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■TITLE INDEX
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世界の三つの街で、平行に展開する三つのストーリー。
落ち目の作家のマイケルは、新作を執筆中のパリのホテルで、気まぐれな愛人アンナとのスリリングな密会を楽しむ。
一方、ニューヨークに暮らす元昼メロ女優のジュリアは、元夫でアーティストのリックと一人息子の親権争いをしている。
そしてローマでは、ファッション業界で産業スパイとして働くスコットが、ひょんな事から出会ったロマの女、モニカを助ける事に。
序盤では、それぞれのエピソードの間に関連性は無い様に見える。
なるほどポール・ハギスは、自身の出世作の「クラッシュ」のスタイルを、今一度踏襲しようとしているのかと思った。
あの映画では、一見すると無関係に思える複数の登場人物が、ストーリーが進むにつれて次第に絡み合い、やがて南国LAの雪というファンタジーに向かって収束してゆく、鮮やかな作劇が印象的だった。
しかしさすがはハギス先生、確かに「クラッシュ」と似た要素はあるものの、同じ事を二度はやらないのである。
三組の男女の物語を眺めていると、あれ?どうして?という瞬間がいくつも訪れる。
やがてその違和感ははっきりと姿を現し、観客を混乱に陥れるのである。
印象としては、ちょっと貫井徳郎の小説を思わせるスタイルだが、彼の作品が文章でしか成立しえない物が多いのに対して、ハギスは逆に映像でしか表現できない作品を作り上げた。
綿密な伏線が張り巡らされた、冒頭10分が圧巻。
グイグイと作品世界に惹きつけられるこの部分を、集中力を持って観たか否かで、核心までの距離が大きく異なってくるだろう。
筋立てのロジックだけでなく、三つのエピソードが相互にかみ合うような映像構成も非常に面白い。
キャラクターのアクションからアクションへ、視点から視点へ、絶妙な移動撮影と編集テクニックで流れる様にエピソードが切り替わり、画面の中にはさり気なく物語のヒントが散りばめられる。
コップの中のコイン、プール、シンクに沈められる時計などの水のモチーフ、白という色に込められた意味、そして子供を失った、もしくは失いかけている親という共通項。
さらには、聞こえるはずのない「watch me(僕を見て)」という囁き声の秘密。
タイトルの「サード・パーソン」が、全てのキーだ。
“三人称”であり、人間関係の“三人目”でもある。
これはある意味、「ウォルト・ディズニーの約束」と同じテーマを別の切り口で描いた作品であり、ポール・ハギスによるメタ的な物語論である、作家論と言えるだろう。
過去への贖罪と、創作者としての欲望が、境界を失ったまま物語として流れ出す。
「クラッシュ」が現実社会の中で人々が物理的に衝突し、葛藤が生まれ、最終的に(希望的な)虚構へと落とし込む構造を持っていたのに対して、こちらでは現実に抗おうと想像力によって生み出した虚構が、最後に本当の主人公を真実へと導き、収束してゆくのである。
超一流のストーリーテラーのテクニックが冴えわたる、見応えたっぷりの意欲作。
惜しむらくは、中盤に各エピソードの登場人物が、同じような行動を繰り返す時間帯があり、やや物語が停滞し、中ダレを感じさせる事で、この辺りはもう少しコンパクトに整理できた気がする。
おそらく観客にとっての“物語”の概念によって、好き嫌い分かれるだろうが、このオチを素直に受け入れられれば、必ずもう一度観たくなる作品だと思う。
虚構と現実がシームレスに繋がり、白昼夢の様なテイストを持つ本作には、カクテル「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40mlとキュラソー20ml、それにペルノ1dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
目に鮮やかなオレンジの色合の甘味なカクテルで、ペルノが香り付けとしていいアクセントになっている。
材料から分かる様に結構強いので、飲んでるといつの間にか夢うつつになってしまうかも知れないけど。

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地球が、突如として未知のエイリアンの侵略を受けた近未来。
戦闘中に戦死したはずの主人公は、目覚めるとその前日に時間が巻き戻っている事に気付く。
そして延々と繰り返される、同じ一日の覚醒と死。
なぜ彼は、時空の無限ループに陥ったのか?
やがて絶望的な戦いの中で、強大なエイリアンの秘密を解き明かした主人公は、自分が人類を救う事の出来るただ一人の存在であることを知る。
日本のSF小説「オール・ユー・ニード・イズ・キル」を、ダグ・リーマン監督、トム・クルーズ主演で映画化した娯楽大作。
原作は所謂ラノベだそうだが、スピード感のある物語、ゲーム感覚を取り入れたパワフルなアクション、テーマ性も適度にあり、老若男女を問わずおススメできる。
※完全ネタバレ注意。
謎の侵略者、“ギタイ”の攻撃を受けた近未来の地球。
圧倒的な戦力差によって、欧州の大半は失われ、敵の勢力はドーバー海峡へと迫っていた。
人類は英国を死守するため、起死回生の反撃を決意。
広報士官のウイリアム・ケイジ(トム・クルーズ)も、ひょんな事から前線へと送り込まれるが、何もできないうちに敵に殺されてしまう。
ところが次の瞬間、ケイジの意識はその前日に戻っていた。
既に一度経験した一日を過ごした彼は、再び戦場へと送られて同じように戦死し、また24時間前に目覚める。
奇妙な現象に巻き込まれている事に気付いたケイジだが、何度かループを繰り返した時、自らも同じ一日を何度も生きているという歴戦の兵士、リタ・ヴラタスキ(エミリー・ブラント)と出会う。
彼女と共に戦う間に、ケイジの戦闘能力は徐々に高まり、やがて二人はギタイを倒すために、ある作戦を立てるのだが・・・・
トム・クルーズ+SFという組み合わせは、もはやエンタメ映画の勝利の方程式と言っても良いのではないか。
スピルバーグと組んだ「マイノリティ・リポート」に「宇宙戦争」、幕の内弁当的なSF要素全部入りの「オブリビオン」と一本もハズレが無く、もちろん今回もセンス・オブ・ワンダーに溢れた快作だ。
主人公のウイリアム・ケイジのキャラクターが良い。
元広告屋の彼は、軍隊に入っても広報任務一筋で実戦経験はゼロ。
ところが、第二次世界大戦の連合軍よろしく、ドーバー海峡からノルマンディーへ、人類の反転攻勢を従軍取材する事を命じられると、ビビりまくって拒否。
挙句の果てには、将軍を脅してまで任務から逃れようとして逆に逆鱗に触れ、脱走兵として前線で戦う羽目になってしまう。
SFアクションの主役が、徹底的に自分の保身しか考えないヘタレなキャラクターというのはなかなか珍しいが、それ故に物語の軸は明確だ。
これはダメ男のケイジが、時間の無限ループという試練の中で、自分自身を成長させ、大切な人を守るという兵士の本懐を遂げる物語である。
原作は未読だが、主人公が訳も分からないうちに時間のループに巻き込まれ、特殊な任務にあたるという設定は、ちょっとダンカン・ジョーンズ監督の「ミッション:8ミニッツ」を思わせる。
