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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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プロミスト・ランド・・・・・評価額1650円
2014年08月29日 (金) | 編集 |
何を、約束されたのか?

監督ガス・ヴァン・サント、主演・共同脚本マット・デイモンという、名作「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」のコンビが再びタッグを組んだヒューマンドラマ。
シェールガス革命に沸くアメリカの片田舎を舞台に、町を丸ごと買収するために送り込まれたエネルギー開発会社の社員が、賛成派・反対派の住民との交流を通じて、自らの人生を見つめなおしてゆく。
人はなぜ、生まれ育った土地に愛着を感じるのか?生きる上で本当に大切なものは何か?
様々な自己矛盾を抱え込んだ主人公の成長ものとして優れた作品であり、同時に物語を通して、観る者の価値観を鋭く問われる作品だ。
※ラストに触れています。

大手エネルギー開発会社グローバルの社員、スティーブ(マット・デイモン)は、シェールガスを埋蔵する地域を丸ごと買収するのが仕事。
自らも農村出身で、“田舎のメンタル”を熟知している事もあって、順調に出世を重ねている。
同僚のスー(フランシス・マクドーマンド)と訪れたマッキンリーもまた、町は寂れ、住人たちは貧困にあえいでいて、簡単に説得できそうに思えた。
しかし公聴会で、輝かしい経歴を持つ元科学者のフランク(ハル・ホルブルック)の述べた反対意見に多くの住民が同調。
開発の可否は、三週間後に住民投票にかけられる事になってしまう。
スティーブは、何とか住民に溶け込み、賛成票を広げようとするのだが、環境団体のダスティン(ジョン・クラシンスキー)も町に乗り込んできて、徐々に旗色は悪くなってゆく・・・


社会派の問題を巧みにパーソナルなヒューマンドラマの枠組みに包み込み、娯楽映画として非常に観やすく作られている。
地下数千メートルの古い堆積地層に含まれるシェールガスは、北アメリカ大陸の全域に存在する事が分っていたものの、大量に取り出す術が無かった。
だが、21世紀に入ってから、化学物質を加えた高圧の水で地層に亀裂を生じさせる水圧破砕法による抽出が可能となった事で、アメリカは一躍世界有数の天然ガス大国に躍り出る。
シェールガスによるエネルギー革命は、米国の原発依存率を低下させ廃炉が相次ぐ一方、地下水の汚染や、地層の破壊による小規模地震の頻発など新たな問題も作り出しているのは本作に描かれたとおり。
とはいえ、これはよくある環境か開発かの二者択一の話ではない。
いや、一応開発に反対する環境保護主義者も出てくるけど、この映画は開発会社vs環境団体という単純な構図では終わらない。
終盤物語に驚きの一捻りを加えてくるのだけど、これには唸らされた。

主人公のスティーブは、農村部の出身。
それ故にアメリカの田舎が抱える問題を、自分自身の痛みとしてよく知っている。
大規模な農業は補助金塗れで、農村の経済は農家によって支えられている訳ではない。
スティーブの故郷は、近郊にあった機械メーカーのキャタピラーの工場が閉鎖された結果、廃墟同然に廃れてしまったのだ。
一次産業の農村の未来を握っていたのは、実は二次産業の工場だったのである。
だから彼は、自分たちをマッキンリーにとってのキャタピラーだと思っている。
グローバルは何も無い土地に金を落とし、産業を興し、住民たちに農業以外の未来を与える救世主だと。
ただし、それはマッキンリーの人々に、大きすぎるリスクを負わせる可能性がある事を、スティーブは知らない。
いや実際はうすうす気付いてはいるが、その事を自らの中で封じ込めているのである。

タイトルの「プロミスト・ランド(Promised Land )」には様々な意味が込められている様に思う。
元々は、旧約聖書の中で神がイスラエルの民に与えると約束した土地の事。
しかし今この地上に暮らす殆どの人々にとっては、今自分が住んでいる、あるいは先祖代々一族が住んでいる所こそがプロミスト・ランドだろう。
マッキンリーの人々にとっては、そこが神に定められた故郷なのだ。
もしもシェールガスの開発によって土地が汚染され、住む事が出来なくなったとしたら、彼らは神から授かった約束の土地を追われる事になる。
一方のスティーブは、経済的な破綻によって既に故郷を失った人間だ。
だからこそ、彼は金こそが“約束”を守ると信じ込んでいるのである。

