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■TITLE INDEX
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餡は甘いものだけど、映画はちょっとビターだ。
明け方、桜並木に近い古めかしいビルの屋上で、たばこを燻らせる一人の男。
彼の背負っているものの重さ、静かなる葛藤を、映像だけで端的に感じさせる秀逸なオープニング。
長瀬正敏演じる千太郎は、小さなどら焼き屋「どら春」を一人で切り盛りする店長だ。
ある日、店に徳江という謎めいた老婆が現れて、働かせて欲しいという。
最初は断っていた千太郎だが、徳江の持参した餡のクオリティに驚き、彼女をバイトとして雇いながら、教えをこう事にする。
徳江の作る餡の評判は瞬く間に広がり、店は繁盛。
しかし彼女の体にはある秘密があり、次第に周囲に波紋が広がってゆくのである。
正直私は、河瀬直美監督の映画がちょっと苦手だ。
ビジュアルなどは、パッと見いかにも女性らしい繊細で知的なイメージなのだが、実はかなり野性的で理性よりも本能でグイグイおされる感じ。
作品世界そのものが、ある種の作家のサンクチュアリを形作り、入れればいいのだけど、時として映画に拒絶されるような感覚に陥るのである。
ところが、本作は彼女にとって初の原作ものだからなのか、日・仏・独合作というグローバルな体制だからなのか、とても作品に入りやすい。
いや決して薄味になったわけではなく、生と死の物語、背景となる四季の移ろい、アニミズム的な自然の捉え方といった作家の特色は色濃く出ている。
タイトルの「あん」について、監督は日本語だと“あ”と“ん”で最初と最後、フランス語だと数字の“1”、英語でもアルファベットの最初の“A”で、万国共通のタイトルと語っていたが、この映画自体とても間口が広く、普遍性のある作品になっているのではないか。
満開の桜が美しい、穏やかな春の風景から始まる映画は、中盤で意外な方向に舵を切る。
手の指が不自由な徳江が、ハンセン病の患者だったことが世間に知れ、店は一気に閑古鳥が鳴くようになり、徳江は仕事を辞めざるを得なくなるのである。
徳江は、餡作りで一番大切なのは「大豆の声を聞くこと」だという。
大豆が畑で生まれ、長い道程を経て店へとたどり着くように、この世の全てのものには耳を傾けて聴くべき旅の物語がある。
本作の主要登場人物は、千太郎と徳江、そして内田伽羅演じる常連の女子中学生のワカナ。
過去に他人の人生を狂わせてしまい、刑務所に入っていた経験を持つ千太郎にも、母親との間に静かな確執を抱えるワカナにも、心に秘めた物語があり、聞いてくれる人を待っている。
だが誰よりも封じられた声を届けたかったのは、理不尽な差別によって日の当たる人生を奪われた、徳江自身なのだろう。
どら焼きの餡は外からは見えないから、食べてみなければその存在は分からない。
悲しみをうちに隠す人たちが、餡が取り持つ不思議な縁によって出会い、少しだけ重なってお互いの声を聴く。
人生の冬の季節の中で、彼らが集った小さな陽だまりの暖かさは儚く、だからこそとても愛おしいのである。
映画館を出たら、この世界に溢れる小さき声に耳を澄ませてみよう。
今回は映画の舞台にちなんで、「金婚」で知られる東村山市久米川町の豊島屋酒造の季節限定酒「十右衛門 純米無濾過原酒 おりがらみ」をチョイス。
十右衛門の新酒に、もろみを漉した際の”おり”を絡め、味わいの深みを増した一本になっている。
さすがにどら焼きに日本酒は・・・と思う人が多いだろうけど、案外お酒にスイーツは相性良かったりするんだけどな。
餡を使った和菓子の他にも、チョコレートなんかはけっこういける。

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![]() (東京)十右衛門 720ml おりがらみ純米無濾過生原酒 金婚 豊島屋 |


鑑賞出来た13本のなかで、もう一回観たい7作品のつぶやきをまとめておく。
「ネスト/トガリネズミの巣穴・・・・・評価額1650円」
50年代初頭のスペインを舞台にした、ウェルメイドなサイコホラー。
広場恐怖症で家から出られない姉は、歳の離れた妹を厳格に支配する。
ところが怪我をした男を家に迎え入れた事で、二人の関係に変化が生まれ、姉の心には押さえつけてきた暗いパッションが燃え上がる。
と、ここまでは西版「ミザリー」か山岸凉子の漫画的な趣きなのだが、特筆すべきは後半怒涛の勢いで明らかになる、強すぎる愛ゆえに血塗られた一家の秘密。
この濃密なる血族の情念と歴史が紡ぎ出す、凹まされる愛憎の恐怖と悲しみこそ、ザッツ・スパニッシュホラーだ。
私はとにかく、姉にどっぷり感情移入して、余りに悲惨な彼女のために泣いた。
全然違うジャンルだが、スペイン内戦を描いた傑作「スリーピング・ボイス」にも、ダウナー系パワーは決して負けてない。
登場人物も観客も、とことん追い詰めるのはさすが欧州の韓国映画だ。
ホラー映画に涙したのは「エスター」以来である。
「最後まで行く・・・・・評価額1650円」
すんごく面白い。
韓国映画で警察が無能なのはお約束なれど、この映画は主要キャラ全員悪人、全員警官w
悪徳刑事が、交通死亡事故を隠蔽しようとした事から始まる、恐怖の日々を描くクライムスリラー。
主人公は、失敗を取り繕おうと更なる失敗を重ね、やがてより邪悪な存在により追い込まれて行く。
ぶっちゃけ敵の変な行動とか、瞬間移動の謎とか、銃の安全装置は?とか、大小様々な突っ込みどころ満載。
だが二転三転、週刊漫画並みの“面白さ”のプレッシャーによる怒涛の展開で、観てる間は気にならない。
悪人とはいえ、常に泣きっ面に蜂状態の主人公が可哀想になるほどだ。
たった一つのミスによって、人生がどんどん暗転して行く話は多いが、本作の場合キャラも展開も御都合主義ギリギリ、狙ってやってるビミョーなやり過ぎ感が、シニカルな笑いを生み出しているのがユニーク。
こういうのは、家のちっちゃいTVで観るより、絶対映画館の方が楽しめる。
「パロアルト・ストーリー・・・・・評価額1550円」
これ原作がジェームズ・フランコ作の連作短編なのね。
パロアルトは、スタンフォード大学がある事で知られるカリフォルニアの街。
この街で暮らす高校生たちを描く、切なく瑞々しい群像劇だ。
子どもから大人へ青春のイニシエーションを通して、それぞれの葛藤が渦巻く。
大人たちは本音と建て前を使い分け、人生よろしくやってるけど、十代の彼らにそんな術はない。
本音を言うのは怖くて、真逆の行動で紛らわせる。
自分がどこに向かっているのか、未来が見えないからこその閉塞の中に、僅かに見える光に救われる。
決して上手い映画ではないけど、むき出しの魂をダイレクトに感じる、注目すべき佳作。
これがデビュー作のジア・コッポラ監督は、作品スタイルも似ているけど、ルックスもおばさんのソフィアそっくり。
色んな意味でこのファミリーの血は濃いんだなあ。
