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2015年04月16日 (木) | 編集 |
バードマンは飛んだのか?
メキシコの異才、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の最新作は、ブロードウェイの舞台制作を通して、再起をかける落ち目の俳優が、虚構と現実の狭間に迷うシュールでユーモラスなダークファンタジー。
主人公の元ヒーロー映画のスターに、実際にバートン版「バットマン」で知られるマイケル・キートンをキャスティングするという、ダーレン・アロノフスキー的なセンスを取り込みつつ、撮影監督エマニュエル・ルベツキの2時間丸ごとワンカット“風”のカメラワークの効果もあり、驚くべき未見性を持ったユニークな作品となっている。
本年度アカデミー賞で下馬評を覆し、作品賞、監督賞他4部門を受賞した話題作だが、よくもまあ保守的と言われるアカデミー会員が、このぶっ飛んだ作品を選んだものだ。
娯楽として万人受けするとは思わないが、唯一無二の映画体験が出来るパワフルな傑作である。
※ラストに触れています。
スーパーヒーロー映画、「バードマン」シリーズの主役として、絶大な人気を誇ったのも今は昔、世間から忘れられつつある俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、復活をかけてブロードウェイの舞台に挑戦しようとしていた。
思い入れのあるレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々が語ること」を原作に、リーガン自ら脚色・演出・主演する舞台は、リハーサル中の事故で共演の俳優が大けがを負い、降板してしまう。
もう一人の共演者レズリー(ナオミ・ワッツ)の紹介で、代役として実力派俳優のマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)と契約することに成功したものの、傲慢なマイクは舞台の上で好き放題し、プレビュー公演初日は散々な出来に終わる。
ドラッグに溺れた過去を持ち、今は自分の付き人をしている娘サム(エマ・ストーン)との関係もギグシャクしたまま。
ロングランか打ち切りか、全てが決まる本公演の初日が迫る中、リーガンは次第に精神的に追い込まれてゆく・・・・
文章で魅力を表現することが、非常に難しい映画だと思う。
それは本作がイニャリトゥ自身の作品を含め、過去のどの映画とも異なる独自のスタイルを持った一本であることが一つ、もう一つは観客のアプローチの仕方によって全く異なる顔を見せる、ロールシャッハテストの様な作品でもあるからだ。
基本的に、作品全体が主人公であるリーガンの心象風景と捉えて間違いではないだろう。
この世界では、映像と演技と物語が完全に一体で不可分であり、「ゼロ・グラビティ」を地上でやったような、演出と融合した高度な映像テクノロジーが作り出す未見性に驚嘆するばかり。
リーガンが上演しようとしている「愛について語るときに我々が語ること」は、レイモンド・カーヴァーが1981年に発表した短編小説。
とある家のダイニングキッチンで、リーガンが演じるニック、心臓外科医のメル(エドワード・ノートン)、その妻のテリ(ナオミ・ワッツ)、そしてニックの妻のローラ(アンドレア・ライズボロー)の四人が、愛とは何かについて語らう物語である。
テリは以前元恋人のエドに、ストーキングの末に殺されかけた経験がある。
メルはそんな危険な感情は愛とは呼べないと言うが、テリは多少の同情も込めて、エドの行動も愛ゆえだと主張する。
「愛」という一つの言葉ですら、人の数だけの多面性を持っている。
面白いのは、この劇中劇ではリーガンがニックとエドの二役を演じる脚色となっており、物語が進むにつれて、リーガンは“溢れんばかりの想いはあるが理解されない男”エドと自分自身を重ねて行く。
つまり、この短編小説が劇中劇だけでなく、映画全体のモチーフともなる二重構造なのである。
