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2014年03月30日 (日) | 編集 |
物語の裏側にあるもの。
あまりにも有名なディズニーのミュージカル映画、「メリー・ポピンズ」のビハインド・ザ・シーン。
魔法使いのナニー、メリー・ポピンズは、本当は誰を助けにやって来たのだろうか。
映画は子供の頃に何度も観たし、原作も読んだが、この話は全く知らなかった。
原作者のパメラ・L・トラヴァース夫人と、プロデューサーのウォルト・ディズニーの間に交わされた約束とは。
物語の裏に物語があり、更にその裏にも物語がある三重構造が形作る創作の連環。
これは人はなぜ物語るのか、作者にとって作品とは何なのかを描き出した、実に奥深い物語論であり作家論である。
創作に関わる全ての人は、スクリーンの中のどこかに自らを見出し、必ず心をかき乱されるだろう。
ジョン・リー・ハンコック監督は、見事に自身の最高傑作を作り上げた。
※核心部分に触れています。
1961年。
英国に住む作家のパメラ・L・トラヴァース(エマ・トンプソン)は、20年に渡ってオファーを受けていた「メリー・ポピンズ」の映画化を話し合うために、ハリウッドのディズニースタジオへと向かう。
しかし気難しいパメラの性格は、出迎えたディズニー(トム・ハンクス)らを困惑させる。
主演俳優からミュージカル化の案まで、ことごとくダメだしされ、作業は全く進まない。
どうしても契約書にサインさせたいディズニーは、パメラの他者を寄せ付けない頑なな心に何があるのか、彼女が作品に込めた想いを知ろうとする。
やがて「メリー・ポピンズ」の裏側に隠された、約半世紀前の彼女の幼少期の悲劇が浮かび上がってくる・・・
先日公開された「アナと雪の女王」の併映短編「ミッキーのミニー救出大作戦」は、モノクロスタンダードのクラッシックなアニメーションで始まる。
なんだ、1930年ごろの旧作かな?と思っていると、やがてキャラクターたちは3DCGとなってスクリーンを飛び出し、シネスコの画面の中に存在する劇場の、ビスタサイズのスクリーンの内と外で大騒動を繰り広げるのである。
この僅か6分ほどの短編の中に、スタンダードからビスタ、シネスコへ、そしてモノクロ手描きアニメからカラー3DCGへというディズニーアニメーションの歴史が内包されている訳だ。
カンザス出身のアニメーター、ウォルト・イライアス・ディズニーが兄のロイと共にアニメーション製作会社を興したのは1923年。
以来、会社形態の変遷はあるが一貫して自社製作によるアニメーション、実写映画を作り続けてきた。
また自らの作品及びキャラクターをブランド化して、製作から何十年経っても、その存在を生かし続けるというビジネスモデルを確立した人物でもあるのだ。
“ディズニープリンセス”と言えば1937年の白雪姫から最新のアナとエルサまで、一つのブランドイメージの歴史の中で繋がり、ミッキーマウスは1920年代末から一世紀近くが経過した現在に至るまでディズニーのシンボルであり続けている。
この強固なブランドと歴史の一体性を生かし、近年のディズニーは自らの遺産を上手く新たな創作に繋げている。
前記した「ミッキーのミニー救出大作戦」もそうだが、「アナと雪の女王」もディズニープリンセスの王道を踏襲しつつも、ある意味で過去へのアンチテーゼとして現代的な価値観を付与する事で、フレッシュなイメージを作り出していた。
またセルフパロディ化するギリギリの線で、ディズニー世界をメタ的に俯瞰した作品と言えば、アニメ世界のプリンセスが現実の世界にやって来る「魔法にかけられて」が記憶に新しい。
そして本作もまた、伝説化されたディズニーの豊かな歴史をモチーフとした物語である。
邦題は「ウォルト・ディズニーの約束」だが、主人公はウォルトではなくパメラ・L・トラヴァースだ。
映画はロンドンに暮らす彼女が、映画化の話し合いのためにハリウッドへ向かうところから始まる。
以降、「メリー・ポピンズ」の映画化準備を巡る顛末と、それより半世紀前のオーストラリアでの出来事が交互に描かれる。
最初のうち、二つの時系列の関係は明示されない。
オーストラリアの平原に家族と共に住んでいる想像力豊かな少女が、後のパメラであろう事は何となく示唆されるのだが、名前が違うのである。
もしこの少女がパメラなら、一体なぜ彼女は英国の作家パメラ・L・トラヴァースとなったのだろうか?
