酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ショートレビュー「MUNE(原題)・・・・・評価額1700円」
2015年03月29日 (日) | 編集 |
太陽と月を探して。

今年が二回目となる東京アニメアワードフェスティバルの長編コンペ部門に出品され、優秀賞を受賞した素晴らしいフランスのファンタジーアニメーション。
本国ではこの春公開予定の大作だが、洋アニの墓場、日本での正式公開は例によって現時点で未定の模様。
しかし、これほどの作品が公開されないのはあまりに勿体無いので、大スクリーンでの再会の期待を込めて、ご紹介したい。

舞台は惑星の周りを太陽と月が周回する、天動説の不思議な世界。
様々な種族が平和に繁栄するこの世界では、太陽と月は壮大なスケールを持つ二頭の巨大な神獣に繋ぎとめられ、彼らがゆっくりと大地を歩いてゆくことで昼と夜が巡っている。
太陽と月には異常が無いように見張る守護者がいて、彼らは神獣と共に暮らし、年老いると代替わりするのだが、後継者は実際に交代するよりもだいぶ以前に内定し、それぞれが守護者となるのに必要なスキルを身につけるべく訓練をつんでゆく。
ところが今回の交代では、太陽の守護者は予定通り強靭な肉体を誇るソーホンに決定するも、月の守護者に全く予想外のひ弱なミューンが選ばれてしまう。
そしてこの継承の混乱に乗じ、惑星の支配を狙う何者かによって太陽が盗まれ、暗闇に閉ざされた世界では月までもが輝きを失って死んでゆく。
責任を感じたミューンとソーホンは、ひょんな事から行動を共にする事になった蝋の体を持つ少女・グリムと共に、太陽を取り戻し月を再生する大冒険に出るのである。

タイトルロールのミューンの造形は牧神のイメージなのだそうだが、デザイン的にはどことなく「ダーク・クリスタル」のゲルフリン族を思わせ、妖精的な雰囲気だ。
彼は実は特別な力を秘めているが、自分を気弱で凡庸な存在と思い込んでいるために、その力を発揮できないでいる。
一方、マッチョで岩石の様な体を持つソーホンは、自信家でプレイボーイと分りやすい好対照。
盗まれた太陽の奪還という目的は同じでも、それぞれが抱いている葛藤が別種なので、キャラクターとしての成長ポイントも異なり、物語が単調に陥るのを防いでいる。
そして二人のチョイダメ男たちの間に入り、むしろストーリーの展開を主導するのは快活で聡明な少女・グリム。
このハーマイオニー的なキャラクターは、デザインもかわいくて魅力的なヒロインなのだが、秀逸なのがその全身が蝋で出来ていて、特定の温度以下では凍りつき、以上では溶けて死んでしまうという設定。
この昼と夜の狭間にだけ生きられる、ある意味で非常に儚い生命の存在が、ミューンとソーホンの“男の子”としての成長を後押しし、冒険を大いに盛り上げるのだ。

「カンフー・パンダ」や「アズールとアスマール」などのアニメーターとして知られるアレクサンドル・ヘボヤン監督と、本作の脚本家でもある共同監督のブノワ・フィリッポンは、「ダーク・クリスタル」から「スター・ウォーズ」そして「太陽の王子ホルスの大冒険」や「ハウルの動く城」といった日本のアニメーションまで、様々な作品から映画的な記憶を抽出しながら、非常に洗練された新たな世界観を再構築している。
おそらく本作を観る観客は、キャラクターのデザインや設定などのディテールに幾つもの既視感を抱くはずだが、それらが組み合わさった作品全体ではむしろ強い未見性を感じるだろう。
異世界を舞台としたハイファンタジーは、観客に「この世界に行ってみたい」と思わせたらもう半分成功したようなものだが、本作はその点において満点に近く、ユニークで美しい世界観を楽しむだけでも十分に観る価値がある。
基本豊かな立体感を持つ3DCGで作られている映像が、ミューンが夢の世界に入ると、そこだけ味わいある手描きアニメーションになるのも面白い表現だ。

「Mune, le gardien de la lune(ミューン、月の守護者)」は、ある世界の神話的ターニングポイントを物語る壮麗なエピックファンタジーであり、まだ可能性を開花させていない若者たちの成長を描いた寓話的冒険物語でもあり、なにより老若男女だれもが楽しめる素晴らしい娯楽映画だ。
全世界で大ヒットした傑作「ヒックとドラゴン2」が、日本ではDVDスルーなのが話題になっているが、世界には他にも優れたアニメーションが沢山ある。
残念ながら大半の日本人は、“アニメ”は知っていても“アニメーション”は知らない。
こんなところまでガラパゴス化して欲しくは無いのだけれど、本作とは是非とも劇場で再会したいものである。

