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ウォルト・ディズニーの約束・・・・・評価額1800円
2014年03月30日 (日) | 編集 |
物語の裏側にあるもの。

あまりにも有名なディズニーのミュージカル映画、「メリー・ポピンズ」のビハインド・ザ・シーン。
魔法使いのナニー、メリー・ポピンズは、本当は誰を助けにやって来たのだろうか。
映画は子供の頃に何度も観たし、原作も読んだが、この話は全く知らなかった。
原作者のパメラ・L・トラヴァース夫人と、プロデューサーのウォルト・ディズニーの間に交わされた約束とは。
物語の裏に物語があり、更にその裏にも物語がある三重構造が形作る創作の連環。
これは人はなぜ物語るのか、作者にとって作品とは何なのかを描き出した、実に奥深い物語論であり作家論である。
創作に関わる全ての人は、スクリーンの中のどこかに自らを見出し、必ず心をかき乱されるだろう。
ジョン・リー・ハンコック監督は、見事に自身の最高傑作を作り上げた。
※核心部分に触れています。

1961年。
英国に住む作家のパメラ・L・トラヴァース(エマ・トンプソン)は、20年に渡ってオファーを受けていた「メリー・ポピンズ」の映画化を話し合うために、ハリウッドのディズニースタジオへと向かう。
しかし気難しいパメラの性格は、出迎えたディズニー(トム・ハンクス)らを困惑させる。
主演俳優からミュージカル化の案まで、ことごとくダメだしされ、作業は全く進まない。
どうしても契約書にサインさせたいディズニーは、パメラの他者を寄せ付けない頑なな心に何があるのか、彼女が作品に込めた想いを知ろうとする。
やがて「メリー・ポピンズ」の裏側に隠された、約半世紀前の彼女の幼少期の悲劇が浮かび上がってくる・・・


先日公開された「アナと雪の女王」の併映短編「ミッキーのミニー救出大作戦」は、モノクロスタンダードのクラッシックなアニメーションで始まる。
なんだ、1930年ごろの旧作かな?と思っていると、やがてキャラクターたちは3DCGとなってスクリーンを飛び出し、シネスコの画面の中に存在する劇場の、ビスタサイズのスクリーンの内と外で大騒動を繰り広げるのである。
この僅か6分ほどの短編の中に、スタンダードからビスタ、シネスコへ、そしてモノクロ手描きアニメからカラー3DCGへというディズニーアニメーションの歴史が内包されている訳だ。

カンザス出身のアニメーター、ウォルト・イライアス・ディズニーが兄のロイと共にアニメーション製作会社を興したのは1923年。
以来、会社形態の変遷はあるが一貫して自社製作によるアニメーション、実写映画を作り続けてきた。
また自らの作品及びキャラクターをブランド化して、製作から何十年経っても、その存在を生かし続けるというビジネスモデルを確立した人物でもあるのだ。
“ディズニープリンセス”と言えば1937年の白雪姫から最新のアナとエルサまで、一つのブランドイメージの歴史の中で繋がり、ミッキーマウスは1920年代末から一世紀近くが経過した現在に至るまでディズニーのシンボルであり続けている。
この強固なブランドと歴史の一体性を生かし、近年のディズニーは自らの遺産を上手く新たな創作に繋げている。
前記した「ミッキーのミニー救出大作戦」もそうだが、「アナと雪の女王」もディズニープリンセスの王道を踏襲しつつも、ある意味で過去へのアンチテーゼとして現代的な価値観を付与する事で、フレッシュなイメージを作り出していた。
またセルフパロディ化するギリギリの線で、ディズニー世界をメタ的に俯瞰した作品と言えば、アニメ世界のプリンセスが現実の世界にやって来る「魔法にかけられて」が記憶に新しい。
そして本作もまた、伝説化されたディズニーの豊かな歴史をモチーフとした物語である。

邦題は「ウォルト・ディズニーの約束」だが、主人公はウォルトではなくパメラ・L・トラヴァースだ。
映画はロンドンに暮らす彼女が、映画化の話し合いのためにハリウッドへ向かうところから始まる。
以降、「メリー・ポピンズ」の映画化準備を巡る顛末と、それより半世紀前のオーストラリアでの出来事が交互に描かれる。
最初のうち、二つの時系列の関係は明示されない。
オーストラリアの平原に家族と共に住んでいる想像力豊かな少女が、後のパメラであろう事は何となく示唆されるのだが、名前が違うのである。
もしこの少女がパメラなら、一体なぜ彼女は英国の作家パメラ・L・トラヴァースとなったのだろうか?
過去と現在、並行する二つの物語の間に横たわるミステリーによって、観客の興味をひきつける巧みな構成だ。

一方、1961年のハリウッドでは、あまりにも偏屈なパメラの態度に、ウォルトたちは困惑を深めるばかり。
パメラはアメリカ人など頭カラッポの金の亡者と決め付けているかのごとく、彼らの提案をことごとく却下する。
主演候補のディック・ヴァン・ダイクは気に入らない、ミュージカル化は論外、アニメ表現もダメ、挙句の果てには劇中に赤の色は使わせない。
ウォルトたちは、一体パメラが何を求めているのか、何が気に入らないかも分からず、20年越しの映画化企画は空中分解寸前となる。
ちなみに本作にも登場する作曲家のリチャード・シャーマンによると、本物のパメラはエマ・トンプソンが演じたキャラクターよりももっと辛らつで、映画はそれでもいくぶんマイルドに描写されているそうだが、序盤にはパメラは無理難題をまくし立てる意固地なおばさんにしか見えない。

だが中盤以降、二つの時系列の物語は徐々にその関連性を明らかにしてゆく。
オーストラリアで暮らすギンティと呼ばれる少女には、夢追い人ゆえに社会に馴染めず、アルコールで身を持ち崩した父親がいるが、彼のファーストネームこそがトラヴァースなのだ。
トラヴァースは仕事を首になり、病に倒れても酒を飲み続け、絶望した母親は自殺未遂する。
父親が大好きだったギンティが、幼い心に抱いた幾つものなぜ、そして父親の最期の願いを叶えられなかった小さな罪悪感。
孤独に傷ついた彼女は、やがて父の名をペンネームに作家パメラ・L・トラヴァースとなり、切なく悲しい思い出の断片から、珠玉の物語を生み出したのだ。
魔法使いのメリー・ポピンズは、ある日空の上からパラソルを手に降りてきて、厳格な父親に支配されたバンクス家のナニーとなる。
すると彼女は、魔法の力で一家を笑いの絶えない幸せな家庭に変えてしまい、皆の幸せを見届けると去ってゆく。
それは幼いギンティが、いや父のトラヴァースが熱望し叶えられなかった理想の家族の姿だ。
パメラにとっての創作とは、嘗て救えなかった自らの家族を、フィクションの中で救済する事によって、自分の心の傷と向き合う行為だったのである。

ディズニー側が作品を理解していないと思ったパメラは、こう言い放つ。
「メリー・ポピンズが子供たちを救いにやって来たですって?あきれた」
救われるべきは子供たちではなく、社会という牢獄に閉じ込められ、葛藤を抱えたかわいそうな父親、トラヴァースを投影したバンクス氏だ。
バンクス氏を救う事が、即ち子供たちを救う事にも繋がる。
それ故に本作の原題は、少々ネタバレ気味ながら「Saving Mr. Banks 」となっているのだ。

