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昨年11月に前編が公開された、岩明均の傑作漫画を原作とするSFサスペンス二部作の完結編。
人間の脳を奪い、捕食する謎の寄生生物、パラサイトが出現した世界で、右手だけをパラサイトに乗っ取られた高校生、泉新一の孤独な苦悩と戦いはいよいよクライマックス。
今回も原作からの取捨選択が巧みで、殆どダイジェストを感じさせず、キッチリと物語を完結させた脚色が見事。
前作の母性を巡る葛藤を次第に深化させ、最終的には原作と同じ“我々は何者か?”というポイントに落とし込んでいる。
20年も前に完結した漫画を現在に作る意味、内容的なアップデートも盛り込まれ、原作が曖昧にしてる部分にも一定の答えを出してるのはさすがだ。
漫画原作のSF作品として、日本映画史上最も成功した作品と言って良いと思う。
※クライマックスに触れています。
母の仇を討った泉新一(染谷将太)は、右手に寄生したミギー(阿部サダヲ)と共に人知れずパラサイト狩りを続けていた。
しかし、彼の存在は次第にパラサイトからも、警察からもマークされるようになる。
新一の暮らす東福山市は、田宮良子(深津絵里)の計画によって組織化されたパラサイトたちが、市長の広川(北村一輝)をはじめ市の要職を占め、パラサイトによる支配を進めようとしていた。
一方の警察も、人間とパラサイトを判別する能力を持つ、死刑囚の浦上(新井浩文)に協力させ、市役所のパラサイトを殲滅するために、奇襲攻撃を計画する。
人間の赤ん坊を産み育て、パラサイトと人間の共存を模索する田宮良子は、その可能性を新一とミギーに見い出すものの、自らが利用していたフリー記者の倉森(大森南朋)の捨て身の行動によって正体を暴かれ、赤ん坊を守って命を落とす。
そして遂に人間とパラサイトが激突する時、田宮良子の実験によって作られた、最強のパラサイト、後藤(浅野忠信)が新一の前に姿を現す・・・・
期待に違わぬ面白さである。
前編のダイジェストから、死刑囚・浦上が泉新一の中に人間以外の影を見る、アヴァンタイトルの編集の巧みさに、既に“凄い映画を観ている”というカタルシスを覚えた。
前作のショートレビューにも書いたが、岩明均の原作は、エコロジー問題が世界的なイッシューとなり始めた80年代末から90年代半ばにかけて連載され、娯楽性だけに留まらない鋭い社会性を持つが故に歴史的な傑作となった作品だ。
ちなみに私は、当時流行った“Save the Earth”というフレーズが大嫌いだった。
人類ごときに地球を救うことも滅ぼす事も出来っこない、出来るのはせめて自分たちの生存環境を守る事程度だと考えていたので、“Save the Earth”は正に人類の傲慢さの象徴みたいに思えたのだ。
そして、地球環境と人類の存在を相対化して考えた時、当時最も自分のイメージにフィットし、共感したのが「寄生獣」なのである。
物語の中で、寄生生物は基本的に“パラサイト”と呼ばれている。
ではタイトルの“寄生獣”とは何か?
映画化に当たって、古沢良太と山崎貴は全10巻の物語からエピソードとキャラクターの取捨選択と共に、いくつか大きな設定変更を行っている。
最初の大きな変更が、そもそもパラサイトがどこから来たか?という部分だ。
原作のパラサイトは、空からフワリフワリと舞い降りてくる。
作中に明確な説明は一切無いのだが、この描写によってパラサイトが宇宙人とか地球外の絶対者の類によって齎されたと解釈する人も多かったようだ。
そこで映画では、パラサイトが海から現れるように設定変更され、作品の世界観を地球という閉ざされた生態系に閉じ込め、よりガイア思想的なところに持っていった。
この惑星の表面に蠢き、その活動に必要な全てを閉じた世界から与えられている人類こそが、地球という巨大な生命にとっては寄生生物、いや寄生獣。
過密な都市で暮らしていると、ふと「この街の人の数が半分になったら、もっと暮らしやすくなるんではないか?」などと恐ろしい考えが過ぎる事は無いだろうか?
閉じた世界に人類が増えすぎると、一番困るのも実は人類。
パラサイトを生み出し、「この種を食い尽くせ」という命令を与えている“大いなる意思”とは人類自身の集合意識であり、パラサイトは人類を保管する存在であるのと同時に、我々自身のメタファーなのである。
人類とパラサイト、不完全な二つの生命を繋ぐ存在が、右手にミギーを宿した泉新一なのだが、映画の彼はとにかく孤独だ。
原作では新一の家は母子家庭ではなく、頼りになる父親がいるし、右手ならぬアゴに寄生したパラサイトのジョーと共存している宇田という協力者もいる。
学校での友人関係もそれなりに描かれているし、物語のクライマックスで、新一の背中を押してくれる美津代という老婆も印象的なキャラクターだった。
しかし映画版では、これら新一の理解者や友人たちはことごとく消えている。
母の仇をとった後、同じ境遇の“元人間”を殺して殺して、最後には自分自身という矛盾が残る“仮面ライダーの決意” をした新一にとって、運命共同体であるミギーを除けば、唯一絶対的な味方はガールフレンドの村野里美ただ一人、いやあえて理解者と考えると、彼女と田宮良子の二人だけなのである。
だから、映画の新一とこの二人の関係は、原作以上に濃密で、なお且つ行動とその意味が分りやすい。
新一と里美は原作でも結ばれるのだが、それは市役所の制圧戦で最強のパラサイト、後藤の戦闘力を目の当たりにした新一の恐怖と動揺を、里美が静める流れの中でだった。
対して映画では、後藤との最初の直接対決に敗北し、ミギーを失った後。
心と体に傷を負った新一は、里美と再会するとまるで小さな子どものように泣き崩れ、刹那的な生をかみ締めるかのようにして里美を抱くのである。
原作と意味は同じだが、プロットの密度を高めて感情をより強化する、という脚色のスタンスは全編にわたって貫かれており、日本の青少年エンタメ映画が逃げがちなこの種シークエンスを、ややソフトながらもきちんと描いているのも立派である。
この段階で二人が結ばれた事は、この後のクライマックス、そして物語の落としどころにとっても大きな意味を持つのだ。
その新一と後藤の最後の対決も、原作と大きく変更された部分だ。
原作では山中の産廃の不法投棄場で、新一が偶然“毒”によって汚染された鉄の棒を後藤のわき腹に打ち込んだ事で、彼の体に寄生する複数のパラサイトの統率が乱れ、復活したミギーによって体が粉砕される。
この部分が連載されていた90年代の半ばは、産業廃棄物の無秩序な投棄によって、土壌のダイオキシン汚染が深刻化していた時期と一致し、作中で言及されている訳ではないものの、当時漫画を読んだ者は、ほとんど自動的に“毒=ダイオキシン”と認識しただろう。
だがこの二十年で、産廃も管理の厳格化とリサイクルが進み、当時ほど大きな問題として取り上げられる事は無くなった。
なら今の日本で、観客の誰もが“人間の垂れ流す毒”という言葉から連想するものは何か?
