酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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東京国際映画祭2014 鑑賞作品まとめのショートショートレビュー
2014年10月31日 (金) | 編集 |
本年度の東京国際映画祭で鑑賞した作品は例年になく粒ぞろいだったが、まだ本公開が決まってない作品も多いので、Twitterの呟きを元に忘備録的ショート・ショートレビューとしてまとめてみた。

「ベイマックス・・・・・評価額1800円」
本記事をアップ済み。こちら。


「共犯・・・・・評価額1550円」
台湾発の青春ミステリ。
女子高生の飛び降り自殺を目撃してしまった、3人の男子高生。
事件によって出会い、図らずも“友達”となった彼らは、女子高生の自殺の原因を探り、彼女を死に追いやった者に制裁を加えようとする。
しかし3人の中の1人の、秘められた承認欲求が事態を複雑にし、彼らを破滅へと追い込んでゆく。
学園を舞台にした思春期のサスペンスはなんとなく湊かなえ風で、同じ話を日本でも作れそう。
ドラマのキーアイテムとなるSNSの使い方が、如何にも今風。
台湾の高校生はFacebookとLINEなんだ
オープニングタイトルが、全体の縮図になっているのが面白い。


「ツーリスト・・・・・評価額1600円」
5日間のバカンスで、アルプスのスキー場にやって来たスウェーデン人一家。
楽しい旅行のはずが、2日目に偶然雪崩に遭遇。
幸いにも皆無事だったものの、この時夫がとったある行動によって、一家の関係は次第にギクシャクしだす。
信じていた世界は、ほんの小さなきっかけで崩壊してしまうのである。
妻の中に生まれた不信感は制御を失い、周りの人々を巻き込みながら加速し、何時しか家族は静かな吹雪の中に。
やがて夫も、認めたくない本当の自分に向き合わざるを得なくなる。
果たして家族はバカンスが終わるまでに感情の落とし所を見つけられるか、それとも終わってしまうのか。
スリリングな心理劇のスパイスとして、北欧流のブラックユーモアが効いている。


「実存を省みる枝の上の鳩・・・・・評価額1150円」
珍妙なタイトル通りユニークな映画
ワインの栓を抜こうとして死んだ男、天国まで愛用のバッグを持って行こうとする老婆、客船のカフェで突然死した男。
“三つの死との出会い”から始まるショートショート形式のシュールな人間観察。
イケメンに恋するダンス講師、面白グッズのセールスマンコンビ、なぜか現在のバーに現れる18世紀の王。
引き画のフィックスで統一され、シーンそのものが包括的にデザインされた寓話的世界は、時に可笑しく、時に切なく、時にゾッとする程不気味。
風刺漫画的な作風は、好きな人は好きかもしれない。
私にはあまり響いてこないが、映画は自由なものだから、こういうのもアリだろう。


「コーン・アイランド・・・・・評価額1700円」
既に古典の風格を持つ大力作だ。
舞台は、独立を巡りグルジアと戦争状態にある旧ソ連のアブハジア。
対立する両陣営の間を流れるエングリ川の中州に、一人の老人が孫娘と共に現れ、小屋を建てトウモロコシを植え、開拓を始める。
両軍が行き来し、しばしば銃声が響く危険な土地だが、老人は黙々と働き続ける。
冒頭20分は台詞無し。
以降も必要最低限しか喋らないが、その分映像が雄弁に物語る。
シネマスコープ一杯に広がる、大河が生み出す大自然の存在感は圧倒的だ。
この風景の中で老人と孫娘が見せる原初的な労働、“人間の暮らし”に目が離せず、対照的に愚かな争いは矮小化されるしかない。
そして孫娘が思春期で、素朴ながらかなりの美少女である事が、人間ドラマとして見応えある葛藤を作り出し、先の読めない心理劇としても一級の仕上がり。
更に驚くべきは、クライマックスのハリウッド映画も真っ青の一大スペクタクルである。
CGではなく、スタジオにロケと同じセットを組み直してるのだろうが、そこまでが地味なのでより効果的。
是非とももう一度観てみたいので、本公開を望みたい秀作である。


「マルセイユ・コネクション・・・・・評価額1650円」
ヘビー級の熱量を持つフィルムノワール。
70年代に隆盛を極めたマルセイユの麻薬組織、所謂“フレンチ・コネクション”と、彼らの深い闇に立ち向かった熱血判事の戦いを時代感たっぷりに描く。
ジャン・デュダルジャンの判事とジル・ルルーシュの組織のボスは、ルックスがちょい似てるだけでなく、共に良き父であったり、プレッシャーに弱かったり、被る要素がある様に造形されてるのが面白い。
人間ドラマとしても、なかなか良く練られてる。
この種の映画の常で、登場人物がやたら多く、殆どが似たようなファッションのおっさんなので覚えるのが大変だけど、男臭いドラマは見応えあり。
驚くべきはこれほど複雑な大作を、長編二作目の若手監督が撮ってる事。
こちらも本公開を望みたい秀作だ。


「ミッドナイト・アフター・・・・・評価額1300円」
深夜の香港で、人々が忽然と消滅。
残ったのは、たまたま小型バスに乗り合わせた17人。
無人の街に放り出された彼らは、謎を解いて元の世界に帰れるのか?という要するに「LOST」みたいな話。
謎が謎を呼ぶ前半は、バカバカしいギャグも良いスパイスとなって凄く面白い。
しかし2/3が過ぎる頃から嫌な予感が漂い始め、結局広げに広げた風呂敷は畳まれず、映画は全てを放りっぱなしのままグダグタかつ唐突に終わってしまう。
こんな所まで「LOST」の真似すんな!と思ったら、これ元々二部作構想で、とりあえず原作の前半だけ作ったとか。
いや、それならそれで良いけど、なぜその重要な情報を映画祭公式サイトに載せないんだよ。
まあ続きがある事を前提としても、最後の30分のグダグタ感は相当なものだけど・・・。