パメラとウォルト、一見すると全くタイプの違う二人は、しかしクリエイターとして内面に良く似た部分を持っており、ウォルトも本質的な部分で「メリー・ポピンズ」のテーマを理解している。
彼もまた厳格だった父イライアスの姿を原作のバンクス氏に見ており、二人の偉大なクリエイターは、同じキャラクターに違った角度からそれぞれの家族の物語を投影していたのだ。
クリエイターにとって、物語の種となる葛藤は常に自分の中にあり、だからこそ苦闘の末に生み出した物語は愛おしい。
パメラがメリー・ポピンズを“家族”と呼ぶ様ぶように、ウォルトにとっても映画のキャラクターは“家族”である。
若い頃に「しあわせウサギのオズワルド」の権利をユニバーサルに奪われた経験のあるウォルトは、愛するキャラクターを汚されるのではないかというパメラの心痛が良く分かるのだ。
基本的に観客の視点はウォルトに置かれているので、二人の心が溶け合ってゆくにつれて、意固地なおばさんという表層的なキャラクターだったパメラが、どんどんと人間的に見えてくる。
ハリウッドでの彼女の専属運転手との泣かせるエピソードなどサブプロットも上手く機能し、観客はいつの間にかパメラにどっぷり感情移入している事に気付くだろう。
脚本のケリー・マーセルとスー・スミスによる作劇の妙は物語の細部にまで行き渡り、実に見事である。

それにしても、夢いっぱいの映画の裏に、こんな悲しい物語が秘められていたとは。
もともとの原作ファンに言わせると映画版のメリー・ポピンズ像は違和感があるそうだが、私は子供の頃にテレビで映画を観て、後から原作を読んだパターンなので、メリー・ポピンズはやはりジュリー・アンドリュースの印象が強い。
結果的に原作とかなり違ったイメージの作品となったが、なるほど本作の邦題通り、ウォルトは作品のコアな部分、物語のテーマの部分はきっちりと守ったというわけだ。
なんだか次に「メリー・ポピンズ」を観るときには、この映画の事を思い出して、楽しいシーンで泣いてしまいそうな気がするよ。

今回は物語の故郷、オーストラリアでモエ・エ・シャンドンが設立したドメーヌ・シャンドンが生産する「シャンドン・ブリュット・ロゼ」をチョイス。
シャンパンの名は名乗れないが、味わいはフランス産のものにもさほど劣らず、むしろコストパフォーマンスの高さがうれしい。
きめ細かい泡の感覚と、フルーティな香りが楽しめる華やかなスパークリングだ。
ピンクのラベルもどこか映画版の「メリー・ポピンズ」っぽい?

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フルートベール駅で・・・・・評価額1700円
2014年03月25日 (火) | 編集 |
明日は、もうやってこない。

2009年の1月1日未明、サンフランシスコ・ベイエリアのフルートベール駅で、丸腰の黒人青年オスカー・グラントが警官に射殺された事件をモチーフにした人間ドラマ。
特定人種への偏見が事件の一因である事は確かだが、単に人種差別を告発した作品ではない。
映画は、オスカー最後の一日を通して、彼が何者だったのかを私たちに知らしめる。
理不尽に奪われたのは、どこにでもいるごく普通の人の命であり、彼は私だったかもしれないし、あなただったかもしれないのである。
監督のライアン・クーグラーは、主人公と同じくベイエリア出身のアフリカ系で、これが長編監督デビュー作。
本作の脚本は2012年にサンダンス・インスティテュート・スクリーンライターズ・ラボに選出され、若い才能のためにプロデュースを買って出たのは、「大統領の執事の涙」での好演が記憶に新しいフォレスト・ウィテカーだ。

オスカー・グラント(マイケル・B・ジョーダン)は、サンフランシスコのベイエリアで暮す22歳の青年。
過去にドラッグの売人として服役した事があり、今は恋人のソフィーナ(メロニー・ディアス)と愛娘のタチアナのために、生活を立て直そうと努力しているものの、現実は厳しい。
実は二週間前に仕事を首になってしまったのだが、その事はまだ言い出せずにいる。
大晦日は母のワンダ(オクタビア・スペンサー)の誕生日で、オスカーは家族と共に実家を訪れ、久しぶりの賑やかなディナーを楽しんだ後、サンフランシスコで新年のカウントダウンを見届けて、仲間たちと共に電車で帰宅の途につく。
しかし希望へと向かうはずの新年の始まりは、電車がフルートベール駅に差し掛かったとき、突然の暗転を迎える・・・・


本作を見ていて思い出したのは、黒木和雄監督の名作「TOMORROW 明日 」だ。
1945年8月8日から9日にかけて、長崎が原爆で消滅する前の24時間の人々の営みを描いた群像劇である。
観客は物語の終わりに何が起こるのか、登場人物たちに“明日”は永遠に来ないことを知っているので、彼らが口にする未来への希望が切ない。
そして69年前の長崎市民と同じく、本作の主人公であるオスカー・グラントにも明日はもう存在しないのだ。

映画は、オスカーの人生最後の一日に起こった事を淡々と描く。
彼にとって2008年の大晦日は、良くも悪くも少しだけ特別な日だ。
サンフランシスコの対岸のイーストベイに暮らす彼は、勤めていたスーパーマーケットを首になり、再びドラッグの販売に手を出しかかるも、ギリギリで思いとどまる。
恋人のソフィーナや幼いタチアナのためにも、刑務所に戻る訳にはいかないのだ。
そして過去に心配をかけた母親の誕生日を祝うために、高級品のカニを奮発し、親族たちと賑やかで暖かいひと時を過ごす。
そして新年のカウントダウン花火を楽しむために、気の置けない仲間たちと共に電車に乗ってサンフランシスコへと向かうのである。
しかし、彼の人生はあまりにもあっけなく、唐突に終わりを告げる。
この世界はいかに脆く、命は白昼夢の様に儚いのか。

オスカーはいくつかの葛藤は抱えているが、決して悪党ではなく、どこにでもいる普通の若者であり、幼い娘に愛を注ぐ父親だ。
もちろん自分の人生がもうすぐ終わる事を知っている訳もなく、本作にいかにも映画的なドラマ性は見出せない。
唯一、金を作るためにマリワナを売ろうとするシークエンスだけは、彼の抱えている問題がクローズアップされる。
買い手との約束の場所に向かうオスカーは、車に轢かれた野良犬をみとり、その孤独な最後に自分の姿を重ねる。
この部分は誰かと行動を共にしている訳でもないので、おそらくは映画の創作だろう。
結果、彼は堅気に踏みとどまるのだが、生活苦という問題そのものは当然ながら解決されることがない。
あえて言えば、主人公が葛藤を解消する機会が永遠に訪れないというのが、本作の持つ特異なドラマ性なのである。

舞台となるサンフランシスコ・ベイエリアは、私にとっても長年暮らした第二の故郷だ。
事件が起こったフルートベール駅も良く知っているし、オスカーが働いていたスーパー、Farmer Joe's は何度も行った事がある。
もしかしたら、どこかでオスカーと顔を合わせた事があったかもしれない。
そしてここは、全米でも最もリベラルな地域の一つである。
ベトナム反戦運動、公民権運動の中心地であり、ヒッピーの故郷にして世界最大級のゲイコミュニティが存在するマイノリティーの楽園。
ベイエリア、特にサンフランシスコや対岸のバークレーあたりで先進的な条例が制定されると、それは数年後には他の地域にも広まり、全米のモデルケースとなる事も多い。
ロス暴動の切っ掛けとなったロドニー・キング事件の様な事は、ベイエリアでは起こらないだろう。
多くの人と同様に、私もそう思っていた。
だからこそ、この事件が起こった時はとても驚き、悲しくなったのである。

