酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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2014 unforgettable movies
2014年12月29日 (月) | 編集 |
都知事選で始まり、衆院選で終わった印象の2014年。
景気は良いんだか悪いんだかイマイチわからなかったが、とりあえず映画界には「アナ雪」と「妖怪」という二大旋風が吹き荒れ、途中停滞した時期もあったものの、まずまず活気ある年だったのではないか。
昨年「風立ちぬ」と「かぐや姫の物語」という、共に映画史に残る傑作を発表したスタジオジブリが、長編アニメーションからの撤退を発表という残念なニュースがあった一方、提携先のディズニーは「アナ雪」だけでなく「マレフィセント」や「ベイマックス」まで軒並み大ヒットし、日本における絶頂期を迎えている。
それでは、ディズニーだけではない、今年の“忘れられない映画たち”を鑑賞順に。

「少女は自転車に乗って」は、映画館が存在しない国、中東サウジアラビアからやって来た愛すべき小品。厳格な戒律に支配された男性優位社会にあって、どうしても自転車に乗りたいという少女の願いは、やがて大人たちを巻き込んだ小さな突風となる。自由を制限された女性たちのリアルと、未来へのかすかな希望が心に染みる。

「MUD -マッド-」は、マシュー・マコノヒーイヤーの開幕を告げた快作。崩壊しつつある家庭に育つ少年は、ミシシッピの中洲で“マッド(泥)”と名乗る逃亡者と出会う。やがて彼は、マッドと過ごしたのひと夏の経験によって、様々な愛の形を知り、大人への階段を上ってゆく。ゆったりと流れる泥色の大河ミシシッピが、人々の人生を象徴する。

「新しき世界」は、「インファナル・アフェア」+「ゴッドファーザー」ともいうべき、韓国フィルムノワールの傑作。ヤクザ組織へ潜入捜査に送り込まれた主人公は、やがて組織のNo.2と義兄弟の契りを交わし、自らもNo.4の地位にまで出世する。そして暗黒街を支配しようとする警察の陰謀を知った時、男が選ぶのは任務への忠誠か、それとも友情か。

「ラッシュ/プライドと友情」は、1970年代に地上で最速を求めたF1ドライバーの伝説を追った、実話ベースのドラマ。クレバーなドライビングマシン、ニキ・ラウダと破天荒な天才、ジェームズ・ハントのライバルストーリーは、レースそのものを描かなかったからこそ、逆説的にモータースポーツを描いた、映画史上最良の作品となった。

「オーバー・ザ・ブルースカイ」は、ベルギー発の異色の音楽ドラマ。ミュージシャンの主人公は、才能豊かなタトゥー・アーティストの女と出会い、家族となる。だがその幸せは、残酷な運命によって打ち砕かれ、喪失を埋めようとする男と女の見る世界は、あまりにも違うのである。ラストに浮かび上がる究極の愛の形に思わず涙。

「円卓 こっこ、ひと夏のイマジン」は、タイトル通りイマジンする事から始まる物語。好奇心旺盛な小3少女の日常は、大人たちにとっての当たり前の世界に対する疑問と不思議に満ちている。観客は彼女たちの目を通して、嘗ての自分が持っていた童心を取り戻し、“知ってゆくこと”のワクワクやドキドキ、そして戸惑いや痛みを追体験するのである。

「それでも夜は明ける」は、本年度アカデミー賞に輝いた骨太の歴史ドラマ。アフリカ系英国人のスティーブ・マックィーン監督は、今もアメリカ社会に影を落とす黒歴史を冷徹に、しかし実に映画的に描写する。オバマ政権の成立以来、奴隷制と人種差別をモチーフとした作品は確実に増えたが、今年は本作以外にも「大統領の執事の涙」「 フルートベール駅で」など、アフリカ系監督が人種葛藤をストレートに描いた秀作が目立った。

「アナと雪の女王」は、伝統のディズニー・プリンセスものに、新たな歴史を切り開いた快作。映画を社会の鏡と考えるならば、本作以上に今年を代表する作品は存在しないだろう。御伽噺の魔女は、本当は何者か?という問いから始まる物語は、ある意味嘗てのディズニー・プリンセスが体現した価値観を創造的に破壊し、多様な愛の形に結実する。

「ウォルト・ディズニーの約束」は、名作「メリー・ポピンズ」のビハインド・ザ・シーンを題材に、創造とはどこから生まれるのかを描いた傑作だ。魔法使いのナニーは、本当は誰を救いにやって来たのか?1960年代のハリウッドと、その半世紀前のオーストラリア。一見関係ない2つの物語を巡るミステリーは、やがてある家族の哀しい秘密と、物語に隠された本当のテーマを解き明かしてゆく。

「アデル、ブルーは熱い色」は、平凡な女子高生が、青い髪のファムファタールと出会い、人生を変える情熱的な愛を知る、鮮烈なファースト・ラブストーリー。同性愛をモチーフとしているが、ここに描かれるのは、苦しくて、切なくて、そして少しだけ気恥ずかしくもある、普遍的な初恋の情景だ。二人の主人公を演じたアデル・エグザルコプロスとレア・セドゥが素晴らしい。

「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」は、数あるマーベル作品の中でも1、2を争う秀作。永遠の戦場を生きる、哀しき帰還兵たちの物語は、単に荒唐無稽なアクションだけではない。マーベル最古のヒーローは、傷つき、葛藤しながらも「正義は、恐怖を内包するものなのか?アメリカよ、それで良いのか?」と問いかけるのだ。

「WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~」は、 ひょんな事から林業に従事する事になった都会っ子の成長を描く、一次産業青春映画。一見ライトなコメディに見えて、やがて物語は日本の山に息づく土着性を取り込み、驚くべきスペクタクルとして昇華されるのである。今年は「銀の匙 Silver Spoon 」「リトル・フォレスト夏・秋」など農村の青春ものが目立った。

「野のなななのか」は、AKB48のプロモーションとして作られた「So Long!」を1.5章として間に挟んだ、大林宣彦のシネマティック・ワンダーランド第2章。ある意味映画表現そのものへの疑問すら内包し、 長岡から芦別へ、忘れられた樺太の戦いから、3.11を経て未来へと駆け抜けながら、映画は「あなたは何者か?」と問いかける。

「ホドロフスキーのDUNE」は、映画史上もっとも有名な未完成作品、アレハンドロ・ホドロフスキー版「DUNE砂の惑星」のビハインド・ザ・シーンを追ったドキュメンタリー。映画で世界を変えられると、本気で信じた若者たちの熱気が、時空を超えて伝わってくる。本作が切っ掛けとなって、ホドロフスキー23年ぶりの新作、「リアリティのダンス」へ創作の連鎖が生まれた。

「ノア 約束の舟」は、鬼才ダーレン・アロノフスキーによる史上もっともホラーなノアの方舟伝説。大いなる意思の創造物としてなすべき使命と、人間としての愛の間で葛藤し、徐々に心の均衡を失ってゆくノアの姿は鬼気迫る。聖なる方舟という世界の胎内を舞台に、人間存在の真理を問うた珠玉の心理スリラーだ。

「her/世界でひとつの彼女」は、スパイク・ジョーンズ独特の手触りが印象な、異色のSFラブストーリー。生身の人間と肉体から解放されたAIという奇妙なカップルの姿を通して、“心”という人間存在のもっとも不可思議な部分が浮かび上がる。声だけの露出にも関わらず、圧倒的な存在感で映画を支配するスカーレット・ヨハンソンが素晴らしい。

「思い出のマーニー」は、長編アニメーションからの撤退を発表したスタジオジブリが放った、最後の光。体を病み、心を閉ざした少女は、ミステリアスな金髪の少女マーニーとのひと夏の経験を通して、自分が時空を超えた愛に包まれている事を知る。宮崎駿とも高畑勲とも違った、新世代の豊かな才能を感じさせる、宝石の様に美しい小品だ。

「フランシス・ハ」は、非モテ系ダンサー志望27歳の主人公が、人生の分岐点にさしかかり、自分の居場所を探して葛藤する物語。とにかく全てにおいてタイミングの悪い彼女は、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。しかし理想と現実の間でジタバタする姿に、観客はいつしかすっかりと感情移入してしまう。ミステリアスなタイトルが秀逸。