「シーズ・ファニー・ザット・ウェイ・・・・・評価額1700円」
ピーター・ボグダノヴィッチ13年ぶりの劇映画は、持ち味を最大限生かした実に彼らしいスクリューボールコメディの快作だ。
元NYのコールガールだった新進映画女優が、インタビューに答えて自分のキャリアの始まりに纏わる物語を赤裸々に語る。
ブロードウェイの舞台劇の制作を背景に、思いがけない出会いとウソが、まるでビリヤードの玉突きの様に、次なる出会いとウソを次々に作り出し、やがてそれぞれの恋の鞘当てが絡みあい、登場人物全てを巻き込む大騒動に発展してゆく。
人口800万の巨大都市NYで、誰も彼もが知り合いという御都合主義を全く感じさせない、スピーディーな展開とパワフルな演出力。
巨匠健在を感じさせる、あっと言うまの90分だった。
これ原題のままのカタカナのタイトルでは雰囲気伝わらないから、センス良い邦題付けて公開して欲しい。
間違っても、「恋のNY大騒動」とかはやめてちょうだい。
ボグダノヴィッチによると、本作の着想の元は78年にシンガポールの娼館を描いた「Saint Jack」を撮った時に、取材した娼婦が仕事を辞めたいと言うのでお金をあげた体験だとか。
またまた随分古い話だが、創作の種は何十年後に芽を出す事もあるという事か。


「メルボルン・・・・・評価額1650円」
イランの首都テヘラン。
留学の為にメルボルンへと旅立とうとする若い夫婦が、出発当日に予期せぬ事件に巻き込まれる。
更に事態を悪化させないためについたウソが次なるウソを呼び、何時しか最悪の状態に。
アスガー・ファルハディ以来、イラン映画の定番と化した「誰も悪くないけど、ウソで破滅」系の日常サスペンスだが、本作の場合主人公夫婦の直面する事態の深刻さはかなりのもの。
ぶっちゃけ、こんなウソ付くなんて馬鹿だと思うし、劇中でもそう指摘されるのだけど、人間気が動転するとあんなものかもしれない。
殆ど全編夫婦のアパート内だけで展開する演劇的な世界観で、低予算を逆手にとった空間設計。
狭い空間に秘密を抱え、落ち着いて考えたいのに、引越し当日なものだから、ひっきりなしに人が訪ねて来る。
更には鳴り続ける携帯電話の呼び出し音が、夫婦を心理的に追い込んで行くのも上手い。
これが長編デビューのニマ・ジャウィディ監督は、ファルファディ的でもあるが、観客として鑑賞していたアミール・ナデリがQ&Aで指摘していた様に、ちょいロマン・ポランスキーを思わせる演出センス。
普遍性は高く、世界中の誰にでも起こりうる晴天の霹靂に、観客はもしも自分ならどうする?と考える。
観ながら、これ納得いく話の収束の仕方は一つしかないよなあと思ってたので、ラストには唸らされた。
監督が3カ月かけて考えた会心のオチらしいが、お見事だった。

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ベイマックス・・・・・評価額1800円
2014年10月27日 (月) | 編集 |
愛で、すべてを救う。

むちゃくちゃ面白い!
東京とサンフランシスコを合体させた架空の街、サンフランソウキョウを舞台に、オタク少年のヒロと亡き兄の残したロボット、ベイマックスと仲間たちが冒険を繰り広げるSFファンタジー。
監督は共にストーリー畑出身で、2011年版「くまのプーさん」で監督デビューしたドン・ホールと、「ボルト」のクリス・ウィリアムズ。
原作はマーベルコミックの「Big Hero 6」で、ディズニーによる買収後初めて登場した、ディズニー・ピクサーとマーベルユニバースのコラボレーション作品だ。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の熱血、「アイアン・ジャイアント」の詩情、そして「ヒックとドラゴン」の絆。
これら全てをあわせ持つ、娯楽アニメーションの歴史に残る傑作である。
良い意味で事前の予想や期待を裏切られると思うので、なるべく予備知識なしに観るのがベストだろう。
※だから観る前には読まないで!

幼い頃に両親を亡くしたヒロ・ハマダ(ライアン・ポッター)は、大学でロボット工学を専攻する兄のタダシ(ダニエル・ヘニー)と、二人を引き取って育ててくれたキャスおばさん(マーヤ・ルドルフ)の三人暮らし。
ヒロは、愛情深く自分を見守ってくれるタダシと同じ大学へ進むために、マイクロロボットの研究を進めている。
だが、発表会で起こった爆発事故によって、タダシは帰らぬ人となってしまう。
悲しみのあまり心を閉ざしたヒロの前に現れたのは、生前のタダシが開発したロボット、ベイマックス(スコット・アドシット)。
白い風船のような体を持つベイマックスは、人々の心と体を癒すケアロボットだった。
ベイマックスとの交流で、少しずつ元気を取り戻してゆくヒロは、ある事実から兄の死に疑問を持ち、ベイマックスと共に真相を調べ始める。
何者かが、爆発で消滅したはずのマイクロロボットを大量生産している事を突き止めたヒロの背後に、謎の仮面の男が迫っていた・・・


原作は未読だが、キャラクターの基本設定以外、物語はほぼ映画オリジナルだそう。
まるで「リアル・スティール」のロボットバトルを思わせる冒頭から、日米のサブカルチャーへのリスペクトとオマージュが全開だ。
舞台となるサンフランソウキョウの世界観が実に面白い。
地形は現実のサンフランシスコそのままに、ビルのデザインや街のディテールに東京をミックス。
全く異なる文化をごちゃ混ぜにした荒唐無稽な都市なれど、生活感の表現などはやたらとリアルに造形されており、路地裏の風景など本当にアキバや新橋にありそう。
ランドマークであるコイトタワーが五重塔になっていたり、金門橋の主塔が鳥居風だったり、走っている車は軽自動車だらけで、パトカーが白黒パンダの警視庁仕様だっり、いかにもオタクがデザインしました的な凝り様がおかしい。