今回は月の守人の物語なので「ブルー・ムーン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、クレーム・ド・バイオレット15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
幻想的な紫が美しく、ビターなジンにレモンの酸味の組み合わせがクールさを演出する。
本来ブルー・ムーンとは、暦の関係で3ヶ月間に4度の満月がある場合、その3番目の満月の事。
めったに無い事なので、歴史的には凶兆とされてきたが、現代ではむしろ吉兆で見ると幸せになれるのだそうな。
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ショートレビュー「博士と彼女のセオリー・・・・・評価額1650円」
2015年03月24日 (火) | 編集 |
壮大なる愛の時間史。

おそらく世界一有名な理論物理学者、スティーヴン・ホーキング博士と彼の最初の妻ジェーンを主人公とした、実話ベースのラブストーリー。
1963年、彼がまだ難病ALSを発症する前、学生時代の二人の出会いから山あり谷あり、およそ四半世紀の家族の形成と崩壊を経て、二人にとっての“万物の理論(theory of everything)”を見出すまでの物語。
私も読んだ事のあるホーキング博士のベストセラー、「ホーキング、宇宙を語る」の原題は「A BRIEF HISTORY OF TIME(時間小史)」だが、なるほどこれは「ホーキング家の時間小史」とでも言えるだろうか。

主人公がホーキング博士だという特殊性以外、内容的には普遍性のある大人のラブストーリーだが、逆に言えばこの点こそが本作のユニークさ。
博士の研究フィールドである、時間と空間の始まりと終わりのイメージが、二人の愛の宇宙とシンクロし、彼らの人生に投影される。
所々描写される螺旋と円環、逆回転のモチーフ。
健康で幸せな学生時代から始まり、ALSの発症と余命宣告、周囲の反対を押し切っての結婚と家族の形成、そして世界的な名声の獲得によって、一見完成された様に見える彼らの宇宙は、実は徐々に崩壊に向かっている。

面白いのは、本作は前半と後半で実質的な主人公が入れ替わる事だ。
学生時代から「ホーキング、宇宙を語る」を出版し、科学界のロックスターに躍り出るまでは、基本的にホーキング博士の視点だが、後半部分は急速にジェーンの視点が強くなってくる。
これはALSによって、博士が徐々に言葉と表情を失ってゆく事もあるのだけど、彼がある意味現状を受け入れているのに対して、ジェーンは逆に現状への葛藤が高まってゆくのである。
家事と子育てと介護に追われ、自分の研究を進める時間もなく、夫の名声が高まっても、経済的にはさほど恵まれない。
おまけに介護の必要水準は、時間が経てば経つほど高まってくる。
脚本のアンソニー・マッカーテンが、本作の執筆を始めたきっかけは、ジェーンの回想録だったという事も、この構成に反映されているのかも知れない。

宇宙の時間と同様に、家族の時間にも始まりと終わりがある。
おそらくだけど、ジェーンにとって、それは本来2年間のはずだったのだ。
余命宣告を受けていたホーキング博士は、なぜか途中でALSの進行が止まり、72歳になった今も健在。
太く短い結婚生活を覚悟していたジェーンは、いつしかイメージしていた未来と、現実の“今”の差異に心を疲労させていったのだろう。
長年連れ添った二人が自らの宇宙の崩壊と、その結果生み出された結果を受け入れ、一気に家族の時間がビッグバンの瞬間にまで巻き戻るシークエンスが圧巻。
ホーキング博士は、時間を遡るタイムトラベルは不可能という立場なのが皮肉だ。

それにしても、奇しくも日本では同時公開となった「イミテーション・ゲーム」と観比べると、相乗効果で二倍面白い。
一世代違うとはいえ同じ国の天才科学者なのに、見事なまでに対照的な二人の人生。
方や難病を抱えるも、常に愛と栄光に包まれ、方や初恋の幻影を追い続け、偉大な功績を誰にも知られない。
今年のオスカーを獲得した、エディ・レッドメインのホーキング博士は確かに素晴らしかったけど、私的には本作を観た結果、「イミテーション・ゲーム」のチューリング博士の孤独がより印象深くなった。
そう言えばベネディクト・カンバーバッチも、10年前にホーキング博士を演じてるのだけど、彼は科学者顔なのだろうか。

今回は時間にまつわる物語でもあるので、6代170年の歴史を持つ現存するイギリスで最も古いロビソン醸造所の「オールド・トム」をチョイス。
現在も創業家によって守られる味は、ビターなチョコレートやスパイスを思わせる複雑なもの。
アルコール度も8.5%となかなかに高い、濃密なダークストロングエールだ。
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イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密・・・・・評価額1750円
2015年03月19日 (木) | 編集 |
彼が本当に作りたかったモノとは。

