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■TITLE INDEX
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2012年に公開された第一作、「ハンガー・ゲーム」から続くシリーズ完結編。
独裁国家パネムと反乱軍の戦いはますます激化し、スノーを倒す最終決戦がクライマックスかと思いきや、映画は意外な方向へ舵を切る。
はたして、内戦の行き着く先はどこなのか、本当の敵は誰なのか。
そして主人公のカットニスが背負う事になる、予想だにしなかった過酷な宿命。
設定に似た部分のある「バトルロワイヤル」的な、色物っぽい入口からはこのヘビーなラストは想像出来なかった。
鋭い時代性を持つ、完結編に相応しい大変な力作である。
※核心部分に触れています。
コイン首相(ジュリアン・ムーア)率いる第13地区をはじめとする反乱軍は、ついにスノー大統領(ドナルド・サザーランド)が支配する首都キャピトルを包囲。
両軍の最終決戦は秒読み状態となるが、市街戦となれば多くの犠牲が出るのは確実。
本格的な戦いが始まる前に、スノーを暗殺する事が自分の使命だと考えたカットニス(ジェニファー・ローレンス)は、ゲイル(リアム・ヘムズワース)、フィニック(サム・クラフリン)、そして精神が不安定なままのピータ(ジョシュ・ハッチャ―ソン)らとキャピトルに侵入する。
だがそこは、無数のトラップが仕掛けられた死の迷宮。
スノーの企てた最後のハンガー・ゲームによって、一人また一人と仲間を失いながらも、カットニスはようやくスノーの宮殿にたどり着く。
だがそこで彼女を待ち受けていたのは、あまりにも残酷な運命だった・・・
私はハリウッド映画の最大の武器は、その敏感な時代感覚にあると思う。
オバマ政権の発足以降、アフロアメリカン現代史を描く作品が、ハリウッドのメインストリームに急激に増えた現象もやはり時代の空気。
本作の脚本家の一人であるダニー・ストロングの代表作、「大統領の執事の涙」もその一つである。
このシリーズの第一作が本国で公開されたのは、2012年3月。
プロダクション期間を考えれば半ば偶然、半ば必然なのだろうが、抑圧された独裁国家で、一人の少女の勇気が物言わぬ大衆を動かし、革命の火の手が上がるストーリーは、2010年に始まったチュニジアのジャスミン革命がアラブ世界全体へと広がった、いわゆる“アラブの春”を色濃く感じさせる内容だった。
そして革命を収束させるために、第二のハンガー・ゲームが開かれる「ハンガー・ゲーム2」、主人公のカットニスが大きな政治の渦に巻き込まれ、革命のアイコンである事を受け入れる「ハンガー・ゲーム FINAL: レジスタンス」への流れは、大いなる混乱に陥った今の世界と奇妙にシンクロした展開を見せる。
ならば、シリーズ最終作となった「ハンガー・ゲーム FINAL: レボリューション」で描かれるのはなにか?
悪の独裁政権vs善なる反乱軍という、「スター・ウォーズ」的な勧善懲悪の図式に当てはめるなら、本作のクライマックスは当然スノー大統領率いる政権軍とカットニス率いる反乱軍の最終決戦となるべきだろう。
だが、そうはならない。
両軍の決戦は描かれないし、そもそも戦争の帰趨する先はカットニスがスノーの死の迷宮で悪戦苦闘している間に決まってしまい、彼女はその最終局面の悲劇を目撃するだけだ。
どこまで意図されたものかは分らないが、本作は現実の世界の縮図として、よりハードな方向へとゴールを定めるのである。
カットニスがスノーの宮殿で目撃したもの。
多くの非武装の避難民が保護を求めて集まり、けが人を助けるために反乱軍の救護隊も到着したその時、政権軍の爆撃機が市民もろとも攻撃するのである。
救護隊にいたカットニスの妹・プリムも巻き込まれて死亡し、多くの市民も犠牲となった。
キャピトルが陥落した後、囚われの身となったスノーは、カットニスに爆撃は反乱軍を率いるコイン首相の策略だと主張する。
市民をも犠牲に保身を図る男、という汚名をスノーに着せる事で人心を彼から引き離し、新政府の権力を迅速に握るためにコインが計画したという訳だ。
カットニスは当初信じないが、コインが虐げられてきた民衆の復讐心に応えるために、キャピトルの子どもたちを使って新たなハンガー・ゲームをやろうと提案した事で確信する。
