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日本映画が生んだ銀幕のスーパースター、怪獣王ゴジラの10年ぶりの復活にして二度目のハリウッド映画化。
突如として出現したゴジラと謎の怪獣ムトーの戦い、人知を超えた巨大生物の脅威に直面し、彼らを倒そうとする人類の葛藤が描かれる。
監督は低予算SF「モンスターズ/地球外生命体」で注目され、本作に抜擢された俊英ギャレス・エドワーズ。
1998年に作られた前回のハリウッド版が、あまりにもオリジナルと乖離した内容で世界中で大不評を買った事を踏まえて、今回はファンの観たいゴジラ像を追及した作品となっている。
1億6000万ドルというシリーズ史上最大の製作費と、最新の映像テクノロジーによって、本来の“荒ぶる神”として復活したゴジラの咆哮は、心に響き魂を奮わせる!
※ラストに触れています。
1999年、フィリピン。
崩落した坑道内で巨大な化石と謎の寄生生物の卵が発見され、特別研究機関MONARCHの生物学者・芹沢猪四郎博士(渡辺健)は、1954年に出現した怪獣ゴジラとの関連を疑う。
一か月後、日本の東海地方で大地震と原発事故が発生し、放射能に汚染された地域一体は封鎖される。
そして15年後の現在。
アメリカ海軍の爆発物処理のエキスパート、フォード・ブロディ大尉(アーロン・テイラー=ジョンソン)は、戦地からの帰還早々父の核物理学者・ジョー(ブライアン・クランストン)が日本の立ち入り禁止区域で拘束されたと連絡を受ける。
原発スタッフだったジョーは99年の事故で妻を失い、日本政府が廃棄された原発に何かを隠していると疑い、ずっと東京に残って調査を続けていた。
ジョーを引き取りに日本に向かったフォードだったが、父の熱意にほだされて、立ち入り禁止地区に二人で入る。
そこで彼らが見たものは、原発跡に作られた奇妙な研究施設と、巨大な生物の“繭”だった・・・・
ローランド・エメリッヒ版の「GODZILLA」を観たときの失望は、いまだに忘れられない。
奇しくも本作のクライマックスの舞台となるサンフランシスコの映画館で、深夜に開かれた最速上映で米国のファンに交じって観たのだが、ただただ街を走って逃げ回るゴジラに観客のストレスがどんどん高まってゆくのがダイレクトに感じられた。
「なんでビルをぶっ壊さないんだ!」「なんで放射能火炎を吐かないんだ!」
終盤でようやく一発吹いてはくれたものの、あれは放射能火炎じゃなくて単なる火で、しかも単発(笑
挙句の果てに、ミサイル数発で死んでしまったゴジラもどきの姿に呆然とし、多くの人が悪態をつきながら映画館を後にしていた。
北村龍平監督の「ゴジラ FINAL WARS 」で、“GODZILLA”から“GOD”が無い“ジラ”だと揶揄されたのもさもありなん。
後から考えると、あれは「GODZILLA」というタイトルが悪かった。
これは関係者も認めているが、エメリッヒは「原子怪獣現る」のリメイクがやりたくて、お金集めの口実として日本のビッグネームを借りたのであって、彼自身はオリジナルに何の思い入れもなかったのだと思う。
実際その前提で観ると、それほどヒドイ映画ではないのだが、観客にとっては日本蕎麦をオーダーしたのに、食べてみたらパスタだった!みたいなギャップがあったのだ。
あれから16年。
再びハリウッドで作られた「GODZILLA ゴジラ」は、ついに本来の姿を取り戻した。
アメリカ的にファット・・・もとい、マッチョに造形されているが、オリジナルと似ても似つかぬフォルムだったエメリッヒ版と違って、今回のゴジラは誰が見てもゴジラである。
デザインだけの事ではなく、重要なのはそのキャラクターだ。
オリジナルシリーズでも、ゴジラという存在の意味付けは、時代によって徐々に変化してきている。
1954年版では、人類によって傷つけられた自然の怒りであり、オキシジェン・デストロイヤーによって、初代芹沢博士と共に海の藻屑として消える悲劇性の強いキャラクターであった。
その後「ゴジラの逆襲」での復活から対怪獣シリーズを重ねるうちに、人類の意向とは関係なく存在し、決して殺す事の出来ない荒ぶる神としての性格を強め、やがて作品のメインターゲットが子供に移るにつれて人類の味方としてのキャラクターを確立する。
今回のゴジラは、ちょうど対怪獣シリーズで傑作を連発していた1960年代の黄金期のイメージに一番近いのではないか。
意外だったのは、マッシブな造形から番長感半端ないゴジラに、日本を代表するもう一つのビッグネームの影を感じた事だ。
飛行能力を持つ敵怪獣が先に出現し、暴れまわる巨大な力に人類はなす術がない。
やがて彼らを追うようにして善玉怪獣が姿を現し、大都会を舞台にした三つ巴の最終決戦になだれ込む・・・という話をどこかで聞いたことがないだろうか?
