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■TITLE INDEX
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アンバランスなほど大きな目を持つ少女の絵は知っていたけど、その裏にこんな話があったとは。
才気にあふれ独創的な絵を描くが、商売っ気はない女と、絵の才能はゼロだが商才はある、野心満々の男が出会ってしまう。
すぐに二人は夫婦となり、妻が描いて夫が売るというコンビネーションで巨万の富を築く。
ただ一つの問題は、夫が絵の作者は自分だと偽っていた事。
※核心部分に触れています。
本作は1960年代にアメリカ美術界を揺るがせた、マーガレットとウォルターのキーン夫妻による一大スキャンダルを、ティム・バートン監督が映画化した作品だが、題材的に昨年世間を騒がせた佐村河内守氏のゴーストライター事件を思い出してしまった。
もしもスター芸術家とそのゴーストが夫婦だったとしたら?
あの事件と同じく、夫が妻の絵を売り込むプロデューサーに徹していれば、何の問題も無かったのだが、画家志望だった彼は、自らが作者として称えられたいという承認欲求に抗えない。
双方が利害関係でプロフェッショナルに徹することが出来ない夫婦だからこそ、一度拗れると葛藤は無限大に増幅する。
世の中には、息を吐くように嘘をつく、虚言壁のある人間がいるものだが、クリストフ・ヴァルツが好演するウォルター・キーンはまさにそんな感じ。
パリ留学経験もある彼は、風景画家として売れず、成り行きで思わず妻の絵を自分の作だと偽ってしまった・・・と最初は思えるのだけど、後になって、実はその風景画すら、他人の作品に自分のサインを入れていただけだという事が明らかになる。
パリ留学の話も、いつしか一週間のパリ旅行になり、最後にはそもそもヨーロッパに行った事すらあるのかどうか。
この種の人間の中では、嘘がいつの間にか真実にすり替わってしまうというが、彼もまた自分自身の嘘を信じていたのかもしれない。
マーガレット・キーンとバートンの絵は、巨大な目と退廃的なムードという共通点がある。
もっとも、暗い闇を湛えた瞳の中に吸い込まれそうなマーガレットの作と、小さな瞳が針の様に見る者を突き刺すバートンのタッチは対照的とも言えるのだが。
本作には、作品を奪われた創作者へのシンパシーが生んだ、作品は誰のもの?という芸術論の側面もあるが、バートンはそちらにはあまりフォーカスしない。
そもそもマーガレットが何者で、なぜ“ビッグ・アイズ”が生まれたのかは、僅かな独白以外は殆ど描かれないのである。
おそらくバートンは、マーガレットの描く大きな瞳の奥に、抑圧された彼女自身を見たのだろう。
この物語で作者が最もフィーチャーしているのは、芸術家と商人という、ある意味理想的な組み合わせでありながら、結局拗れに拗れまくって破局する奇妙なカップルを巡る夫婦論の部分だ。
ウォルターとマーガレットの込み入った関係の背景となっているのは、1950年代から60年代という時代の女性のポジション。
まだまだ専業主婦が主流で、女性が社会の前面に出る事の少なかった時代である。
前夫のDVに耐えかねてバツイチになるまで、一度も働いたことのなかったマーガレットは、いとも簡単に口八丁のウォルターに言いくるめられてしまう。
しかし、自らの分身である作品を奪われ、アイデンティティを否定された生活は、徐々に彼女を追い詰め、やがて彼女もウォルターの本当の姿に気づくと、敢然と反撃を開始する。
嘘に嘘を重ねて作られた虚飾の家族は、マーガレットの覚醒であっけなく崩壊してしまうのである。
そういえば、バートンは13年に渡って事実婚を続けていたヘレナ・ボナム=カーターと去年初めに破局したそうだ。
おそらく本作の制作期間は二人の別離の時期と重なっていたはずで、これは自らの体験の実感を込めた、バートン流の「ゴーン・ガール」なのかも知れない。
しかし「フランケンウィニー」もそうだが、バートンはパターン化した大作から、創作の原点回帰へのプロセスにあるのではないか。
前作では、職業映画監督としての処女作をリメイクしたが、今回は作品に愛など無く、金のために大衆の好む“製品”を量産する男と、彼に虐げられる芸術家の物語である。
はたして、この特異な映画作家はどこへ行こうとしているのか、次回作が今から楽しみだ。
今回はでっかい目というタイトルなので、「アイ・オープナー」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ペルノ2dash、クレーム・ド・アプリコット1dash、フランジェリコ1dash、オレンジ・キュラソー2dash、砂糖1tsp、卵黄1個分をシェイクして、グラスに注ぐ。
このカクテルは元々はクレーム・ド・ノワヨーが使われていたのだけど、今は流通していないので、BARでもそれぞれ代用品を使っている模様。