コインは“戦争を終わらせる者”ではない。
彼女は単にスノーに代わる新しい独裁者であって、新たな抑圧とその先にある次なる戦争を引き起こす者なのである。
嘗てカットニスの見せた勇気と献身に触発され、マネシカケスの鳴き声の様に燃え広がった革命の炎のなか、彼女は戸惑いながらも抵抗のシンボルとしての自分を受け入れてきた。
だがその革命のゴールは、狡猾な権力によって乗っ取られつつある。
ここでカットニスは、自ら火をつけた戦いを終わらせるために、あえてテロリストと呼ばれる存在になることを選ぶのだ。
映画の中の戦争は、彼女が人知れず重過ぎる宿命を背負い、自らを犠牲にして寛容を引き入れる事で収束する。
しかし現実の世界にはスノーやコインはいても、残念ながらカットニスはいない。
憎しみの蓄積がある程度まで行くと、暴力の連鎖を止める事は非常に難しくなり、たとえ沈静化したように見えたとしても、心の奥底に燻る火種はアジテーターの言葉によって容易に燃え盛り、争いは鎮火と着火を繰り返し、永遠に終わらない。
皆薄々分っていることだが、もしも火種を絶やそうとするならば、一番手っ取り早いのは徹底的な破壊と殺戮によって、抵抗する心も手段も失わせることだろう。
古代のカルタゴ、新大陸の先住民、そして第二次世界大戦などのケースで、大破壊によって少なくとも一度は火種が消えたのは事実だ。
ところが相互確証破壊の時代となり、戦争にも人道が要求される世界で“圧倒的な暴力”による解決はもはや不可能。
結果的に、戦争が細く長く終わらないものになったのはなんとも皮肉である。
“戦争の終わらせ方”への切望こそ、この映画が映し出す今という時代の空気なのかもしれない。
今回は辛口の映画に甘口のカクテル。
弓の名手カットニスつながりで「ブルーアロー」をチョイス。
ドライジン20ml、コアントロー10ml、ブルーキュラソー 10ml、ライムジュース 10mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
濃いターコイズブルーが美しく、スッキリと甘く飲みやすい。
ところでキャピトルの地下に巨大な柱が林立する地下神殿みたいな空間が出てくるのだけど、これはやはり日本の「首都圏外郭放水路」がモデルになっているのだろうか。

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小さな惑星に住む星の王子さまと、砂漠に不時着した飛行士さんの出会いと別れを描く、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ作の不朽の名作のアニメーション映画化。
監督は「カンフー・パンダ」で知られるアメリカ人のマーク・オズボーンが務めるが、フランスとフレンチ・カナダで作られたフランス映画である。
原作は、過去に日本製のテレビアニメ「星の王子さま プチ・プランス」や実写映画など何度か映像化されているが、意外にも劇場用長編アニメーションは初めてだという。
もっとも、本作は原作をそのまま映画化した訳ではなく、現代を舞台にしたオリジナルストーリーの中に、原作を内包する構造を持つ。
主人公の9歳の少女は両親が離婚し、母親と二人暮らし。
この母が超マニュアル人間で、娘に幸せにするための“完璧な人生”のロードマップを作っていて、厳格に少女に守らせようとするのだ。
その計画通り、名門校に進学するために学区内に引越しした先で少女が出会うのが、隣家に住んでいる“飛行士さん(aviator)”で、彼が若い頃の体験を綴ったのが「星の王子さま」というわけ。
本作の登場人物には名前が無い。
主人公の少女や母親も単に“little girl”や“mother”とだけ設定されている。
これは元々原作が固有名詞を排したスタイルなのに加えて、主人公親子の匿名性によって観客が二人に自己を投影しやすくするためだろう。
マニュアル通りの生き方を受け入れながらも、息苦しさを感じていた少女は、飛行士の奇想天外な物語を最初は怪しみつつ、次第に想像力の翼を伸ばし、夢中になってゆくのである。
本作の現実パートは3DCG、素晴らしいクオリティのストップモーションによって、忠実に描かれる原作パートは、クリエイティブ・ディレクターのジェイミー・カリリ、アート・ディレクターのコリーヌ・メレルらのチームによってモントリオールで作られた。