あの映画では、奇妙なコックピットの中で目覚めた主人公が、爆破テロの犠牲になった人々の、死ぬ直前の8分間の意識を再現したバーチャル世界に入り、真犯人の正体を探り、爆弾の在処を探す。
最初は何もできないうちに爆発で死んでしまうが、ループを繰り返している内に任務に慣れて、次第に核心に迫ってゆくのも、本作のケイジが何度も戦闘を経験するうちに、戦闘のエキスパートになってゆく流れとよく似ている。
もっとも、世界観の構造自体は全く違うので、物語が進むにつれて段々と既視感は感じなくなるのだけど。
そもそも、なぜケイジは無限ループに陥ったのか。
リタと仲間のマッドサイエンティストの解説によると、ギタイの本体は巨大な脳みそだけの様な一個の生命体で、人類と戦っているメタリックなタコ状の個体は全てドローンに過ぎない。
本体を殺されればおしまいなので、ラスボスは人目につかない安全な場所に潜みながら、ドローンをコントロールしているのだ。
だがドローンの中に、ごくまれに指揮官の役割を担う中ボス的な個体が存在しており、これが破壊されると困るので、ギタイはその事実を無かった事にすべく、時間を巻き戻すのだという。
ケイジやリタの場合、戦闘中に中ボスの体液を浴びてしまったがために、自分自身も死ぬと時間ループする能力を持ったという訳だ。
だが、その力は血中に含まれるドローンの体液によるものなので、怪我をして大量に輸血されると能力は消えてしまう。
したがって、ループして生き返ろうと思ったら、スパッと死ななければならない。
実際リタは輸血によって能力を失ったので、時間ループしながらギタイ本体に迫る事が可能なのはケイジだけなのである。
ギタイの本体を攻撃するためには、まずは無数のドローンが待ち構えるノルマンディーの戦場を突破し、ラスボスが潜む場所へと移動しなければならない。
リタと協力しながら、殺されるたびにリセットしてループ、攻め方を変えて生存時間を延ばして、やっぱり殺されたらまたリセット、という展開は完全にゲームである。
更に、輸血されるともう生き返れない、即ち“ライフ”の考え方までゲーム的なのは面白い。
自分(とリタ)だけが事態を俯瞰する情報を持つという孤独感も、主観と客観の狭間で一人戦いを繰り広げるゲーマー的なのではないだろうか。
もっとも、さすがにゲームライクなアクションだけでは話が進まないので、戦友モードと恋愛モードが微妙に混じり合う、リタに対する感情が絡み、さらには何度も生死を共にした部隊の仲間に対する責任と誇りが、主人公を人間的にも成長させる。
そして、繰り返しの面白さを十分に見せたところでループ終了。
ここまで来ると、もはやケイジにヘタレだったころの面影はなく、最強の戦闘力を持つ勇者さまの完成である。
そして、誰もが知る“ある名所”に潜むラスボスを倒すために、クライマックスはガチンコのバトルアクションへとなだれ込むのだ。
人類側の戦力が、V-22オスプレイを四発にしたような輸送機と、全身武装を組み込んだパワードスーツくらいで、荒唐無稽な超兵器の類が出てこなかったのも上手いさじ加減。
この程度なら10年もすれば米軍あたりは普通に装備していそうで、現在から直接続く近未来というリアリティに繋がっている。
時間SFとしての本作は、あくまでも繰り返しの無限ループの面白さを描いた作品であって、所謂タイムトラベルものとは若干ずれるので、パラドックスはそれほど重要ではない。
まあよく考えると、リタが自分のループが切れた事を知っているのはおかしいとか、軍がギタイの正体について探ろうとしないのは無理があるとか、いろいろ突っ込みどころはあるが、スピーディーで先を読ませない展開ゆえに、少なくとも見ている間はあまり気にならない。
やや強引ながら、爽快なオチまで全くダレる部分は無く、113分は疾風怒濤。
構成要素一つ一つは使い古されたネタながら、ゲームカルチャーをメタ的に俯瞰し、上手くSF設定として物語に組み込んだセンスは鮮やかで、全体としては見事に未見性のある娯楽大作として昇華されている。
はたして、トム+SF=無敗の方程式はどこまで続くのだろう。
今回は本作の舞台となる激戦の地、フランスのノルマンディー地方の名産品、カルヴァドスの「ブラーX.O.」をチョイス。
林檎を発酵させて作るシードルを更に蒸留し、洋梨を混ぜ込んで作られる酒は各地にあるが、カルヴァドスを名乗れるのはノルマンディー地方で作られる物だけである。
消化促進効果があり、熟成の浅い若い酒は食前に、ヴィンテージが進むにしたがって食中、食後酒として飲まれる事が多いという。
ムシムシした梅雨の季節には、トニック・ウォーターで割ると爽やかで美味しい。

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おそらく映画史上最も有名な未完成作品、異才アレハンドロ・ホドロフスキー監督によるSF超大作、「DUNE」のビハインド・ザ・シーンに迫ったドキュメンタリー。
ホドロフスキーのファンだというフランク・パヴィッチ監督は、この幻の映画のプロジェクトがどの様に始まり、どの様に崩壊に追い込まれたのか、そして関わった人々に何を齎したのかを時系列に沿って追ってゆく。
過去にも様々なメディアによって断片的に紹介されてきた「DUNE」だが、その全貌を明らかにした本作を観ると、改めてそのスケールの大きさと、作り手の野心的なビジョンに驚かされる。
フランク・ハーバードが1965年に発表したSF小説「デューン」は、砂の惑星アラキスを舞台に、権力闘争の末に殺されたレト侯爵の忘れ形見ポールが、自らの力と使命に目覚め、抑圧された先住民フレーメンを率いて革命を引き起こす物語。
独特の中世的な世界観に、数百メートルもある巨大なミミズ状の生物、サンドワームなどの奇想天外なクリーチャーが登場し、欧米はもちろん、日本の漫画やアニメーションにも大きな影響を与えた傑作である。
高い人気ゆえ、出版当初から映画化が何度も構想されたが、余りにも壮大過ぎる物語のためにことごとく頓挫。
1984年になって、デヴィッド・リンチ監督でようやく映画化されたが、それ以前で最も実現に近づいたのが、「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」などでカルト的な人気を博していたホドロフスキーらのプロジェクトだ。
当時46歳のホドロフスキーと、若干28歳の若きプロデューサー、ミシェル・セドゥは、映画で世界を変えるべく、超大作を作り上げる“魂の戦士”として、世界中からスタッフ・キャストを集めてゆく。
たとえ一流であっても、人間として、創作者として作品に相応しくなければ起用しない。
ハリウッドでは超大物だが尊大なダグラス・トランブルではなく、売出し中だった「ダーク・スター」のダン・オバノンをVFXの責任者として迎える。
画面を彩るメカデザインにはSF画家のクリス・フォス、キャラクターデザインとストーリーボードにバンデシネアーティストのメビウス、悪役ハルコネン男爵関係のデザインはH・R・ギーガー、音楽にはピンク・フロイドにマグマ。
キャストに迎えられたのは、サルバドール・ダリ、オーソン・ウェルズにミック・ジャガーまで!