結局のところ、一人ひとりの選択の問題なのだ。
もしも開発をしなかったとしたら、果たしてどうやって生計を維持する?
逆に開発をしたとして、深刻な環境破壊が実際に起こったらどうする?
本作がすばらしいのは、単に環境か開発か、金の問題に矮小化せずに、人間が生きる上での大地との根源的な関わりを物語のコアに持ってきた事だ。
まあ金によって、その土地を捨てて、自由な人生を生きるというチョイスもあるだろうが、基本的土地に留まる事を前提とするなら、プロミスト・ランドを生かすのも殺すのも、そこに生きる人間次第。
もちろん人間の活動には、少なからず環境破壊は避けられない。
だからこそ、豊かさなのか、命なのか、何を判断基準にするのか、本作の物語を通して、スティーブやマッキンリーの住人と共に、観客もまた生き方のプライオリティを問われているのである。
映画の冒頭からラストまで、マッキンリーの町を鳥瞰した空撮映像が度々出てくるが、これは言わばこの美しい大地に暮らす人々の営みを見守る、神の視点だろう。
人々が大いなる意思によって約束された土地に住んでいるのだとしたら、人々もまたその土地を守るために内なる神に約束をしなければならない。

ワンポイントのイッシューを取り上げながら、その根本となる人間の心の問題に踏み込んだ事で、本作は普遍的な示唆に富む作品となった。
映画ではシェールガスがモチーフとなっているが、この映画に描かれる葛藤は、エネルギー問題から安全保障、社会福祉まで、実に幅広い事象に当てまめる事が可能である。
都市の為に犠牲となる田舎とか、補助金無しで立ち行かない農業などの背景も、そのまま日本社会の問題に置き換えられるし、観ていてどうしてもマッキンリーが福島に、シェールガスが原発に思えてならなかった。
アメリカだけでなく、日本でも世界でも、プロミスト・ランドを失った無数の人たちがいる。
文明を維持するには一定の資源は必要だし、地球から何かをいただくというのは、他の何かとのトレードオフに他ならない。
それでも、もしも選択を迫られたら「生きてゆく上で、一番大切なのはなんですか?」と自分の胸にもう一度聞いてみよう。
そして、どこまでを許容するのか、心の声に従おう。
そんな事を考えさせる、実に教育的、啓蒙的な作品でありながら、人間味たっぷりの共感できる主人公を軸とし、彼に感情移入させる事で、全く説教臭さや偽善性を感じさせないのは見事だ。
シェールガスの開発ラッシュに沸く米国では、残念ながら大きな成功は収められなかった様だが、これはむしろ日本でこそ、より切実なリアリティを感じさせる秀作である。

今回は、キリン「ハートランドビール」をチョイス。
都営地下鉄で御馴染みの、東京都のシンボルマークなどで知られるデザイナー、レイ吉村による美しいグリーンのボトルには、シカゴにあったという大樹がエンボスで描かれており、国産ビールには珍しく、瓶と樽でしか販売されていない。
ポップの効いたクセのない軽めのピルスナーで、映画の後味と同様に爽やかで瑞々しい。
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ショートレビュー「フランシス・ハ・・・・・評価額1700円」
2014年08月24日 (日) | 編集 |
ハハハハハハ!

何よりもこの人を食った様な珍妙なタイトルが目を惹く。
試写状が届いた時に、「フランシス・ハ」??これどこの映画?「ハ」ってなに??と幾つもの?マークが頭の中をぐるぐる(笑
配給の人に「ハ」の意味を聞いても、「それは映画を観てのお楽しみ」と教えてくれない。
ならば、と「イカとクジラ」のノア・バームバック監督作品であること以外、全く予備知識を入れずに鑑賞してみたが、いやあこれはとても楽しい、実に愛すべき映画だ。

主人公は、とにかく全てにおいてタイミングの悪い女、フランシス。
非モテ系ダンサー志望27歳の彼女が、人生の分岐点にさしかかり、自分の居場所を探して葛藤する。
ルームシェアしている親友のソフィーに悪いからと、彼氏との同棲を断って別れた途端、ソフィーからあっさりと同居の解消を切り出される。
住んでいたアパートは、一人で住むには広すぎるし、高すぎる。
当てにしていたダンスの仕事もキャンセルになり、家も金も無い流浪のフランシスは、友人の家に居候したり、故郷サクラメントに帰ったり、はたまた突然の思いつきでパリへ行ったり、母校の学生寮の管理人をやったり、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ

主演で共同脚本家でもある、グレタ・ガーウィグが素晴らしい。
ドタバタ走って、ずっこける。
この人、顔立ちはキレイなんだけど、173センチの長身にガッシリした骨格と、ガタイが結構良いこともあって、お世辞にも可憐とは言い難い。
しかし、やる事なす事失敗続きで、それでもめげずに一生懸命生きているフランシスを等身大のキャラクターとして好演。
ぶっちゃけ空気読めないイタタな女ながら、何とも可愛くて憎めない