目を開かせる、つまり飲んだ翌朝の迎え酒という訳だが、卵黄が入っているので結構コッテリ濃厚な味わいのカクテルだ。
確かに目は覚めそうだが、朝にこれはきついかも知れない(笑

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今から84年前の夏、日本統治下の台湾で、それまで一度も勝ったことのない弱小野球部が奇跡を起こす。
タイトルの「KANO」とは、台湾南部の嘉義農林学校の略称、嘉農のこと。
漢人、台湾先住民、日本人の混成チームである嘉農野球部は、人々の希望を背に受け、崇高な一つの夢に向かって団結し躍進する。
監督・脚本は、大日本帝国に対する台湾先住民セデック族の反乱、いわゆる霧社事件を描いた「セデック・バレ」に出演していた俳優のマー・ジーシアンで、これが監督デビュー作。
共同脚本とプロデュースを同作の監督、ウェイ・ダーションが務める。
時代背景的に公用語が日本語だった事もあり、台湾映画でありながら台詞の大半は日本語である。
※クライマックスに触れています。
近藤兵太郎(永瀬正敏)は、嘗て甲子園で活躍し、野球界で将来を嘱望されながら、大きな挫折を味わった後に台湾へと移住し、会計士として生計を立てている。
しかし、近藤の存在を知った地元の嘉義農林学校から野球部の監督就任を要請され、最初は固辞するも、彼らの練習を見るうちに、その秘められたポテンシャルを見抜く。
台湾の強豪校の野球部は殆ど日本人選手で固められているが、嘉農の民族構成はバラバラ。
日本人の緻密な守備、漢人のパワフルな打撃、先住民の駿足を組み合わせれば、理想のチームが出来ると考えた近藤は、監督として嘉農野球部を率いる決意をし、部員たちに目標を甲子園出場だと宣言する。
公式戦で一度も勝ったことのないチームの、壮大過ぎる目標を人々は嘲笑するも、やがて嘉農野球部は破竹の快進撃をはじめる。
そして一年後、彼らの姿は遥か海を越えた甲子園のフィールドにあった・・・
スクリーンに映し出される1931年の夏の甲子園には、台湾代表の嘉義農林の他にも、満州代表の大連商や朝鮮代表の京城商といった名前が見える。
日本が広大な帝国で、今よりも確実に多民族国家だった時代。
良い悪いではなく、そこは現在の日本国とは全然違う国であって、この時代の台湾史を描いた本作は、同時に日本史の知られざる一部を垣間見る作品でもあるのだと実感。
歴史は、共有されているのである。
近藤が監督になってから一年、憧れだった甲子園で一回戦を突破し、大会のダークホースへと浮上する嘉農野球部に、日本人の記者が侮蔑的な言葉を投げつけるシーンがある。
「混成チームなんて意思疎通が出来るのか?高砂族は日本語が分かるのか?」
単に民族差別とみる事もできるだろうが、前年の1930年の晩秋には、あの霧社事件が起こっているのだ。
映画「セデック・バレ」にも描かれた台湾先住民、セデック族の反乱は、入植者の日本人にも多くの犠牲を出している。
今で言えば中国における漢人とウィグル人の対立の様な、二つの民族の間に一触即発の不穏な空気が流れていてもおかしくはない。
帝国という、21世紀から見れば甚だ非効率的な共同体の構築に従って、葛藤の要因も増えてゆくのは当たり前の事だ。
その様な時代にあって、嘉農のナインはフィールドの上に同じ夢を見る。
いや、野球という民族を超える共通言語があるからこそ、そこに同じ夢を描くことが出来るのか。
嘉農が勝ち進みはじめると、最初は彼らの挑戦をバカにしていた地元の人々も、侮蔑的な言葉を浴びせた記者も、何よりも甲子園を埋めた満員の観衆たちが、必死に白球を追う嘉農ナインのひたむきさに巻き込まれ、彼らのサポーターと成ってゆく。
彼らは、後にジャッキー・ロビンソンや野茂英雄が体現した、スポーツの理想の先駆者であると言って良いのかもしれない。
映画のテリングとしては、本作は決して器用な作品ではなく、お世辞にも洗練されているとは言い難い。
だが「セデック・バレ」の4時間半超えに続く3時間の大長編は、描きたい事が沢山あるからこそ。
新人監督の泥臭くも懸命な語り口もあって、この映画自体が甲子園球児の様なほとばしる情熱に溢れている。
前半は、普通の映画一本分を費やしても、あまりに多くの登場人物の内面を描き切れず、ややぎこちなさが目立つ。
ところが、後半舞台が台湾から日本へと移り、いよいよ甲子園での大会が始まると、物語の主軸も必然的にフィールドの選手たちに絞り込まれ、負けたら終わりのトーナメント故に大いに盛り上がる。
私はこの話自体を知らなかったので、嘉農がどこまで勝ち進むのかとハラハラドキドキ。
特にマウンドを守る呉投手と、二回戦の相手である札幌商の錠者投手と最終戦で当る中京商の吉田投手を、それぞれに違った個性のライバル対決としたのは上手い。
クライマックスとなる決勝戦は、正に死闘。
これが現在の話であれば、教育的にとんでもないと非難されるだろうが、まだ日本にプロ野球すら存在しない時代である。
