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アデル、ブルーは熱い色・・・・・評価額1700円
2014年04月09日 (水) | 編集 |
さらば、青春のブルー。

平凡な高校生アデルが、青い髪の美大生エマと出会い、人生を変える情熱的な愛を知る鮮烈なファースト・ラブ・ストーリー
ジュリー・マロのバンデシネ「ブルーは熱い色」を原作に、鬼才アブデラティフ・ケシシュ監督が、人を想い愛する事の喜びと痛みを、赤裸々な性愛描写と共に描く。
昨年のカンヌ国際映画祭で、最高賞のパルム・ドールが史上初めて監督と二人の主演女優の三人に贈られたことでも話題となった。
愛の葛藤に寄り添う濃密なる3時間、ヘビーだが見応えは十分だ。
※映画・原作の核心部分に触れています

高校生のアデル(アデル・エグザルコプロス)は、街で見かけた青い髪の女性に心惹かれる。
上級生のボーイフレンドとの付き合いが破局し、好奇心から友人と同性愛者の集まる街の一角へと出かけたアデルは、そこで偶然青い髪の女性と再会。
エマ(レア・セドゥ)と名乗った彼女と、不思議な絆を感じたアデルは、急速に接近する。
やがてアデルの内側に芽生えた抑えがたい熱情。
二人はキスを交わし、エマのアパートで激しく求め合う。
数年後、教師となったアデルは、画家として将来を嘱望されるエマのモデルをしながらパートナーとして共に暮らしている。
しかし二人が友人たちを招いたパーティの席上、アデルはエマと親しげに話す画家仲間のリーズとの仲を疑い始めるが・・・・


先に原作のバンデシネを読んでいたので、映画には良い意味で驚かされた。
原作ではクレモンティーヌ(クレム)という主人公の名前が、なぜか映画ではアデルに変わっているのだが、その理由も観て納得。
主人公が青い髪のファムファタール、エマと出会い、自らの内面から湧き上がる性の衝動に苦悩する前半部分は比較的忠実、しかし成人した二人を描く後半部分から、映画は原作から大きく離れてゆく。
自らもレズビアンであるというジュリー・マロのバンデシネは、15歳の頃からクレムが書き続けた日記を後年にエマが読むという形式で語られ、同性愛を巡る青春の葛藤にページ数のおおよそ5/6が費やされている。
大人になった二人を描くごく短い終盤で、クレムの浮気から二人が破局するのは映画と共通だが、その後精神を崩壊させて薬物依存となったクレムは、若くして帰らぬ人となり、自らの喪失によって愛の永続性を証明するのだ。
ケシシュは、この21世紀版「ベティ・ブルー」的な物語の精神性を大きく変更し、原作と映画の主人公はいわばパラレルワールドの様に、全く別の道へと進んでゆく。
出発点は同じでも、映画のアデルと原作のクレムは、物語の終わりには名前の通りに別人となっているのである。

幼さを残す顔立ちにいつも半開きの口元、自分と同名のアデルを演じるアデル・ エグザルコプロスが素晴らしい。
執拗なまでのクローズアップの連続で、ケシシュは彼女の内面を覗き込む。
ホモとヘテロ、エリートと大衆、リベラルと保守、アデルの人生には幾つもの対立構造が配置されており、彼女はエマと出会ってしまった事で次々と障壁にぶつかり、葛藤を深めてゆく。
またこのキャラクター、とにかく良く食べて、良く寝るのだが、この二つのシチュエーションは、アデルという人物を描写する上で重要な要素となっている。
例えばアデルの家では、いつも安価なパスタ(しかも大量)ばかりを食べているが、対照的に彼女がエマの実家に招かれたとき、用意されていたのはフレッシュな牡蠣と白ワイン。
牡蠣はもとより甲殻類も苦手だというアデルだが、要するに比較的低所得な彼女の家では高価な海の幸は供されないので食わず嫌いなのである。
パスタと牡蠣は二人の育った環境と文化の格差を表現するだけでなく、そのまま二人の性愛のメタファーともなっている複合性もユニーク。
そして葛藤した後には、アデルは必ずといって良いほど爆睡する。
まことに、生物として正しい生き方である(笑
前評判の高かったハードな性描写は確かに長いし印象的だが、それだけが突出しないのは、本作がセックスとは日々の日常、食べて、寝るのと同じく生きる事の一部である事をしっかり抑えているからだ。