第二次世界大戦下、解読する事は不可能と考えられていたドイツ軍の暗号マシン、エニグマの謎に挑んだ英国の天才数学者、アラン・チューリングを描く歴史ドラマ。
何百万もの兵士たちが、血と硝煙に塗れて戦いに明け暮れていた頃、実は世界の運命は人類を超える能力を持った、たった一人の男によって握られていた。
今日では、コンピューターの誕生に、重要な足跡を残した男として知られるチューリングは、一体秘密の実験施設で何を作り上げたのか。
戦後も半世紀に渡って国家機密として封印された、孤独な天才の数奇な人生の真実は、極めてスリリングで、あまりにも哀しい物語だ。
脚本家としてのデビュー作となった本作で、いきなりオスカーを獲得したグレアム・ムーアーの脚色がまことに秀逸。
監督はノルウェー出身で、これが英語圏進出第一作となるモルテン・ティルドゥムが務める。
※核心に触れています。

1951年、マンチェスター。
数学者のアラン・チューリング教授(ベネディクト・カンバーバッチ)の家が何者かに荒らされ、警察が捜査に当たるが、チューリングは何も盗まれていないと言う。
非協力的な態度と謎めいた経歴から、担当のノック刑事(ロリー・キニア)からソ連のスパイではないかと疑がわれたチューリングは、取調べを受ける事になる。
ノック刑事と対峙したチューリングは、戦争中にブレッチリー・パークで働いていた頃の事を語りだす。
1939年9月、イギリスがドイツに宣戦布告すると、新進気鋭の数学者だったチューリングは、ドイツの暗号マシン、エニグマの解読チームに配属される。
ドイツ軍の全ての指令はエニグマによって暗号化され、連合軍はいまだその解読に成功していなかった。
他のメンバーが旧来の解読手法を試みる中、彼はマシンに対抗できるのはマシンだけだと主張し、膨大な計算能力を持つ巨大な暗号解読機の開発に着手するのだが・・・


人類の歴史は暗号の歴史と言っても過言ではなかろう。
人間が一定の数集まれば、そこに秘密が生まれ、秘密を隠しつつ確実に伝えるために暗号が発明された。
既に古代エジプト文明では、特殊なヒエログリフを使った暗号文が使われていたというし、ギリシャ文明になると革紐に文字の断片を書き、それを特定の太さの棒に巻きつけると文章が浮かび上がるスキュタレーが考案される。
その後も暗号は、時に軍事や政治の秘密を守るために、時にはゲームの一種として発展し、現在研究されている量子暗号に至るまで、数千年に渡って暗号の考案者と解読者のいたちごっこが続いているのである。
もちろん、全世界がネットワークで繋がる21世紀では、国家から個人レベルまで、暗号化による情報保護が、社会を維持するのに不可欠な要素となっているのは、言うまでもない事だろう。

そして暗号史の中でも、ひときわ有名なのがドイツ軍が運用した暗号マシン、エニグマだ。
ヨーロッパの戦いを描く戦争映画では、しばしば重要なキーアイテムとなり、2001年にはそのものズバリ「エニグマ」という作品も作られている。
もっとも、エニグマ自体は第二次大戦時に突然出てきた物ではない。
原型機は第一次世界大戦が終わった1918年に発明され、ナチス以前の1925年には早くもドイツ軍に正式採用された。
エニグマ対策も早くから試みられており、初期型に関しては隣国のポーランド当局が解読に成功している。
本作でも、チューリングらが手にするエニグマはポーランドから送られた物とされていて、実際ポーランドの蓄積した情報が無ければ、エニグマを解読するには更に数年かかったと言われているのだから、現実は映画の様に全てがイギリス人による功績ではないのだ。
だが、ドイツ軍はその後も改良を加え、第二次世界大戦が始まる頃には10人が24時間働き続けても、設定パターンの組合せを調べ終わるのに2000万年かかるという怪物マシンになっているのである。

そしてこの怪物を倒す為に雇われたのが、怪物並みの頭脳を持つ男、アラン・チューリングという訳だ。
ドイツ軍は毎日午前0時にエニグマの設定をリセットするので、解読に使える時間は翌日の暗号文が傍受され始める午前6時から0時までの毎日約18時間。
彼は最初から人力に頼った解読は不可能と考えていて、マシンを破るためのマシン、エニグマの設定パターンを全て調べ上げる事の出来る、超パワフルな自動暗号解読機を作ろうとする。
本作を観る前は、このマシンを作り上げるまでの、「プロジェクトX」的なサクセスストーリーなのかと思っていたが、そうではない。
いやもちろん、映画の大筋はチューリング率いる解読チームとエニグマの静かなる戦いであり、その時点で存在していない物の力なり魅力なりを、他人に理解してもらう事がいかに難しいかという、物作りの葛藤も描かれている。
しかし、物語が進むにつれて、チューリングがなぜエニグマに挑んだのか、彼が本当に作りたかったモノは何なのかが、徐々に浮き彫りになってくるのだ。