まさに神が細部に宿っている、この楽しげに猥雑な街に暮らすのが、14歳のヒロ少年。
ディズニーアニメーション史上初めての日系の主人公であり、声を演じるライアン・ポッターも日系人。
名前はヒロ=Heroにかけてある訳だ。
兄のタダシ同様天才的な頭脳を持ちながら、違法なロボットバトルにしか興味がなかったヒロの人生は、タダシに誘われて彼の通う大学を見学して一変。
そこでは才能豊かなナード(オタク)たちが、それぞれにユニークな研究に勤しんでおり、皆が自由な発想で誰も見たことがないものを作ろうと奮闘している。
そして彼らの憧れの的が、高潔な倫理観を持つ天才科学者のキャラハン博士。
ここでヒロは、初めて自分の未来の可能性が大きく広がるのを実感するのである。
そしてキャラハン博士に認めてもらおうと、タダシや大学の仲間たちの力を借りながら、合体してどんな形にも姿を変える、画期的なマイクロロボットの開発に成功したものの、その華々しい発表の夜に、最愛の兄はこの世を去ってしまう。

ショックから再びナイーブな心に引きこもったヒロを救うのが、兄の残したケアロボットのベイマックスだ。
ベイマックスは、世界の人々の心と体を癒すという夢のために、タダシが何度も失敗を繰り返しながら作り上げたもので、いわば彼の分身である。
両目の間にバーが横切る顔の造形は、日本の伝統的な鈴がモチーフ。
丸いフワフワの風船のような姿は、ちょっとゆるキャラちっくでなるほど日系人がデザインしたという設定に納得。
ふなっしーやくまモンの、海外の親戚みたいなものか。
ロボットの既成概念にとらわれない、真っ白で無駄のないプレーンな造形には、どこかApple製品っぽい雰囲気もある。
ヒロはベイマックスと共にタダシの死の真相を探りながらも、次第に彼の中に兄の存在を感じ、心の平穏を取り戻してゆく。

そんな二人(?)の前に現れるのが、マイクロロボットの秘密を盗み、おそらく兄の死にも関わりを持つ仮面の男。
彼の秘密を暴くために、ヒロは大学のナードたちと、それぞれの研究を生かしたハイテクスーツを開発して、なんちゃってヒーローチームを結成し、さらにベイマックスにもバトルアーマーを装着する。
元のベイマックスがゆるキャラなら、派手なアーマーを纏ったベイマックスは70年代頃の日本のロボットアニメへのオマージュだ。
なにしろ足からのジェット噴射で空を飛び、文字通りのロケットパンチを放つのである。
ベイマックスとヒロが、一心同体となってサンフランソウキョウの空を舞うシークエンスは、「ヒックとドラゴン」の飛行シーンを思わせ、圧倒的な爽快感と飛翔感
ワールドプレミアは残念ながら2D上映だったが、おそらくここを観るためだけに3Dの追加料金を払っても損はしないだろう。

しかし、仮面の男の正体が憧れていたキャラハン博士であり、彼が兄を見殺しにしてマイクロロボットを盗んだ事を知った時、憎しみに満たされたヒロの心は、思わず我を忘れて暴走してしまうのだ。
ヒロはタダシが開発した感情チップをベイマックスから抜き取り、怒りのままに博士を殺そうとするのである。
本作のキービジュアルが日本では完全に癒し系、本国アメリカでは冒険漫画風と全く逆のイメージなのがネットで話題になっていたが、実はどちらも間違っていない。
これは少年が冒険を通して、本当の優しさを学び、許しと癒しの意味を見出してゆく成長の物語だ。

やがて我に返ったヒロは、ベイマックスの記録からタダシがケアロボットを作った真の理由を理解し、さらにキャラハンもまた自分と同じような悲しく不条理な喪失を経験し、マイクロロボットを盗んだのは復讐の為である事を知る。
自らも一度は憎しみのダークサイドに落ちかけたからこそ、ヒロにはキャラハンの心の痛み、抑える事のできない負のエネルギーの力がよくわかるのだ。
もはや復讐を捨てたヒロの目的は、キャラハンと皆を救うことに変わるのである。
ヒロとベイマックス、ナードたちのヒーローユニット、“Big Hero 6”が結集し、それぞれの能力を最大限に発揮するクライマックスは、アクションスペクタクルとして素晴らしい出来栄えであるだけでなく、よく練られたプロットによって、登場人物すべての葛藤に完璧なソリューションを提示する。

思うに、ディズニーはマーベルを買収したことで、どちらかといえば不得手だったガッツリ男の子向けの表現の幅を手に入れたのだと思う。
ここでは、マーベルの定番である冒険と友情、ディズニー・ピクサー流の優しさと知性が、物語の上で高度に融合しており、男の子はもちろん、女の子も、大きなお友達も、老若男女すべての人が少年たちの冒険に心躍らせ、ベイマックスの献身に癒され、泣かされるだろう。
まさに異種ブランドの幸福なマリアージュによる最良のシナジー効果であり、近年のディズニー・ピクサー作品のベスト
その素晴らしさは、上映が終わって場内の灯りが点いた時、お客さん皆がたたえていた満面の笑みが雄弁に語る。
そして、本作が紛うことなきマーベルユニバースに属する作品である事は、例によってエンドクレジット後のおまけが証明するので、絶対に席を立ってはいけない。
まさかのオチはさすがに予想できなかったよ(笑
本作は多分続編あるだろうし、もしかしたら実写とアニメという表現の垣根を越えた、夢のヒーローユニットが観られる時は案外近いのかも?