何気に劇中で「enter the ninja」てヘンテコな曲が使われてるのだけど、これ「チャッピー」に出てるニンジャとヨーランディのユニットの曲だったw
「ライフ・アフター・ベス・・・・・評価額1550円」
主人公ザックのもとに、死んだはずの彼女・ベスがゾンビになって帰ってくる。
人間とゾンビのラブストーリーは、「ウォーム・ボディーズ」が記憶に新しいけど、アレとはまた切り口がだいぶ違う。
ベスは最初はちょっと言動が変だけど、見た目は普通で、少しずつゾンビ化するから、生死をこえた再会の喜びは、次第に苦悩に変わる。
シチュエーション的にはシュールで可笑しいんだけど、主人公に感情移入するとかなり切ない。
突然の彼女の死を受け入れられなかったザックは、二度目の、しかもジワジワと進む死を経てようやく喪失を認め、「ライフ・アフター・ベス」、ベスのいない人生を歩みだす。
後半急激にカオス化する世界観が、そのままザックの心象として機能しているのが面白い。
ディーン・デハーンは、こういう神経質そうな悩める若者を演じるとハマる。
しかしゾンビ映画って、本当にバリエーションが尽きないな。
「イグジスツ 遭遇・・・・・評価額1500円」
POVブームの元祖「ブレアウィッチ・プロジェクト」のエドアルド・ サンチェスが森に侵入した若者たちとビッグフットとの遭遇を描く。
やってる事は昔と変わらないが、違うのはGoProをはじめとした小型カメラの普及で、マルチカメラが普通になった事。
結果的に、POVでありながらカットのバリエーションや自由度は、普通の映画と殆ど変わらない。
サンチェスは「V/H/Sネクストレベル」でも、ゾンビに追われるマウンテンバイカーの話で、GoProを上手く使っていた。
本作も新味は無いが、低予算のUMAホラーとして、なかなか楽しめる作品になっている。
でもビッグフットは、もうちょっとデカくして欲しかったな。
「モンスター 変身する美女・・・・・評価額1500円」
両親を喪い、イタリアへ傷心旅行へ出かけた主人公が出会った美女は、実は2000年の時を生きつづけるモンスター。
という設定は伊藤潤二の「富江」シリーズみたいだけど、基本的にコレはラブストーリーであって全くホラーではないんだな。
主人公も不死の美女も本当の愛を知らず、探しつづける漂流者。
古代ポンペイの夫婦から現代の農場の爺さんまで、幾つもの理想の愛の形が二人の前に現れる。
果たして愛は、永遠の命を捨てるほど価値あるものか?二人は有限と無限の壁を越えられるのか?
独特のムードのあるユニークな視点の作品だが、もうちょい刈り込んでも良かったかな。
空撮ショットとか無駄に多い。
美女の不死の秘密が明らかになってからは良いテンポだけど、前半やや冗長に感じた。
「MR.タスク・・・・・評価額1450円」
人気ポッドキャスターがネタを探してて、なぜか人間をセイウチに改造したがるマッドサイエンティストというか、変人の手に落ちる。
私は同じ人体改造系「ムカデ人間」が生理的に苦手。
似たようなホラ(ー)話しでも、こっちは糞尿を想像させないから普通に楽しめた。
この映画、分かりやすいB級だけど、不思議な詩情と品格があるんだな。
それはマッドサイエンティストがセイウチに拘る理由が、それなりに筋が通ってるのと、伝統的なモンスターホラーに通じる異形の哀しみがあるから。
まあ最終的にはそれすらネタにしちゃうんだけどw

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1965年3月、黒人の選挙権制限の撤廃を訴えるため、マーティン・ルーサー・キング・Jr.牧師と支持者たちが、南部保守派の牙城アラバマ州セルマから州都モンゴメリーを目指した“セルマ-モンゴメリー行進”の顛末を描く骨太の歴史劇。
今年のアカデミー作品賞候補の中では、日本公開のしんがりとなる。
監督は、これが長編2作目となるエヴァ・デュヴァネイが務め、デヴィッド・オイェロウォが等身大のキング牧師を好演。
アメリカ現代史の重要なイベントの、表と裏を同時に垣間見るパワフルな力作である。
1964年にノーベル平和賞を受賞したキング牧師(デヴィッド・オイェロウォ)は、公民権運動の次なる闘争の場にアラバマ州のセルマを選ぶ。
アラバマでは白人が牛耳る役所の妨害によって、黒人が選挙権を得られないでいた。
1965年2月には、デモに参加していた丸腰の青年、ジミー・リー・ジャクソン(キース・スタンフィールド)が、白人警官に射殺される事件が起こり、怒りと悲しみが渦巻く中、キング牧師は同士たちと共に、セルマから54マイル離れた州都モンゴメリーまでのデモ行進を計画する。
しかし525人のデモ隊の前に立ちはだかったのは、武装した警官隊と民兵たちだった。
催涙ガスから逃げ惑うデモ参加者たちが、次々と殴り倒される映像は全米でテレビ放送され、7000万人の視聴者が衝撃をうける。
行動を呼びかけるキング牧師に呼応して、男も女も、白人も黒人も、内なる良心につき動かされた多くの人たちが、セルマに結集しようとしていた・・・
アメリカの街には歴史上の偉人の名前がついた通りがたくさんあるが、その中でも特に多いのが、リンカーン、ワシントン、マッカーサー、そして本作の主人公であり、公民権運動のリーダーとして知られるマーティン・ルーサー・キング・Jr.牧師だろう。
おそらくアメリカ人に、もっとも尊敬する歴史上の人物はと聞けば、確実にトップ5には入ると思うし、毎年1月第3月曜日は彼を記念するアメリカの国民の祝日である。
そんな偉大なヒーローにもかかわらず、意外にも長編映画の主役として描かれるのは没後47年にして初めてだという。
本作を特徴づけるのは歴史の明と暗、栄光と悲劇のコントラストだ。
公民権運動も佳境に差し掛かり、キング牧師は1963年にあまりにも有名な「I have a dream」の演説で知られる、ワシントン大行進を慣行。
翌1964年7月2日にリンドン・ジョンソン大統領によって公民権法が制定され、建国以来の法的な人種差別の終結を勝ち取った。
映画は、1964年12月10日のノーベル平和賞授賞式から幕を開ける。
世界が注目する時代の寵児となったキング牧師の栄光の瞬間、しかし次のシーンで映画は恐ろしい現実を見せつける。
教会に集まっていた黒人の少女たちが、突然凄まじい爆発によって吹き飛ばされるのだ。
アラバマ州バーミンガムで、白人至上主義団体KKK分派のメンバーが起こした、16thストリート・バプテスト教会爆破事件である。
実際に事件が起こったのは、映画の時系列とは異なり1963年9月なのだが、この事件では4人の罪なき少女たちが犠牲となり22人が重軽傷を負った。
公民権運動が力を得れば得るほど、反発する白人も過激となり、州単位の法律を利用し公民権法に抵抗したり、白人公務員のサボタージュも深刻化する。
日本のような国民皆戸籍制度の無いアメリカでは、選挙への投票を望む人はまず有権者登録をしなければならない。
アラバマ州では、公民権法によって名目上は平等を手に入れた黒人たちだが、自治体の長や実務を担う白人公務員のあの手この手の組織的な妨害によって、実際の有権者登録は進まないまま。