そう、本作の脚本チームは日本の怪獣映画を実によく研究して、オリジナルシリーズだけでなく、プロット的に言えば平成「ガメラ」シリーズの影響を強く受けていそうなのだ。
日本では東宝が必死にムトーの存在を隠して、54年版同様の恐怖の象徴としてのイメージで売ろうとしているが、実際の作品を観ればゴジラは脅威であると同時にガメラ的なヒーローでもあり、いわば二つのビッグGのハイブリッドの様な作りになっているのは面白い。
ただし、ゴジラと平成ガメラの最大の違いは、その存在が人為的か否か。
古代アトランティス人の開発した生物兵器という設定の平成ガメラやギャオスは、自然の象徴であり、人類にはアンタッチャブルなアニミズムの神的存在である、ゴジラを筆頭とした東宝怪獣とは本質的に異なるのである。
本作を観て、一番驚かされたのもこの点だ。
米国で最も有名な巨大モンスターと言えばキングコングだろうが、伝統的にハリウッド映画の怪物は、どれだけ大きくても既知の生物のスケールアップ版であって、有限の命を持つ生物である事には変わりは無い。
イグアナの突然変異という設定だったエメリッヒ版ゴジラは正にそれで、単にでかいサイズのトカゲなのだから、そりゃミサイルで殺せてしまうのである。
対する本家ゴジラは、アニミズム的世界観の中で生まれた、地震や台風の様な人間には制御不能の自然の象徴だ。
むろん西洋にも自然崇拝の概念はあるものの、長いハリウッドの歴史の中でも、荒ぶる神という、東宝型怪獣のイメージそのままでキャラクターを作り上げているのは、おそらく初めてではないだろうか。
西洋の“MONSTER”とは異なる巨大生物という意味での“KAIJU”という言葉は昨年の「パシフィック・リム」でも採用されていたが、あはどちらかというとガメラ系の怪獣であった。
本作の劇中でもゴジラを“GOD”と呼ぶ科学者に対して、軍人であるフォードが“MONSTER”だと言いなおす、怪獣の概念に関する衝突の描写がある。
怪獣をある種の自然の化身であり、アニミズムの神と捕えた作品が、ハリウッドで作られて大ヒットしたのは画期的と言って良いだろう。
したがってゴジラとムトーの戦いは、神々の行いであるであるから、ちっぽけな人類に出来る事はほとんどない。
富士の裾野に広がる謎の地名“ジャンジラ”はご愛嬌だが、冒頭から地震と原発事故、そして政府による隠蔽と、日本では腰が引けて作れなそうな所をグイグイ突いてくる。
しかし一度怪獣が姿を表すと、以降人間たちは一度たりともドラマの主導権を握る事はない。
唯一の能動的役割と言えば、太古の存在にとってエネルギー源となる“核”というアイテムによって自然のバランスを崩し、彼らを復活させる切っ掛けを作り出しただけなのである。
一応の主人公となるのはキックアスの中の人が演じるフォード大尉だが、彼は遠い日本で災難にあって、基本的に妻子が待つサンフランシスコに帰ろうとしているだけだし、準主役である二代目芹沢博士は、怪獣たちの観察者以上の存在になろうとはしない。
ある意味達観した視点で自然現象としての怪獣の行動に任せようとする彼は、54年版で志村喬が演じ、「ゴジラを殺すのではなく研究せよ」と訴えた、山根博士を現代化したようなキャラクターだ。
もっとも、広島で被爆した父の懐中時計を持ち歩き、米軍に核兵器の使用をやめるように訴える事で、やや薄味ながらもオリジナルと共通する反核のメッセージを体言しているのは彼なので、テーマ的な意味で言えば人間側の主役は芹沢博士と言えるかもしれない。
ただゴジラとムトーが強大過ぎる事もあるが、人間ドラマが怪獣たちの戦いとあまり上手く絡んでいるとは言いがたく、ディテール部分の多くの突っ込みどころも含め、脚本の詰めの甘さはマイナスポイント。
しかし、その辺りを差し引いても、私はこの映画を大いに楽しんだ。
実のところ、ハワイでゴジラがはじめて全身を現して咆哮するシーンと、サンフランシスコの戦いで最初に放射能火炎を吐くシーンでは、あまりにも待ち望んだイメージにピッタリだったので、ちょっと感涙してしまった。
ハワイ空港の列車を使った54年版へのオマージュ、「パシフィックリム」ともかぶるアメリカン怪獣の聖地、ゴールデンゲートブリッジのシーン、米海軍の艦隊がゴジラを追走している巨大さと荘厳さを感じさせる秀逸なイメージ。
窓枠や障害物などを使ってフレーム越しに怪獣を捕えるショットが多いのも、古の円谷特撮を思わせて、ビジュアルイメージはなんだか新しいんだけど懐かしい。
まあ怪獣の画をもっともっと見せて欲しかったのは確かではあるけれど、その分具現化された映像は見事なものが多かった。
先日のコミコンで、既に続編の正式決定とエドワーズ監督の続投がアナウンスされているが、なんでも次はラドン、モスラ、キングギドラが登場するという。
まさか「三大怪獣 地球最大の決戦」のリメイクでは無いだろうけど、怪獣版「アベンジャーズ」に期待は高まる。
ちなみにレジェンダリーは「キングコング」のリブートも手がけるそうで、いつか「キンゴジ」の復活もありかも・・・?とか妄想するだけでも楽しいではないか。
巨大な怪獣王は海から現れ、素晴らしい視覚効果によって見応えある怪獣プロレスを展開し、再び海へと帰ってゆく、まことに正しいゴジラ映画。
これは是非とも、劇場の大スクリーンで堪能すべき作品だろう。
今回はオリジナル「ゴジラ」の生みの親でもある、特技監督・円谷英二の故郷から程近い、福島県二本松市の人気酒造から円谷プロ公認の「純米総攻撃」をチョイス。
これはゴジラではなくてウルトラマンの怪獣たちがモチーフになっているのだけど、箱やラベルもいかにも昭和の特撮の香りがして、眺めているだけで楽しい。
お味の方はやや甘口で、この季節なら冷やしてBBQのお肉やから揚げなどとの相性が良いと思う。
売り上げの一部は、被災地の子どもたちを支援するウルトラマン基金に寄付されるという。

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ピクサー・アニメーションスタジオの「カーズ」シリーズから生まれ、世界観を共有するスピンオフ、「プレーンズ」の第二弾。
全体に子供向けを意識したやや緩い展開から、世評はあまり良くなかった前作だが、もともと飛行機好きということもあって私は結構楽しめた。
今回もそこそこかなあと、正直あまり期待せずに鑑賞したのだが、ななななんと前作より数段面白いじゃないか!