巨大なプロジェクトに、超個性的な面々が集まってくる展開は、まるで「七人の侍」か「水滸伝」の梁山泊の様だ。
まだ誰も観た事のないモノを創り出し、人々の度肝を抜いてやろうという若者たちのパッションによって、未知の芸術が形になってゆくプロセスにワクワクする。
しかし、現実に映画を作るとなると、やはり最後の問題は金。
今でこそ、このスタッフたちの名前を聞いて、胸躍らない映画ファンはいないだろうが、当時の彼らは殆どがまだ無名の若手だ。
ヨーロッパに拠点を置きながら、ハリウッドのメジャースタジオに資金を出させるという挑戦は困難を極める。
オーソン・ウェルズはビッグネームだが、既に過去の人だったし、ダリやミック・ジャガーは所詮キワモノと思われたのは想像に難くない。
もちろんスタジオ側の反応はある程度予測されていた事で、ホドロフスキーとセドゥは彼らの懸念を払拭するために、読めば映画の全てを理解できる綿密なストーリーボードの本を作り、メジャー各社に送っている。
だが、それでもハリウッドは、(彼らにとっては)理解不能のカルトシネマを撮っている変人監督と、海の物とも山の物とも分からぬ若い映画人たちに投資する事は無かったのである。
世界を変えるはずだった映画は、こうして志半ばにして霧散してしまうのだ。
御年85歳となったホドロフスキーの、ぶっ飛んだ作品からは想像もできない、好々爺っぷりがカワイイ。
「DUNE」の中止から9年後、当時新進気鋭だったデヴィッド・リンチが、「デューン砂の惑星」を映画化した時、彼は大きなショックを受けて映画館に行くことを躊躇したと語る。
自分が実現できなかった夢を、他人にとられてしまったのだから、映画を観たらきっと立ち直れないほど落ち込んでしまうだろうと。
ところが、息子に諭されてイヤイヤながらも映画を観ているうちに、どんどんと元気が出てきたのそうだ。
「だって大失敗なんだもん!」と、嬉しそうに語る老巨匠のお茶目な語り口は、いまだ若々しいパワーを感じさせ、創作への想いは失われていない様に見える。
そして実際、本作で一番面白くて感動的なのは、プロジェクトが頓挫してからだ。
惑星デューンの革命の物語は、図らずも未完の作品による、静かな映画革命に繋がってゆくのである。
作品の中止が決まり“魂の戦士たち”が解散した後、彼らは自らの経験を別の企画に生かしてゆく。
ホドロフスキーは原作者としてメビウスと組み、バンデシネの名作「L'INCAL アンカル」をはじめ、果たせなかった映画のアイディアを盛り込んだ数多くの作品を世に出す。
ダン・オバノンはSFホラーの金字塔「エイリアン」の脚本を書き、おぞましいクリーチャーデザインをギーガー、宇宙服のデザインをメビウスが担当。
その「エイリアン」でブレイクしたリドリー・スコット監督は、後の「プロメテウス」でギーガーが「DUNE」のためにデザインしたハルコネン宮殿を、宇宙人の遺跡のデザインとして復活させた。
そして、70年代から現代に至るまで、多くのSF映画に残る夢の痕跡。
ジョージ・ルーカスが、「スター・ウォーズ」の準備中に、ハーバードの原作小説から強い影響を受けていたのは良く知られた話。
本作は、完成した映画にもホドロフスキー版のストーリーボードに酷似した描写があると主張するが、正直それはちょっとこじつけ過ぎな気がする。
それでも各映画会社に配布されたストーリーボード本は、多くの映画人たちの目に触れ、いくつかの作品でイメージの触媒としての役割を果たしたのは確かだろう。
ホドロフスキーの脚本では、ラストで主人公のポールが殺されるが、彼の心は自由を求める人々の中に生き続け、世界を変えてゆく。
同じように、映画「DUNE」は幻となっても、その志は形を変えて映画史に地殻変動を起こしたのである。
「ホドロフスキーのDUNE」に登場するのは、嘗てまだ誰も観たことの無い芸術によって、本気で世界を変えようと奮闘した人々だ。
映画でも漫画でも工業製品でも、特にモノづくりに関わる人は、本作を観るとドンと背中を押されるようなパワーを受け取り、自らの糧とすることが出来るだろう。
それにしても劇中に登場する「DUNE」の全てが詰め込まれた分厚い本、いつか誰かがホドロフスキー脚本版を映画化する可能性のためにも、是非復刻販売してくれないだろうか。
ある程度高額でも欲しいという人、結構いると思う。
世界でただ一人、ホドロフスキー本人の解説を聞きながらこの本を読み、幻の映画を“観た”ニコラス・ウィンディング・レフンが羨ましくてたまらない!
今回は、さる5月12日に転落事故で亡くなったH・R・ギーガーを追悼して、彼の故郷であるスイスの高地ワイン、「サンピエール ハイダ」をチョイス。
標高1000メートル前後という、ワイン用葡萄としてはヨーロッパで最も標高の高い畑で収穫されるハイダは小粒の品種で、醸造されるワインはフルーティーさとしっかりした酸味を持ち、ドライなのが特徴。
ハイダとは「異端」「非キリスト者」を意味するそうで、魔的な世界を作り出していたギーガーを想って飲むにはピッタリではないか。
ところで各方面に評判の悪いリンチ版の「デューン 砂の惑星」だが、確かに作品のトータルな出来栄えはあまり褒められないものの、キャラクターや世界観の悪趣味で不気味極まりない造形感覚などにはリンチ節が炸裂していて、これはこれで結構楽しめる。
そんなに最悪な作品ではないと思うのだけど。

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鬼才ダーレン・アロノフスキーによる、旧約聖書の創世記、“ノアの方舟”の映画化である。
予告編からは、聖書をモチーフにしたハリウッド風味のありがちなスペクタクル大作の様に見えるが、そうではない。
確かに方舟を巡る戦いは、エンターテイメント的なハイライトとして大いに盛り上がるものの、この映画の核心は、世界が滅びた後に方舟の中で一体何が起こったかという事だ。
「ブラック・スワン」で、バレエという煌びやかな世界の裏側、プリマ・バレリーナの内なる闇を鮮烈に映像化したアロノフスキーは、大いなる意思の創造物としてなすべき使命と、人間としての愛の間で葛藤し、徐々に心の均衡を失ってゆくノアの姿を描く。
聖なる方舟という世界の胎内を舞台に、人間存在の真理を問うた珠玉の心理スリラー、まことに恐ろしく、じっくりと考えさせられる傑作である。
※ラストに触れています。
知恵の実を食べて楽園を追われたアダムとエバは、カイン、アベル、セトの三人の息子をもうけた。
だが、カインがアベルを殺し、カインの子孫は創造主に背いた者として地上に栄える。
一方、残ったセトの子孫は善なる者だったが、その数は少なく幾世代が過ぎるうちに、ノア(ラッセル・クロウ)とその家族だけになっていた。
ある時ノアは、地上に悪しき人間が増えすぎたために、大洪水を起こして世界を滅ぼすという天啓を受ける。
人間が滅びた後、再び地上を生命で満たすため、動物たちを守る事が自分の定めと考えたノアは、嘗て人間と共に地上に降りた堕天使の力を借りて、妻や息子たちと共に巨大な方舟を作り始める。
だが、方舟が完成に近づいた時、カインの子孫トバルカイン(レイ・ウィンストン)が率いる軍勢が現れ、舟を奪おうとするのだが・・・・
