2015年07月09日 (木) | 編集 |
サイはどこへ行くのか。
イラン革命の混乱の中、理不尽な理由で政治犯として収監され、表向きは死んだ事にされていたクルドの詩人の物語。
30年後、遂に釈放された詩人は、今はトルコのイスタンブールに暮らす妻を探す。
実際に四半世紀もの間囚われていた、詩人のサデッグ・キャマンガールの実話が元になっていて、リアルな人間ドラマと、キャマンガールの詩に由来するファンタジックな比喩表現が混在するユニークな世界観が特徴だ。
2009年のセミドキュメンタリー作品「ペルシャ猫を誰も知らない」を、イラン当局の検閲を受けずに制作した後、自由な創作環境を求めてトルコを拠点に活動しているバフマン・ゴバディ監督による魂の力作である。
詩人のサヘル(ベヘルーズ・ウォスギー)は軍高官の娘ミナ(モニカ・ベルッチ)と結婚し、出版した詩集「サイの最後の詩」も好評で、満ち足りた生活を送っていた。
ところが、イラン革命で社会がひっくり返り、王政側の人間と見なされたサヘル夫妻は逮捕される。
やがてミナは釈放されたものの、サヘルはいつの間にか刑務所で死んだことにされてしまう。
ようやくサヘルが釈放された時、実に30年の歳月が経っていた。
夫が獄死したと思っているミナが、トルコのイスタンブールに暮らしている事を聞いたサヘルは、彼女を探して旅立つのだが、そこである男がミナと子供たちに影のようにつきまとっている事を知る。
実はその男、アクバル(ユルマズ・エルドガン)の歪んだ欲望こそが、サヘルを投獄し、夫婦を生き別れにした元凶だった・・・・
現代イランのターニングポイントとなった1979年のイスラム革命は、親欧米の享楽的王政国家から、厳格なイスラム原理主義の共和国という180度違った社会への大転換だった訳で、ここで人生が大きく変わった人は無数にいただろう。
主人公のモデルとなったキャマンガールは、人気詩人から囚人となり、王政時代の映画スターだった主演のウォスギーは、国外へと亡命し映画に出られなくなる。
また21世紀の今に続くイスラム体制は、監督のゴバディが故国で自由に映画を作る事を許さない。
長年イラン当局の検閲と闘ってきた彼は、とうとう国外での活動を余儀なくされる。
この映画の中核にいる彼ら3人はみなサヘルであり、革命によって故郷を失い、孤独を抱えた男たちなのである。
一方、既得権が崩れ去り社会がひっくり返る中、革命勢力の側に立つことによって、新たに権力を得た者たちもたくさんいたはずだ。
本作のドラマ的キーパーソンとなるアクバルもその一人。
彼はミナの家の使用人でありながら、既婚者の彼女に横恋慕している。
パーレビ王政下では、軍高官の娘であるミナと人気詩人のサヘルは言わば上流階級で、本来ならアクバルとは住む世界が違う。
ところが、イスラム革命は心に暗い炎を宿した男に、千載一遇のチャンスを与えるのだ。
新たにプチ権力者となったアクバルは、サヘルを「神を冒涜する詩を書いた」として投獄させ、同時に逮捕したミナを自分に振り向かせようとするのである。
長年囚われていた夫が、生き別れの妻を探すという基本設定から、チャン・イーモウの「妻への家路」的な物語を想像していたが、全く違う。
これは革命の混沌を背景に、ある男の歪んだ欲望によって、人間たちが破滅してゆく物語であり、濃密な情念のドラマはむしろ、残酷な運命が人々の人生を翻弄するもう一つの「灼熱の魂」だ。
実際、ゴバディ監督もまた、一歩間違えたらサヘルとミナ夫婦と似たような状況に陥っていた可能性があった。
これは当時日本でも報じられたから覚えている方も多いだろうが、2009年にゴバディのフィアンセであるイラン系米国人のジャーナリスト、ロクサナ・サベリが「ワインを持っていた」という理由でイラン当局に逮捕され、後にスパイ容疑で告発されて懲役8年の判決を受けたのである。
彼女が実際にスパイだった訳ではなく、アメリカに向けた政治的な交渉カードを作るための逮捕だったと思われ、幸い控訴審判決で執行猶予がついて釈放された。
しかしこの事件によって、恣意的な法の運用が出来れば、一人の人間の人生など、いかようにも狂わされてしまう事を、ゴバディは改めて思い知ったのではないか。
理不尽な投獄から刑務所での過酷な日々、やがて映画は年老いたサヘルをイスタンブールへと送り出し、歳月が作り出した現実に直面させる。
ゴバディの真骨頂とも言うべき、マジカルで圧倒的に美しいビジュアル。