また政治家だけでなく、地方検事や保安官も選挙によって選ばれるので、選挙権を手にしないことには、本作に出てくるような露骨な人種差別主義者が、警察権力を握る事を阻めないのである。
時代が動く瞬間のビハインド・ザ・シーンは、実にドラマチックだ。
衝撃的な教会爆破、ジミー・リー・ジャクソン射殺、最初の行進が警官と民兵によって蹴散らされた血の日曜日事件と言った一連の悲劇によって、リベラル派世論の支持を受けたキング牧師は、ホワイトハウスのジョンソン大統領と丁々発止の交渉を繰り返す。
今では中道リベラルの印象が強い民主党は、元々南部の白人保守層を大票田とする右派政党だったが、ケネディ政権とジョンソン政権が相次いで公民権運動を支持した事で、保守票を失いつつある。
大統領が選挙制度改革に及び腰なのは、このままでは支持層を丸ごと共和党に奪われてしまうためなのだ。
この時代を通して、民主党はリベラル派と新たな有権者となった黒人らマイノリティの支持を獲得し、共和党は民主党から離れた白人保守層を取りみ、結果的に現在の中道左派の民主・右派の共和という二大政党の住み分けが完成するのである。
それぞれの思惑が絡み合う政治的駆け引きに、人間キング牧師の葛藤と公民権運動を潰そうとするFBIの陰謀が絡む。
イーストウッドの「J・エドガー」でも描かれた通り、FBI長官のフーバーは少なくとも表向きはガチガチの保守であって、キング牧師の追い落としに並々ならぬ意欲を燃やしている。
本作では曖昧な描写に止められているが、FBIはキング牧師の女性関係を利用し、夫婦仲を裂いてスキャンダル化し、運動を瓦解させようと画策するのだ。
対するキング牧師自身も決して聖人君子としては描かれず、嘗て敵対したマルコムXとの和解を受け入れるか苦悩し、時に公権力の強大さの前に弱気となり、自らの決断に迷い神に祈る。
キング牧師の生涯、あるいは公民権運動全体を描くのではなく、一点に濃縮されたヒューマンドラマは見応えたっぷりだ。
選挙権という、憲法に保障されたあたりまえの権利の行使をするのに、国が真っ二つに割れ、多くの血が流れた。
しかしこれはたった50年前の出来事である。
今、ホワイトハウスにはアフリカ系の大統領が鎮座し、本作でティム・ロスが演じたジョージ・ウォレス州知事のような、明らかな人種差別主義者が選挙で選ばれる可能性はほとんど無いだろう。
ただ一方で、白人警官による警官による黒人への過剰制圧や発砲は後を絶たず、つい先日も白人少年が黒人を狙って銃を乱射するというヘイトクライムが起こったばかり。
わずか一世代でも、世界を大きく変えることがは出来るが、人々の心に残る暗い炎は簡単には消せない。
人間が人間である限り、自由と平等を求める闘争に終わりは決して訪れないのかも知れない。
本年度アカデミー歌曲賞に輝いた主題歌「GLORY」が、本作のテーマを端的に表して秀逸。
魂のこもった歌詞が心を打ち、余韻が長く続く。
ちなみに、キング牧師の演説というのは、全て遺族によって著作権登録されているため、許可がないと使えない。
そこでデュヴァネイ監督は自由に作品を作るために、劇中の演説の単語を一つひとつ類語に変え、原文とは違うのだとか。
本作の脚本は、元々英国の作家ポール・ウェブが9年前に書いたものだが、上記の様な経緯もあってデュヴァネイ監督によって大幅に書き換えられている。
にもかかわらず、ウェブが元契約を盾に本作の“脚本”の単独クレジットを譲らず、デュヴァネイとの共同クレジットを拒否したため、一悶着あったらしい。
日本ではその経緯は報じられなかったが、アカデミー賞でのノミネートが作品と歌曲のみで脚本賞がスルーとなったのは、この件が影響したのだろうな。
今回はキング牧師の故郷、ジョージア州に因んでレオポルドウィスキーの「ジョージア・ピーチ・フレーバー・ウィスキー」をチョイス。
なぜピーチかというと、ジョージア州は別名をピーチ・ステートと呼ばれるほどピーチの栽培が盛んで、ピーチフェスティバルが州内各地で開催されている他、やピーチを利用した名物料理も多い。
レオポルドウィスキーは、コロラド州に2002年から蒸留所を開設した新しい銘柄。
開拓時代には、果実酒感覚でウィスキーにピーチやレーズンなどを入れて楽しんでいたそうで、こちらはその習慣を復刻したもの。
そのままでも美味しいが、ウィスキー紅茶などにしても良い感じだ。

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吉田秋生の同名漫画を原作とした、リリカルなヒューマンドラマ。
鎌倉の古い家に暮らす三姉妹は、父が亡くなり身寄りがいなくなってしまった異母妹を迎え入れ、新たに四姉妹として生活をスタートする。
是枝裕和監督は、山と海の街、鎌倉・湘南の美しい四季を背景に、個性的な姉妹それぞれの葛藤を、出会いと絆の物語の内に描く。
四人の綺麗どころが揃ったビジュアルは、観ているだけで気分が華やぐが、是枝作品らしく画面の隅々まで作り手の仕事が行き届いた、どこまでも端正な映画である。
ある年の夏、15年前に家族を捨てた父親の訃報が届き、幸(綾瀬はるか)、佳乃(長澤まさみ)、千佳(夏帆)の三姉妹は、山形で行われた葬儀に参列する。
そこで彼女たちを迎えてくれたのは、腹違いの妹である中学生のすず(広瀬すず)だった。
すずの母もすでに亡く、後妻である父の三番目の妻とは血の繋がりもない。
彼女の状況を見かねた幸は、「鎌倉の家で一緒に暮らさない?」と提案する。
新学期に合わせて、鎌倉に引っ越してきたすずは、地元のサッカークラブにも入り、次第に新しい暮らしにも馴染んだように見えていた。
だが、行きつけの定食屋を訪れた幸は、おかみ(吹雪ジュン)に家では見せないすずの意外な一面を聞かされ、妹の心の中ではわだかまりがとけていないことを知る。
そんな時、父と別れて以来札幌で暮らし、すっかり疎遠になっていた母(大竹しのぶ)が、祖母の七回忌に姿を現す・・・・
スクリーンから海風が吹き抜ける、気持ちの良い映画だ。
物語は意外なほど原作に忠実で、特にドラマチックな展開がある訳ではない。
代々受け継がれてきた鎌倉の古い日本家屋に暮らす三姉妹の元に、ある日腹違いの妹がやって来て、それぞれの一年を通して、だんだんと“家族”になってゆく。
ただ、それだけ。
にもかかわらず、綿密に作り込まれた画面から目が離せない。
是枝作品としては95年の長編デビュー作「幻の光」、2008年の「歩いても 歩いても」の系譜に連なる作品だと思う。
「幻の光」は心に傷を負った一人の女性が、能登の漁村での穏やかな暮らしの中で、徐々に癒されてゆく物語で、「歩いても 歩いても」では嘗て開業医を営んでいた三浦海岸近くの古い家に、15年前に死んだ長男の法事のために集まった家族が、弔いのなかで葛藤をぶつけ合い、わだかまりを解いてゆく。
この2本と本作は、どれも“海街”を舞台としたホームドラマで、それぞれに問題を抱えた家族の再生劇である点など、いくつもの共通点がある。