死力を尽くした闘いからは、野球映画の醍醐味を存分に味わえる。
本作では共同脚本とプロデュースを担当したウェイ・ダーションは、「台湾人のアイデンティティのために映画を撮るのが自分の使命だと思っている」と語っている。
なるほど「セデック・バレ」も本作も、物語のバックボーンにあるのは、半世紀の長きににわたり日本の統治を受け、大陸の中華人民共和国とは明らかに異なる歴史と文化を有する台湾という“国”のオリジンである。
彼のスタンスは、事の善悪を批評的に描くのではなく、今につながる1ページとして可能な限りナチュラルかつ真摯な視点で、歴史と人間を描くという事だろう。
もちろん、娯楽映画としての脚色されているし、“盛っている”部分も当然あるのだけど、登場人物は皆それぞれに人間的で、過度なステロタイプは出てこない。
本作では、嘉農野球部の躍進のイメージを比喩的に強化する形で、水資源の乏しかった台湾南部を、肥沃な水田地帯へと変えた巨大水利工事、嘉南大圳が描かれ、大沢たかおが八田與一を演じている。
たとえ独立した国であろうと、帝国の植民地であろうと、そこに人が暮らしていれば、悲喜こもごも様々なドラマが生まれ、それは時には「セデック・バレ」の様な抑圧と悲劇を生み、時には本作の嘉農の活躍や嘉南大圳の様な栄光と希望の記憶となる。
悪しき行い、良き行いはあれど、そこに悪い人間と良い人間がいた訳ではない。
解釈するのではなく、理解するという歴史観ゆえに、本作は日本史の知られざるエピソードを描く作品としても、ごく自然に日本人の観客にも受けとめられるだろう。
しかし共有する歴史、それも日本からみると、既に国境によって分かたれ、失われた歴史だからこそ、ある種のノスタルジイと共に、アイロニカルでビターな余韻を感じさせるのも事実である。
台湾に帰った嘉農ナインのその後が紹介されるエンディングで、漢人や先住民の選手たちは、それぞれに野球に関わりながらも人生を全うしたが、日本人のセカンドとライトの2選手は太平洋戦争で戦死したとされる。
そして1944年の戦争の時代から、回想という形で1931年を俯瞰するのは、出征し南方の戦地に赴く途中で台湾に立ち寄ったという設定の札幌商の錠者投手だ。
実際には錠者投手が向かったのは大陸であって、彼が台湾にいたというのはフィクションの様だが、彼もまたシベリアの荒野の土となり、二度とマウンドに立つ事は出来なかったのである。
それにしても、ちょっと調べてみるとこの年以降、嘉農野球部出身者というのは、本当に日本と台湾の野球界には多大な貢献をしてきたのだな。
あの自転車の少年が、後に日本のプロ野球で大活躍し、殿堂入りするほどの大選手になったとか、映画になりそうなエピソードの宝庫かもしれない。
今回は台湾を代表するビール「台灣啤酒 經典(台湾ビール クラッシック)」をチョイス。
こちらは日本統治時代の1919年に創業した高砂麦酒の製法と味を受け継いでいるそう。
確かに日本のビールに近い味わいだが、全体にライトで南国らしい味わい。
暑い台湾で野球をした後とかには、たいそう美味いだろう。
劇中でも近藤たちがビールを飲んでたけど、あれは高砂麦酒だったのかも知れないな。

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英国の良心、巨匠ケン・ローチ監督の最新作は、1930年代のアイルランドを舞台に、既得権者の支配に立ち向かった活動家、ジミー・グラルトンの闘いを描くヒューマンドラマだ。
カソリック教会が絶大な力をふるい、様々な政治勢力と結びついて人々の生活を規制してきたアイルランド社会を、自由で独立した大衆のものとしようとするジミーたちの活動は、必然的に大きな葛藤を引き起こす。
時代背景的には、2006年に公開され高い評価を得た「麦の穂をゆらす風」とほぼ同じで、あちらがアイルランド独立戦争からその後の内戦で戦った兵士を描く“動”の映画だとしたら、これはその裏側の市井の人々の闘争を描く“静”の映画として、ちょうど対になるような作品だ。
1920年代、アイルランドの片田舎。
ジミー・グラルトン(バリー・ウォード)は、有志たちと共に村に小さなホールを作る。
彼らは自分たちの土地に自分たちの力で建てたホールを、音楽や文学、美術などの様々な活動を通した住民たちの娯楽と学びの場としてゆく。
しかし彼らの活動は、伝統的に人民の指導者を自認する教会のシェリダン神父(ジム・ノートン)の逆鱗に触れる。
教会と結託した保守的な層からの様々な弾圧に晒され、ついにジミーはアメリカへと逃れざるをえなくなる。
10年後、ようやく帰郷を果たしたジミーは、年老いた母と静かに生きてゆくつもりだったが、村の若者たちに熱望され、閉鎖されていたホールの再開を決意。
嘗ての仲間たちも再び集い、アメリカ仕込みのジャズダンスのパーティや、文化教室も復活させる。
だがそれは、教会に代表される既得権者との再度の戦いの始まりだった・・・