映画は、1951年のマンチェスターを起点に、戦時中のブレッチェリー・パークでの苦闘の日々、そしてチューリングが寄宿学校の生徒だった十代の頃、三つの時系列を行き来しながら並行に語って行く。
物語の面白さを生み出しているのは戦時中のパートだが、テーマの核心が隠されているのは十代の頃の記憶と50年代の“今”である。
アラン・チューリングという人物は、とにかく空気が読めない人として描写されており、言ってる事はいちいち合理的で正しいのだけど、その言葉が他人を傷つけたり、不要な軋轢を作り出すということがどうにも理解出来ない様なのだ。
彼の思考や行動を見ていると、どこか「ソーシャル・ネットワーク」のマーク・ザッカーバーグを思い出すが、二人ともアスペルガー症候群の気があるのかも知れない。
そしてもう一つ、チューリングが隠し持つ秘密は、彼が同性愛者だという事である。
今でこそ性的マイノリティーに寛大なイギリスだが、当時は重大なタブーであり、世間にバレれば社会的な地位も名誉も失うだけでなく、犯罪者として処罰されてしまう。
他人の気持ちを十分に感じられず、なおかつ同性しか愛せないチューリングが、周囲から孤立した存在になるのは時代を考えれば必然とも言える。

一般には、“Bombe”として知られている暗号解読機に、チューリングは“クリストファー”という名前をつけて擬人化している。
クリストファーとは、その生来の気質から、寄宿舎でイジメの対象になっていた思春期のチューリングの、唯一の親友にして初恋の人の名前。
だが、この恋が成就する事は無かった。
不治の病を患っていたクリストファーは、チューリングの愛の告白を聞く前にこの世を去ってしまうのだ。
以来、初恋に破れたチューリングは、本当の意味では誰の事も愛せず、誰からも愛されないまま人生を歩んできたのである。
そう、おそらくが彼が無意識のまま欲していた最終目標は、完全なる機械の友だちを作り、自らの手でクリストファーを蘇らせる事だったのだろう。

エニグマの秘密を解き明かしたBombeは、今日の我々が“人工知能”と呼ぶ機械を作り上げる通過点。
しかしながら、単一機能とはいえ人類の能力をはるかに上回るマシンの出現は、いわばオーパーツである。
ドイツ軍の暗号を全て読み解いたマシンが見せるのは、自分たち以外の誰も知り得ない未来だという事に気付いたチューリングと仲間たちは、あまりにも重過ぎる十字架を背負わされる。
誰を見殺しにするのか、誰を生かすのか、どこに偽情報を流すのか。
軍人でも諜報のプロでもない彼らは、ドイツ軍にエニグマが解読された事を気付かせないまま、数学的確率によってヨーロッパの戦場を神の様にコントロールする、悪魔の計算を終戦まで続けるしかないのである。
しかもその研究は国家機密として封印され、ある意味世界の運命を決める重責を背負いながら、その偉大な功績を世間の誰も知らないという不条理。

本作のタイトル「イミテーション・ゲーム」とは、1950年にチューリングが考案した、機械に思考があるかどうかを判定するテストの事。
人間と機械が、それぞれに隔離された状態でディスプレイ上の文章などで会話を交わし、人間が相手を機械だと分からなければ、その機械には知性があるという事になる。
歴史上数々のコンピューターが挑んできたこのテストで、史上初めての合格例が出たのは、チューリングが孤独と絶望のうちに自らの命を絶ってから61年後の2014年の事である。
これは、戦争がもたらした残酷な運命と、性的なマイノリティーへの理不尽な弾圧によって人生を狂わされながらも、初恋の幻影を追い続けた男の、あまりにも哀しく切ないラブストーリーだ。
もしも生まれる時代が数十年後だったら、チューリングは幸せになれたのかも知れないし、あの時代に彼がいなかったとしたら、今日の世界はまるで違っていたかも知れない。
確実なのは、我々は今チューリングの影響下にある社会に暮らしていて、それほど遠くない未来に、彼が夢見た“クリストファー”は姿を現わすだろうという事である。

今回は、英国人も大好きなアイルランドの代表的黒スタウト、「ギネス・エクストラ・スタウト」をチョイス。
250年以上に渡って、世界の飲んべえを魅了してきたクリーミーな泡が特徴だが、この泡を缶ビールで実現するため、缶の中に入っているフローティング・ウィジェットという小さなプラスチックのボールは、英国人が考える20世紀の最も重要な発明品の一つなのだそうな。
エニグマを倒す巨大暗号解読機から、ビールを美味しく飲むためのアイディア商品まで、人間の創造力というのは本当に無尽蔵だ。
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ショートレビュー「花とアリス殺人事件・・・・・評価額1600円」
2015年03月12日 (木) | 編集 |
花とアリスの少女探偵団。