最近、サンフランシスコが舞台の映画が多い気がするが、今回はもう一つの舞台たる東京の地ビールで、天王洲の「T.Y.ハーバー ブルワリー」のクラフトビールをチョイス。
ここはサンフランシスコのマイクロブルワリーをモデルに、サンフランシスコの技術を導入してオープンした醸造所で、いわばビール版のサンフランソウキョウ。
なるほど上面発酵で作られたエールは、どこかサンフランシスコを代表する地ビールであるアンカー・スチーム風。
オシャレで美味しいアメリカンレストランを併設していて、飲み比べセットなども用意されているほか、通販も行っている
数種類のビールを楽しめるのだけど、私のお勧めはホップの苦みが強く、キレキレのIPAだ。
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嗤う分身・・・・・評価額1650円
2014年10月22日 (水) | 編集 |
ホンモノの“僕”はどっちだ?

ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの不条理小説、「分身」の大胆な新解釈。
ジェシー・アイゼンバーグ演じるコンプレックスの塊のような主人公は、ある日自分のドッペルゲンガーと出会う。
やがて彼は、自分とは正反対に快活で人当たりの良い性格の“それ”に、人生を乗っ取られてしまうのだ。
監督・脚本は、異色の青春映画「サブマリン」で注目されたリチャード・アイオアディ。
共同脚本を、兄のハーモニー・コリン監督作品、「ミスター・ロンリー」で知られるアヴィ・コリンが務める。
くすんだ色調と、光と影の極端なコントラストが独特なレトロモダン都市に、なぜか坂本九やジャッキー吉川とブルー・コメッツなどの昭和歌謡が響き渡る、シュールな世界観もインパクトあり。
ミア・ワシコウスカが演じるヒロインも、メランコリックなムードを漂わせて魅力的だ。
陰鬱で皮肉っぽくて可笑しい、これぞ正しく英国映画である。

内気で存在感が薄いサイモン・ジェームス(ジェシー・アイゼンバーグ)は、会社の上司には毎日どやされ、密かに思いを寄せるコピー係のハナ(ミア・ワシコウスカ)にはまともに声をかけることすらできないでいる。
ある夜、向かいのアパートに住むハナの部屋を望遠鏡でのぞき見していたサイモンは、投身自殺を目撃してしまう。
その男は、サイモンに向かって手を振ってから、飛び降りたのだ。
図らずもその事件が切っ掛けとなって、ハナと初めて二人きりで話すことに成功したものの、サイモンにとって驚くべき事態が起こる。
自分そっくりの容姿を持つ男、ジェームズ・サイモン(二役)が入社してきたのだ。
見た目は瓜二つ、しかし冴えないサイモンと違って、ジェームズは口がうまくて要領が良く、初対面の人も自分のペースに巻き込んでしまう。
サイモンは、ジェームズの求めに応じて、しばしば彼の替え玉を演じるようになるのだが、いつしか彼は自分の人生のすべてをジェームズに握られてしまった事に気づく・・・・


撮影時には、ジェシー・アイゼンバーグの二役をモーションコントロールカメラで捉えるため、一切の自然光を排除したそうだが、結果的に永遠の夜が続く奇妙な世界が出来上がった。
ちょっとバウハウス風の無機質な建物や、レトロ調の大げさな機械類は、「未来世紀ブラジル」をセンス良く低予算にした様なイメージ。
そういえばテリー・ギリアムとリチャード・アイオアディは、共に英国のコメディシーンをキャリアのバックグラウンドに持つという共通項がある。
しかしながら本作は、ギリアムの代表作のような、ビッグブラザー的ディストピアとは決定的に違う。
確かに何処も彼処も暗くて狭苦しく、むせ返りそうな湿気が充満した陰気な都市は、あまり行ってみたいと思う世界観ではないが、ここには絶対的な支配者もいなければ、主人公を陥れる巨大な陰謀も無いのである。
サイモンは“大佐”と呼ばれる人物の会社に勤めているが、彼の支配が及ぶのは会社の中だけで、別に世界を意のままにする独裁者ではない。

オーウェルの昔から、ディストピアの葛藤は狂気によって統制された社会からの逃走欲求だが、ドストエフスキーが描いたのは社会vs個人ではなく、あくまでも個人の内面に軸足を置いた物語だ。
本作の脚色もそこは抑えており、サイモンの問題は周囲からの承認欲求と、現実の自分との乖離という心理的な葛藤なのである。
原作の「分身」では、下級文官ゴリャートキンが、夜会で想いを寄せる令嬢へのアタックに失敗した後に、もう一人の自分が現れるが、映画でも、ハナに会うために大佐のパーティーに忍び込んだサイモンが、つまみ出されそうになって「これ(間違いを犯した自分)は僕じゃない、僕じゃないんです!」と叫んだ後にジェームズが出現する。
つまり小心者でありながら、強い自己顕示欲を持つ主人公が、自らを肯定できなくなった時点で、分裂が始まるのだ。
小説の場合、ドッペルゲンガーが本当に存在していたのか、それともすべてはゴリャートキンの錯乱した心が作り出した妄想なのかは、おおむね読者の解釈に任されている。
一方、映画の場合は表現上そこまで虚実を曖昧にはしていない。
映画全体がサイモンの夢である、と捉えることも無理ではないが、いずれにしてもサイモンの主観的世界でジェームズは物質的に存在していると考えた方が、しっくりくる作りになっている。

だとすると一番おかしいのは、全く同じ顔を持つ人物が二人いるのに、周りの誰も気にしないというシチュエーションという事だろう。
どうやらアイオワディは、内的な葛藤と社会的な葛藤は、必ずしも結びつかないという点に、この設定の面白さを感じている様だ。
ジェームズの出現により、存在を脅かされているのは所詮サイモン一人の世界にすぎない。
同じ顔の男が二人いたとしても、本人以外の人間にとって何か問題があるだろうか。
むしろ陰気なお荷物社員が一人いるより、その有能なバージョン(に見える)がセットでいてくれた方が、会社にとっても周りの人間にとってもずっと良い。
サイモンとジェームズがそっくりなのは、ぶっちゃけ他人にとってはどうでもいい事なのである。

