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2015年05月26日 (火) | 編集 |
譲れない、オヤジの流儀。
もはや何本あるのかすら分からない、リーアム・ニーソン主演のアクション映画だが、回を重ねるごとに劣化が進むベッソン系の「96時間」シリーズと違って、ジャウム・コレット=セラとのコンビ作はハズレがない。
サイコ・ホラーの秀作「エスター」で脚光をあびたコレット=セラは、その後2011年のスパイ・スリラー「アンノウン」以来三作連続でニーソンと組んでいるが、中でも本作はダントツの出来と言っていいだろう。
自分の息子を守るため、親友の息子を殺してしまったアウトローの物語は、既に古典の様な風格を備えた傑作である。
※核心に触れています。
ニューヨークに暮らす元殺し屋のジミー・コンロン(リーアム・ニーソン)は、命を狙われた息子のマイク(ジョエル・キナマン)を守るため、やむを得ず相手を射殺する。
ところがそれは、組織のボスにしてジミーの親友である、ショーン・マグワイア(エド・ハリス)の息子だった。
怒りに燃えるショーンは、ジミーとマイクに復讐を宣言し、組織の総力を挙げて二人を追い始める。
ジミーは、何とか包囲網を突破して、マイクを逃がそうとするのだが、組織の執拗な追跡はマイクの妻子にまで迫り、ジミーは遂に反撃を決意する・・・・・
本作でニーソンが演じるジミー・コンロンは、嘗ては組織に敵対する者たちを何十人も殺した凄腕のヒットマンだったが、時代の変化に取り残され、今はその日の生活にも困るほど、うらぶれた生活を送る初老の男だ。
裏社会を生き抜いてきたスキルはあるものの、「96時間」で演じた元スパイの様な無双の戦闘スペシャリストではないし、日常においてはむしろ不器用すぎるほど。
ところがある夜、ジミーは長年にわたって共に仕事をし、組織のトップにまで登り詰めた親友、ショーン・マグワイアの息子を殺し、組織からだけでなく、買収された警察にまで追われるハメになってしまうのである。
二代目のドラ息子は、薬の取引でヘマをして殺人を犯し、目撃者であるジミーの息子のマイクも消そうとして、居合わせたジミーによって返り討ちにあう。
悪いのは明らかにドラ息子の方なのだが、血には血を、殺られたら殺り返すという裏社会の掟によって、ジミーとマイクは逃亡者となってしまう。
NYを舞台とした一夜の追撃戦は、アクションとしてはもちろん、凝縮された人間ドラマとしても見応え充分だ。
マイクは長年家に寄りつかず、悪の限りを尽くしてきた父親に反発しており、自分の妻子にすら会わせていない。
彼にとってジミーの存在は、自分たちがまっとうに生きる障害に他ならず、本来なら決して関わりたくない存在なのだ。
ジミーも寂しさを感じつつも、刹那的な人生の自業自得の結果として、そんな関係を受け入れ、遠くから息子一家を見守っている。
一方のショーンもまた、ドラ息子との葛藤を抱えているものの、子を思う父としての気持ちは同じ。
だからこそ、本来似た者同士で、運命共同体であるはずの二人の父親のドラマとして、本作は物凄く切ない。
リーアム・ニーソンとエド・ハリスという、渋い大人の男の色気たっぷり、名優たちの火花散る演技合戦。
「一線を越える時は、一緒だ」
まだ事が起こる前に、ジミーがショーンに告げるこの一言が、物語の帰結する先はもう一つしかない事を示唆している。
アウトローの父親を拒絶するカタギの息子、そして裏社会の父親同士の愛と意地が激突する物語は、古典的なノワールと西部劇の話型を、分解した上で再構築し、現代のNYに移し替えたものだ。
脚本を担当しているブラッド・イングルスビーは、昨年映画ファンの間で評判を呼んだ異色作、「ファーナス/訣別の朝」の人である。
あの作品は、ただ明日を夢見て無法者に惨殺された弟の復讐のため、自らも心に消せない傷を抱えた兄が立ち上がる、男臭い情念のドラマだった。
舞台となる鉄鋼の街、鹿狩り、賭け、イラク戦争、そして二度と帰らない穏やかな日常といったモチーフは、ベトナム戦争に出征した若者たちの悲劇を描いた、マイケル・チミノの傑作「ディアハンター」にオマージュを捧げたものだろう。
同時に、これも現代劇ではあるが、仮に時代設定を150年前にすれば、そのまま西部劇として成立してしまう物語である。
例えば日本で、時代劇のプロットをそのまま現代劇に当てはめるのは、社会の構造があまりに変わりすぎていて、なかなか難しいだろうが、アメリカは違う。
もちろん人種問題や社会の寛容さなど、大きく変わった部分もあるが、本質はずっと同じなのだと思う。
東海岸から先住民族や外国勢力と戦いながら、400年に渡って西へ西へとテリトリーを広げ続けた歴史は、人々のアイデンティティに深く刻まれている。
力によって国が生まれ、力はすなわち秩序であり、アメリカを支配する血と鉄と銃の掟は今なお生きているのだ。
イングルスビーは、共に西部劇の話型を巧みに本歌取りした「ファーナス」と「ラン・オールナイト」に、兄と弟、父と息子、それぞれ対照的な生き方をし、反目する血族の男たちを配し、予期せぬ戦いを経験させることで、“アメリカ人”という一つの巨大な“民族”の魂を描き出す。
この優れた脚本を得て、コレット=セラもディテールに個性を見せつつ、奇をてらわない重量級の名演出で、古くて新しい男たちの燻し銀のドラマを構築している。
無法の荒野で、男が必ず守るべきは、今も昔もファミリー。
アウトローとして生きてきた男が、最後に父親として死んでゆく物語は、開拓時代から続くアメリカの神話として昇華されるのである。
今回はやはりバーボンを飲みたい。
オヤジに似合うアメリカを代表する老舗のスピリット、「ワイルドターキー 8年 50.5度」をチョイス。
8年熟成の琥珀色のバーボンは、ふわりと立つ柔らかな香りに、甘みとコクが繊細に絡み合うパワフルなボディを持つ。
プレミアムバーボンならではの、深い余韻も印象的だ。
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もはや何本あるのかすら分からない、リーアム・ニーソン主演のアクション映画だが、回を重ねるごとに劣化が進むベッソン系の「96時間」シリーズと違って、ジャウム・コレット=セラとのコンビ作はハズレがない。
サイコ・ホラーの秀作「エスター」で脚光をあびたコレット=セラは、その後2011年のスパイ・スリラー「アンノウン」以来三作連続でニーソンと組んでいるが、中でも本作はダントツの出来と言っていいだろう。
自分の息子を守るため、親友の息子を殺してしまったアウトローの物語は、既に古典の様な風格を備えた傑作である。
※核心に触れています。
ニューヨークに暮らす元殺し屋のジミー・コンロン(リーアム・ニーソン)は、命を狙われた息子のマイク(ジョエル・キナマン)を守るため、やむを得ず相手を射殺する。
ところがそれは、組織のボスにしてジミーの親友である、ショーン・マグワイア(エド・ハリス)の息子だった。
怒りに燃えるショーンは、ジミーとマイクに復讐を宣言し、組織の総力を挙げて二人を追い始める。
ジミーは、何とか包囲網を突破して、マイクを逃がそうとするのだが、組織の執拗な追跡はマイクの妻子にまで迫り、ジミーは遂に反撃を決意する・・・・・