本人はむしろ成瀬のファンらしいが、特に海外において、是枝監督はしばしば小津の後継者と目される。
なるほど確かに題材選びに似た部分があるものの、私には似て非なる作家に思える。
小津は戦後激変する社会のなかで、嘗て日本のどこにでもあった、大家族という共同体の解体とそれに伴う痛みを描いたが、是枝作品はむしろその逆だ。
世代が違うのだから当たり前だが、彼の世界は小津的解体を経て核家族化した、さらに小さな共同体である。
「歩いても 歩いても」「そして父になる」では、問題を抱える共同体の再生を、「幻の光」では共同体に入ることによって癒される個人を描く。
唯一、「誰も知らない」では、共同体は崩壊したままだが、これもまた小津的解体のその先の物語なのである。
本作の場合、小さな問題を抱えた三姉妹の共同体に、より大きな問題を抱えた四女が入ることによって波紋が生じ、顕在化した問題の解決によって新たな調和が生じるまでの物語と言えよう。
とはいえ、本作の制作にあたっては、是枝監督はかなり小津演出を意識したらしく、室内でキャラクターをとらえた画作りは、かなり小津的と言えるかもしれない。
私の大学の時の先生に、元小津組の人がいたのだが、小津監督の絶対的なファーストプライオリティはいかに役者の演技を引きだし、それを魅力的に見せるかで、ぶっちゃけそれ以外に興味がなかったそうだ。
独特のローポジションも、狭い日本家屋の中で、俳優を魅力的に、芝居を効果的に見せるという必然が生み出したもので、しばしばイマジナリ―ラインを無視するのも、芝居優先のため。
なるほど本作でも、特に四姉妹が集う居間でのキャラクターとカメラ配置は、俳優の演技を生かすために綿密に計算されている。
逆に建物のファサードを含めた日本的空間の切り取り方は、成瀬的に感じるのが面白く、本作はいわば小津、成瀬の映画的記憶が、是枝裕和という作家の中で融合をみた作品の様に感じる。
家族をモチーフとした是枝作品で特徴的なのは、家族には歴史があり、過去によって現在の状況が縛られていることである。
人が人と暮らしてゆけば、時間はどんどんと折り重なって増えてゆく。
前記した「幻の光」と「歩いても 歩いても」の登場人物は、過去の出来事によって見えない傷を抱え、「そして父になる」の場合は、家族とは共に暮らした時間なのかか、それとも血脈なのかを問う作品であった。
本作も登場人物の抱えるほとんどの葛藤は、複雑な家族の過去に起因するもので、物語を支配しているのは、亡き父の存在である。
この辺りも小津を意識したのかと思うが、本作では回想の手法が完全に封じられ、画面に一度も登場しないことによって、四姉妹一人ひとりにとっての異なる父親像が浮かび上がり、家族の積み重ねてきた時間、失った時間の重みと呪縛がより強調されるというわけ。
姉妹の出会いと、本当に家族となる瞬間が、共に“父の好きだった場所”と重なるのも象徴的だ。
四姉妹のうち、物語の軸となるのは長女の幸と四女のすず、それぞれの家族に対するわだかまりで、佳乃と千佳が一歩引いたポジション。
“家長”である幸は生真面目で、家族を捨てた父も、さっさと再婚して出て行った母のことも許せない。
しかし両親の不義による離婚を見てきたのに、いつの間にか不倫している自らに対しても矛盾を感じ、妹たちの良き“母”であることで無理にバランスを取ろうとしている。
一方すずは、自分の母が共に暮らす姉たちの家庭を壊したこと、その結果として生まれてきた自分の存在に穢れと自己嫌悪を感じながら生きている。
この二人の間に、酒癖と男運の悪い次女の佳乃と、おおらかでマイペースな三女の千佳が入り、潤滑剤として機能するのだ。
綾瀬はるかのマジメキャラ、奔放な長澤まさみ、飄々とした夏帆、それぞれの演者の個性がピタリとはまる。
そしてナチュラルな演技を引き出すために、あえてシナリオを封じられていたという広瀬すずの美少女っぷり!
桜並木の自転車タイタニックは、少女時代の一瞬にしか撮れないキラキラが弾ける名シーン。
しかし四姉妹ものというのは、数が多いだけに構成は難しいが、ドラマ的な変数として考えると便利だ。
四人の時、三人の時、二人の時、人物の組み合わせで違ったキャラクターの顔を見せられる。
全員揃った時には出ない本音も、二人の時にはポロっと出てきたり。
描写で特徴的なのは、小津映画と同じく、やたらと食事のシーンが多いこと。
湘南の海を象徴するしらす丼、しらすトースト、ちくわカレー、姉妹の家で作っている各年代の梅酒・・・・etc.
めちゃめちゃ美味しそうに描写される、それぞれの食べ物にもバックストーリーがあり、彼女らが共に食事をする度に、少しずつ距離が縮まってゆくのである。
それにしても、鎌倉はなんと絵になる街だろうか。
古の歴史を感じさせる寺社のある山、雄大な太平洋を望む湘南の海岸、情緒ある江ノ電が走り、四季折々の美味しい地のものがたくさんある。
過去にも様々な作品の舞台となってきたこの街が、本作のもう一つの主役と言えるかも知れない。
美しく端正な画面を堪能するには、キチンとビスタ上映してくれる劇場で観ることをオススメする。
多くのシネコンがスクリーンのマスキングを廃止し、シネスコサイズのまま全てを上映している現状では、難しい事かも知れないけど。
余談だが、一本の作品の中でアスペクト比を変化させるグザヴィエ・ドランは、マスキングが使えない事を前提に画面設計をして、両サイドが闇に溶ける事を防いでいる。
今後ビスタサイズでの映画作りは、同じような配慮をする必要があるかもしれない。
今回は、劇中でも姉妹の家族史の象徴として描写されている「梅酒」をチョイス。
家庭で作れるのは酒税法によって20度以上の蒸留酒ベースに決められてるので、すずちゃんの酔いも酷かっただろう(笑
うちにも8年物があるので、映画を観た後にソーダ割りにして楽しんだ。
自家製がなくても、色々な種類の梅酒が出てい、そのままでもカクテルベースにしても便利な日本の夏の風物詩の一つだ。

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30年ぶりの「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は、恐るべき熱量を持つ映画である。
近年は「ベイブ」や「ハッピー・フィート」など、すっかり動物映画の人になっていたジョージ・ミラー監督は、たまりにたまったマグマが噴出するように、バイオレンスなエナジーを大爆発させる。
上映時間2時間のうち、95%は終末世界の荒野で繰り広げられるバトルアクション。
トゲトゲの武装車両が砂漠を暴走し、狂ったキャラクターたちが、どつき合い!撃ち合い!爆発する!ただそれだけ!
砂嵐の熱風のようなエモーションがスクリーンから吹きつけ、観たことも無いビジュアルイメージに圧倒され、脳内には「ヒャッハー!」が無限リフレイン。
この映画にブレーキは存在せず、一度走り出したらもう誰にも止められない。
21世紀版「マッドマックス」のリブートはシリーズ最高傑作なのはもちろん、映画史に残るアクション映画の新たなアイコンであり、何よりも究極の見世物映画である!
