2015年04月29日 (水) | 編集 |
“寄生獣”とは、何者か?
昨年11月に前編が公開された、岩明均の傑作漫画を原作とするSFサスペンス二部作の完結編。
人間の脳を奪い、捕食する謎の寄生生物、パラサイトが出現した世界で、右手だけをパラサイトに乗っ取られた高校生、泉新一の孤独な苦悩と戦いはいよいよクライマックス。
今回も原作からの取捨選択が巧みで、殆どダイジェストを感じさせず、キッチリと物語を完結させた脚色が見事。
前作の母性を巡る葛藤を次第に深化させ、最終的には原作と同じ“我々は何者か?”というポイントに落とし込んでいる。
20年も前に完結した漫画を現在に作る意味、内容的なアップデートも盛り込まれ、原作が曖昧にしてる部分にも一定の答えを出してるのはさすがだ。
漫画原作のSF作品として、日本映画史上最も成功した作品と言って良いと思う。
※クライマックスに触れています。
母の仇を討った泉新一(染谷将太)は、右手に寄生したミギー(阿部サダヲ)と共に人知れずパラサイト狩りを続けていた。
しかし、彼の存在は次第にパラサイトからも、警察からもマークされるようになる。
新一の暮らす東福山市は、田宮良子(深津絵里)の計画によって組織化されたパラサイトたちが、市長の広川(北村一輝)をはじめ市の要職を占め、パラサイトによる支配を進めようとしていた。
一方の警察も、人間とパラサイトを判別する能力を持つ、死刑囚の浦上(新井浩文)に協力させ、市役所のパラサイトを殲滅するために、奇襲攻撃を計画する。
人間の赤ん坊を産み育て、パラサイトと人間の共存を模索する田宮良子は、その可能性を新一とミギーに見い出すものの、自らが利用していたフリー記者の倉森(大森南朋)の捨て身の行動によって正体を暴かれ、赤ん坊を守って命を落とす。
そして遂に人間とパラサイトが激突する時、田宮良子の実験によって作られた、最強のパラサイト、後藤(浅野忠信)が新一の前に姿を現す・・・・
期待に違わぬ面白さである。
前編のダイジェストから、死刑囚・浦上が泉新一の中に人間以外の影を見る、アヴァンタイトルの編集の巧みさに、既に“凄い映画を観ている”というカタルシスを覚えた。
前作のショートレビューにも書いたが、岩明均の原作は、エコロジー問題が世界的なイッシューとなり始めた80年代末から90年代半ばにかけて連載され、娯楽性だけに留まらない鋭い社会性を持つが故に歴史的な傑作となった作品だ。
ちなみに私は、当時流行った“Save the Earth”というフレーズが大嫌いだった。
人類ごときに地球を救うことも滅ぼす事も出来っこない、出来るのはせめて自分たちの生存環境を守る事程度だと考えていたので、“Save the Earth”は正に人類の傲慢さの象徴みたいに思えたのだ。
そして、地球環境と人類の存在を相対化して考えた時、当時最も自分のイメージにフィットし、共感したのが「寄生獣」なのである。
物語の中で、寄生生物は基本的に“パラサイト”と呼ばれている。
ではタイトルの“寄生獣”とは何か?
映画化に当たって、古沢良太と山崎貴は全10巻の物語からエピソードとキャラクターの取捨選択と共に、いくつか大きな設定変更を行っている。
最初の大きな変更が、そもそもパラサイトがどこから来たか?という部分だ。
原作のパラサイトは、空からフワリフワリと舞い降りてくる。
作中に明確な説明は一切無いのだが、この描写によってパラサイトが宇宙人とか地球外の絶対者の類によって齎されたと解釈する人も多かったようだ。
そこで映画では、パラサイトが海から現れるように設定変更され、作品の世界観を地球という閉ざされた生態系に閉じ込め、よりガイア思想的なところに持っていった。
この惑星の表面に蠢き、その活動に必要な全てを閉じた世界から与えられている人類こそが、地球という巨大な生命にとっては寄生生物、いや寄生獣。
過密な都市で暮らしていると、ふと「この街の人の数が半分になったら、もっと暮らしやすくなるんではないか?」などと恐ろしい考えが過ぎる事は無いだろうか?