映画版では、アデルの高校時代は前半で終了し、後半は数年が経過し社会人となった二人が同居している所から始まる。
自分の中の同性愛的衝動を認めるか否かという十代の葛藤は原作とは相対的に希薄化し、変わってフォーカスされるのは、アデルの心に吹き荒れる愛の嵐だ。
前半では初恋の熱情によって掻き消されていた二人の見ている世界の違いは、やがて大人になったアデルの心をかき乱し、引き裂いてゆくのである。
志望どおり教師となった彼女は、地に足をつけた堅実な人生を歩んでおり、同性愛者である事も職場には隠している。
一方、新進画家として大切な時期にさしかかっているエマは、嘗てアデルが心惹かれた青く染めた髪も地の色に戻し、成功へとまい進している。
自宅のパーティに業界の友人たちを招き、アデルが腕によりをかけた料理(やっぱりパスタ!)を振舞うのも、将来に向けた人脈を確保するためで、作業と称して家に戻らない事も多い。
エマの世界は華やかに大きく広がりつつあり、アデルは彼女に置いて行かれる様な不安を感じているのである。
アデルに文章の才を見出しているエマは、物語を書くことを薦めているが、アデルにとっては“そっち側”には今一歩踏み込む事が出来ないのだ。

そして、必然的にやってくる破局。
この映画を端的に言えば、アデルの狂おしくも色褪せないあまりに長い初恋、その始まりから終わりまでを描いた愛のクロニクル
エマに振り向いてもらえない寂しさに、男性との浮気に走った事によって、二人の生活は終わりを告げる。
しかし青春を捧げたエマに拒絶されたアデルは、そう簡単に割り切る事が出来ない。
ここで原作のクレムは、薬に頼りながら二人で暮らした過去に留まり、自らの死をもって時間の環を閉じる。
クレムにとってエマのもたらしたブルーの衝撃は青春の、いや人生の全てであり、彼女は初恋に生きて初恋に死んだのだ。
しかし、映画のアデルはそうではない。
破局から更に数年後、彼女は画家として成功したエマに招かれ、彼女の個展を訪れるのだが、その時に彼女が身にまとっているのは鮮やかなブルーの服である。
人生の転機となり、全ての情愛を捧げたブルー、しかし嘗てのパートナーはその色に特に大きく反応する事はない。
エマによって火をつけられ、今も自らの中に静かに燃える青い炎を抱えたまま、アデルは遂に時の環を脱して、初恋を過去のものとするのである。
なるほど青春の象徴であるブルーを、原作とは違う意味付けで使ったオチがまこと秀逸で、思わず唸った。
同性愛をモチーフとしてはいるものの、本作で描かれている事は、苦しくて切なくて、そしてあとから思い出すとちょっとだけ気恥ずかしくもある普遍的な初恋の情景。
ケシシュは、3時間の濃密な映画的時間を通して、観客の心に秘められた人を愛する事の痛みを呼び起こすのである。

ところで、原作と映画で主人公の名前が違うのは前記した通りだが、映画版の主人公の名前が“アデル”なのはもしかしたらケシシュからフランソワ・トリュフォーへのオマージュなのではないだろうか。
トリュフォーの「アデルの恋の物語」の主人公も、あまりにも一途に初恋を追い求め、精神のバランスを失ってしまう悲しき女性であった。
そしてこれまた原作とは異なる本作の原題「La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2(アデルの人生 第一章と第二章)」 と、「アデルの恋の物語」の原題「L'Histoire d'Adèle H (アデル・Hの人生)」もどこか共通しているではないか。
ラストのクール&ウェットな情感も、トリュフォーっぽく感じたのは、たぶん私だけではないと思うのだけど。

今回は青春のブルーに乾杯!ということで、海の様に青いフランスのスパークリング「ラ・ヴァーグ・ブルー」をチョイス。
青は聖母マリアのシンボルカラーである事から、縁起物として結婚式などのパーティでよく供されるブルースパークリング。
ソーヴィニヨン・ブランで作られるこちらは、やや辛口で口当たりも良く、柑橘系の爽やかな香りと適度な酸味を持ち、アペリティフとしても料理に合わせても美味しくいただける。
透明感のある美しいブルーは、見ているだけで涼しい気分にさせてくれるだろう。

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