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野のなななのか・・・・・評価額1750円
2014年05月27日 (火) | 編集 |
大林宣彦の、シネマティック・ワンダーランド第2章。

「この空の花-長岡花火物語」の新潟県長岡から、北海道の芦別へ。
街が持つ遠大な歴史と、そこに住む人々の記憶を巡る、壮大な映像クロニクルの幕が再び開く。
一人の老医師の死から始まる物語は、一気に時をさかのぼり、第二次世界大戦の忘れられた樺太の戦いから、衰退した芦別炭鉱のなりたち、そして3.11後のまだ見ぬ未来へと疾走する。
この世界では、前作同様に時間も空間も、生と死も、現実と虚構の壁も意味を失い、脈々と受け継がれる生命の循環の中に飲み込まれる。
元祖映像の魔術師による、もやは“映画”の概念すら超越した、超パワフルで神秘的な映像体験。
濃密なる2時間51分は、まったく長さを感じさせない。

3月11日14時46分、北海道芦別。
地元の歴史を集めた古物商、“星降る文化堂”を営んでいる92歳の元医師、鈴木光男(品川徹)は、看護師をしている孫のカンナ(寺島咲)や82歳の妹・英子(左時枝)らに看取られて死去。
光男の二人の息子は既に他界しており、孫たちが葬儀のために集まってくる。
長男の長男で大学教授の冬樹(村田雄浩)、その娘のかさね(山崎紘菜)、次男で泊原発職員の春彦(重松豊)と妻の節子(柴山智加)。
星降る文化堂で光男と暮らしていた次男の娘のカンナには、自由人の兄・秋人(窪塚俊介)がいる。
そして突然現れた謎めいた女・信子(常盤貴子)。
彼女の持つ一冊の詩集によって浮かび上がる、1945年8月に光男が樺太で体験した出来事。
はたして信子は何者なのか、光男の記憶の中の少女・綾野(安達祐実)との関係は・・・・?


常盤貴子が演じる信子は、光男の臨終に駆けつけるとこう言う。
「まだ、間に合いましたか?」
この台詞はもちろん、「この空の花」の「まだ、戦争には間に合う」を受けたものだろう。
実際には本作の方が先に企画されていたそうだが、AKB48のPVとして作られた「So Long ! THE MOVIE」を実質的な第1.5章として間にはさみ、3.11と戦争の記憶にリンクした姉妹編となった。
例によって情報量は凄まじく、この作品の魅力を言葉にするのはとても難しい。
舞台となるのは、嘗て炭鉱で栄えた芦別。
映画は、医師としてこの街に長年暮らしてきた鈴木光男の大往生から始まり、死者の魂が生と死の境界にいる“なななのか(四十九日)”の間、人々は時空を巡る旅に出るのである。

外連味たっぷりの映像に圧倒された前作と比べると、本作の画作りはおとなしく思えるが、その代わりに押し寄せるのは膨大な台詞による言葉の洪水だ。
大林監督は、本作と「この空の花」を“シネマ・ゲルニカ”と呼んでいるそうだ。
言うまでもなく、ゲルニカとはパブロ・ピカソがナチスドイツのスペインのゲルニカ爆撃に抗議するために描いた、キュビズム表現の極致ともいえる傑作である。
無差別爆撃によって人々が殺戮された悲劇、しかしそれをそのまま写実的に描写したとしても、いつかは風化し、忘れ去られてしまう。
ところが、キュビズムによるカリカチュカという他には無い創造性を加える事によって、ゲルニカは70年以上が経過した今もなお、人々の心を捉えて離さない。
方法論は、なるほど同じだ。
本作も「この空の花」も、モチーフは戦争、震災、原発と徹底的にリアルだが、そのものは描写しない。
戦争を描きながら戦いの描写はなく、原発の問題を提起しながら福島のそれはワンカットも画面に映らないのである。
かわりに映画は、繰り返し、繰り返し、観客に働きかける。
さあ、想像せよ、と。

デジタルでの映画制作の究極を目指したという本作のチームには、驚くべき事に照明部が存在しないという。
フィルムでは撮影する事の出来ない闇の中でも、デジタルなら微かな光を捉えられる。
ならばいっそ照明をやめてしまい、そのことによって生まれる新たなる可能性を引き出せばいい。
監督曰く「フィルムで出来る事は、決してデジタルでは出来ない」。ならば、「デジタルで出来る事は、決してフィルムでは出来ぬ」。
齢76歳にして、なんというチャレンジャー。
過去100年以上にわたって蓄積された、“映画たるもの”という既成概念の呪縛から逃れ、新たなツールを使い倒すことで生まれた即興性と未見性。
生者が、死者が、その思いのたけを語りつくす異色の時空間は、さらに極端に刈り込まれた編集の間合いによって加速し、観客はおのずと置いて行かれまいとして作品に巻き込まれ、この奇妙なワンダーランドの一員となる。

そこで体感するのは映像の外連味を封じ、言葉が作り出すイマジネーションのエコーと、数々象徴的アイコンが作り出す時空の連鎖。
中原中也の詩集と、光男の油絵、そして午後2時46分で止まった時計が、1945年8月と2011年3月を結ぶ。
玉音放送が流れた8月15日に、すべてが終わった訳ではない。
ソ連軍の侵攻した樺太では、8月25日まで戦闘が続き、軍民5000人を超える犠牲を出した。
若き光男と彼の愛した綾野は、炭鉱労働者として多くの芦別出身者が移住していた戦火の樺太へ、友を探すために渡ったのである。
2時46分は、戦いに巻き込まれた綾野が非業の死を遂げ、66年後に東日本大震災が起こった時間。
やがて綾野の魂を受け継いだ信子を媒介に途切れた記憶が受け継がれ、光男のなななのかが終わったとき、時計は再び時を刻み始めるのだ。
ただ観るのではなく参加し、主体的に想像する。
映画はスクリーンを飛び出して、観客一人ひとりが自分の心の中で完成させるという事を、本作ほどはっきりと感じさせてくれる作品が過去にあったか。

