■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係なTBもお断りいたします。 また、関係があってもアフェリエイト、アダルトへの誘導など不適切と判断したTBは削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係なTBもお断りいたします。 また、関係があってもアフェリエイト、アダルトへの誘導など不適切と判断したTBは削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。
2015年06月20日 (土) | 編集 |
そして、姉妹になる。
吉田秋生の同名漫画を原作とした、リリカルなヒューマンドラマ。
鎌倉の古い家に暮らす三姉妹は、父が亡くなり身寄りがいなくなってしまった異母妹を迎え入れ、新たに四姉妹として生活をスタートする。
是枝裕和監督は、山と海の街、鎌倉・湘南の美しい四季を背景に、個性的な姉妹それぞれの葛藤を、出会いと絆の物語の内に描く。
四人の綺麗どころが揃ったビジュアルは、観ているだけで気分が華やぐが、是枝作品らしく画面の隅々まで作り手の仕事が行き届いた、どこまでも端正な映画である。
ある年の夏、15年前に家族を捨てた父親の訃報が届き、幸(綾瀬はるか)、佳乃(長澤まさみ)、千佳(夏帆)の三姉妹は、山形で行われた葬儀に参列する。
そこで彼女たちを迎えてくれたのは、腹違いの妹である中学生のすず(広瀬すず)だった。
すずの母もすでに亡く、後妻である父の三番目の妻とは血の繋がりもない。
彼女の状況を見かねた幸は、「鎌倉の家で一緒に暮らさない?」と提案する。
新学期に合わせて、鎌倉に引っ越してきたすずは、地元のサッカークラブにも入り、次第に新しい暮らしにも馴染んだように見えていた。
だが、行きつけの定食屋を訪れた幸は、おかみ(吹雪ジュン)に家では見せないすずの意外な一面を聞かされ、妹の心の中ではわだかまりがとけていないことを知る。
そんな時、父と別れて以来札幌で暮らし、すっかり疎遠になっていた母(大竹しのぶ)が、祖母の七回忌に姿を現す・・・・
スクリーンから海風が吹き抜ける、気持ちの良い映画だ。
物語は意外なほど原作に忠実で、特にドラマチックな展開がある訳ではない。
代々受け継がれてきた鎌倉の古い日本家屋に暮らす三姉妹の元に、ある日腹違いの妹がやって来て、それぞれの一年を通して、だんだんと“家族”になってゆく。
ただ、それだけ。
にもかかわらず、綿密に作り込まれた画面から目が離せない。
是枝作品としては95年の長編デビュー作「幻の光」、2008年の「歩いても 歩いても」の系譜に連なる作品だと思う。
「幻の光」は心に傷を負った一人の女性が、能登の漁村での穏やかな暮らしの中で、徐々に癒されてゆく物語で、「歩いても 歩いても」では嘗て開業医を営んでいた三浦海岸近くの古い家に、15年前に死んだ長男の法事のために集まった家族が、弔いのなかで葛藤をぶつけ合い、わだかまりを解いてゆく。
この2本と本作は、どれも“海街”を舞台としたホームドラマで、それぞれに問題を抱えた家族の再生劇である点など、いくつもの共通点がある。
本人はむしろ成瀬のファンらしいが、特に海外において、是枝監督はしばしば小津の後継者と目される。
なるほど確かに題材選びに似た部分があるものの、私には似て非なる作家に思える。
小津は戦後激変する社会のなかで、嘗て日本のどこにでもあった、大家族という共同体の解体とそれに伴う痛みを描いたが、是枝作品はむしろその逆だ。
世代が違うのだから当たり前だが、彼の世界は小津的解体を経て核家族化した、さらに小さな共同体である。
「歩いても 歩いても」「そして父になる」では、問題を抱える共同体の再生を、「幻の光」では共同体に入ることによって癒される個人を描く。
唯一、「誰も知らない」では、共同体は崩壊したままだが、これもまた小津的解体のその先の物語なのである。
本作の場合、小さな問題を抱えた三姉妹の共同体に、より大きな問題を抱えた四女が入ることによって波紋が生じ、顕在化した問題の解決によって新たな調和が生じるまでの物語と言えよう。
とはいえ、本作の制作にあたっては、是枝監督はかなり小津演出を意識したらしく、室内でキャラクターをとらえた画作りは、かなり小津的と言えるかもしれない。
私の大学の時の先生に、元小津組の人がいたのだが、小津監督の絶対的なファーストプライオリティはいかに役者の演技を引きだし、それを魅力的に見せるかで、ぶっちゃけそれ以外に興味がなかったそうだ。