本作でニーソンが演じるジミー・コンロンは、嘗ては組織に敵対する者たちを何十人も殺した凄腕のヒットマンだったが、時代の変化に取り残され、今はその日の生活にも困るほど、うらぶれた生活を送る初老の男だ。
裏社会を生き抜いてきたスキルはあるものの、「96時間」で演じた元スパイの様な無双の戦闘スペシャリストではないし、日常においてはむしろ不器用すぎるほど。
ところがある夜、ジミーは長年にわたって共に仕事をし、組織のトップにまで登り詰めた親友、ショーン・マグワイアの息子を殺し、組織からだけでなく、買収された警察にまで追われるハメになってしまうのである。
二代目のドラ息子は、薬の取引でヘマをして殺人を犯し、目撃者であるジミーの息子のマイクも消そうとして、居合わせたジミーによって返り討ちにあう。
悪いのは明らかにドラ息子の方なのだが、血には血を、殺られたら殺り返すという裏社会の掟によって、ジミーとマイクは逃亡者となってしまう。
NYを舞台とした一夜の追撃戦は、アクションとしてはもちろん、凝縮された人間ドラマとしても見応え充分だ。
マイクは長年家に寄りつかず、悪の限りを尽くしてきた父親に反発しており、自分の妻子にすら会わせていない。
彼にとってジミーの存在は、自分たちがまっとうに生きる障害に他ならず、本来なら決して関わりたくない存在なのだ。
ジミーも寂しさを感じつつも、刹那的な人生の自業自得の結果として、そんな関係を受け入れ、遠くから息子一家を見守っている。
一方のショーンもまた、ドラ息子との葛藤を抱えているものの、子を思う父としての気持ちは同じ。
だからこそ、本来似た者同士で、運命共同体であるはずの二人の父親のドラマとして、本作は物凄く切ない。
リーアム・ニーソンとエド・ハリスという、渋い大人の男の色気たっぷり、名優たちの火花散る演技合戦。
「一線を越える時は、一緒だ」
まだ事が起こる前に、ジミーがショーンに告げるこの一言が、物語の帰結する先はもう一つしかない事を示唆している。
アウトローの父親を拒絶するカタギの息子、そして裏社会の父親同士の愛と意地が激突する物語は、古典的なノワールと西部劇の話型を、分解した上で再構築し、現代のNYに移し替えたものだ。
脚本を担当しているブラッド・イングルスビーは、昨年映画ファンの間で評判を呼んだ異色作、「ファーナス/訣別の朝」の人である。
あの作品は、ただ明日を夢見て無法者に惨殺された弟の復讐のため、自らも心に消せない傷を抱えた兄が立ち上がる、男臭い情念のドラマだった。
舞台となる鉄鋼の街、鹿狩り、賭け、イラク戦争、そして二度と帰らない穏やかな日常といったモチーフは、ベトナム戦争に出征した若者たちの悲劇を描いた、マイケル・チミノの傑作「ディアハンター」にオマージュを捧げたものだろう。
同時に、これも現代劇ではあるが、仮に時代設定を150年前にすれば、そのまま西部劇として成立してしまう物語である。
例えば日本で、時代劇のプロットをそのまま現代劇に当てはめるのは、社会の構造があまりに変わりすぎていて、なかなか難しいだろうが、アメリカは違う。
もちろん人種問題や社会の寛容さなど、大きく変わった部分もあるが、本質はずっと同じなのだと思う。
東海岸から先住民族や外国勢力と戦いながら、400年に渡って西へ西へとテリトリーを広げ続けた歴史は、人々のアイデンティティに深く刻まれている。
力によって国が生まれ、力はすなわち秩序であり、アメリカを支配する血と鉄と銃の掟は今なお生きているのだ。
イングルスビーは、共に西部劇の話型を巧みに本歌取りした「ファーナス」と「ラン・オールナイト」に、兄と弟、父と息子、それぞれ対照的な生き方をし、反目する血族の男たちを配し、予期せぬ戦いを経験させることで、“アメリカ人”という一つの巨大な“民族”の魂を描き出す。
この優れた脚本を得て、コレット=セラもディテールに個性を見せつつ、奇をてらわない重量級の名演出で、古くて新しい男たちの燻し銀のドラマを構築している。
無法の荒野で、男が必ず守るべきは、今も昔もファミリー。
アウトローとして生きてきた男が、最後に父親として死んでゆく物語は、開拓時代から続くアメリカの神話として昇華されるのである。
今回はやはりバーボンを飲みたい。
オヤジに似合うアメリカを代表する老舗のスピリット、「ワイルドターキー 8年 50.5度」をチョイス。
8年熟成の琥珀色のバーボンは、ふわりと立つ柔らかな香りに、甘みとコクが繊細に絡み合うパワフルなボディを持つ。
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2015年05月20日 (水) | 編集 |
世界が変わる、三日間。
「息子のまなざし」「少年と自転車」など、ハードかつリリカルな人間ドラマで知られる、ベルギーの異才、ジャン=ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟の最新作。
主人公のサンドラは、ある週の金曜日に会社から解雇通告を受ける。
彼女が失業を免れる唯一の方法は、同僚たちがボーナスを受け取る事を諦め、彼女の雇用継続を希望すること。
はたして人々は彼女のために、文字通り身銭を切ってくれるのか。
週末の三日間に、人生の逆転をかけた小さな旅に出る、サンドラを演じるマリオン・コティヤールが圧倒的に素晴らしい。
※核心に触れています。
うつ病による体調不良で休職中のサンドラ(マリオン・コティヤール)は、復職を目前にした金曜日に、突然の解雇を告げる電話を受ける。 厳しい経済状況の中、社員たちに1人当たり1000ユーロのボーナスを支給するには、1人をリストラしなければならならず、社員投票で彼女の解雇が決まったという。
しかしサンドラの家庭も、飲食店に勤める夫は薄給で、今の暮らしを維持するには彼女の稼ぎが必要だ。
一方的な通告に納得できないサンドラは社長に直談判し、週明け月曜に再度の社員投票を行い、もしも過半数が彼女に賛成するなら、ボーナスの支給を無くし、解雇を撤回するという言質をとる。
投票する社員は16人なので、9人がサンドラの側につけば、失業を免れる。
サンドラは夫のマニュ(ファブリツィオ・ロンジォーネ)の助けを借りて、週末の二日間で一人ひとりを訪ね歩き説得しようとするのだが・・・・・
何とも厳しい映画である。
EUの労働法規は良く知らないが、常識的には誰を雇用し誰を解雇するかの判断は、経営者の仕事であり責任のはず。
こんな風に“仲間か金か”を社員自身に選ばせるような、残酷な投票の仕組みは実際に合法なのだろうか?
映画の視点はずっとサンドラに寄り添うが、彼女の立場では理不尽な解雇でも、同僚から見れば必ずしもそうではない。
彼女が休職している間、仕事が滞りなく回せてしまった事で、彼女は必ずしも必要の無い人材であることが分かってしまっているのだ。
彼らの賃金に関して詳しい説明はないものの、アジア勢との熾烈な価格競争に苦しむ欧州製造業の下層にある中小企業。
映画に登場する皆が日々の生活に追われている様子からして、おそらく1000ユーロ(135000円)のボーナスは、かなり魅力的であるに違いない。
サンドラが闘うか諦めるかの決断を常に迫られるのと同様に、彼女が訪ねてまわる同僚たちも、仲間か金かという岐路に立たされているのである。
そしてそれは、観客も同様だ。
もしも自分がサンドラだったら、あるいは投票する同僚だったら、いったいどうするだろうか?