抑制された映像表現の中でも、印象的なショットは多い。
映画の幕開けから出現し、音楽を奏でる妖怪チックな“野の楽師”は、14人編成のバンド、パスカルズ。
時に原野を、時に廃墟を歩き続ける楽団は、過去と現代とを繋ぐ時の精霊なのだろうか。
そして血を流す肖像や真っ赤な空のイメージは、大林監督の長編デビュー作「HOUSE ハウス」を思わせる。
思えばあの映画も、ポップなホラー映画の装いながら、その背景には戦争で愛する人を亡くした女性の悲しい運命の物語があり、37年を経て自身の映画的記憶の原点に回帰したとも捉えられるだろう。
坊さん一家の楽屋オチ的ネーミングネタも、長年観続けているファンへ向けた遊び心か。

人は生きている限り誰かと繋がり、その誰かもまた別の誰かと繋がってゆく。
映画は、芦別に暮らす一族の歴史と記憶を、循環する大いなる生命の物語へと昇華させる。
鈴木家の中で一番若いのは、山崎紘菜演じるかさね。
“かさね=重ね”であり、彼女の中には他の登場人物すべての記憶と想いが重なりあって、いつか彼女自身の記憶も重ねて、また次なる世代へと受け渡してゆくのだろう。
そして、映画もまた同じである。
冒頭に紹介されるように、本作は嘗て大林映画に憧れ、1993年に故郷の芦別に“星の降る里・芦別映画学校”を立ち上げたものの、志半ばで病に倒れた故・鈴木評詞さんの想いに、大林監督らが20年越しの歳月をかけて応えたものだ。
誰かに繋がった作り手が、その意思を受け継いで映画を世に出し、今度は観た私たちの中に重なって、いつかまた誰かに繋がってゆく。
ああ、映画とは永遠の命をもった、一つの生き物なのだな!

北海道の物語という事で、芦別からもほど近い滝川市の金滴酒造の「金滴 北の純米酒」をチョイス。
地元産の酒米“吟風”を使用し、典型的なちょい辛のど越しスッキリ系に仕上がった。
お米の旨味は程よく感じ、吟醸香も心地よいが、クセはなくシチュエーションを選ばずに楽しめる。
ぬる燗くらいの温度でも美味しく飲めるが、これからは北海道も冷酒が気持ちいい季節かな。
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ショートレビュー「ブルージャスミン・・・・・評価額1650円」
2014年05月23日 (金) | 編集 |
ジャスミンは夜、密かに咲く。

ここしばらくのヨーロッパ観光地巡りに飽きたのか、久々に母国へ戻ってきたウッディ・アレンの、ビターでアイロニカルなヒューマンドラマ。
今回アレン翁の俎上にあげられるのは、21世紀に入ってから加熱する一方のアメリカのセレブカルチャーだ。
主人公のジャスミンは、ニューヨークでの金満セレブ生活から転落、一文無しとなってサンフランシスコに住む妹のジンジャーのアパートへと転がり込む。
ところが、贅沢三昧が体に染み付いた彼女は、どうしても過去の栄光から逃れる事が出来ないのである。

この映画では、アレンの拠点でもあるニューヨークは、いわば虚飾を象徴する街として描かれる。
ジャスミンの夫のハルは大富豪だが、莫大な資産の中身はというと、投資詐欺を繰り返して得た他人の金。
巧みなマネーロンダリングによって司法の追及を免れてきたものの、要するに本来あるはずの無いあぶく銭に過ぎない。
その事には、ジャスミンもある程度気付いているのだが、彼女は夫の犯罪に見て見ぬふりをする事で自分を騙し、ニセモノの豊かさを享受する。
彼女にとっては、現実だろうが虚構だろうが、煌びやかなセレブ生活を送ることが出来ればそれで良いのだ。
何しろジャスミンという名前すら、本名のジャネットが“平凡すぎる”という理由で改名した程の、虚栄心の塊である。

対して大陸の反対側、妹たちの暮らすサンフランシスコは、人生の現実が見える街だ。
ジンジャーとその元夫や恋人たちも、決して裕福ではなく、それぞれに問題も抱えてはいるが、地に足をつけ堅実に歩んでいる。
この街にやって来たジャスミンも、最初は地道に生活を再建しようとするものの、やがて彼女は手っ取り早くセレブ生活に戻るために、またしてもウソにウソを重ねて他人の金を当てにし始めるのだ。
もちろん、懲りない女の下り坂にブレーキがかかるはずも無く、彼女の人生は完全破綻に向かって一直線。

ジャスミンの別名は、夜の女王
インドには、この花にまつわる悲しい伝説があるという。
古の王国の王女パーリジャータカは、太陽神の寵愛を受けていた。
だがしいつしか、太陽神は他の娘に心移りし、忘れ去られた王女は絶望のあまり自殺してしまう。
すると彼女のお墓からは、太陽神のいない夜の間だけ咲き、朝になると散ってしまうジャスミンが生えてきたのだとか。
まさしく、ジャスミンにとって望むものを何でも与えてくれる夫のハルは太陽であった。
そして伝説通り彼は浮気し、捨てられそうになった彼女は自ら全てを破壊してしまう。
しかし、ずっと虚構の人生を生きてきたジャスミンは、結局最後まで現実を見つめ、素の自分自身と向き合うことができなかった。
リアルな世界に居場所を見つけられない彼女が、全てを拒絶して最後に閉じこもるのは、自分の心の中しか無かったのである。