文明が失われた終末の世界。
荒野で暴走軍団に襲われたマックス(トム・ハーディ)は、シタデルと呼ばれる要塞に監禁される。
そこでは異形の悪漢のイモータン・ジョー(ヒュー・キース・バーン)が、湧き出る水を餌にして人々を支配し、配下の男たちを洗脳し、自らを崇拝させていた。
そんな時、ジョーの右腕フュリオサ(シャーリーズ・セロン)が、奴隷として捕らわれていた女たちを連れて逃亡。
ひょんな事から彼女らとタッグを組む事になったマックスは、巨大な武装トレーラーでフュリオサの故郷“グリーン・プレイス”を目指すことに。
だが、ジョーの率いる軍団の執拗な追跡と攻撃は止まず、一行は危険な峡谷地帯へと逃げ込むのだが・・・
とりあえず、オリジナルの旧三部作の簡単なおさらい。
1979年に公開された第一作「マッドマックス」は、正義の警官のマックス・ロカタンスキーの復讐劇。
パトカーを盗んだ凶悪犯ナイトライダーが、マックスに追跡されて事故死し、仲間のトーカッター(演じるのは本作のイモータン・ジョーと同一人物!)は報復として、マックスのバディと妻子を相次いで襲撃し、息子を殺害。
遂にブチ切れたマックスによって、トーカッター一味は追い詰められ、処刑される。
2年後の「マッドマックス2」には、誰もが度肝を抜かれた。
続きものではあるが、全く異なる世界観に変貌していたのである。
前作では治安は悪化しているものの、一応文明社会が存続しており、警察組織も健在だった。
ところが二作目になると、世界大戦によって都市文明も政府組織も完全に崩壊し、一面の荒野でエキセントリックな人々が、水とガソリンを巡って壮絶サバイバルを繰り広げていたのだ。
荒野の放浪者となっていたマックスは、はるか離れた平穏な地を目指すグループに加勢し、彼らの持つガソリンを狙う、ヒューマンガス様率いる暴走軍団とバトルチェイスを繰り広げる。
この“荒廃した終末世界+ゴテゴテの武装車両+ロックなコスチュームのマッチョな男たち”という組み合わせで作られた世界観は、映画だけでなく小説や漫画に至るまで、絶大な影響を及ぼした。
日本人なら誰もが知る「北斗の拳」は、“マッドマックスの子供たち”の中で、もっとも成功を収めたフォロワーの一つである。
こうして映画史のエポックとなったシリーズだが、ハリウッドとの結びつきが強まり、大幅に予算も増えた第三作「マッドマックス/サンダードーム」でまさかの失速。
少年少女たちに、彼らを導く救世主と信じ込まれたマックスが、交易都市を支配する女王エンティティと戦う。
大作感はあるのだが、年少の観客を意識し過ぎてハードな作風がすっかりマイルドになり、何より売りもののカーチェイスがほとんど無い!
期待に胸ふくらませて駆けつけた東京ファンタスティック映画祭での上映で、全編に渡って漂うコレジャナイ感に、呆然としたまま劇場を後にしたのを、今でも覚えている。
あれから早30年。
通算四作目となる本作は、旧三部作と世界観を共有しているが、厳密に言えば続編とは少し違う。
例えば「2」でスクラップになってしまったマックスの愛車、インターセプターが今回は何事も無かったかのように再登場。
また理由は後述するが、彼の心に幽霊の様に住み着いている“救えなかった我が子”が、一作目の男の子から女の子に変わっているのである。
本作はいわば、旧三部作の設定を微修正したうえで、「2」をベースにリブートした作品という色彩が強い。
理想郷へのエクソダスをはかる巨大なタンクローリーと、それを追う暴走軍団という基本構造などは「2」と共通。
冒頭いきなりマックスがヒャッハーな敵に襲われるとか、捕虜は車両の先頭に括りつけるとか、フックを引っ掛けてトレーラーを減速させるとか、見せ場のあちこちにも同一の要素がある。
もっとも、世界観を共有するとは言っても、本作と旧三部作とはもはや別物だ。
第一作のバジェットは僅か65万ドルで、それが「2」で200万ドルとなり「サンダードーム」では1200万ドルにまで増えるのだが、ハリウッド大作と比べるとまだ低予算。
ところが本作の予算は、前作の軽く10倍以上の1億5000万ドルにまで膨れ上がっている。
インフレ率を考えても、堂々たる超大作であり、画面に投入されている物量の差は歴然だ。
さらにここ30年間の、映像テクノロジーの凄まじい進化がある。
ジョージ・ミラーは可能な限りライブでの撮影に拘ったようだが、それでもデジタル技術の助けが映像のゴージャスさを劇的にアップグレートしているのは確実。
またカメラと撮影技術の発達は、80年代にはあり得なかった画を捉えることを可能にした。
予算がガソリンなら、技術はニトロ。
ジョージ・ミラーのイマジネーションのV8エンジンは、二つの燃料を得て誰も観たことのないレッドゾーンに突入する。
いやもうとにかく、発想のイカレっぷりが凄い。
悪漢たちがマックスを捕虜にした理由も、そのまんま車に括りつけて負傷者の人間輸血パックにするためって、なんじゃそりゃ(笑
シタデルにはなぜか牛のように搾乳機に繋がれている太った女たちがいて、どうやらその母乳は交易品らしい。
さらにはジョーの軍団のボスたちは、皆揃いも揃って奇形だったり、旧作では見え隠れしている程度だった、ミラーの異形愛というか奇形愛が、こっちではデビッド・リンチ並にストレートに炸裂している。
一見ほとんど有って無きがごとく、しかし実際には綿密に構成された本作のプロットをシンプルに表現すれば、「マックスと虐げられた女たちが、奇形の狂った男たちと戦う話」となるだろう。
もし日本でやったらプロ市民の怒りを買いそうだが、創作者の壮大なる狂気の前には下手なモラルなど吹っ飛ばされる。
トレーラーを追撃するジョーの軍団には、なぜか巨大ドラムを叩く男たちとか、車の上で火炎放射器付きギターを弾く男とか、戦意を鼓舞するだけのバンドマンたちがいるのもおかし過ぎ(笑
しかし、いくらビジュアルが凄くても、それだけではこれほど熱い映画にはならない。
本作が素晴らしいのは、狂気が支配する世界の中で、キャラクターのエモーションだけはキッチリと描きこんでいるからである。
マックスはなぜ、女たちを助けるのか。
これは本来息子だった設定を娘に変えた理由でもあるだろうが、彼は嘗て愛する者たちを救えなかった事をトラウマとして抱えている。
人と関わらずに生きていこうとするのも、自らの中にある贖罪の意識と、もう同じ思いを繰り返したくないという脅迫観念からだろう。
だからこそ最初は嫌々だったとしても、真に生きたいという女たちを前に、マックスは彼女らを見捨てることは出来ないのである。
徹底的に支配された女たちの、自由への渇望は言うまでもなく、それぞれのキャラクターの持つ葛藤は、第三の燃料となって物語を突き動かす。
そして映画は、終盤まるで砂漠版「デンデラ」を思わせる、老婆たちの戦闘集団の出現によって、明確にその帰結すべき目標を定める。
目指すべき自由な未来は逃亡の先には無く、戦って勝ち取らなければならないのだ。
老婆たちは繋ぐものたちで、若い女たちは明日を芽吹かせるものたちであり、そこに過去の呪縛から逃れられないマックスの居場所は無い。
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は、異才ジョージ・ミラーの現時点での集大成にして、驚くべき傑作である。
映画とはそもそも見世物から始まった芸術で、原点は映像の力によって人を驚かせ、感動させること。
歴史あるシリーズだから、薀蓄はいくらでも語れるが、私はこの映画の魅力を端的に表現できる言葉を知らない。
我々観客の想像力を遥かに超える創作者の偉大なイマジネーションと、それを現実化した未見性の塊のような映像に圧倒され、この天晴れな大活劇にただただ酔った。
二代目マックスを襲名したトム・ハーディは、見事に先代メル・ギブソンのイメージを払拭したし、男前のバトルヒロイン、フュリオサを演じたシャーリーズ・セロンも新境地だろう。
聞くところによると、ミラーは本作を新たなシリーズの起点と考えていて、ハーディのマックスをもう3本作る構想があるらしい。
はたして、このとてつもない「Part1」を超えることが出来るのか、既にアナウンスされている「Mad Max:The Wasteland 」を、首を長くして待ちたい。
今回は、灼熱のバトル後の渇きを癒すべく、オーストラリアを代表する銘柄の一つ「ヴィクトリア・ビター」をチョイス。
アメリカンビールほどライトではないが、適度なホップ感と苦味が爽快な喉越しを演出する。
昔オーストラリアに行ったときには、カンガルーのソーセージを肴にこれを飲んだ。
それだけで気分はワイルドなロード・ウォーリアー(笑

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たまに予告やポスターを見ても、どんな映画なのかさっぱり分からない作品があるが、本作もその一つだろう。
とりあえずピンバッチが異世界への扉なのは分かったが、どういう内容の、何に関する映画なのかは全く伝わってこなかった。
本国での興業がイマイチなのも、その辺りが影響しているのだろうけど、実際に本編を鑑賞したらさすがブラッド・バード、かなり面白いじゃないの!