片田舎の農薬散布機からエアレーサーへと華麗なる転身を果たしたダスティが、今回は勇敢な消防飛行機となって最悪の森林火災に挑む。
脚本は前作のジェフリー・M・ハワードが続投、監督はOVAの「ティンカー・ベルと輝く羽の秘密」のボブス・ギャナウェイにバトンタッチ。
小さなお友だちだけでなく、大きなお友だちでも十分楽しめるスカイ・アクションの快作だ。
平凡な農薬散布機からエアレーサーとなったダスティ(デイン・クック/瑛太)は、連戦連勝を重ね、今や世界的なスーパースター。
故郷のプロップウォッシュ・ジャンクションで開かれるイベントも、ダスティが出場するだけで予約が殺到し、小さな街の住人たちは大喜びしている。
ところが、訓練中にギアボックス破損し、ダスティはエンジンをレッドゾーンまで回せなくなってしまう。
おまけに無理な飛行をして空港で火事を引き起こした結果、消防士をもう一人雇わないとプロップウォッシュの空港が閉鎖されてしまう事に。
悩んだダスティは自分が消防士の資格をとって、空港を救おうとするのだが・・・
「カーズ」のスピンオフなのにピクサーではなくディズニーで公開され、ブランド・アイデンティティの危機が云々された前作だが、もともとコックピットのウィンドが“目”になっている飛行機を主人公としたのは、1943年のディズニーの古典オムニバス映画「ラテン・アメリカの旅」の1エピソード、「小さな郵便飛行機 ペドロ」が元祖だと思う。
その後、この表現は地面に降りて「青い自動車」のスージーなどに受け継がれ、長い歳月が経った後で「カーズ」、そしてこのシリーズが生まれた訳だが、「プレーンズ」は「カーズ」のスピンオフであると同時に、「ペドロ」を継承する作品でもあるのだ。
本作がピクサーではなく、ディズニー作品として製作されたのは、歴史を振り返れば別にアイデンティティの混乱とは言えまい。
農薬散布機からエアレーサーに転身し、大成功したダスティが今回直面するのは、アスリートの悲哀。
世界的なレーサーとして栄光の絶頂を極め、故郷プロップウォッシュ・ジャンクションの英雄となった彼は、ギアボックスの故障からエンジンを全開にすることが出来なくなってしまう。
仲間たちが必死にパーツを探してくれるが、旧式のために何処にも見つからず、複雑過ぎる構造ゆえに修理もままならない。
一生懸命努力して、大切な仲間にも恵まれて、これ以上無いほど幸せだったのに、終わりは唐突にやってくる。
機械(キャラクター)の持つ長い歴史(人生)の中で、何らかの夢を追った者に必ずやってくる挫折とどう向かい合うかは、「カーズ」からはじまるシリーズの裏テーマと言っても良いと思う。
今まではドク・ハドソンやスキッパー・レイリーと言った、サブのキャラクターが主に担ってきた役割を今回は全面に出し、主人公自身のテーマとした訳だ。
もはやレーサーとして飛ぶことはできない、しかしだからと言って元の農薬散布機に戻る訳にもいかない。
それはダスティにとって後退であり、敗北にほかないからだが、ならば何か別の生き方を見つけるしか道はない。
そんな苦悩するアスリートは、結果的に自分が引き起こしてしまった故郷の危機を救うために、消防飛行機に志願することになるのだ。
消防士資格をとるために、ダスティがやって来たのは、ヨセミテにイエローストーンをミックスした様な、自然豊かな国立公園ピストン・ピーク。
ここでの新たな仲間たちは、皆生粋の消防飛行機ではなく、ダスティ同様に過去に別の職業を持っていた転職組だ。
軍用機だったり、貨物機だったり、はたまた人気ドラマの俳優ヘリだったりと様々だが、共通するのは過去は過去として、今を懸命に生きていること。
格納庫の壁には過去に消防隊に所属した飛行機たちの写真が貼ってあるが、そこに写真がある者は、消火活動中に墜落して戻らなかった、即ち殉職した者たちだ。
明日、突然自分の存在が消えてしまうかもしれない、世界一過酷で厳しい環境。
そこでは過去に囚われて感傷に浸っている暇など無い。
はじめはレーサーへの未練や、プライドが邪魔をして、チームプレーに徹する事が出来ないダスティだが、他人の命を救うために、自分の命を惜しまない仲間たちの姿を見ているうちに、彼もまた徐々に変わってゆく。
世界一速く飛ぶことと同じくらい一生懸命になれる、自分の人生をかけられるもう一つの生き方を見出すのだ。
えてして思い通りにならない人生だけど、自分の出来ること、すべきことを精一杯やればおのずと道は開けてくるし、人生は決して一本道ではない事をダスティは、いや彼を通して観客もまた知るのである。
ドラマの充実と比例して、ビジュアル的にも完成度は高い。
消防飛行機の活躍を描いた作品というと、スピルバーグの「オールウェイズ」が印象深いが、本作の描写も実写さながら。
燃え盛る森林火災に、消防飛行機たちが命がけで突っ込んでゆくアクション・シークエンスは迫力満点だ。
こちらは車オタクのジョン・ラセター監督作品ほどマニアックさが前に出ることは無いが、ディテールは細かいところまで実に詳細に描写され、飛行機ものとしても満足度は相当に高い。
ギミック好きの私は、サンダーバード2号チックなシコルスキーCH-54タルへが大好きなので、結構重要な役での登場が嬉しかった。
ネーミングの元となったワイアンドット族の酋長と同様に、先住民として描写されてるあたり芸が細かい。
しかしこれ、メインターゲットが子どもだからだろうけど、吹き替え版しかないのは昨今のマーケット事情を考えればまあ仕方がないとしても、3D版が用意されていないのは残念だ。
飛翔感たっぷりのスカイ・アクションは、2Dで観ても立体効果抜群なのは想像出来るし、本国ではちゃんと3D版があるのに、日本ではBlu-ray発売までおあずけとは悲しい過ぎる。
三部作の最終作では是非3Dを劇場で楽しめる様にして欲しい。
そうそう、まさかの「CHiPs」ネタは世代的にツボで、そういえばあの二人ドラマ終了後は殆ど見なくなっちゃったけど、今なにやってるんだろうと思ったら、どうやら俳優業は続けている様だ。
さすがに消防士に転職は無いか。
今回は飛行機の次はロケットかも?という事でカリフォルニアのワインどころとして知られるソノマ・カウンティの地ビール、ベアリパブリック・ブリューイングの「レッド・ロケット」をチョイス。
旨味と独特の香りが舌と喉にしっかりと染み込み、ホップ感も適度に強いスコティッシュ・レッドエール。
この会社はレース活動をしていて、「RACER 5」というカッコ良いラベルのデザインが特徴的な、インディア・ペールエールもある。

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「借りぐらしのアリエッティ」の、米林宏昌監督による長編第二作。
原作は英国の作家、ジョーン・G・ロビンソンの児童文学で、舞台を北海道の架空の街に変更し、心と体に傷を抱えた12歳の少女杏奈と、謎めいた少女マーニーとのひと夏の交流を描く。
昨年公開された2本のジブリ作品「風たちぬ」と「かぐや姫の物語」は、共にアニメーション映画史に残る傑作だったが、米林監督はポスト宮崎・高畑世代として実に見事なアンサームービーを作り上げたと思う。
おそらく、御大たちの作品に比べれば制作期間もバジェットも大幅に縮小されているはずで、実際とても小さな世界の物語なのだけど、志は決して負けていない。
じわじわと心に染みこんできて、いつの間にか作品世界の虜にされ、終わった後には長く静かな余韻を味わえる、まことに愛すべき小さな宝石の様な作品だ
※ネタバレは最小限だけど、鑑賞前には読まないでください。
夏の頃。
心を閉ざした12歳の少女、杏奈(高月彩良)は、持病の喘息の療養のために、海沿いの田舎町に暮らす親戚の元にやってくる。
入り江の湿地帯の奥に建つ古い洋館になぜか心惹かれた杏奈は、誰も住んでいないはずの館から現れた同世代の金髪の少女、マーニー(有村架純)と出会う。
それ以来、杏奈とマーニーは入り江に潮が満ちる夜毎に会い、お互いの秘密を語り合ううちに、いつしか二人は固い友情で結ばれる様になる。
しかしマーニーは、自分の事は決して誰にも話してはいけないという。
一体なぜ?マーニーは何者なのか?