彼女の立場なら、何もしなければそのまま失業だが、たとえ投票で過半数を味方につけて復職を勝ち取っても、ボーナスを奪われた一部同僚との関係悪化は確実で、どっちに転んでも待っているのは地獄。
それぞれの事情を抱えた同僚たちも、良心から彼女を支持してくれる者いれば、経済的理由で明確に断る者、中には居留守を使って会ってくれない者もいる。
同僚の金と引き換えに復職を願う事は、サンドラにとってもプライドを捨てる覚悟が必要で、支持してくれる人に背中を押され、不支持の人には冷水を浴びせられるシーソーゲームのプレッシャーに、寛解していたうつ病の症状も再び悪化し、危うい精神状態に追い込まれてゆく。
サンドラと夫が、同僚の家をただただ訪ね回る、孤独で厳しい週末ロードムービーは、ある意味普遍的な人間社会と人生の縮図である。
同僚の社員たちも、名前や人種から東欧系やアフリカ系など移民が多いのが分かる。
また彼女を支持する人の中にも、色々な想いが渦巻いている。
例えば最初の投票の時に、サンドラの解雇に賛成するよう、上司の管理職から圧力があったと説明されるのだが、どうもこの話は眉唾であったことが次第に明らかになる。
圧力が無かったとしたら、誰かが保身のために嘘をついているのだが、これが誰の嘘なのかは最後まで説明されない。
状況次第で誰もが嘘をつくかもしれず、つかないかも知れず、嘘をついた者を特定すればその嘘は普遍性を失うからだろう。
ダルデンヌ兄弟はしかし、週末の間に複雑に拗れてしまったサンドラの世界を、そのまま情け容赦なく放り出すような事はしない。
厳しい現実の中でギリギリまで葛藤した彼女は、少なくとも生き方のプライオリティを確立し、人間として大きく成長している。
金曜日のサンドラと、月曜日のサンドラは、もはや別の人なのだ。
だからこそ彼女は、運命の社員投票とその後突き付けられた究極の選択に対して、あらゆる可能性の中で、人間として最良の決断を下し、未来への希望を確固たるものにする事が出来たのである。
サンドラの過酷な週末に何を観て、何を受け取るかは、観る人によって違うそうだが、身内の揉め事が表に出る事をタブー視し、自分の都合で他人に迷惑をかけることを極端に嫌う日本社会では、サンドラの葛藤への共感は少なそうな気がする。
ちょっと味わいたくない週末を描いた、ダルデンヌ兄弟はベルギーの人ということで、今回は代表的なベルギービールの一つ、「ヒューガルデン・ホワイト」をチョイス。
原材料にオレンジピールとコリアンダーを含み、スパイシーでフルーティな清涼感が特徴のホワイトビール。
苦味が弱く比較的ライトな味わいで、ベルギービールは重くて苦手という人にもお勧めできる。
週末を引きずる月曜日の夜、仕事終わりに飲むにはピッタリだ。
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「息子のまなざし」「少年と自転車」など、ハードかつリリカルな人間ドラマで知られる、ベルギーの異才、ジャン=ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟の最新作。
主人公のサンドラは、ある週の金曜日に会社から解雇通告を受ける。
彼女が失業を免れる唯一の方法は、同僚たちがボーナスを受け取る事を諦め、彼女の雇用継続を希望すること。
はたして人々は彼女のために、文字通り身銭を切ってくれるのか。
週末の三日間に、人生の逆転をかけた小さな旅に出る、サンドラを演じるマリオン・コティヤールが圧倒的に素晴らしい。
※核心に触れています。
うつ病による体調不良で休職中のサンドラ(マリオン・コティヤール)は、復職を目前にした金曜日に、突然の解雇を告げる電話を受ける。 厳しい経済状況の中、社員たちに1人当たり1000ユーロのボーナスを支給するには、1人をリストラしなければならならず、社員投票で彼女の解雇が決まったという。
しかしサンドラの家庭も、飲食店に勤める夫は薄給で、今の暮らしを維持するには彼女の稼ぎが必要だ。
一方的な通告に納得できないサンドラは社長に直談判し、週明け月曜に再度の社員投票を行い、もしも過半数が彼女に賛成するなら、ボーナスの支給を無くし、解雇を撤回するという言質をとる。
投票する社員は16人なので、9人がサンドラの側につけば、失業を免れる。
サンドラは夫のマニュ(ファブリツィオ・ロンジォーネ)の助けを借りて、週末の二日間で一人ひとりを訪ね歩き説得しようとするのだが・・・・・
何とも厳しい映画である。
EUの労働法規は良く知らないが、常識的には誰を雇用し誰を解雇するかの判断は、経営者の仕事であり責任のはず。
こんな風に“仲間か金か”を社員自身に選ばせるような、残酷な投票の仕組みは実際に合法なのだろうか?
映画の視点はずっとサンドラに寄り添うが、彼女の立場では理不尽な解雇でも、同僚から見れば必ずしもそうではない。
彼女が休職している間、仕事が滞りなく回せてしまった事で、彼女は必ずしも必要の無い人材であることが分かってしまっているのだ。
彼らの賃金に関して詳しい説明はないものの、アジア勢との熾烈な価格競争に苦しむ欧州製造業の下層にある中小企業。
映画に登場する皆が日々の生活に追われている様子からして、おそらく1000ユーロ(135000円)のボーナスは、かなり魅力的であるに違いない。
サンドラが闘うか諦めるかの決断を常に迫られるのと同様に、彼女が訪ねてまわる同僚たちも、仲間か金かという岐路に立たされているのである。
そしてそれは、観客も同様だ。
もしも自分がサンドラだったら、あるいは投票する同僚だったら、いったいどうするだろうか?
彼女の立場なら、何もしなければそのまま失業だが、たとえ投票で過半数を味方につけて復職を勝ち取っても、ボーナスを奪われた一部同僚との関係悪化は確実で、どっちに転んでも待っているのは地獄。
それぞれの事情を抱えた同僚たちも、良心から彼女を支持してくれる者いれば、経済的理由で明確に断る者、中には居留守を使って会ってくれない者もいる。
同僚の金と引き換えに復職を願う事は、サンドラにとってもプライドを捨てる覚悟が必要で、支持してくれる人に背中を押され、不支持の人には冷水を浴びせられるシーソーゲームのプレッシャーに、寛解していたうつ病の症状も再び悪化し、危うい精神状態に追い込まれてゆく。
サンドラと夫が、同僚の家をただただ訪ね回る、孤独で厳しい週末ロードムービーは、ある意味普遍的な人間社会と人生の縮図である。
同僚の社員たちも、名前や人種から東欧系やアフリカ系など移民が多いのが分かる。
また彼女を支持する人の中にも、色々な想いが渦巻いている。
例えば最初の投票の時に、サンドラの解雇に賛成するよう、上司の管理職から圧力があったと説明されるのだが、どうもこの話は眉唾であったことが次第に明らかになる。
圧力が無かったとしたら、誰かが保身のために嘘をついているのだが、これが誰の嘘なのかは最後まで説明されない。
状況次第で誰もが嘘をつくかもしれず、つかないかも知れず、嘘をついた者を特定すればその嘘は普遍性を失うからだろう。
ダルデンヌ兄弟はしかし、週末の間に複雑に拗れてしまったサンドラの世界を、そのまま情け容赦なく放り出すような事はしない。
厳しい現実の中でギリギリまで葛藤した彼女は、少なくとも生き方のプライオリティを確立し、人間として大きく成長している。
金曜日のサンドラと、月曜日のサンドラは、もはや別の人なのだ。
だからこそ彼女は、運命の社員投票とその後突き付けられた究極の選択に対して、あらゆる可能性の中で、人間として最良の決断を下し、未来への希望を確固たるものにする事が出来たのである。
サンドラの過酷な週末に何を観て、何を受け取るかは、観る人によって違うそうだが、身内の揉め事が表に出る事をタブー視し、自分の都合で他人に迷惑をかけることを極端に嫌う日本社会では、サンドラの葛藤への共感は少なそうな気がする。
ちょっと味わいたくない週末を描いた、ダルデンヌ兄弟はベルギーの人ということで、今回は代表的なベルギービールの一つ、「ヒューガルデン・ホワイト」をチョイス。
原材料にオレンジピールとコリアンダーを含み、スパイシーでフルーティな清涼感が特徴のホワイトビール。
苦味が弱く比較的ライトな味わいで、ベルギービールは重くて苦手という人にもお勧めできる。
週末を引きずる月曜日の夜、仕事終わりに飲むにはピッタリだ。

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2015年05月17日 (日) | 編集 |
今年2月に封切られた、ももいろクローバーZ主演の映画「幕が上がる」の舞台版。
脚本は原作者の平田オリザが執筆し、演出は映画と同じく本広克行が務めているが、ただ映画のストーリーをそのまま舞台に移し変えるのではなく、映画では描かれなかった原作のエピソードを、更に膨らませたスピンオフとなっている。
とは言っても、この舞台版は単独では作品として成立しておらず、完全に映画版の追補編として構成されているのがユニークだ。
映画は、ももクロのアイドル映画としての色彩が強く、同じキャストによる舞台の客層も基本的には彼女たちのファン、あるいは演劇ファン。
ならば当然映画を観た上でこちらも観に来るだろうという、ある種の割りきりが可能とした大胆な作劇である。
舞台版で描かれるのは、県立富士ヶ丘高校演劇部が地区大会を突破し、部の躍進を牽引していた吉岡先生が学校を辞めた直後の約一週間。
いわば信じていた大人に梯子を外され、動揺を隠せない部員たちが、いかにして県大会に向けて立ち直るかの物語だ。
舞台に登場するのはももクロの5人と、二年生、一年生役の部員7人だけで、吉岡先生役の黒木華はもちろん、ムロツヨシも出てこない。
それでも「吉岡先生だったらこうする」「吉岡先生はこう言ってた」など、数々の台詞によって舞台を支配するのは、姿無き黒木華なのである。
演劇部員たちは、吉岡先生の呪縛を振りほどき、あまりに大きすぎる穴を、自分たちの力だけで埋めねばならない。
映画では尺の関係もあってかあまり描かれなかった、地区大会の反省を踏まえ、部員たちが「銀河鉄道の夜」を作り込んで行く過程をじっくり見せる。
この舞台版で追加された、中西さんの過去に纏わるある設定によって、さおりは演出家としての新たな壁にぶち当たり、芝居作りの中心にいる彼女の葛藤は、周りを巻き込んで広がってゆく。
同時にこのエピソードは、なぜ今の時代に「銀河鉄道の夜」なのか?という疑問に対して、作者・平田オリザからの一つのアンサーとなっているのである。
舞台というライブであるゆえ、芝居の中に芝居があるメタ的構造は映画版より必然的に強調され、おそろしく自然な演劇部の“日常”を見ていると、いつしかこの“部活”はホンモノで、百田夏菜子は本当に演出家なのだと錯覚するほど。
いや映画のメイキング、「幕が上がる、その前に。彼女たちのひと夏の挑戦」を見ると、劇中劇の役者たちの意識としては、直接的にさおりに演技指導を受けているので、あながち錯覚でもないっぽいが。
まず弱小高校演劇部を描いた小説があり、その小説を演技経験の無いももクロが演じる事によって、彼女たちの役者としての成長を描く、ある意味でドキュメンタリー的な味わいのある映画が作られた。
そして、今回は映画を経由して物語は舞台に回帰し、ももクロたちはついに本当に演劇人としての第一歩を踏み出したわけだが、彼女たちの演技は映画版よりさらに成長して、これが初舞台とはとても思えない仕上がりだ。
映画では百田夏菜子と他のメンバーの間で、キャラクターの完成度に若干の差を感じたが、今回は皆完璧に役を自分のものとしていて、自信に満ちた堂々たる演技だった。
やはり本広監督の俳優の演技を引き出す能力は、確実に非凡だと思う。
だから、ももクロと演劇との出会いとなる、平田オリザ主催の演劇ワークショップへの参加から、映画の制作と公開、そして今回の舞台版という約1年に渡る、どこでもないどこかへの旅の集大成として、「幕が上がる」と「銀河鉄道の夜」が一つに溶け合い、メタのメタとなるラストはとても感動的だ。
平田オリザは、小説の「幕が上がる」の一つのテーマは「出会い」だと言う。
小説と映画と舞台がトライアングルを形作り、ももクロと部員役の少女たちのリアルな成長とシンクロさせたユニークな試みは、作り手と観客双方に確実に幾つもの新しい出会いをもたらしたと思う。
おそらく映画も舞台も、少女たちが歩み出した長い長い旅の通過点にすぎないのかもしれないが、いつの日か、旅の第2章を期待したい。
ところで、私が観に行った日は、映画版でがるるの祖父を演じた鶴瓶師匠が見に来ていて、幕間に“お祖父ちゃん、部室にがるるを訪ねる”的なアドリブ寸劇を見せてくれたのは、嬉しいサプライズだった。
お祖父ちゃん、校門でがるるに会えたんだろうか?