岩井俊二監督が2004年に発表した実写映画、「花とアリス」のアニメ版前日譚。
なるほど、これは面白い試みだ。
元々この作品はキットカットの日本発売30周年を記念して、2003年にウェブ配信された短編版がオリジン。
その翌年長編版が劇場公開された訳だが、当時10代で主人公の花とアリスを演じた鈴木杏と蒼井優も今や二十代後半の大人の女性。
共に童顔で実年齢より若くは見えるものの、さすがに実写版より若返って中学生役をやるには無理がある。
しかし、アニメなら俳優が歳を重ねても自由に時を遡れるのだ。


実写映画で絵コンテを描く演出家が極めて少なく、即興性が重んじられる日本映画において、珍しく画的にキッチリと決め込まれ、デザイン性の強い岩井俊二の作風は、アニメ表現との親和性が高い。
本作も、二次元になっても、まごう事なき岩井映画。
「花とアリス」の世界観はしっかりと継承されており、むしろ「あれ?これって最初からアニメだっけ?」って錯覚する位に違和感が無い。
キャラクターは実際の俳優に似せてデザインされ、セリフも通常のアフレコでは無く、先に声を録ってから、音に合わせて画を作り込んでゆくプレスコ。
これだと画に縛られずに、自由な演技が出来る。
アニメーションは、フレームレートの低いリミテッド感の強いスタイルだが、これはおそらく劇中のあちこちで使われているスローモーション表現を、きちんとスローモーションと認識させるためでもあるのだろう。


本作で描かれるのは花とアリス、初めての出会い。
石ノ森学園中学校に転向してきたアリスは、1年前に3年1組の教室で「ユダが、4人のユダに殺された」という奇妙な噂を聞かされ、事の真相を知っているのが、“花屋敷”と呼ばれる隣家に引きこもっている花だと知る。
学校の怪談に導かれる様にして出会った二人は、殺人事件ならぬ花が引きこもる切っ掛けとなった、切ない思い出の真相を追い、小さな冒険の旅に出る。

果たして“ユダ”は生きているのか、死んでいるのか。
そう、これはある意味現代日本を舞台とした「スタンド・バイ・ミー」であり「MUD-マッド-」的な作品。
対照的な二人のユーモラスな掛け合いもテンポよく、適度な緩さをもって展開するプチミステリは、少女たちのささやかな成長物語として昇華される。

「花とアリス」以降の10年、ドキュメンタリーや短編はあるものの、長編劇映画は僅か2本と、岩井俊二はすっかり寡作な人になってしまった。

前作の「ヴァンパイア」は正直ピンと来なかったが、本作はファンが観たかった岩井俊二だと思う。

もちろん、ドキュメンタリーやチャレンジングな企画も良いけど、こういうのもたまに観せてくれると嬉しい。
前日譚ゆえに、実写版を観ていなくても特に問題無し。
今度はまた実写に戻って、大人になった花とアリスの物語も観てみたい。

ちなみに、この映画でも黒木華が花とアリスの担任役なんだけど、最近の一月だけで「ソロモンの偽証」「幕が上がる」と、彼女が主人公の先生役を演じてる映画を3本も観た。

凄いのは、そのどれもが全く違ったキャラクターになっている事。

正にカメレオンで、彼女の演技の振り幅の広さは、観ていて痛快に感じるほどだ。

冬の一夜の冒険は寒そうだったので、今回は暖かいホットカクテル「ホット・カルーアミルク」をチョイス。
カルーア30mlを入れたマグカップに、暖めたミルク適量を注ぎ、お好みでホイップクリームやシナモンパウダーなどを加えて完成。
コーヒー牛乳っぽい甘いカクテルで、飲むと体がホカホカしてくる。
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幕が上がる・・・・・評価額1750円
2015年03月07日 (土) | 編集 |
行こう、どこでもないどこかへ!

驚きの大傑作である。
劇作家の平田オリザが、高校演劇をモチーフに書き下ろした同名小説の映画化。
富士山が見える田舎町にある高校の、弱小演劇部の少女たちが、嘗て「学生演劇の女王」と呼ばれた新任教師との出会いによって覚醒し、全国大会を目指す物語。
青春の光と影を纏った一年間の葛藤は、演出家の迷い、役者としての嫉妬、そして人生の分岐点の重大な選択。
ここにあるのは、モノづくりとは何か、なぜ自分は物語るのかという、創作者の誰もがぶち当たる原初の問いであり、全ての創作の現場の縮図だ。
主人公の演劇部部長、高橋さおり以下部員たちを、ももいろクローバーZのメンバーが好演。
彼女たちの青春の熱情を、がっぷり四つに受け止める新任教師に黒木華。
高校演劇という知られざる静かに熱い戦いを、「桐島、部活やめるってよ」の喜安浩平が脚色し、監督は「踊る大捜査線」シリーズの本広克行が務める。