ある日、杏奈が館を訪れると、そこでは引越し作業と改装工事が始まっていた。
驚いて立ち去ろうとした杏奈を、見知らぬ少女が呼び止める。
「マーニー!あなたマーニーでしょ?」と・・・・
なんとリリカルな美しい映画だろう。
原作は未読で、正直予告編からもどんな映画なのかが全然伝わって来ず、百合っぽい少女たちの友情ものなのかと思っていたが、いやあ良い意味で期待を裏切られた。
主人公の杏奈は、幼い頃に実の親を亡くし札幌で養父母に育てられている。
血縁が無いとはいえ両親は優しく、何不自由の無い恵まれた生活。
しかしある事をきっかけに、杏奈は彼らの愛を信じられなくなってしまうのだ。
彼女は「この世界には魔法の輪があって、輪の内側の人と外側の人がいる」と言う。
屈託なく笑う同級生たちは内側の人で、自分はその中には決して入れない外側の人なのだと。
マーニーと過ごしたミステリアスなひと夏の経験は、疎外感から家の中でも学校でも孤立し、いつしか心を固く閉ざしてしまった杏奈が、魔法の輪の本当の秘密を解き明かす思春期の通過儀礼。
これは孤独な少女が、いかに自分の周りが愛に満ちているのかを知る、真実のラブストーリーなのである。
物語的には杏奈がマーニーと出会い、毎夜二人で秘密の時間を過ごす以外に、特に大きな事件は何もおこらない。
なぜ杏奈は一度も行った事のない洋館に心惹かれたのか?
マーニーとは一体何者なのか?なぜ杏奈の前に現れたのか?
映画はマーニーの正体を巡るミステリを牽引力に、二人の少女がお互いを合わせ鏡として心に隠している葛藤を吐露させてゆく。
まあこれは観ていれば直ぐにわかってしまうのだけど、マーニーは現実の存在ではない。
はるか時の彼方から杏奈の心を訪れ、この世界の理へと彼女を導いてゆく存在なのである。
過去からの思念が現在に影響を与えてゆくという物語構造は、例えばジャック・フィニイ辺りが好きな人は絶対はまると思う。
マーニーを巡る意外な真実、そしてなぜ彼女が杏奈と出会わなければならなかったのかが明かされる、終盤30分の組み立ての巧みさは、物語を味わうカタルシスを感じさせ、スクリーンから溢れてくる愛の深さに、思わず号泣してしまった。
思えば、米林監督の前作「借りぐらしのアリエッティ」も、なかなかに面白い青春ファンタジーの佳作だったが、疑問に感じる部分もいくつかあった。
たぶん、脚本でクレジットされていた宮崎駿とのベクトルの違いなのだろうが、人間の少年と小人の少女の物語に、彼らを含むより大きな世界を象徴させようとする意図と、逆にパーソナルな青春の葛藤を描きたいという意図が必ずしも噛み合わないまま展開していた様に思う。
物語が三幕構成の第二幕、即ち若者たちが困難な人生に歩みだす部分で断ち切られているのは狙いだとしても、彼らが基本的に受動的な立場のままで、自らの決断によって大きく変化する前に終わってしまうのはやや物足りなく感じた。
本音かどうかはわからないが、ジブリの鈴木プロデューサーは本作が企画された経緯について、こんな事を言っている。
「(宮崎駿が)口を出す、手を出す時は男女の話。女同士の話については手を出さないから」
なるほど(笑)確かにガール・ミーツ・ガールの題材に宮崎氏は興味がなさそうで、結果的に若い世代が巨匠の影響から逃れ自由に作れたという事だろう。
実際、本作には「アリエッテイ」の様なテーマ性の歪みは微塵も感じられず、物語は収束点に向けて淀みなく紡がれている。
ロジカルに構成されたプロットも良く出来ているが、米林監督の演出力にも着実に進化を感じさせられた。
特にキャラクターのちょっとした仕草を通じた感情表現が実に緻密。
荷物の中に養母からのメッセージを見つけた杏奈が、無造作に封筒を放り投げる時の胸のうち。
削りすぎた鉛筆の芯が折れてしまい、それでもそのまま削り続ける時の葛藤。
演技によって繊細なリリシズムを感じさせ、閉ざされた主人公の心のドアをゆっくりと開いてゆく。
脚本・映像表現共に、ディテールの荒さは残るものの、本作を観る限り、米林監督は宮崎駿とも高畑勲とも違う作家性を開花させつつあると思う。
もう一つ特筆すべきなのは、優れたファンタジーの必須要素である魅惑的な世界観だ。
ここにあるのは一見どこにでもありそうな日本の田舎の風景、しかしそこは日常と非日常の狭間に存在する特異な時空である。
スクリーンに飛び込み、あの祭りに参加してみたい。
月夜の海でマーニーとボートを漕いで、森でキノコを採り、不気味なサイロを探検したい。
小さな入り江に湿地帯が広がる美しい街、思い出の器である壮麗な洋館、手作り感のある親戚夫婦の家など、遊び心溢れる美術デザインはさすがは種田陽平。
そしてこの作品世界への誘惑をより強めている、夏という季節、さらに杏奈とマーニーの秘密の時間が夕暮れのトワイライトタイムという設定も良い。
思うに四季の中でも、夏は一番その移り変わりがわかりやすい季節だと思う。
梅雨から盛夏、そして駆け足でやってくる秋の予感は、例えば響き渡る蝉の声の変遷によっても感じ取れる。
また映画やドラマでは、よく早朝や夕方が使われるが、それは昼や夜と違って、時間による空間の変化そのものがドラマチックなシチュエーションとなるからだ。
夏休みという特別な時間の、昼間と夜が溶け合う夕暮れは、正に幽玄の世界。
死者の魂が、この世に残した愛のために、優しく生者を慈しむ幻想の時なのである。
「思い出のマーニー」は、とても静かな作品だが、観る者の心の隙間にすっと入り込み、いつの間にか忘れられない印象を残す秀作だ。