1984年に公開されたアメリカ映画「フットルース」は、ケビン・ベーコン演じる高校生が、大都市シカゴからロックもダンスも禁止された、超保守的な田舎町に引っ越してくる所から始まる。
規制だらけの町に、都会育ちの主人公が新たな価値観を持ち込み、やがて若者たちは大人たちとの葛藤を深めながら、町のリーダー的存在である牧師との対話を通じて、ついに自由を勝ち取ると、盛大なプロムのダンスパーティーを開くのだ。
当時アメリで大ヒットした80年代を代表するダンスムービーだが、日本で本国ほど話題にならなかったのは、やはり教会が町を支配しロックやダンスを禁止するという宗教的な設定が、日本人にはピンと来なかった事が大きかったと思う。
実際、当時高校生だった私は、こんなマンガみたいな町がある訳がないと思ったのを覚えている。
ところが、映画はある程度極端にカリカチュアされているとしても、アメリカ中西部から南部にかけてのいわゆるバイブルベルトには、似たような社会が実際にあるのだ。
先日公開された、実際に起こった殺人事件の顛末を描く「デビルズ・ノット」では、ヘビメタを聞いて黒ずくめの服を着ているだけで、悪魔崇拝者呼ばわりされて、殺人鬼に仕立て上げられる少年が出てくるが、超保守の社会においてキリストは絶対であり、教会に従わないものは悪なのである。
もちろん本作とハリウッド製ダンスムービーは、国も時代も違うものの、物語の軸となる対立構造は実はよく似ている。
「フットルース」ではシカゴから、本作ではアメリカからと、主人公はどちらも外の世界からの新しい風を、閉鎖的な田舎町に吹き込む役回り。
そして主人公と直接対立し葛藤をぶつけ合うのは、キリスト教の聖職者だ。
本作に描かれるアイルランドでは、カソリック教会こそが村の中心にあって社会を統率する権威・権力の象徴で、伝統を変えないことをファーストプライオリティとする聖職者にとって、一番都合がいいのは無知で自分たちの言葉を盲信してくれる信徒だ。
そしてそれは教会だけでなく、従順な労働者を欲する資本家たちも、広大な土地を小作農に貸して、自らは悠々自適な生活を送る地主たちも同じ。
「麦の穂をゆらす風」では、イギリスとの独立戦争を共に戦った兄弟が、講和条約の条件を巡って勃発した内戦で敵味方となり殺し合うという悲劇が描かれたが、この時代のアイルランドは過渡期というか、およそ考え付く限りの理念がぶつかり合い、社会が深刻に分断されていた様なのである。
そして支配階級はもとより、大衆の中でも変化を嫌う層が拠り所としたのが、歴史と伝統に裏打ちされた教会という権威だったという訳だ。
彼らにとって、ジミーたちのホールは、単なる文化教室でもダンスパーティの会場でもない。
人々が教会の束縛を受けない独立した“城”を持ち、カソリックの教義に基づかない知識や文化を広めて行けば、教会の権威は下落し、いつの日か社会の中での指導的地位を失うだろう。
既成概念から自由となり、教会を核とした伝統的ムラ社会から独立し、自らの頭で考える大衆の出現は、教会にとっても、そこにくっ付いている権威主義的な層にとっても、既得権を奪う脅威に他ならない。
ローチは、教会内にもジミーたちと敵対するシェリダン神父と、一定の理解を示す若いシーマス神父という対照的な二人を配し、ステロタイプ的批判に陥る事を避けているが、シェリダン神父もまたジミーたちを軽蔑しているのではなく、彼らの勇気と信念を認めているからこそ、恐れるのである。
葛藤の舞台となる小さなホールは、教会vs大衆、ファシストvsコミュニスト、地主vs小作など、アイルランド社会の複雑な階級・理念の対立が集約された象徴だ。
教会との和解を模索し、シェリダン神父にホールの運営委員会に加わって欲しいと申し入れるジミーに対し、神父は逆にホールの建物も運営権も全てを教会に譲渡せよと迫る。
これが、フィクションのハリウッド映画なら、最後はジミーと神父が和解し、皆がホールに集ってダンスを踊るのだろうが、実話である本作の帰結する先は何ともビターだ。
どこまでも服従を求める神父に、ジミーが投げかける言葉が印象深い。
「あなたの心には愛よりも憎しみの方が多い」「あなたは、跪く者しか愛さない」
80年前の遠い国の話だが、支配を欲する権力と、自由を欲する人々の葛藤構図は今も、どの社会でも本質的には変わらない。
そして、小さな革命は潰されたとしても、一度人々の心の中を吹き抜けた自由の風は、決して止める事は出来ないのである。
豊かなアルコール文化を持つアイルランド。
今回は世界的な知名度を持つ、この国を代表する黒スタウト「ギネス・エクストラ・スタウト」をチョイス。
1759年にアーサー・ギネスがダブリンのセント・ジェームズ・ゲート醸造場で創業して以来、そのクリーミーな泡は250年以上にわたって、世界中にファンを増やしてきた。
面白いのは缶ビールにフローティング・ウィジェットなる小さなプラスチックのボールが封入されている事で、これによって缶ビールでも独特の泡を実現しているのだとか。