県立富士ケ丘高校の演劇部は、今年も県大会へと駒を進めることが出来ず、地区大会で敗退。
大会を最後に引退する三年に代わって、新たに部長に任命された高橋さおり(百田夏菜子)は、お姫様キャラのゆっこ(玉井詩織)、エネルギッシュながるる(高城れに)、下級生の明美ちゃん(佐々木彩夏)ら個性豊かな部員たちを前に、早くも壁にぶち当たる。
顧問の溝口先生(ムロツヨシ)は演劇の知識も経験もゼロで、部内には台本を書ける者すら誰もいないのだ。
突破口が見つからないまま三年へと進級したさおりは、ある日新任の美術教師、吉岡美佐子(黒木華)と出会う。
彼女が嘗て“学生演劇の女王”と呼ばれ、東京の演劇界で一目置かれた存在である事を知ったかおりは、強引に頼み込んで稽古を見てもらうことになり、的確な指導を受けた部員たちは急成長。
県下の高校演劇の強豪校からの転校生、中西さん(有安杏果)も加わり、吉岡先生がさおりに提示した目標は全国大会出場。
台本と演出を手がける事になったさおりは、何を題材にするのか、何を描くのか悩むのだが・・・


私の仕事は映像制作の裏方なのだけど、演技の勉強がしたくて大学時代に一年ほどメソッド演技のワークショップに通い、ささやかながら公演を打ったこともある。
だから演劇の裏側というものは多少は分っていたつもりでも、本作のモチーフである高校演劇は全く未知の世界なので、かなり新鮮だった。
高校演劇部の一年間は、ざっくり言うとこんな感じ。
四月に新年度がスタートすると、部員のスキルアップを図りながら、秋の地区大会へ向けた新作の準備に入る。
一発勝負の地区大会に勝ち抜けすると(本作の場合は出場7校のうち3校)次は県大会で、そこで勝つと今度はブロック大会、最後に全国大会へと駒を進める事が出来るのだ。
“演劇部”という言葉から連想する、まったりとした文化部というよりも、大会で勝つ事を目標とした完全なスポーツ、採点競技みたいなものなのである。
面白いのは、野球やサッカーと違って、年度内に行われるのはブロック大会までで、全国大会は翌年の夏だという事。
つまりどんなにがんばってブロック大会を突破しても、三年生は留年でもしない限り、全国大会に出る事は出来ないのだ。
なんでこんな不思議な仕組みになっているのかは謎だが、この“最後までたどり着けない”という事が、後述する物語のテーマとも符合するのである。

本作では、映画を観てから原作小説を読み、もう一度映画を観直した。
基本的に映画と原作は別物と考えているので、普段は気にしないけど、本作は原作と映画の連続性というか、何となく距離が近い気がして、レビューを書く前に読んでおきたくなったのだ。
実際、映画は原作小説に極めて忠実、しかし喜安浩平の脚本は実に巧みに要素を取捨選択しており、特に主人公のさおりと吉岡先生の掘り下げに関しては、小説よりも上手くいっているのではないか。
むろん方法論は他にもあるだろうが、脚色は上映尺とももクロ主演という条件を考えると、ほぼ完璧と言っても良いと思う。
田舎の弱小演劇部と東京帰りの洗練された指導者の出会いと葛藤、挫折と成功へのプロセスという基本構造は、例えば「フラガール」などにも通じる娯楽映画の王道。
煮えたぎる青春の熱血を、静かな混沌の中に描いた「桐島、部活やめるってよ」とは対照的に、本作では創作を巡るクールな熱情が、正攻法の物語の中で激しく渦巻いているのである。

ももクロのパフォーマンスは好きだけど、モノノフとまでは言えない私は、なんとか五人の顔と名前の区別がつくくらい。
正直、映画を観る前は、彼女たちの演技に対して特に期待するものは無かった、が・・・すいません、懺悔します。
五人とも素晴らしかった。
物語が進むにつれて、登場人物とほぼ同世代の彼女たちの、良い映画を作りたい、良い演技をしたいという現実の夢が、劇中の良い舞台を作りたい、全国に行きたいという虚構の夢に完全にシンクロし、スクリーンの上で驚くべき化学反応が生まれているのである。
ももクロが演じた五人は、全員原作にも出てくるし、キャラクター設定も基本的には同じ、しかし台詞などは丁寧にあて書きされ、それぞれの演者の特徴を反映したものになっていて、彼女らもまたしっかりと役を自分のものにしている。
特に実質的主人公にして物語の語り部、高橋さおりを演じる百田夏菜子は、このまま女優に転向しても十分にやっていけるだろう。

そして、ももクロたちの迸る熱気をガッチリ受け止め、圧倒的な存在感で魅せる若き大女優、黒木華の華!
この物語は、弱小演劇部が高度なスキルを持った指導者と出会い、覚醒する物語であるのと同時に、挫折を味わった大人が、若者たちの純粋な想いに触れて、諦めていた夢に再び挑む話という双方向性を持つ。
似た構造を持つ映画は多いが、本作の場合は黒木華演じる吉岡先生の比重が大きいのが特徴で、クライマックスを演劇部の舞台の開幕準備と、吉岡先生の舞台のリハーサルのクロスカッティングとした事からも分るように、ある意味で物語の影の主役は吉岡先生と言えるかもしれない。
ちなみに、ここ一ヶ月だけで黒木華が主人公の先生役で出ている映画を、本作を含め3本も観た。
凄いのはそのどれもが全く違ったキャラになっている事で、彼女の演技の振り幅の広さは観ていて小気味良く感じるほどだ。