キリスト教徒でなくとも十分楽しめると思うが、なるべくなら創世記の第九章までのあらすじと主要な登場人物は抑えておいた方がより深く理解できるだろう。
日本語訳がキリスト教、ユダヤ教関係のサイトなどで公開されているし、大した文量は無いのでサクッと読めると思う。
もともと旧約聖書は小説などの物語文学と比べると、エピソードの断片の寄せ集めの様なもので、文章としてはスカスカ。
出来事だけが記載されていて、心理描写がほとんど全く存在しないので、登場人物が何を考えているのかは想像するしかない。
もっとも、だからこそ聖典なのだ。
全てが説明されていない分、記載された出来事や登場人物の行いの解釈を巡り、行間を考え、自ら心の中で創造主と対話することによって信仰は深まってゆくのである。
例えば創世記の第九章には、洪水が収まった後、ワインの醸造をしていたノアが、泥酔して裸で寝てしまう描写がある。
父の醜態を見た息子のハムは、兄弟のセムとヤペテにその事を言いつける。
だがセムとヤペテは父に敬意を表し、後ろ向きになって父を布で覆い、決して父の恥ずべき姿を見ることはなかった。
目覚めたノアはハムの行為に怒り、なぜかハム自身ではなく彼の息子であるカナンに呪いの言葉を投げつけるのである。
ぶっちゃけ、自分の失態を棚に上げて孫を呪うとは、選ばれし善なる人にしてはずいぶん俗っぽいが、聖書にはノアがそれ程怒った理由は書かれていないのだ。
なぜハムは父に恥をかかせたのか、ノアはハムの中に何を見たのか。
映画は、文章には書かれていない、出来事の裏側にある登場人物の“動機”に迫ってゆく。(注:映画には登場しないカナンに関しての描写は無い)
これはその意味で、ダーレン・アロノフスキーによる聖書の再解釈と言えるだろう。
本作の基本プロットは、聖書の話の流れにかなり忠実。
しかしその行間を補完し、それぞれのキャラクターの視点から物語を捉える事によって、未見性の強い新たなるノア像を描き出す。
アロノフスキーは、ストイック過ぎるノアの葛藤を通して、人間にとって信仰とは何か、人はなぜ存在し、なぜ生きるのかという大いなる問を投げかけ、その答えを導き出すために一点、聖書から大きな脚色をしている。
創世記では、方舟に乗るのはノアと妻、三人の息子たちとその妻たちであり、それぞれの妻が何者なのかという詳しい記述は無い。
映画ではセムの妻となるイラだけを設定し、彼女を幼い頃に負った傷が原因で子供が産めなくなった女としている。
弟のハムとまだ幼いヤペテには妻はいないのだ。
つまり、現状の家族構成では子孫を残せない一家が、重要な使命を与えられた理由を考えたノアは、恐るべき結論を導き出す。
創造主は、人間が生き残る事を望んでいない。
自分たちは、洪水の間動物たちを守り、再び地上へと解き放ったら、滅びねばならない存在なのだと。
だからノアは、愛する者を欲しがるハムが、トバルカインの野営地から妻として迎えるつもりで救い出してきた少女ナエルを見殺しにして、彼が子を持つ可能性を無理やり断ち切らせる。
人間は、もはや地に増えてはならないのだ。
だが、この非情な決断によって、ハムの心には父の信仰への疑念が生じ、彼は「人間は自分の意志によって生きるのだ」と言い切るトバルカインに、思想的アンチテーゼとして心惹かれる様になるのである。
トバルカインは、火と金属を扱う鍛冶職の祖とされる人物であり、神を恐れず、神を超えようとする者、文明の象徴の様なキャラクターだ。
やがて大洪水が起こり、地上が滅びるとノアを更なる葛藤が襲う。
奇跡によって、イラが妊娠してしまうのである。
人間の絶滅こそが使命と信じて、ナエルを殺し、助けを求める多くの人々を見捨てたのに、創造主はまだ自分を迷わせる。
もはやノアには本当になすべき事が何なのか確信を持てず、かといって自分の行いを否定する事も出来ないのだ。
日本語字幕では残念ながら「神」と凡訳されてしまっているが、劇中ノアはただの一度も「God」という言葉を発しない。
彼は終始「Creator」という言葉で彼の導き手を呼んでいる。
これはもちろん、明確に意図された事だろう。
Godだと人間と神は相対化され、客観的な信仰の対象としての意味が強くなるが、Creator即ち“創造主”という言葉には、自らは創造された存在で、創造主の一部であるというニュアンスが色濃くなる。
この映画の世界では、天と地は現在よりもずっと近い。
それ故に、信仰はより内外一体なものであり、創造主の否定は自己存在の否定と同一なのである。
だからこそノアは、愛と信仰に内面を引き裂かれながらも「赤ん坊が女の子ならいずれ子を産むだろうから、生まれた時点で殺す」とセムとイラに言い放つしかないのだ。
信仰ゆえに家族を殺そうとするのは、創世記のもう一人の重要人物であるアブラハムが、彼の信心を試そうとする創造主の命によって、一人息子のイサクを生贄に捧げようとするエピソードに被る。
だが見方を変えれば、奇跡を否定するノアは既に創造主の御心に従っていない。
彼は天地が創造された時、全ての存在は善なるものであり、人間という悪が調和を破壊したという二元論のくびきに囚われてしまっているのである。
人間の多くは自分の中に善悪を併せ持つ事を認識しており、だからこそ悪事を働くにも心のストッパーが働く。
本当に恐ろしいのは、世界は悪に満ちているが、自分の中に悪は無いと思い込んでいるノアの様な人だ。
彼は無意識のうちに、自分の考えと創造主を同一視して、独善という悪を働いている事に気付かないのである。
ノアがカインの血族であるトバルカインを滅ぼすのは、カインによるアベル殺害からの連環であり、ノアもまた無原罪の存在ではなく、“人間”に他ならないのだ。
愛する家族を殺すか、生かすかという究極の決断によって、ようやくノアは真の意味での自己の確立を果たすのだが、それは同時に過去の自分を否定する事でもある。
陸地にたどり着いて使命を果たしたのに、ノアがワインでヤケ酒を煽るのには、深刻な自己嫌悪、そして自分が滅ぼしたトバルカイン的なる意識を自己の内面にも認識せざるを得ないからだろう。
映画は前記した泥酔事件の後ハムが父と袂を分かち、一人旅立つところで終わっているが、創世記によるとハムには四人の息子がいて、その末っ子がノアに呪われたカナン。
そして長男のクシュの息子ニムロドはこの世界に初めて王権を築いた人物であり、彼が建てた街こそが、後に人間が再び天の怒りに触れるバベルなのである。
アベルを殺し、創造主に背いたカインの血は洪水によって滅びたが、映画ではトバルカインの殺害を介して、反逆の血はハムの中に芽生えた事が示唆される。
無原罪の人間はありえず、それでも創造主は人間の存在を許した。
人は生きてゆく限り、自己存在について考え、善をなすために己が中の悪と葛藤しなければならない。
それこそが、贖罪と慈愛へと通じる唯一の道なのであろう。
ノアを演じるラッセル・クロウはさすがの名演。
もともとこの役はクリスチャン・ベールにオファーされていたそうだが、彼でイメージすると余計にホラーテイストが強くなりそうで、クロウでちょうど良かったと思う。
アロノフスキーは「レスラー」でのミッキー・ローク、「ブラックスワン」のナタリー・ポートマンらを見ればわかる様に、俳優の演技を引き出すのは抜群に上手いので、俳優陣は総じてキャラ立ちして印象的。