アレン作品には初出演のケイト・ブランシェットが、ネガティブオーラ全開でタイトルロールを演じ、圧巻の存在感。
いつもの優美さはセレブリティとしての取り繕った仮面に生かし、その実思い通りにならない現実への恨みのこもった目の演技は完全にイッちゃっててコワイ。
初のアカデミー主演女優賞という勲章も、納得の名演だ。

もの悲しくも少し可笑しいラストには、何となく既視感を覚える。
考えてみると、この映画の面白さとは、例えばワイドショーでスターや著名人のスキャンダルや転落人生を見るのに近いのではないか。
他人の不幸を消費して、楽しんでいる私たちにもまた、アレン翁の皮肉っぽい視線は注がれているのかも知れない。

今回は庶民でも飲めるロバート・モンダヴィ傘下の「ウッドブリッジ シャルドネ」を。
洋梨やリンゴ、オレンジ系のフルーティで爽やかな香り、味わいは口当たり良く、スッキリとしつつ余韻はしっかりと感じられる。
何よりもこのクオリティで1000円を切るコスパは、貧乏人の財布に優しい。
気取らない家飲みワインにピッタリだ。
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ショートレビュー「朽ちた手押し車・・・・・評価額1600円」
2014年05月20日 (火) | 編集 |
昭和からの遺言。

「朽ちた手押し車」は、昨年の四月に90歳で亡くなった三國連太郎の唯一の未公開作として、映画ファンの間ではその存在が知られていた作品だ。
広島で開催されているいわゆるお蔵入り映画を集めた、その名も“お蔵出し映画祭”にて、グランプリと観客賞の二冠を達成し、製作から実に30年を経過してようやく日の目を見る事になった。
日本海の漁村を舞台に描かれるある一家の物語は、一世代も前に作られたとは思えないほどに21世紀の日本に響く。

実質的な主人公は田村高廣演じる漁師の忠雄だ。
彼の家には認知症の父・源吾がいて、夜毎の徘徊や異様な食欲によって家族を困らせている。
源吾の心のよりどころは長年連れ添った妻のトミなのだが、今度は彼女が病に倒れ、余命半年を宣告されてしまう。
病気の苦しさのあまり、楽にしてほしいと訴えるトミに、長年両親の苦労を見てきた忠雄は、激しく苦悶せざるを得ない。
老夫婦を演じる三國連太郎と初井言榮が凄い。
撮影当時は61歳と55歳だが、二人とも20歳は年長に見える。
三國連太郎の老化メイクには毎日二時間以上かかったそうだが、執念の役作りは圧倒的な説得力となってスクリーンに結実している。

映画が作られた1984年は、バブル前夜のイケイケの時代
当時は日本の人口ピラミッドもまだ若年層が多く、大都市のベットタウンには生徒数が千を軽く超えるマンモス小中学校も珍しくなかった。
そんな時代に高齢者を抱えた家族という地味な題材を扱った本作は、残念ながら時代にフィットしなかったのだろう。
製作時に配給が決まっていなかった事もあり、積極的に公開しようという劇場も見つからず、結果的にお蔵入り。
しかし、それから長い歳月が経ち、日本は人口の4人に一人が65歳以上という世界でも類を見ない超高齢化社会となった。
老人介護、安楽死といったモチーフと、家族の予期せぬ状況に直面した登場人物の葛藤は、鋭く現代日本に突き刺さる。

タイトルの「朽ちた手押し車」は、劇中で初井言榮が使っているボロボロの台車だが、これが元は何だったかのかが分かるシーンが切ない。
人は生まれ、育てられ、今度は生み、育てを繰り返してゆく。
少子高齢化によってこのサイクルが歪んだ時に、多くの問題が噴出するのは至極当然なのだろう。

これはいわば、30年前の日本から届いたタイムカプセル
中に入っていたのは、この社会の未来を描いた辛口の予言だ。
本作の劇場公開にあたっては、多くの人々がネット上の活動で支援し、嫁のみつ役を演じた長山藍子さんからも協力があったという。
長い歳月が経っても俳優から愛される作品も、愛し続けられる俳優も素晴らしいと思う。
幸いな事に興業は好調だそうで、ようやく作品の趣旨に時代が追いついたという事か。
願わくば、数多くある未公開作品、あるいは様々な理由で封印されてしまっている作品に少しずつでもスポットが当たりますように。

今回は日本海は新潟を代表する地酒、朝日酒造の「久保田 千寿」をチョイス。
久保田の中でもクオリティとコスパのバランスがよく、最も人気の高い全国区の酒。
いわゆる端麗辛口の典型で、とても飲みやすい。
冷からぬる燗まで美味しく、酒の肴も選ばない良い意味で万能選手だ。
この蔵の酒は百寿、千寿、万寿と長寿を意味する名が並ぶが、本来長生きするのはおめでたい事のはず。
老いる事の意味を、改めて考えさせてくれる映画であった。
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ショートレビュー「ネクスト・ゴール! 世界最弱のサッカー代表チーム 0対31からの挑戦 ・・・・・評価額1600円」
2014年05月15日 (木) | 編集 |
弱くても、夢を決して諦めない!