三十路の大台にはまだ少し余裕があるけど、仕事でも恋愛でも若さの勢いだけで突っ走れる時期は終わりつつある。
自分でもその事が分かっていて、色々な意味で時間に決断を迫られているからこそ、焦って走ってつんのめってしまうのだ。
それでも悪戦苦闘してボロボロになったからこそ、最後には彼女はとても勇気ある、そして自分のいるべき場所に関して最良の決断をする事が出来るのである。
これは優しくて悩ましい、青春のラストページを描いたささやかな寓話。
人生の理想と現実の間でジタバタするフランシスを見て、こういう人友達にいる!とか、自分自身が彼女にそっくり!とか、感情移入率は相当に高いだろう。

生き方の不器用な主人公が、友人知人の間を転々とし、背景となるのはモノクロで活写されたニューヨーク。
スクリーンから滲み出る、ウッディ・アレンの名作「マンハッタン」へのオマージュもセンス良い。
もっとも、女同士の友情を軸にした話は、どちらかと言えば下品さをウィットに置き換えた「ブライズメイズ 史上最悪のウエディングプラン」の様でもあり、テンポの良い展開と相まって、気持ち良く笑わせてくれる。
そうそう、「ハ」ってなに?という不思議なタイトルの秘密が明かされる瞬間は、是非劇場で味わって欲しい。
ちょっぴり切ない秋の風と共にやって来た、傑作である!

今回は、舞台となる「マンハッタン」の名を持つカクテルをチョイス。
カナディアン・ウィスキー45ml、スウィート・ベルモット15ml、アンゴスチュラ・ビターズ1dashをミキシンググラスでステアし、カクテルグラスに注いだ後ピンに刺したマラスキーノチェリーを沈めて完成。
このカクテルの起源に関しては、あのウィンストン・チャーチルの母、ジェロニー・ジェロームが1876年の大統領選挙の時に、マンハッタン・クラブで開かれた民主党候補の応援パーティの時に、即興で作ったカクテルが好評で、後にマンハッタンと呼ばれる様になったという説がある。
正にカクテルの女王、大人のお酒である。
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ショートレビュー「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち・・・・・評価額1650円」
2014年08月18日 (月) | 編集 |
流れる道路、巡りゆく人生。

ドキュメンタリー映画として、史上初のヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞作である。
それは即ち、既成概念からかけ離れた作品と言う事だ。
人類の悠久の歴史を刻むローマを、円形に囲むGRA(Grande Raccordo Anulare )は、直径およそ20km、周囲68kmの環状高速道路。
東京で言えば、外環道が完成すると丁度同じくらいの長さだろうが、街の規模としてはローマは東京よりだいぶ小さいので、GRAが通る風景はどこか牧歌的に見える。
描かれるのは大都市の周囲を永遠に巡り続ける道路と、その沿線に住む様々な人々の人生模様だ。
※ラストに触れています。

ドキュメンタリー映画というと、映像を通して何らかのメッセージを投げかけてくるもの、というイメージが強い。
モチーフは千差万別でも、最終的に作者がある事実を通して何を思ったのか、何を観客に問いかけたいのかがストレートに伝わるという点では、ドキュメンタリーは時としてドラマに勝る。
ところが、本作のカメラはただひたすら市井の人たちを観察し続け、事件は何も起こらない。
登場するのは、老いた母の世話をする救命救急隊員、屋敷をロケやイベントに貸し出して何とか生計を立てている没落貴族、GRAが横切る川でウナギを捕る猟師、場末のショーダンサー、古びたキャンパーで車上生活をしているトランスジェンダー、空港近くのアパートに暮らす人々・・・・。
一度しか出てこない人もいれば、繰り返し登場する人もいるが、編集に特にストーリー性はなく、それぞれの登場人物の物語にオチがある訳でもない。
マスコミ試写では某評論家が、「こんなのはドキュメンタリーじゃない」と怒り出したとか(笑
では、はたしてドキュメンタリーとは何か?を改めて考えさせてくれる作品でもある。

淡々とした映画の流れに身を任せ人々の暮らしを眺めていると、やがて小さなピースの断片が繋がり、全体の大きなイメージが見えてくる。
ジャンフランコ・ロージ監督は、登場人物一人ひとりは“音符”だという。
彼は言わば、ある人生から生じた音符をすくい上げ、次の音に引き継がせてゆくマエストロ。
なるほど、これはGRAという巨大な人工の流れに乗せて描かれる、永遠に終わりを持たない一編の詩であり、壮大な映像交響曲なのである。