独特のローポジションも、狭い日本家屋の中で、俳優を魅力的に、芝居を効果的に見せるという必然が生み出したもので、しばしばイマジナリ―ラインを無視するのも、芝居優先のため。
なるほど本作でも、特に四姉妹が集う居間でのキャラクターとカメラ配置は、俳優の演技を生かすために綿密に計算されている。
逆に建物のファサードを含めた日本的空間の切り取り方は、成瀬的に感じるのが面白く、本作はいわば小津、成瀬の映画的記憶が、是枝裕和という作家の中で融合をみた作品の様に感じる。
家族をモチーフとした是枝作品で特徴的なのは、家族には歴史があり、過去によって現在の状況が縛られていることである。
人が人と暮らしてゆけば、時間はどんどんと折り重なって増えてゆく。
前記した「幻の光」と「歩いても 歩いても」の登場人物は、過去の出来事によって見えない傷を抱え、「そして父になる」の場合は、家族とは共に暮らした時間なのかか、それとも血脈なのかを問う作品であった。
本作も登場人物の抱えるほとんどの葛藤は、複雑な家族の過去に起因するもので、物語を支配しているのは、亡き父の存在である。
この辺りも小津を意識したのかと思うが、本作では回想の手法が完全に封じられ、画面に一度も登場しないことによって、四姉妹一人ひとりにとっての異なる父親像が浮かび上がり、家族の積み重ねてきた時間、失った時間の重みと呪縛がより強調されるというわけ。
姉妹の出会いと、本当に家族となる瞬間が、共に“父の好きだった場所”と重なるのも象徴的だ。
四姉妹のうち、物語の軸となるのは長女の幸と四女のすず、それぞれの家族に対するわだかまりで、佳乃と千佳が一歩引いたポジション。
“家長”である幸は生真面目で、家族を捨てた父も、さっさと再婚して出て行った母のことも許せない。
しかし両親の不義による離婚を見てきたのに、いつの間にか不倫している自らに対しても矛盾を感じ、妹たちの良き“母”であることで無理にバランスを取ろうとしている。
一方すずは、自分の母が共に暮らす姉たちの家庭を壊したこと、その結果として生まれてきた自分の存在に穢れと自己嫌悪を感じながら生きている。
この二人の間に、酒癖と男運の悪い次女の佳乃と、おおらかでマイペースな三女の千佳が入り、潤滑剤として機能するのだ。
綾瀬はるかのマジメキャラ、奔放な長澤まさみ、飄々とした夏帆、それぞれの演者の個性がピタリとはまる。
そしてナチュラルな演技を引き出すために、あえてシナリオを封じられていたという広瀬すずの美少女っぷり!
桜並木の自転車タイタニックは、少女時代の一瞬にしか撮れないキラキラが弾ける名シーン。
しかし四姉妹ものというのは、数が多いだけに構成は難しいが、ドラマ的な変数として考えると便利だ。
四人の時、三人の時、二人の時、人物の組み合わせで違ったキャラクターの顔を見せられる。
全員揃った時には出ない本音も、二人の時にはポロっと出てきたり。
描写で特徴的なのは、小津映画と同じく、やたらと食事のシーンが多いこと。
湘南の海を象徴するしらす丼、しらすトースト、ちくわカレー、姉妹の家で作っている各年代の梅酒・・・・etc.
めちゃめちゃ美味しそうに描写される、それぞれの食べ物にもバックストーリーがあり、彼女らが共に食事をする度に、少しずつ距離が縮まってゆくのである。
それにしても、鎌倉はなんと絵になる街だろうか。
古の歴史を感じさせる寺社のある山、雄大な太平洋を望む湘南の海岸、情緒ある江ノ電が走り、四季折々の美味しい地のものがたくさんある。
過去にも様々な作品の舞台となってきたこの街が、本作のもう一つの主役と言えるかも知れない。
美しく端正な画面を堪能するには、キチンとビスタ上映してくれる劇場で観ることをオススメする。
多くのシネコンがスクリーンのマスキングを廃止し、シネスコサイズのまま全てを上映している現状では、難しい事かも知れないけど。
余談だが、一本の作品の中でアスペクト比を変化させるグザヴィエ・ドランは、マスキングが使えない事を前提に画面設計をして、両サイドが闇に溶ける事を防いでいる。
今後ビスタサイズでの映画作りは、同じような配慮をする必要があるかもしれない。
今回は、劇中でも姉妹の家族史の象徴として描写されている「梅酒」をチョイス。
家庭で作れるのは酒税法によって20度以上の蒸留酒ベースに決められてるので、すずちゃんの酔いも酷かっただろう(笑