まもなく開幕する世界最大のスポーツの祭典、サッカーW杯
世界の頂点を目指して本戦に出場するのは32チームだが、2011年から始まった予選で涙をのんだ実に171ものチームの中に、オセアニア地区の米領サモア代表がいる。
人口わずか55000人、アメリカ合衆国の自治領の米領サモアは、94年にFIFAに加盟したものの、W杯予選通算16戦全敗、129失点、2得点という悲惨な歴史を持つ。
2002年の対オーストラリア代表戦の31失点は、国際Aマッチ史上、一試合での最多失点記録だという。
これは、そんな世界最弱のナショナルチームの選手たちと、彼らをたった3週間でW杯予選に挑ませるという重責を負ったオランダ人指揮官を追ったドキュメンタリー映画。
目指すのは、負けしか知らないチーム待望の初勝利だ。

太平洋の小さな島の代表には、金もスキルも無い。
若者の多くは、学校を卒業するとすぐに米軍に入隊して本土へと出て行ってしまうために、将来性のある選手を確保する事も困難。
もちろんプロチームなど存在せず、選手は全員他の職業を持っている。
一日の仕事を終えて練習に集まる、ほとんど部活状態のチームにあるのは、サッカーへの愛と情熱だけだ。
ピッチの、ベンチの誰もが何かを背負って、試合に挑む。
オーストラリア戦で31失点という“伝説”を作ってしまったキーパーのニッキーは、汚名をそそぐために引退を撤回し、移民先の都会から島へと戻ってくる。
本土で兵士として勤務しながら軍のチームに所属しているが青年ラミンは、身重の妻を残し、故郷のために年次休暇を全て使って代表に合流。
長いキャリアを持つトーマス・ロンゲン新監督も、交通事故でサッカー選手だった娘を失い、心の傷を抱えている。

個性的なチームの中でもユニークな存在が、ジャイヤ・サエルアだ。
ジョニーという出生名を持つ“彼女”は、史上初めてトランスジェンダーとして代表戦出場を目指すサッカー選手なのである。
米領サモアのあるポリネシアでは、歴史的、文化的にトランスジェンダーが認められ、とても尊重されているという。
チームメイトの誰もが、自然に彼女の存在を受け入れ、彼女もまた献身的にプレーする様子は、性同一性障害や同性愛への偏見を吹き飛ばし、スポーツの持つ可能性を改めて感じさせる。

そして、本作が日本の観客に特に響く理由がひとつ。
米領サモアは、2009年の9月29日に発生したマグニチュード8.1のサモア沖地震で津波に襲われ、大きな被害を出した。
代表でプレーする選手にも大切な人や家を失った人たちがおり、彼らにとってW杯予選への挑戦は鎮魂と復興の象徴なのである。

本作は、映画としては奇を衒ったところの無い正攻法のドキュメンタリーだ。
客観的な視点をキープしつつ、適度な距離感で選手や監督にそっと寄り添い、起こった事実を描写する。
それでもこの話は全く知らなかったので、いつしかどん底から挑戦する彼らに感情移入し、試合のシーンではまるでライブの様にドキドキした。

それにしても、やはりW杯というのはサッカー関係者にとっては永遠の夢なんだな。
ヨーロッパやアメリカでプロとして活躍してきたロンゲン監督でも、W杯予選を代表監督として戦うのは特別なのだという事が伝わってくる。
ここにあるのは、おそらくサッカーというスポーツの最もピュアな姿だろう。
ドンと背中を押される様な、気持ちの良い感動をもらえる秀作であり、間近に迫ったW杯気分を盛り上げるにもピッタリの映画だ。

今回は、ポリネシアのお話なので、フランス領ポリネシアのタヒチの地ビール、「ヒナノビール」をチョイス。
正統派のラガービールで、ライトなテイストながら薄過ぎることもなく、スッキリした喉越しと適度なコクのある味わいは、どちらかと言うと日本のビールに近い。
と言う事はつまり、日本の夏の気候にもピッタリで美味しいということ。
都内でもポリネシア料理の店などには、ほぼ確実に置いてあるのでご賞味あれ。
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ある過去の行方・・・・・評価額1650円
2014年05月15日 (木) | 編集 |
誰もが、真実を隠している。

イラン新世代の鬼才、アスガー・ファルハディ待望の最新作は、別居中のフランス人妻との離婚手続きのために、テヘランからパリへとやって来た元夫が見た、家族の真実を巡る物語だ。
新しい恋人と、互いの子供を連れて再婚しようとする元妻。
しかし思春期の長女のある告白から、それぞれの抱える秘密と嘘が徐々に明るみに出る。
前作のイランの乾燥した風景から一転、ウェットなフランスの情景を背景に、人の心が織り成すミステリアスな愛憎劇
登場人物の複雑な関係と繊細な内面描写が作り出すサスペンスは、更にシャープに切れ味を増し、人間心理の真相の闇はますます深く、暗い。

イラン人のアハマド(アリ・モサファ)は、4年ぶりに嘗て暮らしたパリへとやって来る。
いまだ法的には婚姻状態にある元妻のマリ(ベレニス・ベジョ)の求めで、正式に離婚手続きをするためだ。
ところが、彼女は自分の連れ子二人と、新しい恋人であるサミール(タハール・ラヒム)とその息子と既に同居していた。
実はマリは彼との子を妊娠しており、二人は再婚を考えているのだ。
彼女の元夫として、サミールとの対面に気まずさを隠せないアハマドだったが、彼はマリと長女のリシュー(ポリーヌ・ビュレル)との仲がギクシャクしている事に気づく。
やがてリシューはアハマドに、母とサミールが元々不倫関係にあり、サミールの妻がその事で精神を病んで自殺未遂し、今も植物状態にある事を告白するのだが・・・・