「るろうに剣心 京都大火編」は、前作を遥かに上回る、スペクタクル時代劇の傑作。本気の人たちにちゃんとお金と時間を与えると、こんな凄いものが出来るという証明である。後編に当たる「伝説の最期編」も含めて、日本映画の歴史に、チャンバラでもリアリティ一辺倒でもない、スウォードアクションという新たなる地平を切り開いた。

「猿の惑星: 新世紀(ライジング)」は、見事なリブートだった前作を軽々と超える大傑作。絶滅の淵に立たされた人類と、独自の文化を開花させつつある進化した猿たち。2つの種族の出会いは、憎しみと葛藤を呼び起こし、遂に“星を継ぐもの”を巡る戦争へ。シェイクスピアもかくや、と思えるほどドラマチックな要素が詰め込まれた、ヘビー級の人間(?)ドラマである。

「ベイマックス」は、マーベルコミックの熱血と友情と、ディズニー・ピクサー流の知性と優しさの幸福なマリアージュ。ヒーローの本当の役割とは、敵を倒すことではなく、人々を救うこと。プニプニのケアロボット、ベイマックスが体現する救済の心は、ヒーローもヴィランも等しく包みこんでゆく。この映画には、悲しみが生み出した葛藤に苦しむ人はいても、倒すべき悪人はいないのである。

「インターステラー」は、親子愛という超パーソナルな繋がりと、人類を滅亡から救う神話的冒険が、“愛”という時空を超越した次元で融合する、何ともユニークな超大作。ハードSFの体裁ながら、完全なるクリストファー・ノーランの作家映画であり、寓話的な暗喩劇である。「2001年宇宙の旅」から「フィールド・オブ・ドリームズ」まで、ノーランの映画的記憶を探すのも楽しい。

「6才のボクが、大人になるまで。」は、実に12年間に渡って同じ俳優が同じ役を演じ続けるという、信じがたい制作手法によって生まれた奇跡的な名品だ。リチャード・リンクレイターは「ビフォア」シリーズの最終作「ビフォア・ミッドナイト」でも、実に独創的な映画的時間の解釈を見せたが、本作ではまた違ったアプローチを披露してくれる。

「フューリー」は、第二次世界大戦末期、ドイツ領奥深くに侵入した一台の戦車を巡る、壮絶な戦争映画。潜水艦映画の最高峰「U・ボート」のプロット構造を換骨奪胎した物語は、僅か24時間で、無垢なる若者が殺人マシーンに変貌する様を描く。戦争という、人類が犯した最大の罪を背負った兵士たちによる、宗教的暗喩劇でもある。

「寄生獣」は、本来完結編も合わせて評価すべきだろうが、一先ず鮮やかな脚色の妙に驚かされた。1990年代の傑作コミックのプロットを忠実に、しかし巧みにアレンジし、素晴らしいSFサスペンスを作り上げた。よりヘビーかつ濃厚な内容となるはずの後編が、今から楽しみで仕方が無い。山崎貴監督は、八木竜一との共同監督作、「STAND BY ME ドラえもん」でも優れた仕事をしている。

「0.5ミリ」は、上映時間実に197分にわたる大長編ながら、全く飽きさせないパワフルなヒューマンドラマ。主人公は金なし、家なし、男なしの流浪の押しかけヘルパー。彼女に弱みを握られ、強引に家に上がりこまれる老人たちは、戸惑いつつもやがて癒されてゆく。今年は洋画がマコノヒーイヤーなら、邦画は安藤サクライヤーであった。

「紙の月」は、「桐島、部活やめるってよ」でセンセーションを巻き起こした吉田大八監督による、心理サスペンス映画の傑作。平凡な主婦という仮面の下に、強烈な承認欲求を抱えた主人公は、不倫の恋を切っ掛けにして、巨額横領という犯罪に手を染める。観客は墜ちてゆく彼女の姿を通して、自分の中にもいる抑圧されたアウトローに気付くのである。

「ゴーン・ガール」は、宣伝も含めたミスリードがお見事。主人公は、5回目の結婚記念日に妻が失踪した事で、世間の疑念の目に晒されるが、そこには秘められた恐るべきシナリオが。「紙の月」の主人公にも通じる、激しい承認欲求を隠した妻の本当の顔に戦慄。これをクリスマス映画として公開するのも、どこか悪意を感じてしまう(笑

「ホビット 決戦のゆくえ」 は、つごう13年に渡ったピーター・ジャクソンと旅の仲間たちによる、中つ国の冒険の大団円。映画化の順番は原作と逆になったが、P・Jは「ロード・オブ・ザ・リング」の要素を巧みに組み込む事で、見事時の輪を閉じて見せた。2月公開の「ホビット 竜に奪われた王国」と一年間に二度も彼らと会えたのは幸福だが、これでももうお終いかと思うと、やはり寂しさがつのる。

「百円の恋」は、安藤サクライヤーの最後を締め括る傑作。人生負けっぱなしの32歳、ニート女が実家を飛び出し、様々な経験をしながら、女子ボクシングに出会い、青春のラストステージで情念の炎を燃やす。怠惰な生活でブクブクの体が、クライマックスにはいっぱしのボクサーに見事変身。打たれても、打たれても立ち上がる姿は、ボクシング映画のカタルシスを確かに感じさせる。

大盤振る舞い30本。
突出した一本というよりも、満遍なく拾いたくなくほどに平均的にハイレベルで、印象深い秀作が多かったのだ。
今年はSFの当たり年で、上記した作品以外にもマーベル系では「X-MENフューチャー&パスト」「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」が見事な出来だったし、我らが大怪獣の復活作「GODZILLZ ゴジラ」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」など日本がらみのハリウッド作品、異色のジュブナイル「わたしは生きていける」、独特のムードを持つ「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」「嗤う分身」などのセンス・オブ・ワンダーに溢れる低予算作品、あるいは古典アニメのリブート「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」まで、バラエティに富んだラインナップが揃った。
また「プレーンズ2」「LEGOムービー」「ミニスキュル~森の小さな仲間たち~」、劇画の祖の人生をシンガポールの監督が映画化した「TATSUMI マンガに革命を起こした男」やイケスのサバを主人公とした韓国の異色作「パタパタ」など、洋画アニメーションの秀作も洋アニ不毛の日本で、何とか公開に漕ぎ着けた。
日本映画では「太秦ライムライト」「福々荘の福ちゃん」「小野寺の弟・小野寺の姉」など強烈な個性を持つ俳優をフィーチャーした作品、瑞々しい青春映画「1/11 じゅういちぶんのいち」や、ユニークなコンセプトのモキュメンタリー、「超能力研究部の三人」など低予算作品にも光る作品が多かった様に思う。
さて、2015年は当ブログにとっても10年目の節目。
はたしてどんな映画に出会えるのだろうか。

それでは皆さん、よいお年を。

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ショートレビュー「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟・・・・・評価額1700円」
2014年12月28日 (日) | 編集 |
いよいよ、未知の航路へ。

「宇宙戦艦ヤマト2199」は、日本のアニメのみならず、海外のドラマや映画を含めたSFシリーズのリメイクで、もっとも成功した一つと言って良いと思う。
元の基本設定やキャラクターを生かしつつ、時代性を加味してディテールをブラッシュアップし、科学考証も含めて現代の観客の鑑賞に堪える作品として生まれ変わらせるというのは「GALACTICA/ギャラクティカ」やJ・J・エイブラムス版「スター・トレック」に近いが、基本プロットがよりオリジナルに忠実なのが特徴だ。
だが、アニメーション史に残るオリジナルシリーズの誕生から40周年となる節目の年、新たな歴史を切り開いた「2199」は少しずつ未だ見ぬ未知の宇宙へと舵を切りつつあるように思える。
※核心部分に触れています。