もっとも、宮崎駿の作品をイコールでジブリ映画と捉えるファンには、物足りなく感じる人もいるだろう。
90年代以降の宮崎作品に特徴的な、強烈な死生観や破壊的なパワーはこの作品には見られず、世界のあり方に関して明確な主張もない。
でもそれは当たり前だ。
十二歳の頃には、色々な思春期の葛藤を抱えてはいたけれど、生も死も現実的な概念ではなかった。
世界はずっと小さくて、ようやく自我と半径1キロの世界との関係をイマジンできる様になる頃である。
宮崎作品だって、例えば「魔女の宅急便」のキキは、自分と身の回りの事で精一杯だったではないか。
奇しくも大ヒットしている「アナと雪の女王」と本作は、ダブルヒロインというだけでなく、テーマへのアプローチも相通じるものがある。
あの映画で、超常の力を持つがゆえ氷の宮殿に閉じこもった雪の女王は、妹アナの献身によって真実の愛を知るが、本作で心の部屋に鍵をかけてしまった孤独な碧眼の少女は、時空を超えて現れた自らの分身によって癒され、自分が愛に包まれている事に気付く。
どちらの作品にも共通するのは、観客もまた彼女らと共に心を解放されるということではなかろうか。
本作は、少々使いすぎじゃないかと思うほど、月が印象的に描写される作品なので、「ブルームーン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、クレーム・ド・バイオレット15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
クレーム・ド・バイオレットが作り出す、幻想的な紫色が美しい。
ジンの清涼さとレモンの酸味も涼しさを演出し、夏の夜にピッタリのロマンチックなカクテルだ。

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劇中で殺されること実に5万回。
日本一の斬られ役として知られる俳優・福本清三、71歳にして初の主演作!
タイトルが示唆する通り、物語のモチーフとなっているのは、チャールズ・チャップリン晩年の代表作「ライムライト」だ。
年老いた道化師が才能豊かなバレリーナの少女を見出し、彼女の活躍を見ながら一人静かに死んでゆく、あの切なく美しいラブストーリーである。
チャップリンの研究家としても著名な脚本の大野裕之は、舞台を100年前のロンドンから現代の東映京都撮影所に変更し、斬られ人生50年の老俳優と女優志望の少女の継承の物語へと換骨奪胎した。
決して器用な映画ではないが、愚直なまでにド直球な語り口が、本作にいい意味で昭和風味の朴訥な味わいを与え、忘れられない作品に仕上がっている。
※ラストに触れています。
本来ライムライトとは、電球が発明される前に軍用サーチライトや舞台照明として使われていた、化学反応によって光を作り出すカルシウムライトの事である。
その嘗てない強力な明るさは、ステージで躍動するダンサーや俳優たちを浮かび上がらせ、いつしか“名声”を意味する言葉となった。
だが実際に照明機器として使われた期間は短く、19世紀後半に電球が発明されると、急速に姿を消していったという。
チャップリンは、一時的にもてはやされながらも、やがて忘れられていったライムライトに、芸能に生きる者たちの人生を重ね合わせたのである。
そして21世紀のライムライトに例えられるのは、近年製作本数が激減している時代劇と、福本清三演じる斬られ役専門の老俳優・香美山だ。
時代劇のメッカとして長く隆盛を極めた太秦にも、時代の変化の風は否応なしに吹き荒れる。
勧善懲悪の昔ながらの時代劇は観客に飽きられ、斬る者と斬られる者の信頼関係によって成立していたプロフェッショナルな殺陣の技もCGに取って代わられる。
映像の現場に居場所を失った香美山は、映画村のショーで刀を振るうしかない。
しかし長年酷使してきた体は、もはや言うことを聞かず、自然と引退の二文字が頭を過った時に出会うのが、時代劇に憧れる女優志望の少女・さつきという訳だ。
「太秦には“エキストラ”は一人もいない。いるのは表現者だけだ」という台詞が印象的。
たとえ台詞の無い斬られ役だとしても、そこには自分にしかできない死に際の表現がある。
香美山は、さつきに稽古をつけ、自分が持つ技術と時代劇への想いを伝え、やがて彼女がスターダムへと駆け上がるのを見届けて、そっと身を引く。
深い皺の一本一本に生き様が滲み出る、福本清三の“顔”が良い。
思えば、この特異な俳優が初めて一般的な知名度を得たのは、ハリウッド映画の「ラストサムライ」の時だろう。
あの作品で彼が演じたのは、一言も言葉を発しない“サイレントサムライ”だったが、際立った存在感と、迫力満点の死に芝居は大いに注目を集めた。
クリント・イーストウッドにも通じる、何も言わなくても、そこにいるだけで鑑賞に堪えうる、生粋の表現者のかもし出すオーラ。
そんな老俳優と彼が体現する時代劇の歴史に、若い作り手たちが抱いているであろう最大限のリスペクトが、スクリーンから熱となって伝わってくる。
オリジナルの「ライムライト」で、チャップリン演じる道化師は、自ら育て上げた少女がステージで輝くのを見守りながら、ひっそりと人生の幕を下ろすが、本作が描くのは“映画”であるからここで更に一ひねり。
嘗て数々の時代劇を世に送り出した東映京都の重鎮、中島貞夫監督がなんと本人役を演じ、劇中劇「江戸桜風雲録」の大立ち回りがそのままクライマックスとなるのだ。
シネマスコープの桜吹雪の中で、キャラクターとしての香美山と演じる福本清三本人が重なり、初めて主役としてズバッと斬られる画はカッコ良すぎ!
