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嗤う分身・・・・・評価額1650円
2014年10月22日 (水) | 編集 |
ホンモノの“僕”はどっちだ?

ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの不条理小説、「分身」の大胆な新解釈。
ジェシー・アイゼンバーグ演じるコンプレックスの塊のような主人公は、ある日自分のドッペルゲンガーと出会う。
やがて彼は、自分とは正反対に快活で人当たりの良い性格の“それ”に、人生を乗っ取られてしまうのだ。
監督・脚本は、異色の青春映画「サブマリン」で注目されたリチャード・アイオアディ。
共同脚本を、兄のハーモニー・コリン監督作品、「ミスター・ロンリー」で知られるアヴィ・コリンが務める。
くすんだ色調と、光と影の極端なコントラストが独特なレトロモダン都市に、なぜか坂本九やジャッキー吉川とブルー・コメッツなどの昭和歌謡が響き渡る、シュールな世界観もインパクトあり。
ミア・ワシコウスカが演じるヒロインも、メランコリックなムードを漂わせて魅力的だ。
陰鬱で皮肉っぽくて可笑しい、これぞ正しく英国映画である。

内気で存在感が薄いサイモン・ジェームス(ジェシー・アイゼンバーグ)は、会社の上司には毎日どやされ、密かに思いを寄せるコピー係のハナ(ミア・ワシコウスカ)にはまともに声をかけることすらできないでいる。
ある夜、向かいのアパートに住むハナの部屋を望遠鏡でのぞき見していたサイモンは、投身自殺を目撃してしまう。
その男は、サイモンに向かって手を振ってから、飛び降りたのだ。
図らずもその事件が切っ掛けとなって、ハナと初めて二人きりで話すことに成功したものの、サイモンにとって驚くべき事態が起こる。
自分そっくりの容姿を持つ男、ジェームズ・サイモン(二役)が入社してきたのだ。
見た目は瓜二つ、しかし冴えないサイモンと違って、ジェームズは口がうまくて要領が良く、初対面の人も自分のペースに巻き込んでしまう。
サイモンは、ジェームズの求めに応じて、しばしば彼の替え玉を演じるようになるのだが、いつしか彼は自分の人生のすべてをジェームズに握られてしまった事に気づく・・・・


撮影時には、ジェシー・アイゼンバーグの二役をモーションコントロールカメラで捉えるため、一切の自然光を排除したそうだが、結果的に永遠の夜が続く奇妙な世界が出来上がった。
ちょっとバウハウス風の無機質な建物や、レトロ調の大げさな機械類は、「未来世紀ブラジル」をセンス良く低予算にした様なイメージ。
そういえばテリー・ギリアムとリチャード・アイオアディは、共に英国のコメディシーンをキャリアのバックグラウンドに持つという共通項がある。
しかしながら本作は、ギリアムの代表作のような、ビッグブラザー的ディストピアとは決定的に違う。
確かに何処も彼処も暗くて狭苦しく、むせ返りそうな湿気が充満した陰気な都市は、あまり行ってみたいと思う世界観ではないが、ここには絶対的な支配者もいなければ、主人公を陥れる巨大な陰謀も無いのである。
サイモンは“大佐”と呼ばれる人物の会社に勤めているが、彼の支配が及ぶのは会社の中だけで、別に世界を意のままにする独裁者ではない。

オーウェルの昔から、ディストピアの葛藤は狂気によって統制された社会からの逃走欲求だが、ドストエフスキーが描いたのは社会vs個人ではなく、あくまでも個人の内面に軸足を置いた物語だ。
本作の脚色もそこは抑えており、サイモンの問題は周囲からの承認欲求と、現実の自分との乖離という心理的な葛藤なのである。
原作の「分身」では、下級文官ゴリャートキンが、夜会で想いを寄せる令嬢へのアタックに失敗した後に、もう一人の自分が現れるが、映画でも、ハナに会うために大佐のパーティーに忍び込んだサイモンが、つまみ出されそうになって「これ(間違いを犯した自分)は僕じゃない、僕じゃないんです!」と叫んだ後にジェームズが出現する。
つまり小心者でありながら、強い自己顕示欲を持つ主人公が、自らを肯定できなくなった時点で、分裂が始まるのだ。
小説の場合、ドッペルゲンガーが本当に存在していたのか、それともすべてはゴリャートキンの錯乱した心が作り出した妄想なのかは、おおむね読者の解釈に任されている。
一方、映画の場合は表現上そこまで虚実を曖昧にはしていない。
映画全体がサイモンの夢である、と捉えることも無理ではないが、いずれにしてもサイモンの主観的世界でジェームズは物質的に存在していると考えた方が、しっくりくる作りになっている。

