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野火・・・・・評価額1800円
2015年07月30日 (木) | 編集 |
緑の海の流離譚。

昭和の文豪・大岡昇平が、自らの戦争体験をもとに著した小説「野火」を、異才・塚本晋也監督が20年の構想を経て自主制作体制で映像化した本作は、驚くほどの熱量を持つ大変な力作である。
舞台となるのは、太平洋戦争末期のフィリピン戦線。
監督自ら演じる日本陸軍の一等兵・田村は、肺病を患った事から所属する隊を追い出され、圧倒的な火力を持つ米軍とゲリラ兵が跋扈するジャングルを、行くあても無く漂流する。
戦況は既に絶望的で、もはや戦うことを放棄した日本軍の兵士たちは、極限状況のなかで生を求めてこの世の地獄を見る事になるのだ。
タイトルの「野火」とは、春先に畑の枯れ草などを燃やす焚き火の事だが、日本兵にとっては密林に潜む敵の狼煙のように思えて、ある種不条理な恐怖、戦争のメタファーとして描かれている。
※ラストに触れています。

フィリピンに送られた田村一等兵(塚本晋也)は、肺を病んだことから隊を離れ、野戦病院への入院を命じられる。
しかし野戦病院は負傷兵で一杯の上に食糧不足で、病人を置く余裕は無い。
仕方なく田村は、足の病で隊を追われた安田(リリー・フランキー)や、気弱で泣き虫の永松(森優作)らと共に、病院の外で寝起きするようになる。
だが、病院が攻撃された事から、彼らは散りぢりになってジャングルを逃げ惑う。
いつしか放棄された海辺の村にたどり着いた田村は、たまたま居合わせたフィリピン人の女性を射殺してしまい、罪の意識にさいなまれる。
やがて歴戦の伍長(中村達也)率いる一隊に拾われ、日本軍の集合地を目指すものの、米軍の待ち伏せ攻撃を受けてまたも離散。
食料も尽き、たった一人でジャングルを彷徨っている時に、偶然にも病院で一緒だった永松、安田との再会を果たす。
永松は、野生の猿を撃って生き延びてきたと語り、田村にもその肉を勧めるのだが・・・・

原作者の大岡昇平は、1944年に召集されフィリピン戦線へと渡るも、翌年1月に米軍の捕虜となり終戦を迎える。
戦後、捕虜収容所での日々を連作小説とした「俘虜記」を1949年に発表し高い評価を得ると、その後1952年に刊行されたのが、捕虜になる前の戦争体験をもとにした「野火」である。
実体験をベースとしながら極めて寓話的な小説であり、戦後復員し自らを狂人と呼ぶ主人公の手記、という形をとっているのが特徴と言えるだろう。
「野火」という作品について、大岡は「全体のワクになっているのは、ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』という長編小説です」と語っている。
仏文学者であった大岡は、仏語翻訳版を通して若い頃からエドガー・アラン・ポーの作品に親しんでいた様で、なるほど「野火」を読むとポーの世界が色濃く反映されているのがありありと分る。

アン・リー監督で「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」として映画化された、ヤン・マーテル作の「パイの物語」でも、やはり物語のワクとなっていたポー唯一の長編小説は、アメリカ東部のナンタケット島出身の少年、アーサー・ゴードン・ピムの数奇な運命を描く漂流記である。
ある年の夏に、友人の父が船長を務める船に密航したアーサーのささやかな冒険は、予期せぬ事態の勃発によって命がけの旅になってしまう。
物語の前半は船員の反乱と嵐によって航行不能となり、大西洋を漂流する船上を舞台とした海洋サバイバル劇。
後半は救助された船に乗って、当時まだ未知の海域だった南極海を探検する、SFチックかつ不条理なアドベンチャー劇が展開するという、前半と後半がまったく異なるジャンルになるユニークな作品だ。
この小説は、本作や「パイの物語」だけでなく、多くの作家に影響を与え、特にその後半の不可思議な世界観と謎に満ちたラストは、P・H・ラブクラフトら後進の作家に大きなインスピレーションをもたらし、のちの所謂「クトゥルフ神話」の源流の一つとなった作品である。

ポーの異色の小説が、どのようにして「野火」のワクとなっているか。
まずどちらも、旅から帰還した主人公による手記の体裁をとっている。
少年アーサーは広大な大西洋の漂流者となるが、日本軍兵士の田村はフィリピンの緑の海を彷徨い歩く事になる。
二つの作品の繋がりを決定付けるのが、飢えとカリバニズムのシチュエーションだ。
海の上では、食料を失い衰弱死寸前となった四人の男が籤引きし、一番短い籤を引いたリチャード・パーカー(「ライフ・オブ・パイ」のトラの名前の元ネタ)が食料となってアーサーたちの命をつなぎ、フィリピンのジャングルでは、永松が同属であるはずの日本兵を狩り、猿の肉として田村に食わせる。
足が犠牲者から切り落とされるている描写も、ポーからの引用であろう。
またどちらの作品でも、旅の舞台は主人公から見れば非日常の“あちらがわ”の世界であり、その世界に属する現地の住民が不気味な存在として描かれるのも共通だ。
そしてポーの世界の南極海では、漂流者を誘うように謎の水蒸気が海から煙の様に立ち上っており、それが田村にとって死と神性の象徴である“野火”に符合することも明らかである。
「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」は、現実でありながらまるで永遠に覚めない白昼夢の様な、不条理劇の枠組みとして「野火」の世界観を支えている。

本作の映画化は、今から56年前の市川崑監督作品に続いて二度目だ。
こちらは和田夏十が脚色し、船越英二が主人公の田村を、ミッキー・カーチスが永松を演じたモノクロ映画である。
塚本版も市川版も、物語の筋立てそのものは極めて原作に忠実なのだが、映画の印象としては相当に異なるのだから面白い。
二本の「野火」の大きな違いは、主観と客観の差と言っていいだろう。

不思議なユーモアを隠し味に、やや引いた視点で描かれる市川版に対して、カラー映画となった塚本版は、まとわりつくような熱帯の空気を感じさせるほどに生々しい。
ジャングルで展開する悪夢の様な地獄絵図と、対照的に荘厳な自然の美のコントラストがふいに主人公の視界に飛び込んでくるイメージは、どこかテレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」を思わせるが、後述するラスト近くのある描写以外、全ての描写が主人公の心象になっているのである。
同じ話でも演出のアプローチ、テリングのコンセプトによって全く別物になるのは当然といえば当然だが、それはたぶん作家性の違いであるのと同時に、映画が作られた時代の空気を反映しているのだと思う。