閉じた世界に人類が増えすぎると、一番困るのも実は人類。
パラサイトを生み出し、「この種を食い尽くせ」という命令を与えている“大いなる意思”とは人類自身の集合意識であり、パラサイトは人類を保管する存在であるのと同時に、我々自身のメタファーなのである。
人類とパラサイト、不完全な二つの生命を繋ぐ存在が、右手にミギーを宿した泉新一なのだが、映画の彼はとにかく孤独だ。
原作では新一の家は母子家庭ではなく、頼りになる父親がいるし、右手ならぬアゴに寄生したパラサイトのジョーと共存している宇田という協力者もいる。
学校での友人関係もそれなりに描かれているし、物語のクライマックスで、新一の背中を押してくれる美津代という老婆も印象的なキャラクターだった。
しかし映画版では、これら新一の理解者や友人たちはことごとく消えている。
母の仇をとった後、同じ境遇の“元人間”を殺して殺して、最後には自分自身という矛盾が残る“仮面ライダーの決意” をした新一にとって、運命共同体であるミギーを除けば、唯一絶対的な味方はガールフレンドの村野里美ただ一人、いやあえて理解者と考えると、彼女と田宮良子の二人だけなのである。
だから、映画の新一とこの二人の関係は、原作以上に濃密で、なお且つ行動とその意味が分りやすい。
新一と里美は原作でも結ばれるのだが、それは市役所の制圧戦で最強のパラサイト、後藤の戦闘力を目の当たりにした新一の恐怖と動揺を、里美が静める流れの中でだった。
対して映画では、後藤との最初の直接対決に敗北し、ミギーを失った後。
心と体に傷を負った新一は、里美と再会するとまるで小さな子どものように泣き崩れ、刹那的な生をかみ締めるかのようにして里美を抱くのである。
原作と意味は同じだが、プロットの密度を高めて感情をより強化する、という脚色のスタンスは全編にわたって貫かれており、日本の青少年エンタメ映画が逃げがちなこの種シークエンスを、ややソフトながらもきちんと描いているのも立派である。
この段階で二人が結ばれた事は、この後のクライマックス、そして物語の落としどころにとっても大きな意味を持つのだ。
その新一と後藤の最後の対決も、原作と大きく変更された部分だ。
原作では山中の産廃の不法投棄場で、新一が偶然“毒”によって汚染された鉄の棒を後藤のわき腹に打ち込んだ事で、彼の体に寄生する複数のパラサイトの統率が乱れ、復活したミギーによって体が粉砕される。
この部分が連載されていた90年代の半ばは、産業廃棄物の無秩序な投棄によって、土壌のダイオキシン汚染が深刻化していた時期と一致し、作中で言及されている訳ではないものの、当時漫画を読んだ者は、ほとんど自動的に“毒=ダイオキシン”と認識しただろう。
だがこの二十年で、産廃も管理の厳格化とリサイクルが進み、当時ほど大きな問題として取り上げられる事は無くなった。
なら今の日本で、観客の誰もが“人間の垂れ流す毒”という言葉から連想するものは何か?