特に、赤子を抱えて狂気のノアと対決するシーンの、イラ役のエマ・ワトソンの演技は圧巻で、彼女が役者としてものすごく成長しているのがよく分かる。
「ハリポタ」以降は、二番手三番手のわりと地味目の役でじっくりキャリアを積んでいるけど、そろそろ主役を張っても良い頃ではないか。
今回は古代文明の地、レバノンからイクシール・レバノンの「グランド・レゼルヴ・レッド」をチョイス。
レバノンは実に5000年の歴史を持つ世界最古のワイン産地の一つ。
さらに旧宗主国のフランスからもたらされた技術によって、近代的なワイン産業が発展している。
グランド・レゼルヴ・レッドはフレンチオーク樽で12ヶ月の熟成を経て出荷され、ぎゅっと濃縮された果実味と、滑らかなビロードの様な柔らかい口当たり。
古の時代、この地でワインを作っていたのは、ノアの何代目の子孫なのだろうか。

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迫り来る100万のペルシャ軍、迎え討つのは僅か300人のスパルタ重装歩兵。
古代ギリシャと当時の世界帝国ペルシャが戦った、ペルシャ戦争のテルモピレーの戦いをモチーフとしたフランク・ミラー原作のグラフィックノベルを、ザック・スナイダーが鮮烈な映像感覚で魅せた歴史アクションの快作、「300 スリー・ハンドレッド」の続編。
今回は前作の10年前に起こったマラトンの戦いから、テルモピレーの激闘と平行して行われていたアルテミシオンの海戦、そしてギリシャ・ペルシャ両軍が雌雄を決したサラミスの海戦が次々と描かれ、前日譚と後日譚をいっぺんにやった様な構成だ。
監督はノーム・ロームにバトンタッチしたが、ザック・スナイダーが引き続きプロデュースと脚本を担当しており、漫画のコマ割りを思わせるスーパースローの演出をはじめ、作品のカラーは忠実に引き継がれている。
前作の主人公のスパルタ王レオニダスは、忠実な300人の手勢と共に全滅してしまったので、今回主役を張るのは、ギリシャ連合軍の海軍を率いるアテナイの将軍テミストクレス。
イケメンだしイイ体してるし、見た目は申し分ないのだが、やはり前作のレオニダスのキャラクターが強烈だっただけに、主人公としてはやや薄味に感じる。
レオニダスにあって、テミストクレスに無いもの。
それはスクリーンを支配する、圧倒的なカリスマ性だろう。
人物の激烈さを象徴するのが、前作で降伏を勧告されたレオニダスが、「This is Sparta!!!! 」と叫んでペルシャの使者を井戸に蹴り落とすシーンだ。
映像デザインとしても秀逸なこの描写によって、この筋肉オヤジ、ムチャクチャだけどスゲー!と思わされるのである。
対してテミストクレスは物腰穏やかな優男なれど、ギラギラした戦士のイメージはやや弱い。
今ひとつピリッとしないヒーローに代わって、キャラ立ちしまくっているのは、エヴァ・グリーンが嬉々として演じている、ペルシャ海軍の悪の女将軍アルテミシアだ。
何しろ、主人公のテミストクレスの背景が全くスルーなのに、このキャラクターは壮絶な人生の幼少期からバッチリ描かれるのだから、作り手の力の入れ様がわかるというもの。
ギリシャに生まれながらギリシャ軍に家族を殺され、前ペルシャ王に拾われて最強の暗殺者に育てあげられる。
マラトンの戦いで前王が戦死すると、今度は息子のクセルクセスを言いくるめて“神の王”に祭り上げると、ギリシャへの復讐戦へと王を唆すのだ。
つまり前作も含めてペルシャ戦争のフィクサーは彼女という事になり、そのせいで掌で転がされているクセルクセスまで妙な小物感が(笑
本作の実質的な主人公は、この哀しき女戦士であり、エヴァ・グリーンのゾクゾクする冷たい瞳に射抜かれ、マゾヒスティックに萌える映画である。
因みに中盤に彼女とテミストクレスが密会し、ある行為を通して戦いの主導権を奪おうとするシーンは傑作だ。
組んず解れつ、上になったり後ろに回ったり、まさか男女のアレを戦争のメタファーにするとは、過去に観たことの無い描写で思わず大笑い。
アクションは前作以上にてんこ盛りながら全体に既視感の強い本作の中で、一番インパクトを感じるシーンかもしれない。
期せずして、日本のW杯第二戦の相手でもあるギリシャ。
今回は同国の代表的なビール「ミソス ヘレニック ラガー」をチョイス。
クセの無い、スッキリした喉越しのピルスナータイプのラガーで、どんな料理にも合う。
「ミソス」とは神話・伝説の意であり、ペルシャ戦争では文字通り伝説化した勝利を収めたギリシャだが、W杯では試合前に飲み干してしまおう(笑

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現役の映画監督にはなぜかアンダーソン姓が多い。
誰もが認める若き巨匠ポール・トーマス・アンダーソン、箱庭的な独特の世界観で熱烈なファンを持つウェス・アンダーソン、更にはスリラーものを得意とするブラッド・アンダーソンら。
そんなアンダーソンズの中にあって「ダメな方のアンダーソン」呼ばわりされているのが、ポール・W・S・アンダーソンだ。
しかし、この呼び方にはちょっと納得出来ない。
確かに本当にダメな作品もあるが、「バイオハザード」シリーズや「AVP」など沢山の娯楽映画で、他のアンダーソンの誰よりも面白がらせてくれているではないか。
せめて楽しい方のアンダーソンと呼びたい、ポール・W・Sの最新作は、西暦79年にヴェスヴィオ火山の大噴火によって滅亡した古代都市ポンペイを舞台に、無敵のグラディエーターと高貴な姫君との身分違いの恋を描いたスペクタクルなラブストーリー。
ポンペイの最後を題材にした作品と言うとエドワード・ブルワー=リットンの小説を映画化した「ポンペイ最後の日」が有名だが、これはリメイクではなくオリジナルストーリーだ。
前半は「グラディエーター」の様な筋肉ムキムキの男たちのアクション編、後半は「ダンテズピーク」の様な噴火パニック編。
そして全編を貫くのがケルト騎馬民族の生き残りにして、ローマによってグラディエーターの身分に落とされたマイロと、ポンペイの有力者の娘、カッシアの恋と、彼女に横恋慕するローマ元老院議員のセクハラオヤジ、コルヴィスの「タイタニック」的な三角関係。
更にマイロにとって、コルヴィスは家族を皆殺しにした仇であるという、キャラクター相関図は出来過ぎなほどの濃密さ。
エンターテイメント要素てんこ盛り、ぶっちゃけベッタベタではあるものの、この節操の無いサービス精神は個人的には大好き。
ポンペイのコロシアムの無敗のチャンピオン、アティカスとマイロとの友情ストーリーも効果的なサブプロットとして効いている。
いくらなんでも恋愛モード突入が早急過ぎるとか、コルヴィスの若い娘への執着心強過ぎとか、色々突っ込みどころはあるものの、まあ許せる範囲だ。
火山灰に深く埋れたポンペイでは、生き埋めになった人の体の形がそのまま地層の中に空洞として残り、そこに石膏を注入する事によって人々の最期の姿が復元されている。
ポンペイに行ったことはないが、画像検索するとこの映画の登場人物の死に姿を連想させる石膏像が何体か出てくる事に気づく。
おそらく、本作の作り手たちは2000年前の物言わぬ石膏像の姿から、もしかしたらこんなドラマがあったかもしれないと、想像力を使って物語を紡ぎあげていったのだろう。