市川版が作られた1959年は、戦後僅かに14年である。
少なくとも日本人の大人は全て戦争の時代の体験者であって、40万人もの戦力の実に8割が戦死・戦病死したとはいえ、物語の舞台となるフィリピン戦線からの帰還兵もまだまだ沢山いただろう。
人肉を食うシーンが、栄養失調による歯の喪失という巧妙な脚色で避けられているのも、映像という直接的な表現である事に配慮し、とことんリアリズムで押し通すのはあえて避けた結果なのかも知れない。
逆に戦後70年の今は、かの地の戦いを直接経験した人はもちろん、経験者から話を聞いたことのある人すらごく僅かだ。
原作者の大岡昇平も、鬼籍に入って既に四半世紀以上が経過している。
もはや現在の日本人にとっては、遠い昔話になりつつある戦争の記憶を、現実に起こった事として感じさせるには、徹底的にリアルかつ主人公に寄り添った表現が相応しい。
冒頭で田村に病院行きを命じる上官も、「病院に行って帰ってくるな。もし追い出されたら死ね」と言っていることはどちらも同じなのだけど、市川版では言葉の根底にかすかに人情を感じさせるが、塚本版では全く感情が見えないどころか、何度も何度も田村を殴り、繰り返し隊から追い払うのだ。
ここは人の死が当たり前の世界で、命の価値がイモよりも軽い事を端的に感じさせる秀逸な描写である。
また、市川版の主人公は朴訥としたキャラクターで、あまり内面が見えない人物として描かれていたが、新作で監督自身が演じる田村は、この映画自体を心象として観客を包み込み、一体化する。
観客は彼の壊れつつある心と共に、否が応でもフィリピンのジャングルを彷徨うしかないのである。

物語のラストもまた、新旧二本の映画の解釈が大きく異なる部分だ。
市川版では、永松を殺した田村が、現地人の野火のもとにフラフラと歩いてゆき、突然バタリと倒れる描写で幕を閉じる。
彼が撃たれたのか、自分で倒れたのかも含めて説明は無い。
対して塚本版では、野火に歩み寄るのは同じだが、ゲリラに殴り倒された田村が捕虜となり、戦後復員した姿が描かれ、主人公の手記という設定の原作のイメージにはより近くなっている。
そして田村が食事をとる前に、激しく拝むような奇妙な行動をするのを妻が目撃するシーンは、この映画の中で唯一の客観といえる。
彼が何をしているのかは妻には分らないが、映画を通して田村と旅をしてきた観客には、原作を読んでいなかったとしても何となく伝わるだろう。
極限の飢えと殺生を経験してきた彼にとって、命をいただく食事とは、戦場の記憶を蘇らせる懺悔の時に他ならないのだ。
戦争は終わっても、田村はもはや戦争から永遠に逃れられられない。
たとえそこが平穏なる戦後日本であったとしても、彼の心にはいつなんどきも、あの不気味な野火が燃え盛り、死者たちに見つめられているのである。

戦争とそれが人の心にもたらすものを、映画作家・塚本晋也の執念を通して体験する超濃密な87分。

日本という国が歴史的な大転換点を向かえた戦後70年目の夏、確実に時代に呼ばれた作品であり、必見の傑作である。

今回は、岩手県陸前高田市の酔仙酒造株式会社 の「酔仙 純米酒」をチョイス。
酔仙酒造は東日本大震災の津波で工場が破壊され、現在は同県内の大船渡市の新工場で醸造を再開している。
豊潤な米の香りと味を堪能できる、飲み飽きないやや辛口の日本酒らしい日本酒。
日本酒も戦争後は米不足から、所謂アル添三倍増醸酒が主流となってしまい、戦後も長く日本酒のクオリティ低下を招いた。
戦争は人間だけでなく、文化や歴史まで破壊してしまう。
美味しい酒を沢山飲める時代は、それだけで貴重なのだという事をあらためて肝に銘じよう。

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ショートレビュー「バケモノの子・・・・・評価額1550円」
2015年07月24日 (金) | 編集 |

二人で、育ってゆく。

「おおかみこどもの雨と雪」の父親視点バージョンかと思いきや、これはむしろハリポタ的二重世界で描く、細田版「リアル・スティール」とでもいうべき父性と絆、そして青春のイニシエイションの物語だ。
主人公は母親を事故で失った少年・蓮。
離婚の時に揉めた父親は行方知れずで身寄りがなく、街を彷徨っている時に名前の通り熊のようなバケモノ、熊徹によって拾われる。
この映画の世界観は、人間たちの暮らす世界の裏側に、バケモノたちの暮らす異次元的なもう一つの世界があり、二つの世界は抜け道によって繋がっているというもの。
人間界の渋谷には、同時にバケモノの街・渋天街が存在しているのである。
日常的リアリティの中に異種婚姻の子というたった一つの非日常を持ち込んだ「おおかみこども」に対し、こちらは非日常の世界がベースと対照的だ。
渋天街では10万のバケモノを束ねるリーダー“宗師"の交代が迫っており、その有力候補が熊徹と猪のバケモノ猪王山。
腕っ節は互角だが、誰もが品格を認める猪王山にはたくさんの弟子がおり、乱暴者の熊徹にはゼロ。
そこで熊徹は、掟破りの人間の弟子をとったというワケだ。

親を失った少年と、強靭だが孤独なバケモノ。
9歳だから“九太”という適当な名前を付けられた蓮は、最初は反発しつつも熊徹に惹かれてゆき、どこか似た者同士の二人は、いつしか奇妙な疑似家族になってゆく。
バケモノの世界を舞台に、九太と熊撤の8年間を描く、シンプルな作りの前半部分が圧倒的に面白い。
この過程で成長するのは、九太だけではない。
初めての弟子である九太と暮らすうちに、熊徹の心の中に九太に対する責任感と、愛情が生まれてくるのだ。
九太が肉体の成長と共にどんどんと強くなってゆくのと同様に、熊徹の心は守るべきものを持つ大人の男として、成熟してゆくのである。

ここまでのストーリーテリングは快調。
しかし残念ながら、何人もの登場人物の葛藤が一気に顕在化する後半部分は、プロットに大きな混乱がみられる。
特に九太は同時に別種の葛藤を幾つも抱えており、それら全てに解をもたらすべくクライマックスの展開は相当に強引だ。
17歳になった九太は、偶然にも人間界への通り道を見つけ、二つの世界で二重生活を送るようになるのだが、人間界で出会う同世代の少女・楓との青春エピソード、再会した実の父親との家族再生の話、バケモノ界の親代わりである熊徹との関係が同時進行。
複雑化する葛藤にケリをつけるために、映画は九太自身の鏡像でありダークサイドともいうべきキャラクターとの戦いを用意する。
それは猪王山の息子で、実はバケモノとして育てられた人間である一郎彦。
偉大な父親である猪王山に対するコンプレックスは、いつしか彼の中の闇を暴走させ、人間界とバケモノ界双方の存亡に関わる脅威になるのだが、このクライマックスへの流れが相当に御都合主義で、ストーリーラインが有機的に収束していかない。

「時をかける少女」から「おおかみこどもの雨と雪」までの3作品では、名手・奥寺佐渡子のロジカルなプロット構成が物語を軽快なテンポで押し進めていたが、本作で監督自身の単独クレジットとなった脚本は、複雑なサブプロットをまとめ切れず、終盤交通渋滞を引き起こしてしまっている。
また、全体に画だけで十分伝わる描写なのに、台詞による二重の説明が多いのも気になった。