映画は、クライマックスの舞台を、被災地の瓦礫の焼却場とし、灼熱の炎の中で後藤に打ち込まれるのは、“放射性廃棄物”なのである。
なるほど、確かに東日本大震災と原発事故を経験した2015年の日本人にとって、良くも悪くもこれほど分りやすい例はあるまい。
ただ、被災地から運び出された焼却瓦礫に、一瞬で生物にダメージを与えるほどの放射性物質が付着している事など、現実にはまずあり得ない。
「寄生獣」二部作は、漫画原作とはいっても、アイドル俳優と派手目のVFXでお茶を濁しているような、そこらのチャライ作品とは全く違う。
高度な社会性を持つ人間ドラマとして、強くリアリティを感じさせるからこそ、現実のイッシューとなっているデリケートなモチーフを、映画的なウソとして見せてしまって良いのか?という疑問は拭えないし、この部分をもって批判されたとしても仕方がないだろう。
個人的には、放射性廃棄物というアイディア自体は秀逸だが、展開や設定などはもう少し慎重な扱いをしてもよかったと思う。
そして、戦い終わった新一が、瀕死の後藤にとどめを刺すにいたる背景も異なっている。
原作では、一度その場を立ち去ろうとした新一が、ミギーとの会話のなかで、今を生きている一人の人間として、自分のすべき事、出来る事を考える。
「おれはちっぽけな・・・一匹の人間だ。せいぜい小さな家族を守る程度の・・・」と考えなおして、涙ながらに後藤を殺す。
彼が考えた“小さな家族”とは、それまでに守れなかった多くの命であり、長い物語の流れがあってこそ、説得力を持つ描写である。
映画では、一度後藤を見逃そうとした新一の目線の先に、今守るべき里美の姿があり、そこで原作と同じ決意をして、後藤を燃え盛る焼却炉に投げ落とすのだ。
構成要素は原作に忠実ながら、行動に繋がる心理描写はあくまでも具体的に、統合できる部分は可能な限りロジカルに構成し直し、長大な物語を4時間で無理なく組み立てた脚色の妙。
もちろん、きちんと演技ができる俳優をキャスティングできた事も大きいと思う。
映画的時間に再構成された優れた物語があって、優れた俳優がいたから、安易なコスプレショーに走る必要が無く、時代を超える力のある重厚な人間ドラマが成立しているのだ。
原作同様、長く語り継がれるであろう、2015年の日本を代表する傑作である。
最後まで緊張感の続く本作、終わったらやはりビールが飲みたい。
ヒロイン橋本愛のもう一本の傑作「リトル・フォレスト 冬・春」にも付け合せたクラフトビール、常陸野ネストから今度はドイツスタイルの「バイツェン」をチョイス。
繊細な泡に軽快な喉ごし、苦味が少なくフルーティな香りの飲みやすい一本。
クセがないので、お肉とでも魚介とでも合わせやすい。
そういえばミギーの料理の腕前は相当なものだったが、一家に一台あると便利かも(笑

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第一作が登場した2001年以来、15年間に渡ってこのシリーズを見守ってきたファンにとって、色々な意味で特別な感慨を覚える作品だろう。
本作は本来昨年中に公開される予定だったが、ヴィン・ディーゼルと共にシリーズの二枚看板であるブライアン・オコナー役のポール・ウォーカーが、撮影途中だった2013年11月30日に事故死してしまった。
一時は完成すら危ぶまれたが、ジャスティン・リンに代わって本作から登板したジェームズ・ワン監督ら関係者は、最良の判断で屋台骨が折れかけた作品を完成まで導いた様だ。
回を重ねるごとに面白さに加速がかかってきたシリーズの勢いを止める事無く、スーパーカーが地上だけでなく空をも飛びまくるスケールとパワーは、シリーズ最高傑作だった前作「ワイルド・スピード EURO MISSION」に全く遜色ない。
事故後にリライトされたというシナリオは、終盤ドラマ的にブライアンの出番が少なくなっているものの、違和感を感じさせるほどでもなく、アクションを含めて彼の見せ場はキッチリと作りこまれている。
一部、兄弟がスタンドインで演じているらしいが、どこがそうなのか全く分らなかった。
今回の敵、デッカート・ショウは、「EURO MISSION」 でドムたちに倒され、病院送りになったオーウェン・ショウの兄貴にして英国最強の殺し屋。
冒頭で、弟を見舞っている彼が歩き出して病室を出ると、そこらじゅうに死体が転がり、病院を警護していた警察部隊が壊滅しているのが映し出される。
デッカートの恐るべき戦闘能力を一目で知らしめる、実に映画的で見事な表現だ。
ドムのファミリーとFBIのホブスへの復讐を誓うデッカートと、超強力な市民監視システムを作り出した天才女性ハッカーと彼女を狙うテロリスト、逆に彼女を守るためにドムのチームを利用したいCIAの三つ巴、四つ巴の戦いが繰り広げられる。
キャラクターの相関関係は複雑だが、基本的に映画はド派手なカーアクション、敵味方入り乱れての格闘戦、ちょっと休憩の繰り返しで、そこに記憶を失ったレティとドムの仕切りなおしのラブストーリーと、危険を愛しつつマイホームパパと化したブライアンの葛藤が少しずつ絡んでゆく。
例によってプロットは突っ込みどころだらけだけど、超パワフルなカーアクション演出に度肝を抜かれ、敵も味方もキャラ立ちしまくった濃い連中の格闘を堪能していると、細かい破綻などだんだんとどうでも良くなってくる。
しかし「MEGA MAX」の金庫引きずり回しに、「EURO MISSION」の地上と空の綱引き、今回はドバイの超高層ビル間の連続ジャンプと、よくまあ毎回これだけアイディアが出てくるものだ。
ちなみにこのシリーズではアメ車担当のドムに対して、ブライアンは日本車担当の住み分けがあったが、ずっとGT-R使いという設定なのに、最近はスバルなどを駆る事が多かったブライアンの最後のカーアクションの相棒が、現行GT-Rなのも嬉しい。
格闘はドム、ホブス、デッカートの三人のマッチョなハゲの肉弾戦が目立つが、テログループの格闘担当、トニー・ジャーvsブライアンの2度にわたる戦いもなかなかだし、ドバイのパーティシークエンスの、ミッシェル姐さんvs総合格闘家のロンダ・ラウジーのバトルもスピード、キレ共に見応えあり。