現実の自分への拒絶が生み出した半身は、いわばサイモンが欲してやまない理想を抽出して出来た自分だ。
誰にでも堂々と主張し、言葉巧みに相手に取り入り、必要とあらば他人を陥れることを厭わず、何よりも女にモテル。
サイモンがいくらジェームズを否定しようにも、元々自身の一部なのだから、すべて跳ね返って自分を傷つけてしまうのである。
もしも彼と同じような目にあったら・・・と想像すると全く最悪の物語だが、暴走するドッペルゲンガーに翻弄され、テンパってゆくサイモンを見ていると、悲哀を感じつつも可笑しさがこみ上げてくる。
必死に自分自身に抵抗する様は、主観で見るなら悲劇だが、客観で眺められれば喜劇。
とぼけたユーモアを感じさせながら、二つの人格を完璧に演じ分けるジェシー・アイゼンバーグが素晴らしい。

心象的・寓話的な世界観の中で面白いのは、サイモンやハナが暮らし、やがてジェームズも入居する事になるアパートの空間設計だ。
ハナの部屋はサイモンの向かいの棟にあり、彼はまるで「裏窓」のジェームズ・スチュアートの様に、毎夜彼女を覗き見ている。
サイモンにとって二つの棟を隔てる距離は、手が届きそうで決して届かない。
それは現実の距離以上に、心が遠ざけているからだ。
ところが、ジェームズは登場するや否や、さっさと彼女の棟の上階に入居してしまう。
とうとう愛するハナまでもが、狡猾なニセモノの手に落ちようとする時、サイモンは遂にジェームズとの対決を決意するのである。
分裂してしまった世界を元に戻すためには、ジェームズの存在を抹殺するしかない。
ここでこの物語の虚構性が再びのカギとなる。
物語のラストをどう解釈するか、バッドエンドなのかハッピーエンドなのか、観る人によってずいぶんと印象が変わってくると思う。
私にとっては、決して後味は悪くなかったのだけど。

ちょっと面白いのは、脚本のアヴィ・コリンが、自分もアイオワディ監督も多分にサイモン的な性格だと語っている事。
ドストエフスキーも精神的に不安定で、「分身」を書いた時は激しい劣等感に悩まされ、主人公のゴリャートキンと自分を同一視していたそうだ。
なるほど作家は自分の内的葛藤が限界まで達すると、作品というドッペルゲンガーを自ら生み出すことで、精神の均衡を保っているのかもしれない。
だからこそ、本作も原作の「分身」も、自虐的でどこか滑稽なのだろう。

今回はサイモンくんの妄想の様な「キス・イン・ザ・ダーク」をチョイス。
ドライ・ジン25ml、ドライ・ベルモット20ml、チェリー・ブランデー15mlをステアして、グラスに注ぐ。
チェリーブランデーの甘い香りと、ドライ・ジンの辛口な清涼さが良いバランス。
美しいルビー色で目にも楽しいカクテルだ。
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ショートレビュー「ショート・ターム・・・・・評価額1700円」
2014年10月18日 (土) | 編集 |
誰かと寄り添えば、明日はきっと今日より明るい。

自身や家庭に様々な問題を抱えたティーンエイジャーを保護し、短期滞在させる施設“ショート・ターム12”の日常を描くハードなヒューマンドラマ。
実際に二年間ショート・タームで勤務した経験を持つ監督のデスティン・クレットンは、2008年に21分の同名短編「Short Term 12」を発表。
この作品がサンダンス映画祭で審査員賞を獲得した事で、長編化への道筋がつけられた。
本作はショート・タームに新人スタッフのネイトがやってきて、如何にここでの仕事が大変かを先輩たちが面白おかしく語っているシーンから幕を開けるが、このネイトは監督自身をモデルとしたキャラクターらしい。
※核心部分に触れています。

物語の主人公となるのは、施設のスタッフのリーダーであるケアマネージャーのグレイス。
同僚のメイソンとは長年恋愛関係にあり、過酷な仕事をこなしながらもそれなりに幸せな日々を送っている。
彼女らが毎日向き合わなければならない、ティーンたちの背景は様々だ。
まもなく18歳となるので施設を出なければならない黒人少年のマーカスは、母親にネグレクトされて育ち、将来に不安を感じている。
ヒスパニックのルイスは、明るい性格だが人にちょっかいを出さずにはいられず、揉め事を作ってばかり。
痩せっぽちのサミーは、常に人形を触っていないと情緒不安定となり、時に感情の暴走を抑えられない。
彼らはそれぞれに異なる問題を抱え、その繊細なガラスのハートはいつどんな切っ掛けで壊れてしまうか分らない。

しかし、内面の葛藤と直面しているのは多感なティーンだけでは無いのである。
グレイスは、メイソンとの子を妊娠しており、彼と結婚して幸せな家庭を築きたいという希望と、自分にはそんな事は無理だという諦めの気持ちに引き裂かれている。
それは何故か。
ずっと封印してきた過去の傷を、改めてグレイスに思い起こさせるのは、新たに施設にやって来たジェイデンという少女だ。
母親が亡くなってから荒れはじめ、あちこちの施設をたらいまわしにされて来た彼女に、グレイスは嘗ての自分を見るのである。
実はグレイスは、10代の頃父親に性的虐待を受け、赤ん坊を密かに堕した事があり、それは彼女にとって誰にも言えないトラウマとなっている。
パートナーのメイソンもまた複雑な背景を持ってはいるが、彼は一応里親の元で幸せに育っているので、自分の抱える傷を理解してもらえないと思っているのだ。

