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野火・・・・・評価額1800円
2015年07月30日 (木) | 編集 |
緑の海の流離譚。

昭和の文豪・大岡昇平が、自らの戦争体験をもとに著した小説「野火」を、異才・塚本晋也監督が20年の構想を経て自主制作体制で映像化した本作は、驚くほどの熱量を持つ大変な力作である。
舞台となるのは、太平洋戦争末期のフィリピン戦線。
監督自ら演じる日本陸軍の一等兵・田村は、肺病を患った事から所属する隊を追い出され、圧倒的な火力を持つ米軍とゲリラ兵が跋扈するジャングルを、行くあても無く漂流する。
戦況は既に絶望的で、もはや戦うことを放棄した日本軍の兵士たちは、極限状況のなかで生を求めてこの世の地獄を見る事になるのだ。
タイトルの「野火」とは、春先に畑の枯れ草などを燃やす焚き火の事だが、日本兵にとっては密林に潜む敵の狼煙のように思えて、ある種不条理な恐怖、戦争のメタファーとして描かれている。
※ラストに触れています。

フィリピンに送られた田村一等兵(塚本晋也)は、肺を病んだことから隊を離れ、野戦病院への入院を命じられる。
しかし野戦病院は負傷兵で一杯の上に食糧不足で、病人を置く余裕は無い。
仕方なく田村は、足の病で隊を追われた安田(リリー・フランキー)や、気弱で泣き虫の永松(森優作)らと共に、病院の外で寝起きするようになる。
だが、病院が攻撃された事から、彼らは散りぢりになってジャングルを逃げ惑う。
いつしか放棄された海辺の村にたどり着いた田村は、たまたま居合わせたフィリピン人の女性を射殺してしまい、罪の意識にさいなまれる。
やがて歴戦の伍長(中村達也)率いる一隊に拾われ、日本軍の集合地を目指すものの、米軍の待ち伏せ攻撃を受けてまたも離散。
食料も尽き、たった一人でジャングルを彷徨っている時に、偶然にも病院で一緒だった永松、安田との再会を果たす。
永松は、野生の猿を撃って生き延びてきたと語り、田村にもその肉を勧めるのだが・・・・

原作者の大岡昇平は、1944年に召集されフィリピン戦線へと渡るも、翌年1月に米軍の捕虜となり終戦を迎える。
戦後、捕虜収容所での日々を連作小説とした「俘虜記」を1949年に発表し高い評価を得ると、その後1952年に刊行されたのが、捕虜になる前の戦争体験をもとにした「野火」である。
実体験をベースとしながら極めて寓話的な小説であり、戦後復員し自らを狂人と呼ぶ主人公の手記、という形をとっているのが特徴と言えるだろう。
「野火」という作品について、大岡は「全体のワクになっているのは、ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』という長編小説です」と語っている。
仏文学者であった大岡は、仏語翻訳版を通して若い頃からエドガー・アラン・ポーの作品に親しんでいた様で、なるほど「野火」を読むとポーの世界が色濃く反映されているのがありありと分る。

アン・リー監督で「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」として映画化された、ヤン・マーテル作の「パイの物語」でも、やはり物語のワクとなっていたポー唯一の長編小説は、アメリカ東部のナンタケット島出身の少年、アーサー・ゴードン・ピムの数奇な運命を描く漂流記である。
ある年の夏に、友人の父が船長を務める船に密航したアーサーのささやかな冒険は、予期せぬ事態の勃発によって命がけの旅になってしまう。
物語の前半は船員の反乱と嵐によって航行不能となり、大西洋を漂流する船上を舞台とした海洋サバイバル劇。
後半は救助された船に乗って、当時まだ未知の海域だった南極海を探検する、SFチックかつ不条理なアドベンチャー劇が展開するという、前半と後半がまったく異なるジャンルになるユニークな作品だ。
この小説は、本作や「パイの物語」だけでなく、多くの作家に影響を与え、特にその後半の不可思議な世界観と謎に満ちたラストは、P・H・ラブクラフトら後進の作家に大きなインスピレーションをもたらし、のちの所謂「クトゥルフ神話」の源流の一つとなった作品である。

ポーの異色の小説が、どのようにして「野火」のワクとなっているか。
まずどちらも、旅から帰還した主人公による手記の体裁をとっている。
少年アーサーは広大な大西洋の漂流者となるが、日本軍兵士の田村はフィリピンの緑の海を彷徨い歩く事になる。
二つの作品の繋がりを決定付けるのが、飢えとカリバニズムのシチュエーションだ。
海の上では、食料を失い衰弱死寸前となった四人の男が籤引きし、一番短い籤を引いたリチャード・パーカー(「ライフ・オブ・パイ」のトラの名前の元ネタ)が食料となってアーサーたちの命をつなぎ、フィリピンのジャングルでは、永松が同属であるはずの日本兵を狩り、猿の肉として田村に食わせる。
足が犠牲者から切り落とされるている描写も、ポーからの引用であろう。
またどちらの作品でも、旅の舞台は主人公から見れば非日常の“あちらがわ”の世界であり、その世界に属する現地の住民が不気味な存在として描かれるのも共通だ。
そしてポーの世界の南極海では、漂流者を誘うように謎の水蒸気が海から煙の様に立ち上っており、それが田村にとって死と神性の象徴である“野火”に符合することも明らかである。
「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」は、現実でありながらまるで永遠に覚めない白昼夢の様な、不条理劇の枠組みとして「野火」の世界観を支えている。