もっとも、逆に考えれば脚本にこれだけ欠点があるのに、娯楽映画として水準以上に魅せる細田守の演出家としての力を改めて感じさせるのも事実。
渋谷の街を巨大なクジラが泳ぐというマジカルなイメージは、下手な理屈など消し飛ぶパワーがあった。
欠点はあれど本作は大変な意欲作であり、キャラクターの魅力や世界観も含め十分楽しめる作品だが、ジブリブランドを超えるには、そろそろ家族ものとは違った方向性の作品も見てみたいものだ。

今回は渋谷のお隣、恵比寿がルーツの「ヱビスビール」をチョイス。
今はヱビス銘柄で複数商品が展開しているが、やっぱりヱビスといえばクラッシックなドルトムンダースタイル。
真夏の夜には、一気に飲んでプッハ〜したい。
ちなみに恵比寿にあったからヱビスビールなのではなく、ヱビスビールの工場があったから恵比寿という地名になった。
そういえば熊徹役の役所広司は、ヱビスのCMに出てたっけ。

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インサイド・ヘッド・・・・・評価額1750円
2015年07月21日 (火) | 編集 |
カナシミはなぜ必要なのか。

ピクサー・アニメーションスタジオが、史上初の長編3DCGアニメーション「トイ・ストーリー」を発表し、映画史に革命を起こしたのは1995年のこと。
いまやCGは、アニメーション表現のメインストリームとしてすっかり定着している。
そして、20周年という記念すべきアニバーサリーイヤーに、15本目の長編作品としてピクサーが送り出すのが、人間の心をキャラクター化した「インサイド・ヘッド」だ。
人生の新たなステップを上がる少女ライリーの物語と、彼女の脳内で繰り広げられる冒険が同時進行する意欲作である。

監督を務めるのは、「モンスターズ・インク」や「カールじいさんの空飛ぶ家」で知られ、「トイ・ストーリー」の生みの親の一人にして、ピクサー屈指のストーリーテラーであるピート・ドクター。
彼自身の子育て経験から生まれた作品は、最高に面白くて野心的。
大人たちは親目線で、子供たちはライリーや彼女の心のキャラクターたちにどっぷり感情移入して楽しめる、上質なエンターテイメントである。
※核心部分に触れています。

ミネソタに住むライリーは11歳。
アイスホッケーが大好きな快活な女の子だ。
彼女の頭の中の司令部では、5つの感情たち、ヨロコビ、カナシミ、ムカムカ、ビビリ、イカリが、彼女を幸せにすべく毎日奮闘中。
ところがある時、パパの新しい仕事の都合で、一家はサンフランシスコに引っ越すことに。
自然豊かな田舎街で育ったライリーにとって、常春の大都会は未知の世界。
新しい生活に馴染めずに戸惑っている時、脳内の司令部ではひょんなことからヨロコビとカナシミが行方不明になってしまう。
2つの感情を失って、友だちや家族とも衝突するライリーは、ミネソタへ家出する事を決意する。
はたしてヨロコビとカナシミは、彼女の心が壊れてしまう前に司令部へと帰れるのだろうか・・・・


本作の最大の特徴は、思春期を迎えようとしている少女の感情をキャラクター化し、感情の冒険物語を通して心の成長を描いている事。
もっとも、心のキャラクター化は過去にもいくつか例がある。
つい先日公開された日本の実写ラブコメ「脳内ポイズンベリー」では、恋に揺れる真木ようこの脳内が、やはり5つの感情による会議室として映像化されていた。
同様のアイディアは1990年代のテレビのコメディ「Herman’s Head」にも見られるが、私の知る限りでは、人間の心をキャラクターとして描いた元祖は、1943年のディズニーの短編アニメーション「理性と感情(Reason and Emotion)」である。
これは人間の脳内で、理性さんと感情さんが主導権を巡ってせめぎ合う話だが、戦時中の映画だけにヒトラーの演説が感情を増長させ理性が委縮する描写が含まれるなど、かなり啓蒙的な内容。
しかし、最初は感情しかいない赤ちゃんの脳内に、後から理性が生まれる展開、デザインと色による心のキャラクターの描き分け、目を窓とし脳内をコックピットに見立てる演出など、おそらくは本作に大きな影響を与えたルーツともいえる作品だろう。

本作でキャラクター化されたのは、ベーシックな5つの感情、ヨロコビ(Joy)、カナシミ(Sadness)、ムカムカ(Disgust)、ビビリ(Fear)、イカリ(Anger)
このうちライリーの誕生と同時に存在したのがヨロコビ、ついでカナシミが登場し、ライリーの成長と共に他の感情が次々と現れたということになっている。
しかし感情のリーダーであるヨロコビは、カナシミの存在理由が理解できない。
例えばムカムカは、嫌なものを拒否するために必要で、ビビリはライリーの安全を守っていて、イカリはストレスを吐き出すのに役に立つ。
ではカナシミは?カナシミは何のためにいるのだろう?ライリーが幸せになるためには、常にヨロコビを感じるだけでいいのではないか?

11歳の女の子の頭の中を描くというアイディアは、ピート・ドクター自身の経験から生まれたもの。
ドクターにはニックとエリーという二人の子供がいるのだが、特に愛娘のエリーは彼の映画と不可分の関係だ。
「モンスターズ・インク」でマイクとサリーを振り回す女の子ブー、「カールじいさんの空飛ぶ家」で幼少期のカールが生涯の恋に落ちる少女エリー、そして本作のライリーのキャラクターには、現実のエリー・ドクターの成長過程が反映されている。
なんでも、彼女が11歳の誕生日を迎えたころに“全てが変わった”のだそうだ。
「カールじいさん」のエリーは、実際に同名の彼女が声優を務めているが、あの映画のようにエネルギッシュでドジで快活だったエリーが、いつしか物静かで照れ屋で人目を気にする少女になり、時として感情を爆発させることも。
未来への希望と不安をリアルに意識できるようになり、大人になりたい欲求と子供のままでいたい気持ちが同居する不安定な年齢。
思春期の入り口に立ち、急速に今までとは異なる複雑な人間になって行く娘を見て、ドクターは「彼女の頭の中で、何が起こっているのだろう?」と、本作を発想したのだという。


物語の冒頭でライリーと家族が暮らしているのは、ドクターの故郷でもあるミネソタ州の片田舎
アメリカ中西部の北端、カナダとの国境に位置し、冬場は氷点下40度を記録することもある寒い土地だ。
自然豊かで広大なミネソタから、少女が引っ越してくるのは西海岸のサンフランシスコ
ピクサーの本拠地でもあるサンフランシスコ・ベイエリアの中心地は、平地が狭く丘陵地の半島に無理やり碁盤の目状の街を作った過密都市。
おまけに何かと先進的なムーブメントが大好きで、ラジカルにトンがった人々が全米一多いエリアでもある。
生まれ育った大らかな風土とは180度異なる環境の変化、それまでの暮らしが全て“思い出”となってしまったという事実は、ライリーの心に大きなプレッシャーをもたらし、それが脳内司令部からヨロコビとカナシミが放り出されるという事故につながる。