登場人物の中でもっとも象徴的なのは、道路周辺に植樹されたヤシの害虫の研究をしている樹医だ。
マイクとヘッドホンでヤシの幹の奥深くに巣食った虫たちを探り当て、殺虫剤で繁殖を食い止める彼を見ているうちに、いつの間にか木の中にうごめく虫たちの鳴き声が、人間社会の喧騒に聞こえてくる。
本作のポスターにもデザインされているGRAに囲まれたローマの地図は、古代から作り続けられた無数の道路が広がり、なんかだ木の年輪の様だ。

映画のラストは、害虫を沢山捕えた樹医が「お前たちはもう十分食べただろ。死んでもらうよ」と言って、虫の入ったツボを火にかけると、画面はGRAを捉えた無数の監視カメラの集合映像に切り替わり、エンドロールとなる。
ロージ監督は本作の撮影に二年半を費やし、日々積みあがる膨大なフッテージを前に、この映画をどう終わらせるか自分でもわからなくなっていたというが、この樹医のシーンを撮れた時に決めたという。
原題の「Sacro GRA」とは、「聖なるGRA」という意味である。
徹底的に客観を貫く事で、やがて神の視点を獲得した映画のオチが、人を食ったイタリア流ブラックジョークとは全く恐れ入った。
ドキュメンタリーとは、いや映画とはかくあるべしという確固たるイメージのある人にとっては、これは驚愕だろうし、おそらく相当に観客を選ぶ作品だ。
漠然と使っている“ドキュメンタリー”という言葉の概念を超えた、大変な意欲作である。

今回は、マフィアっぽいおっさんのラベルで日本でも御馴染み、イタリアを代表するビール「モレッティ」をチョイス。
1859年創業というイタリア最古のビール銘柄で、当時のオーストリア・ハンガリー帝国の醸造技術の影響を強く受けて誕生し、基本的に味は変わっていないとされる。
ホップ感の強いピルスナーは、ドライな味わいで苦味、コクも適度。
全体のバランスに優れ、食前から食中、食後までどんなシチュエーションでもプッハーできる。
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ウォー・ホース〜戦火の馬〜
2014年08月15日 (金) | 編集 |
スティーブン・スピルバーグの同名映画の元となった舞台劇。
第一次世界大戦の軍馬の歴史に興味を持ったマイケル・モーパーゴが、1982年に児童小説として発表した「ウォー・ホース〜戦火の馬〜」は、2007年になってニック・スタフォードによって戯曲化され、ロンドンでの初演は大きな成功を収めた。
この舞台に感動したプロデューサーのフランク・マーシャル、キャスリーン・ケネディ夫妻が作品をスピルバーグに紹介し、映画化されたのが2011年。
映画を切っ掛けに始まった海外公演ツアーが、ようやく極東の国にもやって来た。
戦火の馬

本作を鑑賞すると、映画版と構成が非常によく似ている事に驚かされる。
プロットの流れはほぼ一緒と言っても良いが、146分の映画に対して、舞台はおおよそ130分弱くらいか。
若干短くなっている分、登場人物の数や役割はある程度変わっている。
例えば、映画では戦いの中で騎手を失った馬のジョーイとトップソーンが、複数のドイツ軍人との邂逅を繰り返してゆくが、舞台では厭戦気分から戦いを離脱しようとするドイツ軍のミューラー大尉が、終盤まで二頭の庇護者となる。
また、基本的に馬が主人公であり、ジョーイを軸に物語を進めてゆく映画に比べると、こちらはやや人間より、特にジョーイを必死に探す飼主のアルバート少年の比重が大きくなっている。
映画の方がジョーイを狂言回しとして、象徴的、寓話的で、舞台はジョーイとアルバートの絆の物語としての色彩がより強い。

とはいえ、舞台でもジョーイをはじめとした馬たちの存在感は抜群だ。
南アフリカのハンドスプリング・パペット・カンパニーによる、実物大パペットの演技はいつの間にか本物より本物らしく見えてくる。
なんでも創立者のエイドリアン・コーラーとバジル・ジョーンズは、文楽人形からパペットによる演技の可能性の広がりを確信したのだという。
なるほど中に入ってる二人と頭担当の一人の組合せは、確かに文楽の三人遣い。
文楽では頭を操作する主遣いは素顔を出している事もあるが、こちらも頭の担当は常に素顔のままパペットの横に張り付いている。
もっとも、競馬場の中継映像などで、馬の横で人が手綱を引いてるイメージがあるせいか、あまり違和感は感じず、むしろ物語が進むにつれて、迫真性を増す彼らの演技に魅せられ、そこに魂を感じるのである。
逆に馬パペット以外の舞台装置などは、極力シンプル。
強いストロボ光で時間がスローモーションになる様な、映画的手法を実に演劇的空間の中に使ってるのが興味深い。