映画は、クライマックスの舞台を、被災地の瓦礫の焼却場とし、灼熱の炎の中で後藤に打ち込まれるのは、“放射性廃棄物”なのである。
なるほど、確かに東日本大震災と原発事故を経験した2015年の日本人にとって、良くも悪くもこれほど分りやすい例はあるまい。
ただ、被災地から運び出された焼却瓦礫に、一瞬で生物にダメージを与えるほどの放射性物質が付着している事など、現実にはまずあり得ない。
「寄生獣」二部作は、漫画原作とはいっても、アイドル俳優と派手目のVFXでお茶を濁しているような、そこらのチャライ作品とは全く違う。
高度な社会性を持つ人間ドラマとして、強くリアリティを感じさせるからこそ、現実のイッシューとなっているデリケートなモチーフを、映画的なウソとして見せてしまって良いのか?という疑問は拭えないし、この部分をもって批判されたとしても仕方がないだろう。
個人的には、放射性廃棄物というアイディア自体は秀逸だが、展開や設定などはもう少し慎重な扱いをしてもよかったと思う。
そして、戦い終わった新一が、瀕死の後藤にとどめを刺すにいたる背景も異なっている。
原作では、一度その場を立ち去ろうとした新一が、ミギーとの会話のなかで、今を生きている一人の人間として、自分のすべき事、出来る事を考える。
「おれはちっぽけな・・・一匹の人間だ。せいぜい小さな家族を守る程度の・・・」と考えなおして、涙ながらに後藤を殺す。
彼が考えた“小さな家族”とは、それまでに守れなかった多くの命であり、長い物語の流れがあってこそ、説得力を持つ描写である。
映画では、一度後藤を見逃そうとした新一の目線の先に、今守るべき里美の姿があり、そこで原作と同じ決意をして、後藤を燃え盛る焼却炉に投げ落とすのだ。
構成要素は原作に忠実ながら、行動に繋がる心理描写はあくまでも具体的に、統合できる部分は可能な限りロジカルに構成し直し、長大な物語を4時間で無理なく組み立てた脚色の妙。
もちろん、きちんと演技ができる俳優をキャスティングできた事も大きいと思う。
映画的時間に再構成された優れた物語があって、優れた俳優がいたから、安易なコスプレショーに走る必要が無く、時代を超える力のある重厚な人間ドラマが成立しているのだ。
原作同様、長く語り継がれるであろう、2015年の日本を代表する傑作である。
最後まで緊張感の続く本作、終わったらやはりビールが飲みたい。
ヒロイン橋本愛のもう一本の傑作「リトル・フォレスト 冬・春」にも付け合せたクラフトビール、常陸野ネストから今度はドイツスタイルの「バイツェン」をチョイス。
繊細な泡に軽快な喉ごし、苦味が少なくフルーティな香りの飲みやすい一本。
クセがないので、お肉とでも魚介とでも合わせやすい。
そういえばミギーの料理の腕前は相当なものだったが、一家に一台あると便利かも(笑
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昨年11月に前編が公開された、岩明均の傑作漫画を原作とするSFサスペンス二部作の完結編。
人間の脳を奪い、捕食する謎の寄生生物、パラサイトが出現した世界で、右手だけをパラサイトに乗っ取られた高校生、泉新一の孤独な苦悩と戦いはいよいよクライマックス。
今回も原作からの取捨選択が巧みで、殆どダイジェストを感じさせず、キッチリと物語を完結させた脚色が見事。
前作の母性を巡る葛藤を次第に深化させ、最終的には原作と同じ“我々は何者か?”というポイントに落とし込んでいる。
20年も前に完結した漫画を現在に作る意味、内容的なアップデートも盛り込まれ、原作が曖昧にしてる部分にも一定の答えを出してるのはさすがだ。
漫画原作のSF作品として、日本映画史上最も成功した作品と言って良いと思う。
※クライマックスに触れています。
母の仇を討った泉新一(染谷将太)は、右手に寄生したミギー(阿部サダヲ)と共に人知れずパラサイト狩りを続けていた。
しかし、彼の存在は次第にパラサイトからも、警察からもマークされるようになる。
新一の暮らす東福山市は、田宮良子(深津絵里)の計画によって組織化されたパラサイトたちが、市長の広川(北村一輝)をはじめ市の要職を占め、パラサイトによる支配を進めようとしていた。
一方の警察も、人間とパラサイトを判別する能力を持つ、死刑囚の浦上(新井浩文)に協力させ、市役所のパラサイトを殲滅するために、奇襲攻撃を計画する。
人間の赤ん坊を産み育て、パラサイトと人間の共存を模索する田宮良子は、その可能性を新一とミギーに見い出すものの、自らが利用していたフリー記者の倉森(大森南朋)の捨て身の行動によって正体を暴かれ、赤ん坊を守って命を落とす。
そして遂に人間とパラサイトが激突する時、田宮良子の実験によって作られた、最強のパラサイト、後藤(浅野忠信)が新一の前に姿を現す・・・・
期待に違わぬ面白さである。
前編のダイジェストから、死刑囚・浦上が泉新一の中に人間以外の影を見る、アヴァンタイトルの編集の巧みさに、既に“凄い映画を観ている”というカタルシスを覚えた。
前作のショートレビューにも書いたが、岩明均の原作は、エコロジー問題が世界的なイッシューとなり始めた80年代末から90年代半ばにかけて連載され、娯楽性だけに留まらない鋭い社会性を持つが故に歴史的な傑作となった作品だ。
ちなみに私は、当時流行った“Save the Earth”というフレーズが大嫌いだった。
人類ごときに地球を救うことも滅ぼす事も出来っこない、出来るのはせめて自分たちの生存環境を守る事程度だと考えていたので、“Save the Earth”は正に人類の傲慢さの象徴みたいに思えたのだ。
そして、地球環境と人類の存在を相対化して考えた時、当時最も自分のイメージにフィットし、共感したのが「寄生獣」なのである。
物語の中で、寄生生物は基本的に“パラサイト”と呼ばれている。
ではタイトルの“寄生獣”とは何か?