投げ飛ばされる人間と一緒に、カメラもグルっと一回転するのも面白い見せ方だ。
そして、映画の終盤は亡きポール・ウォーカーへ、長年苦楽を共にした“ファミリー”からの愛情たっぷり、最高のトリビュート。
過去15年の思い出と共に、ドムと併走するブライアンの車。
やがて二台は、それぞれに異なる方向へと去ってゆく。
残念ながら現実世界のポール・ウォーカーは亡くなってしまったけど、このシリーズが続く限り、いやいつかシリーズが終わったとしても、ブライアン・オコナーはスクリーンの向こう側の世界で永遠に生き続けるのだろう。
素晴らしい作品で見送ることができて、本当に良かった。
車も人間も全開マックス、アクション映画としては、お腹いっぱいの大満足。
一本だけ未来の話だった「X3」の時間を追い越した事で、これでシリーズの時の輪は一度閉じた事になり、ブライアンだけでなくハンとジゼルも、そしておそらくミアもまたシリーズから姿を消すだろう。
世界中で大ヒットとなっている本作は、映画史上10本しかない、世界興収11億ドルを軽々と突破し、遠からず新作が作られるのは確実。
楽しみなのは確かだけど、ブライアン・オコナーのいない「Fast & Furious 」を観るのは、どこかさびしく感じるのだろうな。
本作のもう一つのバトルが、コロナvsベルギーのビールの対決。
どっちも魅力的で迷うところだけど、ここは「コロナ エキストラ」をチョイス。
ビールが美味く感じるのはやはり風土が重要で、暑く乾燥した南カリフォルニアに合ってるのはやはりベルギービールのコクよりもコロナの清涼さだと思う。

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「ザ・マスター」のポール・トーマス・アンダーソンが、ホアキン・フェニックスとの再タッグで挑んだのは、1970年の混沌のLAを舞台に、懐メロが彩る白昼夢のようなコメディ。
フェニックス演じるヒッピー崩れの私立探偵ドクが、突然訪ねてきた元カノのシャスタの依頼を受けた事から、魑魅魍魎が蠢くLAの裏側をさまよう。
原作の「LAヴァイス」は未読だけど、様々な要素が次々と足されつつ混濁してゆくスタイルは、なるほどいかにもトマス・ピチョンっぽく、それなりに忠実なのではないかと思わされるが、実際はどうなのだろう?
全体の印象としては、タランティーノの題材+リンチの世界観を、アンダーソンが独自の語り口で纏めたという感じか。
ドクが事件を追い始めると、彼の周りには矢継ぎ早に怪しげな人物が登場しては消え、人物関係は異常に複雑かつ断片的。
消えた不動産王、国際麻薬組織、腐敗したLA市警にネオナチ組織、更には家出少女や淫行歯科医まで絡み合い、ちょっと油断していると、「あれ、この人誰だっけ?えーと、この人とあの人の関係は?」と狼狽するが、実はこの混乱は計算されたもの。
とりあえずフローズンチョコバナナが好きなジョシュ・ブローリンの刑事と、オーウェン・ウィルソン演じる、死んだことになっているミュージシャン、そして物語の発端となるシャスタの存在さえ押さえておけば、あとは何となくこんな人いたなあというボーっとした認識で十分である。
全編ほとんど夢うつつのムードで展開するのは、ドクが最初から最後まで、マリワナとコカインでラリっているから。
舞台となる1970年は、激動の60年代と停滞の70年代の節目の年。
公民権運動は一応実を結んだものの、白人至上主義者たちは結束し、ベトナム戦争は完全に泥沼化、反戦運動のなかから生まれたヒッピーコミューンはラブ&ピースで盛り上がり、カルト集団は反社会化して凶悪事件を起こす。
あらゆる人々が好き勝手に自己主張するカオスな時代の空気が、事件の断片に溶け合い、クサで霧のかかった探偵の頭を通し、シニカルかつユーモラスに浮かび上がるというワケ。
同じシーンの中に昼と夜の背景が混じっていたり、語り部役の女性が全く本筋に絡んでこない傍観者で、そもそも彼女が誰なのかもよく分からないままなのも、全てこの濃密に曖昧な世界を成立させるための演出と考えて良いだろう。
混迷のLAで、ドクは結局何を探していたのか。
ラリった状況のまま、彼はなりゆきで巨悪と対決し、最後に少しだけ良い事をする。
タイトルの「インヒアレント・ヴァイス」とは船舶保険の用語で、直訳すれば「内在する欠陥」だが、意味的には「避けようのない危機」の事だそう。
アメリカ社会そのものが抱える「内在する欠陥」が顕在化した70年、ドクはマリワナの力をかりて、無意識のうちにささやかな抵抗を試みたのかもしれない。
若き巨匠、ポール・トーマス・アンダーソンの作品としては、肩の力が抜けて小粒な印象の作品だが、これはこれで気だるく心地よい。
ちなみにこの時代は、海外渡航の自由化もあって、日本からの旅行者や新移民が急増した事もあり、あちこちに変な日本要素があるのがおかしい。
「チョット、ケンイチロー!!ドオゾ、モット、パンケーキ!!」は「二つで十分ですよ~」以来の日本語台詞のヒットだ(笑
探偵の白昼夢を感じさせる本作には、カクテル「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジ・キュラソー20ml、ペルノ1dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
オレンジ・キュラソーがブランデーのコクに爽やかな風味を演出する。
以前はぺルノではなく、中毒性のあるアブサンが使われていたあたりも、この映画にピッタリだ。

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メキシコの異才、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の最新作は、ブロードウェイの舞台制作を通して、再起をかける落ち目の俳優が、虚構と現実の狭間に迷うシュールでユーモラスなダークファンタジー。