これだけでなく、本作では作中のあらゆる部分に二重性が配されている。
リーガンと彼の心の声であるバードマンもそうだし、劇場の内と外、路上から見上げる目線と屋上から見下ろす目線、映画界と演劇界、SNSに代表されるオンラインとオフライン、そしてもちろん虚構と現実。
かつての大スターという自尊心によってがんじがらめとなり、追い詰められてゆくリーガンの心の中では虚構と現実が同じ次元で存在しており、それらがシームレスに繋がってる、という事を映像的に描写するのが、ほぼ2時間を1カット風に見せるカメラの工夫。
だから終盤でリーガンがある事をやってしまい、病院へと運ばれる暗転の後は、明確に異なる次元の心象への移動と見ることができる。
また虚実の混濁を示す作劇上のメタファーが、あちこちで描写されるリーガンの超能力である。
何しろこの人、ファーストカットで麻原彰晃よろしく空中浮遊しちゃってるのだ。
もっとも、設定上彼の超能力が現実か妄想かはわりとどうでも良い。
重要なのは、リーガンが舞台制作によって、好むと好まざるに関わらず、バードマンという過去の鎧を次々に剥ぎ取られ、遂には文字通り裸一貫、パンツ一丁になってしまう事である。
そうなってこそ、ストレートに素の自分と向き合わざるを得なくなるのだけど、自分が何者で、何を成し遂げたいのか、何を求めているのかなど、リーガンは最初から分かっているのだと思う。
故に、彼の超能力の発露は、虚飾の自尊心を剥ぎ取られるほどに、ブーストがかかって加速してゆく。
ちなみに、マイケル・キートン以外の劇中劇の出演者全員が、虚構と現実が混じり合う世界に迷う、という内容の代表作を持つというのも、おそらく偶然ではあるまい。
さらに出演者で言えば、リーガンの娘サムを演じたエマ・ストーンも、“元”ヒーロー映画のヒロインであり、「アメイジング・スパイダーマン2」で彼女が演じたグウェン・ステイシーの最期が転落死であったことも、もしかしたらイニャリトゥの仕掛けた暗喩の一つかもしれない。
実は観る前に、オチを人から聞かされてしまっていたのだけど、映画自体が未見性の塊のような作中なので、全く問題なかった。
この映画は画面のなかで何が起こったか、という表面化した情報だけでは理解不能だ。
何しろラストシーンのカメラは、観客が一番知りたい情報を描写せず、それを見ている哀しみと喜びが混ぜこぜになったような、サムの表情を写し出す。
イニャリトゥは、ここに至る2時間の間、映像と演技と物語が三位一体となったリーガンの心象世界を体験させる事で、従来の映画表現の限界を超え、観客の心に直接画を描こうとしているように思える。
だから、「愛」の形が人の数だけのあるように、この映画には“正しい解釈”は存在しないのである。
はたして、サムの大きな瞳は最後に何を見たのだろうか。
圧倒的な力作であるが、私的に唯一ちょっと物足りないのは、“なぜスーパーヒーローなのか?”という辺りの突っ込みが表層的な事。
映画ではリーガンは完全に過去の人として扱われているが、ジョージ・リーヴスの時代ならいざ知らず、現実のマイケル・キートンがそうであるように、現代アメリカのサブカルチャーの中では、人気ヒーローを演じた役者には一定の社会的なリスペクトがあると思う。
彼を取り巻く世界観の中で、尊敬と卑下のせめぎ合い、過去の当たり役という以上に、リーガンにとってバードマンとは何だったのかが見えると、ある種のアメリカ文化論的な部分がもっと深くなったのではなかろうか。
まあ、イニャリトゥはデル・トロじゃないから、ディープなオタク世界にはあんまり興味無いのだろうな。
しかし作品のタイプは全然違えど、表現者が極限まで追い込まれる展開、さらにジャジーなドラムが世界観のキーであるあたり、不思議と「セッション」と共通点が多い。
芸術の世界の狂気って、最近のアメリカ映画の流行りなんだろうか。
本作にも影響を与えていそうな、「ブラック・スワン」あたりから増えてきたような気がするが、だとするとこの流れの源流にあるのは、亡き今敏監督の「パーフェクトブルー」なのか?