そんな彼女の前に現れたのが、自分そっくりの境遇にあるジェイデンという訳だ。
グレイスにとってジェイデンを救うのは、嘗ての自分の救済に他ならなず、それ故時には我を忘れて暴走してしまう。
この世界への不安と不信を刻み付けられたティーンの葛藤と、彼女に寄り添う事によって、封印してきた自らの傷に再び向き合う事になった主人公の葛藤が共鳴し、パワフルにドラマを盛り上げる。
やがて罪を犯してまでジェイデンを助けようとするグレイスは、自らの過去の秘密をジェイデンに打ち明けるのだ。
思いつめたグレイスに、少女がかける一言。
「あんた、良いお母さんになるよ」
同じ傷を持つ二人は、悲しみを共有し、勇気を分け合う事で、共に過去を振り切り未来へと歩み始める。


ショート・タームがいくつあっても、グレイスのような献身的なスタッフが何人いても、虐待を受ける子供がいなくなる事は無いし、誰かが救われて施設を出れば、また別の誰かが入ってくる堂々巡り。

しかし声なき痛みを知り、救い続ける人々がいれば、誰かの未来を変える事はきっと出来る。

とても厳しいエンドレスな葛藤の中に、小さな希望を見い出す物語のスパイスは、センスの良いユーモア。
観終わって、明日を生きるための爽やかな力を貰える、低予算だが丁寧に作られた力作である。

今回は、ショート・タームの気の良いスタッフたちと乾杯したい、「ミラー ドラフト」をチョイス。
現在は外国資本の傘下に入っているが、言わずと知れたアメリカを代表するビールのマスプロ銘柄。
「 ライト」を持ってくるまでもなく、このドラフトでも味わいはあくまでも軽いのだけど、ショート・タームの仕事してたら、疲れ過ぎてあまり深酒する気にはならないだろうな。
水の様なスッキリ感は、優しく疲労を癒してくれる。
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ショートレビュー「アンダー・ザ・スキン 種の捕食・・・・・評価額1650円」
2014年10月13日 (月) | 編集 |
美しき捕食者の、欲しかったもの。

伝え聞いていた設定、そして如何にもな邦題サブタイトルから、「スピーシーズ 種の起源」的B級SFホラーを連想したが、全く違った。
いや低予算作品なのは間違いないが、これはもう強烈にアヴァンギャルドなブリティッシュ・サブカル映画だ。
台詞を含めて説明的な要素は最小限。
スコットランドの陰鬱な情景を舞台に、映像と音のイメージによって独創のシネマティックワールドが形作られる。
劇映画としてはニコール・キッドマン主演の「記憶の棘」以来10年ぶり、ジョナサン・グレイザー監督は、今回も観客の心に刺さる作品を作り上げた。

冒頭、いきなり奇妙な光と形が作り出す不思議な空間に引き込まれ、ミカチュー&ザ・シェイプスのミカチューことミカ・レヴィの秀逸な劇盤によってトリップ感が増幅。
やがて登場するのは、車で街を巡り男たちを狩ってゆくスカーレット・ヨハンソン演じる謎の美女と、証拠消しの後始末役と思しきバイク男。
美女は一枚一枚服を脱ぎ、男たちを暗闇に誘い込むと、哀れな獲物はいつの間にか“何か”の中に捕食され、肉と皮を分離されてしまう。
実は美女の姿は人間の皮をかぶっているだけで、中身はコールタールの様な真っ黒な生き物で性別も不明。

明確な説明は無いものの、たぶん宇宙人?もしかしたらアンドロイドなのかも知れない。
狙いは人間の皮もしくは肉の様だ。
美貌を武器にしているが、狩りの対象は必ずしもセックスを目的にした男だけとは限らない。
海で捕えた男は、溺れていた人を助けようとして力尽きた良い人だし、彼女の行為を性的なメタファーだけと捉えるのは無理がある。

では、この不思議なムードを持った暗喩劇の行き着く先はどこか。
淡々と任務を遂行する美女はしかし、ある夜偶然にもエレファントマンを思わせる奇形の男に声をかける。
今までの獲物とは明らかに異なる、特異な外見を持ち深い孤独に生きる男との接触が、美女の内的な変化の引き金となるのだ。
彼女は忽然と感情を知り、次に自分の仮の姿である“皮”、即ち人間の女という肉体にアイデンティティを求める。
本作の舞台となるのは、劇中でも言及される独立騒動にゆれたスコットランド。
のっぺらぼうの元の自分ではなく、外見が象徴する自己に目覚めた彼女は、スコットランドが英国からの独立を目指したように、自らが属する世界からの離脱を試みる。

しかしながら、あくまでも彼女の外見は作り物である。
人間の食べ物は体が受け付けず、セックスもおそらくはその体の構造上最後までは果たせない。
また彼女自身は「LUCY/ルーシー」の様に特殊能力がある訳でも、マーベル・シリーズのブラック・ウィドウの様な戦闘能力がある訳でもない。
エキセントリックな設定とは裏腹に、ただの人間の女同様、粗野な男によって容易に組み伏せられてしまうか弱き存在なのは、過去にヨハンソンが演じたキャラクターたちの裏返しの様だ。
外観からアイデンティティを欲した彼女の心は、所詮“アンダー・ザ・スキン”にしかなく、仮の姿を失った“それ”は、結局何者でもない何かとして消えるしかないのである。
存在の本質はどこにあるのかと言う、ある意味「ブレードランナー」であり「2001年宇宙の旅」であり「アトム」でもある正統派心理SF。

作り物の美女が男たちを虜にしてゆくのは、ラングの「メトロポリス」を思わせる。
いつの世も、男たちはどこまでも本質を見てないという事か。
観る側に読解を求める作品なので好みは明確に別れそうだが、個人的にこのトンがったセンスは大好物だ。

本作の舞台はスコットランドで、劇中で餌食になってしまう可愛そうな男たちの一人は、ウィスキーをモチーフとした「天使の分け前」で主人公を演じたポール・ブラニガン。
という訳であの映画と同じく「ラガヴーリン 16年」をチョイス。
塩の染み込んだピートの効いたアイラモルトの独特の香りは、人によっては薬みたいに感じる様だが、一度嵌ってしまえばクセになる。
この映画も、そんなスコッチウィスキー同様に独特の魅力のある一本だ。
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ショートレビュー「悪童日記・・・・・評価額1700円」
2014年10月08日 (水) | 編集 |
生きるために、彼らがした事。