しかし、この作品は人種差別の告発だけを目的とした映画ではないと思う。
確かに電車から黒人たちだけを引きずり出した警察の行動は、人種偏見があっただろう。
電車を管轄するBARTポリスたちは極めて横柄に描写されているが、基本的にアメリカの警察官は被疑者に対して威圧的なので、彼らだけが特別に酷いわけでもない。
だが発砲が意図的だったのか、それとも事故だったのかは、本作を観ても事件当時目撃者たちが撮影しネットにアップされた多くの映像からも、本当のところは分からないのだ。
もしかしたら裁判での証言どおり、若い未熟な警官が本当にティーザー銃と間違えて撃ってしまったのかもしれない。
押さえつけられている被疑者を背中から撃てば、ただでは済まないのは誰にでも分かる事だ。
実際オスカーを撃ったJohannes Mehserleは職を失い、実際に服役した期間は短かったとは言え、有罪判決を受けているのである。
射殺した側にとっても、2009年1月1日は悪夢の記憶だろう。
もしもこの事件を別のアプローチで描くならば、あの一瞬に交錯した被害者と加害者、双方の関係者の24時間を描くという方法もありかもしれない。
まあ、そうすると「クラッシュ」になってしまうし、それは作者が意図する事ではないのだろうけど。

本作が描いているのは、いまだ明けきらぬ夜の様に、アメリカ社会の歪として存在する人種の壁。
そしてそれ以上に、オスカー・グラントとは何者だったのかという事である。
この種の差別絡みの事件が起こると、世論は善悪の二元論に陥りがちになる。
多くのメディアやSNSでは警官は悪魔の様な人種差別主義者に描写され、逆に被害者は聖人に祭り上げられる。
政治的な立場によっては、その逆もしかりだ。
事件に対する社会的な反応、コミュニティニ内在する問題の顕在化という点では、それも必要かもしれない。
しかし事件そのものがフォーカスされるにしたがって、オスカーという青年はアイコン化され、彼の本当の記憶はそれぞれの立場の人々が作り上げる“物語”の中に塗り込められてしまう。
ライアン・クーグラーは、センセーショナルな事件の解釈からは距離を置き、最後の24時間を通じて一人の人間としてのオスカーと、彼の生きてきた世界を描く。
そこからどんなメッセージを受け取るかは、おそらく人によって異なるだろう。
しかし映画を観た人はきっと、いや決して忘れない。
サンフランシスコのベイエリアに、オスカー・グラントという、決して品行方正ではなかったが、平凡で心根の優しい男がいた事を。
そして彼の人生は、理不尽に奪われ、悲しみを抱えた人々が残された事を。
オスカー・グラントは、私であり、あなたであり、私たちの大切な誰かなのである。

今回は、長野県辰野町の小野酒造の「夜明け前 純米吟醸 生一本」をチョイス。
フルーティで柔らか、豊潤な米の味を存分に味わえる。
銘柄は島崎藤村の息子、島崎楠雄によって命名され「この名を使う以上は、命に代えても本物を追及する」という精神を表す。
この世界の夜は、もしかしたら人間が存在する限り永遠に明けないのかも知れない。
それでもいつか夜が明けると信じて、少しずつ、少しずつ歩み続けるしか道はないのだろう。
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アナと雪の女王・・・・・評価額1700円
2014年03月20日 (木) | 編集 |
Let It Go!

伝統のディズニープリンセスの最新作は、アンデルセンの「雪の女王」をモチーフに、雪と氷の世界を舞台とした壮麗なミュージカルファンタジーだ。
今回は、全てのものを凍らせる秘密の力を持ったエルサと、天真爛漫なアナの姉妹を主人公とした史上初のダブルプリンセス!
既に全世界で10億ドル以上を稼ぎ出す特大のヒット作となっており、アニメーション映画歴代1位の「トイ・ストーリー3」の記録を塗り替えるのも確実。
上質なミュージカルナンバーと美しく丁寧なアニメーションは、小さいお友達も大きいお友達も、等しく夢の世界に誘う魔力に満ちている。
監督・脚本は「シュガー・ラッシュ」の脚本家として知られるジェニファー・リーで、「ターザン」のクリス・バックが共同監督を務める。
ジェニファー・リーは、意外にもディズニー本体の長編アニメーションでは初の女性監督であるという。
※核心部分に触れています。

アレンデール王国の王女エルサ(イディナ・メンゼル)は、生まれつき手に触れる物を凍らせる不思議な魔力を持っていた。
その力は成長するにつれて大きくなり、ある時遊んでいた妹のアナ(クリスティン・ベル)を傷つけてしまう。
トロルの元に運ばれたアナは治療を受け事なきを得るが、国王夫妻はエルサが力をコントロールする術を学ぶまで、城門を閉ざし人と関わる事を禁じる。
アナの心からも魔法の記憶は消され、その日からエルサは一人孤独に自室に閉じこもる事に。
ところが十数年後、国王夫妻が不慮の事故で亡くなり、成人したエルサは新女王として即位しなければならなくなる。
長年閉ざされた城門の中で育ったアナにとって、戴冠式の晩餐会は生まれてはじめてのパーティ。
はしゃぎまわった彼女は、早速他国の王子ハンス(サンティノ・フォンタナ)と親しくなって、出会ったその日に婚約する。
だが、その事を聞かされたエルサは怒り、思わず衆人の前で力を使ってしまう。
人々の好奇の目に晒されたエルサは、宮殿から失踪。
責任を感じたアナは、ハンスに後を任せてエルサの消えた雪山へと向かうのだが・・・・


アンデルセンの「雪の女王」と言えば、1957年に旧ソ連のソユーズムリトフィルムで製作されたセルアニメ版が有名だろう。
50年代は、世界中のアニメーションスタジオが巨人ディズニーをベンチマークしていた時代で、この作品もディズニー作品の影が見え隠れしているが、オリジナリティも高い。
特に女王に連れ去られた幼馴染の少年カイを救い出すため、困難な冒険に出る優しくて勝気な少女、ゲルダのキャラクター造形は日本のアニメ界に大きな影響を与え、後の「風の谷のナウシカ」などの行動するヒロイン像の原点となった重要な作品だ。
しかし、もしレフ・アタマノフ監督が、自作から半世紀以上後に作られた本作を観たら、ビックリして椅子から転げ落ちるのではないか。

永遠の冬を齎すという雪の女王の設定と、真実の愛が全てを溶かすという中核部分はキープされているものの、大幅な脚色を経た物語はもはや原作ともセルアニメ版とも別物である。
これは言わば、そもそも雪の女王はなぜ人々から恐れられる魔女となってしまったのだろう?という“御伽噺の常識”への疑問から生まれた「雪の女王:エピソードゼロ」だ。
しかも物語の結末はアンデルセンの原作には繋がらず、見ようによっては過去のディズニーアニメに対する現代からのアンチテーゼにも思えてくる。
最初のディズニープリンセス「白雪姫」の鏡の魔女から「塔の上のラプンツェル」のマザー・ゴーテルに至るまで、御伽噺の魔女は利己的で邪悪な存在として描かれてきた。
では、彼女らはなぜそんな寂しい人格になってしまったのだろう。
人間は不寛容な動物で、自分たちと異なる事、普通でない事を恐れる。
生まれつき魔法が使える人がいたら、周りは忌むべき力として迫害したかもしれない。
故郷を石もて追われた彼女らは、孤独の中で人々を呪い、魔女と呼ばれる様になってしまったのではないだろうか。
氷の宮殿に子供を攫う雪の女王にも、そんな過去があったのかもしれない。
もしも魔女が心に傷を抱えた哀しい女性なら、それは滅ぼすのではなく、慈愛をもって赦し、凍てついた心を癒すべき存在ではないのか。