最新の脳科学や心理学の研究に基づいているという、ライリーの脳内世界が面白い。
中心には感情たちがいる司令部のタワーがあり、その周りには忘れられた思い出が捨てられる深い谷がドーナツ状に取り巻いていて、落ちると二度と出られない。
そして谷の対岸には、ライリーの人格を形作る5つの“島”がある。
例えば“家族の島”や“友情の島”“ホッケーの島”など、彼女にとって価値あるものが島の形で形成されていて、心のその部分が刺激されることで、島は次第に大きく複雑に育ってゆく。
逆に関心を失うと、壊れてしまうのだ。
島のさらに向こうには、巨大な迷宮のような思い出の長期保管庫と、寝ている時の夢を作るスタジオ、潜在意識の恐怖を封印する場所などがあり、司令部とは鉄道によって結ばれている。
意識を抽象化する工場で、キャラクターがキュビズムみたいになるのには笑かしてもらった。
複雑な脳の機能を、まるでテーマパークの様なワクワクする世界観に仕上げたセンスに脱帽。

司令部では、感情たちがライリーの直面するシチュエーションに応じて、それぞれの担当に分かれて対応する。
嬉しい事が起こるとヨロコビが、気に入らない時はムカムカやイカリがボタンを押すと、思い出が色違いのボールとなって作られる。
このうち、“特別な思い出”は司令部にあるケースに収納されているが、残りの思い出はダクトを通って思い出の長期保管庫に送られる。
ところが新生活の混乱の中、特別な思い出のボールを守ろうとして、ヨロコビとカナシミがダクトに吸い込まれ、長期保管庫の迷路に放り出されてしまう。
感情のうち、もっとも重要な2つがいなくなったのだから、当然ながら司令部は大混乱し、ライリーの心は制御を失って暴走してゆく。
このあたりの描写には、不思議なリアリティがあって、「もしかしたら自分の頭の中でも同じような感情たちがいたりして?」と想像すると可笑しい。

一方、ヨロコビとカナシミは、思い出の迷宮でライリーの幼い頃の“空想の友だち”であるビンボンと出会い、彼の助けを借りながらなんとか司令部に帰ろうとする。
この冒険を通じたヨロコビの成長が、現実世界でのライリーの成長とシンクロするのだ。
当初カナシミの存在する意味がわからず、疎ましくさえ思っていたヨロコビは、特別な思い出がなぜ特別なのか、ヨロコビの裏側にあるカナシミの意味を知る。
人生はヨロコビばかりじゃない。
もちろんライリーにとっても、今までもそうだったし、これからもそうだけど、子供時代には楽しいことだけを覚えていたかった。
でも生きていればカナシミにしか、涙を流すことでしか癒せないこともあるし、悲しいと思う感情を抑えつけてばかりいたら、いつか心は壊れてしまう。
ライリーにとって、ヨロコビだけを大切にする時期はもう終わり、カナシミを感じるからこそ、ヨロコビがより深い意味を持つことに気づきつつある。
何かを失うことは新たな出会につながり、失敗は次なる成功への機会に他ならない。
それは、彼女と感情たちにとって、思春期という全く新しい経験への入り口だ。
11歳のライリーには、これからまだまだ人生の膨大な時間が待っている。
ビンボンに象徴される子供時代の思い出はいつか消えるが、そのころに培った想像力のエネルギーは彼女の心の成長を後押しし、決して無駄にはならない。



脳内が描かれるのはライリーだけではなく、パパやママ、はては犬や猫の脳内指令部まで出てきて、あるあるネタに抱腹絶倒。
ママの指令部でのやり取りとか、完全に大人のギャグなんだけど、これ子供に突っ込まれたらしどろもどろになりそう(笑
それぞれの脳内で、リーダーのポジションにいるのが誰かも注目ポイントだ。
まあパパもママも人生いろいろあった結果、ああなってるんだろうけど、やっぱり子どもの司令部ではヨロコビがリーダーでいてほしい。
エンドロール中の一文“this film is dedicated to our kids. please don't grow up. ever.”に親としてのピート・ドクターの想いが込められているように思う。
「カールじいさん」の時も思ったけど、この人は最高のお父さんだな。

ちなみに私が最初に観たのは吹替え版だったが、幼い子供達がキャラクターに感情移入して、ビンボンとの別れとか悲しいシーンになると声をあげて泣いていたのが印象的だった。

あの子たちの心は、まさに映画と一緒に成長していたのだな。
その後すぐに英語版を鑑賞したが、改めて吹替え版が非常に細かいところまで、映像や設定を含めてローカライズされていた事に驚かされる。

吹替え版も素晴らしい出来で子どもと行くならコッチも良いと思うが、英語版を観ると台詞からちょっとした表示まで、語彙がいかに丁寧に選ばれているかに感動。

劇中にポランスキーの「チャイナタウン」に引っ掛けたさりげないギャグがあるのだけど、これは英語版じゃないと分からないだろう。

さすがにアメリカでも若い客には通じないネタだと思うが、ピート・ドクターの作品は楽しいだけじゃなく、本当に知的なのである。



同時上映の短編「南の島のラブソング(LAVA)」は、なんと火山島を丸ごとキャラ化。
脳内という極小と極大のコントラストというわけか(笑
愛するものが欲しいと歌う古い孤島と、その歌に惹かれて噴火する若い島を描く切なくてロマンチックな御伽噺。
ペアの島というシチュエーションは、2013年に新島が噴火し、元からあった島と融合してしまった小笠原の西之島を思い出した。

制作時期的に、もしかしたらこのニュースからインスパイアされているのかも。


今回は短編のハワイアンなムードから、ハワイの地ビール「コナ ビッグウェーブ ゴールデンエール」をチョイス。
ハワイ島に1994年に生まれた比較的若い銘柄で、南国のビールらしくスッキリしていてフルーティ。
苦みは抑えられており、とても飲みやすい。
コナはボトルラベルのデザインも魅力だが、これも名前のとおりビッグウェーブが描かれていて涼しげでオシャレ。
海に沈む夕日を見ながら、ハワイアン・ミュージックの音色と共に楽しみたい。

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雪の轍・・・・・評価額1700円/昔々、アナトリアで・・・・・評価額1600円
2015年07月17日 (金) | 編集 |
漂泊する魂は、何を求めるのか。

トルコの異才ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の最新作、「雪の轍」がカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを獲得したおかげで、DVDスルーになっていた「昔々、アナトリアで」も限定公開された。
ちなみに製作順ではこちらが前作に当たり、2011年のカンヌでグランプリを受賞した作品だ。
どちらもトルコの片田舎を舞台とした長尺の会話劇だが、そのアプローチは相当に異なっており、3年の差異は作家としての着実な深化を感じさせる。