忘れられた古代都市と、そこに残る多くの人生の痕跡。
歴史の彼方に滅び去ったものに対して人々が感じる浪漫が、本作にプラスαのエモーションを与えているのは間違いなかろう。
実際深い仲になる暇も無かった事もあるけど、主人公カップルが最後まで純潔を貫いているのも、お互いを想う気持ちのピュアさを感じさせて良かった。
105分という比較的コンパクトな上映時間に、これでもかという位にエンタメ要素を詰め込んだ、これぞ良い意味でのプログラムピクチャ。
こっちのアンダーソンも、なかなか良い仕事してるではないか。
今回は古代ローマの人々も飲んでいた赤ワイン。
ポンペイを滅ぼしたヴェスヴィオ火山の麓に位置するカンパーニアを代表する銘柄、マストロベラルディーノの「タウラージ ラディーチ リゼルヴァ 1999」をチョイス。
この年のワインはちょうど飲み頃。
適度に熟成が進んで、チェリーを中心とした複雑な香りを楽しめる。
カンパーニアのワインは、イタリアの他の産地と比べて全体に品質に対するコストパフォーマンスが高い。
このクラスのワインが、日本でもそこそこの値段で飲めるのは嬉しい限りだ。

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昨年の「舟を編む」で大ブレイクした石井裕也監督が、早見和真の同名小説を映画化したヒューマンドラマ。
「ぼくたちの家族」というタイトルが示唆する様に、モチーフとなっているのは家族というミニマムなコミュニティのあり方だ。
バラバラだったある一家が、母の急病を切っ掛けにして、崩壊、葛藤、再生の道のりを歩む物語は、前作同様に派手さはないが、じっくりと登場人物の心の変化を描き、見応えは十分。
スッと心に染み入り、長く余韻を引く良い映画だ。
一見するとごく普通の、両親と息子二人の四人家族。
ある時、重度の物忘れの症状に悩まされた母が、病院で検査を受けた結果、脳腫瘍と診断され、余命七日を宣告される。
基本の視点を担うのは、妻夫木聡が演じる長男だ。
引き籠りだった過去を持つ彼は、既に結婚して家を出ているが、身重の妻はあまり親世代と関わりを深めたがらず、それが重荷となり実家とは距離がある。
ところが母の入院によって、父が事業のために巨額のローンを抱え、母までもがサラ金で借金まみれという事実が明らかとなる。
正に青天の霹靂、突如として変わってしまった世界に残された男所帯は大きく動揺するが、やがて母の病気に対するセカンドオピニオン、そして借金という家族の問題を解決するために、それぞれが全力で動き始めるのだ。
この物語は、原作者の実体験が元になっているらしい。
自身の母親が余命宣告を受け、転院先の病院を探している間に執筆を開始したという。
だからだろうか、設定は極めてリアルで、この種の所謂難病ものにありがちな、感傷的な美談に逃げなかったのが良かった。
何しろ、登場人物が直面している最大の問題は命と金という生々しいものである。
母の病気は本当に脳腫瘍なのか?治療の可能性は無いのか?借金を消すことは出来ないにしろ、それぞれが未来を向ける方法は無いのか?
元引き籠りでガラスの心の長男、目的の無いチャラ男の次男、優柔不断な父の三人は、いつの間にか崩壊していた家族の肖像、そして自分自身の弱さに今一度向き合い、現状に抗い再生への道筋を求める。
彼らの求心力の中心となり、葛藤の帰結を導くのは、病の進行によって認知能力に問題が出た結果、思いがけずも無垢な少女の様な聖性を帯びてゆく母の姿だ。
時に優しく思い出を語り、時に辛辣にそれぞれの欠点を突く彼女の前では、父も息子たちも虚飾を捨て、素の自分で問題にぶつかってゆくしかないのである。
石井裕也監督は、やはり「舟を編む」で一皮剥けたと思う。
丁寧な演出もそうだが、家族全員のキャラクターを上手く立てながら、物語の軸はあくまでも長男に固定し、ぶらさない作劇も巧みだ。
激しい感情の発露やドラマチックな事件は極力控え、例えば中華料理店での会食や、ある朝の突然の父子ジョギングに見られる様な、小さな日常の行動で着実に物語を転がし、変化を見せてゆく。
唯一、長男の妻に関しては最終的に非常に重要なポイントを担うので、もう少し内面を描いても良かった様に思うものの、バランスを考えると難しいところだ。
これは、ある家族の崩壊と再生を描いた力作であり、後味は優しく、気持ちが良い。
若いくせに良い意味でジジ臭い、石井監督の“円熟”を感じられる一本であり、次回作の「バンクーバーの朝日」も俄然楽しみになった。
何となく昭和の松竹映画をイメージさせる本作、昭和の庶民の酒、元祖ビアテイスト飲料のホッピーを使った「ホッピー割り」をチョイス。
発売元のホッピービバレッジが推奨する“三冷”の飲み方は、まずビアジョッキと甲種焼酎、そしてホッピーをキンキンに冷やす。焼酎は、ムード的にはキンミヤで拘りたいところ。
そしてジョッキに甲種焼酎を1、ホッピーを5の割合で注ぎ入れる。
これでちょうどアルコール度5%のビールっぽいホッピー割ができるというもの。
個人的にはもうちょっと焼酎を増やして、1:4位の方が好みだけど。
氷は風味を損なうので決して入れてはならない。
ちなみにホッピーは意外と地域差があって、関東地方ではメジャーだけど、地方に行くとあまり知られていなかったりする。

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マーベルコミックの人気ヒーローシリーズ「X-MEN」の第5作は、シリーズ初の時間SFだ。
あらゆるミュータントの特殊能力をコピーして増幅できる自立型ロボット兵器、センチネルが暴走し、ミュータントのみならず人類までもが存亡の淵に立たされた近未来。
運命を変えるべく、ウルヴァリンが過去の世界へと送り込まれ、プロフェッサーXやマグニートらとの共闘を試みる。
前作の「ファースト・ジェネレーション」で新登場した若きX-MENたちと、「ファイナル・デシジョン」までの旧キャストが結集し、時空を超えた戦いが繰り広げられるゴージャスな娯楽大作だ。
シリーズの立ち上げを担当し、社会派SFという独特のカラーを決定づけた後、ライバルDCコミックの「スーパーマン・リターンズ」に浮気してシリーズを離れていたブライアン・シンガーが、2003年の第2作以来11年ぶりに監督復帰、変わらぬ切れ味を見せつける。
※ラストに触れています。
西暦2023年。
ミュータントを滅ぼすために作られた恐るべきロボット軍団、センチネルの暴走によって、ミュータントも人類も等しく絶滅の危機に曝されていた。
そもそもの始まりは、1973年にミスティーク(ジェニファー・ローレンス)がミュータントを敵視するセンチネルの開発者、ボリバー・トラスク(ピーター・ディンクレイジ)を暗殺した事。
当時の政府はセンチネル計画に慎重だったのが、トラスクの暗殺によって逆にミュータントを危険視する様になり、計画の発動を承認したのだ。
追い詰められたプロフェッサーX(パトリック・スチュアート/ジェームズ・マガヴォイ)とマグニート(イアン・マッケラン/マイケル・ファスベンダー)は、シャドウキャット(エレン・ペイジ)の能力を使ってウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)を1973年に送り込み、暗殺を阻止しようとする。