「2199」初の劇場用新作となった本作は、テレビシリーズの第24話と25話の間にすっぽりと入る物語である。
“すきま”で長編を一本作ってしまうというのも、かなり冒険的だ。
なにしろ既に語られた物語があるので、何か大きな変化をつけるわけにはいかない。
例えば24話で生きていたキャラクターが、25話で突然死んでいたりしたら、視聴者が変に思うだろう。
だから基本的に主要キャラクターの生死や、ヤマトの内外の状況に大きな変化を起こせない。
ミリタリーものでもあるヤマトで、これはなかなかに難しい。

そこで、本作はヤマトとガミラスの戦闘終結後に、新たなる共通の敵に遭遇するというオリジナルシリーズの「新たなる旅立ち」的な構造を持たせつつ、「2199」の第14話でも引用されていた、松本零士の短編漫画「永遠のジュラ編」を組み合わせる事で、ある種の心理劇として成立させている。
驚かされたのは、「完結編」に登場した回遊惑星アクエリアスのコンセプトを復活させ、ヤマト世界の“種の起源”を巡る壮大な宇宙神話とでもいうべき領域に突入したことである。
地球とガミラスという国家同士の、絶滅をかけた最終戦争を描くテレビシリーズに対して、所詮番外編である本作は、どうしても矮小化してしまう事はやむを得ないが、精神世界という小さなハコから、一気に世界を広げることで、ドラマとしてのスケール感はむしろ広がって見えるのだ。

74年の誕生から83年の「完結編」まで、つごう十年に渡って作られたオリジナルシリーズ(「復活編」は内容的にも製作年度的にもかけ離れているので別に考える)は、いわば予期せぬヒットによって、ご都合主義的に作り続けられていったシリーズだった。
「2199」を作るにあたって、作り手はたぶんオリジナルに出てきたあらゆる要素を俎上に上げて、何を捨てて何を残すか検討を繰り返したと思う。
しかし単なる取捨選択に留まらず、矛盾だらけだった遺産をバラバラにした上で再構築し、ここまで洗練された世界観を作りこんだのは凄い。
さて、地球とガミラス、あるいはガトランティスまでもが、一つの宇宙的生命の木の同根という事が明らかにされ、やや強引ながら斉藤やサーベラーまでもが登場した本作は、事実上「2200」あるいは「2201」制作宣言と思える。
果たしてそれは、「さらば」のリメイクとなるのか、それとも全く新しいストーリーが紡がれるのかは、ファースト「ヤマト」と「さらば」の間にあるテーマ的矛盾が解消出来るかがどうかが鍵だろう。
本作の仕上がりを見るならば、大いに期待しても裏切られる事は無いと信じたいが。

ヤマトと言えば、佐渡先生がいつも持ってるのが“美少年”の一升瓶。
これが実在の酒、美少年と関係あるのかは分からないが、とりあえず同名のよしみで熊本県の地酒「美少年 剣門 純米吟醸 」をチョイス。
この酒は火の国酒造の銘柄だったが、記憶に新しい擬装米事件の巻き添えをくらって経営破たんし、2013年に新たに株式会社美少年の銘柄として再スタートを切った。
南国の酒らしく、日本酒度は+1程度で酸味と甘みがバランスよく広がる。
冷でも良いが、今の季節ならぬる燗で飲むのがおススメ。
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ショートレビュー「百円の恋・・・・・評価額1700円」
2014年12月28日 (日) | 編集 |
100円玉のリアル。

今年の日本映画は、安藤サクライヤーだ。
先月公開されたばかりの「0.5ミリ」に続いて、ネガティブダウナー系女子の目覚めを演じ、圧倒的な存在感で物語を引っ張る。
足立紳による脚本は、山口県周南映画祭で、故・松田優作の志を受け継ぐクリエイターを発掘すべく、2012 年に新設された脚本賞、第一回「松田優作賞」グランプリ作品。
なるほど、明らかな低予算ながら、ハード&ウェットが絶妙にバランスする本作、もしも松田優作が生きていれば好みそうなテイストである。
※核心部分に触れています。

主人公の一子は、32歳、無職、男なし、引きこもり、ゲーマー、ついでに処女。
人生負けっぱなしのダメ人間の再生劇は、初めての一人暮らし、就職に恋愛、そしてボクシングとの出会いと挑戦を描く、濃すぎる青春のラストステージだ。
毎日仕事もせずに自堕落な生活を送ってきた彼女は、離婚して一人息子と出戻ってきた勝気な妹と衝突し、実家の弁当屋を飛び出してしまう。
ニート生活一筋の一子から見れば、外の世界は弱肉強食、毎日がサバイバル
母にもらった金でアパートを借り、何とか100円コンビニでバイトを始めたものの、そこは典型的ブラック企業らしく、同僚たちは皆心に問題を抱えた者ばかり。
最初の店長はうつ病で退職し、中年バイトは一子をレイプし店の金を横領してドロン、後任の代理店長は愚痴と文句しか言わない。
そんなどん底の巣窟で、バナナばかりを大量に買ってゆくボクサーの狩野と知り合った一子は、彼の引退試合後に敵味方が肩を抱き合う姿に心引かれ、自分もボクシングを始めるのである。

敗北しか知らない一子にとって、ボクシングは怒りのメタファーだ。
妹に実家を叩き出されたこと、中年バイトに殴られレイプされたこと、なにより一度は一緒に暮らすまでになった狩野に、浮気されて捨てられたこと。
一子ははっきりと意識している訳ではないが、彼女は自分を傷付ける諸々の事を鏡に、自分自身の弱さと闘っているのである。
それまでのダメっぷりが突き抜けていた分、自己変革の欲求はどんどんと強くなるが、ボクシングのプロテストを受けられるのは32歳まで。
狩野との別れで完全に吹っ切れた一子は、超ストイックに一気に自分を追い込んでゆく。
冒頭では自堕落な生活を反映して、ブクブクの体をしていた一子が、どんどん引き締まった肉体に変貌して、最後には画的にもいっぱしのボクサーになっているのには驚かされる。
シャドーのスピードだって、たぶんポスプロで時間いじったりしてないと思うのだけど、素人のレベルじゃない。
私はあれ、避けられない自信がある(笑

そして、打たれても打たれても、満身創痍になりながらもリングに経ち続けるクライマックスの試合シークエンスは、最下層の人間の意地と誇りを見せ付けて、正しくボクシング映画のカタルシス
「0.5ミリ」と偶然の符合の数字系タイトルは、これまた見事にテーマを表す。
たった100円、されど100円。
今どきは缶コーヒーも買えないコインでも、そこに込められた想いまで100円とは限らないのである。

今回は店によっては250ml缶で100円でも買える「タカラCANチューハイ」をチョイス。
1984年に発売された日本発の缶入りチューハイ。
元々チューハイはハイボールのウィスキーをより安価な甲類焼酎に変えた、焼酎ハイボールの略語。
私はプレーンのチューハイに、ゆずを絞っていただくのが好き。
昭和から続く庶民の酒だ。
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ホビット 決戦のゆくえ・・・・・評価額1800円
2014年12月24日 (水) | 編集 |
時の輪が、遂に閉じる。

2001年の「ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間」以来、J・R・R・トールキンが創造した“中つ国”を舞台に、13年に渡って繰り広げられた壮大な冒険譚がいよいよ完結。
本来、「ホビットの冒険」「指輪物語」の順に書かれた原作は、映画化にあたっては順序が逆となったが、ピーター・ジャクソンは、「ホビット」の中に未来の話である「ロード~」を組み込む事で、作品自体が指輪の様な構造を持つ、連環する6部作を作り上げた。
原作同様、ハイファンタジーの最高峰として、映画史に永遠に記録されるであろうシリーズの最終章は、ビルボたち旅の仲間に敵味方が入り乱れる、144分間の怒涛の“五軍の合戦”である。
※ラストに触れています。