過去と現在、並行する二つの物語の間に横たわるミステリーによって、観客の興味をひきつける巧みな構成だ。
一方、1961年のハリウッドでは、あまりにも偏屈なパメラの態度に、ウォルトたちは困惑を深めるばかり。
パメラはアメリカ人など頭カラッポの金の亡者と決め付けているかのごとく、彼らの提案をことごとく却下する。
主演候補のディック・ヴァン・ダイクは気に入らない、ミュージカル化は論外、アニメ表現もダメ、挙句の果てには劇中に赤の色は使わせない。
ウォルトたちは、一体パメラが何を求めているのか、何が気に入らないかも分からず、20年越しの映画化企画は空中分解寸前となる。
ちなみに本作にも登場する作曲家のリチャード・シャーマンによると、本物のパメラはエマ・トンプソンが演じたキャラクターよりももっと辛らつで、映画はそれでもいくぶんマイルドに描写されているそうだが、序盤にはパメラは無理難題をまくし立てる意固地なおばさんにしか見えない。
だが中盤以降、二つの時系列の物語は徐々にその関連性を明らかにしてゆく。
オーストラリアで暮らすギンティと呼ばれる少女には、夢追い人ゆえに社会に馴染めず、アルコールで身を持ち崩した父親がいるが、彼のファーストネームこそがトラヴァースなのだ。
トラヴァースは仕事を首になり、病に倒れても酒を飲み続け、絶望した母親は自殺未遂する。
父親が大好きだったギンティが、幼い心に抱いた幾つものなぜ、そして父親の最期の願いを叶えられなかった小さな罪悪感。
孤独に傷ついた彼女は、やがて父の名をペンネームに作家パメラ・L・トラヴァースとなり、切なく悲しい思い出の断片から、珠玉の物語を生み出したのだ。
魔法使いのメリー・ポピンズは、ある日空の上からパラソルを手に降りてきて、厳格な父親に支配されたバンクス家のナニーとなる。
すると彼女は、魔法の力で一家を笑いの絶えない幸せな家庭に変えてしまい、皆の幸せを見届けると去ってゆく。
それは幼いギンティが、いや父のトラヴァースが熱望し叶えられなかった理想の家族の姿だ。
パメラにとっての創作とは、嘗て救えなかった自らの家族を、フィクションの中で救済する事によって、自分の心の傷と向き合う行為だったのである。
ディズニー側が作品を理解していないと思ったパメラは、こう言い放つ。
「メリー・ポピンズが子供たちを救いにやって来たですって?あきれた」
救われるべきは子供たちではなく、社会という牢獄に閉じ込められ、葛藤を抱えたかわいそうな父親、トラヴァースを投影したバンクス氏だ。
バンクス氏を救う事が、即ち子供たちを救う事にも繋がる。
それ故に本作の原題は、少々ネタバレ気味ながら「Saving Mr. Banks 」となっているのだ。
パメラとウォルト、一見すると全くタイプの違う二人は、しかしクリエイターとして内面に良く似た部分を持っており、ウォルトも本質的な部分で「メリー・ポピンズ」のテーマを理解している。
彼もまた厳格だった父イライアスの姿を原作のバンクス氏に見ており、二人の偉大なクリエイターは、同じキャラクターに違った角度からそれぞれの家族の物語を投影していたのだ。
クリエイターにとって、物語の種となる葛藤は常に自分の中にあり、だからこそ苦闘の末に生み出した物語は愛おしい。
パメラがメリー・ポピンズを“家族”と呼ぶ様ぶように、ウォルトにとっても映画のキャラクターは“家族”である。
若い頃に「しあわせウサギのオズワルド」の権利をユニバーサルに奪われた経験のあるウォルトは、愛するキャラクターを汚されるのではないかというパメラの心痛が良く分かるのだ。
基本的に観客の視点はウォルトに置かれているので、二人の心が溶け合ってゆくにつれて、意固地なおばさんという表層的なキャラクターだったパメラが、どんどんと人間的に見えてくる。