本作のエルサも、自ら望んだ訳でもないのに、触れた物を一瞬で凍らせ、どこにでも雪を降らせる魔力をもっている。
愛娘がどんどんと強くなる力を制御出来ず、人を傷つけたり、奇異の目で見られる事を恐れた両親は、彼女を実の妹を含む世界から隠す事を選んだ。
それはもちろんエルサの為を思っての事だが、ありのままの自分を否定される事で、エルサは本人も意識しないうちに、内面に大きな歪を抱え込んでしまうのである。
自分の力を知られ、城から逃げ出したエルサは、魔法で二体の生きている雪だるまを作る。
一体は、彼女が無意識のうちに作ってしまい、本作の軽妙なコミックリリーフともなっているオラフ。
エルサが幼い頃に作った雪だるまと似たこのキャラクターは、言わば彼女の童心であり、素の心のメタファーだ。
もう一体は、氷の宮殿を守るために意図的に作り出した巨大な雪の番兵である。
他人が彼女の領域に侵入するのを拒むこちらは、孤独に凍った現在の心をカリカチュアして増幅した存在といえるだろう。

エルサが幸運にも御伽噺の魔女にならなかったのは、魔力を恐れずに受け入れ、人と違う自分を無条件に愛してくれるアナの存在があったからだ。
きっとアンデルセンの童話に出てくる雪の女王には、彼女の心を溶かしてくれる妹はいなかったのだろう。
エルサは自分を犠牲にしてでもアナの幸せを願い、アナもまた命をかえりみずエルサを助けようとする。
永遠の冬さえも溶かす事の出来る“真実の愛”とは、即ち自分の事よりも大切な誰かを思いやる事で、それはなにも男女の間にだけあるとは限らない。
ディズニープリンセスもので、まさか姉妹愛をクライマックスに持ってくるとは!
呪いの魔法を解くのは恋の成就という観客のテンプレ的な思い込みを逆手にとった、実に鮮やかな一手であった。

それにしても、ますますモダンに魅力的になるプリンセスたちに比べて、嘗ては女の子の憧れであったはずのプリンス側のブランドの失墜はどうだ。
ここしばらくのプリンセスの相手役は泥棒だったり氷売りだったり、「プリンセスと魔法のキス」では王子は王子でも呪いでカエルに変身させられて、ヒロインにキスをねだる体たらくで、圧倒的に女性主導のカップル。
本作のハンスに至っては、プリンセスを亡き者にして王国の乗っ取りを計るという、お見事な中身クソ野郎っぷりである。
これは昔であれば魔女の役割であり、理想のお相手どころかいよいよ完全な悪役に転落してしまった。
もはや白馬のプリンスは出来過ぎて信用ならざる人物であり、こんな男との結婚は全くリアリティが無いのだろう。
これが時代が変わるという事なのか。

ミュージカルファンタジーとしての白眉は、やはり魔力を人々に見られたエルザが宮殿から失踪し、雪山の中で「Let It Go」を歌い上げるシークエンスだ。
本年度アカデミー賞の最優秀歌曲賞を受賞したこのナンバーは、エルザがたとえ孤独であっても自分らしく生きる事を決意し、幼い頃からずっと背負ってきた重荷から解き放たれた歓喜の爆発である。
ミュージカルシーンその物はそれほど多くないが、要所でメリハリ良く使われていて一つ一つが印象深い。
中世北欧をモデルとした世界観、中でもエルサが魔法で作り上げる氷の宮殿をはじめ、雪と氷のビジュアルはCG立体映像との親和性も高く、特に空間の中で無数の雪の結晶が静止しているイメージは幻想的な美しさだ。
手描き時代から多くのプリンセスたちをスーパーバイズしてきた、リードアニメーターのマーク・ヘンによるアナとエルサのキャラクターも、手描きの可愛らしさを保ったまま巧みに3Dモデリングされており、クールビューティーなエルサと活発で親しみやすいアナの差別化も上手くいっている。

同時上映の短編、「ミッキーのミニー救出大作戦」も粋な遊び心に溢れた一本だ。
一見すると1930年頃の旧作?と思わせておいて、実は・・・・。
この僅かな尺の中に、スタンダードからビスタ、シネスコへ、モノクロからカラーへ、手描きからCGへとアニメーション映画史が凝縮されているのだからたまらない。
しかし、いわば過去作品の反転である「アナと雪の女王」、名作のビハインド・ザ・シーンを描く「ウォルト・ディズニーとの約束」など、最近のディズニー作品は自らの遺産を良い意味で上手く使っている。
夏休み映画の「マレフィセント」も、魔女側から見た「眠れる森の美女」になっていそうで、本作とは違う視点で過去作品をどう新解釈するのか楽しみだ。
こういう企画が出来るのも1920年代から現代まで、一貫して自社制作を行って来た老舗ならでは。
まさしく、継続は力なりである。

今回はフランス産プレミアムウォッカの逸品、「シロック」をチョイス。
通常ウォッカは麦類やジャガイモなどグレイン系を原料とする蒸留酒だが、このシロックはなんとブドウのみから作られる世界で唯一のウォッカなのだ。
カクテルベースにしてももちろん美味しいのだが、ここはぜひロックで飲みたい。
最初の一口でフワリと舌の上に広がる爽やかな柑橘香が、キツイ蒸留酒にありがちなアルコール感を殆ど感じさせず、エレガントな後味を残す。
美しい冬の風景を舞台とした、ゴージャスなアニメーションにピッタリだ。
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ショートレビュー「オーバー・ザ・ブルースカイ・・・・・評価額1700円」
2014年03月18日 (火) | 編集 |
壊れた輪、すれ違う世界。

本年度アカデミー外国語映画賞にノミネートされた、フェリックス・ヴァン・フルーニンゲン監督による、ベルギー発の異色の音楽ドラマ
ぶっちゃけ物凄くヘビーな内容だが、深く心に響く傑作だ。
主人公はトレーラーハウス暮らしのミュージシャンのティディエと、ひょんな事から彼と出会ったタトゥーアーティストのエリーゼ。
やがて才能を開花させた彼女は、彼のバンドでボーカリストとして活躍しはじめる。
対照的な二人の間にはいつしか娘が生まれ、家族となってゆく。
しかしささやかながらも幸せな時間、祝福の季節は長くは続かない。
幼い娘は突然の病に倒れ、永遠に思えた絆は突然断ち切られてしまうのだ。
アメリカの民謡音楽、ヒルビリーから発展したカントリースタイルの一派、ブルーグラスの哀愁を帯びたメロディーが切ない。
本作は、娘の死をドラマ的な基点として、過去と現在、そして未来とが複雑に折り重なる構造を持ち、その中に幾つもの対立軸が綿密に配されている。