エレボールを飛び立ったスマウグ(ベネディクト・カンバーバッチ)の襲撃で、湖の町は壊滅。
バルド(ルーク・エヴァンズ)の放った黒い矢によって、スマウグは倒されるものの、住処を失った人間たちは、町の再建費用としてトーリン(リチャード・アーミティッジ )たちに“分け前”を要求。
同時に、竜が死んだ事を知った闇の森のエルフたちも、エレボールの財宝を目当てに進軍し、人間たちと合流する。
だが、オーケン石に取り憑かれたトーリンの猜疑心はますます高まり、彼の心を案じたビルボ(マーティン・フリーマン)は、戦いを避ける取引の材料として、密かにオーケン石をエルフと人間に渡す。
信頼していたビルボの裏切りを知ったトーリンは激高し、遂に交渉は決裂する。
鉄の足ダイン(ビリー・コノリー)率いる、くろがね山のドワーフ軍がトーリンの加勢に駆けつけ、人間・エルフの連合軍とドワーフたちの一触即発のにらみ合いが続く。
しかしその頃、オーク、ワーグ、ゴブリンの大軍が、エレボールとデイルの廃墟を包囲しつつあった・・・


ラストで、年老いたビルボの家を、懐かしいガンダルフが訪ねた時「ああ、もう終わっちゃうんだなあ・・・」と、深い感慨を覚えた。
つごう13年間、劇場公開版だけでも17時間12分に及んだ中つ国での冒険、全然観たりないし、もっと、ずっと浸っていたかったよ。
しかし、実現までに紆余曲折あったこの「ホビット」シリーズ、結果的に「ロード~」から全6作をピーター・ジャクソンが監督してくれて良かった。
「ロード~」3部作が彼流のトールキンの再解釈だったし、当初予定だったギレルモ・デル・トロが監督したとしたら、それはそれで面白かっただろうが、「ホビット」は独自色の強い作品となり、こんなにも美しく、一編の叙事詩として時の輪は閉じなかっただろう。

元々「ホビットの冒険」は、ドワーフが竜に奪われた故郷の山を取り返す話で、世界の命運をかけた光と闇の戦いを描く「指輪物語」に比べれば、ずっとシンプルかつスモールな序章に過ぎない。
前2作では、レゴラスやガラドリエルなど「ロード~」のキャラクターの再登場や、この時代には既に死んでいるはずのオークのボス、アゾグを復活させたり、原作では名前程度しか出てこない茶色のラダガストを重要キャラに定義するなど、オリジナル要素を比較的単純な原作のプロットに組み込んで、「ロード~」に伍する重層さと世界観のスケールを付与しようとしていた。
だが、今回は冒頭いきなりスマウグによる湖の町襲撃という、パワフルな大怪獣映画で幕が開き、激闘の末にバルドが黄金竜を打ち倒すと、後はもう原題通りのザ・クライマックス、五軍の合戦に向けて盛り上げるのみ。
この五軍に関しては、原作では人間・エルフ・ドワーフvsゴブリン・ワーグとされているが、映画では前記した敵側の設定変更があるので、明確な説明はないものの人間・エルフ・ドワーフvsアゾグ率いるドル・グルドゥアの軍・息子のボルグ率いるグンダバドの軍という分け方になっている様だ。

徐々に心を蝕まれ、自分を失ってゆくトーリンと、彼び正気を取り戻させたいビルボの葛藤と友情を軸に、復活しつつあるサウロンから、貞子モードのガラドリエル様がガンダルフを奪還するエピソードや、レゴラスとタウリエルがグンダバドを偵察し、オークが南北から挟み撃ちしてくる事を察知するエピソードなどが絡み合い、幾つもの不確定要素が決戦への不安を作り出す。
話の流れは小説通りでも、脚色の工夫がドラマチックさを高めており、「思いがけない冒険」以来、コツコツと加えられた様々なオリジナルのディテールは、ここへ来て伏線として有機的に機能している。

そして、遂にオークの襲撃が始まり、共通の敵を前にお互いに矛を収めたドワーフ・人間・エルフとの間で合戦が始まるともはや映画はノンストップ
数で勝るオークに対し絶対不利な三軍の奮戦と、トーリンの復活、フィーリとキーリにレゴラスとタウリエルも加わったボルグとの対決、そして長年の因縁によって導かれたトーリンとアゾグの一騎打ち。
それぞれのキャラクターと、舞台の構造を生かしたアクションも見応え十分で、原作では殆ど気絶したままだったビルボにも、それなりに見せ場が用意され、それがトーリンとの友情を強化するために、上手く生かされている。
例によって大鷲軍団とビョルンの参戦で、一気に形勢逆転しちゃうのは相変わらずズルイ気もするが、これはまあ原作通りだからいたし方あるまい。
激闘の果てに、苦楽を共にした友との永遠の別れに泣き、種族を超える禁断の愛の悲劇に泣く。
そして、かすかに匂わされる本作と「ロード~」への橋渡しのワクワク。
今までの5作は本国公開よりだいぶ待たされたが、最後の最後で先行公開が実現した事も含めて文句無しの満福感だ。

ビルボのシャイアへの帰還によって、J・R・R・トールキン原作、ピーター・ジャクソン監督による“ウサギ穴の神話”は見事に完結。
だがここまで素晴らしい作品を観てしまうと、ジャクソンには、ライフワークとして「シルマリル」「終わらざりし物語」、さらにはトールキンの短編なども映像化して欲しくなる。
もっとも、「ホビットの冒険」や「指輪物語」とちがって、長編小説ではないこれらの作品を映画として作るのは難しいだろう。
いっそ、“英語で語られるイギリスの神話”というトールキン世界のコンセプトを生かして、BBCあたりと組んで架空の神話シリーズとして作っても面白そうな気がするのだけど。とりあえず、正月休みに過去の5作品を見直して、それからもう一回本作を観に行こう。

今回は丁度クリスマスという事で、オーストリアから季節限定の長期熟成ビール「サミクラウス」をチョイス。
サミクラウスとはサンタクロースの事で、毎年クリスマス前に販売され、ワインの様に何年も熟成できるのが特徴。
ベストな飲み頃は大体5年目くらい。
独特のクリーミーさと熟成された蒸留酒の様な濃厚さは、一般的なビールという概念と一線を画しているが、あまり体が冷えないので寒い冬の季節に飲むにはピッタリ。
長年楽しませてくれた、P・Jと旅の仲間たちに感謝!乾杯!
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ショートレビュー「ゴーン・ガール・・・・・評価額1700円」
2014年12月19日 (金) | 編集 |
愛する妻は、何者か?

※核心部分に触れています。
いやはや、デヴィッド・フィンチャーは毎回驚かせてくれる。
ミステリ映画という事で、情報を可能な限り入れないようにしていたのだが、予想してた内容と全く違う映画だった。

結婚5周年の日に突然妻が失踪して、はたして夫が殺したのか否か?という話だと思ってたら、まさかの展開。
観ながらどうしても頭をよぎったのが、サム・メンデス監督の「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」だ。
あの映画では、満ち足りた日常に溺れ、幸せの本質を見失ってしまった、ある夫婦の崩壊が描かれたが、こちらではベン・アフレック演じる夫のニックが、妻エイミーの仕掛けた結婚の罠に絡め捕られてゆく。

本作は事件の真相を追う、一般的な意味でのミステリものではなく、結婚という制度のリアルを描いた最も恐ろしい心理サスペンスであり、ブラックコメディである。
おそらく、独り身と既婚者ではだいぶ感想が異なるだろう。
なぜあの人たちは離婚しないんだろう?という、はたから見ても露骨な仮面夫婦がたまにいるが、本作からその理由の一端が見えたような気がする。