脚色は文句なし、役者たちの演技と、それ引き出した演出も素晴らしいのだが、本作の唯一残念な点は、映像演出に明らかなアンバランスさが目立つ事だ。
さおりの夢のシークエンスや、エンディングから想像するに、おそらく本広克行監督は大林宣彦監督の一連の青春映画にオマージュを捧げようとしているのだと思う。
だが、元祖映像の魔術師をもってしても、しばしば制御を失って暴走する大林映画のスタイルをベンチマークするのはちょっと無謀だった。
どうにも小手先感が目立つというか、相変わらずのうどん偏愛はまあ置いとくとしても、本作には映像的に神がかりに素晴らしい部分と、画が狙い過ぎでくどくなってしまってる部分が混在している。
まあ、くどさこそが本広克行という演出家のスタイルと言えるのかもしれないが、「映像演出、もう少し落ち着け」と思った瞬間が、映画のあちこちにあったのは事実。
「UDON」の時も書いたが、この人はもっと肩の力を抜いて、観客を信頼して映画を撮った方が良いと思う。
王道の物語と素晴らしい役者が揃い、その力を演出が十分引き出せているのだから、もうこの映画は素のままでも十分美味しい。
だからこそ、相変わらず余計なスパイスをかけちゃったのは勿体無かった。

もっとも、それを差し引いても「幕が上がる」が本広克行のベストにして、日本青春映画史に名をとどめるであろう傑作である事は間違いない。
溢れ出る演劇愛に心を熱くされ、「風立ちぬ」にも通じる、創作の夢と狂気の入り口に立った少女たちの姿の瑞々しいこと。
映画には、秋月成美が演じる杉田先輩という、原作には登場しないキャラクターが出てくる。
彼女はさおりたちより一年先輩で、冒頭の地区大会で敗退した後、演劇の道を諦められずに東京に出て、小劇団に所属する駆け出しの役者だ。
夏休みの東京合宿中に、彼女の舞台をさおりたちが観に行くシーンがあり、その事がまた吉岡先生の決断にも繋がってゆく。
つまりこの映画には、本格的に演劇の道へと足を踏み入れようとしているももクロたち、既にその世界に入り、これから大きな葛藤にぶつかるであろう、あるいはぶつかっている杉田先輩、そして一度夢破れ、いま再びのチャレンジを決意した吉岡先生という、演劇人の人生の三つの段階が描かれているのだ。
演劇とアイドルの違いはあれど、若くしてトップにまで駆け上がったももクロたちは、もしかしたらもうこの段階までは経験済みなのかもしれないが、無限に広がり続ける創作の宇宙では、彼女らの幾多の葛藤もただ一つの点に過ぎず、誰もが決してその果てにたどり着く事は出来ない。
この映画には、辛く厳しく、しかし麻薬のように人を虜にして離さないモノづくりの魔力が宿っている。
一度知ってしまったら最後、もう辞められない。
どこでもないどこかまで、走り続ける人生の、正にその第一歩。
モノづくりに魅せられ、創作の宇宙で見果てぬ夢を追う全ての人たちは、舞台で躍動するももクロたちの姿に、嘗ての自分を見るだろう。

本作と原作小説はまた、少女たちが演劇に目覚めてゆくプロセスを通して、芸術教育に対しても様々な示唆に富むと思う。
演劇に限らず、あらゆる創作に関する教育に携わる人は是非とも観るべきだ。
それまで演劇を辞めようとさえ思っていたさおりの中で、「空気が変わった。ヤバイ、楽しい!」というスイッチはなぜ入ったのか。
私はルックス的には完全にムロツヨシ系なんだけど、やっぱ教育者の端くれとしては吉岡先生でありたいと思う。
ま、このタイプはしばしば暴走しがちではあるのだけど(笑

今回は映画の舞台となる静岡の三和酒造の「臥龍梅」をチョイス。
原作では群馬のとある高校なのだけど、映画で静岡になったのは、やはり県を上げて演劇振興をやっているから?
臥龍とは、劉備が司馬徽を尋ねて軍師に相応しい人物はいないか聞いた時、司馬徽が諸葛孔明を眠れる龍に例えて推薦した言葉。
それが後年、日本で人質時代の徳川家康を指す言葉になり、転じて今はまだ知られていないが、いつか天下を取る酒という意味で名づけられたと言う。
生産量が少なく、まだそれほど知名度が高くない酒だが、ふくよかで透明感があり、とても飲みやすい。
臥龍梅のごとく、ももクロたちもいつか女優として天下をとる時が来るかもしれない。
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ショートレビュー「プリデスティネーション・・・・・評価額1650円」
2015年03月03日 (火) | 編集 |
ウロボロスの宿命。