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脚本は原作者の平田オリザが執筆し、演出は映画と同じく本広克行が務めているが、ただ映画のストーリーをそのまま舞台に移し変えるのではなく、映画では描かれなかった原作のエピソードを、更に膨らませたスピンオフとなっている。
とは言っても、この舞台版は単独では作品として成立しておらず、完全に映画版の追補編として構成されているのがユニークだ。
映画は、ももクロのアイドル映画としての色彩が強く、同じキャストによる舞台の客層も基本的には彼女たちのファン、あるいは演劇ファン。
ならば当然映画を観た上でこちらも観に来るだろうという、ある種の割りきりが可能とした大胆な作劇である。
舞台版で描かれるのは、県立富士ヶ丘高校演劇部が地区大会を突破し、部の躍進を牽引していた吉岡先生が学校を辞めた直後の約一週間。
いわば信じていた大人に梯子を外され、動揺を隠せない部員たちが、いかにして県大会に向けて立ち直るかの物語だ。
舞台に登場するのはももクロの5人と、二年生、一年生役の部員7人だけで、吉岡先生役の黒木華はもちろん、ムロツヨシも出てこない。
それでも「吉岡先生だったらこうする」「吉岡先生はこう言ってた」など、数々の台詞によって舞台を支配するのは、姿無き黒木華なのである。
演劇部員たちは、吉岡先生の呪縛を振りほどき、あまりに大きすぎる穴を、自分たちの力だけで埋めねばならない。
映画では尺の関係もあってかあまり描かれなかった、地区大会の反省を踏まえ、部員たちが「銀河鉄道の夜」を作り込んで行く過程をじっくり見せる。
この舞台版で追加された、中西さんの過去に纏わるある設定によって、さおりは演出家としての新たな壁にぶち当たり、芝居作りの中心にいる彼女の葛藤は、周りを巻き込んで広がってゆく。
同時にこのエピソードは、なぜ今の時代に「銀河鉄道の夜」なのか?という疑問に対して、作者・平田オリザからの一つのアンサーとなっているのである。
舞台というライブであるゆえ、芝居の中に芝居があるメタ的構造は映画版より必然的に強調され、おそろしく自然な演劇部の“日常”を見ていると、いつしかこの“部活”はホンモノで、百田夏菜子は本当に演出家なのだと錯覚するほど。
いや映画のメイキング、「幕が上がる、その前に。彼女たちのひと夏の挑戦」を見ると、劇中劇の役者たちの意識としては、直接的にさおりに演技指導を受けているので、あながち錯覚でもないっぽいが。
まず弱小高校演劇部を描いた小説があり、その小説を演技経験の無いももクロが演じる事によって、彼女たちの役者としての成長を描く、ある意味でドキュメンタリー的な味わいのある映画が作られた。
そして、今回は映画を経由して物語は舞台に回帰し、ももクロたちはついに本当に演劇人としての第一歩を踏み出したわけだが、彼女たちの演技は映画版よりさらに成長して、これが初舞台とはとても思えない仕上がりだ。
映画では百田夏菜子と他のメンバーの間で、キャラクターの完成度に若干の差を感じたが、今回は皆完璧に役を自分のものとしていて、自信に満ちた堂々たる演技だった。
やはり本広監督の俳優の演技を引き出す能力は、確実に非凡だと思う。
だから、ももクロと演劇との出会いとなる、平田オリザ主催の演劇ワークショップへの参加から、映画の制作と公開、そして今回の舞台版という約1年に渡る、どこでもないどこかへの旅の集大成として、「幕が上がる」と「銀河鉄道の夜」が一つに溶け合い、メタのメタとなるラストはとても感動的だ。
平田オリザは、小説の「幕が上がる」の一つのテーマは「出会い」だと言う。
小説と映画と舞台がトライアングルを形作り、ももクロと部員役の少女たちのリアルな成長とシンクロさせたユニークな試みは、作り手と観客双方に確実に幾つもの新しい出会いをもたらしたと思う。
おそらく映画も舞台も、少女たちが歩み出した長い長い旅の通過点にすぎないのかもしれないが、いつの日か、旅の第2章を期待したい。
ところで、私が観に行った日は、映画版でがるるの祖父を演じた鶴瓶師匠が見に来ていて、幕間に“お祖父ちゃん、部室にがるるを訪ねる”的なアドリブ寸劇を見せてくれたのは、嬉しいサプライズだった。
お祖父ちゃん、校門でがるるに会えたんだろうか?