主人公の元ヒーロー映画のスターに、実際にバートン版「バットマン」で知られるマイケル・キートンをキャスティングするという、ダーレン・アロノフスキー的なセンスを取り込みつつ、撮影監督エマニュエル・ルベツキの2時間丸ごとワンカット“風”のカメラワークの効果もあり、驚くべき未見性を持ったユニークな作品となっている。
本年度アカデミー賞で下馬評を覆し、作品賞、監督賞他4部門を受賞した話題作だが、よくもまあ保守的と言われるアカデミー会員が、このぶっ飛んだ作品を選んだものだ。
娯楽として万人受けするとは思わないが、唯一無二の映画体験が出来るパワフルな傑作である。
※ラストに触れています。
スーパーヒーロー映画、「バードマン」シリーズの主役として、絶大な人気を誇ったのも今は昔、世間から忘れられつつある俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、復活をかけてブロードウェイの舞台に挑戦しようとしていた。
思い入れのあるレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々が語ること」を原作に、リーガン自ら脚色・演出・主演する舞台は、リハーサル中の事故で共演の俳優が大けがを負い、降板してしまう。
もう一人の共演者レズリー(ナオミ・ワッツ)の紹介で、代役として実力派俳優のマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)と契約することに成功したものの、傲慢なマイクは舞台の上で好き放題し、プレビュー公演初日は散々な出来に終わる。
ドラッグに溺れた過去を持ち、今は自分の付き人をしている娘サム(エマ・ストーン)との関係もギグシャクしたまま。
ロングランか打ち切りか、全てが決まる本公演の初日が迫る中、リーガンは次第に精神的に追い込まれてゆく・・・・
文章で魅力を表現することが、非常に難しい映画だと思う。
それは本作がイニャリトゥ自身の作品を含め、過去のどの映画とも異なる独自のスタイルを持った一本であることが一つ、もう一つは観客のアプローチの仕方によって全く異なる顔を見せる、ロールシャッハテストの様な作品でもあるからだ。
基本的に、作品全体が主人公であるリーガンの心象風景と捉えて間違いではないだろう。
この世界では、映像と演技と物語が完全に一体で不可分であり、「ゼロ・グラビティ」を地上でやったような、演出と融合した高度な映像テクノロジーが作り出す未見性に驚嘆するばかり。
リーガンが上演しようとしている「愛について語るときに我々が語ること」は、レイモンド・カーヴァーが1981年に発表した短編小説。
とある家のダイニングキッチンで、リーガンが演じるニック、心臓外科医のメル(エドワード・ノートン)、その妻のテリ(ナオミ・ワッツ)、そしてニックの妻のローラ(アンドレア・ライズボロー)の四人が、愛とは何かについて語らう物語である。
テリは以前元恋人のエドに、ストーキングの末に殺されかけた経験がある。
メルはそんな危険な感情は愛とは呼べないと言うが、テリは多少の同情も込めて、エドの行動も愛ゆえだと主張する。
「愛」という一つの言葉ですら、人の数だけの多面性を持っている。
面白いのは、この劇中劇ではリーガンがニックとエドの二役を演じる脚色となっており、物語が進むにつれて、リーガンは“溢れんばかりの想いはあるが理解されない男”エドと自分自身を重ねて行く。
つまり、この短編小説が劇中劇だけでなく、映画全体のモチーフともなる二重構造なのである。
これだけでなく、本作では作中のあらゆる部分に二重性が配されている。
リーガンと彼の心の声であるバードマンもそうだし、劇場の内と外、路上から見上げる目線と屋上から見下ろす目線、映画界と演劇界、SNSに代表されるオンラインとオフライン、そしてもちろん虚構と現実。
かつての大スターという自尊心によってがんじがらめとなり、追い詰められてゆくリーガンの心の中では虚構と現実が同じ次元で存在しており、それらがシームレスに繋がってる、という事を映像的に描写するのが、ほぼ2時間を1カット風に見せるカメラの工夫。
だから終盤でリーガンがある事をやってしまい、病院へと運ばれる暗転の後は、明確に異なる次元の心象への移動と見ることができる。
また虚実の混濁を示す作劇上のメタファーが、あちこちで描写されるリーガンの超能力である。
何しろこの人、ファーストカットで麻原彰晃よろしく空中浮遊しちゃってるのだ。
もっとも、設定上彼の超能力が現実か妄想かはわりとどうでも良い。
重要なのは、リーガンが舞台制作によって、好むと好まざるに関わらず、バードマンという過去の鎧を次々に剥ぎ取られ、遂には文字通り裸一貫、パンツ一丁になってしまう事である。
そうなってこそ、ストレートに素の自分と向き合わざるを得なくなるのだけど、自分が何者で、何を成し遂げたいのか、何を求めているのかなど、リーガンは最初から分かっているのだと思う。
故に、彼の超能力の発露は、虚飾の自尊心を剥ぎ取られるほどに、ブーストがかかって加速してゆく。
ちなみに、マイケル・キートン以外の劇中劇の出演者全員が、虚構と現実が混じり合う世界に迷う、という内容の代表作を持つというのも、おそらく偶然ではあるまい。
さらに出演者で言えば、リーガンの娘サムを演じたエマ・ストーンも、“元”ヒーロー映画のヒロインであり、「アメイジング・スパイダーマン2」で彼女が演じたグウェン・ステイシーの最期が転落死であったことも、もしかしたらイニャリトゥの仕掛けた暗喩の一つかもしれない。
実は観る前に、オチを人から聞かされてしまっていたのだけど、映画自体が未見性の塊のような作中なので、全く問題なかった。
この映画は画面のなかで何が起こったか、という表面化した情報だけでは理解不能だ。
何しろラストシーンのカメラは、観客が一番知りたい情報を描写せず、それを見ている哀しみと喜びが混ぜこぜになったような、サムの表情を写し出す。