「なにを考えている?なにを感じている?」
ニックは、このパートナーへの内なる問いかけをずっと怠ってきた男だ。
背伸びしてセレブ家庭で育ったエイミーを娶ったものの、結婚の本質など考えた事も無く、エイミーの事も実はあまりよく知らない。
夫にとって結婚とはゴールであり、空気の様にただそこにあるものだが、妻にとっては違う。
彼女は作家である母の児童書、「完璧なエイミー」のモデルとして、幼い頃から“あるべき自分”を人から作り上げられて育ち、内面に相当な歪みを抱えている。
なにかと通じる要素のある「紙の月」の主人公同様、クールな表情の下に激しい自己承認欲求を隠した彼女は、5年間の夫婦生活で溜まりに溜まった鬱憤を、綿密に練られた復讐計画というカタチに変え、遂にレリゴーしちゃうのである。
ボンクラなニックは、自分が蜘蛛の巣に捉えられた事にすらなかなか気付く事が出来ず、事の真相を理解した頃にはもう殆どゲームはつんでいる有様。
ところが、後半は前半のネタばらし的な構造を持つプロットは、ここで更に観客をミスリード。
あとはニックが自滅するのを待つばかりのエイミーを、予期せぬ困難に陥れるのである。
ここで人を呪わば穴二つとばかりに、夫婦双方に“お仕置き”を課すのかと思わせておいて、映画はそんな予定調和な寓話劇では落ちないのだ。
エイミーのプライオリティは、一度手に入れた他者からの承認を絶対に手放さない事で、“幸せな結婚”はその究極のものである。
彼女はストーカー体質の元カレという第二の餌を調達すると、当初の計画とは違う形で、ニックを追い込んでゆく。
人形の様に端整なロザムンド・パイクの、漆黒の狂気を感じさせる怪演が光る。

「それが結婚よ」
恐ろしい事をしながらシレッと言い放つエイミーと、そこから文字通りの人生の墓場がはじまる事を分かっていても受け入れざるを得ないニック。
そうなん?
結婚てそういうもんなん・・・・?( ;´Д`)

これデートで観に行くと、凄いビミョ〜な雰囲気になりそうだが、リア充どもがクリスマスに浮かれてるのは悔しいんで、カップルの皆様には熱烈にオススメしておこう。
逆にこれを笑い飛ばせる二人は、何があっても乗り切れそうだ(笑

とても良く出来た作品だが、事件収束に至るディテールはちょっと荒っぽい。
さすがに人ひとり死んでいるのだから、あれでは捜査は終わらないだろう。
例えば、エイミーはレイプされて助けを求める演技を防犯カメラに写し、自分が被害者である証拠にしようとしていたが、加害者に仕立て上げられた元カレはその前に車で出かけちゃってるのだから、自作自演はバレバレのはず。
仮にエイミーが後で映像データを改ざんするなどの証拠隠滅をしていたとしても、それならそれでちゃんと描写しないとダメだろう。
細部の詰めの甘さは、ちょっと勿体無かった。

今回はスパイダー・レディのイメージで、「ホワイト・スパイダー」をチョイス。
ウォッカ30ml、クレーム・ド・メンテ・ホワイト30mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ブランデー・ベースのカクテル、スティンガーのウオッカ版で、香草の風味が爽やかな味わいを作り出す。
氷を思わせるビジュアルも美しいが、アルコール度数は結構高い。

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ショートレビュー「紙の月・・・・・評価額1750円」
2014年12月18日 (木) | 編集 |
ニセモノでもいい、溺れたい。

※核心部分に触れています。
「桐島、部活やめるってよ」で、センセーションを巻き起こした吉田大八監督の最新作「紙の月」は、これまた驚くべき傑作である。
宮沢りえ演じる梅澤梨花は、銀行に勤めるごく平凡な主婦。
子供は無く、そこそこ順調に出世を重ねるサラリーマンの夫と、郊外の一戸建てに暮らしている。
特に裕福ではないものの、何不自由の無い満ち足りた暮らし。
ところが彼女は、ひょんな事から大学生と不倫の恋に落ち、彼との逢瀬を重ねるうちに、顧客の金に手をつけてしまう。
まあ、ありがちといえばありがちな話だ。
銀行や信金の職員が、年下の愛人に貢いだ挙句にウソがばれ、何億という使い込みが発覚する事件は年に一度くらいはあるだろうか。
本作が非常にスリリングなのは、ダメだと分っているのに暴走を止められない、この種の犯罪に手を染める人の心の機微が説得力たっぷりに描かれ、そしてその行動を観ているうちに、観客が自分の中にも“梨花”がいる事に次第に気付いてしまうからである。

最初の“犯行”は、たった一万円。
それも直ぐにお金を下ろして返しているが、一度ブレーキが外れてしまえば、犯罪へのハードルはグッと低くなり、後は坂道を転がり落ちるだけ。
相手の大学生に借金がある事を知ると、その肩代わりを申し出、やがて週末ごとにリゾートでの散財を繰り返し、夫が海外に赴任する事になると、これ幸いと同行を拒否し、自宅とは別に高級マンションを借りて“愛の巣”とする。
その手口は、客に架空の定期預金の開設を持ちかけ、集金するとそのまま横領、証書を偽造し銀行と客両方を騙すというものだが、当然満期になればばれてしまう。
ぶっちゃけ梨花のやってる事はムチャクチャで、破綻するのは目に見えているのだが、それでも虚飾の豪遊はやめられない。
ホテルで一晩百万を超える金を使いながら、贅沢三昧を続けるためにもはや横領は自転車操業、自宅は偽造証書を作るための即席印刷工場の様になって、荒れ果ててゆくのが何とも皮肉。

極端から極端へ、梨花の行動の裏側にあるのは、強烈な自己承認欲求だ。
映画は、現在の彼女を描きながら、学生時代の募金を巡るエピソードを平衡して描き、極普通の主婦の仮面に隠された、彼女の素の心の奥底にあるものを暴き出す。
元々内面に激情を秘めた梨花はおそらく、長年パートとして勤めてきた銀行でも、一見幸せそうな結婚生活でも、人知れず小さな鬱憤を溜め込んでいたのだろう。
自分を抑圧し、遊びなれないからこそ、歯止めのかけ方がわからない大爆発な訳だが、観客はいつしか梨花に対して、相反する二つの感情を抱く。
彼女の背徳の行為に対して「なにバカなことやってるんだ、こんなこと許されない」という“常識”としての嫌悪感と、たとえ刹那的であろうとも日常の閉塞を打破したアウトローに対する、「あんな狂ったこと、私もやってみたい」という憧れの気持ち。
もしも自分が、彼女の立場だったらどうしただろう?
たぶん私を含めた観客の多くは、仕事一筋で梨花に複雑な思いを抱く小林聡美や、犯罪を夢想しつつも思いとどまる大島優子で、だからこそ最後まで現実を拒否した梨花の、クライマックスの疾走に、思わず「走れ!梨花!走れ!」と小さな声で声援を送ってしまうのである。
偽りの夢にどっぷりとつかり、遂には現実と虚構が逆転してしまった梨花の人生、彼女は永遠に紙の月の下で生きることを選んだのだろうか。

今回は、人を惑わす月の光をイメージして、乳白色のカクテル、「ムーン・グロー」をチョイス。
クレーム・ド・カカオ・ホワイト60ml、ドランブイ60ml、生クリーム60mlをシェイクして、グラスに注ぐ。
クレーム・ド・カカオの風味にドランブイの深いコクが加わり、生クリームが全体をマイルドに纏め上げる。
甘めで飲みやすく、淑女のカクテルという感じ。
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ショートレビュー「寄生獣・・・・・評価額1700円」
2014年12月11日 (木) | 編集 |
慎ましく、喰い尽せ。

人間の脳を乗っ取り、捕食する謎の寄生生物が出現した世界で、ひょんな事から右腕だけを乗っ取られてしまった高校生を描くSFサスペンス。
90年代のアフタヌーン系を代表する、岩明均の傑作漫画、初の実写映画化である。
元々人気も高く、映像化が待望されていた作品だが、権利が長期間ハリウッドに抑えられていたので、連載終了後ほぼ20年を経てようやく企画が実現した。
映画は前後編の二部作で、予想通りに絶妙なところで今回は終了。
まあまだ半分だけなのだけど、山崎貴監督の着実な進化を感じさせる見事な出来栄えだ。
ジャンルは全く異なるのだけど、彼は「STAND BY ME ドラえもん」に引き続いて、伝説的な漫画を最良の形でスクリーンに移し替えたのではないか。