※核心に触れています。
ホンモノの“トゥモローランド”といえば、ディズニーランドにあるSFチックなエリアだが、本作ではディズニーをはじめ、エジソンとかニコラ・テスラとか、歴史上の天才たちのネットワークが、密かに作り上げた理想都市の名ということになっている。
元々ディズニーはCIAの協力者であったり、軍との繋がりが強かったり、何かとウワサのある人物で、ディズニーランドにもイッツア・スモール・ワールドから地下都市へ通じる秘密の入り口があるとか、入場者と退出者の数が一致しないとか、色々な伝説があった。
つまりこれは、ディズニーにまつわる幾つかの都市伝説を組み合わせて、まんま一本の映画に仕立て上げちゃった作品なのだ。
「アナと雪の女王」や「ウォルト・ディズニーの約束」にも見られた、自らの歴史そのものをネタとして利用する、ある意味フリーダムな企画性が凄い(笑
異次元空間に作られたトゥモローランドは、密かに世界中から大きな夢を持つ人々が集められ、創作や研究に勤しんで、未来の地球への“種”を生み出している場所。
要するに、「マイティ・ソー」のアスガルドを、地球人自身が作った様なものか。
しかしある時点から、人類の思考が極端にネガティブ化して、未来予測システムが人類の確実な滅亡を予知したことで、トゥモローランドは地球との関係を断とうとするのだ。
プロットは少々ややこしく、前半はブリット・ロバートソン演じる17歳の少女ケイシーの視点で進むのだが、途中から主役がジョージ・クルーニーに入れ替わってしまう。
実は彼こそが、60年代にトゥモローランドに招かれ、未来予測システムを作ってしまった張本人。
そしてラッフィー・キャシディちゃん演じる、知と芸術の女神アテナの名を持つ謎めいた美少女との、初恋のトラウマを今も引きずる葛藤の塊。
だから最終的に彼の物語に成るのは必然なのだが、プロットはもうちょっと整理できた気がする。
まあ、あっちこっちに脱線はするものの、結局言いたいことはシンプルだ。
未来を作るのは人間の想像力。
人々が未来に恐怖や絶望ではなく、夢と希望を見るならば、トゥモローランドの理想は実現するということである。
メディアが恐怖の消費を仕向けている、というのはハリウッドの自戒の念か、それとも長年夢と希望の王国であり続けたディズニー流のアメリカ批評か。
夢見るおっさんとしてちょい嬉しいのは、トゥモローランドに行く資格は人種も性別も年齢も関係無いということ。
だから、本国公開時に散見された「エリート主義の映画」という批判はちょっと違うと思う。
私も異世界のトゥモローランドに招かれて、宇宙船乗りたいものだけど、とりあえずはディズニーランドで童心に戻ってこよう。
今回はディズニーの巨大テーマパークの集合体、ディズニーワールドのある「フロリダ」の名を持つカクテルを。
フロリダというカクテルは、日本ではノンアルコールが一般的だが、こちらはしっかりお酒のレシピである。
ドライジン15ml、オレンジジュース45ml、キルシュワッサー1tsp、ホワイトキュラソー1tsp、レモンジュース1tspをシェイクして、氷を入れたグラスに注ぎ、オレンジスライスを添えて完成。
オレンジ色が鮮やかな、フルーティーで夏向きの一杯。
ほろ酔い気分で夢を広げたい。

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近未来の独裁国家“パネム”で、図らずも革命のシンボルとなってしまった主人公、カットニスを描くSF冒険譚の第三作。
前作までの“ハンガー・ゲーム”ステージは終了し、物語はいよいよ政府軍と反乱軍の戦争を描くファイナルステージに突入する。
正確にはそのパート1なのだけどね・・・。
邦題に、前後編である事を示す表記が一切無いのは、いかがなものか。
閉ざされた闘技場でのサバイバルがメインだった前2作とは、全く様相が異なる。
反乱軍に救出されたカットニスは、嘗て政府に反旗を翻したために滅ぼされたはずの第13地区に運ばれる。
彼らは密かに地下要塞を建設し、反攻の機会を待っていたのだ。
首都キャピトルに君臨する独裁者、スノー大統領を倒すには、全国の反乱勢力が一つにまとまる事が必須。
そのために、救世主ジャンヌ・ダルクに仕立て上げられるのが、大衆に大人気のカットニスなのである。
彼女を象徴する架空の鳥、マネシカケスは、一羽のさえずりを他の鳥たちが次々に真似することで、無限に広がってゆくという特徴を持つ。
同じ様に、カットニスの呼びかけによって、革命の炎が国中に伝播されるというワケ。
本作はいわば、国の支配を賭けた最終決戦に向けて、戦争の主導権を握るための、政府と反乱軍双方の情報戦の映画だ。
反乱軍が革命のシンボルとしてカットニスを立てれば、政府は捕虜にした相方のピーターを利用して、国民の支持を得るために熾烈な宣伝合戦を繰り広げる。
少年少女の殺し合いを娯楽として提供するという“ハンガー・ゲーム”のコンセプトは、テレビが絶大な影響を持つ、現実のアメリカのカリカチュアだったが、今回の展開はむしろ中東のISISとのSNSを使った宣伝合戦のよう。
お互いに、「正義は我にあり」と情報操作しまくって、ネット社会を味方につけようとするのと同じである。
そんな大きなうねりに巻き込まれたカットニスは、キャピトルに囚われたピーターを救うために、広告塔として否が応でも革命の先頭に立たざるを得ない。
敵味方双方からのあの手この手のプレッシャーに、彼女は次第に精神的に追い込まれてゆく。
今回は肉体的にはそれほど痛くないが、心が切り裂かれる映画なのだ。
なぜか世界の中で日本でだけ支持率が低いシリーズだけど、相変わらずよく出来た人間ドラマで、故フィリップ・シーモア・ホフマンからジュリアン・ムーアまで、いつの間にか脇役の俳優陣の充実は凄いことになっている。
前後編ゆえに、物語的にはちょうど半分でバスッと切られ、完全に途中で終わっているので、本来ならばまとめて評価すべき作品だろう。
ゲームの局面はもはや最後の佳境、役者はそろい、葛藤は極限までに高まっている。
シリーズ完結編となる「ハンガー・ゲーム FINAL:レボリューション」の全世界同時公開は11月20日。
クライマックスの大爆発を期待したい。
カットニスは元々生きるために猟をしていて、弓の名手になったという設定なので、今回はハンターつながりで「イエーガー・トニック」をチョイス。
ドイツのリキュールイエーガー・マイスター45mlを氷を入れたタンブラーに注ぎ、適量のトニックウォーターで割り、スライスレモンを添えて完成。
イエーガー・マイスターの甘めで強い香草の風味を、適度に抑えて飲みやすくしてくれる。
香草は食欲を刺激するので、アペリティフとして最適だ。

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大学アカペラ全米No.1を目指す、女子だけのチームの挑戦を描く、熱い音楽映画。
本国での公開は、なんと2012年9月。
こんな面白い作品が3年近く公開されてなかったなんて、ガラパゴス市場の悲劇だ!