シネマスコープのワイドな視野の中で奥行感を最大限生かし、凝りに凝った空間演出が見事だ。
イスタンブールで、ミナと子供たちが暮らす海辺の家を見つけたサヘルは、毎日対岸に停めた車の中から彼女らを見つめ続ける。
絶妙な被写界深度によって表現される、手が届きそうで届かない距離感は、そのまま30年間の時間のメタファーとなる。
そしてミナもまた、アクバルの呪縛から逃れられないでおり、一見何不自由ない瀟洒な暮らしも、魂の監獄の囚人である事を逆説的に強調する。
いやアクバル自身もまた、自らの欲望に溺れ、人生を破滅させているのである。
その瞳に底なしの孤独を湛え、深い皺に人生の悲喜を感じさせる、べへルーズ・ウォスギーが素晴らしい。
妻のミナ役をイタリア人のモニカ・ベルッチが演じてるのが意外だが、黒髪のエキゾチックな風貌は、ペルシャ美人役に違和感ゼロ。
イスタンブールで刺青師となったミナの元に、顔を隠したサヘルが訪れ、背中に彫らせるクルドの詩文「国境に生きる者だけが新たな祖国を創る」に秘められた、未来への願いが胸に刺さる。
これは、詩人キャマンガールの人生と作品をゴバディが一つの映画に統合し、再解釈して創造した壮大な映像叙情詩だ。
スクリーンに刻まれる、孤独な人間たちの面貌と背後に広がる遠大な空間、リアリズムとファンタジーのコントラスト。
言葉の間合いと行間の沈黙は、光と影と時間の作り出す余韻に置き換えられる。
詩作が映像化された荒涼とした大地は、登場人物たちの心象が見せるこの世界の真の姿だ。
ひび割れた土は塩を含み、巨大なサイはその塩を舐めながら必死に生きている。
限りなく深い絶望の地で見える、微かな光。
たとえ最後のサイが力尽きて倒れても、そこに歩む者がいる限り道は永遠に続いているのである。
パワフルでヘビーな映画に喉もカラカラ。
今回は、舞台となるトルコを代表するビール「エフェス」をチョイス。
日本でもトルコ料理店などでは、必ずといっていいほど置いてあるポピュラーなビールで、これからの季節にはぴったりの、スッキリあっさりなライトなテイストが特徴。
牛肉大好きな国のお酒だけあって、個人的にはBBQなど肉料理との相性が一番良いと思う。
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イラン革命の混乱の中、理不尽な理由で政治犯として収監され、表向きは死んだ事にされていたクルドの詩人の物語。
30年後、遂に釈放された詩人は、今はトルコのイスタンブールに暮らす妻を探す。
実際に四半世紀もの間囚われていた、詩人のサデッグ・キャマンガールの実話が元になっていて、リアルな人間ドラマと、キャマンガールの詩に由来するファンタジックな比喩表現が混在するユニークな世界観が特徴だ。
2009年のセミドキュメンタリー作品「ペルシャ猫を誰も知らない」を、イラン当局の検閲を受けずに制作した後、自由な創作環境を求めてトルコを拠点に活動しているバフマン・ゴバディ監督による魂の力作である。
詩人のサヘル(ベヘルーズ・ウォスギー)は軍高官の娘ミナ(モニカ・ベルッチ)と結婚し、出版した詩集「サイの最後の詩」も好評で、満ち足りた生活を送っていた。
ところが、イラン革命で社会がひっくり返り、王政側の人間と見なされたサヘル夫妻は逮捕される。
やがてミナは釈放されたものの、サヘルはいつの間にか刑務所で死んだことにされてしまう。
ようやくサヘルが釈放された時、実に30年の歳月が経っていた。
夫が獄死したと思っているミナが、トルコのイスタンブールに暮らしている事を聞いたサヘルは、彼女を探して旅立つのだが、そこである男がミナと子供たちに影のようにつきまとっている事を知る。
実はその男、アクバル(ユルマズ・エルドガン)の歪んだ欲望こそが、サヘルを投獄し、夫婦を生き別れにした元凶だった・・・・
現代イランのターニングポイントとなった1979年のイスラム革命は、親欧米の享楽的王政国家から、厳格なイスラム原理主義の共和国という180度違った社会への大転換だった訳で、ここで人生が大きく変わった人は無数にいただろう。
主人公のモデルとなったキャマンガールは、人気詩人から囚人となり、王政時代の映画スターだった主演のウォスギーは、国外へと亡命し映画に出られなくなる。
また21世紀の今に続くイスラム体制は、監督のゴバディが故国で自由に映画を作る事を許さない。
長年イラン当局の検閲と闘ってきた彼は、とうとう国外での活動を余儀なくされる。