「ある過去の行方」とは奇妙な邦題だが、映画を観るとなるほど言いえて妙だと思える。
ファルハディの前二作品では、何らかの事件をきっかけに人間関係が動きだし、それまで秘められていた登場人物の本音がさらけ出される。
例えば大きな反響を呼んだ「彼女が消えた浜辺」では、カスピ海沿岸のリゾートにバカンスにやって来た友人同士のグループが、エリという女性の失踪によって混乱に陥る。
ある人物が善意でついた小さなウソが、更なるウソの連鎖をよび、やがて人間関係がグチャグチャに崩壊してゆく。
前作の「別離」では、離婚調停中の夫婦が雇った信心深い介護ヘルパーの女性が、雇い主の夫に暴行されたと訴えた事で、二組の夫婦による泥沼の訴訟合戦へと展開する。
どちらの夫婦にも心に秘めた秘密があることから、彼らの関係はいよいよ底なしのドツボへと嵌まり込んでしまうのだ。

本作の場合、登場人物の相関図はさらに縮小し、基本的にはちょっと変わった一つの家族の物語である。
ただし、彼らの関係は実質的に既に破綻しており、表面的に取り繕っている家族が、なぜ壊れてしまったのかを明かしてゆく話になっているのが新しいと言えば新しい。
イランからやって来るアハマドはいわば映画の狂言回しであり、家族の秘められた謎を解く探偵でもある。
既に離婚を決意し、家族の外にいる彼は、冷静な目で絡み合った感情のもつれの原因がどこにあるのかを見極めねばならない。

はたして本当に自殺未遂の原因は不倫だったのか?それとも年頃のリシューの求める理想の愛と現実のギャップが生み出した妄想に過ぎないのか?
少女が心の中に押し込めていた感情の吐露を受けたアハマドは、嘗て愛した家族の将来のために、時間をさかのぼり、自殺未遂の前に何が起こったのかを調べはじめる。
誰がウソを言って、誰が言っていないのか?本心を隠しているのは何者か?
ある人物の証言によって、事実関係が明らかになったかと思えたのもつかの間、ここから映画はさらに一ひねり。
幾つもの“真実”のぶつかり合いが葛藤を巻き起こし、葛藤が更なる葛藤を生み出す先の見えない展開はファルハディ節の真骨頂だ。

しかし、ミステリ要素そのものは、テーマを導き出す手段に過ぎない。
本作が描こうとするのは、原題が示唆し、邦題がより分かりやすく指し示す様に、人間の心の中で絡み合う、過去と現代、未来の関係である。
登場人物は皆、未来を向こうとしているが、その実過去によってがんじがらめにされているのだ。
離婚によって過去と決別し、新しい生活を始めようとしているマリが選んだ新恋人のアミールは、おそらくはアラブ、北アフリカ系で容姿がアハマドとよく似ている。
アミールはもちろん、植物状態の妻との関係を抱え、物語のキーパーソンであるリシューは、奔放な母と何人もの“父”との暮らしから、愛の真実に絶望している。
そして一見すると、葛藤の外にいる様に見えるアハマドもまた、フランスでの生活に馴染めず、家族を捨てて帰国した事に自責の念を感じているのだ。
真摯に過去に向き合わず、自分の感情を押し通そうとする者は、結局偽りの未来しか選べないのである。

物語のテリングのスタイルは、前作からさらに洗練されており、淀みのない清流のような滑らかな語り口は心地よさを感じるほど。
しかし全体の印象として、若干薄味になった様に感じるのは、事実上のフランス映画となった事で、今までファルハディ作品の重要なスパイスであったイスラムの信仰という要素が無くなったからだろう。
アハマドはイラン人とは言っても、フランスで暮らしてフランス人と結婚したくらいだから、イラン人コミュニティとの関係が出てくるくらいで、キャラクターとしてあまり異国の人ならではという要素は多くない。
また彼は物語の狂言回し的なポジションで、自身はそれほど深刻な問題を抱えている訳ではないので、内面が少し見えにくい。
個人の中にあるイスラムへの信心の程度、というものがジワジワと人間関係の複雑さに絡んでくるような面白さは、本作には無いのだ。
もっとも、それによって人間ドラマとしてはより普遍性を持った愛憎劇となっているのもまた事実。
はたしてファルハディはずっとこの路線で行くのか、そろそろ毛色の違ったジャンルを作ったりするのか。
やはり次回作が楽しみな作家である。

人生の岐路に立つ人間たちが織り成す濃密な心理ドラマ、この映画にはやはりフルボディな赤、「レ・コント クオール」の2011をチョイス。
黒いワインと呼ばれるほどダークな外観のイメージ通り、タンニンが豊富で、非常にコクがある。
ただ2011だとまだ若くやや渋みを感じてしまうので、もうちょい熟成させた方が良いかも知れない。
BBQなどのワイルドなお肉料理と相性がよく、何よりコストパフォーマンスが抜群。
家飲み様にはちょうど良く、煮込み料理やソースのベースとしても使いやすい庶民の味方だ。
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WOOD JOB!(ウッジョブ) ~神去なあなあ日常~・・・・・評価額1700円
2014年05月09日 (金) | 編集 |
GOOOOD JOB!!!