前篇の上映時間は109分、トータルで4時間ほどと考えれば、プロットの取捨選択はこれ以外に無いと思える。
全10巻に及ぶ原作は、ちょうど地球温暖化現象が注目され、エコロジー問題が世界的なイッシューとなり始めた1988年に第一話が発表された。
“Save the Earth”が叫ばれ、そもそも人類の存在自体が地球にとっては害悪なのでは?と問われる時代にあって、大いなる意思によって、“人類を駆除する種”がある日突然現れるという原作は実にタイムリーな作品だったのだ。
もっとも、この設定自体は現在でも十分説得力があるが、テーマとしてはここ四半世紀の間にやや普遍化し過ぎたきらいがある。

そこで本作は、原作でも主人公の泉新一が抱えている唯一絶対的なトラウマ、母親に対して抱いている複雑な罪悪感を明確に物語のコアとした。
物語からある人物の存在をバッサリと切っているのも、母性を巡る葛藤を軸に展開する以上、正しい判断だろう。
エコロジー部分は物語の大きな背景として存在し、前篇でまず新一は贖罪と復讐が組み合わさった親殺しを経験するが、それは同時に寄生された人間という視点では同族殺しでもある。
ある意味同じ境遇の“元人間”を殺して、殺して、最後には自分自身という矛盾が残る“仮面ライダーの決意”を新一にさせる為には、前編のミッドポイントまでに母子関係を強調する以外にない。
しかも上手いのは、完全に途中で終わっているにも関わらず、新一の葛藤にはきちんと達成を感じさせ、その解が次作にむけてより大きな葛藤を生み出す事で、前後編に分けた事による不完全燃焼な印象を最小限にしている事。
長大な原作をまとめているので、ごく僅かなダイジェスト感は残るものの、山崎貴と古沢良太によるロジカルに構成された脚色は出色の出来である。

あと総じてキャストが良い。
ぶっちゃけ漫画のキャラには誰一人として似てないし、あえて似せようともしていないが、映画はやっぱりコスプレショーじゃないという事を、本作の登場人物たちが証明している。
特に新一と奇妙なバディを組む、寄生生物ミギーの声を演じる阿部サダヲが素晴らしい。
本作とメディアミックスで、原作により忠実なテレビアニメ版「寄生獣 セイの格率」も放送されているが、あちらのミギーは声優の平野綾。
アニメの世界にはもちろんフィットするのだけど、彼女の声だと実写世界ではおそらく浮いてしまう。
阿部サダヲのミギーは演技的にぴったりなだけでなく、持ち前のウィットに富んだ口調が朴訥な染谷将太との掛け合いに上手くはまり、ともすれば殺伐としそうな世界観の中で、絶妙なユーモアを醸し出している。

エンドクレジット後に、来年公開の完結編の予告付。
これがまた実に面白そうで、ポスプロに時間のかかる作品だから仕方がないけど、半年のおあずけはちょっと辛い。

今回は岩明均が現在連載中の「ヒストリエ」の舞台、ギリシャから血の様な赤、「メガス・エノス アギオルギティコ /カベルネ・ソーヴィニヨン」をチョイス。
ヘラクレスの血と呼ばれる固有種のアギオルギティコ80%、カベルネ・ソーヴィニヨン20% で作られる赤は、フルボディで腰が強くフルーティ。
ちなみに映画の方の血糊の量は控えめだが、これはまあ作品規模を考えれば当然だろう。
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ショートレビュー「TATSUMI マンガに革命を起こした男・・・・・評価額1700円」
2014年12月11日 (木) | 編集 |
パッションから始まる、劇画道。

劇画の創始者、辰巳ヨシヒロの自叙伝「劇画漂流」を5編の短編作品と絡めて、シンガポールのエリック・クー監督がアニメーション映画化した作品。
日本のみならず、世界のコミックに大きな影響を与え、79歳の今も作品を描き続ける辰巳ヨシヒロとは何者か。
戦後日本のストーリー漫画は、映画的な手法を大胆に取り込んだ手塚治虫の登場によって、急速な進化を遂げる訳だが、漫画の多様化にともない、大人向けの題材を扱った作品と、子供向け作品を差別化する必要性が生じてくる。
大人を意識した作品は、年少の子供たちにとっては色々な意味で刺激が強すぎ、実際当時のPTAなどによって、漫画を十把一絡げにして禁書にしようという乱暴な追放運動が起こったほど。
そこで雑誌掲載が主な子供向け漫画に対して、貸本屋向けのストーリー重視のより劇的な漫画という意味で、1957年に辰巳ヨシヒロが考案したのが「劇画」という呼称である。
その後、貸本の衰退と共に、本来の意味での劇画、漫画の区別は意味を失ったが、現代でも一定の年齢以上に向けた、比較的写実的な漫画の意味で普通に使われている。
漫画と劇画の区別は、米国における「Comic」と「Graphic novel」の関係に近いかもしれない。

本作の表現手法は、いわば「忍者武芸帳」のデジタル版か。
大島渚が1967年に発表した異色作は、白戸三平の同名作の静止画をそのまま撮影して編集したライカリール(動画コンテ)の様な作りで、絵そのものは当然動かない。
ところが、ほぼ半世紀の時を経て作られた本作では、原作の劇画の絵柄がそのまま動き出し、いきいきと演技をするのである。
アニメーションパートは、主にインドネシアのスタジオで作られたそうだが、素晴らしい仕上がりである。
本人がナレーションを務める自叙伝は、戦争から現在に至る一人の創作者としての辰巳ヨシヒロの人生を追い、並行してそれぞれの時代を舞台とした短編がオムニバス的に描かれるという構成だ。
本来、現実と虚構に分かれているはずの作者と作品は、映画という二次創作の中で融合され、一つの世界観を形作る。
ここに浮かび上がるのは、辰巳ヨシヒロとエリック・クー、二人作家の目を通した「ウォルト・ディズニーとの約束」的な作家論・創作論であり、同時に過去70年にわたる現代日本の肖像を描いたもう一つの「フォレスト・ガンプ」である。

膨大な作品群からセレクトされた短編は、原爆写真によって名声を得るカメラマンを描いた「地獄」、アパートで一匹の猿と暮らす孤独な男の物語「いとしのモンキー」、悪妻への復讐のため浮気をしようとする初老の男を描く「男一発」、トイレの落書きにとりつかれた漫画家を描く自虐的な一遍「はいってます」、そして戦後まもない頃、米兵に体を売って暮らす女の悲劇「グッバイ」の5編。
オムニバスアニメーション映画は珍しくないが、本作の場合はそれぞれの短編がコアとなる自叙伝が描く時代と密接にリンクしているので、この種の映画にありがちなぶつ切り感がなく、一本の長編を構成するパーツとして有機的に溶け合っている。
原爆で始まり、自叙伝の時代と共に徐々に現代に近づいてくる作品はしかし、最後の「グッバイ」で再び戦後へと回帰する。
5つの物語は、常に社会の底辺の人々を描き続けた辰巳らしい傑作揃いだが、同世代の創作者の多くがそうであるように、彼の作家としての原点はやはりあの忌まわしい戦争の記憶だったのかも知れない。

それにしても、本作が外国人によって作られ、完成当初から高い評価を得ていながら、日本公開まで3年もかかったという現状は、ある意味衝撃である。
本作の日本公開に尽力した人々に対しては大いにリスペクトを捧げたいのだが、こういう作品はもっと国内のメディアが音頭をとって注目させるべきだし、その方が誰トクなのか分からない空虚なクールジャパン政策を押すよりも、よっぽど有意義だと思うのだが。

今回は、戦後の1948年に発売された庶民の味方、ホッピーを使った「ホッピー割り」をチョイス。
元々ビールの代用として広まったものだが、今となってはこれはこれで独特の味わい。
発売元のホッピービバレッジは、ビアジョッキと甲種焼酎、ホッピーをキンキンに冷やし、ジョッキに焼酎1に対してホッピーを5の割合で注ぎいれる“三冷”を推奨している。
因みにホッピーは、辰巳ヨシヒロの故郷の大阪などの関西圏ではあまり目にする事がない、関東の地のものである。
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フューリー・・・・・評価額1750円
2014年12月04日 (木) | 編集 |
この世の、地獄の果てに。