ティディエとエリーゼ、男と女の世界を見る視線はあまりにも違う。
違うからこそお互いを求め、愛し合うのだが、自分たちにとって一番大切な存在を失った時、相違は葛藤として一気に顕在化するのだ。
ロマンチストでありながら、非常にロジカルな思考をするティディエは、自らの信じる主義、思想によって大き過ぎる喪失に向かい合おうとする。
一方のエリーゼは、よりスピリチュアルな世界を通して、亡き娘の心を感じようとするのだ。
例えば、窓辺に舞い降りた一羽の鳥に娘の魂を感じたエリーゼは、鳥がぶつからない様に、家のテラスのガラス屋根に衝突防止のシールを張ろうとする。
だが、そんな彼女の行動は、ティディエにとっては娘の死を受け入れられず、虚構の世界へ逃避している様にしか見えない。
二人の間にあった美しい調和は崩壊し、衝突とすれ違いを繰り返す様になってしまう。

「オーバー・ザ・ブルースカイ」はいかにも日本的に優しく、良い邦題だと思うが、原題の「The Broken Circle Breakdown」の方が実際の作品のムードには相応しい。
ティディエはブルーグラスのバンドを組んで、カウボーイの様にトレーラーハウスで自給自足で暮らしているくらいだから、アメリカとその文化に憧れている。
ところがテレビニュースが伝えるアメリカでは、宗教的保守派が娘の様な病気を治す可能性を持つ肝細胞研究を禁止したと伝えているのである。(※この映画の時代設定はブッシュ政権の頃)
論理性を信奉するティディエには、その決定がエリーゼの行いと重なって見えてしまうのだ。
アメリカに憧れながらアメリカを呪い、死後の世界を否定しながら失われし者の魂に想いを巡らす。
不条理な世界で、幾つもの矛盾に引き裂かれた人間たちの切ない想い、言葉にならない内なる葛藤を、ブルーグラスの調べが繋いでゆく。
ハイクオリティな劇中曲が、全て出演俳優たちによる実演だという事にビックリ。
物語と映像と音楽が見事なハーモニーを形作り、運命に抗う悲しき魂の歌声に、涙を堪えられない。
本作はベルリン国際映画際で観客賞一位となったそうで、なるほどハードなヒューマンドラマとして見応え十分、そして音楽映画としても聞き応え十分だ。
物語に必ず救いを求めるという人は避けた方が良い作品かもしれないが、ある意味究極の愛の形を見る事になるラストまで、全く目が離せない。
エリーゼのタトゥーなど象徴性の使い方も絶妙で、思わず唸った。
はたして、壊れた輪は時空のどこかで再び繋がるのだろうか。

今回は日本でもおなじみのベルギーを代表するビールの銘柄「ヒューガルデン ホワイト」をチョイス。
柔らかい泡立ちはクリーミーで、コリアンダーシードとオレンジピールを加えて作られる味わいはとてもフルーティで、適度な酸味が爽やかさを演出する。
ライトな感覚で、ベルギービールはヘビーで苦手という人にもオススメできる。

しかし、この映画がアカデミー外国語映画賞を逃した理由は実際に観たらよく分かった。
確かにこりゃ、アメリカ人の票は割れるだろうな。
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ショートレビュー「銀の匙 Silver Spoon・・・・・評価額1650円」
2014年03月18日 (火) | 編集 |
逃げた先に、希望はあるか。

ひょんな事から、北海道の農業高校に入学した都会育ちの主人公が、全く新しい環境に戸惑い葛藤しながらも、力強く成長してゆく姿を描く青春ストーリー。
原作コミックは未読だが、作者は「鋼の錬金術師」で知られる荒川弘。
ずいぶん違ったジャンルを描いてるなとは思っていたが、何でも彼女のご実家は北海道の酪農農家で、自身も農業高校を出ているらしい。
なるほど、これは自らの経験に裏打ちされた物語という事か。
ソフトなパッケージとは裏腹な、社会派映画も真っ青なリアリズムとハードなテーマも納得だ。
既に11巻まで出ている原作を、二時間の映画に纏めるにあたっては相当な取捨選択が行われているはずだが、吉田恵輔と高田亮による脚色は、お手本にしたくなるくらい上々の仕上がり。
全体が極めてロジカルに構成され、遊び心の部分まで含めて、要素が的確に物語に配されている。

映画は、主人公である八軒勇吾の高校生活最初の一年をフィーチャーする。
生徒の大半が地元の農家出身の中で、八軒は遠く札幌からやって来たよそ者だ。
実は彼は、エリート進学校からのドロップアウト組。
特に酪農に興味があったわけではなく、厳格な父親の期待の大きさに耐えかね、敷かれたレールを脱線して全寮制の農業高校へと逃げるように飛び込んだのだ。
しかし、葛藤から逃げてきた八軒は、直ぐに別種の葛藤と直面する事になる。
なにしろそこは、美味しく頂くための命を扱う所。
酪農科が扱う動物たちは、ペットではなく産業動物なのである。

入学して直ぐに、生まれたばかりの子豚の世話をすることになった八軒は、その子豚が数ヵ月後には食肉として出荷されると聞かされてショックを受ける。
動物を育て、殺さねばならない宿命。
商品として整然と並べられた食肉しか目にしない都会の消費者が、本当は知りたくない、目を背けておきたいこの世界の本当の姿だ。
農家育ちの同級生たちにバカにされつつも、自分なりに精一杯苦悶した八軒は、自ら育てた豚を自ら食すという事で、葛藤にけじめをつける。
屠畜のシーンなども、逃げずに描いてるのは真摯だ。

ところが、自分なりに酪農に向き合う決意を固めた八軒の前に、高校生の身ではどうする事も出来ない、日本の農業の置かれた厳しい現実が立ちはだかる。
いがみ合いながらも背中を押してくれていた同級生の実家農場が、経営破綻してしまうのだ。
ここで八軒は、常識に縛られない部外者だからこその発想で、周囲を強引に巻き込みながら、今困難な時を過ごす仲間たちへと力強いエールを贈る。
夢が無くたって、夢を失ったって、その時から新しい夢を探せば良い。
幾多の困難を乗り越えてきた開拓者の血を受け継ぎ、大地に根付いて生きる人々は、七転びしても八度起き上がるのだ。

主人公の八軒を、中島健人が好演。
吉田恵輔監督は、「ばしゃ馬さんとビッグマウス」でも関ジャニ∞の安田章大の個性を上手く生かしていたが、今回もジャニーズの若手を見事に化けさせた。
はじめは頼りなげだった八軒が、一年を経過した最後には逞しく見えてくる。
学園祭のクライマックス、ばんえい競馬の映像的なカタルシス、キラキラした青春映画としての熱気も十分だ。
これでもうちょっと広瀬アリスとの恋愛部分も、生っぽく突っ込んで描いてくれたら文句なしだったが、まあ若手アイドル俳優主演の少年漫画原作では難しいか。
それにしても広瀬アリスの家族の強面過ぎるキャスティングは、三池監督あたりへのオマージュなのだろうか(笑

今回は、明治9年に北海道に設立された開拓使麦種醸造所がルーツの、サッポロビールの北海道限定ブランド「サッポロ クラッシック」をチョイス。
既に30年近い歴史をもつ地域限定ビールの草分けで、ジャーマンスタイルの麦芽100%ビールは爽やかな喉越しと適度なコクをもつ。
地域限定と言ってもこの種のビールの中では生産量は多く、各地の北海道物産店やネット通販で購入する事ができる。
美味しいベーコンをおつまみに、アウトドアで飲みたい。
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それでも夜は明ける・・・・・評価額1800円
2014年03月13日 (木) | 編集 |
もう一度、家族に会いたい。