「WOOD JOB! ~神去なあなあ日常~」は、ひょんな事から林業のインターンとなった都会っ子が、未知なる山の一年を通して成長してゆく姿を描く、言わば一次産業青春映画だ。
しかし軽いコメディと侮るなかれ。
恋と自分の居場所を巡る葛藤は、林業という知ってる様で知らない世界への興味から、やがて日本の土着的な精神文化を取り込み、奥深い映画的世界を形作る。
山の木々と人間の営みに象徴される生命の循環を、そのまま戯画化したような、パワフルなクライマックスには誰もが度肝を抜かれるだろう。
笑いと、少しの涙、そして血沸き肉躍るスペクタクル。
コミカルなエンターテイメントとして一級品である事はもちろん、日本人の心の琴線に触れるアニミズム的な世界観も意外と深く、世代を問わずに楽しめる秀作だ。
※核心部分に触れています。

大学受験に失敗した平野勇気(染谷将太)は、ふと目にしたブックレットの表紙の美女に一目ぼれ。
彼女に会えると思い込んで、一年間の林業インターンに応募してしまう。
ところが、列車を乗り継いでたどり着いた研修センターがあったのは、コンビにも無く、携帯電話すら圏外の山奥の村。
早速逃げ出そうとする勇気だったが、どうやら更に山奥に住んでいるらしい表紙の美女・石井直紀(長沢まさみ)と仲良くなりたいという誘惑に負けて、一ヶ月の研修をなんとか乗り切る。
残り11ヶ月、勇気が働く事になったのは、直紀が住む村にある中村林業。
熱血の山男、飯田ヨキ(伊藤英明)のスパルタな指導を受けながら、勇気は次第に山の仕事にも慣れてゆく。
そんなある日、卒業以来会っていなかった高校時代のガールフレンドが、大学のスローライフ研究会の合宿で、林業の仕事を見学したいと言ってくるのだが・・・・


矢口史靖監督のベストと思える、素晴らしい仕上がりである。
平凡な若者が、全くミスマッチな“何か”と出会い、悪戦苦闘しながら人生の目標を見つけてゆく。
男子高校生がシンクロナイズド・スイミングに挑戦する「ウォーターボーイズ」や、田舎の女子高生たちがジャズバンドを組む「スウィングガールズ」に連なる、矢口監督お得意のパターンだ。
少し違うのは、今回は群像劇ではなく、染谷将太が好演する平野勇気を単独でフィーチャーした物語であるという事だろう。
もちろん原作ものという事もあるのだろうけど、これは映画を観ると必然である事がわかった。
勇気が足を踏み入れた林業の世界というのは、想像以上に深くて広い文化的、歴史的なバックグラウンドを持つのである。
それ故に、一年と言うスパンで物語を構築すると、勇気の経験する事、感じた事を描くだけでも精一杯になってしまうのだ。

同時に、この奥深さは良くも悪くも「ウォーターボーイズ」以降の矢口作品に漂っていた、ストーリー展開のテンプレ感を破壊している。
いや、構成そのものは実にロジカルなのだが、物語が終盤に近づくにつれて、映画が予想外の範囲まで取り込み始め、良い意味でカオスな世界へ突入するのだ。
そのベースとなっているのが、日本人の心の奥底に流れる自然への畏敬の念である。
木の時間、山の時間と人間の時間は違う。
今、自分たちが切り倒して使っている木は、遠い祖先が植えて、代々じっくりと手間隙をかけて育ててきたもの。
そして今植えた木を切り倒すのは、自分たちではなく遠い未来の子孫たちなのだ。
だから山に入り、森で働く人間たちは、過去と未来の両方に対して責任を負っているのである。
この国に人間が住み始めて以来、ずっと続いてきた人間と自然の共生を絶やさないために、現代の木こりたちは子孫を欲し、勇気の様に外からやってくる人間を求める。
シンクロやジャズでは描けなかった、生きる事そのものの意味が、本作の根幹にはあるのだ。

星霜幾百年の遠大な木の一生が、人間を含めた生命の循環に繋がる脚本の巧みな工夫が本作のキモ。
映画の前半は、右も左も分からない勇気が、ブックレットの表紙の美女・直紀に対する下半身的欲望によって、何とか山に踏みとどまり、林業と言う新しい体験に目を開かされてゆくプロセスだ。
やがて彼が、ずっと森と共に生きてきた村の人々の想いを徐々に理解できるようになると、物語は山の文化の底知れぬ精神性に向かって枝を伸ばし始める。
山奥で見つけた古い石組みの神像に、勇気が何気なくお供えをするエピソードが、彼が神隠しにあった村の子供を探し出し、山男の一員として認められるシークエンスの伏線として機能する上手い仕掛け。
濃密な山の暮らしを続ける中で、一年が終わったら都会へと帰るはずだった勇気の心にも、大きな迷いが生じてくる。

そして最大の見せ場となる、壮大に狂った村祭りの、強烈過ぎるインパクト。
なんでも目指したのは“世界一危険で、巨大な奇祭”だそうだが、ここへきて映画は一気にスケールアップし、ダメ男の青春の葛藤から始まった物語は、あくまでも生命のサイクルの物語としての下半身要素を残しながら、見たことも無い様な神話的スペクタクルに昇華されるのである。
しかもぶっ飛んでいるのは確かながら、奇祭の宝庫である日本の秘境のどこかに、本当にあるのかも?と思わせるさじ加減が絶妙だ。
アレとアレをあんな方法で激突させるのはフィクションだろうけど、アレを祀った奇祭は各地に実際にあるし、アレが斜面を滑り落ちるのは長野県で千年以上続く某祭を思わせる。
御神木を切り倒すシークエンスだけで撮影に一週間かけたそうだが、隅々までこだわった画作の丁寧さが、ギリギリのリアリティを感じさせる重要な要因である事は言うまでもない。
作り手の情熱と苦労が、見事に映像に結実している興奮のクライマックスである。

主人公の勇気を演じる染谷将太はじめ、俳優陣は皆キャラ立ちしていて魅力的で、特に海猿から山猿へと転職した伊藤英明が素晴らしい。
相変わらずメチャクチャ暑苦しいキャラクターなのだが、彼の隠し味である三枚目的な演技がこれほど魅力的な作品もないだろう。
妻の優香と“妊活”しながらキャバレーのお姉さんにも手を出すチャラさと、豪快かつ頼もしい山男のギャップ。
年末の賞レースでは助演男優賞候補になるのではないか。

