 特別畑限定醸造 4,000本グレイス 甲州・鳥居平畑[2012] |