戦時下のとある国。
都会で育った双子の兄弟は、迫りくる戦火から逃れるため、“魔女”と呼ばれる粗野な祖母の家に疎開する。
片田舎の農家では働かなければ食事も与えられず、祖母からも村人からも意味もなく殴られる過酷な日々。
村は外国の軍隊の占領下にあり、ここでは生と死はごく薄い壁によって隣り合わせの関係にあることを兄弟は知ってゆく。
やがて彼らは、厳しい現実を生き延びるために、様々な“訓練”を自分たちに課すようになる。
痛みに耐える訓練、空腹に耐える訓練、生き物を殺す訓練。
それらの経験は確実に、彼らから無垢なる時代を奪い去ってゆく。
※ラストに触れています。

固有名詞が一切出て来ない、神話的な寓話劇だ。
まあ劇中話されている言語はハンガリー語だし、映像を見ていれば原作者の故郷でもある第二次世界大戦中のハンガリー西部をイメージしているのは分かるのだが、具体的にはこれが一体どこの国の、どの戦争を描いた話なのか、双子の主人公を含めた登場人物の名前すら描写されない。
それは即ち、どこの誰にでも起こりうる普遍的な物語であるという事だ。
主人公の双子を演じる、ジェーマント兄弟の存在感が圧巻。
実際に彼らは貧しい村の出身で、肉体労働を日課として育ち、家庭に問題を抱え家族と離れて暮らしているという。
もちろん演技経験の無い素人だったそうだが、よくぞ探し出してきたものだ。
本作は基本的に彼ら二人の“僕たちは”という言葉によって物語られ、どちらがどちらかは双子ゆえに判別不能。
「どんな事にも耐えられるけど、引き離されるのはつらい」というように、彼らは二人で一人の不可分な存在なのである。

隣家の兎口の少女と仲良くなったり、小児性愛者の軍人に助けられたりしながら、彼らは極限の時代を生き抜いてゆくが、戦争が終わっても二人に平和は訪れない。
訓練と戦争中の経験によって、すでに子供ではない別の何かになってしまった彼らは、もはや何も知らなかった頃には戻れないのだ。
出征した父を裏切った母の迎えを拒否し、祖母の自殺を助け、戦争前の穏やかで平和な世界の記憶全てを、自らの意思で消去してゆく。
そして彼らの少年時代を締めくくる、最後の訓練とは。
自らの半身を切り離し、あらゆる依存を断ち切るというもっとも辛い経験を経た時、彼らの“個”は確立するのである。

これは戦時下を生きる子供たちの物語だが、戦争の経験が子供らしさを奪うとか、単純に倫理的、反戦的な話とは根本的に違う気がする。
彼らは確かに非情にはなってゆくけれど、基本的に困っている人を見れば助け、悪しき人がいれば罰するという彼らなりの善悪の基準はぶれずに持っている。
二人の中にある絶対的なプライオリティは、ただ生きる事のみ。
むしろ、この映画を観ていると、いったいこの世の中の何が正しくて何が間違っているのか、答えを出すことが出来なくなるのである。
ハンガリー出身の作家、アゴタ・クリストフの原作は昔から興味をそそられつつ、いまだ未読なのだけど、今度こそ続編を含めて読みたくなった。
森に消えた“僕”と、地雷原の彼方に消えたもう一人の“僕”の人生。
熱い戦争の時代から、今度は冷たい戦争の時代へ、大人たちの愚かしさが作り出し、東西に分かれた二人の“元子供だった存在”の未来が凄く気になる。

ハンガリーは古代からのワイン生産地の一つ。
今回はやはり血の様な赤、「エゲルヴィン エグリ・メルロー」の2008をチョイス。
甘く、フルーティな香りとなめらかな舌触り。
少年たちの物語はかなり辛口だったが、こちらはほんのりと柔らかな甘口の仕上がりだ。
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ジャージー・ボーイズ・・・・・評価額1750円
2014年10月03日 (金) | 編集 |
巡りゆく四季、巡りゆく音楽。

トニー賞受賞のブロードウェー・ミュージカルを原作に、巨匠クリント・イーストウッドが作り上げた瑞々しい音楽映画。
1960年代、時代を牽引した伝説的ポップスグループ、“ザ・フォー・シーズンズ”の実話を元に、アメリカンドリームの光と影を描く。
舞台版と同じく、ジョン・ロイド・ヤングがリードボーカルのフランキー・ヴァリを演じ、てんこ盛りの音楽シーンは、もはやホンモノとどちらがオリジナルか分らないくらいの見事なパフォーマンス。
「君の瞳に恋してる」「シェリー」など、フォー・シーズンズのヒット曲は、本人たち以外にも長年色々な人がカバーしているので、タイトルは知らなくても誰もがメロディに聞き覚えがあるはず。
アメリカン・ポップス史に詳しい人はより深く楽しめるのだろうが、予備知識無しでも全然問題ない。
70年代懐メロ満載だった「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」に続いて、こちらも観終わってiTunes直行間違いなしだ。
※ラストに触れています。

1950年代。
ニュージャージー州の貧しい街で育った四人の若者たちは、掃き溜めからの脱出の手段として音楽を選ぶ。
奇跡の声を持つリードボーカル、フランキー(ジョン・ロイド・ヤング)、作曲とキーボードのボブ(エリック・バーゲン)、ギターのトミー(ビンセント・ピアッツァ)、そしてベースは寡黙なニック(マイケル・ロメンダ)。
彼ら四人は“フォー・シーズンズ”というバンドを結成するも、当初は鳴かず飛ばず。
ところが、レコード会社から予算が出ないので、やむなく自腹でレコーディングした曲から人気に火が付き、瞬く間にスターダムを駆け上がる。
出す曲は次々とヒットし、時代の寵児としてもてはやされ、全米をツアーして廻る充実した毎日。
しかし、順風満帆のはずだった彼らの四人の間には、いつの間にか大きな亀裂が入っていた・・・