そういえば、先日の「銀の匙 Silver Spoon」も一次産業をモチーフにした良く出来た青春映画だったが、この惑星に息づく無数の命の中で生きるという人間の宿命を思えば、これほど青春をディープに描ける題材は無いのかもしれない。
特に本作の場合は、終盤土着的なファンタジー的な要素までをも取り込んで、破天荒な勢いを生んでいる。
青春の生命のエネルギーが映画的パワーとなって、アレの突進に集約される様は、まことに力強く、スクリーンから緑の熱風を感じる様だ。
現時点で、2014年を代表する日本の娯楽映画の快作と言って良いと思う。

今回は、ロケ地となった三重県の地酒、細川酒造の「上げ馬 純米大吟醸 神の穂50」をチョイス。
三重県産の酒米、神の穂を50%まで精米し醸造された。
スッキリしたくせの無いのど越し。
純米吟醸らしいフルーティな香りが、口の中にフワリと広がり、シンプルながら豊かな米の味わいを楽しめる。
銘柄は、やはり伝統的な奇祭として知られる、三重県桑名市の多度大社の上げ馬神事に因む。
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ショートレビュー「ヴィオレッタ・・・・・評価額1600円」
2014年05月05日 (月) | 編集 |
ママから、人生を取り戻す。

写真家だった母の、少女ヌードモデルと言う過去を持つ、エヴァ・イオネスコの自伝的監督デビュー作。
自分を特別な存在と信じ、それを証明するために娘を利用する母と、母の愛が欲しくて懸命に要求に応えようとする娘。
ここに描かれるのは、母娘のお互いへの歪んだ愛が引き起こす激しい葛藤と、一人の少女が自らの足で人生を歩き始めるまでの物語である。

監督の実母イリナ・イオネスコが、実の娘のヌードを含む写真集、「エヴァ」を発表し、センセーションを巻き起こしたのは1977年。
5歳の頃から母親のモデルを務めていたというエヴァは、この作品によって時代を代表するロリータヒロインとなった。
主人公の名前をヴィオレッタに変えている事からも分かるように、映画は全く事実通りという訳ではなく、ある程度人物関係や時系列を脚色している様だ。
母のアンナは芸術家を自称し、娘を実家のアパートに暮らす祖母に預けっぱなしにして、自分は別にアトリエを借りて住んでいるが、売れている訳でもなく、女三人の一家はその日の生活費にも事欠く有様。
ある日ヴィオレッタは、アンナにアトリエに招き入れられ、最近はじめたばかりの写真のモデルとなる様に言われるのである。

自分大好きのアンナは、美し過ぎる娘を使って、世間の注目を集めるような作品を撮りたい。
一方、まだまだ甘えたい盛りのヴィオレッタは、たまにしか会えない母親と、撮影の間一緒にいられる事がうれしくてたまらない。
しかし実際に写真が売れ始めると、アンナは更なる名声を獲得するために、徐々にその表現をエスカレートさせてゆくのだ。
やがて、ヴィオレッタは一躍セレブとなるものの、学校ではポルノモデルと苛められ、成長するにつれて普通の女の子として生きたい願うようになる。
だがそんな娘の考えは、ヴィオレッタの写真によって時代の寵児となったアンナにとって、受け入れられるものではないのだ。
幼くして人生を奪われながら、ヴィオレッタの母に対する視点は最後まで愛憎入り混じるのが何とも切ない。
パメラ・トラヴァースの少女時代の傷が「メリー・ポピンズ」を産んだ様に、エヴァ・イオネスコにとっても、これはいつか必ず作らなければならない作品だったのだろう。
写真集が発売されてから、本作が作られるまで34年。
映画と言う形で、客観的に自分の過去に向き合うには、それだけの歳月が必要だったという事か。

撮影当時10歳の美少女アナマリア・ヴァルトロメイが、母役のイザベル・ユーペルや怪優ドニ・ラヴァンら大ベテランと渡り合い、幼さと妖艶さを同時に感じさせる難役ヴィオレッタを見事に演じている。
この役はフランスで見つからず、イオネスコ一族の民族的なルーツであるルーマニアから応募してきた彼女に巡り合ったという。
もちろん、題材が題材故に、撮影は慎重に行われており、彼女が実際にヌードになるシーンはない。
それゆえ本国フランスは言うに及ばず、日本よりレイティングの厳しい殆どの国でも特に規制無く公開されたという。
ところが日本の映倫は、本作を「少女の性的描写を想起させる」と言う理由で、“審査適応区分外”つまり審査すら拒否したのである。
幸いにも再審査でR-15指定での公開が決まったものの、最初に審査した人間に映画を理解する能力がないのは明白だ。
これも児童ポルノ絡みの、事なかれ主義の過剰反応だろうが、それにしても“想起させる”って、一体いつから映倫は観客の脳内まで規制対象にする様になったのか。
本作は、少女が親によって作り上げられた虚像から逃れ、自分の人生を取り戻す物語であって、本来ならば主人公と同世代にこそ観てもらいたい映画である。
今の日本社会の許容度はR-15程度、と映倫が判断した事がなんとも情けないではないか。
まあ映画を観もせずに、予告だけでプンスカする人がいるのを知ると、それも然もありなんと思ってしまうが。
「私の映画と母の写真を一緒にしないで欲しい」
イオネスコ監督のこの言葉が、実に重く感じられる。