ハリウッドでの彼女の専属運転手との泣かせるエピソードなどサブプロットも上手く機能し、観客はいつの間にかパメラにどっぷり感情移入している事に気付くだろう。
脚本のケリー・マーセルとスー・スミスによる作劇の妙は物語の細部にまで行き渡り、実に見事である。
それにしても、夢いっぱいの映画の裏に、こんな悲しい物語が秘められていたとは。
もともとの原作ファンに言わせると映画版のメリー・ポピンズ像は違和感があるそうだが、私は子供の頃にテレビで映画を観て、後から原作を読んだパターンなので、メリー・ポピンズはやはりジュリー・アンドリュースの印象が強い。
結果的に原作とかなり違ったイメージの作品となったが、なるほど本作の邦題通り、ウォルトは作品のコアな部分、物語のテーマの部分はきっちりと守ったというわけだ。
なんだか次に「メリー・ポピンズ」を観るときには、この映画の事を思い出して、楽しいシーンで泣いてしまいそうな気がするよ。
今回は物語の故郷、オーストラリアでモエ・エ・シャンドンが設立したドメーヌ・シャンドンが生産する「シャンドン・ブリュット・ロゼ」をチョイス。
シャンパンの名は名乗れないが、味わいはフランス産のものにもさほど劣らず、むしろコストパフォーマンスの高さがうれしい。
きめ細かい泡の感覚と、フルーティな香りが楽しめる華やかなスパークリングだ。
ピンクのラベルもどこか映画版の「メリー・ポピンズ」っぽい?
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あまりにも有名なディズニーのミュージカル映画、「メリー・ポピンズ」のビハインド・ザ・シーン。
魔法使いのナニー、メリー・ポピンズは、本当は誰を助けにやって来たのだろうか。
映画は子供の頃に何度も観たし、原作も読んだが、この話は全く知らなかった。
原作者のパメラ・L・トラヴァース夫人と、プロデューサーのウォルト・ディズニーの間に交わされた約束とは。
物語の裏に物語があり、更にその裏にも物語がある三重構造が形作る創作の連環。
これは人はなぜ物語るのか、作者にとって作品とは何なのかを描き出した、実に奥深い物語論であり作家論である。
創作に関わる全ての人は、スクリーンの中のどこかに自らを見出し、必ず心をかき乱されるだろう。
ジョン・リー・ハンコック監督は、見事に自身の最高傑作を作り上げた。
※核心部分に触れています。
1961年。
英国に住む作家のパメラ・L・トラヴァース(エマ・トンプソン)は、20年に渡ってオファーを受けていた「メリー・ポピンズ」の映画化を話し合うために、ハリウッドのディズニースタジオへと向かう。
しかし気難しいパメラの性格は、出迎えたディズニー(トム・ハンクス)らを困惑させる。
主演俳優からミュージカル化の案まで、ことごとくダメだしされ、作業は全く進まない。
どうしても契約書にサインさせたいディズニーは、パメラの他者を寄せ付けない頑なな心に何があるのか、彼女が作品に込めた想いを知ろうとする。
やがて「メリー・ポピンズ」の裏側に隠された、約半世紀前の彼女の幼少期の悲劇が浮かび上がってくる・・・
先日公開された「アナと雪の女王」の併映短編「ミッキーのミニー救出大作戦」は、モノクロスタンダードのクラッシックなアニメーションで始まる。
なんだ、1930年ごろの旧作かな?と思っていると、やがてキャラクターたちは3DCGとなってスクリーンを飛び出し、シネスコの画面の中に存在する劇場の、ビスタサイズのスクリーンの内と外で大騒動を繰り広げるのである。
この僅か6分ほどの短編の中に、スタンダードからビスタ、シネスコへ、そしてモノクロ手描きアニメからカラー3DCGへというディズニーアニメーションの歴史が内包されている訳だ。