センチネルの軍団が隠れ家に到達するまであと僅か、40年前に戻ったウルヴァリンは「恵まれし子らの学園」を訪ねるが、そこに現れたのは、クスリによって能力を失い、ジャンキーと化した若きプロフェッサーXだった・・・・
独立した作品になっているものの、あちらこちら「ファースト・ジェネレーション」からリンクしている部分があるので、少なくともあれだけは観ておいた方が楽しめるだろう。
センチネルの脅威が迫り、暗黒が支配する2023年から、ベトナム戦争末期の1973年へ。
タイムトラベルとは言っても、その仕組みはちょっとユニーク。
ウルヴァリンは肉体ごと過去に行くわけではなく、シャドウキャットの能力によって、精神だけが40年前の自分に宿るのである。
したがって、抜け殻となった肉体は2023年にそのまま残っており、未来の世界のX-MENたちは、センチネルの襲撃からウルヴァリンの肉体と、彼を過去に留めるために身動きのとれないシャドウキャットを守り抜かねばならないのだ。
ちょっと「アバター」のクライマックスを思わせる設定だが、これによってサスペンスフルな状況が生まれている。
過去と未来のX-MENたちが、それぞれの時代で自らの未来のために奮戦するのが、本作の最大の見どころだろう。
2000年に公開された第一作「X-MEN」以来、シリーズを通して基本的な世界観はほぼ一貫している。
自らもゲイのユダヤ人という、民族的、文化的マイノリティであるシンガーは、人類の進化系としてのミュータントたちを、世界のどの社会にも存在する様々なタイプのマイノリティのメタファーとした。
自分たちと異なる容姿、あるいは能力を持つミュータントを恐れ、迫害するマジョリティ=人類。
そして抑圧者に対して、融和と共存を選択するか、それとも優性思想に基づいて敵対を選択するか、二つの選択肢がプロフェッサーX率いるX-MENと、そのアンチテーゼであるマグニートらブラザーフッドの対立として象徴されるのは今回も変わらない。
本作の大きな特徴は、例えば前作のショウの様な明確なヴィランが存在しない事だろう。
73年の世界では、例によってプロフェッサーXとマグニートが対立するが、彼らも未来では対センチネルで共闘関係にある。
人類とミュータントの運命を握るキーパーソンであるミスティークとトラスクも、それぞれの立場で自分たちが属する集団を生き残らせようとしているだけで、それが結果的に相手にとって敵対する行為になるものの、どちらも意識して悪を行おうとしている訳ではない。
圧倒的な力を持つセンチネルも、もとはと言えば人類が開発して、その命令を忠実に実行しているに過ぎないのである。
この構図から浮かび上がってくるもの。
過去のシリーズでは常に物語の背景にあり、今回ブライアン・シンガーが作品の前面に打ち出したテーマは、結局は常に我々自身の選択の問題だという事だ。
プロフェッサーXの選択、マグニートの選択、トラスクの選択、ミスティークの選択、それぞれの選択が絡まりあって、その結果として未来がある。
マジョリティとマイノリティ、寛容と不寛容など、数多くの対立が存在するこの世界において、繁栄も破滅も、戦争と平和も、何らかの形で私たちが選んだ結果であり、未来を決めるのは運命などではなく、我々一人ひとりの考え次第なのである。
ちょっと思い当ったのは、本作と現在記録的な大ヒットになっている「アナと雪の女王」との類似性だ。
あの映画のエルサ女王は、触れたものを全て凍らせてしまう能力を持つミュータントであり、人々に怪物と恐れられて、氷の宮殿に引きこもる。
しかし物語のラストで、妹のアナの真実の愛に触れたエルサは帰還を決意し、人々もまた不寛容を捨ててありのままの彼女を受け入れ、共存を選択する。
「アナと雪の女王」は、ある意味「X-MEN」よりも「X-MEN」的な物語であり、このシリーズのもっとも望むべき結末を描いているのかもしれない。
もちろんSFアクションとしても見せ場はたっぷり。
未来でのVSセンチネルの死闘も迫力だが、やはり圧巻はクライマックスのホワイトハウス襲撃だ。
アメリカ政府の要人を一箇所に集めた上で、外部の干渉を退けてサシで勝負するための、マグニートの豪快な作戦に度肝を抜かれる。
過去エイリアンからテロリストまで、色々な敵に散々襲撃されてきたホワイトハウスだが、まさかこんな手が残っていたとは(笑
しかし、本作のタイムパラドックスによって、ウルヴァリンが第1作から第3作までとは別のパラレルワールドへと帰還した事で、事実上シリーズは仕切り直し。
J.J.エイブラムスがリブート版「スター・トレック」で仕掛け、大成功を収めたのと手法と同じだが、ジーンやサイクロップスら過去に死んだり所在不明になったキャラクターも大手を振って復帰できる訳だ。
という事は、「ファースト・ジェネレーション」から始まる新三部作の最終作となる次回、「X-MEN:Apocalypse」こそ、史上最も派手なミュータントバトルが見られるのではないかと今からワクワクする。
ちなみに、本作ではラストにチラリと登場した、アナ・パキン演じるローグの登場シーンは、次回作を待つまでもなくDVDで復活する様なので、こちらも楽しみだ。
今回はドラマのキーパーソンであるミスティークにちなんで「ブルー・レディ」をチョイス。
ブルー・キュラソー30ml、ドライ・ジン15ml、レモン・ジュース15ml、卵白適量を強くシェイクしてグラスに注ぐ。
卵白を使うので細かい泡ができ、それが口当たりをとても柔らかくしている。
ブルー・キュラソーのオレンジ風味とジンの清涼感のマッチングもよく、優しい味わいの美しいカクテルだ。

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大阪の団地で、大家族の愛に包まれて暮らす小学三年生の女の子、琴子(こっこ)のひと夏の成長を描くユーモラスなヒューマンドラマ。
天真爛漫だが、まだ他人の気持ちを思いやる事を知らない子供時代。
この世は未知の事だらけで、キラキラした好奇心は目に入るもの、耳に入るもの全てに向けられる。
でも、そんな“知りたい”という気持ちが、見ることも聞くことも出来ない、友達や家族の心の中に向けられた時、世界は今まで見えなかった新たしい顔を覗かせるのだ。
行定勲監督は、人が誰かの心と繋がろうとするときに、初めて体験する戸惑いと痛みを、子供たちの日常の中に寓話的に描き出す。
映画初主演となる芦田愛菜が、可愛くて小憎らしいエキセントリックな毒舌少女、こっこを演じて圧巻の存在感だ。
※核心部分に触れています。
小学3年生のこっこ(芦田愛菜)は、両親(八嶋智人・羽野晶紀)と三つ子の姉(青山美郷)、お爺ちゃん(平幹二朗)お婆ちゃん(いしだあゆみ)の8人大家族。
彼女は“普通”が大嫌い。
同級生のめぐみちゃん(草野瑞季)はある日“ものもらい”になって眼帯をしてきた。
一番の仲良しのぽっさん(伊藤秀優)は“きつおん”で、パクくん(古谷聖太)は“ざいにちかんこくじん”で、ゴッくん(野澤柊)の親は“ぼーとぴーぴる”らしい。
みんな人と違ってカッコええなあ、憧れる、真似したい!