奴隷制度がはびこる時代のアメリカで拉致され、人生のすべてを奪われたうえに、南部の農場で奴隷として働かされた男の、苦難の12年間を描く実話ベースの人間ドラマ。
原作となったのは1853年に出版されて、当時ベストセラーとなったソロモン・ノーサップの回想録だ。
自由を謳歌していた男が突然奴隷の身分へと落とされ、屈辱的な服従と絶望を余儀なくされる中でも、最後まで失わなかったものとはなにか。
「SHAME-シェイム-」でセンセーションを巻き起こしたアフリカ系イギリス人、スティーブ・マックイーン監督は、大西洋の向こう側の歴史の暗黒面を極めて冷徹に捉える。
主人公を含め、感情移入の対象となる奴隷側に地味な実力派を揃え、対照的に抑圧者である白人側にビッグネームを集めたキャスティングの狙いも面白い。
本年度アカデミー作品賞も納得の仕上がり、魂が震える傑作である。

1841年、ニューヨーク。
音楽家として活躍する自由黒人のソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、気立ての良い妻と二人の子供と共に幸せに暮らしていた。
あるとき、サーカスでの演奏を依頼されたソロモンは、ワシントンを訪れる。
二週間の契約が終わった夜、興行主と飲み明かしたソロモンは、翌朝目覚めると手足を鎖に繋がれて監禁されていた。
騙されたと気づいた時には既に遅く、南部へと向かう船に載せられたソロモンは、奴隷市場で農園主のフォード(ベネディクト・カンバーバッチ)に買い取られる。
有能なソロモンはフォードに気に入られるが、大工頭のティピッツ(ポール・ダノ)に目をつけられてしまう。
執拗な嫌がらせを受けたソロモンはあるとき遂に反撃してしまい、面倒を嫌ったフォードによって彼は別の農園を営むエップス(マイケル・ファスベンダー)へと売り払らわれる。
それは、ソロモンにとって地獄に等しい苦難の時のはじまりだった・・・


歴史的な背景について、映画は観客が当然知っているものとして全く説明を省いているので、さらっとおさらいを。
17世紀から19世紀までのおおよそ200年の間に、奴隷貿易によって実に60万を越えるアフリカ人が奴隷として合衆国へ売られた。
1807年には大西洋を支配するイギリスが奴隷貿易を禁止、しかしちょうどその時期に合衆国南部のプランテーションは大規模化が進み、結果として米国内の奴隷の市場価格が高騰したという。
本作の舞台となる1840年代には、工業化が進みそもそも黒人の人口が圧倒的に少ない北東部で奴隷制度廃止論が高まり、逆に基幹産業を支える重要な労働力として奴隷を必要としていた南部諸州との軋轢は高まってゆく。
この時代、北東部を中心に自由黒人も数多くいたが、南部で奴隷の数が不足すると、彼らを非合法に拉致して奴隷として売り捌く犯罪も珍しくなかった様だ。
本作の主人公であるソロモン・ノーサップも、そんな邪悪の罠に落ちた犠牲者の一人であり、同時に生還を果たした幸運な一人でもある。

興行主に騙され酔い潰れてしまった彼は、奴隷密売人たちのアジトに監禁され、秘密裏に船に積み込まれると南部へ。
もちろん、彼が自由黒人であることがバレるとまずいので、ソロモンという名前すら奪われ、人間ではなく品物として売られてゆくのである。
再び自由になる手段は二つ。
まずは危険を覚悟して脱走する事
だが広大なアメリカ大陸を、追っ手から逃れながら縦断する事の難しさは言わずもがなだし、もしも捕まれば確実に死が待っている。
もう一つは、自分が自由黒人のソロモン・ノーサップであるという証明書を手に入れる事。
そのためには今何が起こり、どこにいるかを家族や友人に知らせなければならないが、奴隷の身分では筆記用具を手に入れる事すら難しい。
もしも読み書きが出来る事を知られれば、尚のこと白人たちにどう扱われるのかわからない。
口封じのために殺されないとも限らないのだ。
では八方塞がりの状況でソロモンがどうしたかというと、彼は本来の自分を封印し、家族との再会を唯一の希望にただひたすら耐えるのである。

ジョン・リドリーの手による脚本は、一本道なプロットを生かした最良の例の一つだろう。
突然夫が失踪した訳だから、妻は当然探しただろうし、友人・知人たちも動いたかもしれない。
彼を買った白人の側にだって、本当は色々なドラマがあっただろう。
しかし、映画 は徹底的に主人公に寄り添い、彼の知り得る事柄、即ち農園の中で起こっている事以外の情報は一切遮断されるのである。
感情を突き動かされる物語だが、所謂感動モノとは少し違う。
サブプロットを極力排し、ソロモンの見たもの、聞いたこと、感じた事だけを描写する事で、観客は自然に彼と自己同一化し、自分もまた奴隷になったかの様な精神的苦痛と閉塞感を味わう。
彼の周りにいる、同じ境遇の奴隷たちの哀しみや絶望が綿密に、ステロタイプに陥らない様に注意深く描かれているのも、ソロモン自身が理解できる事だからである。

一方、白人たちのキャラクターは極めて類型的だ。
ソロモンが最初に仕える、寛大だが奴隷制にNOを言う勇気は無いベネディクト・カンバーバッチのフォードも、ポール・ダノ演じる粗野な負け組白人のティピッツも、愛を失った夫への鬱憤を奴隷にぶつけるサラ・ポールソンのエップス夫人も、そしてマイケル・ファスベンダーが怪演する奴隷たちの残虐な支配者、エドウィン・エップスも、この時代の南部にいたであろう、白人たちのそれぞれの一面のみを抽出した様な比較的単純なキャラクターに造形されている。
もちろん、これはあくまでもソロモンの心情に同化し“奴隷の人生を体験する”という本作の狙い通り。

基本的に12年間のソロモンの奴隷生活を描くシンプルな作り故に、台詞も含めて決して饒舌な映画ではないが、その分画作りと演出は凄い。
まさに名場面のオンパレードというべき本作の中でも、私は中盤と終盤の二つのカットが特に印象に残った。
中盤では、自分に逆らったソロモンを、復讐に燃えるティピッツが吊るそうとする。
別の監督官が気づき、ティピッツは逃亡するが、ソロモンはオーナーであるフォードが戻るまで半分首を釣られた状態で放置されてしまうのだ。
シネスコの構図の中で、手前では瀕死のソロモンが必死に爪先立ちして生きるために戦っている。
ところが目の前で人が殺され様としているのに、背後では奴隷たちも白人たちも何事も無かったかの様に日常の仕事をしていて、誰も助けようとはしない。
奴隷の命がどれほど軽く、死が日常に潜んでいるか、ソロモンの置かれた状況の異常さを端的に表現した見事な描写だ。
そして終盤、ブラッド・ピット演じるリベラルなカナダ人大工に、自分の命運を託した後のソロモンの表情を、じっくりと見せる長まわしのワンカットは凄まじい。
希望、安堵、不安、恐怖、不信、人間の持つあらゆる凡ゆる感情が彼の内面を巡っている様が、自分の心の様に感じ取れる。
これはもちろん役者も凄いが、引き出した演出も素晴らしい。