今回は、辛口の後味にあわせてカクテルの王様「ドライ・マティーニ」をチョイス。
ドライジン45ml、ヴェルモット15mlを軽くステアしてグラスに注ぎ、レモンピールを絞って香り付けし、最後にオリーブをピック刺して沈める。
定番のカクテルゆえに、酒の比率やプラスアルファの材料など、膨大なレシピが存在するが、歴史的には段々と辛口になって来ている様だ。
各種フルーツを絞って、ジン、ヴェルモットと2:2:1くらいでステアし、フルーツマティーニにしても美味しい。
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ショートレビュー「レイルウェイ 運命の旅路・・・・・評価額1600円」
2014年05月01日 (木) | 編集 |
殺したいほど、忘れられない。

丁寧に作られた良作である。
第二次世界大戦中、日本軍の捕虜となり、“死の鉄道”と揶揄された悪名高き泰緬鉄道建設工事に従事させられた英国人帰還兵が、戦後35年間に渡って抱え続けた消せない傷。
残酷な思い出の象徴として、心の中に残るある日本兵の消息を知った時、彼はどうするのか。
元英国軍人、エリック・ローマクスの手記を元にした実話ベースの物語だ。
名優コリン・ファースがエリックを演じ、彼の宿命の敵である日本人、永瀬隆役に真田広之、エリックの妻パトリシア役に二コール・キッドマンという豪華な布陣。
真田広之が素晴らしく、彼の英語劇でベストの好演と言って良い。

劇中、夫の中にある戦争の闇に気付いたパトリシアが、エリックの戦友に過去に彼の身に何が起こったのかを尋ねるシーンがある。
自らも過酷な戦争経験を持つ戦友は、彼女にこう答える。
「戦争で本当に悲惨な経験をした人は、その事を話せない」
人間の尊厳を剥奪され、獣以下に貶められた経験は、愛する人にほど決して明かす事は出来ないと。
密かにラジオを作った事から、捕虜収容所で残酷な拷問を繰り返し受け、心も体もボロボロになるまで責め抜かれたエリックは、今で言うPTSDにかかっていたのだろう。
戦後も故郷で穏やかな生活に戻る事が出来ず、アフリカなどの植民地で長年建築の仕事をし、還暦を迎える頃になっても、突然蘇る当時の幻覚に怯えている。
彼の心の中に住み着いているのが、拷問を担当した日本人通訳、永瀬隆だ。
戦争の記憶は、永瀬の姿と共に今も現実感を持って、エリックを苦しめ続けている。
彼にとって戦争は、永遠に終わらない悪夢なのだ。

そんな時、エリックは永瀬が今も生きていて、戦地を巡礼しながら観光客のガイドをしている事を知ってしまう。
永瀬が戦犯として処刑されたと思っていた彼は、驚き、葛藤する。
過去に向き合い、対決すべきなのか。
それとも心の傷に蓋をして、死ぬ時まで耐え続けるべきなのか。
自分の内面に巣食う永瀬の亡霊は、エリックにとって殺さねばならない戦争の象徴なのである。

再会したエリックと永瀬が、嘗ての捕虜収容所跡の戦争博物館で対決するシークエンスは緊迫感溢れる演技合戦。
「あの頃の私たちは・・・」と釈明する永瀬を、「“私たちは”じゃないだろ。“私は”だろ」とエリックが追い詰めるシーンは目が離せない迫力がある。
結局、エリックが戦後苦しみ続けたのと同様に、永瀬もまた戦争の記憶から逃れる事ができていない。
もちろん、最終的には和解という結末があるからこそ映画になるのだけど、そこにいたるまでの、殺したいほど憎んでいるという、むき出しの敵意があるからこそ、彼らの間の敵愾心が消えるのにも説得力が出る。
感情をオブラートに包んで、なあなあで許しあう美談として仕上げなかったのがよかった。
二人の帰還兵は、年老いたお互いの姿を合わせ鏡として、葛藤をぶつけ合う事で遂に憑き物を落とす事が出来たのである。
35年間敵同士だった二人が、ようやく心の平和を取り戻し、友情を結んだ事には素直に感動した。

ここからは映画の内容とは直接関係無いが、ツイッターでこの映画を褒めたら、知らない人からメールが来て「このような反日映画を褒めるとはケシカラン」と怒られた。
しかも、ご本人は明らかに映画を観ておらず、予告の印象だけでプンスカしている。
本作の主人公は確かに反日感情を抱いているが、それは政府やマスコミに踊らされて作り上げられたのではない、実体験に基づく生の感情だ。
エリックと永瀬がぶつかり合い、心の毒を溶かしてゆくプロセスを描く本作は、反日どころか反日感情から解放される物語なのである。
修正主義者は映画を観もせずに妄想を深めるより、本作をしっかり受け取って欧米の中に隠れている反日感情のポテンシャルを感じ取った方が良い。
反日は中韓だけの現象とか、馬鹿げた了見違いをしてるマスコミがあるのも嘆かわしい現実だが、全く井の中の蛙である。
欧米、いや東南アジアの国々もだが、彼らは過去と現代を冷静に分けて考えているだけで、行き過ぎた修正主義は絶対に許さない。
エリックと永瀬の様に、心からの和解を出来た人々は決して多くないのだ。

今回は、物語の発端となったシンガポールを代表する銘柄、「タイガービール」をチョイス。
1930年にハイネケンと地元企業が合弁してアジア・パシフィック・ブリューワーズが生まれ、1932年からタイガービールの生産が始まったので、80年以上の歴史あるブランドである。
熱い国ならではのスッキリ爽やか系のアメリカンスタイル。
シュワシュワとあわ立ちはきめ細かく、これからやってくる梅雨の季節には、日本でもこの種のライトなテイストが飲みたくなる。
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