イニャリトゥは、ここに至る2時間の間、映像と演技と物語が三位一体となったリーガンの心象世界を体験させる事で、従来の映画表現の限界を超え、観客の心に直接画を描こうとしているように思える。
だから、「愛」の形が人の数だけのあるように、この映画には“正しい解釈”は存在しないのである。
はたして、サムの大きな瞳は最後に何を見たのだろうか。
圧倒的な力作であるが、私的に唯一ちょっと物足りないのは、“なぜスーパーヒーローなのか?”という辺りの突っ込みが表層的な事。
映画ではリーガンは完全に過去の人として扱われているが、ジョージ・リーヴスの時代ならいざ知らず、現実のマイケル・キートンがそうであるように、現代アメリカのサブカルチャーの中では、人気ヒーローを演じた役者には一定の社会的なリスペクトがあると思う。
彼を取り巻く世界観の中で、尊敬と卑下のせめぎ合い、過去の当たり役という以上に、リーガンにとってバードマンとは何だったのかが見えると、ある種のアメリカ文化論的な部分がもっと深くなったのではなかろうか。
まあ、イニャリトゥはデル・トロじゃないから、ディープなオタク世界にはあんまり興味無いのだろうな。
しかし作品のタイプは全然違えど、表現者が極限まで追い込まれる展開、さらにジャジーなドラムが世界観のキーであるあたり、不思議と「セッション」と共通点が多い。
芸術の世界の狂気って、最近のアメリカ映画の流行りなんだろうか。
本作にも影響を与えていそうな、「ブラック・スワン」あたりから増えてきたような気がするが、だとするとこの流れの源流にあるのは、亡き今敏監督の「パーフェクトブルー」なのか?
この映画、アラン・パーカーの「バーディー」を思わせる瞬間もある。
という訳で鳥さん繋がりでカクテルの「バーディー」をチョイス。
ホワイトラム36ml、オレンジキュラソー6ml、オレンジジュース6ml、パイナップルジュース6ml、グレナデン・シロップ6mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
キュラソーを使わずにホワイト・ラムを増やし、グレープフルーツジュースやラズベリージュースを使うレシピもある。
材料から分かるようにフルーティで甘いカクテルで、優しく虚構と現実の迷宮に誘ってくれるだろう。
ちなみにカタカナだと同じだけど、英語のスペルは映画が「Birdy」でカクテルは「Birdie」でちょっと違う。

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サッチャー政権下のイギリスで、政府と対立するウェールズの炭鉱労働者のストを、同性愛者のコミュニティが支援した実話ベースの作品。
強固な鎖も、バラバラでは無意味。
信念を持った一人ひとりが、寛容と共感によって絆を結ぶ時、やがてそれは社会を動かす大きな力となってゆく。
題材はへヴィーだが、英国映画らしいシニカルなユーモアを隠し味に、軽妙な語り口で紡がれる物語に説教くささはゼロ。
若い同性愛者にジョージ・マッケイ、ベン・シュネッツアー、アンドリュー・スコットら、炭鉱労働者側に、ビル・ナイ、イメルダ・スタウントン、パディ・コンシダインら英国を代表する各世代の演技派名優が顔をそろえる。
※ラストに触れています。
1984年の夏、サッチャー政権の炭鉱閉鎖方針に反対する、炭鉱労働者たちのストライキは、既に四ヶ月目を迎えていた。
同性愛者の活動家マーク・アッシュトン(ベン・シュネッツアー)は、政権側の締め付けにより、困窮する組合員の姿をニュースで見て、自分たちのコミュニティが、同じマイノリティとして支援する事を思いつく。
マークと彼に賛同する仲間たちは、Lesbians and Gays Support the Miners(レズビアンとゲイが炭鉱労働者を支援する。略称:LGSM)を組織し、募金活動を始める。
しかし全国炭鉱労働組合は、彼らが必死に集めたお金の受け取りを拒否。
保守的な炭鉱の社会にとって、同性愛者の若者など理解不能の異端者だったのだ。
それでも、諦めないマークたちは、あちこちの炭鉱組合に直接電話をかける作戦に切り替え、遂にウェールズのディライス炭鉱の代表者、ダイ(パディ・コンシダイン)がロンドンにやって来る。
戸惑いながらも、初めて触れ合う同性愛者の若者たちと心を通じ合ったダイは、寄付金の受け取りに同意。
LGSMの活動もやがて機動に乗り、寄付金も急増。
そんな時、ディライスの組合委員長ヘフィーナは(イメルダ・スタウントン)は、保守派の反対を押し切って、LGSMのメンバーをディライスで開かれる支援者への感謝集いに招待すると決定するが・・・
映画が始まるとすぐ、「Solidarity Forever」が流れるのだが、これは意外だった。
この歌が本作の舞台であるイギリスではなく、二十世紀のアメリカを代表する有名な労働歌だからだ。
ちょっと調べてみると、元々これは米国の著名な労働活動家にして作家・芸術家というマルチ才人、ラルフ・チャップリンが1915年に作詞したものなのだが、彼が属していた世界産業労働組合が当時非常に大きな影響力を持っていたこともあり、同じ英語圏の英国でも広く知られる様になったらしい。
だが「Solidarity Forever」を、あえて冒頭に持ってきているのは、本作のテーマを端的に示唆していると思う。
なぜなら、この歌のメロディはオリジナルではなく、南北戦争時の北軍行進歌、「John Brown's Body」を引用しているのである。
ジョン・ブラウンとは、白人の過激な奴隷解放活動家で、最初に武装闘争を展開して処刑されたことで、米国では広く知られた人物。
つまり、「Solidarity Forever」は労働歌であると同時に、長いマイノリティの解放闘争の歴史を内包した歌であり、本作の作り手がその闘いの延長線上に、炭鉱ストと同性愛者の運動を位置付けているのは明らかだ。
ちなみに、このメロディ自体の歴史は更に古く、元祖は賛美歌の「Say Brothers Will You Meet Us」 だといわれており、「John Brown's Body」以外にも、別の北軍歌「The Battle Hymn of the Republic 」にも引用されるなど、アメリカの民謡音楽の中でも最もポピュラーなものだ。