気迫の演技を見せる俳優陣の中でも、ソロモンを演じたキゥエテル・イジョフォー、本来裏方の人なれどソロモンと心を通じる奴隷女性パッツィー役の演技が絶賛され、オスカーに輝いたルピタ・ニョンゴ、内面にコンプレックスを抱えたサディスティックなキャラクターを演じたマイケル・ファスベンダーの三名は圧巻の名演。
特に原理主義的なキリスト教信仰を持ち、奴隷は人間ではないと自分に言い聞かせながらも、パッツイーに愛憎入り混じる歪んだ感情を抱くファスベンダーは本作の白眉だ。
対して、ソロモンを救い出す助けになるカナダ人大工を演じたブラッド・ピットは、大物過ぎる故に逆に作品世界から少し浮いていた。
特に彼でなければならない役でもないので、本作のプロデューサーでもあるピットとしては資金集めの為のサービス的な出演なのかもしれない。

ジャンル的には全く異なるが、賞レースを本作とにぎわせた「ゼロ・グラビティ」とはテーマ的に被る部分もある。
どちらも“信じがたい話”であり、絶体絶命な状況に陥った主人公が、孤独と戦いながら諦めずにサバイバルする物語で、そのベースの部分にあるのは、この世界は生きるに値する、生きろ!という生命への力強い肯定だ。
その意味で、本作は型破りでありながら政治性を過度に主張する事もなく、ハリウッドの娯楽映画の王道を外してはいない。
アカデミー賞を受賞した事は、決して驚くべき事ではないのだ。

しかし先日の「大統領の執事の涙」はもちろん、昨年の「リンカーン」「ジャンゴ」辺りも含め、ここ数年のアフロアメリカン史を描いた映画の充実は、やはりオバマ政権の成立と時代の空気と無関係ではないのだろう。
白人と奴隷との間に出来た子供の描写など、嘗てはタブーとされた内容も、以前よりも確実に自由に描ける様になった反面、まだまだ人種の壁は現在進行形の問題として残っている。
間も無く公開される「フルートベール駅で」は、2009年に無抵抗の黒人青年が警官に射殺された事件の映画化である。
もちろん、人種差別は何もアメリカに限った問題ではない。
鑑賞後の余韻にどっぷり浸って帰って来たところで、某サッカーチームのサポーターが掲げた驚愕の横断幕をネットで目にし、暗鬱たる気分になった。
アメリカは長い夜を経て夜明けに近付いているのかもしれないが、日本はこれから日が暮れてしまわない事を祈るばかりだ。

今回はソロモンが帰りたいと願った「ニューヨーク」の名を持つカクテルをチョイス。
ライ・ウィスキー45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1tspをシェイクしてグラスに注ぎ、スライスオレンジを添える。
ウィスキーと柑橘類は相性が良く、酸味と甘みをバランス良く楽しめる。
バーボンを使うレシピもあるが、ここは元々北東部の名産だったライを使いたい。
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ショートレビュー「ラヴレース・・・・・評価額1600円」
2014年03月10日 (月) | 編集 |
伝説の裏側で起こっていた事。

映画史上最も成功したハードコアポルノ、「ディープ・スロート」に主演したリンダ・ラヴレースの半生を描く物語。
平凡な少女は、如何にして時代を代表する性のアイコンとなったのか。
監督はドキュメンタリー作家として長いキャリアを持つ、ロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマン。
伝説のポルノスターをアマンダ・セイフライドが文字通り体を張って大熱演し、今までの優等生イメージから確実に一皮剥けた。

1972年に公開された「ディープ・スロート」の事は、たとえ観た事が無くてもタイトルは聞いたことがあるという人も多いだろう。
ストーリー物の劇場用ポルノとしては記録的な大ヒットを飛ばし、その存在は全米のみならず、世界的な社会現象を巻き起こした。
累計興行収入は実に6億ドルと、ハリウッド超大作も真っ青の数字を稼ぎ出している。
この作品で、なぜか喉の奥にクリトリスがある、という珍妙な設定の主人公を演じたのが本作のタイトルロールとなったリンダ・ラヴレース。
それまでの典型的ポルノスターと違って、何処にでもいそうな普通の娘、でも他の誰にも真似できないある“秘技”を持った彼女は、激動の60年代を経たアメリカにおいて、性の解放の象徴へと祭り上げられる。
しかし、その後世間から姿を消した彼女は、1980年になって突然、当時の熱狂の裏で起こっていた“本当の事”を暴露する自叙伝を発表するのである。

アンディ・ベリンの脚本は、その構成がユニークだ。
93分とコンパクトに纏まった物語の前半は、ごく普通の生活を送る少女リンダ・ボアマンが、後の夫であり、マネージャーとなるチャック・トレイナーと出会い、彼の経済的な苦境を助ける形で入ったポルノ業界で、サクセスストーリーの主役となるプロセスが描かれる。
女優になりたいという夢はあるものの、リンダの演技力は絶望的で、キャラクターに華も無い。
しかしそれが逆に新鮮に受け止められ、新進ポルノスター、“リンダ・ラヴレース”として売り出された彼女は、「ディープ・スロート」の大ヒットで瞬く間にスターダムを駆け上がる。
大劇場での上映会には、ハリウッドのセレブたちまで現れ、マリブの高級住宅地に暮らし、ロールスロイスを乗り回す華やかな毎日。
ここまでは、ポルノ業界という特殊性はあるものの、ありがちなアメリカンドリームの物語だ。

ところが、それから6年が経過した後半の冒頭で、リンダは出版社が用意したポリグラフテストを受けている。
自分の語る言葉が真実である事を証明するためだ。
ここから映画は、前半の時系列をトレースする形で、その“ビハインド・ザ・シーン”を暴いてゆくのである。
最初紳士的だったチャック・トレイナーは、実は超がつくダメ男で、サディストのDV夫。
暴力でリンダを支配し、欲望を満たす為に性技を仕込むと、自らの借金のカタに彼女をポルノに出演させる。
映画がヒットして金が入ると、全て独り占めして瞬く間に浪費し無一文に。
すると今度は、リンダを無理やり買春させて金を作ろうとするのである。
時代を作った華やかなムーブメントの裏側で、誰にも知られる事なく繰り広げられていた孤独な悲劇。
本作は、クズ男に惚れてしまった為に、“リンダ・ラヴレース”と言う虚構の殻に閉じ込められてしまった女性が、過去と向き合い、遂に自分の人生を取り戻すまでの物語だ。

同時に、これは業を背負った母娘の物語でもある。
私生児としてリンダを産んだ負い目ゆえ、厳しく娘を突き放してしまい、結果救えなかった母ドロシー(演じるは驚きのシャロン・ストーン!)と、ようやく地獄から這い上がりささやかな幸せを掴んだ娘に、和解が訪れるシーンは良かった。
しかしリンダの次のトレイナーの犠牲者が、マリリン・チェンバースだったとは驚きだ。
ああ言う極端なダメ男はなぜモテるのだろう??

今回は、喉が苦しい話なので、喉スッキリなスパークリング「グローヴ・ストリート プライベート・キュヴェ・スパークリングワイン」をチョイス。
ほんのり甘くて、柔らかな果実香りが細やかな泡と共に立ち上がる。
暖かくなってくると、こんなワインを持ってお花見も良いかもしれない。

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ホビット 竜に奪われた王国・・・・・評価額1700円
2014年03月06日 (木) | 編集 |
いよいよ“ドラゴンクエスト”へ!