ま、それでもやっぱり瓶の方が美味しいと思うけど。

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ブラジル、リオのスラムを舞台に、ある暗号を秘めた財布を拾った事から、三人の少年が街を牛耳る巨悪と対決する。
「ビリー・エリオット」「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のスティーヴン・ダルドリー監督、「戦火の馬」「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」のリチャード・カーティス脚本のコンビは、一見社会派の設定を用いて、一大エンターテイメントを作り上げた。
最下層の子どもたちという絶対的弱者が、悪の手先となった警察という絶対的強者をいかにして出し抜くのか。
宗教的暗喩を巧みに織り込みながら、ロジカルに構成されたプロットは先を読ませず、テンポよくスピーディーな演出は、観客を少年たちと共にスラムの冒険譚へと誘う。
※核心部分に触れています。
巨大都市リオのゴミ捨て場。
膨大なゴミの中から使えるものを探して暮らす、14歳の少年ラファエル(リックソン・テベス)は、ある日ひとつの財布を拾う。
中に入っていたのは、少しのお金、IDカード、少女の写真、数字の書かれたメモ、どこかのコインロッカーの鍵。
だがこの財布には、街の運命を左右する重大な秘密が隠されていた。
警察はスラムに乗り込み、住人達を動員して大捜索に乗り出す。
財布に、何か秘密があると考えたラファエルは、友達のガルド(エデュアルド・ルイス)とラット(ガブリエル・ウェインスタイン)と共に、隠された暗号の謎に挑む。
しかしそれは少年たちにとって、あまりにも危険すぎる冒険の始まりだった・・・・
ブラジルを舞台としたポルトガル語劇だが、原作者も脚本家も監督もイギリス人。
英国の映画人が、異郷で撮った社会派ルックの痛快エンタメという点では「スラムドッグ$ミリオネラ」、カオスのリオのスラムで暮らす少年たちの物語という点では、フェルナンド・メイレレスの傑作「シティ・オブ・ゴッド」を思わせる。
本作はこの2本に「グーニーズ」的少年たちの冒険と、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の謎解き要素をミックスして、割ったようなテイストだ。
主人公の少年たちと、彼らを見守るマーチン・シーンのジュリアード神父やルーニー・マーラー演じるオリビア先生との距離感なども、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」と似た印象。
ブラジルでも屈指の大都市リオは、2016年のオリンピック開催を控え、急速な開発が進む。
しかし、華やかな経済発展の一方、繁栄から取り残されたスラムが広がり、本作の主人公の少年たちは、広大なゴミ捨て場からまだ使える物を拾って、僅かばかりの金に換える、格差社会の中でも最下層に属する。
働いても、働いても、貧困からは抜け出せず、権力を振るう警察には人間扱いされない。
そんな掃き溜めに暮らすラファエルが、ある日ゴミの中からひとつの財布を拾う。
実は財布の中には、心ある人々を弾圧し、私利私欲の為にリオ市長になろうとしている悪漢、サントスの犯罪の証拠のありかを示した暗号が隠されている。
サントスの腹心でありながら、彼の悪を暴こうとした男は捕まり、殺されてしまうが暗号を隠した財布だけはゴミ収集車に落ち、行方不明になったのだ。
当然サントスは慌てふためき、買収した警察を動員して財布を大捜索。
だが、財布にかけられた賞金にも、ラファエルは動じず、逆にボロボロの財布を必死で探す警察の動きに不信を抱き、暗号の正体を探り始めるのだ。
信仰心が厚く、権力に媚びない彼のファーストプライオリティは、「正しいことをする」なのである。
終盤ジュリアード神父が、事件の顛末を旧約聖書の出エジプト記になぞらえる描写があるが、本作の大きな特徴は現実へのアンチテーゼとしてのある種のファンタジー性、宗教的暗喩性と言えるだろう。
キーワードは物語に隠された、幾人もの天使たちだ。
まず事件の発端となる財布の持ち主の名は、ジョセ・アンジェロ。
アンジェロの語源は天使、あるいは神のメッセンジャーである。
そして最初に財布を拾う少年の名は、特にカソリックで深く信仰されている、癒しの大天使と同じラファエル。
つまり、神から使わされたメッセージを、人々を癒すべき天使が受け取り、行動を起こしたという事なのだ。
だとすると、行動的で武闘派のガルドはミカエル、ラファエルを事件の謎をとく鍵となる手紙へと導くラットは、ガブリエルなのかもしれない。
そういえば、なぜかジュリアード神父が、ラットの事を「ガブリエル」と呼ぶシーンがあったような気がするが、記憶違いか?