映画化に当たって、古沢良太と山崎貴は全10巻の物語からエピソードとキャラクターの取捨選択と共に、いくつか大きな設定変更を行っている。
最初の大きな変更が、そもそもパラサイトがどこから来たか?という部分だ。
原作のパラサイトは、空からフワリフワリと舞い降りてくる。
作中に明確な説明は一切無いのだが、この描写によってパラサイトが宇宙人とか地球外の絶対者の類によって齎されたと解釈する人も多かったようだ。
そこで映画では、パラサイトが海から現れるように設定変更され、作品の世界観を地球という閉ざされた生態系に閉じ込め、よりガイア思想的なところに持っていった。
この惑星の表面に蠢き、その活動に必要な全てを閉じた世界から与えられている人類こそが、地球という巨大な生命にとっては寄生生物、いや寄生獣。
過密な都市で暮らしていると、ふと「この街の人の数が半分になったら、もっと暮らしやすくなるんではないか?」などと恐ろしい考えが過ぎる事は無いだろうか?
閉じた世界に人類が増えすぎると、一番困るのも実は人類。
パラサイトを生み出し、「この種を食い尽くせ」という命令を与えている“大いなる意思”とは人類自身の集合意識であり、パラサイトは人類を保管する存在であるのと同時に、我々自身のメタファーなのである。
人類とパラサイト、不完全な二つの生命を繋ぐ存在が、右手にミギーを宿した泉新一なのだが、映画の彼はとにかく孤独だ。
原作では新一の家は母子家庭ではなく、頼りになる父親がいるし、右手ならぬアゴに寄生したパラサイトのジョーと共存している宇田という協力者もいる。
学校での友人関係もそれなりに描かれているし、物語のクライマックスで、新一の背中を押してくれる美津代という老婆も印象的なキャラクターだった。
しかし映画版では、これら新一の理解者や友人たちはことごとく消えている。
母の仇をとった後、同じ境遇の“元人間”を殺して殺して、最後には自分自身という矛盾が残る“仮面ライダーの決意” をした新一にとって、運命共同体であるミギーを除けば、唯一絶対的な味方はガールフレンドの村野里美ただ一人、いやあえて理解者と考えると、彼女と田宮良子の二人だけなのである。
だから、映画の新一とこの二人の関係は、原作以上に濃密で、なお且つ行動とその意味が分りやすい。
新一と里美は原作でも結ばれるのだが、それは市役所の制圧戦で最強のパラサイト、後藤の戦闘力を目の当たりにした新一の恐怖と動揺を、里美が静める流れの中でだった。
対して映画では、後藤との最初の直接対決に敗北し、ミギーを失った後。
心と体に傷を負った新一は、里美と再会するとまるで小さな子どものように泣き崩れ、刹那的な生をかみ締めるかのようにして里美を抱くのである。
原作と意味は同じだが、プロットの密度を高めて感情をより強化する、という脚色のスタンスは全編にわたって貫かれており、日本の青少年エンタメ映画が逃げがちなこの種シークエンスを、ややソフトながらもきちんと描いているのも立派である。
この段階で二人が結ばれた事は、この後のクライマックス、そして物語の落としどころにとっても大きな意味を持つのだ。
その新一と後藤の最後の対決も、原作と大きく変更された部分だ。
原作では山中の産廃の不法投棄場で、新一が偶然“毒”によって汚染された鉄の棒を後藤のわき腹に打ち込んだ事で、彼の体に寄生する複数のパラサイトの統率が乱れ、復活したミギーによって体が粉砕される。
この部分が連載されていた90年代の半ばは、産業廃棄物の無秩序な投棄によって、土壌のダイオキシン汚染が深刻化していた時期と一致し、作中で言及されている訳ではないものの、当時漫画を読んだ者は、ほとんど自動的に“毒=ダイオキシン”と認識しただろう。
だがこの二十年で、産廃も管理の厳格化とリサイクルが進み、当時ほど大きな問題として取り上げられる事は無くなった。
なら今の日本で、観客の誰もが“人間の垂れ流す毒”という言葉から連想するものは何か?