でもある時、不整脈の発作で倒れたパクくんの真似をしたら、ジビキ先生(丸山隆平)に叱られてしまった。
なんで?不整脈って、カッコええやん?
納得いかないこっこに、お爺ちゃんが「イマジン」という不思議な言葉を教えてくれる。
そうして他人の気持ちをイマジンすると、新しい世界が見えてきたけど、同時に今まで知らなかった苦しさも芽生えてしまった。
小学3年生の夏休み、人の心のミステリを巡る、こっこの小さな冒険がはじまる・・・・
この映画とは、個人的に少し繋がりがあるので、あんまり推すのは憚られるのだけど、非常にユニークな視点を持った意欲作だと思う。
小学三年生が主人公だが、子供向けのいわゆるキッズムービーではない。
これはいわば、嘗て子供だった大人たちが、初めて他人の心という未知の世界に触れた時の新鮮な気持ちを思い出し、今一度追体験する映画だろう。
冒頭の眼帯少女のアップから、気分は一気にウン十年前にタイムスリップ。
確かに9歳の頃、人と違う事はカッコイイと思っていた。
こっこと同じ様に、クラスメートの眼帯が羨ましかったし、骨折してギプスをはめて来た子にも、在日韓国人の子にも憧れたし、真似できるものならしたかった。
「ものもらい」「ばくりゅうしゅ」「ふせいみゃく」
毎日知る新しい言葉を、こっこは秘密のジャポニカに書き留めている。
表紙には「だれおも あけることならぬ」の文字(笑
そうそう、これもやった。
成長期の子供たちには、倦怠なんて言葉は無縁。
未来は全て目新しく、驚きと発見に満ちている。
新しい言葉や知識は、なんだかそれ自体が宝物みたいに大切に思えたものだ。
特に一ヶ月以上という、当時は無限の長さに思われた夏休みは、ワクワクとウキウキの体験が詰まった、思い出の宝箱。
自分の家と学校の教室だけが世界だった頃には、初めて訪れるお金持ちの友達の家に目を見張ったり、学校の飼育小屋のウサギを世話するのだって大きな冒険だ。
子供の頃、世界は毎日新しく生まれ、広がってゆくものだったのである。
でも、自分のしたいこと、知りたいことばかり主張していると、いつか見えない壁にぶち当たる。
不整脈で倒れたパクくんの真似をして叱られたこっこは、なぜ担任のジビキ先生が怒っていたのかがわからない。
彼女は以前にもぽっさんの吃音を真似して、こっぴどく叱られた前科がある。
不整脈も吃音も、他の子供たちには無い特別な事、だからカッコいい、だから真似したい。
ぽっさんは、真似されて嫌だと思う人もいるからだと言うが、こっこにはその感覚がまだ分からないのだ。
そんな彼女をいつも見守っているお爺ちゃんは、「こっこは、友達がどんなこと考えてるか、知りたいと思わんか?そこからイマジンは始まるのかもわからんな」と言う。
「イマジン(想像する)」
このシンプルな言葉に隠された、成長のミステリ。
それからのこっこは、友達はもちろん、自分の周りのあらゆる人の心をイマジンし始める。
母に赤ちゃんが出来て喜ぶ家族の心、離婚しようとしているパクくんのお母さんの心、ノートの切れ端に変な言葉を書いては机に貯めている同級生の幹成海の心。
そして、遂には子供に自分の顔を踏ませては恍惚に浸る変態さんの心まで。
人間は、他人の気持ちをイマジンする事によって共感し、思いやる能力を身につける。
でもそれはやり過ぎると、共感を通り越して相手と一体化してしまったり、逆に本来必要のない遠慮まで作り出してしまう。
この世界は、沢山の人が座っている円卓の様なもの。
人間は一人では生きてゆけないけど、皆が同じことを考えている訳でもない。
皆が適度な距離感と一体感を持っていて、ぐるぐる回るターンテーブルに置かれた料理の様に、必要があれば共有し、必要なければ取らなければ良い。
これはイマジンに目覚めた9歳のこっこが、葛藤しながら世界の理を理解する物語だが、果たして私たちは、円卓を使いこなせているだろうか?
何となく、私を含めた大人たちの多くは、イマジンを始めた頃よりも“遠慮”が先走るように成ってしまっている気がするのだけど。
行定監督の映画で子供が主人公と言えば「遠くの空に消えた」が記憶に新しいが、あの映画は登場人物がやたらと多く、尚且つ子供たちも大人たちも同時に描こうとしていた。
その良い意味での猥雑さが、スクリーンから迸らんばかりの映画の熱を生み出していた事は確かだが、若干の観難さに繋がっていた事もまた事実だと思う。
対して本作は、あくまでも物語の視点はこっこに固定され、全ては彼女の世界の中で消化される。
映画の作りとしては非常にシンプル。
その分、こっこのキャラクターが決定的に重要なのは言うまでもないが、本作の大きな幸運は芦田愛菜という驚くべき才能を獲得できた事だろう。
もちろん、彼女の名前は知っていたものの、主演ドラマは観たことが無く、正直それほど印象には残っていなかったのだが、昨年の「パシフィック・リム」では驚かされた。
巨大怪獣に襲われた演技で、あれほどリアリティを感じさせるものは過去に見た事がない。
そして本作では、映画の中心軸にドーンと鎮座する堂々たる主役の存在感。
例えば是枝裕和監督の映画の子供たち様な、ドキュメンタリー的な自然さとは違う。
芦田愛菜は、才能溢れる俳優であり、表情豊かな目の演技には観客をスクリーンに惹き込む力がある。
大人たちが“子役”という曖昧な言葉でなく、演技者として彼女を正当に評価するなら、年末の賞レースでは主演女優賞の有力候補となるだろう。
俳優陣の中でもう一人印象深かったのが、こっこの三つ子の姉を演じた青山美郷だ。
一人三役、一度演技をして、今度は自分の声を頼りに他の二人を順に演じている訳だが、普通に三つ子の俳優にしか見えない微妙なキャラクターの演じ分けはお見事。
今後要注目の若手女優である。
今回は、鹿が物語のキーになるお話なので、地元大阪の地酒、秋鹿酒造の「秋鹿 純米酒 千秋」をチョイス。
原料の酒米作りから酒造り、販売まで蔵で一貫して行い、生産される全量が純米酒という拘りの強い蔵で、高品質な日本酒には定評がある。
柔らかな米の味わいと旨み、適度なキレと酸味のバランスはよく、あわせる料理を選ばない。
高いコストパフォーマンスは、正しく庶民の味方だ。

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