この映画、アラン・パーカーの「バーディー」を思わせる瞬間もある。
という訳で鳥さん繋がりでカクテルの「バーディー」をチョイス。
ホワイトラム36ml、オレンジキュラソー6ml、オレンジジュース6ml、パイナップルジュース6ml、グレナデン・シロップ6mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
キュラソーを使わずにホワイト・ラムを増やし、グレープフルーツジュースやラズベリージュースを使うレシピもある。
材料から分かるようにフルーティで甘いカクテルで、優しく虚構と現実の迷宮に誘ってくれるだろう。
ちなみにカタカナだと同じだけど、英語のスペルは映画が「Birdy」でカクテルは「Birdie」でちょっと違う。
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メキシコの異才、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の最新作は、ブロードウェイの舞台制作を通して、再起をかける落ち目の俳優が、虚構と現実の狭間に迷うシュールでユーモラスなダークファンタジー。
主人公の元ヒーロー映画のスターに、実際にバートン版「バットマン」で知られるマイケル・キートンをキャスティングするという、ダーレン・アロノフスキー的なセンスを取り込みつつ、撮影監督エマニュエル・ルベツキの2時間丸ごとワンカット“風”のカメラワークの効果もあり、驚くべき未見性を持ったユニークな作品となっている。
本年度アカデミー賞で下馬評を覆し、作品賞、監督賞他4部門を受賞した話題作だが、よくもまあ保守的と言われるアカデミー会員が、このぶっ飛んだ作品を選んだものだ。
娯楽として万人受けするとは思わないが、唯一無二の映画体験が出来るパワフルな傑作である。
※ラストに触れています。
スーパーヒーロー映画、「バードマン」シリーズの主役として、絶大な人気を誇ったのも今は昔、世間から忘れられつつある俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、復活をかけてブロードウェイの舞台に挑戦しようとしていた。
思い入れのあるレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々が語ること」を原作に、リーガン自ら脚色・演出・主演する舞台は、リハーサル中の事故で共演の俳優が大けがを負い、降板してしまう。
もう一人の共演者レズリー(ナオミ・ワッツ)の紹介で、代役として実力派俳優のマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)と契約することに成功したものの、傲慢なマイクは舞台の上で好き放題し、プレビュー公演初日は散々な出来に終わる。
ドラッグに溺れた過去を持ち、今は自分の付き人をしている娘サム(エマ・ストーン)との関係もギグシャクしたまま。
ロングランか打ち切りか、全てが決まる本公演の初日が迫る中、リーガンは次第に精神的に追い込まれてゆく・・・・
文章で魅力を表現することが、非常に難しい映画だと思う。
それは本作がイニャリトゥ自身の作品を含め、過去のどの映画とも異なる独自のスタイルを持った一本であることが一つ、もう一つは観客のアプローチの仕方によって全く異なる顔を見せる、ロールシャッハテストの様な作品でもあるからだ。
基本的に、作品全体が主人公であるリーガンの心象風景と捉えて間違いではないだろう。
この世界では、映像と演技と物語が完全に一体で不可分であり、「ゼロ・グラビティ」を地上でやったような、演出と融合した高度な映像テクノロジーが作り出す未見性に驚嘆するばかり。
リーガンが上演しようとしている「愛について語るときに我々が語ること」は、レイモンド・カーヴァーが1981年に発表した短編小説。
とある家のダイニングキッチンで、リーガンが演じるニック、心臓外科医のメル(エドワード・ノートン)、その妻のテリ(ナオミ・ワッツ)、そしてニックの妻のローラ(アンドレア・ライズボロー)の四人が、愛とは何かについて語らう物語である。
テリは以前元恋人のエドに、ストーキングの末に殺されかけた経験がある。
メルはそんな危険な感情は愛とは呼べないと言うが、テリは多少の同情も込めて、エドの行動も愛ゆえだと主張する。
「愛」という一つの言葉ですら、人の数だけの多面性を持っている。
面白いのは、この劇中劇ではリーガンがニックとエドの二役を演じる脚色となっており、物語が進むにつれて、リーガンは“溢れんばかりの想いはあるが理解されない男”エドと自分自身を重ねて行く。
つまり、この短編小説が劇中劇だけでなく、映画全体のモチーフともなる二重構造なのである。
これだけでなく、本作では作中のあらゆる部分に二重性が配されている。