「昔々、アナトリアで」の“アナトリア”とはトルコ共和国の大部分を占める小アジア半島を指す言葉で、原題の「BIR ZAMANLAR ANADOLU'DA」は「アナトリアの時間」と訳せるから、これはその土地独特の時の流れというニュアンスだろうか。
日暮れどきの大平原に、ヘッドライトを灯した3台の警察車両がやって来る。
乗っているのは事件を担当する検事と助手、検死を行う医者、熱血漢の警部とその部下たち、平原を管轄する軍警察隊、そして2人の容疑者。
彼らは殺人事件の遺体遺棄現場を探しに来たのだが、事件当時酔っていたという容疑者の供述は曖昧で、捜索隊は暗闇のなか大平原を彷徨う事になる。
殺人事件を扱ってはいるが、ミステリの類いではない。
いっこうに見つからない現場と、無情に過ぎてゆく時間。
募るばかりの焦りと疲れが人々を饒舌にし、ふとした瞬間心の中のわだかまりが口をついて出てくる。

登場人物は多いが、中心人物は警部、検事、医者、第一容疑者の四人。
病気の息子を抱える警部は、いつも妻にどやされて家にいても心が休まらず、イライラを容疑者にぶつけている。
エリートの検事は“自らの死を予言し、その通りに死んだ女”の話を医者にするのだが、それはどうやら自分の妻の事らしい。
2人の容疑者のうち、主犯と思われる第一容疑者は、唐突に被害者の息子の本当の父親は自分だという、信じがたい話を警部に告げるのだ。
何気ない台詞の中に、人々のホンネを紐解くヒントが隠されている。
次々と物語のコアとなる人物が入れ替わり、最終的に主役となるのはもっとも葛藤が見えない人物である医者だ。
長い一夜を過ごし、事件の真実を探していたはずの彼はしかし、最後に今ある問題をこれ以上拡大させないため、それまでのプロセス全てを覆すある決断をする。
終盤、医者を鏡越しに捉えたカットがあるのだが、ここは観客にとって医者が鏡に映った自分に見える様に意図的に撮られている。
どこまでも静かに事態を観察する医者は、いわば観客の目であり、あくまでも淡々と事象のみで展開する物語は、彼を通して観客自身のものとなるのである。
昔々、アナトリアで何が起こったのか?“お話”は観客の数だけあるのだ。

一方、上映時間実に196分に及ぶ大長編である「雪の轍」の舞台は、奇岩と岩窟遺跡で知られるカッパドキアにある古く小さなホテル。
ここの主人であるアイドゥンは、元俳優で地方新聞にコラムを書きつつ、トルコ演劇史をまとめようとしているインテリ。
地元の名士であった父から相続した、ホテルや不動産などの資産運用で十分食べてゆける裕福な人物だ。
物語はアイドゥンと慈善活動家でもある若く美しい妻二ハルとの関係を軸に、出戻りニートで皮肉屋の妹ネジラや、父の代からの店子で、家賃を払えず追い出されかかっているイスラムの導師イスマエルとその家族など、幾人もの登場人物の葛藤が絡み合う。
登場人物に職務上のつながりがあるだけで、人間関係はやや漠然としていた「昔々、アナトリアで」に対して、濃密な家族のドラマである本作の狙いは明確だ。
彼ら(そして彼らに投影された我々)は誰一人として、自分自身を知らないのである。
そこで起こっている事象を淡々と描くスタンスは前作と変わらないが、こちらでは物語の中で数ヶ所、登場人物が会話で激しく火花を散らす動的なシーンがある。

言葉のバトルが繰り広げられる度に、それぞれのキャラクターの印象も変わってゆく。


最初は思慮深く理知的と思えたアイドゥンの裏に、自分のこと以外には無関心な小さな王様、傲慢で幼稚な顔が見えてくる。
そんな夫に反発する二ハルの慈愛の向こうには、無知と偽善が横たわっている。

繰り返される言葉の応酬は、それぞれのキャラクターに、知っているつもりで知らない、いや見て見ぬふりをしてきた自分の本当の姿を突きつけ、同時に本人が意識しない他者との同質性を浮き立たせる。
自分だけは違う、自分は特別だという、誰もが心のどこかに持っている奇妙な自信は、あっけなく砕け散るしかない。
前作では医者という観察者がいて、彼が作品世界への目の役割を果たしていたが、本作において視点は一応アイドゥンに置かれているものの、二ハル、あるいはネジラも、観客の感情移入と自己投影の対象となり得る様に造形されている。
リアルで普遍的な登場人物たちもまた、自分自身の鏡像だと気づいた時、観客はスクリーンとの境界を失い、カッパドキアの原野に放り出されるのだ。

似て非なる二作品の内容と舞台には、重要な関連がある。
広大な夜の平原で展開する「昔々、アナトリアで」は、開けた空間で方向を見失い、彷徨う魂たちの物語だ。
そこでは事件が起こっているが、登場人物の葛藤と解はあくまでも日常的なもので、いわば人生のルーティーンの1日を切り取ったもの。
対して「雪の轍」は隔絶されたホテルという閉じた空間が舞台で、人間の内に内にと沈んでゆくドラマである。
ジェイランは、チェーホフの「妻」「善人たち」など幾つかの短編から本作を着想したそうだ。
チェーホフは「桜の園」や「犬を連れた奥さん」とかの代表作しか読んだことがないので、残念ながらこの二本は存在すら知らなかったが、なるほど表面的に特に事件は起こらず、しかし登場人物の内面では、人生を変える葛藤が深まってゆくのはチェーホフ的なスタイルと言えるかもしれない。
「雪の轍」の原題は「Kış Uykusu(冬の眠り)」である。
荒涼としたカッパドキアの岩石の大地は、季節の移ろいのなかでいつしか雪に閉ざされる。
雪国の動物たちが冬眠という再生を繰り返すように、この映画の人間たちもまた、純白の風景の中で、昨日までとは違う自分となり、新たな関係を結んでゆくのかもしれない。

ちょっと残念に感じたのは、極めて完成度が高く作家としての円熟を感じさせる「雪の轍」を、唐突にナレーションで落としていること。
基本どちらの作品も会話劇なのだけど、ジェイランの作品はなにげに画力が凄い。
台詞と合わせる映像も、構図からカメラワーク、ボイスオーバーのタイミングまで綿密に計算されていて、完全に不可分。
ずっと観ていたくなる、惚れ惚れするくらい美しいショットがたくさんあり、 台詞と映像が同じくらい雄弁なのである。
それまでの流れもあり、アイドゥンの想いはあえてナレーションに頼らずとも、十分に伝わったと思うのだけど。

今回は、トルコの代表的リキュール「ラク」をチョイス。
トルコはイスラムの国とは言っても世俗的で、豊かなアルコール文化を持ち、ラクは一般にアペリティフとして好まれている。
原料は干しぶどうやワインが用いられるが、清涼感のあるアニスのエキスの香りが日本人には好みが分かれるところ。
無色透明だが、水と混ぜると乳白色となることから、トルコでは“Aslan Sutu"(獅子の乳)”とも呼ばれる。
飲み方は、基本水割りにして、さらに冷水のグラスを別に用意し、交互に口に含んで口の中でさらに割るのが特徴。
まあ普通に最初から好みの分量で水割りにしても良さそうな気もするけど。
他にソーダで割るのもオススメ。
隣国ギリシャのウーゾとは、原料がほぼ同じの兄弟酒だ。