カンザス出身のアニメーター、ウォルト・イライアス・ディズニーが兄のロイと共にアニメーション製作会社を興したのは1923年。
以来、会社形態の変遷はあるが一貫して自社製作によるアニメーション、実写映画を作り続けてきた。
また自らの作品及びキャラクターをブランド化して、製作から何十年経っても、その存在を生かし続けるというビジネスモデルを確立した人物でもあるのだ。
“ディズニープリンセス”と言えば1937年の白雪姫から最新のアナとエルサまで、一つのブランドイメージの歴史の中で繋がり、ミッキーマウスは1920年代末から一世紀近くが経過した現在に至るまでディズニーのシンボルであり続けている。
この強固なブランドと歴史の一体性を生かし、近年のディズニーは自らの遺産を上手く新たな創作に繋げている。
前記した「ミッキーのミニー救出大作戦」もそうだが、「アナと雪の女王」もディズニープリンセスの王道を踏襲しつつも、ある意味で過去へのアンチテーゼとして現代的な価値観を付与する事で、フレッシュなイメージを作り出していた。
またセルフパロディ化するギリギリの線で、ディズニー世界をメタ的に俯瞰した作品と言えば、アニメ世界のプリンセスが現実の世界にやって来る「魔法にかけられて」が記憶に新しい。
そして本作もまた、伝説化されたディズニーの豊かな歴史をモチーフとした物語である。
邦題は「ウォルト・ディズニーの約束」だが、主人公はウォルトではなくパメラ・L・トラヴァースだ。
映画はロンドンに暮らす彼女が、映画化の話し合いのためにハリウッドへ向かうところから始まる。
以降、「メリー・ポピンズ」の映画化準備を巡る顛末と、それより半世紀前のオーストラリアでの出来事が交互に描かれる。
最初のうち、二つの時系列の関係は明示されない。
オーストラリアの平原に家族と共に住んでいる想像力豊かな少女が、後のパメラであろう事は何となく示唆されるのだが、名前が違うのである。
もしこの少女がパメラなら、一体なぜ彼女は英国の作家パメラ・L・トラヴァースとなったのだろうか?
過去と現在、並行する二つの物語の間に横たわるミステリーによって、観客の興味をひきつける巧みな構成だ。
一方、1961年のハリウッドでは、あまりにも偏屈なパメラの態度に、ウォルトたちは困惑を深めるばかり。
パメラはアメリカ人など頭カラッポの金の亡者と決め付けているかのごとく、彼らの提案をことごとく却下する。
主演候補のディック・ヴァン・ダイクは気に入らない、ミュージカル化は論外、アニメ表現もダメ、挙句の果てには劇中に赤の色は使わせない。
ウォルトたちは、一体パメラが何を求めているのか、何が気に入らないかも分からず、20年越しの映画化企画は空中分解寸前となる。
ちなみに本作にも登場する作曲家のリチャード・シャーマンによると、本物のパメラはエマ・トンプソンが演じたキャラクターよりももっと辛らつで、映画はそれでもいくぶんマイルドに描写されているそうだが、序盤にはパメラは無理難題をまくし立てる意固地なおばさんにしか見えない。
だが中盤以降、二つの時系列の物語は徐々にその関連性を明らかにしてゆく。
オーストラリアで暮らすギンティと呼ばれる少女には、夢追い人ゆえに社会に馴染めず、アルコールで身を持ち崩した父親がいるが、彼のファーストネームこそがトラヴァースなのだ。
トラヴァースは仕事を首になり、病に倒れても酒を飲み続け、絶望した母親は自殺未遂する。
父親が大好きだったギンティが、幼い心に抱いた幾つものなぜ、そして父親の最期の願いを叶えられなかった小さな罪悪感。
孤独に傷ついた彼女は、やがて父の名をペンネームに作家パメラ・L・トラヴァースとなり、切なく悲しい思い出の断片から、珠玉の物語を生み出したのだ。