1984年の炭鉱ストの背景を見ると、失業率の上昇と出口の見えない景気低迷で人気急落、退陣確実といわれたサッチャー政権が、1982年に起こったフォークランド紛争の勝利によって息を吹き返し、長期政権化。
鉄の女の急進的な経済改革の目玉となったのが、不採算炭鉱の統廃合で、当時英国内に174もあった炭鉱のうち20鉱の閉鎖を決定する。
当然ながら、職を失うこととなる炭鉱労働者は反発し、閉鎖の撤回を求めて大規模なストライキを開始。
しかし組合も一枚岩ではなく、長期化するストに国民世論も同調せず、政権側の切り崩しによって、資金難となった炭鉱組合は孤立してゆく。
この絶対不利の状況で、加勢を買って出たのがLGSMという訳だ。
まあ実際にはもっといろいろあったのだろうけど、映画では同性愛者が炭鉱ストを支援する理由は、彼らが体制側に抑圧される“同じマイノリティ”という一点である。
産業革命以来の労働運動の歴史を持ち、長年にわたって大きな力を持っていた炭鉱組合員と違って、常に絶対的少数派であった同性愛者は、社会と言う大きな沼の中に、沢山の切れた鎖が沈んでいる事をよく知っている。
それらはお互いに繋がる事が出来れば、強靭な力を発揮するが、そもそも繋がる前に見つかれば摘まれてしまうので、浮上することがそのままリスク。
仮に勇気を持って水面に出る事が出来たとしても、なかなか上手く繋がる相手は見つからない。
本作の、同性愛者と炭鉱労働者という、二つのコミュニテイの連帯も、もちろん順風満帆ではないけれど、それでも無知による偏見は、実際に個々の人間同士が触れ合う事によって、徐々に取り除かれてゆく。
全く接点のない者が出会い、お互いを知る事によって絆が生まれ、未来を切り開いてゆくプロセスは希望を感じさせる。
最高なのが偏見も世間の風もものともせず、一気呵成に突き進む超かしましいウェールズのおばちゃんたちの、ナニワのおばちゃんも真っ青の突破力。
いや〜パワフル、パワフル(笑
しかし非常に上手いのが、こういう女たちは新しい事に柔軟で、男たちは石頭で心を開けないというパターンを踏襲しつつ、一番寛容なキャラと不寛容なキャラをどちらも女性にしている事。
カリカチュアされたステロタイプを物語として生かし、一方でそれを否定する構造を組み込むという、娯楽映画としてのバランス感覚が実に巧みなのである。
また本作は、性的マイノリティという事情を抱えた若者たちが、それぞれの葛藤と向き合う青春群像劇でもあるが、既に生き方の覚悟を決めた人たちだけを描いても、感情移入を誘うのは難しい。
そこで脚本のステファン・べレズフォードは、運動を主導するマーク・アッシュトンら実在の人物以外に、ジョージ・マッケイ演じるジョーという架空のキャラクターを作っている。
実質的な語り部であり主人公でもあるこの人物は、両親には自分の性的嗜好を隠している隠れゲイ。
同性愛者の権利を訴えるパレード、“プライド”におそるおそる参加した事で、マークたちと知り合い、家族には調理師学校に行っているとウソを言って、LGSMの活動にのめり込んでゆく。
隠れゲイとして一生を過ごすか、カミングアウトして正直に生きるか、まだ生き方に迷っているジョーは、ストレートの観客、あるいは今現実に隠れゲイである観客にとって、物語への入り口の役割を果たす存在であり、彼の葛藤と成長が劇映画としての構造を格段に分りやすくしている。
もっとも、寓話的な明快さを優先させた結果、物足りない点もある。
例えば、実際には炭鉱労働者のストは映画で描かれたような牧歌的なものだけではなく、組合内部の仲間割れから炭鉱労働者同士の凄惨な内ゲバが繰り返され、死者すら出ている。
映画はあえてその辺りの暗部は描かず、良い人たちだけの美談に単純化したことで、やはり物語としての深みに欠ける印象は否めない。
だがそれでも、本作は小さな力が連帯する事で、少しずつでも社会を変革する力となることを端的に見せてくれる。
結果的にストが敗れた後の1985年の“プライド”で、同性愛者に連帯を表明したディライス炭鉱の労働者たちが、100年以上前から伝わるという、二つの手が握手する意匠の組合旗を掲げるラストシーンは感動的だ。
炭鉱の閉鎖を撤回させる事は出来なかったが、その代わりに同性愛者の権利は一歩前進。
1984年は、先日公開された「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」で描かれたように、英国が同性愛者の天才科学者、アラン・チューリングを不条理な死に追いやってから33年後、2015年の現在から見れば31年前のほぼ真ん中の時代の話と思うと感慨深い。
そして、本作がもっとも秀逸な点は、“マイノリティ”が決して恒久的な概念でないという事実も、明確に突きつけている点だ。
本来、炭鉱労働者の組合は、英国の産業界のみならず政界にも絶大な影響力を持つ権力だった。
ところが不況と産業構造の変化による斜陽化、そして時の政府の方針と乖離した、見方によっては独善ともいえる運動方針をとったために、ある日突然社会のマイノリティと化してしまったのである。
我々はしばしば、マイノリティを人種や同性愛などの、もって生まれた出自で定義される概念と思い込んでいるが、そうではない。
例えば政治的な思想や、生き方の違いによってさえ、誰でも何時でも抑圧されるマイノリティと化するのである。
奇しくも、渋谷区で初の同性パートナーシップ条例が成立した今、本作は日本において非常にタイムリーな作品と言えるだろう。
自分がこの国における絶対的なマジョリティだと信じ、条例に反対する人にこそ観て欲しい。
個人が立つ世界は、それほど強固ではないと思う。
今回は、ウェールズのクラフトビール、ケルト・エクスペリエンスの「オガム・ウィロウ」をチョイス。
オガムとは、4世紀から10世紀頃にかけて、アイルランドやウェールズで使われていた、古アイルランド語のアルファベットの事。