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2015年05月12日 (火) | 編集 |
画狂娘の青春。
江戸の下町で、葛飾北斎の代筆をしている娘のお栄が、春夏秋冬を経て独自の画風を持つ絵師・葛飾応為となるまでの物語。
一昨年、昭和の邦画黄金期を代表する巨匠、木下惠介監督をトリビュートした「はじまりのみち」で、実写映画へと進出した原恵一監督の最新作は、2010年の「カラフル」以来となるアニメーション映画だ。
葛飾北斎の圧倒的な知名度に比べると、現存する作品が極めて少ない応為は、知る人ぞ知る絵師だろう。
彼女の作品は西洋画の影響をかなり受けている様で、同時代の他の浮世絵とはかなり印象が異なる。
特に漆黒の夜に、薄明かりによってふわりと浮かび上がる花や着物の色彩の鮮やかさは幻想的で、光と影の狭間に現れる独特の美学は、見る物を幽玄の江戸へと誘い込む。
だが、本作に描かれる23歳のお栄は、まだ自分の描きたいものは何かと模索中。
才能の塊の様な彼女の仕事は、気分がのらないと絵筆をとらない父の代筆だが、浮世絵の版元も肉筆画の依頼主も、代筆と知りながら、全然文句を言わないのが面白い。
それだけ絵のクオリティがすごかったという事か。
唯一、嫁入り前の娘ゆえ、想像で描いている枕絵だけは色気が伴わず、不評なのが気に入らない。
実際知らないんだから仕方がない、では彼女は納得できない。
この世に自分が描けないものがあるという事が、我慢ならないのだ。
因みに北斎もお栄も、絵は天才的なものの、全く片づけのできない人だったらしく、汚部屋がゴミで埋め尽くされると引越しを繰り返し、その回数は生涯で90回以上にも及んだという。
映画は、そんな画狂父娘を軸に、同業の絵師や版元との愉快なやりとり、絵のモデルとなる吉原の花魁との関わりや、別宅に暮らす母と生まれつき盲目で病弱な妹との日常を描く。
実在の女性とはいえ、お栄自身に関する記録はほとんど残って無いから、杉浦日向子の原作は基本フィクションなのだろうな。
100万人が行き交う大都会で、若きお栄は恋の切なさや、愛しい命の喪失の痛みを知り、己に足りないものを学びながら、少しずつ自分の世界観を見出してゆく。
日々の小さな出来事が積み重なって行く様な構成で、ダイナミックな抑揚を持つプロットでは無いが、四季を通じた庶民の江戸暮らしは観ていてなかなか楽しい。
主要な舞台となる両国界隈は、今も当時とそれほど街の構造が変わってないので、地元民としてはプチタイムトラベル的な趣も感じられる。
面白いのが、絵師の心眼でお栄と北斎にだけ見える常識の向こう、というか世界の本質が、大江戸トワイライトゾーンみたいに描かれている事。
まあ実際凡人と同じ世界を見ていたら、あんな凄い絵は描けないのだろうけど。
原恵一監督としては、割と肩の力が抜けた感じだが、ディテールの人らしい持ち味はよく出ており、気持ちの良い作品だ。
余談だが、1996年の映画「必殺!主水死す」では、物語の発端が北斎殺人事件で、美保純がお栄役だったのだけど、今回彼女がお栄の母・ことを演じているのも不思議な巡り合わせ。
今回は江戸が舞台なので、東京23区内に唯一残る酒蔵、下町の地酒である小山酒造の「丸眞正宗 吟の舞」をチョイス。
どちらかというと、辛口の酒が多い銘柄だが、これは辛くもなく甘くもなく、さっぱりとした口当たりで飲みやすい。
冷酒が美味しく飲めるこれからの季節に、江戸前の寿司などと合わせるとぴったりだろう。
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江戸の下町で、葛飾北斎の代筆をしている娘のお栄が、春夏秋冬を経て独自の画風を持つ絵師・葛飾応為となるまでの物語。
一昨年、昭和の邦画黄金期を代表する巨匠、木下惠介監督をトリビュートした「はじまりのみち」で、実写映画へと進出した原恵一監督の最新作は、2010年の「カラフル」以来となるアニメーション映画だ。
葛飾北斎の圧倒的な知名度に比べると、現存する作品が極めて少ない応為は、知る人ぞ知る絵師だろう。
彼女の作品は西洋画の影響をかなり受けている様で、同時代の他の浮世絵とはかなり印象が異なる。
特に漆黒の夜に、薄明かりによってふわりと浮かび上がる花や着物の色彩の鮮やかさは幻想的で、光と影の狭間に現れる独特の美学は、見る物を幽玄の江戸へと誘い込む。
だが、本作に描かれる23歳のお栄は、まだ自分の描きたいものは何かと模索中。
才能の塊の様な彼女の仕事は、気分がのらないと絵筆をとらない父の代筆だが、浮世絵の版元も肉筆画の依頼主も、代筆と知りながら、全然文句を言わないのが面白い。
それだけ絵のクオリティがすごかったという事か。
唯一、嫁入り前の娘ゆえ、想像で描いている枕絵だけは色気が伴わず、不評なのが気に入らない。
実際知らないんだから仕方がない、では彼女は納得できない。
この世に自分が描けないものがあるという事が、我慢ならないのだ。
因みに北斎もお栄も、絵は天才的なものの、全く片づけのできない人だったらしく、汚部屋がゴミで埋め尽くされると引越しを繰り返し、その回数は生涯で90回以上にも及んだという。
映画は、そんな画狂父娘を軸に、同業の絵師や版元との愉快なやりとり、絵のモデルとなる吉原の花魁との関わりや、別宅に暮らす母と生まれつき盲目で病弱な妹との日常を描く。
実在の女性とはいえ、お栄自身に関する記録はほとんど残って無いから、杉浦日向子の原作は基本フィクションなのだろうな。
100万人が行き交う大都会で、若きお栄は恋の切なさや、愛しい命の喪失の痛みを知り、己に足りないものを学びながら、少しずつ自分の世界観を見出してゆく。
日々の小さな出来事が積み重なって行く様な構成で、ダイナミックな抑揚を持つプロットでは無いが、四季を通じた庶民の江戸暮らしは観ていてなかなか楽しい。
主要な舞台となる両国界隈は、今も当時とそれほど街の構造が変わってないので、地元民としてはプチタイムトラベル的な趣も感じられる。
面白いのが、絵師の心眼でお栄と北斎にだけ見える常識の向こう、というか世界の本質が、大江戸トワイライトゾーンみたいに描かれている事。
まあ実際凡人と同じ世界を見ていたら、あんな凄い絵は描けないのだろうけど。
原恵一監督としては、割と肩の力が抜けた感じだが、ディテールの人らしい持ち味はよく出ており、気持ちの良い作品だ。
余談だが、1996年の映画「必殺!主水死す」では、物語の発端が北斎殺人事件で、美保純がお栄役だったのだけど、今回彼女がお栄の母・ことを演じているのも不思議な巡り合わせ。
今回は江戸が舞台なので、東京23区内に唯一残る酒蔵、下町の地酒である小山酒造の「丸眞正宗 吟の舞」をチョイス。
どちらかというと、辛口の酒が多い銘柄だが、これは辛くもなく甘くもなく、さっぱりとした口当たりで飲みやすい。
冷酒が美味しく飲めるこれからの季節に、江戸前の寿司などと合わせるとぴったりだろう。

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2015年05月06日 (水) | 編集 |
可能性は、誰だって無限大!
スクリーンに表示されるフルタイトルは「ビリギャル 学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話 」って、なげーよ。
2013年に発売されてベストセラーになった、ノンフィクションの映画化。
原作は読んでないけど、タイトルがまんま内容の説明なので、おバカな女子高生が一念発起して、慶應に現役合格しちゃう軽いコメディと思っていたが、映画はやはり観るまで分らない。
本作には主人公のさやかに、見た目だけでダメな子のレッテルを貼る大人が出てくるが、映画も先入観で「こんなんだろう」と決め付けちゃいけないのだ。
確かに本作の軸になるのは、フリーダムを満喫しすぎて小学生並みの学力しか持たないビリギャル、さやかが熱心な塾講師の坪田先生と出会い、高二からの猛勉強で私学の最高峰、慶応大学に現役合格するまでのサクセスストーリーだ。
しかし物語は決してそれだけに留まらず、親子のあり方、教育のあり方、人生のあり方にまで広がる、実に懐の深いヒューマンドラマなのである。
坪田先生がさやかに贈る、「意志あるところに道は開ける」という言葉がテーマだ。
どう見ても品行方正とは言いがたいさやかの周りには、様々な大人たちがいる。
母のあかりは常にさやかに寄り添い、娘の可能性を信じているが、対照的に父の徹は娘の未来には全くの無関心で、弟をプロ野球選手に育てる事にしか興味がない。
教師にもさやかの感受性の高さを見抜き、慶応受験を進める坪田先生もいれば、彼女をクズと呼び捨てる担任の先生もいる。
特に徹との確執は、さやかが慶応受験に挑む大きな動機だ。