魔法使いのメリー・ポピンズは、ある日空の上からパラソルを手に降りてきて、厳格な父親に支配されたバンクス家のナニーとなる。
すると彼女は、魔法の力で一家を笑いの絶えない幸せな家庭に変えてしまい、皆の幸せを見届けると去ってゆく。
それは幼いギンティが、いや父のトラヴァースが熱望し叶えられなかった理想の家族の姿だ。
パメラにとっての創作とは、嘗て救えなかった自らの家族を、フィクションの中で救済する事によって、自分の心の傷と向き合う行為だったのである。
ディズニー側が作品を理解していないと思ったパメラは、こう言い放つ。
「メリー・ポピンズが子供たちを救いにやって来たですって?あきれた」
救われるべきは子供たちではなく、社会という牢獄に閉じ込められ、葛藤を抱えたかわいそうな父親、トラヴァースを投影したバンクス氏だ。
バンクス氏を救う事が、即ち子供たちを救う事にも繋がる。
それ故に本作の原題は、少々ネタバレ気味ながら「Saving Mr. Banks 」となっているのだ。
パメラとウォルト、一見すると全くタイプの違う二人は、しかしクリエイターとして内面に良く似た部分を持っており、ウォルトも本質的な部分で「メリー・ポピンズ」のテーマを理解している。
彼もまた厳格だった父イライアスの姿を原作のバンクス氏に見ており、二人の偉大なクリエイターは、同じキャラクターに違った角度からそれぞれの家族の物語を投影していたのだ。
クリエイターにとって、物語の種となる葛藤は常に自分の中にあり、だからこそ苦闘の末に生み出した物語は愛おしい。
パメラがメリー・ポピンズを“家族”と呼ぶ様ぶように、ウォルトにとっても映画のキャラクターは“家族”である。
若い頃に「しあわせウサギのオズワルド」の権利をユニバーサルに奪われた経験のあるウォルトは、愛するキャラクターを汚されるのではないかというパメラの心痛が良く分かるのだ。
基本的に観客の視点はウォルトに置かれているので、二人の心が溶け合ってゆくにつれて、意固地なおばさんという表層的なキャラクターだったパメラが、どんどんと人間的に見えてくる。
ハリウッドでの彼女の専属運転手との泣かせるエピソードなどサブプロットも上手く機能し、観客はいつの間にかパメラにどっぷり感情移入している事に気付くだろう。
脚本のケリー・マーセルとスー・スミスによる作劇の妙は物語の細部にまで行き渡り、実に見事である。
それにしても、夢いっぱいの映画の裏に、こんな悲しい物語が秘められていたとは。
もともとの原作ファンに言わせると映画版のメリー・ポピンズ像は違和感があるそうだが、私は子供の頃にテレビで映画を観て、後から原作を読んだパターンなので、メリー・ポピンズはやはりジュリー・アンドリュースの印象が強い。
結果的に原作とかなり違ったイメージの作品となったが、なるほど本作の邦題通り、ウォルトは作品のコアな部分、物語のテーマの部分はきっちりと守ったというわけだ。
なんだか次に「メリー・ポピンズ」を観るときには、この映画の事を思い出して、楽しいシーンで泣いてしまいそうな気がするよ。
今回は物語の故郷、オーストラリアでモエ・エ・シャンドンが設立したドメーヌ・シャンドンが生産する「シャンドン・ブリュット・ロゼ」をチョイス。
シャンパンの名は名乗れないが、味わいはフランス産のものにもさほど劣らず、むしろコストパフォーマンスの高さがうれしい。
きめ細かい泡の感覚と、フルーティな香りが楽しめる華やかなスパークリングだ。
ピンクのラベルもどこか映画版の「メリー・ポピンズ」っぽい?

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