第二次世界大戦末期、“FURY(憤怒)”と名付けられた一台のM4シャーマン戦車に乗り組んだ、5人の戦車兵を描く、デヴィッド・エアー監督の超ハードな戦争大作。
物語を引っ張るのは歴戦の車長を演じるブラッド・ピットだが、実質的な主人公は手違いで戦車隊へと配属されたローガン・ラーマンの文系新兵だ。
観客は彼と共に狂気の戦場へと送り込まれ、135分の間泥まみれになって、殺戮の原野を這いずりまわらねばならない。
戦争アクションとして超一級なのはもちろん、エアーらしく青春の喪失を描くニューシネマ的なロードムービーの味わいもある。
戦車をモチーフとした戦争映画の、決定版とも言える傑作だ。
※ラストに触れています。

第二次世界大戦末期。
司令部の事務係に任官されるはずが、何故か戦車隊に配属されてしまった新兵のノーマン(ローガン・ラーマン)は、FURYと名付けられたM4戦車の副操縦手となる。
車長のコリアー軍曹(ブラッド・ピット)指揮下の歴戦のFURYのクルーたちは、多くの戦車兵が命を落とす激しい戦いを生き残ってきた。
戦争は終わりに近づいているとは言え、追い詰められたドイツ軍はいまだ精強。
部隊は市街戦の末にとある街を制圧したものの、FURYは敵が補給部隊を襲うルートを遮断するために、街から離れた十字路を死守せよという命令を受ける。
四両の戦車を率いて出撃したFURYだが、途中でドイツ軍の待ち伏せ攻撃を受ける。
霧の中から姿を現したのは、攻撃力・防御力ともにM4よりも遥かに強力な、ドイツ軍のティーガーⅠ重戦車だった・・・


戦争映画の中でも、これをモチーフにすればハズレなしと言われるのが潜水艦である。
「眼下の敵」「深く静かに潜航せよ」「レッド・オクトーバーを追え」「クリムゾン・タイド」など、数々の名作が並ぶこのサブカテゴリーは、密室劇ならではの濃密な人間ドラマと、水上艦と違って最初から海中にいるので、撃沈されればまず助からないという極限性がサスペンスを盛り上げる。
しかし同じ密室でも、“戦車映画”の名作は相対的に少ない。
物量で言えば、とにかく戦車がうじゃうじゃ出てくるケン・アナキンの「バルジ大作戦」、密室性を生かした作品では本作と同じ一両の戦車を舞台に、若い兵士たちの体験を描いた「レバノン」、アフガニスタンで道に迷ったソ連軍の戦車の命運を描いた変わり種「レッド・アフガン」などが思い浮かぶものの、全体に小粒な印象。
思うに、潜水艦と違って小さな戦車は密室としては狭すぎてドラマが成立し難く、集団で行動する事が多いので、戦争映画の中のワンアイテムにはなり得ても、物語の大きなバックボーンにするのは難しいのだろう。

ところが、この映画では“FURY”という戦車の名をそのままタイトルとし、ある意味人間以上の存在感を持つ物語の影の主役とする。
5人のクルーはカオスの戦場で、特殊な縁によって結ばれた家族であり、彼らにとって30トンの鉄の移動要塞は、その絆の象徴としての“家”なのである。
この構造を成立させるために、エアーは物語をわずか一日の間の出来事とし、更に潜水艦映画の最高峰にして、ウォルフガンク・ペーターゼンの代表作、「U・ボート」の人物設定とプロット構造を換骨奪胎する。
原作者のロータル=ギュンター・ブーフハイムの実体験に基づく「U・ボート」は、ドイツ海軍の潜水艦に同乗取材する事になった記者の視点で、カリスマ的な艦長の指揮のもと、過酷な任務に挑む潜水艦クルーの姿が描かれる。
本作で記者の代わりになるのは、戦いの現実など何も知らない新兵のノーマンで、艦長の役割がブラッド・ピット演じるコリアーに置き換わっている。
秋からクリスマスまで数か月間の任務を描いた「U・ボート」に対して、こちらの時間はギュッと濃縮されているが、それぞれの戦いの推移や意味づけなど、全体の構成も良く似ている。

平和な日常から、突如として戦場という非日常へと送り込まれたノーマンが出会うのは、強烈なカリスマ性を持つFURYの車長、コリアー。
彼のプライオリティは、とにかく生き残る事で、そのためには無慈悲な行動も躊躇しないという、ハリウッド映画ではなかなか見られない、アンチヒーロー的なキャラクターだ。
北アフリカからノルマンディー、そしてドイツ本国の奥深くまで、多くの戦車がスクラップと化すなか、彼が率いるFURYは、犠牲を出しながらもサバイバルを勝ち抜いてきたのである。
だからこそ曲者揃いのクルーも、コリアーに対して多少の反発はしても、絶対的な信頼感は揺るがない。
ただ、彼は非情だが頼りになるリーダーとしての顔と、何気に聖書を読み込んでいたり、一人になると苦悩したりというナイーブな裏の顔を持っており、複雑な内面設定がキャラクターとしての深みに繋がっている。
無垢なる若者は、この“ウォーダディ”、戦場の家長によって、生き残る術を叩き込まれるのである。
コリアーは年少の敵兵を撃つことを躊躇するノーマンに、命乞いする丸腰のドイツ兵捕虜を射殺するという、地獄への通過儀礼を経験させる。
殺さなければ殺される、敵を見たらとにかく相手より先に撃て、殺せという戦争の論理を実体験として教え込むのだ。

観客はあまりにも過酷な現実に戸惑いながらも、感情移入キャラであるノーマンに寄り添い、極限の24時間を共に経験してゆく。
圧倒的なリアリティは、もちろん戦争アクション映画としての臨場感に直結する。
戦闘シーンは、市街戦から戦車戦までてんこ盛りだが、特に十字路へと向かう4両のM4戦車が、ドイツ軍のティーガーⅠと対決するシークエンスは圧巻だ。
霧の中から忽然と姿を現すティーガーは、世界でただ一台稼動する個体を、わざわざ博物館から借り出してきたらしいが、ホンモノの持つえもいわれぬオーラは、ボスキャラ感半端ない。
数こそ4対1だが、相手はM4の倍近い、57トンの重戦車。
FURYの76ミリ砲では、ティーガーの分厚い前面装甲を打ち抜くことは出来ず、逆にM4はティーガーの88ミリ砲をまともに喰らえばひとたまりもない。
本作は実話ではないが、デヴィッド・エアーはリサーチにリサーチを重ねて、現実に起こったエピソードを組み合わせて脚本を執筆したという。
実際、M4が自分より強力なティーガーに挑む際には、映画の様に複数で襲い掛かり、相手の背後を取るというのが定番化した戦法だった様だ。

この戦いによって仲間の戦車を失い、孤立無援となってしまった上に、キャタピラが壊れ身動きのとれないFURYの前に、今度は戦意旺盛な300人の武装SSが迫り、いよいよ5人が絶望的な戦いに身を投じるのがクライマックスという訳だ。
予想外に戦車に乗ることになってしまった無垢なるローガンは、まっさらな目で戦場を見つめ、狂気の世界に抗おうとする。
しかし、凄惨な市街戦で街を制圧した後のささやかな愛と生の実感、そんな小さな希望すら跡形もなく粉砕される残酷な現実によって、ノーマンは深く傷つき人間性を失ってゆく。
そして彼は、たった一日で何も知らない新兵から、他のクルーから“マシーン”と呼ばれる殺しのプロフェッショナルへと変貌してゆくのである。

敵味方皆が破滅へと突き進む中、かろうじて救われるのは、絶望的な戦いを生き残ったノーマンが、同世代の若いドイツ兵と目を合わせるシーン。
このドイツ兵は、ノーマン役のローガン・ラーマンによく似た俳優がキャスティングされており、演出意図としては生と死の境界で出会った、もう一人の自分という事だろう。
この寓話的なエピソードによって、ノーマンはまだギリギリ生の世界に踏みとどまっている事が示唆されるのだ。
喪失の痛みだけが積み重ねられる絶望の中で、青春の輝きはあまりにも脆いが、それでも人間の中には決して失われないものはあるし、どんな状況だろうが明日は必ず巡って来る。
泥の中から助け出され、九死に一生を得たノーマンに、兵士たちは「お前は英雄だ」と声をかける。
だが、そこで彼の見たものは折り重なって倒れている無数のドイツ兵の骸と、無残に破壊された“我が家”FURYの姿。
若者はわずか24時間であまりにも大きな重荷を背負ったが、だからこそ生きてゆかねばならないのである。