自分の庇護者である親への憎しみは、時として反骨を育て、がんばる原動力ともなる。
たとえ実の父に見捨てられても、さやかは自分を諦めず、ビジネスを超えて生徒一人ひとりと真摯に向き合う坪田先生も、彼女の未来を諦めない。
そして、一年半に及ぶさやかの必死の努力は、やがて無意識に閉塞していた大人たちの心を動かし、周りにいる全ての人の人生を少しずつ変えてゆく。
ちなみに映画の設定年代は現在だけど、日経新聞のサイトによると、実際のさやかさんは既に慶応大学を卒業し、今は結婚もしてウェディングプランナーとして活躍しているらしい。
希望通り「他人の未来のためにがんばれる人」になった訳だ。
映画の試写にはお父さんも来て、過去の自分の傲慢さに反省しきりだったとか。
もしも10代の観客ならさやかや野球を強要される弟、大人ならば両親や坪田先生、老若男女がそれぞれの視点で登場人物に感情移入できて、明日へ向かってゆく元気と希望をフル注入、最後には“ドン”と誰もが強く背中を押される。
エンドクレジットも手抜きなし。
サンボマスターの歌う主題歌、その名も「可能性」にのせたミュージカル風。
そういえば土井裕泰監督の代表作にして大名作、「いま、会いにゆきます」も、主人公の澪が描き残した絵本が、そのままエンドクレジットになっている凝ったものだった。
本作の学園ミュージカルは、ちょっと「幕が上がる」とデジャヴするのは仕方がないが、2015年に生まれたこの2本は、共に素晴らしきアイドル映画であり、最高に気持ちの良い青春映画の傑作である。
ところで、有村架純ちゃんは途中からほっぺが膨らみはじめて、けっこうパンパンになっていく。
でもそれもまた青春っぽくて良い感じだから、役作りという事にしておこう(笑
今回は映画の舞台となる愛知県の地酒、全国的にファンの多い萬乗醸造の「醸し人 九平次 山田錦 純米大吟醸」をチョイス。
フレッシュな吟醸香がフワリと広がり、適度な酸味と米の甘味のバランスが最高の風味を生む。
辛すぎず、甘すぎず、非常に飲みやすいので、日本酒が苦手という人にもお勧めだ。
この蔵は生産量が少ないので、時期を逃すと手に入りにくいのが難点だけど、その分クオリティの高さは毎年確実に担保されている。
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スクリーンに表示されるフルタイトルは「ビリギャル 学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話 」って、なげーよ。
2013年に発売されてベストセラーになった、ノンフィクションの映画化。
原作は読んでないけど、タイトルがまんま内容の説明なので、おバカな女子高生が一念発起して、慶應に現役合格しちゃう軽いコメディと思っていたが、映画はやはり観るまで分らない。
本作には主人公のさやかに、見た目だけでダメな子のレッテルを貼る大人が出てくるが、映画も先入観で「こんなんだろう」と決め付けちゃいけないのだ。
確かに本作の軸になるのは、フリーダムを満喫しすぎて小学生並みの学力しか持たないビリギャル、さやかが熱心な塾講師の坪田先生と出会い、高二からの猛勉強で私学の最高峰、慶応大学に現役合格するまでのサクセスストーリーだ。
しかし物語は決してそれだけに留まらず、親子のあり方、教育のあり方、人生のあり方にまで広がる、実に懐の深いヒューマンドラマなのである。
坪田先生がさやかに贈る、「意志あるところに道は開ける」という言葉がテーマだ。
どう見ても品行方正とは言いがたいさやかの周りには、様々な大人たちがいる。
母のあかりは常にさやかに寄り添い、娘の可能性を信じているが、対照的に父の徹は娘の未来には全くの無関心で、弟をプロ野球選手に育てる事にしか興味がない。
教師にもさやかの感受性の高さを見抜き、慶応受験を進める坪田先生もいれば、彼女をクズと呼び捨てる担任の先生もいる。
特に徹との確執は、さやかが慶応受験に挑む大きな動機だ。
自分の庇護者である親への憎しみは、時として反骨を育て、がんばる原動力ともなる。
たとえ実の父に見捨てられても、さやかは自分を諦めず、ビジネスを超えて生徒一人ひとりと真摯に向き合う坪田先生も、彼女の未来を諦めない。
そして、一年半に及ぶさやかの必死の努力は、やがて無意識に閉塞していた大人たちの心を動かし、周りにいる全ての人の人生を少しずつ変えてゆく。
ちなみに映画の設定年代は現在だけど、日経新聞のサイトによると、実際のさやかさんは既に慶応大学を卒業し、今は結婚もしてウェディングプランナーとして活躍しているらしい。
希望通り「他人の未来のためにがんばれる人」になった訳だ。
映画の試写にはお父さんも来て、過去の自分の傲慢さに反省しきりだったとか。
もしも10代の観客ならさやかや野球を強要される弟、大人ならば両親や坪田先生、老若男女がそれぞれの視点で登場人物に感情移入できて、明日へ向かってゆく元気と希望をフル注入、最後には“ドン”と誰もが強く背中を押される。
エンドクレジットも手抜きなし。
サンボマスターの歌う主題歌、その名も「可能性」にのせたミュージカル風。
そういえば土井裕泰監督の代表作にして大名作、「いま、会いにゆきます」も、主人公の澪が描き残した絵本が、そのままエンドクレジットになっている凝ったものだった。
本作の学園ミュージカルは、ちょっと「幕が上がる」とデジャヴするのは仕方がないが、2015年に生まれたこの2本は、共に素晴らしきアイドル映画であり、最高に気持ちの良い青春映画の傑作である。
ところで、有村架純ちゃんは途中からほっぺが膨らみはじめて、けっこうパンパンになっていく。
でもそれもまた青春っぽくて良い感じだから、役作りという事にしておこう(笑
今回は映画の舞台となる愛知県の地酒、全国的にファンの多い萬乗醸造の「醸し人 九平次 山田錦 純米大吟醸」をチョイス。
フレッシュな吟醸香がフワリと広がり、適度な酸味と米の甘味のバランスが最高の風味を生む。
辛すぎず、甘すぎず、非常に飲みやすいので、日本酒が苦手という人にもお勧めだ。
この蔵は生産量が少ないので、時期を逃すと手に入りにくいのが難点だけど、その分クオリティの高さは毎年確実に担保されている。

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2015年05月02日 (土) | 編集 |
シンデレラも、ありのままで!
古くからヨーロッパ各地に伝わる灰かぶり姫の民話をもとにした、シャルル・ペローの童話「シンデレラ」を、ウォルト・ディズニーが美しいアニメーションとして映画化してから、今年で65年。
ウォルト自身が「もっとも好きな作品」と語る、ディズニープリンセスの代名詞ともいうべき大古典の実写化を担ったのは、コスチューム・プレイならお任せ!のミスター・シェイクスピアこと、ケネス・ブラナー監督だ。
実写ならではの壮麗な世界観と、基本設定はアニメーション版に忠実ながらも、巧みにモダナイズされたキャラクターたちの愛と勇気と優しさの物語は実に魅力的。
これは良い意味で王道を守りながら、全く古臭さを感じさせない素晴らしくゴージャスな“御伽噺”であり、プリンセスに憧れる女の子はもちろん、老若男女誰もが感涙するであろう、新たなる名作の誕生である。
昔々、ある王国で・・・・
貿易商だった父が旅先で亡くなり、聡明な少女エラ(リリー・ジェームズ)は継母のトレメイン夫人(ケイト・ブランシェット)と二人の義理の姉と暮らすことになる。
しかし、屋敷の主となったトレメイン夫人は態度を一変させ、エラは姉たちから“シンデレラ(灰かぶり)”と蔑まれ、召使同然の扱いを受ける。
「勇気と優しさこそが魔法になる」という亡き母の言葉を胸に、耐え忍ぶシンデレラだったが、ある日あまりにひどい仕打ちに屋敷を飛び出してしまう。
森へと馬を走らせた彼女は、城で見習いをしているというキット(リチャード・マッデン)という青年と出会い、惹かれあう。
実は彼こそが、結婚相手を探している王国のプリンスだったのだ。
シンデレラの事が忘れられないキットは、彼女と再会するために、国内のすべての未婚女性を招く大舞踏会を開こうとするのだが・・・・
昨年大ヒットした「アナと雪の女王」は、ディズニープリンセス作品としては色々な意味で異色作であった。
プリンセスのアナのお相手は、貧しい氷売りのクリストフで、プリンスは当て馬どころか悪役に成り下がり、ダブルヒロインのエルサは恋愛すらしない。
なによりもディズニープリンセスもので何よりも重要な“真実の愛”が、この作品では男女間のものではなく、姉妹愛なのである。
この「アナ雪」に代表される、21世紀のディズニー作品は、自らの古典に対するアンチテーゼ的なベクトルが強く、特に嘗ては憧れの存在であったはずの、プリンスのブランドとしての凋落は激しい。