この映画の中核にいる彼ら3人はみなサヘルであり、革命によって故郷を失い、孤独を抱えた男たちなのである。
一方、既得権が崩れ去り社会がひっくり返る中、革命勢力の側に立つことによって、新たに権力を得た者たちもたくさんいたはずだ。
本作のドラマ的キーパーソンとなるアクバルもその一人。
彼はミナの家の使用人でありながら、既婚者の彼女に横恋慕している。
パーレビ王政下では、軍高官の娘であるミナと人気詩人のサヘルは言わば上流階級で、本来ならアクバルとは住む世界が違う。
ところが、イスラム革命は心に暗い炎を宿した男に、千載一遇のチャンスを与えるのだ。
新たにプチ権力者となったアクバルは、サヘルを「神を冒涜する詩を書いた」として投獄させ、同時に逮捕したミナを自分に振り向かせようとするのである。
長年囚われていた夫が、生き別れの妻を探すという基本設定から、チャン・イーモウの「妻への家路」的な物語を想像していたが、全く違う。
これは革命の混沌を背景に、ある男の歪んだ欲望によって、人間たちが破滅してゆく物語であり、濃密な情念のドラマはむしろ、残酷な運命が人々の人生を翻弄するもう一つの「灼熱の魂」だ。
実際、ゴバディ監督もまた、一歩間違えたらサヘルとミナ夫婦と似たような状況に陥っていた可能性があった。
これは当時日本でも報じられたから覚えている方も多いだろうが、2009年にゴバディのフィアンセであるイラン系米国人のジャーナリスト、ロクサナ・サベリが「ワインを持っていた」という理由でイラン当局に逮捕され、後にスパイ容疑で告発されて懲役8年の判決を受けたのである。
彼女が実際にスパイだった訳ではなく、アメリカに向けた政治的な交渉カードを作るための逮捕だったと思われ、幸い控訴審判決で執行猶予がついて釈放された。
しかしこの事件によって、恣意的な法の運用が出来れば、一人の人間の人生など、いかようにも狂わされてしまう事を、ゴバディは改めて思い知ったのではないか。
理不尽な投獄から刑務所での過酷な日々、やがて映画は年老いたサヘルをイスタンブールへと送り出し、歳月が作り出した現実に直面させる。
ゴバディの真骨頂とも言うべき、マジカルで圧倒的に美しいビジュアル。
シネマスコープのワイドな視野の中で奥行感を最大限生かし、凝りに凝った空間演出が見事だ。
イスタンブールで、ミナと子供たちが暮らす海辺の家を見つけたサヘルは、毎日対岸に停めた車の中から彼女らを見つめ続ける。
絶妙な被写界深度によって表現される、手が届きそうで届かない距離感は、そのまま30年間の時間のメタファーとなる。
そしてミナもまた、アクバルの呪縛から逃れられないでおり、一見何不自由ない瀟洒な暮らしも、魂の監獄の囚人である事を逆説的に強調する。
いやアクバル自身もまた、自らの欲望に溺れ、人生を破滅させているのである。
その瞳に底なしの孤独を湛え、深い皺に人生の悲喜を感じさせる、べへルーズ・ウォスギーが素晴らしい。
妻のミナ役をイタリア人のモニカ・ベルッチが演じてるのが意外だが、黒髪のエキゾチックな風貌は、ペルシャ美人役に違和感ゼロ。
イスタンブールで刺青師となったミナの元に、顔を隠したサヘルが訪れ、背中に彫らせるクルドの詩文「国境に生きる者だけが新たな祖国を創る」に秘められた、未来への願いが胸に刺さる。
これは、詩人キャマンガールの人生と作品をゴバディが一つの映画に統合し、再解釈して創造した壮大な映像叙情詩だ。
スクリーンに刻まれる、孤独な人間たちの面貌と背後に広がる遠大な空間、リアリズムとファンタジーのコントラスト。
言葉の間合いと行間の沈黙は、光と影と時間の作り出す余韻に置き換えられる。
詩作が映像化された荒涼とした大地は、登場人物たちの心象が見せるこの世界の真の姿だ。
ひび割れた土は塩を含み、巨大なサイはその塩を舐めながら必死に生きている。
限りなく深い絶望の地で見える、微かな光。
たとえ最後のサイが力尽きて倒れても、そこに歩む者がいる限り道は永遠に続いているのである。
パワフルでヘビーな映画に喉もカラカラ。
今回は、舞台となるトルコを代表するビール「エフェス」をチョイス。
日本でもトルコ料理店などでは、必ずといっていいほど置いてあるポピュラーなビールで、これからの季節にはぴったりの、スッキリあっさりなライトなテイストが特徴。
牛肉大好きな国のお酒だけあって、個人的にはBBQなど肉料理との相性が一番良いと思う。

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