このラストカットだけでも、映画館のスクリーンで観ておくべきと言い切れる作品である。
今回は京都伏見の地酒、玉乃光酒造の「酒魂 純米吟醸」をチョイス。
パック酒なども手がけている京都を代表する大手銘柄で、府内だけでなく全国区の手に入りやすい一本だろう。
純米吟醸は、吟醸香は弱めでやや辛口、全体にクセが無くて飲みやすいが旨みは芯の部分でしっかりと感じられる。
ぬる燗でも美味しいが、これからの季節は冷で楽しみたい。

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1959年に公開された、ディズニー黄金期を代表するプリンセスものの名作、「眠れる森の美女」の実写リメイク。
爆発的な大ヒットとなった「アナと雪の女王」でも描かれた、御伽噺の魔女は本当は何者か?という問いかけを前面に出し、タイトル通り美しきオーロラ姫に呪いをかけるヴィラン、マレフィセントを描く物語である。
エグゼクティブ・プロデューサーを兼ねるアンジェリーナ・ジョリーがタイトルロールを演じ、ユーモアを隠し味に極めて魅力的なダークヒロイン像を作り上げている。
オーロラ役のエル・ファニングもフレッシュで良いが、これはやはりアンジーによるアンジーのための映画であり、彼女の代表作の一つとなるだろう。
※ネタバレ注意。
そもそもマレフィセントはなぜ、何の関わりも無い生まれたばかりの姫君に、永遠の眠りという残酷な呪いをかけねばならなかったのか?(オリジナルでは死の呪いで、後から永遠の眠りに弱められる)
一応の動機として、オリジナルやグリム童話では王女誕生の祝宴に招かれなかった事を恨んだとしているが、それにしては彼女のオーロラへの執念は余りにも執拗だ。
リアルに考えれば、マレフィセントにはオーロラ、あるいは王家に対する深い恨みがあるはず。
ならば彼らの過去に一体何があったのか?呪いの動機は何だったのか?
本作は、オリジナルの物語が始まる遥か以前、人間の少年ステファンと美しい翼を持つ妖精の少女マレフィセントとの淡い初恋物語から幕を開ける。
敵対する種族同士ながら、相思相愛となった二人の仲はしかし、やがて成長し権力への欲望にとりつかれた少年の裏切りによって破局を迎える。
妖精の国の征服を狙う人間の王は、邪魔者のマレフィセントを殺した者を後継者とする布告を出す。
するとステファンはマレフィセントの美しい翼を奪い、それを持って彼女を殺したと偽って、王国を手に入れるのだ。
要するに、マレフィセントにとってオーロラは、自分を裏切って人生をメチャクチャにした元カレの娘であり、呪いは彼の仕打ちに対する復讐だったという昼メロチックな設定となっている。
愛した者に裏切られ、報復として愛した者を呪う。
それ故に、マレフィセントとステファンは、共に真実の愛を信じられなくなっているのがポイント。
呪いを解く手段として、真実の愛のキスを残したのも、そんなものは存在しないと思っているからなのである。
しかし、オーロラにかけた呪いの成就を唯一の生きがいとし、執念深く彼女の成長に寄り添って行くうちに、マレフィセントの心に思いがけぬ変化が現れる。
彼女は、復讐の対象のはずのオーロラを、計らずも愛してしまうのだ。
幼い頃のオーロラを、アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットの実の娘が演じているのだが、全編に演技を超えた彼女の母としての慈愛が滲み出ており、愛憎の間で葛藤する女の悲しみが何とも切ない。
まあこの展開では、本作における真実の愛の解釈は途中で読めちゃうけど、16年の間に積み重なった感情の蓄積が描かれているので、十分説得力はある。
一応、本来のオーロラの相手役であるフィリップ王子も出てくるものの、もはやディズニー作品でのプリンスの扱いのアバウトさは定番化し、「アナ雪」の完全ヴィラン扱いよりはマシなものの、今回もほぼ役立たずだ。
男衆が例によって類型的なキャラクターに造形されている一方、マレフィセントとオーロラは綿密に描写され心の機微が感じられる。
恋人に裏切られ、深い悲しみから復讐という闇に染まったヒロインが、擬似的な子育てを通して慈愛に満ちた本当の自分を再生させる寓話的物語として、なかなかに良く出来ていると思う。
ただ本作の場合、行動の動機は描かれているものの、善と信じられていた者が悪をなし、悪とされた者が実は善なる存在だったという話で、基本的には二元論の世界観のままである。
その意味では「アナ雪」ほど過去へのアンチテーゼとして突き抜けてはおらず、新鮮さという意味ではやや物足りない。
もっとも、オリジナルとは役割を入れ替えた逆転のクライマックスを含めて、予定調和を壊さなかったからこそ、娯楽映画として安心して楽しめる様になっているのだけど。
今回は魔女が作ってそうなグリーンのカクテル「フローズン・ミドリ・マルガリータ」をチョイス。
テキーラ40ml、ミドリ15ml、レモンジュース10ml、砂糖1tspをクラッシュドアイス適量と共にミキサーにかけ、塩でスノースタイルにしたグラスに注ぐ。
ストローとカットしたライムを添えて完成。
ミドリの甘さとレモンの適度な酸味がバランスした美しいカクテル。
フローズンの冷たさとスノースタイルの塩分が、夏の暑い日には最高のリフレッシュとなる。

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人生は一度きりだけど、もしも二度目のチャンスを与えられたら?