本作が描くのは、恐怖と不条理が支配する戦争の時代だ。
物言わぬジョーイが人々の希望の象徴となり、たとえどんなに悲惨で苛酷な状況にあっても、人間の心には決して失われないものが確かにあるというテーマが浮かび上がるのは映画と共通。
もちろん舞台だけでも十分に感動できるが、映画を観ている人は同じ話で同じテーマを描いた、映像言語と演劇言語との違いを比べてみると二重に面白い作品だと思う。
スピルバーグが惚れ込んだのも納得の、素晴らしい作品だ。

渋谷シアター・オーブにて、8月24日まで。
ちなみにカーテンコールのみだが、撮影OKなのも嬉しい。
馬パペットの繊細な動きをじっくり見たい人は、オペラグラス持参がおススメだ。

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STAND BY ME ドラえもん・・・・・評価額1650円
2014年08月12日 (火) | 編集 |
ドラえもん・ビギンズ。

1969年に連載が始まった、藤子・F・不二雄原作の国民的漫画「ドラえもん」、史上初の3DCGによる映画化である。
過去数十年の間に膨大な数のテレビ・映画が作られてはいるが、セルアニメーションと3DCGはやはり別物で、立体映像として浮かび上がるビジュアルはとても新鮮だ。
山崎貴、八木竜一両監督と「friends もののけ島のナキ」 の制作チームによって作られた映画は、僅か87分というコンパクトな上映時間の中に、驚くほど原作のエッセンスに忠実に、私たちの観たかった藤子ワールドが詰め込まれており、これは子どもだけに独占させておくのは勿体無い。
本作は言わば、嘗て漫画やセルアニメでドラえもんに親しんだ大人たちが、懐かしい友達を“再発見”出来る、大人のためのレトロモダンな「ネオ・ドラえもん」なのである。
※ラストに触れています。

ぐうたらで何をやらせてもダメダメな少年、野比のび太(大原めぐみ)の元に、ある日突然未来の世界から猫型ロボットのドラえもん(水田わさび)がやってくる。
このままだとのび太の人生はお先真っ暗、莫大な借金をつくり遠い未来の子孫にまで迷惑をかけているという。
そこで、未来を変えるために、のび太の世話係としてドラえもんが送り込まれたのだ。
ドラえもんには、持ち主でのび太の子孫のセワシくんによって、“成し遂げプログラム”がセットされており、のび太を幸せにしない限り未来へ帰ることが出来ない。
手っ取りばやくのび太を幸せにするために、ドラえもんは彼が恋心をよせるクラスメイトのしずかちゃん(かかず ゆみ)との未来の結婚を目指すことにするのだが・・・・


本作の共同監督である山崎貴の長編デビュー作、「ジュヴナイル」は、ネットで流布したファンメイドの「ドラえもん」最終回を原案としている。
ある日ドラえもんが故障し、もしも修理をすればメモリーがリセットされ、のび太との思い出は全て失われる。
唯一記憶を損なわずに修理出来るのはドラえもんを開発した人物だが、その正体は極秘とされていて誰も知らない。
修理を諦めたのび太は、やがて猛烈な勉強の末に、ロボット工学の第一人者となり、自らドラえもんを“発明”する、というアレである。
タイムパラドックスを上手く使った設定に、のび太の成長というシリーズ全体のテーマを上手く組み合わせた、なかなかに秀逸な二次創作だった。
今にして思うと、デビュー作からの縁も不思議だが、山崎監督は14年かけて本家にたどり着いた訳だ。

実は原作のドラえもんは、元々小学館の学年誌に連載されていた関係で、年度ごとの最終号で何度かドラえもんが未来に帰るという“最終回”が描かれている。
映画は、ドラえもんが未来の世界からやってくる第一話「未来の国からはるばると」から、最終回の中で最も有名な「さようならドラえもん」とその続編「帰ってきたドラえもん」までの話であり、これ以降原作で最終回が描かれた事が無いので、その後の全てのシリーズに繋がるビギニングものとしての性格を持つ。
しかし予告編は膨大なエピソードの中の良いとこ取りの様な印象で、一体どうやって90分を切る上映時間の中にあれを全部詰め込むのだろう?と思っていたが、作品を観て驚いた。
物語そのものは、原作あるいはアニメ版からの抜粋と再構成といって良いと思うが、いや実に巧みに組み立てているのだ。
原作の要素を全く壊す事無く、一本筋の通った思春期の成長物語としてキッチリと昇華されているのである。