今回は、ドイツのバイエルン州を代表するエルディンガー・ヴァイスブロイ の「エルディンガー・ヴァイス・ビア・ヘーフェ 」をチョイス。
ドイツ料理店でも御馴染みの銘柄だが、まろやかでフルーティな味わいに、きめ細かい泡の感触は食欲を増進させる。
映画はどっと疲れるヘビーな内容だが、自分が平和にビールが飲める時代に生まれて、本当に幸せ者だという事を改めて実感させられる。
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6才のボクが、大人になるまで。・・・・・評価額1800円
2014年12月02日 (火) | 編集 |
12年の、家族のエポック。

映画史に残る、驚くべき青春映画だ。
リチャード・リンクレイター監督と4人の俳優たちが、実に12年の長きにわたって撮影を続けた、現実よりも現実らしいリアリティ・ムービー。
6歳の少年の成長を軸に描かれる人生の軌跡は、出会いと別れ、達成と挫折、成長と老い。
生身の俳優が、自らの肉体の時間をスクリーンに刻み付ける事で生まれる説得力は、唯一無二と言って良いのではないか。
主人公のメイソン少年をエラー・コルトレーン、姉のサマンサを監督の娘でもあるローレライ・リンクレイター、両親役をパトリシア・アークエットとイーサン・ホークが演じる。
おそらく、こんな野心的な作品はもう二度と作られないだろう。
色々な意味で、今観ておくべき傑作である。

6歳のメイソンJr.(エラー・コルトレーン)は、姉のサマンサ(ローレライ・リンクレイター)と母のオリヴィア(パトリシア・アークエット)の3人暮らし。
離婚した父のメイソンSr.(イーサン・ホーク)は風来坊の様な生活を送り、故郷のテキサスにはなかなか戻ってこない。
ある時、オリヴィアは祖母が住むヒューストンに引っ越すと言い出す。
祖母に子育てを手伝ってもらいながら大学に戻って学位を取り、より良い暮らしを目指そうというのだ。
新しい学校にも慣れ、久しぶりにテキサスに帰ってきたメイソンSr.にボーリングに連れて行ってもらったり、楽しい日々を過ごしながらメイソンは成長してゆく。
やがて大学のウェルブロック教授(マルコ・ペレッラ)と付き合っていたオリヴィアが再婚し、一家は教授の二人の連れ子も合わせて6人での新生活を始めるのだが・・・・


実に新鮮な映画体験だった!
子供たちの成長に合わせて、長期間撮影された劇映画は他にもある。
昨年公開された「いとしきエブリディ」では、マイケル・ウィンターボトムが、刑務所にいる父の帰りを待ち続ける四兄妹の5年間を描いたし、日本でも倉本聰が自身の唯一の監督作である「時計 Adieu l'Hiver」で、主演の中島朋子の9歳から14歳までを追った。
またトリュフォーが、「大人は判ってくれない」以降20年にわたってジャン=ピエール・レオ演じるアントワーヌ・ドワネルの人生を綴った様に、シリーズやテレビドラマを含めればもっとずっと多いだろう。
だが、これら過去の作品と比べても、2002年から夏から2013年の秋までの12年間を一本の長編にまとめるというリンクレイターのチャレンジは一線を画していると思う。

それは内容な事だけではない。
映画を作るには資金が必要だが、普通出資者はなるべく早く投資した資金を回収したいもの。
ところが本作の場合は、売り上げが発生するのは遥か12年後の未来なのである。
当然、完成リスクだって大きい。
「いとしきエブリディ」の様に、子供たちがまだ幼いうちに撮り終えてしまうならともかく、本作では主人公の少年は最終的には18歳になる。
もしも途中で別の方向へと人生の舵を切り、映画出演を拒むようになってしまったら?
しかもアメリカの法律では、12年もの長期にわたる雇用契約を結ぶことは出来ない。
出演者や監督が病気や事故で映画に関われなくなる可能性だって、通常の映画よりも遥かに高いだろう。
何よりも、時代に合わせて物語も変化せねばならないから、大筋以外の脚本は最後まで未完成、即ち完成形を誰もイメージできないまま作り続けなければならない。
多分に、関係者の個人的な信頼関係に基づいた自主制作的な体制だったようだが、それでもこの作品にお金が集まり、12年も撮影を続けられた事自体が大きな驚きであり、半分奇跡的だと思う。

そして完成した映画は、スタッフ、キャストの費やした長い時間に比例し、映画史上に類を見ないユニークで素晴らしい作品に仕上がっている。
165分という上映時間の間、特別にドラマチックな出来事は何も起こらない。
両親の離婚、再婚、再離婚、もちろんメイソン自身の卒業や恋なども描かれるが、どれもごく普通の人々の人生の当たり前の風景で、誰もが体験する様な事ばかりである。
にも関わらず、不思議な吸引力によってスクリーンに引き付けられ、全く目が離せない。
12年の歳月を同じ役者が演じる事で、映画的な時間とは何か?と考えさせられる。
幼かった少年は、途中ちょっと太ったり、長髪になったりしながら、やがて輝かしい青春を迎え、いつしか父親役のイーサン・ホークの若き日を思わせる、なかなかのイケメン青年へと成長してゆく。
大人になるにつれて、コルトレーンの雰囲気があまりにホークに似てきたので、実際の血縁関係はないのかと後から思わず調べてしまったくらい。
因みにお姉ちゃん役のローレライは、これまた父のリンクレイター監督そっくりになってゆく。
逆に、映画の開始時点ではまだ若々しかった両親は、だんだんと体型も変化し、髪にも白いものが混じりはじめ、やがてくたびれた中年に。
このあたり、両親と同世代としては、思わず彼らの姿に自分を重ねてしまった(笑

親と子の関係とは?子を育てるとは?老いるとは?生きるとは?
特殊メイクでもCGで、二役でもない、現実の時間が俳優にもたらす肉体の生の変化が、ドラマに圧倒的なリアリティを付与する。
この映画の撮影中、リンクレイターとイーサン・ホークは本作とは別の意味で特別な映画的な時間を持つ「ビフォア・サンセット」「ビフォア・ミッドナイト」も撮っていた訳だ。
9年のブランクを間にはさみ、一日の出来事(「サンセット」の方はほぼリアルタイム)を1本で描くあちらが、遠くに暮らす友達に久々に会う様なイベント的映画だとすれば、こちらは12年を165分に濃縮し、観客が家族の一員として登場人物の人生にずっと寄り添う様な、日常の映画。

どちらも現実をベースとしながら、生の瞬間を一度映像として記録し、再構成することで、時間と空間を自由にコントロールできる、実写映画以外では決して表現できない、映像言語によってのみ語られる稀有な作品と言える。
物語の最後で、写真家を志すメイソン青年が語る時間の概念こそ、リンクレイターにとって本作のもう一つのテーマであり、彼の映画作家としての特質なのではないだろうか。
観客によって感情移入の対象は異なるだろうが、ある一家を鏡に誰もがさまざまな問いを投げかけられ、彼らの12年のエポックを見届ける事に、大きな感慨と爽やかな感動を覚える至高の165分、必見である。

私的にはやはり親的な目線、特にイーサン・ホークのチョイダメ親父の目線で観てた気がするのだけど、今回は彼と飲みたいテキサスの地ビール、「Shiner Bock(シャイナー・ボック)」 をチョイス。
1世紀以上の歴史を持つ銘柄は、あっさり目のアメリカンスタイルなのだが、このビールの特徴は炭酸の強さ。
爽やかに喉に広がる風味は、乾燥したテキサスの風土にピッタリだ。
残念ながら日本では正規輸入されていないが、テキサスへ行く機会があれば、現地の郷土料理と一緒に是非お試しあれ。
ビールはその土地で飲むのが一番美味しい。

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