主人公のベッカは、音楽プロデューサー志望。
本当はさっさと業界に就職したかったのだが、パパに説得されて入った大学で、アカペラ・クラブの“バーデン・ベラーズ”に勧誘される。
成り行きでベラーズに入ったものの、そこは異様なまでに伝統に縛られ、個性豊かなメンバーが実力を出し切れていないジリ貧状態。
本来アカペラの人ではないベッカが、閉塞したクラブに新たな風を吹き込むというワケだ。
主演のアナ・ケンドリックは、元々ブロードウェーの舞台出身。
彼女が最近ミュージカル映画ばっかり出ているのは、本作で改めて歌える女優として認知されたからか。
物語の軸になるのは、ベッカとクラブのリーダー、オーブリーの葛藤。
オーブリーは前年の大会で、緊張のあまり舞台で嘔吐するという不名誉な伝説をつくってしまい、今シーズンでの雪辱に燃えている。
どこかのCAの様なユニフォームを纏い、常に同じ曲を使い続けるというベラーズの伝統に、頑なに拘るオーブリーと、そんな古臭いスタイルじゃ勝てないというベッカ。
しかもベッカと良い感じの仲になるジェシーは、ベラーズの宿敵である男子アカペラ・クラブの“トレブルメーカーズ”の一員という「ロミオとジュリエット」シチュエーション。
まさに内憂外患で空中分解寸前のベラーズはしかし、次第にプロデューサー・アレンジャーの才能を持つ、ベッカのリーダーシップを受け入れることで団結してゆく。
元々低音が出ない女子チームは、コンテストでは男子に比べて不利。
ならば彼女たちが目指すのは、メンバーそれぞれの個性と声を生かした、全く新しいアカペラ・パフォーマンス!
色んなキャラがいて、ぶつかり合いながらも少しずつチームが作り上げられて行くストーリーは青春ものの王道中の王道だ。
もちろん音楽映画としても聞き応え十分で、パワフルなコンテストのステージシーンでは踊りだしたくなるし、キーワードをもとにかけ合いで歌をリレーしてゆく“リフ・オフ”では、次にどんな歌が飛び出すのかワクワク。
楽曲も80'sが多いのだけど、同時代の映画、特にジョン・ヒューズの青春映画へのリスペクトに溢れているのが、私の世代にはたまらない。
ブラット・パックなんて、もう今の若い子たちは知らないだろうけど、「ブレックファスト・クラブ」を観てない人は、ぜひこの機会に観てほしい。
ベッカじゃないけど、当時の感動を思い出して、クライマックスでは思わず泣きそうになった。
オーブリーの豪快すぎるゲロは、もしかしたら「スタンド・バイ・ミー」へのオマージュなのだろうか(笑
基本的にアカペラ・クラブはそれぞれに人気はあるものの、間違ってもジョックとクインビーのポジションではなく、自分たちをナードと認識していて、作り手にナードへの愛があるのも良い。
これは王道の物語と、キュートなキャラクター、魅力たっぷりの音楽が詰まった青春の宝箱だ。
今まさに全米大ヒット中の「2」が早く観たくてたまらない!
今回は、大学生が大好きなアメリカンビール代表格、「ミラー・ドラフト」をチョイス。
コールドフィルターで繰り返し濾過し、1℃の温度で醸造される非加熱処理の製法で作られるビールは、良い意味でまるで水のようにあっさり、すっきり。
パーティの時は、こういう癖のないライトなビールの方が、喋りながら長く楽しめていい。
アカペラで疲れた喉も潤うだろう。

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朝鮮戦争下の1950年から2014年へ。
生き別れとなった父との約束で、幼くして“家長”となった少年の激動の人生の物語が、そのまま戦後韓国の軌跡と重なる。
これはいわば韓国版「フォレスト・ガンプ」で、127分とこの種の大河映画にしては比較的短めな上映時間は、全くダレる部分がない。
個人史と社会史が密接にリンクした韓国の作品というと、ある男の自殺の瞬間から過去へ過去へと時代を遡る、イ・チャンドン監督の傑作「ペパーミント・キャンディー」がある。
あの映画は2000年を起点に、民主化運動を背景に光州事件が起こった80年へ、いわば現代史の暗部を辿った作品だったが、本作で描かれる期間はもっとずっと長い。
戦争で疲弊したアジアの最貧国が、大きな対価を払いながらも、豊かな経済大国へと上り詰める山あり谷ありのサクセスストーリーを、市井の人々の視点で描いたのが特徴だ。
※ラストに触れています。
主人公のドクスは、戦争難民として逃げる途中、父と妹と生き別れとなり、残された母と二人の弟妹を連れて、釜山の国際市場にあるおばの家に辿り着く。
大黒柱を失った家族の生活は苦しく、長兄であり家長となったドクスは、家族のために身を粉にして働きはじめるのである。
弟の学費を稼ぐため、60年代には炭鉱労働者として西ドイツへと出稼ぎに。
当時高度成長期だった西ドイツは、人手不足解消のため外国人労働者を受け入れ、韓国も外貨獲得のため国策として男は坑夫、女は看護師として多くの自国民を送り出した。
帰国して所帯を持ったのもつかの間、70年代にはおば夫婦の店を買い取る資金が必要になり、軍属として激戦が続くベトナムへ。
ようやく一息ついた80年代には、離散家族の一人として、生き別れたままの父と妹を探す。
まさに疾風怒濤のドクスの人生と共に、韓国は徐々に豊かになり、彼の人生のバイプレイヤーとして現代グループの創始者・鄭周永とか、世界的デザイナーとなるアンドレ・キムとか、様々な有名人がちょこちょこ顔を出すというわけ。
愚直で不器用なアニキ、ドクスのプライオリティは常に“家族のために”で、その原体験には戦争の記憶があり、一個人として経験してきた生の歴史が彼の行動原理を形作っている。
だから朝鮮戦争で米軍によって助けられた経験が、ベトナムの戦場で目の前の人を見捨てないという行動を生み、ドイツでの出稼ぎの記憶が、外国人に差別的な態度をとる若い韓国人への憤りに繋がる。
ドクスは、ベトナムの戦場から妻に当てた手紙にこう綴るのである。
「戦争の時代を生きたのが、子供たちでなく僕たちでよかった」と。
本作は、そのレトロ調から韓国版の「ALWAYS 三丁目の夕日」に擬える向きもあるらしいが、作品のベクトルは相当に異なる。
限りなく美化された“昭和テーマパーク”とは対照的に、本作のベースは豊かさの裏側にある贖罪と悔恨の情であり、物語を貫いているのはあくまでも庶民目線で見た歴史のリアリテイ。
終盤、なぜ「国際市場」なのか?というタイトルの意味が明かされてからのエピソードは、涙なしには観られないだろう。
本作の冒頭とラストに登場する、一匹の白い蝶。
多くの文化で蝶は死者の魂の化身と考えられ、朝鮮戦争を描いた異色のファンタジー「トンマッコルへようこそ」でも印象的に描写されていた。
あの蝶は、約束を果たすために半世紀以上も頑張り続けたドクスに、ねぎらいを届けに来たお父さんだったのかなぁ。