うちにも8年物があるので、映画を観た後にソーダ割りにして楽しんだ。
自家製がなくても、色々な種類の梅酒が出てい、そのままでもカクテルベースにしても便利な日本の夏の風物詩の一つだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
吉田秋生の同名漫画を原作とした、リリカルなヒューマンドラマ。
鎌倉の古い家に暮らす三姉妹は、父が亡くなり身寄りがいなくなってしまった異母妹を迎え入れ、新たに四姉妹として生活をスタートする。
是枝裕和監督は、山と海の街、鎌倉・湘南の美しい四季を背景に、個性的な姉妹それぞれの葛藤を、出会いと絆の物語の内に描く。
四人の綺麗どころが揃ったビジュアルは、観ているだけで気分が華やぐが、是枝作品らしく画面の隅々まで作り手の仕事が行き届いた、どこまでも端正な映画である。
ある年の夏、15年前に家族を捨てた父親の訃報が届き、幸(綾瀬はるか)、佳乃(長澤まさみ)、千佳(夏帆)の三姉妹は、山形で行われた葬儀に参列する。
そこで彼女たちを迎えてくれたのは、腹違いの妹である中学生のすず(広瀬すず)だった。
すずの母もすでに亡く、後妻である父の三番目の妻とは血の繋がりもない。
彼女の状況を見かねた幸は、「鎌倉の家で一緒に暮らさない?」と提案する。
新学期に合わせて、鎌倉に引っ越してきたすずは、地元のサッカークラブにも入り、次第に新しい暮らしにも馴染んだように見えていた。
だが、行きつけの定食屋を訪れた幸は、おかみ(吹雪ジュン)に家では見せないすずの意外な一面を聞かされ、妹の心の中ではわだかまりがとけていないことを知る。
そんな時、父と別れて以来札幌で暮らし、すっかり疎遠になっていた母(大竹しのぶ)が、祖母の七回忌に姿を現す・・・・
スクリーンから海風が吹き抜ける、気持ちの良い映画だ。
物語は意外なほど原作に忠実で、特にドラマチックな展開がある訳ではない。
代々受け継がれてきた鎌倉の古い日本家屋に暮らす三姉妹の元に、ある日腹違いの妹がやって来て、それぞれの一年を通して、だんだんと“家族”になってゆく。
ただ、それだけ。
にもかかわらず、綿密に作り込まれた画面から目が離せない。
是枝作品としては95年の長編デビュー作「幻の光」、2008年の「歩いても 歩いても」の系譜に連なる作品だと思う。
「幻の光」は心に傷を負った一人の女性が、能登の漁村での穏やかな暮らしの中で、徐々に癒されてゆく物語で、「歩いても 歩いても」では嘗て開業医を営んでいた三浦海岸近くの古い家に、15年前に死んだ長男の法事のために集まった家族が、弔いのなかで葛藤をぶつけ合い、わだかまりを解いてゆく。
この2本と本作は、どれも“海街”を舞台としたホームドラマで、それぞれに問題を抱えた家族の再生劇である点など、いくつもの共通点がある。
本人はむしろ成瀬のファンらしいが、特に海外において、是枝監督はしばしば小津の後継者と目される。
なるほど確かに題材選びに似た部分があるものの、私には似て非なる作家に思える。
小津は戦後激変する社会のなかで、嘗て日本のどこにでもあった、大家族という共同体の解体とそれに伴う痛みを描いたが、是枝作品はむしろその逆だ。
世代が違うのだから当たり前だが、彼の世界は小津的解体を経て核家族化した、さらに小さな共同体である。
「歩いても 歩いても」「そして父になる」では、問題を抱える共同体の再生を、「幻の光」では共同体に入ることによって癒される個人を描く。
唯一、「誰も知らない」では、共同体は崩壊したままだが、これもまた小津的解体のその先の物語なのである。
本作の場合、小さな問題を抱えた三姉妹の共同体に、より大きな問題を抱えた四女が入ることによって波紋が生じ、顕在化した問題の解決によって新たな調和が生じるまでの物語と言えよう。
とはいえ、本作の制作にあたっては、是枝監督はかなり小津演出を意識したらしく、室内でキャラクターをとらえた画作りは、かなり小津的と言えるかもしれない。
私の大学の時の先生に、元小津組の人がいたのだが、小津監督の絶対的なファーストプライオリティはいかに役者の演技を引きだし、それを魅力的に見せるかで、ぶっちゃけそれ以外に興味がなかったそうだ。
独特のローポジションも、狭い日本家屋の中で、俳優を魅力的に、芝居を効果的に見せるという必然が生み出したもので、しばしばイマジナリ―ラインを無視するのも、芝居優先のため。
なるほど本作でも、特に四姉妹が集う居間でのキャラクターとカメラ配置は、俳優の演技を生かすために綿密に計算されている。