J・R・R・トールキン原作による「指輪物語」、即ち映画史のエポックである「ロード・オブ・ザ・リング(LOTR)」三部作の前日譚、「ホビットの冒険」の第二作。
前作で結成された旅の仲間は、遂に邪悪な竜スマウグに占拠されたドワーフの地下王国、“はなれ山”への潜入を試みる。
熊人ビョルンや弓の名手バルドら原作ファンにはお馴染みの面々が続々と登場する一方、原作には出てこないレゴラスが、映画オリジナルキャラクターのタウリエルとコンビを組んで復活。
トールキン文学の純粋主義者には眉をひそめられそうだが、映画版のファンにはますます「LOTR」との一体感が感じられて、中つ国を巡る大冒険は話を知っていてもワクワクドキドキの連続だ。
例によって2時間41分という長尺だが、あっという間に終わってしまった。

オークの追撃を受けるトーリン(リチャード・アーミティッジ)ら旅の仲間は、闇の森を通り抜ける事を決意する。
しかしガンダルフ(イアン・マッケラン)は、南で勢力を高めている“死人占い師”の正体を探るために、別行動をとる事に。
魔法使いの庇護から離れたドワーフたちは、闇の森を統べるエルフの虜囚となってしまうが、ビルボ(マーティン・フリーマン)が指輪の力を使って救い出す。
多くのオークがドワーフを追っている事をいぶかしんだエルフの王子レゴラス(オーランド・ブルーム)とタウリエル(エヴァンジェリン・リリー)は、密かにトーリンらの後を追う。
そして、はなれ山の麓に広がる湖の町エスガロスに到達したトーリンたちは、スマウグとの因縁を持つバルド(ルーク・エバンス)の助けを得て、秘密の入り口からはなれ山内部へと侵入するのだが・・・


副題の「竜に奪われた王国」への改題は、まあ圧倒的多数を占めるであろう原作未読者を取り込むためには当然だろう。
原作通りの「スマウグの荒らし場」では、前作を観てなくて本も知らない人には何の事かさっぱり分からないだろうし。
一昨年の「思いがけない冒険」のレビューでも指摘したが、ピーター・ジャクソンは「指輪物語」に比べれば遥かにボリューム、スケールの小さな「ホビットの冒険」を映画化するにあたって、メインプロットの大筋を維持した上で、サブプロットの大幅な補完を行い、更に映画版「LOTR」の構成を踏襲する事で、新旧三部作の一体化を試みている。
そのスタンスは本作では更に加速。
本作にレゴラスが登場すると聞いた時は、てっきりゲスト出演的な扱いだろうと思っていたので、これほどガッツリと物語にくい込んでくるとは驚いた。
この調子だと、次回の完結編ではアラゴルンあたりが出てきても全然おかしくないだろう。
前作は、「LOTR」の第一作「旅の仲間」とほぼ同じ物語構造を持っていたが、さすがに今回は展開がだいぶ異なるので「二つの塔」のまんまという訳にはいかない。
もっとも、登場人物をいくつかのグループに分けて別行動させ、複数のストーリーラインが同時進行するのは「二つの塔」と同様の考え方だ。

大きな三幕構成の第二幕となる本作には、明確な主人公といえる人物がいない。
それぞれのストーリーラインで、中心となる登場人物たちが異なる葛藤を深めてゆく。
ドワーフたちの仲間と認められたビルボ・バギンズは、その絆が真実なのか否かをスマウグに問われ、疑心暗鬼に陥る。
トーリンは、いよいよはなれ山へと戻ってきた事で、財宝の魔力によって少しずつ心を蝕まれてゆく。
ガンダルフはもっと物理的に、強大な悪の力によって囚われの身となってしまう。
面白いのは、映画版オリジナルキャラクターであるタウリエルを軸とした、レゴラスとイケメンドワーフのキーリの微妙な三角関係である。
サブプロットを跨いだ葛藤が少なく、また原作には女性キャラクターが殆ど出てこず、情愛の要素が少ないだけに、これは長尺の中で効果的なアクセントとなっていると思う。

もちろん、壮大な世界観は、ずっと眺めていたくなるほど魅力的だ。
過去にも何度か書いたが、異世界を舞台とするハイファンタジーは、「ああ、この世界へ行ってみたい!」と観客に思わせたら、その時点で半分勝ち。
“中つ国”を舞台としたトールキンの作品群が他の多くのファンタジー作品と異なるのは、これが小説であるのと同時に、一つの大きな神話体系を形作るピースである事だ。
元々この世界観は、言語・文献学者であったトールキンが、英国には英語で書かれた神話体系が存在しない事から、ならば現在の世界へと繋がる神話を自分で創造してやろうと考えた事から生まれたといわれている。
「ホビットの冒険」から始まったトールキンの仕事は、「指輪物語」「シルマリルの物語」と広がり、物語中での時間経過が数万年にも及ぶ中つ国神話を書き上げるという生涯をかけた遠大な挑戦となる。

故に、この世界にはトールキン研究者の著作を含めて二次創作を行う時に必要な膨大な情報の蓄積があり、ピーター・ジャクソンと彼のチームが遺産を最大限生かし切った「LOTR」三部作は、その点で圧倒的であった。
ホビット、エルフ、人間、ドワーフ、そしてオークら悪の種族に至るまで、彼らの暮らす世界観は恐ろしく繊細に作り込まれ、ニュージーランドの実景をベースにした雄大な自然の情景はスクリーンに飛び込みたくなるくらいに魅惑的。
「LOTR」の大成功を受けて生まれたフォロワーのファンタジー大作の多くが、世界観の構築という段階で、オリジナルの壁を越えられないのはある意味では当然なのだ。
とはいえ、「LOTR」と「ホビット」では原作からして作品のカラーが異なる。

ピーター・ジャクソンは「LOTR」より緩めの作風に合わせて、同じ世界観を維持しつつもビジュアルのタッチをやや非リアル系へと振っている。
オークや巨大な獣たちなどの造形が着ぐるみチックだったり、舞台の質感などもあえてセットぽさを残してあったりするが、全体的にコミカルなタッチのアクションとはむしろ親和性が高い。
森のエルフから逃れる時の樽を使った激流下りなんてすごく楽しそうで、何年かしたら何処かのテーマパークでライドとして再現されていそうだ。
もちろん、非リアル系という方向性を定めた上で、隅々まで作り込まれているので安っぽさと言う言葉とは無縁である事は言うまでもない。
素晴らしいクオリティの世界観のビジュアルの中で、旅の仲間たちの冒険は正に危機また危機のつるべ打ちで、2時間41分の長さを全く意識する間も無く終了。
しかも「えええ!そこで切りますかあ‼︎」というくらい絶妙なところで“つづく”になってしまう。
配給会社には是非とも本国公開から間を開ける事無く、速やかな日本公開をお願いしたい!

今回はジンベースのカクテル、「グリーン・ドラゴン」をチョイス。
ドライジン35ml、クレーム・ド・ミント15ml、キュンメル5ml、レモンジュース5mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
キュンメルの独特の風味がアクセントとなり、スッキリと飲める一杯だ。
スマウグとは色違いだけど、鮮やかなグリーンのカラーも美しい。
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