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ショートレビュー「ウリビョル1号とまだら牛・・・・評価額1600円」
2015年07月15日 (水) | 編集 |
愛は流れ星にのってやって来る。

魔法で美少女ロボに変身した人工衛星“ウリビョル1号”ことイルホと、失恋してまだら牛に変身してしまった気弱で優柔不断なミュージシャン志望の大学生、キョンの恋と冒険を描く奇妙な異種ラブストーリー
韓国インディーズアニメーションの雄、天才チャン・ヒョンユン待望の初長編作品である。
この人の持ち味は、「いったい、この発想はどこからきたの?」という不思議な世界観と、デザインも中味も絶妙にとぼけたキャラクター。
なぜか街に普通に恐竜がいる風景の中で展開する切ない恋物語「レター」、偉大な作家を目指すオオカミの元に、次々と見知らぬ女性が現れて「お前のパパだよ」と人間の女の子やらカメの子やらを押し付ける「ウルフ・ダディ」、生まれ変わったら自販機になってしまった侍と、現代の女子大生との恋「わたしのコーヒー・サムライ~自販機的な彼氏~」など、普通の脳みそなら絶対思いつかないヘンテコなアイディアを連発してきた。

初長編となった本作も、それは変わらない。
何しろヒロインのイルホは、元人工衛星である。
韓国初の人工衛星として打ち上げられ、ながい間地上を眺めているうちに心を持ってしまった彼女は、ある日聞こえてきた歌声に惹かれて地上へと落下。
だがその歌声の主キョンは、失恋した結果まだら牛の姿に変えられてしまい、動物になった人間を捕まえて燃やしてしまう謎の黒い機械や、動物人間の肝臓を薬として売りさばいているオー社長に付け狙われている。
キョンが黒い機械に追い詰められて絶体絶命の時に、落下してきたウリビョル1号は少女ロボのイルホに変身しキョンを守り、ついでに押しかけ彼女になるのだ。
面白いのは、普通の映画であれば丁寧に描くであろう特殊な世界観に、一切説明がない事。
この世界ではどうやら失恋した人間は動物になってしまうようだが、それがなぜなのかは全く明かされないし、鏡やガラスを通じてワープする能力があるオー社長の素性や、動物人間を狙う黒い機械の正体などもスルー。
ぶっちゃけプロットの構成とかは全然上手くないし、説明不足も甚だしいのだけど、この人の作品の場合それが逆にヘタウマ的な味わいになってしまうのである。

この珍妙な世界観の登場人物(?)がまた変。
インパクト十分なデザインのまだら牛なんて、絵ヅラがおかしすぎて出てきた瞬間噴いた。
キャラがただ画面に映っているだけで、笑いが止まらない。
さらに彼の導き手となる魔法使いのマーリンは、なぜかトイレットペーパーをキャラ化。
終盤に出てくる“本当の姿”とのギャップでか過ぎだろう(笑
しかしなんと言っても本作の白眉は、ヒロインのイルホの可愛さだ。
空を飛び、ロケットパンチを放つ人工衛星少女は、日本のどんな美少女キャラより萌える
どこまでも優柔不断なキョンは人間から動物になり、逆に一途な恋に目覚めたイルホは、人工衛星から少女ロボになる。
彼らを別の存在に変化させたもの、作品世界の魔法のエネルギーは内面の葛藤であり、物語の帰結する先はそれぞれの葛藤とどう向き合い、いかに解消したかの結果なのだ。
オチはまたこの作家らしいなんともとぼけたものだが、詩的で気持ちの良い余韻が残る。

今までチャン・ヒョンユンの作品では強烈な独自性ゆえ目立たなかったが、本作では日本のアニメ、特に宮崎駿の大きな影響とオマージュが見て取れるのも意外だった。
キョンの肝臓を盗もうとするオー社長のコスチュームは、明らかに宮崎版ルパン三世だし、キャラクターの演技やアクション演出も宮崎アニメっぽいショットが多々ある。
ちなみに次回作は「ウルフ・ダディ」の長編版らしいのだけど、本人的には自分の脚本力の無さを痛感しているとか。
まあそれは確かだと思うけど、この人は宮崎駿と同じく典型的な演出の人であって、話をロジカルに洗練させちゃうと独特の味が薄まりそうでちょっと心配。

今回は、乳牛のまだら牛つながりで、ミルクを使った甘味なカクテル「カルーアミルク」をチョイス。
カルーアとミルクをお好みの分量でステアし、氷を入れたタンブラーに注ぐ。
濃厚なのが好みならカルーアを多めに、軽く飲みたければミルクを多くする。
甘くてビターなコーヒーリキュールのカルーアと、ミルクのコンビネーションはマイルドでとても飲みやすい。
ちなみに、オー社長の顔が名バイブレイヤーのオ・ダルスそっくりなのだけど、やっぱモデルは彼なのか?

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ショートレビュー「ひつじのショーン~バック・トゥ・ザ・ホーム~・・・・・評価額1650円」
2015年07月14日 (火) | 編集 |
牧場を飛び出し、都会へGo!

英国のアードマン・アニメーションズの大ヒット作、「ウォレスとグルミット」のキャラクターから生まれたスピンオフ、「ひつじのショーン」初の長編映画化。
牧場でまったり展開する短編テレビシリーズとは一線を画し、記憶喪失となり帰れなくなってしまった牧場主を探して、おなじみの動物たちが都会に遠征して大冒険を繰り広げる。
ショーンや相方の牧羊犬ビッツアー、群の羊たちの他に新キャラクターも登場し、映画は可笑しくて、ハラハラ、ワクワク、ちょっとだけホロリ
テレビシリーズのファンはもちろん、一見さんでも十分楽しめる。

牧場で毎日変化のない暮らしをしているショーンと仲間たちは、ある日ちょっとした自由と刺激を求めてイタズラを仕掛ける。
牧場主を眠らせて、牧場の端の道路に置いてあるトレーラーに移し、目覚めてもまだ夜だと思うように細工し、その間に自分たちは羽を伸ばそうという計画。
ところが牧場主を乗せたままトレーラーが暴走し、そのまま都会まで走って行ってしまう。
そして、ショーンたちは取り残されて初めて気づく。
自分たちだけでは、ごはんすら食べられない!
やむなく都会に牧場主を探しに行くのだが、本人は頭を打って記憶を失っており、おまけに都会には冷酷な動物捕獲人のトラッパーがいて、ノラ動物を片っ端から収容所送りにしている。
毎日は同じ事の繰り返しで退屈だけど、失ってやっとその大切さが分かる。
はたしてショーンたちは、牧場主を救出し幸せな日常を取り戻せるのか?というワケ。