逆に建物のファサードを含めた日本的空間の切り取り方は、成瀬的に感じるのが面白く、本作はいわば小津、成瀬の映画的記憶が、是枝裕和という作家の中で融合をみた作品の様に感じる。
家族をモチーフとした是枝作品で特徴的なのは、家族には歴史があり、過去によって現在の状況が縛られていることである。
人が人と暮らしてゆけば、時間はどんどんと折り重なって増えてゆく。
前記した「幻の光」と「歩いても 歩いても」の登場人物は、過去の出来事によって見えない傷を抱え、「そして父になる」の場合は、家族とは共に暮らした時間なのかか、それとも血脈なのかを問う作品であった。
本作も登場人物の抱えるほとんどの葛藤は、複雑な家族の過去に起因するもので、物語を支配しているのは、亡き父の存在である。
この辺りも小津を意識したのかと思うが、本作では回想の手法が完全に封じられ、画面に一度も登場しないことによって、四姉妹一人ひとりにとっての異なる父親像が浮かび上がり、家族の積み重ねてきた時間、失った時間の重みと呪縛がより強調されるというわけ。
姉妹の出会いと、本当に家族となる瞬間が、共に“父の好きだった場所”と重なるのも象徴的だ。
四姉妹のうち、物語の軸となるのは長女の幸と四女のすず、それぞれの家族に対するわだかまりで、佳乃と千佳が一歩引いたポジション。
“家長”である幸は生真面目で、家族を捨てた父も、さっさと再婚して出て行った母のことも許せない。
しかし両親の不義による離婚を見てきたのに、いつの間にか不倫している自らに対しても矛盾を感じ、妹たちの良き“母”であることで無理にバランスを取ろうとしている。
一方すずは、自分の母が共に暮らす姉たちの家庭を壊したこと、その結果として生まれてきた自分の存在に穢れと自己嫌悪を感じながら生きている。
この二人の間に、酒癖と男運の悪い次女の佳乃と、おおらかでマイペースな三女の千佳が入り、潤滑剤として機能するのだ。
綾瀬はるかのマジメキャラ、奔放な長澤まさみ、飄々とした夏帆、それぞれの演者の個性がピタリとはまる。
そしてナチュラルな演技を引き出すために、あえてシナリオを封じられていたという広瀬すずの美少女っぷり!
桜並木の自転車タイタニックは、少女時代の一瞬にしか撮れないキラキラが弾ける名シーン。
しかし四姉妹ものというのは、数が多いだけに構成は難しいが、ドラマ的な変数として考えると便利だ。
四人の時、三人の時、二人の時、人物の組み合わせで違ったキャラクターの顔を見せられる。
全員揃った時には出ない本音も、二人の時にはポロっと出てきたり。
描写で特徴的なのは、小津映画と同じく、やたらと食事のシーンが多いこと。
湘南の海を象徴するしらす丼、しらすトースト、ちくわカレー、姉妹の家で作っている各年代の梅酒・・・・etc.
めちゃめちゃ美味しそうに描写される、それぞれの食べ物にもバックストーリーがあり、彼女らが共に食事をする度に、少しずつ距離が縮まってゆくのである。
それにしても、鎌倉はなんと絵になる街だろうか。
古の歴史を感じさせる寺社のある山、雄大な太平洋を望む湘南の海岸、情緒ある江ノ電が走り、四季折々の美味しい地のものがたくさんある。
過去にも様々な作品の舞台となってきたこの街が、本作のもう一つの主役と言えるかも知れない。
美しく端正な画面を堪能するには、キチンとビスタ上映してくれる劇場で観ることをオススメする。
多くのシネコンがスクリーンのマスキングを廃止し、シネスコサイズのまま全てを上映している現状では、難しい事かも知れないけど。
余談だが、一本の作品の中でアスペクト比を変化させるグザヴィエ・ドランは、マスキングが使えない事を前提に画面設計をして、両サイドが闇に溶ける事を防いでいる。
今後ビスタサイズでの映画作りは、同じような配慮をする必要があるかもしれない。
今回は、劇中でも姉妹の家族史の象徴として描写されている「梅酒」をチョイス。
家庭で作れるのは酒税法によって20度以上の蒸留酒ベースに決められてるので、すずちゃんの酔いも酷かっただろう(笑
うちにも8年物があるので、映画を観た後にソーダ割りにして楽しんだ。
自家製がなくても、色々な種類の梅酒が出てい、そのままでもカクテルベースにしても便利な日本の夏の風物詩の一つだ。

記事が気に入ったらクリックしてね
![]() 貴梅酎・紀州 25°(スピリッツ50P)KI BAI CYU紀州発!!高級梅酒(南高梅100%)をさらに... |
スポンサーサイト
| ホーム |