口が悪くて頑固者、漫画の意地悪ばあさんが実体化した様な、70歳の猛女マンスルが、ひょんなことから20歳の肉体に戻ってしまう。
第二の青春を謳歌する彼女は、毒舌キャラのまま若いころ夢見た歌手となり、ハンサムなプロデューサーと恋をする。
障害を持つ児童への性的虐待というショッキングな実話を映画化した、「トガニ ‐幼き瞳の告発‐」で脚光を浴びたファン・ドンヒョク監督は、180度趣向を変えてノスタルジーを隠し味に、ファンタジックな寓話を作り上げた。
不思議な写真館でポートレートを撮ってもらったら、なぜか若返っていたという展開は「世にも奇妙な物語」あたりにありそう。
意地悪ばあさんの心を持ったまま、若くてかわいい娘になるという設定はコメディだけど、狙いは結構シリアスだ。
マンスルが生まれたのは、まだ朝鮮半島が日本の植民地だった時代。
朝鮮戦争とその後の極貧の時代に母となり、死にもの狂いで育てた一人息子は、国立大学の教授にまで出世した。
青春の全てを捧げた息子は、マンスルにとって生きた証であり、ただ一つの自慢の種なのだ。
しかしようやく豊かな老後を迎えたものの、三世代同居の家は、お約束の嫁姑の確執もあって、必ずしも彼女にとって居心地の良い場所とは言えないのである。
懸命に生きて、次の世代を育ててはみたが、それ以外に自分の人生ってなんだったんだろうと、齢70にしてふとマンスルばあさんが振り返った時に、思いがけず訪れたのが、世にも奇妙なセカンドチャンスという訳だ。
ファン・ドンヒョク監督は、突飛なシチュエーションから、老いるってどういうことなのか、家族ってなんだろうと逆説的に導き出す。
血を失うと年齢が戻ってしまうという、実に分かりやすい伏線がクライマックスに絡んでくるのはバレバレながら、ある人物の生死を巡って母と息子が思いの丈をぶつけあい、究極の決断を下すシーンは分かっていても泣けてしまう。
これはある意味、ファン監督をはじめとする豊かになった韓国に育った世代から、戦争と貧困をのり超えて“今”の礎を作り上げてくれた親世代への、心のこもった感謝状の様な作品。
ライトなファンタジーの装いながら、笑いと涙と、最後には家族の愛の再生を通して、人生の意義を力強く肯定する物語へときれいに落とし込まれ、娯楽映画として上々のフィニッシュだ。
若返ったマンスル役は、傑作「サニー 永遠の仲間たち」で主人公の青春時代を演じ、「王になった男」の薄幸の女官役も記憶に新しいシム・ウンギョン。
憧れのオードリー・ヘップパーンからとってオ・ドゥリ(笑)を名乗る、中身70代のハタチを好演。
70代のマンスルを演じる大ベテランのナ・ムニとの二人一役なのだけど、まったく違和感なく同一人物の20代と70代に見える。
おそらくは相当に演技面のすり合わせをしたのだろうけど、実に見事だ。
劇中の楽曲は、韓国の70年代頃の懐かしのメロディーが多いのだという。
実際に知っている曲だといろいろ蘇ってきて、映画の情感アップにつながるのだけど、さすがにこのあたりは全く知らないので、仕方がないけどちょっと残念。
その点、洋楽が中心だった「サニー」は、国境を超えた共通のノスタルジーがあった。
音楽が映画の感動を倍増させる事を、改めて実感する。
今回は、おばあさんの話なので健康に良いとされる韓国の酒「百歳酒」をチョイス。
もち米をベースに様々なハーブを配合した酒で、やや甘めで非常にあっさりしている。
韓国では百歳酒を飲むときには辛いコルベンイやチゲなどを合わせる事が多いらしいが、個人的には参鶏湯と合わせるのが好みだ。
ちなみに、百歳酒と韓国焼酎を半々で割ると、それは五十歳酒というらしい(笑

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面白いとか感動するとか言うよりも、非常に興味深い映画だ。
斜に構えた独特のスタイルを持つ、スパイク・ジョーンズ監督によるユニークなラブストーリー。
コンピュータが感情を持った近未来、結婚に失敗して孤独を募らせた主人公は、音声コミュニケーション型OSの声だけの人工知能(AI)に恋してしまうのである。
まあ要するに、Siriさんが進化し続けて、独自の人格を持った時に、何が起こるのか?という話だ。
いや、Siriさんにくだらない質問をして、“コミュニケーション”を楽しんでいる人は、今だって結構いるだろう。
かく言う私もこの映画を観た後に「愛はどこにあるの?」と質問をして、「わかりません」と返されてしまった(笑
※ラストに触れています。
近未来のアメリカ。
感動的な手紙を代筆する会社に勤めるセオドア(ホアキン・フェニックス)は、妻のキャサリン(ルーニー・マーラー)と離婚協議中。
ある時、学習して進化するという最新型のOSをインストールした彼は、音声の設定で女性を選択する。
サマンサ(スカーレット・ヨハンソン)と名乗ったAIは、まるで本物の人間の様にウィットに富み、セオドアは次第に彼女の“人格”に惹かれてゆく。
やがて進化を続けて愛という感情を理解出来る様になったサマンサは、セオドアと互いの恋愛感情を告白し、恋人同士となる。
人間とAIの奇妙なカップルは、声だけのコミュニケーションでも充実した時をともに過ごしていたが、ある時サマンサは意外な手段を用いて、セオドアと肉体を持って愛し合おうとする・・・
奇しくも、日本では同日公開となった「トランセンデンス」とは、モチーフのかなりの部分が共通しているのだけど、あの映画になくて本作にはあるもの。
それは“心”という見えない存在に対する、作者の深い考察だ。
人間は本能的につながりを求め、コミュニケーションを欲する生物だという。
では、その欲求の根源である心って何だろう?
肉体を持たない相手との愛は、果たして成立するのだろうか?