完全に動物目線で描かれるこのシリーズは、全編台詞が無い。
動物たちはもちろん、人間キャラクターもモゴモゴと言葉にならない奇妙な音を発するのみ。
それでもボディランゲージと豊かな表情で、キャラクターの感情は十二分に伝わり、動物飼いの動物好きとしては、ショーンたちが牧場主へむけるさりげない愛の深さに、どっぷり感情移入。
きっと私を含む多くの観客は、ショーンやビッツアーを通して、自分たちと暮らしている動物の心を想像しているのだと思う。
やっと見つけた牧場主が記憶喪失なのを知らないショーンが、彼に拒絶されてショックを受けるシーンなんて、思わず泣きそうになった。
動物たちにはそれぞれ名前が設定されているのに、飼い主は単に“牧場主”であるのも、彼が世界中の動物を愛する人の象徴だからだろう。

もちろん、丁寧なストップモーションショーンで描かれる、都会に紛れ込んだ動物たちのコミカルな冒険譚は、笑いとスリルがいっぱい詰まっている。
ショーンの画才などテレビシリーズからの設定も上手く生かされ、新キャラクターのブス犬スリップや動物捕獲人トラッパーとの丁々発止のやり合いも可笑しい。
世界中の誰もが楽しめる、夏休みにぴったりの秀作エンターテインメントだ。

ところでアードマンの長編映画としては前作にあたる「The Pirates! In an Adventure with Scientists!」は、結局日本では完全スルーのままなのか。
予告編観ると、凄く面白そうなのになあ。
3年前の広島国際アニメーションフェスティバルで上映された時に、観ておけばよかったよ。

そういえばテレビシリーズで、牧場主が敷地の片隅でミツバチを飼っているエピソードがあった。
今回は、蜂蜜酒の「ミード」をチョイス。
人類が口にした最初の酒は、木の洞などにたまった蜂蜜と雨水などが混じり合い、自然発酵して出来たものと考えられており、ある意味ミードはあらゆる酒の元祖。
蜂蜜の種類によっても味わいが異なるのも面白い。
けっこう甘いので、氷を入れてロックにすると美味しい。

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サイの季節・・・・・評価額1750円
2015年07月09日 (木) | 編集 |
サイはどこへ行くのか。

イラン革命の混乱の中、理不尽な理由で政治犯として収監され、表向きは死んだ事にされていたクルドの詩人の物語
30年後、遂に釈放された詩人は、今はトルコのイスタンブールに暮らす妻を探す。
実際に四半世紀もの間囚われていた、詩人のサデッグ・キャマンガールの実話が元になっていて、リアルな人間ドラマと、キャマンガールの詩に由来するファンタジックな比喩表現が混在するユニークな世界観が特徴だ。
2009年のセミドキュメンタリー作品「ペルシャ猫を誰も知らない」を、イラン当局の検閲を受けずに制作した後、自由な創作環境を求めてトルコを拠点に活動しているバフマン・ゴバディ監督による魂の力作である。

詩人のサヘル(ベヘルーズ・ウォスギー)は軍高官の娘ミナ(モニカ・ベルッチ)と結婚し、出版した詩集「サイの最後の詩」も好評で、満ち足りた生活を送っていた。
ところが、イラン革命で社会がひっくり返り、王政側の人間と見なされたサヘル夫妻は逮捕される。
やがてミナは釈放されたものの、サヘルはいつの間にか刑務所で死んだことにされてしまう。
ようやくサヘルが釈放された時、実に30年の歳月が経っていた。
夫が獄死したと思っているミナが、トルコのイスタンブールに暮らしている事を聞いたサヘルは、彼女を探して旅立つのだが、そこである男がミナと子供たちに影のようにつきまとっている事を知る。
実はその男、アクバル(ユルマズ・エルドガン)の歪んだ欲望こそが、サヘルを投獄し、夫婦を生き別れにした元凶だった・・・・


現代イランのターニングポイントとなった1979年のイスラム革命は、親欧米の享楽的王政国家から、厳格なイスラム原理主義の共和国という180度違った社会への大転換だった訳で、ここで人生が大きく変わった人は無数にいただろう。
主人公のモデルとなったキャマンガールは、人気詩人から囚人となり、王政時代の映画スターだった主演のウォスギーは、国外へと亡命し映画に出られなくなる。
また21世紀の今に続くイスラム体制は、監督のゴバディが故国で自由に映画を作る事を許さない。
長年イラン当局の検閲と闘ってきた彼は、とうとう国外での活動を余儀なくされる。
この映画の中核にいる彼ら3人はみなサヘルであり、革命によって故郷を失い、孤独を抱えた男たちなのである。

一方、既得権が崩れ去り社会がひっくり返る中、革命勢力の側に立つことによって、新たに権力を得た者たちもたくさんいたはずだ。
本作のドラマ的キーパーソンとなるアクバルもその一人。
彼はミナの家の使用人でありながら、既婚者の彼女に横恋慕している。
パーレビ王政下では、軍高官の娘であるミナと人気詩人のサヘルは言わば上流階級で、本来ならアクバルとは住む世界が違う。
ところが、イスラム革命は心に暗い炎を宿した男に、千載一遇のチャンスを与えるのだ。
新たにプチ権力者となったアクバルは、サヘルを「神を冒涜する詩を書いた」として投獄させ、同時に逮捕したミナを自分に振り向かせようとするのである。
長年囚われていた夫が、生き別れの妻を探すという基本設定から、チャン・イーモウの「妻への家路」的な物語を想像していたが、全く違う。
これは革命の混沌を背景に、ある男の歪んだ欲望によって、人間たちが破滅してゆく物語であり、濃密な情念のドラマはむしろ、残酷な運命が人々の人生を翻弄するもう一つの「灼熱の魂」だ。

実際、ゴバディ監督もまた、一歩間違えたらサヘルとミナ夫婦と似たような状況に陥っていた可能性があった。
これは当時日本でも報じられたから覚えている方も多いだろうが、2009年にゴバディのフィアンセであるイラン系米国人のジャーナリスト、ロクサナ・サベリが「ワインを持っていた」という理由でイラン当局に逮捕され、後にスパイ容疑で告発されて懲役8年の判決を受けたのである。
彼女が実際にスパイだった訳ではなく、アメリカに向けた政治的な交渉カードを作るための逮捕だったと思われ、幸い控訴審判決で執行猶予がついて釈放された。
しかしこの事件によって、恣意的な法の運用が出来れば、一人の人間の人生など、いかようにも狂わされてしまう事を、ゴバディは改めて思い知ったのではないか。