若干ピンクが買った茶褐色が美しく、苦味を抑えたフルーティで深いコクが印象的なプレミアムIP。
お肉と甘めのソースとの相性が抜群。
この辺りには美味しいクラフトビールが沢山あるのだけど、日本に輸入されているものが少ないのが残念。

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恐ろしいまでの緊迫感が持続する、超クールな音楽映画。
全米No.1の音楽大学を舞台に展開するのは、たった一人の天才を育てたい教師と、偉大な音楽家になりたいと願う生徒の、“指導”なんて緩い言葉は全く相応しくない、壮絶な“音バトル”だ。
お互いの全存在をかけた闘いは、観客の目を釘付けにし、心を鷲掴みにしてはなさない。
監督・脚本のデミアン・チャゼルは、元々ミュージシャン志望で、高校時代にジャズ・ドラムに打ち込んでいたという。
だからだろう、音楽シーンのリアリティは圧倒的。
全編100%キレキレ、ただの1カットも無駄が無く、スタイリッシュに編集されたビジュアルの一つ一つのイメージが視覚の音符となり、本編全体が完璧に構成された106分の「セッション」のようだ。
ジャズ・ドラマーを目指すニーマン(マイルズ・テラー)は、入学した音楽大学でスクールバンドを率いるフレッチャー教授(J・K・シモンズ)にスカウトされる。
学校を代表するバンドのメンバーになれれば、コンテストに参加してプロのスカウトの目に留まる可能性もあり、音楽家としての将来は大きく広がる。
喜び勇んで練習に参加したニーマンだったが、そこで目にしたのは一切の妥協を許さず完璧な演奏を追求する、狂気すら感じさせる地獄のレッスンだった。
常人には理解できない細かなミスに罵声を浴びせられ、時には暴力すら辞さないフレッチャーの要求に応えられなければ、無慈悲に切り捨てられライバルと交代させられる。
生活から音楽以外の要素を一切排除した練習漬けの毎日が続くなか、ニーマンは次第にバンド内でフレッチャーの信頼を得るようになってゆく。
だが大切なコンテストの当日、会場へと向かうニーマンを、予期せぬアクシデントが襲う・・・・
いやはや参った。
こんな凄まじい音楽映画は、過去に観たことがない。
これはもう、弾丸の代わりに意地と欲望と音符が飛び交う命がけの決闘だ。
芸術を志す若者と指導者の物語というと、高校演劇部を舞台に生徒と挫折した演劇人の先生を描く「幕が上がる」が記憶に新しいけど、さすがに本作は“教育"の範疇には収まるまい。
芸術教育というのは、創作を志す生徒をスキルアップさせ、可能な限り全員の可能性を伸ばし、そのフィールドで生きていける様に成長させるもの、と一般には認識されている。
本作のフレッチャーは、ある意味でそんな常識へのアンチテーゼなのである。
なにしろ彼の目標は、第二のチャーリー“バード”パーカー、音楽史に革命をもたらす偉大な天才を育て上げること、それだけなのだ。
確かに、芸術教育に携わる人間は、みんなどこかにフレッチャーの様な欲求は持っているだろう。
他の誰とも異なる、独自の音楽言語や映像言語を操る、伝説になりうる表現者を自らの手で育て上げたい。
だが実際にはダイヤの原石を見出し磨き上げることは、太平洋に沈んでいる一本の針を探し当てる様なもの。
だから、普通はそれなりの人材を育てる事で良しとするのだが、フレッチャーは違う。
彼は、凡才を育てようとは、最初から考えていないのである。
わずかでも可能性がありそうな若者を見つけたら、あらゆる手段を使ってその才能を開花させようとする。
そのためには、強烈なプレッシャーを与えて完璧を追及させるだけでなく、天才候補者をその気にさせるためには他の生徒を当て馬にする事も厭わない。
元々そんなに力がないのに、教師のエゴに利用されるだけの生徒にとってはたまったものではないが、フレッチャーにとっては、まだ見ぬ天才こそがオンリーワンの“作品”であって、たった一人を育てられれば、あとは全員潰しても良いと思っているのだ。
本作の主人公であるニーマンも、フレッチャーに選ばれた天才の可能性を持つ一人。
何も知らずにフレッチャーのバンド練習に参加した彼は、あまりに過酷な練習に思いっきりビビりながらも、いつしか生活の全てを音楽に捧げ、何とか超ハイレベルな要求に食らいついてゆく。
実はこの男も、温和な仮面の下に、フレッチャーに劣らぬ相当に曲者の素顔を隠している。
平凡な両親のもと、音楽とは縁遠い家庭に育ち、全米No.1の音大のスクルールバンドの主奏者に抜擢されても、家族や親しい人たちにその価値がわかるほど素養のある者はいない。
彼にとっては、プロとして音楽界の伝説になる事が、承認欲求を満たす唯一の手段なのだ。
だから、フレッチャーのバンドに誘われ、練習漬けの毎日が始まると、自分から口説いた彼女すら、足手まといだからとあっさり捨てる。
当然、そんなエゴイスティック性格では友達もいない。
ニーマンもまたフレッチャーと似た一面を秘めつつ、練習量に比例して強烈な自信と共に対抗心を育ててゆくのだ。
彼が父親と観に行く映画が、ジュールズ・ダッシンの名作ノワール「男の争い」なのは象徴的。
これは赤狩りでアメリカを追われたダッシンが、フランスで撮った最高傑作だが、宝石強盗とそれに続くギャングの争いを通して、逆境に対する人間の気高さ、湧き上がる怒りを表現した作品である。
偉大な音楽家になるには、ニーマンはフレッチャーの狂気に支配される事なく、不屈の闘志で跳ね返さねばならないのだ。
ハイテンションな名シーンが連続する本作でも、拗れに拗れた関係の二人のエゴイストが、和解に見せかけて激突するクライマックスは、お互いにもう後が無い魂の果し合い。
復活の舞台で、意表をつく罠を仕掛けたフレッチャーに対して、ニーマンもまた予想だにしない行動で逆襲。
二人の男の意地と野心、音楽への飽くなき欲求が生み出す音が、奇跡のセッションを生み出し、観客はもはや瞬きも、息をする事すら忘れてスクリーンに吸いつけられる。
「ラスト9分19秒の衝撃」というキャッチコピーに全く偽りはなく、全てが終わるのがあと1分遅かったら、私は酸欠になっていたかもしれない。