だとすると一番おかしいのは、全く同じ顔を持つ人物が二人いるのに、周りの誰も気にしないというシチュエーションという事だろう。
どうやらアイオワディは、内的な葛藤と社会的な葛藤は、必ずしも結びつかないという点に、この設定の面白さを感じている様だ。
ジェームズの出現により、存在を脅かされているのは所詮サイモン一人の世界にすぎない。
同じ顔の男が二人いたとしても、本人以外の人間にとって何か問題があるだろうか。
むしろ陰気なお荷物社員が一人いるより、その有能なバージョン(に見える)がセットでいてくれた方が、会社にとっても周りの人間にとってもずっと良い。
サイモンとジェームズがそっくりなのは、ぶっちゃけ他人にとってはどうでもいい事なのである。

現実の自分への拒絶が生み出した半身は、いわばサイモンが欲してやまない理想を抽出して出来た自分だ。
誰にでも堂々と主張し、言葉巧みに相手に取り入り、必要とあらば他人を陥れることを厭わず、何よりも女にモテル。
サイモンがいくらジェームズを否定しようにも、元々自身の一部なのだから、すべて跳ね返って自分を傷つけてしまうのである。
もしも彼と同じような目にあったら・・・と想像すると全く最悪の物語だが、暴走するドッペルゲンガーに翻弄され、テンパってゆくサイモンを見ていると、悲哀を感じつつも可笑しさがこみ上げてくる。
必死に自分自身に抵抗する様は、主観で見るなら悲劇だが、客観で眺められれば喜劇。
とぼけたユーモアを感じさせながら、二つの人格を完璧に演じ分けるジェシー・アイゼンバーグが素晴らしい。

心象的・寓話的な世界観の中で面白いのは、サイモンやハナが暮らし、やがてジェームズも入居する事になるアパートの空間設計だ。
ハナの部屋はサイモンの向かいの棟にあり、彼はまるで「裏窓」のジェームズ・スチュアートの様に、毎夜彼女を覗き見ている。
サイモンにとって二つの棟を隔てる距離は、手が届きそうで決して届かない。
それは現実の距離以上に、心が遠ざけているからだ。
ところが、ジェームズは登場するや否や、さっさと彼女の棟の上階に入居してしまう。
とうとう愛するハナまでもが、狡猾なニセモノの手に落ちようとする時、サイモンは遂にジェームズとの対決を決意するのである。
分裂してしまった世界を元に戻すためには、ジェームズの存在を抹殺するしかない。
ここでこの物語の虚構性が再びのカギとなる。
物語のラストをどう解釈するか、バッドエンドなのかハッピーエンドなのか、観る人によってずいぶんと印象が変わってくると思う。
私にとっては、決して後味は悪くなかったのだけど。

ちょっと面白いのは、脚本のアヴィ・コリンが、自分もアイオワディ監督も多分にサイモン的な性格だと語っている事。
ドストエフスキーも精神的に不安定で、「分身」を書いた時は激しい劣等感に悩まされ、主人公のゴリャートキンと自分を同一視していたそうだ。
なるほど作家は自分の内的葛藤が限界まで達すると、作品というドッペルゲンガーを自ら生み出すことで、精神の均衡を保っているのかもしれない。
だからこそ、本作も原作の「分身」も、自虐的でどこか滑稽なのだろう。

今回はサイモンくんの妄想の様な「キス・イン・ザ・ダーク」をチョイス。
ドライ・ジン25ml、ドライ・ベルモット20ml、チェリー・ブランデー15mlをステアして、グラスに注ぐ。
チェリーブランデーの甘い香りと、ドライ・ジンの辛口な清涼さが良いバランス。
美しいルビー色で目にも楽しいカクテルだ。
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