ゼロ年代に入って以降、驚くべきペースで重厚な傑作を連発してきたイーストウッド。
特に2008年に公開された「グラン・トリノ」は、まるで明日この世から消え去る事を決意したかの様な遺書的な作品で、私を含む長年のファンは、もしかしてこれが彼の最後の作品になるんじゃないか・・・・という予感にとらわれたことだろう。
ところがどっこい、2010年の「ヒア アフター」で、“死”を軽々と超越し、新たな映像スタイルを模索しはじめた巨匠は、齢84歳にして何とも若々しい音楽映画の傑作を作り上げたのである。
この恐るべきバイタリティと途切れぬ創作意欲には、脱帽するしかない。

実話ベースという事もあるのだろうが、本作の物語そのものは非常にオーソドックスなサクセスストーリーだ。
希望の無い街で育った四人の若者が、皆の個性と才能を合わせて音楽で身を立てる。
しかし、一緒に夢を追う期間は短く、成功するとやがてそれぞれの見ている世界観の違いが浮き彫りとなり、破滅的葛藤に繋がってゆくのは「ソーシャル・ネットワーク」などとも共通する流れだ。
あの映画では共に起業したものの、会社が大きくなるにつれて百億ドルの夢を追うマーク・ザッカーバーグと、百万ドルの夢で十分だった親友のエドゥアルド・サベリンの間に決して埋められない溝が出来てしまう。
本作でも、四人が成功するにつれて、それぞれの立ち位置の違いが人間関係に小さな歪みを生み、それはやがて決定的な衝突へと繋がってゆく。

グループの顔であり、人気を牽引するリードボーカルのフランキーと、カラーを形作る作曲担当のボブはフォー・シーズンズに絶対に欠かせないが、トミーとニックは必ずしもそうではない。
例えばビートルズにおけるジョンとポールの二枚看板に、人気面でもグループ内での実績でも一歩及ばないジョージとリンゴ。
同じような構図が、いつの間にかフォー・シーズンズにも出来てしまうのだ。
ここでややこしいのは、トミーはギタリストであるだけでなくグループのリーダー格で、フランキーを見い出し、マネジメントも含めてフォー・シーズンズを育て上げたのは自分だという強烈な自負がある事。
元々チンピラ上がりのトミーにとっては、フランキーもボブも自分の舎弟みたいなもので、彼らほどバンド活動をビジネスライクに割り切れないのである。

本作のタイトルはなぜ「フォー・シーズンズ」ではなく「ジャージー・ボーイズ」なのか。
ニュージャージーの貧しいイタリア系コミュニティをバックボーンに持つ彼らは、バンド名のフォー・シーズンズである以前に、民族的アイデンティティを共有するファミリーであり、ジャージー・ボーイズなのである。
さらっと描かれる裏社会との関わりを含めて、四人の誰もがバンドを脱退する事は出来ても、ジャージー・ボーイズである事は一生辞められない。
だからこそ、トミーがバンドの金を使い込んで巨額の借金を作った時も、フランキーはクリストファー・ウォーケンが味わい深く演じるその筋の大物の助けを断り、自分たちで金を返すことを選ぶのだ。
このビジネスを超えた血脈と魂の絆こそがタイトルの意味であって、物語の終盤で描かれる晩年の彼らのエピローグ的エピソードに繋がってゆく。

おそらく舞台版を踏襲しているのだろうが、物語のそれぞれの段階で、四人の誰かがスクリーンのこちら側に語りかけてくる表現が面白い。
例えばフォー・シーズンズの結成に繋がる前半部分ではトミーが、メンバー間の葛藤が極限に達し、分裂の危機に陥るあたりでは、それまで静かな観察者の役割であったニックが、文字通りの狂言回しとして物語を一気に展開させる役割を担う。
この演劇的構成によって、50年代に始まり実質40年間に及ぶ物語は、栄光と挫折、友情と裏切り、愛と別離、そして愛するものの死という数多くの劇的シチュエーションを含みながらも、134分という常識的な上映時間の中で過不足なく、テンポよく纏まっている。
またこの表現によって、スクリーンと客席はグッと近くなり、観客は半分ドキュメンタリー的な距離感で四人の人生を見守ることが出来るのである。

自らもミュージシャンであり、フォー・シーズンズのメンバーとはほぼ同世代のイーストウッドは、時に優しく、時にシニカルな目を彼らに注ぐ。
フォー・シーズンズが人気絶頂だったのは、丁度イーストウッド自身が、テレビドラマの「ローハイド」でブレイクしたのと同じ頃。
本編中にもテレビに映し出された若き日の巨匠の姿がチラリと出てくるが、作者が時代を駆け抜けた四人の若者たちに、多分に自身の青春へのノスタルジィを含むシンパシーを感じているのは間違いないだろう。

本作はミュージカルではないが、多くのヒット曲の誕生秘話、圧巻のパフォーマンスを見せる演奏シーンの数々は、音楽映画として聴き応えも十分。
これが舞台劇の翻案である事を思い出させる素晴らしいカーテンコールまで、目と耳で魅了される。
余談だが、「タモリ倶楽部」のテーマ曲である「ショート・ショーツ」がボブ・ゴーディオ作曲だという事はこの映画を観るまで知らなかった(笑

ニュージャージーにはその名も“New Jersey Beer Co.”というなかなか美味しいクラフトビールがあるのだが、残念ながら日本では手に入らない。
そこでフォー・シーズンズの故郷ニューアークからは目と鼻の先、ニューヨークの「ブルックリン・ラガー」をチョイス。
これは嘗てアメリカにおけるドイツ系クラフトビールのメッカだったブルックリンの地ビールを復活させようと、1998年に生まれた新しい銘柄だが、伝統的なウィンナースタイルは懐メロにもジワリと染み入る。
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