「塔の上のラプンツェル」で、ラプンツェルのお相手となるフリンの職業は泥棒だし、その前の「プリンセスと魔法のキス」のナヴィーン王子は、一応プリンスではあるものの魔法でカエルに変えられて、ヒロインのティアナに自分からキスをせがむ体たらく。
先日公開された実写ミュージカル作品「イントゥ・ザ・ウッズ」に登場するシンデレラに至っては、なんとプリンスの浮気に悩まされ、結婚を後悔するのだ。
自立し、地に足をつけた、新世代のディズニープリンセスにとって、幸せとは自ら掴み取るものであって、もはや見た目だけの白馬のプリンスなど無用の長物なのである。
ゆえに、継母と義理の姉たちから虐げられたシンデレラが、プリンスに見初められて究極の玉の輿にのるという、保守本流の物語をどう改変してくるのかと身構えていたら、なんと意外すぎるド直球。
しかも、プロットの流れとキャラクターの基本設定はオリジナルのアニメーション版とほとんど変わらないにもかかわらず、しっかりと21世紀のディズニープリンセスとして、違和感の無い現代的な作品になっているのだから凄い。
では65年前のオリジナルと、いったい何が違うのかというと、端的に言えば登場人物たちの抱えている葛藤と、感情の流れが繊細に描かれている事である。
ケイト・ブランシェットが実に楽しそうに演じている継母のトレメイン夫人は、オリジナルでは単に意地悪で邪悪な存在だったが、実写版ではより内面が描写されている。
彼女は、再婚した夫がシンデレラの中に亡き前妻の面影を見ているのが許せない。
しかも欲得ずくの生き方を是としてきた自分に対して、シンデレラに受け継がれている前妻の哲学は真逆。
清らかで誰からも愛される義理の娘に、自分が絶対に適わない事がわかっているから、彼女は女としてシンデレラへの嫉妬と羨望を抑えられないのだ。
内面重視はシンデレラやキットに関しても同様で、なぜ彼らが惹かれ合い、恋心を抱くのか、単に美女とイケメンだからでは21世紀に通用しないのは明らか。
舞踏会よりも前に、森でシンデレラとキットが出会うシークエンスは新たに付け加えられたものだが、身分を明かさないここでのやり取りがあるから、二人がお互いのありのままの人間性に惹かれあったのだという事がわかる。
国王とキットの、愛とは何ぞや的なやり取りも含め、オリジナルでは“型”に過ぎなかったプリンス側の人格を描くのに腐心しているのも特徴だ。
キットが大国のプリンセスとの政略結婚を迫られていて、そのために権力者の大公がトレメイン夫人と組んでシンデレラを隠そうとする、プチ宮廷陰謀劇が組み込まれているのも、別にケネス・ブラナーの好みだからという訳でなく、キットがシンデレラと同じく勇気と優しさの人である事を明確にし、打算に打ち勝つ真実の愛を強調するためだろう。
シンデレラ役の新星リリー・ジェームスは、正直「かわいいけど、ちょい芋くさくない?」と思っていたけど観て納得。
この役は、お人形さん的に綺麗なだけではダメで、どこかあか抜けない素朴な田舎娘に見える必要があるのだ。
それはボロを着た状態と、魔法にかけられた状態のギャップを見せるという事もあるのだけど、むしろキットが彼女の内面に恋をしたという事に説得力を与えている。
同じ様に、キット役のリチャード・マッデンも、確かに格好良いけど、20代にしては老け顏な印象だったのだが、彼もある程度包容力が必要な役なので実際には良い塩梅だ。
ステラン・スカスルガルドの曲者の大公や、デレク・ジャコビの温和で上品な王様ら、脇も含めさすがブラナー作品、ほぼ英国を中心としたヨーロパ人で固めたキャスティングは完璧と言って良いだろう。
充実したキャラクターの内面描写とは対照的に、オリジナルよりもずっと比重が少なくなったのが、シンデレラの“お友だち”である動物たちの描写だ。
ネズミたちとネコのルシファーの「トムとジェリー」的なアクションが殆どカットされただけでなく、擬人化の程度も弱められ、人間の言葉を話したりはしないし、シンデレラのためにドレスを作ったりもしない。
これは実写化あたって、リアリズムのハードルをどの程度にするかという判断もあろうが、ヘレナ・ボナム=カーター演じる、フェアリー・ゴッドマザーの魔法による変身のインパクトを高める効果も生んでいる。
カボチャが立派な馬車となり、小さな動物たちが白馬や従者へと変身し、遂にシンデレラ自身が魔法によってゴージャスなブルーのドレスをまとうシークエンスは、アニメーション表現をある程度踏襲しながらも、最新の映像技術によって煌びやかに演出され、美し過ぎて思わず泣きそうになった。
また、オリジナルを観た少なくない観客が抱いたであろう「なんで午前零時の鐘が鳴り終っても、ガラスの靴だけ元に戻らないの?」とか「舞踏会でトレメイン夫人は、なんで毎日見ているシンデレラの顔がすぐに分らないの?」といった野暮な疑問に対しても、なるほどと思える答えを用意しているのは芸がこまかい。
ちなみにオリジナルには、猫派としてはちょっと悲し過ぎる描写があるので、猫のルシファーの役割が減った事はむしろよかった。
本作に続いて実写化がアナウンスされた「美女と野獣」でベル役を演じるエマ・ワトソンは、自分と英王室のハリー王子との交際が取りざたされた時、噂を否定して「プリンスとの結婚が、プリセスになる条件じゃないのよ」とツイートした。
彼女は続いて、「ハリー・ポッターとアズガバンの囚人」で組んだアルフォンソ・キュアロン監督の「リトル・プリンセス」の名シーンを引用。
父が戦死した事で寄宿学校の屋根裏部屋に追い出され、使用人扱いされている主人公のセーラに、意地悪なミンチン校長が「いつまでプリンセス気分なの!」と嫌味を言うが、セーラはこう答えるのだ。
「私はプリンセス。女の子はみんなそうよ。たとえ狭くて古い屋根裏に住んでいても、ボロを着ていても。たとえかわいくなくても、賢くなくても、若くなかったとしても。私たちはみんな、いつだってプリンセスなの!」
プリンセスになるために必要なのは、本当の勇気と優しさだけ。
映画が終わって劇場の灯りが点いた時、彼氏と来ていた女子高生も、三十路のOLも、五十路のおばちゃんも、みな等しく10歳の女の子の様な笑顔になっていた。
これぞまさしくディズニーマジック、素晴らしき映画の魔法であり、「女の子はみんなプリンセスになれる」という言葉の本当の意味を実感できる傑作だ。
“生まれ変わったら女の子になりたい、ガラスの靴を履きたい。”
“スーパーのカボチャに、こっそり「ビビデバビデブー」と呪文を唱えたい。”
女の子だけでなく、おっさんにすらそんな乙女な妄想を抱かせる、ある意味危険な映画である(笑
本作には、短編「アナと雪の女王 エルサのサプライズ」が同時上映。
アナの誕生日に、サプライズパーティーを開こうとするエルサとクリストフだが、エルサが風邪をひいてしまった事から、思わぬ騒動が巻き起こる。
相変わらずエルサが優しくて、妹思いの素敵なお姉ちゃんなんだな。
既に制作に入っているという長編の続編では、彼女にこそ幸せになってもらいたいよ。
今回は、カクテルの「リトル・プリンセス」をチョイス。
ウィスキーベースのカクテル、マンハッタンのバリエーション。
ライト・ラム30mlとスウィート・ベルモット30mlをステアして、グラスに注ぐ。
甘口の味わいに、アンバーの色合いも美しく、名前の通りにロマッチックなカクテルだが、かなり強い。
リトル・プリンセスの仮面に隠れているのは、小悪魔かもしれない。
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古くからヨーロッパ各地に伝わる灰かぶり姫の民話をもとにした、シャルル・ペローの童話「シンデレラ」を、ウォルト・ディズニーが美しいアニメーションとして映画化してから、今年で65年。
ウォルト自身が「もっとも好きな作品」と語る、ディズニープリンセスの代名詞ともいうべき大古典の実写化を担ったのは、コスチューム・プレイならお任せ!のミスター・シェイクスピアこと、ケネス・ブラナー監督だ。
実写ならではの壮麗な世界観と、基本設定はアニメーション版に忠実ながらも、巧みにモダナイズされたキャラクターたちの愛と勇気と優しさの物語は実に魅力的。
これは良い意味で王道を守りながら、全く古臭さを感じさせない素晴らしくゴージャスな“御伽噺”であり、プリンセスに憧れる女の子はもちろん、老若男女誰もが感涙するであろう、新たなる名作の誕生である。
昔々、ある王国で・・・・
貿易商だった父が旅先で亡くなり、聡明な少女エラ(リリー・ジェームズ)は継母のトレメイン夫人(ケイト・ブランシェット)と二人の義理の姉と暮らすことになる。
しかし、屋敷の主となったトレメイン夫人は態度を一変させ、エラは姉たちから“シンデレラ(灰かぶり)”と蔑まれ、召使同然の扱いを受ける。