リーガンと彼の心の声であるバードマンもそうだし、劇場の内と外、路上から見上げる目線と屋上から見下ろす目線、映画界と演劇界、SNSに代表されるオンラインとオフライン、そしてもちろん虚構と現実。
かつての大スターという自尊心によってがんじがらめとなり、追い詰められてゆくリーガンの心の中では虚構と現実が同じ次元で存在しており、それらがシームレスに繋がってる、という事を映像的に描写するのが、ほぼ2時間を1カット風に見せるカメラの工夫。
だから終盤でリーガンがある事をやってしまい、病院へと運ばれる暗転の後は、明確に異なる次元の心象への移動と見ることができる。
また虚実の混濁を示す作劇上のメタファーが、あちこちで描写されるリーガンの超能力である。
何しろこの人、ファーストカットで麻原彰晃よろしく空中浮遊しちゃってるのだ。
もっとも、設定上彼の超能力が現実か妄想かはわりとどうでも良い。
重要なのは、リーガンが舞台制作によって、好むと好まざるに関わらず、バードマンという過去の鎧を次々に剥ぎ取られ、遂には文字通り裸一貫、パンツ一丁になってしまう事である。
そうなってこそ、ストレートに素の自分と向き合わざるを得なくなるのだけど、自分が何者で、何を成し遂げたいのか、何を求めているのかなど、リーガンは最初から分かっているのだと思う。
故に、彼の超能力の発露は、虚飾の自尊心を剥ぎ取られるほどに、ブーストがかかって加速してゆく。
ちなみに、マイケル・キートン以外の劇中劇の出演者全員が、虚構と現実が混じり合う世界に迷う、という内容の代表作を持つというのも、おそらく偶然ではあるまい。
さらに出演者で言えば、リーガンの娘サムを演じたエマ・ストーンも、“元”ヒーロー映画のヒロインであり、「アメイジング・スパイダーマン2」で彼女が演じたグウェン・ステイシーの最期が転落死であったことも、もしかしたらイニャリトゥの仕掛けた暗喩の一つかもしれない。
実は観る前に、オチを人から聞かされてしまっていたのだけど、映画自体が未見性の塊のような作中なので、全く問題なかった。
この映画は画面のなかで何が起こったか、という表面化した情報だけでは理解不能だ。
何しろラストシーンのカメラは、観客が一番知りたい情報を描写せず、それを見ている哀しみと喜びが混ぜこぜになったような、サムの表情を写し出す。
イニャリトゥは、ここに至る2時間の間、映像と演技と物語が三位一体となったリーガンの心象世界を体験させる事で、従来の映画表現の限界を超え、観客の心に直接画を描こうとしているように思える。
だから、「愛」の形が人の数だけのあるように、この映画には“正しい解釈”は存在しないのである。
はたして、サムの大きな瞳は最後に何を見たのだろうか。
圧倒的な力作であるが、私的に唯一ちょっと物足りないのは、“なぜスーパーヒーローなのか?”という辺りの突っ込みが表層的な事。
映画ではリーガンは完全に過去の人として扱われているが、ジョージ・リーヴスの時代ならいざ知らず、現実のマイケル・キートンがそうであるように、現代アメリカのサブカルチャーの中では、人気ヒーローを演じた役者には一定の社会的なリスペクトがあると思う。
彼を取り巻く世界観の中で、尊敬と卑下のせめぎ合い、過去の当たり役という以上に、リーガンにとってバードマンとは何だったのかが見えると、ある種のアメリカ文化論的な部分がもっと深くなったのではなかろうか。
まあ、イニャリトゥはデル・トロじゃないから、ディープなオタク世界にはあんまり興味無いのだろうな。
しかし作品のタイプは全然違えど、表現者が極限まで追い込まれる展開、さらにジャジーなドラムが世界観のキーであるあたり、不思議と「セッション」と共通点が多い。
芸術の世界の狂気って、最近のアメリカ映画の流行りなんだろうか。
本作にも影響を与えていそうな、「ブラック・スワン」あたりから増えてきたような気がするが、だとするとこの流れの源流にあるのは、亡き今敏監督の「パーフェクトブルー」なのか?
この映画、アラン・パーカーの「バーディー」を思わせる瞬間もある。
という訳で鳥さん繋がりでカクテルの「バーディー」をチョイス。
ホワイトラム36ml、オレンジキュラソー6ml、オレンジジュース6ml、パイナップルジュース6ml、グレナデン・シロップ6mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
キュラソーを使わずにホワイト・ラムを増やし、グレープフルーツジュースやラズベリージュースを使うレシピもある。
材料から分かるようにフルーティで甘いカクテルで、優しく虚構と現実の迷宮に誘ってくれるだろう。
ちなみにカタカナだと同じだけど、英語のスペルは映画が「Birdy」でカクテルは「Birdie」でちょっと違う。

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