ラファエルと仲間たちは財布にあったコインロッカーの鍵から手紙を見つけ、オリビア先生の手を借りながら、今度は刑務所にいる手紙の宛先の人物の言葉を聞く。
そうして自分たちが追っている事の本当の意味を知ったラファエルたちは、警察の追っ手を掻い潜り、聖書の言葉に導かれ、スラムを駆け巡る大冒険の末に目的の場所を探り当てるのである。
途中では警察に捕まって拷問されたり、危うく殺されそうになったりもするのだが、それでも決して正しい事をするのを諦めない。
そんな少年たちのピュアで気高い行いは、ギブアップする事に慣れてしまった大人たちの心も、少しずつ変えてゆく。
サントスの秘密を暴いて失脚させるのは、搾取する者とされる者の関係を、当たり前の事として受け入れてしまっている社会に、変革の炎をつける第一歩。
天使の名を持つ少年たちは、幼いからこそ恐れを知らず、自分の信じる道を突き進む。
しかしクライマックスに至って、映画はさらに驚きの展開を迎えるのだ。
以下の記述は、劇中では狙って曖昧にされている部分なので、あくまでも私の解釈。
地上で奮闘する小さき天使たちの絶体絶命の危機に対して、神は遂に本物の天使を送り込んでくるのである。
やっとの事で暗号を解き、たどり着いた墓地で、ラファエルが見たものは、ジョセの愛娘ピアの墓。
ジョセは棺の中に、サントスから奪った金と犯罪の証拠である帳簿を隠していたのだ。
ところが、ラファエルが墓地に飾られていた天使像を見た直後、死んだはずのピアが姿を現す。
「お父さんが、ここは安全だからと私を隠した」と彼女は言うが、言葉通り信じるには、あまりにも不自然なシチュエーションで、そこに至るまでのリアリテイ重視のスタンスからは明らかに異質。
そもそもジョセがサントスを裏切って、このタイミングで行動を起こした理由はなにか。
彼の言動を見る限りでは、何よりも大切な娘の死によって、失うものが無くなったからだと考えるのが一番自然である。
それならば、墓場に現れラファエルたちの危機を救ったのは、単なる父に見捨てられた子どもではなく、神に使わされた天使ピアと解釈するのが一番しっくりくる。
そう考えると、ここからエピローグにかけてのファンタジー的な展開にも、象徴的な意味を見出せるだろう。
正しい行動をすることによって、悪魔に虐げられた人々を救った小さき天使たちは理想郷へと去り、彼らに導かれた人々は、遂に“エクソダス”を迎える。
これは、現在のリオを舞台とした聖書の再現であり、奇跡を描いた寓話なのだろう。
まあ、終盤の展開は捉え方によってはえらくご都合主義にも見えるかもしれず、ここをどう受け取るかによって本作の印象はだいぶ変わってくるのではないだろうか。
私的には厳しい現実に対する、映画という虚構によるカウンターとして十分にアリだと思うし、気持ちよく楽しませてもらった。
今回はブラジルの代表的カクテル、「カイピリーニャ」をチョイス。
グラスに、皮ごと1、2センチ角にぶつ切りにしたライムと砂糖1〜2tspを入れてつぶす。
適量のクラッシュドアイスとカシャッサ45mlを注ぎ入れ、軽く混ぜ合わせて完成。
元々やや重い口当たりのカシャッサを、ライムの清涼さがスッキリと引き立てている。
国内のブラジル料理店でもお馴染みのカクテルだ。
それにしても、リオデジャネイロって、「ワイルド・スピード」でも悪漢に支配された犯罪都市として描かれてたけど、普通に撮影協力しているのね。
現地の人たちは、これら外国製リオ映画をどう思っているんだろうか。ちょっと聞いてみたい。

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昨年末にミニシアター系で公開されて以来、口コミで劇場に女性客が詰めかけ、予想外のクリーンヒットとなったヨーロッパ発のラブコメ映画。
カップルの観客は散在するも、9割くらいは若い女性客という、少々居心地の悪い劇場で観たが、いやーこれはおじさんでも気恥ずかしいなる位に胸キュンキュンですよ。
原作はヒラリー・スワンク主演の「P.S.アイラヴユー」でも知られるセシリア・アハーンの恋愛小説なのだけど、 どうも女性の好むラブストーリーというのは、世界的に普遍のパターンがあるらしい。
本作の場合・・・・
その1、主人公は幼なじみの男女。
その2、二人は美男美女である。
その3、子供の頃から、お互いの事を想っている。
その4、でも素直になれず、すれ違いを繰り返す。
その5、多くの苦難を乗り越え、最後には結ばれる。
話の流れをシンプルに表せばこんな感じだが、これは海外の小説のみならず、完全に少女漫画の王道パターンの一つでもある。
たぶん、同じパターンに当てはまる作品は、日本だけでも100を下らないのではないか。
大和撫子たちの、心の琴線に響きまくるのも分かる。
もっとも、ただ単に素材をテンプレ的プロットに突っ込んだだけで、良い映画は生まれない。
ジュリエット・トウィディの脚本は、リリー・コリンズが素晴らしい好演を見せるロージーの心の機微を、実に繊細に紡いでゆくのである。
イギリスの田舎町に暮らす彼女は、美しいけどダメダメなところも多くあり、その青春は結構エグい事件満載だ。
ずっと一緒に育ったアレックスの事を想いながらも煮え切らず、成り行きで好きでもない男に処女を奪われ(たぶん映画史上最速の5秒w)、しかもその一発が見事命中。
結果的に自分の夢よりも子を選んだ彼女は、アメリカに留学して順風満帆な彼とは離れ離れになってしまう。
観客は、この若きシングルマザーのコミカルで波乱万丈な青春にワクワクドキドキしながら感情移入し、なかなか報われない恋の切なさにホロリと泣くのである。
そして18歳での別離からも、お互いの事はずっと大切に想いながら、なおも運命の歯車は噛み合わず、何度もすれ違い続ける事、実に12年!