脚色で上手いのは、原作には無い“成し遂げプログラム”の存在だ。
最初、出来の悪いのび太の面倒を見る事に乗り気でなかったドラえもんに、セワシくんがのび太を幸せにしたら未来へ帰れるというプログラムを設定する。
原作の「さようならドラえもん」やこの話を元にした過去のアニメ版では、なぜドラえもんが未来に帰らねばならないのか明確でなかったが、本作ではドラえもんが現代に留まれない理由が具体的に描写されるのだ。
前半の山場は、14年後の未来ののび太としずかちゃんの恋路を、現代ののび太とドラえもんがアシストし、結果的に二人の結婚が決まるエピソード。
自分の未来を好転させた大いなる達成感に、のび太は今すごく幸せだと口走ってしまい、ドラえもんは未来へと帰らねばならなくなる。
プログラムに逆らうと罰を受けるドラえもんを、のび太はもう引き止める事が出来ない。

ぐうたらなダメ男であるのび太を、物語の主人公足らしめる一番美しい資質は、自分の事よりも他人を思いやる優しい気持ちと豊かな想像力だ。
物語の前半は、ドラえもんが課せられた使命、即ちのび太の将来をベターに導き、幸せにするという目標にまい進するのだが、それは結果的に自分よりもしずかちゃんの幸せを願うのび太自身の内なる資質を引き出すことによって達成される。
しかしこの時点では、のび太はまだドラえもんに依存しており、本当に将来幸せを掴めるかは、ドラえもんの存在次第である事に二人とも気付いていない。
そこで後半は、のび太のドラえもんからの別れを描く事で、彼が自立して歩んでいけるまで成長させるのだが、ここでものび太の行動原理が自分の為ではなく、ドラえもんを心配させないためというのが泣けるではないか。
野比のび太は、実はぶれない男なのである。

山崎貴、八木竜一両監督は、藤子・F・不二雄先生の原作漫画に親しんだ世代だろう。
全編に渡って、原作へのリスペクトが滲み出る。
ドラえもんと同い年で、物心ついた頃から漫画を読んでいた私が観ても、とても丁寧に物語を読み込んで、エッセンスを抽出しようとしているのが伝わってくるのだ。
初めて平面を飛び出したキャラクターも、イメージを損なわず巧みにモデリングされており、立体空間を縦横無尽に動き回るカメラワークによって、未来の世界をタケコプターで飛び回る快感を体験できるのは感動。
ハリウッド映画などと比べれば、予算的にも決して潤沢とはいえない体制で、このクオリティのビジュアルは十分賞賛に値する。

「STAND BY ME ドラえもん」は、言わばドラえもんで育った世代によって作られた、究極のファンメイドムービーだ。
物語の“現代”があえて原作通りの昭和の風景であるのも、これが作者の主観的ドラえもんなのだという事を諷示している。
ちなみに映画の中の“未来”、つまり昭和な現代の14年後は、どう考えてもこんなに変わらないだろうと突っ込みたくなるくらいのSFチックな世界だが、本作の場合これでいいのだ。
昭和の漫画に出てくる未来は、本当にアイディアリズムの夢と希望に満ちていた事を思い出させてくれた。
余談だが、件のファンメイド版「ドラえもん」最終回には、進化のスピードがあまりにも緩くて、子どもの頃に夢見た未来と現実の未来は繋がらなかった、でもそのパラドックスを埋めるのが、のび太の発明するドラえもんだという台詞がある。
もしかしたら、この台詞が山崎監督の頭にも残っていたのかもしれない。

もちろん、本作の様なスタンスでドラえもんを解釈するのに異論のある人もいるだろう。
だが、どんな作品のファンにも、捕え方は個人差があるから、思い入れの方向によっては入れないのは必然なのだ。
原作が有名であればあるほど、作者が読み解いたドラえもん、感動したドラえもん、観たかったドラえもんを作るというスタンスは、娯楽映画のあり方としてとても正しいと思う。
子どもが観てももちろん楽しいけど、これは本質的には嘗て子どもだった大人たちが、再びあの頃の気持ちを取り戻すための作品だ。
ドラえもんを知らない人は、とりあえず観に来ないであろうという客層の割り切り方も含めて、私は本作を大いに支持する。
子どものころの様な長い夏休みを取れなくなったおっさん、おばさんたちが、束の間のお盆休みにノスタルジーに浸り、明日の元気をもらうのに、これ以上ふさわしい作品があるだろうか。

ドラえもんに酒を付け合せるのは難しいが、藤子先生の故郷、富山の地酒にしよう。
富菊酒造の「羽根屋 純米中汲み 」をチョイス。
もろみを搾るさいに、酒槽から垂れてくる酒は時間によって味が微妙に異なり、中汲みは丁度中間部分を集めたもので、その槽の酒が本来狙ったバランスに優れる。
こちらも、米の華やかな香りが楽しめる、穏やかな辛口酒に仕上がっている。
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ショートレビュー「ぼくを探しに・・・・・評価額1600円」
2014年08月09日 (土) | 編集 |
失われた記憶を探して。