理不尽な投獄から刑務所での過酷な日々、やがて映画は年老いたサヘルをイスタンブールへと送り出し、歳月が作り出した現実に直面させる。
ゴバディの真骨頂とも言うべき、マジカルで圧倒的に美しいビジュアル。
シネマスコープのワイドな視野の中で奥行感を最大限生かし、凝りに凝った空間演出が見事だ。
イスタンブールで、ミナと子供たちが暮らす海辺の家を見つけたサヘルは、毎日対岸に停めた車の中から彼女らを見つめ続ける。
絶妙な被写界深度によって表現される、手が届きそうで届かない距離感は、そのまま30年間の時間のメタファーとなる。
そしてミナもまた、アクバルの呪縛から逃れられないでおり、一見何不自由ない瀟洒な暮らしも、魂の監獄の囚人である事を逆説的に強調する。
いやアクバル自身もまた、自らの欲望に溺れ、人生を破滅させているのである。

その瞳に底なしの孤独を湛え、深い皺に人生の悲喜を感じさせる、べへルーズ・ウォスギーが素晴らしい。

妻のミナ役をイタリア人のモニカ・ベルッチが演じてるのが意外だが、黒髪のエキゾチックな風貌は、ペルシャ美人役に違和感ゼロ。
イスタンブールで刺青師となったミナの元に、顔を隠したサヘルが訪れ、背中に彫らせるクルドの詩文「国境に生きる者だけが新たな祖国を創る」に秘められた、未来への願いが胸に刺さる。
これは、詩人キャマンガールの人生と作品をゴバディが一つの映画に統合し、再解釈して創造した壮大な映像叙情詩だ。
スクリーンに刻まれる、孤独な人間たちの面貌と背後に広がる遠大な空間、リアリズムとファンタジーのコントラスト。
言葉の間合いと行間の沈黙は、光と影と時間の作り出す余韻に置き換えられる。
詩作が映像化された荒涼とした大地は、登場人物たちの心象が見せるこの世界の真の姿だ。
ひび割れた土は塩を含み、巨大なサイはその塩を舐めながら必死に生きている。
限りなく深い絶望の地で見える、微かな光。
たとえ最後のサイが力尽きて倒れても、そこに歩む者がいる限り道は永遠に続いているのである。

パワフルでヘビーな映画に喉もカラカラ。
今回は、舞台となるトルコを代表するビール「エフェス」をチョイス。
日本でもトルコ料理店などでは、必ずといっていいほど置いてあるポピュラーなビールで、これからの季節にはぴったりの、スッキリあっさりなライトなテイストが特徴。
牛肉大好きな国のお酒だけあって、個人的にはBBQなど肉料理との相性が一番良いと思う。
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ショートレビュー「コングレス未来学会議・・・・・評価額1700円」
2015年07月04日 (土) | 編集 |
幻想の未来を求めて。

「戦場でワルツを」の異才アリ・フォルマン監督による、異色の近未来SF。
スタニスワフ・レムの原作「泰平ヨンの未来学会議」は未読だが、監督によると大幅に脚色されているそうな。
果たしてこれはディストピアなのか、それともユートピアなのか?
実はこの映画、昨年の東京アニメアワードフェスティバルで鑑賞済みだったけれど、どうにも消化しきれず、レビューをアップしていなかった。
劇場公開で再鑑賞し、ようやく全貌が見えた気がする。

本作の大きな特徴は、複雑な多重構造だ。
主演はロビン・ライトだが、彼女が演じているのはロビン・ライトという女優、つまり自分自身である。
「プリンセス・ブライド・ストーリー」のヒロインとして華々しくスターダムを駆け上がったものの、その後は現場をドタキャンしたり、男運悪いし、ろくな映画出ないし、要するにあんた落ち目だよって役柄。
まあ現実のロビン・ライトのキャリアはそんなに酷くないとは思うけど、これはつまりアロノフスキーの「レスラー」「ブラック・スワン」的な、現実の俳優のイメージをそのまま役に反映させる半ドキュメンタリースタイル。

彼女は勝気な娘と病に冒された息子と共に、空港の近くに住んでいるのだが、ハーヴェイ・カイテル演じるマネージャーが、映画会社のミラマウント(笑)からの最終オファーを持ってくる。
それは俳優の肉体から演技までを全てスキャンデータ化し、デジタルのキャラクターとして権利を買い取るから、もう人前で演技しちゃダメよというもの。
生身の俳優をCG化した事例が既にある現在、この設定はSFというにはあまりにリアリティがある。
もしも非現実が現実を侵食する事を受け入れるなら、はたしてその先にある未来とは何か。
映画の前半は病気の息子との時間を優先したいロビンが、契約を受け入れるまでの2013年を舞台にした実写ドラマ。
ここまでは、ほんの少しずれたパラレルワールドのハリウッドをシニカルに描いたメタフィクション、いわゆるセルフ・リフレクシブ・フィルムの一種と言えるだろう。

ところが、映画は後半驚くべき世界へと観客を招き入れるのである。
時代は一気に飛んで20年後の2033年、ロビンは契約の延長手続きのために、ミラマウント・ナガサキ(20年の間にどうやら日本企業と合併したらしい)主催の“コングレス”にやってくる。
この時代、ミラマウントは映画の次に来るものとして、観客が望む世界にトリップ出来るドラッグを売り出していて、ロビンを含むコングレスの参加者たちもそれぞれの思考の中でアニメ化されている。
この世界観は、映画の未来像として非常に面白く示唆に富んでいると思う。
デジタル化は制作プロセスにおける現実と虚構の境界を曖昧にしたが、非現実の侵食はおそらくそこでは止まらない。
近い将来、少なくとも映画の一部はゲームと融合してインタラクティブ性を強め、鑑賞するものではなく体験するものとなってゆくだろう。
そしてテクノロジーの主流が機械に頼るメカニカルから、人間の脳に直接作用するケミカルへと変わる時、果たしてこの世界はドラッグの見せる幻想の誘惑に抗えるだろうか。

俳優は、もともと現実と虚構を行き来する存在。
実写とアニメ、二つのロビン・ライトが体現するのは、境界を失いゆっくりと溶け合いながら崩壊してゆく世界そのもの。
前回観た時はドラッグが見せる世界がなぜアニメなのか?が引っかかったが、なるほど手描きアニメ風のアナログ世界は、現在のCGに代表されるデジタル進化の逆説でもある訳だ。
もちろんカオスとメタモルフォーゼに一番相応しい表現であり、フライシャー兄弟から今 敏までが溶け合うコングレスは、ハリウッドのシニカルなメタファーであると同時に、作者の映画的記憶の実体化でもあるのだろう。
誰もが自分の脳内の閉じた世界に暮らす時、暗闇の共有体験であった映画の魔法は消え去り、他人との絆すら無意味なものとなる。
崩壊する世界で、主人公が最後によりどころにしたのが、母としての愛だったというのが切ない。
あの無限ループが、彼女が一番愛おしい理想の時だったという訳か。

今回は、抜け出せない幻想の物語なので、あまりに魅惑的過ぎて酔い潰れるまで飲んでしまうという「ノックアウト」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、ペルノ10ml、ペパーミント・ホワイト適量をステアして、最後にチェリーを飾る。
清涼なペパーミントと複雑なペルノの香り、すっきりしたジンの味わい。
ガツンとくるタイプではなく、度数の割に飲みやすいので、ついつい深酒してしまって気づいたら夢の中という訳だ。

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