リチャード・リンクレイターの映画では、6才のボクが大人になっちゃった歳月である。
悪夢の初体験で生まれたロージーの娘も、まだ大人にはならないが、12才の思春期にまで成長し、彼女と幼なじみの男の子のカップルが、やがて嘗ての自分たちの鏡になるあたりも上手い。
無垢なる子ども時代から始まる物語は、高校時代から大人へ、シンプルだった人間関係も、次第に複雑に重層化してゆき、主人公たちの葛藤も深まってゆく。
もちろん、最後にはハッピーエンドが待っているのだけど、そこに至るまでにはただ恋のキラキラだけでは無く、人間ドラマとしての十分な説得力と、酸いも甘いも噛み分けるまでのキャラクターの成長がある。
ドイツ出身で、これが初の英語劇となるクリスティアン・ディッター監督は、そんな彼らの人生模様を丁寧な、それでいてテンポの良いストーリーテリングによって何ともチャーミングな小品に仕上げてみせた。
普遍性のある分かりやすい物語に、美しいくせに恋に不器用なキャラ、全編に仕込まれたオシャレなシャレード。
よく考えればあちこちに見られる都合主義も、この世界観ならまあアリ。
何よりも観終わってとても気持ちの良い映画で、人々から長く愛される作品になるだろう。
それにしても、「あと1センチの恋」とは誠に秀逸な邦題だ。
微妙な距離は単なる言葉のイメージではなく、ちゃんと劇中の核心的な描写に基づいて、作品テーマとも絡めて導き出されており、何よりも想像力を刺激する。
もしも原題の「Love, Rosie」の直訳だったなら、これほどの口コミの広がりは得られなかったのではないだろうか?
これも実に見事な、良き映画の仕事である。
本作の主演は、嘗てターセム版の白雪姫を演じたリリー・コリンズ。
今回はリアルな同世代の役ではあるものの、何気に御伽噺的要素も見え隠れする本作には「スノー・ホワイト」をチョイス。
アップル・ワイン30ml、ウオッカ15ml、グレナデン・シロップ1tspをシェイクし、クラッシュドアイスを入れたタンブラーに注ぐ。
スライスアップルを添えて供される、恋人同士の甘目のカクテルだ。

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行定勲監督の最新作は、幽玄の魔都・上海を舞台としたミステリアスなラブストーリー。
プールで出会った謎めいた美女ルオランと、心に傷を抱えた日本人時計職人のリョウ。
ルオランには、他人には全く見わけのつかない双子の妹ルーメイがいる。
やがて姉妹は事故に遭い、ルーメイは生き残り、ルオランは帰らぬ人となる。
しかし、やがて人々は感じはじめる。
何かがおかしい。あれは本当にルーメイなのだろうか?と。
掴んだ、と思ったらフワリとすり抜ける、行定演出の独特の肌触りが心地よい。
「円卓 こっこ、ひと夏のイマジン」からはガラリと変わった内容ながら、語りたい事、撮りたい物に対して、じっくりと向き合っているのが伝わってくる。
一体目の前にいるのは姉なのか、それとも妹か。
もしも事故で入れ替わったとしたら、それはなぜ?
前半一時間にわたって丁寧に張り巡らした伏線が、後半ことごとくミスリードとして機能する。
一卵性双子の混じり合う記憶。
ブランコから落ちたのは誰?ガラスを割ったのは誰?
そして、記憶を修復する時計職人のメタファー。
彼は嘗て恋人を亡くし、彼女の記憶を止めるために部屋の時計を全て五分遅らせている。
五分前の世界に生きる男は、時が取り持つ不思議な縁によってルオランと出会い、いつしか愛し合い、二度目の別離を迎える。
視覚は主体に影響を与える。
同じ見た目を持つ双子の片方が、もう片方を同一視し、アイデンティティの揺らぎを感じるのは、例えば萩尾望都の傑作短編漫画「半神」などにもみられるお馴染みのモチーフ。
本作で言えば、奔放な性格で芸能界に生きるルーメイに対して、ルオランは自分の人生がいつの間にか妹に奪われている様な感覚を覚えている。
自分は、本当は何者なのか?
ポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの詩が、実に効果的に観客のイマジネーションを刺激して秀逸な引用。
それぞれの登場人物が生きているのは今なのか、五分前の世界なのか。
急速に発展するSFチックな上海中心部の風景と、レトロな時計店に象徴される情景の美学のコントラストが、心理劇のムードをジワジワと盛り上げ、曖昧さが生み出す読解の楽しみに浸る。
テレビドラマみたいなかっちりした謎解きは、初めから用意されていない。
双子の片方の死によって生まれる、いったい生き残ったのはどちらなのか?というミステリ要素はあくまでフック。
これは半身を失った一人と、時に迷った一人が、自分が何者なのかを受け入れて、五分前でも五分後でもない、同じ時空に生き直すまでの物語だと思う。
時間と愛と記憶に纏わる、美しい寓話だった。
今回は舞台となる街、「シャンハイ」の名を冠したカクテルを。
ダークラム30ml、アニゼット10ml、レモンジュース20ml、クレナデンシロップ2tspをシェイクしてグラスに注ぐ。
美しいオレンジが目を楽しませ、アニゼットのエキゾチックな香草の風味が広がる。
ミステリアスな街の夜に相応しい、ミステリアスなカクテルだ。

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2014年に大ブレイクしたキッズアニメーション、「妖怪ウォッチ」初の劇場版。
元々は一昨年レベルファイブが発売した3DS用ゲームで、そこからメディアミックス的にコミックやアニメーションが展開し、軒並み大ヒット。
本作も公開初日・二日目には、東宝の興行記録となる16億円超えという驚異的な数字を叩き出し、劇場はファミリー層であふれかえった。
この盛り上がりは、やはりゲーム原作で1998年に日本のみならず、邦画として初の全米No.1を成し遂げた「ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」を彷彿とさせる。
まあかわいい妖怪キャラクターがいっぱい出てくるし、ゲームとしてのシステムもよく考えられていて、子どもたちが熱狂するのは分かる。
では、彼らに付き添って映画館に行かざるを得ない、親世代が観たらどうなのか。
・・・・ぶっちゃけ、スゲー楽しいのである。
本作の主人公、ケータは妖怪を見る事の出来る妖怪ウォッチを使い、ネコ地縛霊のジバニャンや妖怪執事のウィスパートらと友達になり、妖怪が絡む様々な事件を解決している。
ところがある日、寝ていたケータの腕から、ウォッチが忽然と消え、妖怪がらみの記憶すらすっかりと抜け落ちてしまうのだ。
街に現れた、巨大ネコ妖怪のデカニャンとの遭遇で記憶を取り戻したケータは、手がかりを探しておばあちゃんの住むケマモト村に向かい、デカニャン本来の姿である浮遊霊のフユニャンと共に、妖怪ウォッチの開発者である祖父のケイゾウに会うために60年前の世界にタイムトラベル。
そこには、怪魔の力で人も妖怪も陥れようとするウバウネの陰謀があり、ケータとケイゾウがどうやって阻止するのか・・・というお話。
同時にこれは妖怪ウォッチがなぜ、どのように誕生したのかを描くビギニングでもある。
面白いのは、本作が昭和の時代からのキッズ漫画やアニメあるあるを俯瞰する、メタ的構造を志向しながら、あくまでもお約束はガッチリと守るという、主観と客観の二重視点を持つ事。
子どもたちはウ〇コ、お〇らネタを含む、昔ながらのベタベタなギャグで笑い、大人たちは自分の中の童心を刺激されつつも、嘗ての自分が楽しんだキッズアニメを客観視して笑うのである。
実際、本作の妖怪キャラクターは、かわいい系のルックスで誤魔化されているものの、設定とかは結構キッツイ。
何しろ本作におけるピカチュウであり、ドラえもんであるジバニャンは、トラックに轢かれた死に際に、飼い主の女の子から「ダサっ」と言い放たれた事から死にきれず、地縛霊となってトラックに挑み続けているというかなりブラックな出自だし、フユニャンが正気を失って生霊(?)化したデカニャンなんて、ラリった様な半目開きにマジックマッシュルームよろしく頭にキノコが生えている。
キッズアニメでドラッグのメタファーを見るとは思わなかったよ(笑
そして現在を守るために過去へ行く、という「バック・トゥ・ザ・フューチャー」的構成は、メタ構造をより明確化する。
時間ものとしたことで、本作には昭和のケイゾウと平成のケータという二人のメインキャラクターがいるのだが、物語のテーマに直結する大きな葛藤を抱えているのはケイゾウである。
少年はなぜヒーローに憧れるのかという、キッズアニメの根源に物語のコアを求め、昭和の熱血と平成の冷静を対比させ、パロディ満載の悪ノリギリギリでまとめ上げるとは、なかなかに侮れない。
もっともヴィランであるウバウネの過去を描きながら、ケイゾウの葛藤とリンクさせていなかったり、その辺もうちょっと突っ込めば「ベイマックス」や「ヒックとドラゴン」的領域まで行けるのになあと思わなくもないが、作品の成り立ちも目指しているところも全然違うのだから、これはこれでアリだと思う。
この冬は、子どもの付き添いのつもりで観に行ったら、予想外に自分がゲラゲラポーしてしまった、そんな大きなお友だちが増えそうだ。
因みに唐突に登場し、意外な大活躍をする某キャラクターは、やはりレベルファイブだから九州繋がりなのか。
奴が妖怪設定だったとは知らなかったけど(笑
今回は飲むというよりは新年の祝い用という事で、1867年創業の熊本の瑞鷹の「くまもん 樽酒」をチョイス。
中部九州はどちらかというと焼酎文化圏だが、日本酒の蔵元もある。
こちらの瑞鷹は日本酒だけでなく、焼酎や醸造したもろみに木灰を加え、酒の保存性を高めるた灰持製法による赤酒なども手がける総合地酒メーカーだ。
品良く甘い赤酒は、ソーダなどで割ってカクテルベースにしても面白いが、特に調理用の甘味の強いものは、肉・魚料理などに使うと、みりんとはまたちがったまろやかな仕上がりになる。
九州の名物料理でもある豚バラなどに使うと、とても美味しいので、料理好きの方は是非お試しを。

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