映画は、クライマックスの舞台を、被災地の瓦礫の焼却場とし、灼熱の炎の中で後藤に打ち込まれるのは、“放射性廃棄物”なのである。
なるほど、確かに東日本大震災と原発事故を経験した2015年の日本人にとって、良くも悪くもこれほど分りやすい例はあるまい。
ただ、被災地から運び出された焼却瓦礫に、一瞬で生物にダメージを与えるほどの放射性物質が付着している事など、現実にはまずあり得ない。
「寄生獣」二部作は、漫画原作とはいっても、アイドル俳優と派手目のVFXでお茶を濁しているような、そこらのチャライ作品とは全く違う。
高度な社会性を持つ人間ドラマとして、強くリアリティを感じさせるからこそ、現実のイッシューとなっているデリケートなモチーフを、映画的なウソとして見せてしまって良いのか?という疑問は拭えないし、この部分をもって批判されたとしても仕方がないだろう。
個人的には、放射性廃棄物というアイディア自体は秀逸だが、展開や設定などはもう少し慎重な扱いをしてもよかったと思う。
そして、戦い終わった新一が、瀕死の後藤にとどめを刺すにいたる背景も異なっている。
原作では、一度その場を立ち去ろうとした新一が、ミギーとの会話のなかで、今を生きている一人の人間として、自分のすべき事、出来る事を考える。
「おれはちっぽけな・・・一匹の人間だ。せいぜい小さな家族を守る程度の・・・」と考えなおして、涙ながらに後藤を殺す。
彼が考えた“小さな家族”とは、それまでに守れなかった多くの命であり、長い物語の流れがあってこそ、説得力を持つ描写である。
映画では、一度後藤を見逃そうとした新一の目線の先に、今守るべき里美の姿があり、そこで原作と同じ決意をして、後藤を燃え盛る焼却炉に投げ落とすのだ。
構成要素は原作に忠実ながら、行動に繋がる心理描写はあくまでも具体的に、統合できる部分は可能な限りロジカルに構成し直し、長大な物語を4時間で無理なく組み立てた脚色の妙。
もちろん、きちんと演技ができる俳優をキャスティングできた事も大きいと思う。
映画的時間に再構成された優れた物語があって、優れた俳優がいたから、安易なコスプレショーに走る必要が無く、時代を超える力のある重厚な人間ドラマが成立しているのだ。
原作同様、長く語り継がれるであろう、2015年の日本を代表する傑作である。
最後まで緊張感の続く本作、終わったらやはりビールが飲みたい。
ヒロイン橋本愛のもう一本の傑作「リトル・フォレスト 冬・春」にも付け合せたクラフトビール、常陸野ネストから今度はドイツスタイルの「バイツェン」をチョイス。
繊細な泡に軽快な喉ごし、苦味が少なくフルーティな香りの飲みやすい一本。
クセがないので、お肉とでも魚介とでも合わせやすい。
そういえばミギーの料理の腕前は相当なものだったが、一家に一台あると便利かも(笑

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