それにしても、最後フレッチャーはどこまで計算していたのだろう。
「第二のチャーリー・パーカーは絶対に潰されない」という言葉から推測するに、自分の復讐心に嘘はなく、ニーマンが本物かどうかには確信がない。
あの仕打ちで彼が諦めるならば所詮それまで。
ところがニーマンからの思わぬ反撃を受けて、今まさに伝説を発掘してる、という確信に変わっていった様に思うのだが。
原題の「Whiplash」とは、劇中で主人公が練習しているハンク・レヴィによる有名な楽曲だが、「鞭で打つ」という意味を持ち、フレッチャーのスパルタ教育と掛けられている。
まあ映画だから良いけど、さすがに本当にコレやっちゃうと、天才を育てる前に自分が潰されちゃうだろうなあ。
今回は、音楽をモチーフとした映画という事で、久々に「オーパス・ワン」の2011をチョイス。
元々、力強いボディに繊細でフルーティな香り、絶妙の酸味に滑らかなフィニッシュと、バランスの良さが魅力の高級ワインではあったものの、某マンガに取り上げられたおかげで、日本での販売価格がバカみたいに高くなってしまった。
最近はある程度落ち着いたものの、それでも国外の良心的ショップで買う場合の倍位はするので、送料を入れても現地購入が吉。
寝かせても、若くても美味しいワインだが、2011だともうしばらくは置いた方がベターだろう。

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中国政府の公式発表でも25万、国外の機関の推定では60万を超える犠牲者を出し、二十世紀最悪の震災と言われる唐山大地震によって引き裂かれたある家族の、32年間に渡る喪失と再生の歴史を描く、大作ヒューマンドラマ。
本作は本来2011年3月に日本公開予定だったが、東日本大震災の発生を受けて、無期限の公開延期の憂き目をみていた。
なるほど、冒頭のトンボの大群の発生という予兆に続く、巨大地震による都市破壊の描写は凄まじい。
今も中国の田舎で大きな地震が起こったというニュースがあると、よくレンガ造りの建物が倒壊しているビジュアルが映し出されるが、この当時の唐山の街も殆どが古いレンガ造り。
どうやら鉄筋などは全く入っておらず、強大な大地の揺れに耐えられず、豆腐がつぶれる様にして次々と人間ごと崩壊してゆく。
運よく建物の外に這い出したとしても、過密な都市部では看板やら建設用クレーンやら、街角に存在するあらゆる物が、凶器となって襲い掛かってくる。
確かに本作は東日本大震災の直後にはキツかっただろうが、4年遅れたとはいえ、これだけ力のある作品をDVDスルーではなく、劇場公開してくれた関係者には敬意を表したい。
※結末に触れています。
物語の軸は、この地獄の中で、母親の究極の決断によって生き別れとなる双子、姉のドンと弟のダーだ。
二人は建物の瓦礫の下に生き埋めとなるが、圧し掛かっているコンクリート塊が不安定なために、助けられるのは一人だけ。
片方を助ければ、もう一人は潰されて死ぬ。
時間が経てば経つだけ状況が悪化する中で、残酷な決断を迫られた母のユェンニーは、かすかに声の聞こえるダーを選択する。
だが、死んだと思われていたドンは、死体置き場で息を吹き返すのだ。
自分は母に見捨てられたと思った彼女は、記憶喪失のフリをして、救援に来た人民解放軍の軍医夫妻に、孤児として引き取られる。
生き延びるも片腕を失い、ユェンニーと共に唐山で暮らすダーと、故郷を離れ養父母の元で徐々に心を開いてゆくドン。
やがて青年となったダーは、隻腕のハンデを持ちながらも自立するために一人で都会を目指し、震災のトラウマにずっと苦しめられるドンは、いつしか医学の道を志す。
運命によって別たれた双子の青春期は、時に接近し、時に離れながらも、交わる事は無いのである。
全く異なる境遇で成長してゆく二人の人生の背景として、中国の急激な高度成長期が垣間見られるのが興味深い。
大家族は核家族へ、レンガ造りの家は近代的な高層マンションへ、自転車はBMWに。
社会の大きな変化と同様、ダーとドンの人生も、それぞれに山あり谷ありのジェットコースターだ。
資本主義の波にのり、成功者となるダーや、シングルマザーとしての人生を選び、遂には海外へと移住するドンの生き方は、正に二十一世紀を駆けるニューチャイナ。
若い世代に対して、唐山の古びた家に一人で暮らし、震災で見殺しにせざるを得なかった夫と娘への贖罪の日々を送るユェンニーや、妻に死なれた後も解放軍の官舎で静かに暮らし、ドンを見守り続ける養父らは、いわば去りゆく古き良きオールドチャイナの象徴として描かれる。
そして、ばらばらだった家族が遂に再びめぐり合うのが、あの2008年に起こった四川大地震なのは、ぶっちゃけできすぎではあるものの、この実にパワフルな人間ドラマの帰趨する先として相応しい舞台だろう。
震災によって引き裂かれた双子は、異なる立場でもう一度震災を経験する事によって、心の中に秘めてきた葛藤に決着をつけるのだ。
本作は、32年間に及ぶ愛と哀しみの家族史であると共に、中国と言う巨大な家の激動の時代を象徴する物語。
135分の長尺もエピソードはてんこ盛りで退屈する暇は無く、映画館の大スクリーンで鑑賞すべき力作である。
今回は、唐山のある河北省の隣、山東省の青島で生まれた中国を代表するビール「青島ビール」をチョイス。
青島は1898年にドイツの租借地となったことから、ドイツの投資家が1903年に醸造所を開設、その後第一次世界大戦後には日本資本に買収されたり、共産党に国営化されたり、改革解放の動きの中でこんどは民営化されたり、激動の中国史の中でしぶとく生き残ってきた。
青島人のビール好きは中国でも独特らしく、普通の瓶ビールなどで満足できない住民は、でっかいビニール袋に大量のビールを直接注ぎ入れて買い、その日のうちに全部飲んじゃうのだとか。
青島へは行った事が無いけど、一度体験してみたい豪快なビール文化だ。

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