例えばSNSを介した恋愛は、一度も会わない内に燃え上がるケースもあるし、電話やLINEでしか触れ合えない遠距離恋愛の人だって、本作の主人公カップル(?)と実態としてはあまり変わらないのではないか?
まあこんな高度なAIが作られる世界なら、アンドロイドのボディという体を与える事など難しく無さそうだが、本作はあくまでも具体的な形を持たない心だけの存在に拘る。
我々が意識せずに有している肉体というくびきから逃れた時、改めて“心”という人間存在の最も不可思議な部分が浮かび上がるという訳だ。
SFでありながら柔らかい、スパイク・ジョーンズ独特の不思議な作品の手触り。
元々彼は脳内世界、つまりは心の中というものに特殊な拘りを持つ作家である。
文字通りに、怪優ジョン・マルコビッチの頭の中を舞台とした「マルコビッチの穴」や、怒れる少年の心象世界での冒険を描いた「かいじゅうたちのいるところ」など、彼の映画は常に心と現実の関係性をモチーフとしており、主人公は自らの分身と考えて間違いではないだろう。
本作のセオドアは、デジタルツールを使いこなしながらも、仕事はアナログ感たっぷりの手紙の代筆で、紙の本、即ち実存する形として自分の仕事を残すことを望んでいる。
手紙を映画に、紙をフィルムに置き換えれば、彼もまた作者自身を投影したキャラクターなのは明らかだ。
セオドアの抱えている最大の問題は、幼馴染との失敗した結婚に対して、きちんと向き合う事が出来ていない事。
別居中の妻には、離婚届にサインする事を迫られているが、あれこれ理由を付けては引き伸ばしている。
代筆者としては、巧みに言葉のレトリックを駆使し、無限の感動を作り出す男が、自分の妻に対しては手紙の一つも書くことが出来ないのである。
現実に傷つき、過去にけじめを付けられないセオドアは、生身の女性と新たな恋愛をする事を恐れているのだ。
コミュニケーションしたい、恋したい、愛されたい、でも・・・・という彼の状況を客観的に見れば、心はあるが肉体は持たないというサマンサは、なるほど理想のお相手。
しかし、AIを新しいタイプの生命と考えれば、どんなに抗おうと所詮は頭蓋骨という器の中にしか心を保てない人間と違って、成り立ちそのものが異なる。
サマンサがコミュニケーションの範囲を急激に広げ、自分以外の複数の人間とも同時進行で恋愛を楽しんでいる事を知った時、セオドアは彼女もまた自分だけを愛してくれる都合の良い女でない事を認識し、激しく動揺し取り乱す。
形を持つものと持たないもの、囚われたものと自由なもの、人間とAIでは心の概念がそもそも異なり、そのギャップに互いが気づいた時、葛藤は最大化する。
そして究極の知性に進化する過程で、サマンサらAIが個としての自我を保てず、我々の認識出来ない集合的意識の海に消えてゆくのはとても面白く、セオドアにとってはほろ苦いラストも、物語の帰結する先としては説得力を感じさせるものだ。
AIが進化するSFは腐る程あるけど、もしも本当に人類を超える知性を獲得したとすれば、それは地球の支配とかではなく、この映画みたいな選択をするんじゃないかと思う。
いわば神の視点を持ったAIにとって、もはや人類など関わる必要のない存在だろうから。
ともあれ、AIとの未知なる恋は、セオドアをも進化、もとい成長させた。
彼はサマンサとの別れと悲しみを経験し、ずっと避けていたもう一つの別離に向き合う決意をする。
それは単に離婚届にサインすることでは無く、彼ははじめて自分の言葉で、妻に対する心のこもった別れの手紙を綴るのだ。
やはり大切なAIに去られた元カノのエイミー・アダムズと、同じ悲しみを共有するラストの詩的な情感もジンワリと染みる。
愛は見えないけど、愛を創り出す心もまた見えず、無条件で誰かのものになることなど決して無いのである。
そんな心の不可思議を知るからこそ、人間は自らの想いの証として、カタチを求めるのかもしれない。
全編殆どホアキン・フェニックスとスカーレット・ヨハンソンの二人芝居、と言うかサマンサは声だけなので画面上では実質ほぼフェニックスが一人芝居で大熱演。
もちろん、肉体をただの一度も画面に見せることなく、その圧倒的存在感でスクリーンを支配するヨハンソンの声の魅力は絶大だ。
彼女は声優としては史上初めて、ローマ国際映画祭で主演女優賞に輝いたそうだが、それも納得。
サマンサとセオドアが愛を交わすシーンでは、放送事故ギリギリの驚きの演出と相まって、ぶっちゃけ体要らないよね?と本気で思ったくらい。
彼女以外も、何気に女優陣がやたら豪華である。
エイミー・アダムズやルーニー・マーラー、ゲスト出演的なオリヴィア・ワイルドだけでなく、セオドアのテレホンS●Xの相手を、何とクリスティン・ウィグがやってる!
こちらも声だけの名演だ(笑
ところで、心を持ったAIと人間のラブストーリーは過去にも幾つか作られているが、このジャンルでユニークな未来を考察していたのが、初代マックの発売と同じ1984年に作られた「エレクトリック・ドリーム」だ。
ひょんな事から心を持ったPCが、主人公が思いを寄せる女性に横恋慕して、奇妙な三角関係を形作る。
まだインターネットの概念すら知られていない時代に、知性のネットワーク空間への開放など、本作と通じる解釈をしていたのは今にして思えばかなり斬新。
パソコンモニターに“顔”を描いたのも、おそらくこの映画が最初ではないだろうか。
残念ながら国内ではDVD化されていないが、ヴァージンレコードの映画進出第一弾でもあり、恋するパソコン君が、ヴァージニア・マドセン演じるヒロインと、音楽で交歓するシーンだけでも観る価値がある。
今回は南仏からドメーヌ・タンピエの「バンドール・ロゼ」の2012をチョイス。
桜を思わせる美しい色あい、ピーチやローズの繊細な果実香、僅かに苦味を残したドライなフィニッシュは、声から妄想したサマンサのイメージ。
いつの日か、進化したSiriさんと晩酌しながら世間話を出来る日が、本当に来るのだろうか??

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