本作の映画化は、今から56年前の市川崑監督作品に続いて二度目だ。
こちらは和田夏十が脚色し、船越英二が主人公の田村を、ミッキー・カーチスが永松を演じたモノクロ映画である。
塚本版も市川版も、物語の筋立てそのものは極めて原作に忠実なのだが、映画の印象としては相当に異なるのだから面白い。
二本の「野火」の大きな違いは、主観と客観の差と言っていいだろう。

不思議なユーモアを隠し味に、やや引いた視点で描かれる市川版に対して、カラー映画となった塚本版は、まとわりつくような熱帯の空気を感じさせるほどに生々しい。
ジャングルで展開する悪夢の様な地獄絵図と、対照的に荘厳な自然の美のコントラストがふいに主人公の視界に飛び込んでくるイメージは、どこかテレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」を思わせるが、後述するラスト近くのある描写以外、全ての描写が主人公の心象になっているのである。
同じ話でも演出のアプローチ、テリングのコンセプトによって全く別物になるのは当然といえば当然だが、それはたぶん作家性の違いであるのと同時に、映画が作られた時代の空気を反映しているのだと思う。

市川版が作られた1959年は、戦後僅かに14年である。
少なくとも日本人の大人は全て戦争の時代の体験者であって、40万人もの戦力の実に8割が戦死・戦病死したとはいえ、物語の舞台となるフィリピン戦線からの帰還兵もまだまだ沢山いただろう。
人肉を食うシーンが、栄養失調による歯の喪失という巧妙な脚色で避けられているのも、映像という直接的な表現である事に配慮し、とことんリアリズムで押し通すのはあえて避けた結果なのかも知れない。
逆に戦後70年の今は、かの地の戦いを直接経験した人はもちろん、経験者から話を聞いたことのある人すらごく僅かだ。
原作者の大岡昇平も、鬼籍に入って既に四半世紀以上が経過している。
もはや現在の日本人にとっては、遠い昔話になりつつある戦争の記憶を、現実に起こった事として感じさせるには、徹底的にリアルかつ主人公に寄り添った表現が相応しい。
冒頭で田村に病院行きを命じる上官も、「病院に行って帰ってくるな。もし追い出されたら死ね」と言っていることはどちらも同じなのだけど、市川版では言葉の根底にかすかに人情を感じさせるが、塚本版では全く感情が見えないどころか、何度も何度も田村を殴り、繰り返し隊から追い払うのだ。
ここは人の死が当たり前の世界で、命の価値がイモよりも軽い事を端的に感じさせる秀逸な描写である。
また、市川版の主人公は朴訥としたキャラクターで、あまり内面が見えない人物として描かれていたが、新作で監督自身が演じる田村は、この映画自体を心象として観客を包み込み、一体化する。
観客は彼の壊れつつある心と共に、否が応でもフィリピンのジャングルを彷徨うしかないのである。

物語のラストもまた、新旧二本の映画の解釈が大きく異なる部分だ。
市川版では、永松を殺した田村が、現地人の野火のもとにフラフラと歩いてゆき、突然バタリと倒れる描写で幕を閉じる。
彼が撃たれたのか、自分で倒れたのかも含めて説明は無い。
対して塚本版では、野火に歩み寄るのは同じだが、ゲリラに殴り倒された田村が捕虜となり、戦後復員した姿が描かれ、主人公の手記という設定の原作のイメージにはより近くなっている。
そして田村が食事をとる前に、激しく拝むような奇妙な行動をするのを妻が目撃するシーンは、この映画の中で唯一の客観といえる。
彼が何をしているのかは妻には分らないが、映画を通して田村と旅をしてきた観客には、原作を読んでいなかったとしても何となく伝わるだろう。
極限の飢えと殺生を経験してきた彼にとって、命をいただく食事とは、戦場の記憶を蘇らせる懺悔の時に他ならないのだ。
戦争は終わっても、田村はもはや戦争から永遠に逃れられられない。
たとえそこが平穏なる戦後日本であったとしても、彼の心にはいつなんどきも、あの不気味な野火が燃え盛り、死者たちに見つめられているのである。

戦争とそれが人の心にもたらすものを、映画作家・塚本晋也の執念を通して体験する超濃密な87分。

日本という国が歴史的な大転換点を向かえた戦後70年目の夏、確実に時代に呼ばれた作品であり、必見の傑作である。

今回は、岩手県陸前高田市の酔仙酒造株式会社 の「酔仙 純米酒」をチョイス。
酔仙酒造は東日本大震災の津波で工場が破壊され、現在は同県内の大船渡市の新工場で醸造を再開している。
豊潤な米の香りと味を堪能できる、飲み飽きないやや辛口の日本酒らしい日本酒。
日本酒も戦争後は米不足から、所謂アル添三倍増醸酒が主流となってしまい、戦後も長く日本酒のクオリティ低下を招いた。
戦争は人間だけでなく、文化や歴史まで破壊してしまう。
美味しい酒を沢山飲める時代は、それだけで貴重なのだという事をあらためて肝に銘じよう。

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