ドクスを演じるファン・ジョンミン、妻ヨンジャ役のキム・ユンジン、役者は皆素晴らしいが、名バイブレイヤーのオ・ダルスが、「ガンプ」のゲイリー・シニーズ的役回りで、美味しいところをさらっていく。
しかしこれ、日本人でも十分楽しめるけど、韓国人にしか分からないお楽しみが、ディテールにたくさんあるんだろうなあ。
今回は、国際市場のある釜山の焼酎「C1」をチョイス。
「C1」は「Clean No.1」の略だそう。
韓国では地域ごとに人気の焼酎が異なっていて、釜山では同市のデソン酒造の作る「C1」がだいたいどこの店にも置いてある。
ここの特徴は、製造段階で特殊な振動を加えて酒を柔らかくする事で、なるほど飲んでみるとマイルドな印象で飲みやすい。
アルコール度数も比較的低く、そのままでも良いが、個人的にはスパークリングで割るのが好み。

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19世紀末のフランスの片田舎。
見えず、聞こえず、話せない、三重苦の少女と、彼女を暗闇と沈黙の牢獄から解き放った、ある修道女を描く実話ベースの作品。
邦題通り、もう一つのヘレン・ケラーとサリバン先生の物語で、主演二人の圧倒的な名演技が見どころだ。
特に三重苦のマリーを演じるアリアーナ・リヴォアールは、実際に聴覚障害者なのだけど、単にリアルなだけでない繊細な役作り。
彼女とシスター・マルグリット役のベテラン、イザベル・カレとの火花散る絡み合いだけでも、十分に観る価値ありだ。
監督・脚本は、「デルフィーヌの場合」のジャン=ピエール・アメリス。
彼は、思春期にアーサー・ペン監督版の「奇跡の人」を観て、盲聾の人々に関心を持ち、この史実を知ったのだという。
※核心部分に触れています。
聾唖の子供たちを受け入れているライネル聖母学院に、ある日マリー(アリアーナ・リヴォアール)という少女が連れてこられる。
彼女は、聾唖に盲という三重苦を抱え、生まれてから14年間、一度も教育を受けたことが無い。
まるで野獣のようなマリーを見たシスター・マルグリット(イザベル・カレ)は、彼女の鮮烈な生と無垢な魂に心惹かれ、教育係に名乗り出る。
だが、言葉を知らず本能のままに生きるマリーに、人間社会の理を教えるのは至難の業で、終わりの見えない壮絶な闘いが続く。
そして、マリーが来てから8か月目、遂に彼女はものには“名前”がある事を理解する。
大きなブレイクスルーを果たし、マリーとの絆が深まる間にも、マルグリットの体は次第に変調をきたしていた・・・・
マリーとほぼ同時代を生きたヘレン・ケラーは、高熱で障害を負った生後19ヶ月までは目も見えていたし、耳も聞こえていたので、記憶のどこかに映像と音のイメージが残っていた可能性は高いだろう。
しかし、マリーの場合は生まれながらの三重苦だ。
彼女の世界は、自分が触れて感じることのできる範囲だけで、世話をしてくれている“誰か”がいる事は認識していても、それが“両親”と呼ばれる概念であることは理解できていない。
目の開かない赤ん坊のまま肉体だけが成長する彼女を、貧しい農家である両親はただ生かすだけで精一杯。
しつけや教育など与える術もなく、結果的にマリーは14歳まで本能と感情のみで生きる、獣のように育ってしまう。
遂に両親の手には負えなくなり、聾唖の子供の寄宿学校となっているライネル聖母学院にやって来るのだが、当初学院は盲聾の子を受け入れた経験がないと拒否しようとする。
ところが、運命的にマリーに惹きつけられたシスター・マルグリットが、教育係になる事を申し出たことで、野性の少女を人間社会へと導く、壮絶な“教育”が始まるのだ。
なぜマルグリットは、不可能とも思える困難な役割を自ら買ってでたのか。
実は、彼女は不治の病に侵されており、自分の命がもう長くないことを知っている。
そんな彼女の前に現れたのは、あまりにも小さくて脆い、むき出しの魂を持つ瑞々しい生であり、消えゆく命を自覚しているマルグリットは、その命の炎の眩しさから目が離せない。
彼女を動かした衝動は、もしかしたら刹那的な母性だったかもしれないし、神の愛を伝える信仰者としての義務感だったかもしれないし、あるいは自分の生きた証を誰かに継承してもらいたいという気持もあったかもしれない。
いずれにしても運命の邂逅によって二人の人生は共鳴し、マルグリットは残り少ない命を削ってでも、マリーの魂の導き手をなる事を決めるのだ。
ここから、アリアーナ・リヴォアールとイザベル・カレという、素晴らしい俳優によって表現される、数か月間に及ぶ肉体と精神の激突は凄まじく、文字通り全存在をかけた死闘である。
何度も諦めそうになりながらも、マルグリットは試行錯誤しながら根気よくマリーに教えつづけ、遂に彼女はこの世界には“言葉”があり、物や人には“名前”があることを理解する。
最初の一歩を超えてしまえば、あとは雨季の畑に雨が染み渡り、作物が一気に育つが如く。
マリーの心が知の欲求に目覚め、言葉がほとばしり、他者とコミュニケーションする喜びを感じるプロセスは本当に感動的だ。
自分を永遠の孤独から解放してくれたマルグリットをマリーは深く信頼し、やがて二人は本当の親子以上の深い絆で結ばれてゆくのである。
しかし、マルグリットを蝕む病魔は容赦なく、二人の永遠の別れは刻々と迫ってくる。
彼女にとって、マリーに最後に伝えるべき事、魂の継承の儀式の最終章は、自らの死によって、命の持つ本当の意味、生きる喜びを感じさせること。
映画の作りとしては超がつくほどの正攻法で、ストーリーにもテリングにも奇をてらった部分は一切ない。
実話ベースの重みに、素晴らしい演技があれば、余計なデコレーションは不要。
キャラクターの心に寄り添い、状況を丁寧に作りこむだけで十分なのである。
誠実に描かれる人間の絆と、生と死の命のドラマに、気持ちよくドラ泣きさせてもらった。
今回は、フレッシュな味わいと鮮やかなブルーが特徴の、ブルゴーニュ産のソーヴィニヨン・ブランのスパークリング「ラ・ヴァーグ・ブルー」をチョイス。
青は聖母マリアの象徴であるために、結婚式などのパーティーシーンで人気の一本。
やや辛口で柑橘系の爽やかな味わいに適度な苦み、バランスに優れた酸味を持ち、口当たりの良い爽やかな味わい。
映画で流した涙の水分は、フレッシュなスパークリングで補充してしまおう。
追記:因みに本作の配給チームが「映画『奇跡のひとマリーとマルグリット』バリアフリー版を作ってみんなで映画を楽もう!!」という試みへの支援を、クラウドファンディングで募集している。
映画公開前という事で、まだ10%ほど足りていない模様で、締め切りまで残りあと5日、興味のある人は是非。
私も微力ながら支援させていただいた。
http://kibi-dango.jp/info.php?type=items&id=I0000100

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