実写とアニメーションの違いは、前者は有から有を、後者は無から有を作り上げる芸術と表せるだろう。
私は両方の世界で仕事をした経験があるが、実写とアニメーションの監督のどちらが大変かと問われれば、アニメーションだと思う。
なぜなら実写は最低限俳優がいて、実景があれば、その中で何が起こるのかを演出すれば良いのに対して、制作体制にもよるが、アニメーションは全てを作家の頭の中にデザインし、スタッフに具体的な指示を与えなければ、ただ一枚の画も生まれて来ないからである。
極論すれば実写は現実のアレンジであり、アニメーションは現実の創造と言えるかもしれない。
だから、それぞれの表現は本質的に全く異なり、作り手に要求される資質もノウハウも別だ。
なかには二つの世界をクロスオーバーし、活躍する作り手もいるが、実写からアニメーションの世界へと転進した人物は少なく、逆は比較的多いという事実もアニメーション制作の困難さを物語っていると思う。

ティム・バートン、ブラッド・バード、ジャン=ピエール・ジュネ、日本では昨年「はじまりのみち」を発表した原恵一監督らが代表的だろうか。
実写へと転進したアニメーション作家の作品には、総じてデザイン性の高さと、ロジカルで寓話的な構成という特徴がある。
逆に実写でありながらも、極端にデザインされた箱庭的作品を作り続けているウェス・アンダーソンが、「ファンタスティックMr.FOX」でアニメーションを撮ったのも必然であったと思う。
むしろ、なぜ彼が実写を撮っているのか不思議なくらいだ。
そして、そんな個性的な面々の隊列に新たに加わったのがシルヴァン・ショメ。
「ベルヴィル・ランデヴー」や「イリュージョニスト」で知られるフレンチ・アニメーションを代表する大物は、2006年の「パリ、ジュテーム」の一編「エッフェル塔」で実写デビューしているが、今回は初の長編作品である。

主人公は、幼い頃に事故で両親を亡くしたショックで、言葉を失ったピアニストのポール。
彼はアパートの秘密部屋(?)に住む魔女的キャラクターの不思議なおばさん、マダム・プルーストに導かれ、封印された記憶を探して、自らの心の秘密を巡る旅に出る。
本作はマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」にインスパイアされているらしく、なるほどマダム・プルーストの名前や、彼女の依頼者を過去へと誘うハーブティーとマドレーヌなどのアイテムにもそれは見て取れる。
もっとも、物語的にはピアニストとして活動するポールが、同居する二人の伯母の目を盗んでマダムの部屋へと通い、徐々に自分の記憶を封じ込めている、両親の死の真相に向き合ってゆくプロセスが繰り返されるだけで、特に奇をてらった物ではない。

やはり本作を特徴付けるのは、アニメーション作家ならではの、徹底的に作りこまれた映像設計である。
冒頭のベビーカーの赤ちゃん目線から、両親と出かけた海岸での奇妙なミュージカル、幻想と現実の境界を越えて出現するカエルたちのバンドのコワカワイイ描写など、誰が観てもショメの作品とわかるイメージの数々は、観客の目を捕らえて離さない。
エキセントリックなキャラクターや、彩度の高いカラフルな映像は、どことなくジュネっぽくもあるが、観終わるとやはり切なさがドラマの隠し味となっている違った個性と感じられる。
深い悲しみに耐えられず、両親の愛の記憶と共に自らを無意識という牢獄に閉じ込めてしまったポールは、真実を受け入れて、ようやく本当の人生を歩きだす。
「ぼく」を取り戻したポールの時間が再び進みはじめ、時の輪が繋がるラストのイメージは鮮やかの一言である。
ちなみに、アニー伯母さんを演じるベルナデット・ラフォンはこれが遺作の一つ。
彼女への哀悼が込められたシーンがクレジット後にあるから、席を立たないで見届けて欲しい。

今回は、美しいルビー色のカクテル「パリジャン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、クレーム・ド・カシス15ml、ドライ・ベルモット15mlをステアしてグラスに注ぐ。
爽やかな口あたりのジンが、クレーム・ド・カシスとドライ・ベルモットの濃厚な色と香りにやわらかく溶け込んでゆく。
やや甘めで、アペリティフとしてよく飲まれる一杯だ。
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ショートレビュー「リアリティのダンス・・・・・評価額1650円」
2014年08月02日 (土) | 編集 |
ああ、幻の故郷よ!