「勇気と優しさこそが魔法になる」という亡き母の言葉を胸に、耐え忍ぶシンデレラだったが、ある日あまりにひどい仕打ちに屋敷を飛び出してしまう。
森へと馬を走らせた彼女は、城で見習いをしているというキット(リチャード・マッデン)という青年と出会い、惹かれあう。
実は彼こそが、結婚相手を探している王国のプリンスだったのだ。
シンデレラの事が忘れられないキットは、彼女と再会するために、国内のすべての未婚女性を招く大舞踏会を開こうとするのだが・・・・
昨年大ヒットした「アナと雪の女王」は、ディズニープリンセス作品としては色々な意味で異色作であった。
プリンセスのアナのお相手は、貧しい氷売りのクリストフで、プリンスは当て馬どころか悪役に成り下がり、ダブルヒロインのエルサは恋愛すらしない。
なによりもディズニープリンセスもので何よりも重要な“真実の愛”が、この作品では男女間のものではなく、姉妹愛なのである。
この「アナ雪」に代表される、21世紀のディズニー作品は、自らの古典に対するアンチテーゼ的なベクトルが強く、特に嘗ては憧れの存在であったはずの、プリンスのブランドとしての凋落は激しい。
「塔の上のラプンツェル」で、ラプンツェルのお相手となるフリンの職業は泥棒だし、その前の「プリンセスと魔法のキス」のナヴィーン王子は、一応プリンスではあるものの魔法でカエルに変えられて、ヒロインのティアナに自分からキスをせがむ体たらく。
先日公開された実写ミュージカル作品「イントゥ・ザ・ウッズ」に登場するシンデレラに至っては、なんとプリンスの浮気に悩まされ、結婚を後悔するのだ。
自立し、地に足をつけた、新世代のディズニープリンセスにとって、幸せとは自ら掴み取るものであって、もはや見た目だけの白馬のプリンスなど無用の長物なのである。
ゆえに、継母と義理の姉たちから虐げられたシンデレラが、プリンスに見初められて究極の玉の輿にのるという、保守本流の物語をどう改変してくるのかと身構えていたら、なんと意外すぎるド直球。
しかも、プロットの流れとキャラクターの基本設定はオリジナルのアニメーション版とほとんど変わらないにもかかわらず、しっかりと21世紀のディズニープリンセスとして、違和感の無い現代的な作品になっているのだから凄い。
では65年前のオリジナルと、いったい何が違うのかというと、端的に言えば登場人物たちの抱えている葛藤と、感情の流れが繊細に描かれている事である。
ケイト・ブランシェットが実に楽しそうに演じている継母のトレメイン夫人は、オリジナルでは単に意地悪で邪悪な存在だったが、実写版ではより内面が描写されている。
彼女は、再婚した夫がシンデレラの中に亡き前妻の面影を見ているのが許せない。
しかも欲得ずくの生き方を是としてきた自分に対して、シンデレラに受け継がれている前妻の哲学は真逆。
清らかで誰からも愛される義理の娘に、自分が絶対に適わない事がわかっているから、彼女は女としてシンデレラへの嫉妬と羨望を抑えられないのだ。
内面重視はシンデレラやキットに関しても同様で、なぜ彼らが惹かれ合い、恋心を抱くのか、単に美女とイケメンだからでは21世紀に通用しないのは明らか。
舞踏会よりも前に、森でシンデレラとキットが出会うシークエンスは新たに付け加えられたものだが、身分を明かさないここでのやり取りがあるから、二人がお互いのありのままの人間性に惹かれあったのだという事がわかる。
国王とキットの、愛とは何ぞや的なやり取りも含め、オリジナルでは“型”に過ぎなかったプリンス側の人格を描くのに腐心しているのも特徴だ。
キットが大国のプリンセスとの政略結婚を迫られていて、そのために権力者の大公がトレメイン夫人と組んでシンデレラを隠そうとする、プチ宮廷陰謀劇が組み込まれているのも、別にケネス・ブラナーの好みだからという訳でなく、キットがシンデレラと同じく勇気と優しさの人である事を明確にし、打算に打ち勝つ真実の愛を強調するためだろう。
シンデレラ役の新星リリー・ジェームスは、正直「かわいいけど、ちょい芋くさくない?」と思っていたけど観て納得。
この役は、お人形さん的に綺麗なだけではダメで、どこかあか抜けない素朴な田舎娘に見える必要があるのだ。
それはボロを着た状態と、魔法にかけられた状態のギャップを見せるという事もあるのだけど、むしろキットが彼女の内面に恋をしたという事に説得力を与えている。
同じ様に、キット役のリチャード・マッデンも、確かに格好良いけど、20代にしては老け顏な印象だったのだが、彼もある程度包容力が必要な役なので実際には良い塩梅だ。
ステラン・スカスルガルドの曲者の大公や、デレク・ジャコビの温和で上品な王様ら、脇も含めさすがブラナー作品、ほぼ英国を中心としたヨーロパ人で固めたキャスティングは完璧と言って良いだろう。
充実したキャラクターの内面描写とは対照的に、オリジナルよりもずっと比重が少なくなったのが、シンデレラの“お友だち”である動物たちの描写だ。
ネズミたちとネコのルシファーの「トムとジェリー」的なアクションが殆どカットされただけでなく、擬人化の程度も弱められ、人間の言葉を話したりはしないし、シンデレラのためにドレスを作ったりもしない。
これは実写化あたって、リアリズムのハードルをどの程度にするかという判断もあろうが、ヘレナ・ボナム=カーター演じる、フェアリー・ゴッドマザーの魔法による変身のインパクトを高める効果も生んでいる。
カボチャが立派な馬車となり、小さな動物たちが白馬や従者へと変身し、遂にシンデレラ自身が魔法によってゴージャスなブルーのドレスをまとうシークエンスは、アニメーション表現をある程度踏襲しながらも、最新の映像技術によって煌びやかに演出され、美し過ぎて思わず泣きそうになった。
また、オリジナルを観た少なくない観客が抱いたであろう「なんで午前零時の鐘が鳴り終っても、ガラスの靴だけ元に戻らないの?」とか「舞踏会でトレメイン夫人は、なんで毎日見ているシンデレラの顔がすぐに分らないの?」といった野暮な疑問に対しても、なるほどと思える答えを用意しているのは芸がこまかい。
ちなみにオリジナルには、猫派としてはちょっと悲し過ぎる描写があるので、猫のルシファーの役割が減った事はむしろよかった。
本作に続いて実写化がアナウンスされた「美女と野獣」でベル役を演じるエマ・ワトソンは、自分と英王室のハリー王子との交際が取りざたされた時、噂を否定して「プリンスとの結婚が、プリセスになる条件じゃないのよ」とツイートした。
彼女は続いて、「ハリー・ポッターとアズガバンの囚人」で組んだアルフォンソ・キュアロン監督の「リトル・プリンセス」の名シーンを引用。
父が戦死した事で寄宿学校の屋根裏部屋に追い出され、使用人扱いされている主人公のセーラに、意地悪なミンチン校長が「いつまでプリンセス気分なの!」と嫌味を言うが、セーラはこう答えるのだ。
「私はプリンセス。女の子はみんなそうよ。たとえ狭くて古い屋根裏に住んでいても、ボロを着ていても。たとえかわいくなくても、賢くなくても、若くなかったとしても。私たちはみんな、いつだってプリンセスなの!」
プリンセスになるために必要なのは、本当の勇気と優しさだけ。
映画が終わって劇場の灯りが点いた時、彼氏と来ていた女子高生も、三十路のOLも、五十路のおばちゃんも、みな等しく10歳の女の子の様な笑顔になっていた。
これぞまさしくディズニーマジック、素晴らしき映画の魔法であり、「女の子はみんなプリンセスになれる」という言葉の本当の意味を実感できる傑作だ。
“生まれ変わったら女の子になりたい、ガラスの靴を履きたい。”
“スーパーのカボチャに、こっそり「ビビデバビデブー」と呪文を唱えたい。”
女の子だけでなく、おっさんにすらそんな乙女な妄想を抱かせる、ある意味危険な映画である(笑
本作には、短編「アナと雪の女王 エルサのサプライズ」が同時上映。
アナの誕生日に、サプライズパーティーを開こうとするエルサとクリストフだが、エルサが風邪をひいてしまった事から、思わぬ騒動が巻き起こる。
相変わらずエルサが優しくて、妹思いの素敵なお姉ちゃんなんだな。
既に制作に入っているという長編の続編では、彼女にこそ幸せになってもらいたいよ。
今回は、カクテルの「リトル・プリンセス」をチョイス。
ウィスキーベースのカクテル、マンハッタンのバリエーション。
ライト・ラム30mlとスウィート・ベルモット30mlをステアして、グラスに注ぐ。
甘口の味わいに、アンバーの色合いも美しく、名前の通りにロマッチックなカクテルだが、かなり強い。
リトル・プリンセスの仮面に隠れているのは、小悪魔かもしれない。

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