巨匠ロバート・A・ハインラインの傑作短編小説、「輪廻の蛇」の初の映像化。
異色のヴァンパイア映画「デイブレイカー」で注目された、ドイツ出身オーストラリア育ちの双子の監督スピエリッグ兄弟と、主演のイーサン・ホークが再タッグを組み、なかなかに味わい深いSF映画の佳作となった。
原作は邦訳文庫でわずか29ページ、30分もあれば読み終わってしまう短さだが、タイムパラドックスものの究極型といわれるのも納得の濃厚さ。
1970年代のニューヨークに始まる物語は、数奇な運命を辿ったある男の告白から、60年代、40年代、更には90年代まで時空を駆け巡る。
脚本も兼務するスピエリッグ兄弟は、ハインラインのプロットを極めて忠実に、しかし原作の小さなディテール部分から新たなアイデアとキャラクターを生み出し、既読者をも唸らせる。
もちろん未読者は、そのままハインラインの仕掛けた驚愕のロジックに挑戦する事になるのだが。
※以下は観てから読むことをおススメします。

映画の展開は、ほぼ原作通り。
前半は、ある使命を帯び未来から1970年代にやってきたバーテンダーが、“私生児の母”のペンネームでスキャンダラスな雑誌コラムを書いているライターのジョンから、彼自身の出生とこれまでの半生に関する信じがたい物語を聞き出す。
ある出来事が切っ掛けで、人生をめちゃくちゃにされたジョンは、自分を裏切った人間に対する憎しみと復讐心に囚われている。
やがてバーテンダーは、自らタイムトラベラーである事を明かし、自分の仕事を引き継ぐことと引き換えに、ジョンに復讐を遂げさせると持ちかけるのだ。
そして中盤以降、彼らが時間旅行へと旅立つと、物語は驚くべき方向へと動き出し、それまでにジョンが語ってきた話の裏側にあったもの、自己存在を巡るあまりにも奇妙な運命の悪戯が浮かび上がるのである。
まあ極めて良く出来た小説ゆえ、まんま映像化するだけでも、面白い映画は出来るだろう。
だが、スピエリッグ兄弟は、原作ではほんの数行触れられているだけで、物語の本筋には絡んでこない爆弾事件を大きく膨らませ、そこに原作の構造を更に包み込むようなもう一つのパラドックスを仕掛けている。
元のプロットを全く損なわずに、物語を深化させた脚色は見事だ。

ジェンダーやインディビジュアリズムといった、いかにもハインラインらしい原作のテーマもそのまま受け継がれているが、これは物語のロジックがテーマに直結しているので当然か。
映画のタイトルである「Predestination」は直訳すれば“運命”とか“宿命”の意味になるが、これはもちろんSFでは御馴染みの“Predestination paradox”に通じる。
日本では一般に“因果のループ”と訳される、原因と結果の因果、要するに「鶏が先か?卵が先か?」のパラドックスの事であり、映画の内容を端的に示唆している。
一方、ハインラインの原作の原題は「All you zombies」という奇妙なもの。
これは、作中のバーテンダーの心の声「I know where I came from—but where did all you zombies come from?(私は自分がどこから来たのか知っている、だが全てのお前たち死霊どもはどこから来たのだ?)」からとられている。
自らを、己が尾を噛んで輪となった蛇、ウロボロスに例えるバーテンダーは、この宇宙でただ一人自らの創造の秘密を知る存在だ。
自分以外の全ての者、この星で生まれ脈々と受け継がれてきた生命とは根本的に違った“異種”ゆえの絶望的な孤独。
原作が書かれた1950年代は、今よりもはるかに社会が異端者に対して不寛容だった時代。
ハインラインは、自分以外の存在を“死霊”と呼ぶタイムトラベラーに、当時のマイノリティの孤独とうずきを投影したのだろう。
家族も友人もおらず、時間の流れにすら縛られない彼が愛し、愛されるのは自分だけ。
「お前が恋しい」と思わず呟いたあの瞬間から、時の輪が永遠に閉じるまで、彼はどれだけの虚無感を味わったのだろうか。

今回はハインラインの生まれ故郷でもあるミズーリ州ウェストンで、160年の歴史を持つマコーミック社のコーンウィスキー「プラットヴァレー コーン」をチョイス。
バーボンウィスキーはトウモロコシとライ麦で作られるが、通常トウモロコシを51%~80%使用したものをバーボン、80%以上使用するとコーンウィスキーと呼ばれる。
コーンウィスキーの特徴はライトな味わいとコーン独特の甘い香りだが、プラットヴァレーは出荷するまでに3年間の樽熟成を経ているので、適度なコクも感じられる。
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