鬼才アレハンドロ・ホドロフスキー、実に23年ぶりの新作映画。
1990年の「The Rainbow Thief」以降資金的に恵まれず、もっぱらコミック原作者として活動していたホドロフスキーは、先日公開された、幻の映画「DUNE」の舞台裏を巡るドキュメンタリー、「ホドロフスキーのDUNE」の撮影でプロデューサーのミッシェル・セドゥと再会し、再びタッグを組む事が決まったという。
本当に久々の映像作品ではあるが、虚構と現実が入り混じる外連味たっぷりのホドロフスキー節は健在。
今回は冒頭でいきなり作者本人が登場し、これが自らの歴史に関する自伝的物語であることを強く印象付ける。
※ラストに触れています。

銀幕に映し出されるホドロフスキーの幻影の故郷は、細長いチリの北部に位置する海沿いの街トコピージャ。
軍事政権下の子供時代、彼はこの田舎街でウクライナ系ユダヤ人商人の父ハイメと母サラの元に育つ。
マイノリティの移民であるハイメは、名誉欲が強く、息子のアレハンドロにも英雄的な男に育つ様にと厳しくあたるのだが、麻酔なしで歯の治療をさせるなど、かなりサディスティックな人物に造形されている。
対照的に、なぜか全ての台詞がオペラ調の歌唱になっているサラは、息子を自分の父の生まれ変わりと信じ、父に似せるために金髪巻き毛のカツラを被らせ、溺愛する。
私の知る限り、総じてラテンアメリカの男はお母さんを聖母マリア並みに崇拝していて、超がつくほどのマザコンが多いが、ホドロフスキー作品の母親像も非常に特徴的。
本作と世界観やキャラクターに共通する要素の多い「サンタ・サングレ/聖なる血」は、サディストの父に両腕を斬り落とされた母に、主人公が操られて連続殺人を犯す物語だったが、息子と母の近親相姦すら思わせる強烈な絆の深さは本作のアレハンドロとサラも同様だ。

映画の前半は、トコピージャでのアレハンドロとエキセントリックな両親の関係を軸にした、奇妙ではあるが日常の風景。
しかし、少年にとってプチ独裁者だった父は、やがて妻子を捨てて摩訶不思議な大冒険へ旅立つのである。
共産党員であった彼は、クーデターでチリを掌握した本物の独裁者、イバニェス大統領を暗殺するために、首都サンティアゴを目指すのだ。
映画の後半の大部分を占めるハイメの奇妙な旅は、ある種の貴種流離譚の様でもあり、遠い故郷ではアレハンドロ少年と聖母サラが英雄の帰還を待っている。
前半部分はある程度ホドロフスキーの少年時代のリアリティをベースにしていそうだが、遠い過去はもはや、物語の進行と共に虚構とダンスを踊り、映画的神話と融合してゆく。

物語のラストで、アレハンドロ少年は船でトコピージャを離れる。
この後彼はサンティアゴからメキシコを経てパリへと移り、やがてカルトな演劇、映画で世界の注目を集める様になる訳だが、その全ての原点を今一度見つめ直し、少年時代から心の奥底に抱えてきた傷を、自らを癒したのが本作と言えるだろう。
作者のトラウマと家族の愛が入り混じり、記憶の中の懐かしい人々との束の間の邂逅は、今はもうこの世にはいない魂へのレクイエムの様だ。
しかし、映画の中での現実が全て色あせた過去へと姿を変え、この此岸の地から“あの頃”と“今”のホドロフスキーが去ってゆく哀愁に満ちたラストカットは、なんと言うか、私にはホドロフスキーからこの世への辞別の挨拶に思えてならなかった。

映画で世界を変えようとした鬼才も、もう85歳。
年齢的にいっても、これはやはり23年ぶりにして、集大成のつもりなのかも知れない。
まあクリント・イーストウッドとか大林宣彦とか、語りたい事が多過ぎるのか、遺作ぽい作品を何本も作ってる人もいるから、願わくばホドロフスキーもそうであって欲しいけど。

今回は、ホドロフスキーの故郷チリのビール、「ソット ネグラ スタウト」をチョイス。
世界有数のワインどころとして知られるチリだが、ビールの種類も結構豊富。
この銘柄も最近国内でも見かけるようになったが、炒った大麦と一緒に醸して造り、瓶内二次醗酵するダークな一杯。
非常に香ばしく、苦味と共に様々な風味が楽しめる。
さすが異色の才能を生んだ国だけあって、良い意味でクセはあるが、飲みやすいスタウトだ。

それにしても、嘗ては知る人ぞ知る存在だったはずのホドロフスキーがこれほど日本で持てはやされるとは、なんだか隔世の感がある。
23年もの間作品が無かったのだから、普通なら逆に忘れ去られてもおかしくないと思うのだが、一体この間に何が起こったのだろうね??
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