モダンなデジタルワールドと、ペーパークラフト調のアナログ世界がシームレスにつながる野心的な映像表現は、本作の大きな見どころと言って良い。
しかし映画の前半部分までは、なるほど古典のテーマを入れ子構造の物語にすることで、分かりやすく抽出したかと予想できる範囲。
本作のポイントは、やはり完全オリジナルの後半部分だろう。
ここから映画は原作の再解釈に留まらず、新たに作られた「続編」となる特異な構成となっている。
原作のラストで毒蛇にかまれた星の王子さまは、一体どこへ行ったのか。
決意を秘めた少女の冒険が、飛行士さんの知らない“その後の物語”となり、大人になった星の王子さまが登場する後半を、蛇足ととるか否かで、本作の評価は大きく変わるだろう。
私は、様々な読み解きがなされている原作に対する、現在の作り手によるアンサーとして十分にありだと思う。
子供でなくなることの切なさ、大人になることの本当の意味、忘却すること、喪失することにどう向き合うのか。
後半があることで、姿なき父親への少女の想い、そして母親の葛藤の裏側にあるものもよりクリアになった。
この部分はむしろ、かつて星の王子さまと同じ心を持っていたはずの、大人たちにこそ向けられた物語なのかもしれない。
現実パートでも原作パートでも繰り返し描写される、手と手が触れあうイメージが物語を象徴し印象的だ。
サン=テグジュペリと彼の創造した物語をリスペクトしつつ、独自の世界観と作家性を感じさせる意欲作である。
今回は星つながりでカクテルの「グリーン・スター」をチョイス。
ドイツ生まれのチェリーブランデー、キルシュワッサー40ml、グリーン・ペパーミント10ml、オレンジ・キュラソー10mlをステアして、グラスに注ぐ。
素材から想像するほどには甘くはなく、すっきりシャープな輪郭を持つ。
色合い的には黄色に近い薄緑だが、光に透かすと夜空の星のように綺麗だ。

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伊藤計劃原作の傑作SF小説、「ハーモニー」のアニメーション映画化である。
人類が病気と老いの恐怖から解放された21世紀末を舞台に、世界を揺るがす陰謀とその裏に隠された驚愕の真相が描かれる。
フジテレビの深夜アニメーション枠「ノイタミナ」の映画ブランド「ノイタミナ・ムービー」で、伊藤計劃の長編三作を映画化する「Project Itoh」の第二作。
「鉄コン筋クリート」で知られるマイケル・アリアスと、「パルムの樹」のなかむらたかしが共同監督を務める。
※核心に触れています。
医療経済社会が発達し、誰もが健康に生きる未来。
遺伝子犯罪を抑止するWHO螺旋監察官の霧慧トァン(沢城みゆき)は、幼馴染の零下堂キアン(洲崎綾)が自殺する現場を目撃してしまう。
同じころ、何者かに操られた数千人もの人々が一斉に自殺する事件が起こり、犯人から全人類に向けて「一週間以内に誰か1人を殺さないと、同じように自殺させる」という犯行声明が届き、世界はパニック状態に。
捜査に参加したトァンは、やがて事件の陰に13年前に自殺したはずの同級生・御冷ミァハ(上田麗奈)の思想を感じる。
やはり13年前に失踪した遺伝分子学者の父・ヌァザ(森田順平)が、ミァハの遺体の献体を受けていた事を知ったトァンは、二人を追ってバクダッドへ向かうのだが・・・・
鑑賞してまず感じるのは、脚色されても分かる伊藤計劃の圧倒的な物語力だ。
没後早くも6年になるが、偉大な才能を失ってしまったものだと改めて実感。
直接的にはつながってはいないものの、本作は彼の長編デビュー作となった「虐殺器官」と世界観を共有する続編的な作品である。
全ての人類には狂暴性を秘めた“虐殺器官”が存在し、それは“虐殺文法”によって活性化される。
「虐殺器官」において、その始まりが描写された全世界規模の騒乱“大災禍(ザ・メイルストロム)”から数十年後、政府ならぬ“生府”に管理され、死ぬことすらタブー視される超健康社会に生きる人類。
ある種の浄化であった大災禍によって、膨大な数の命が失われた結果、人々は人間そのものを公共のリソースと考え、高度な共生社会を作り上げている。
体内に入れられたナノマシンとつながったサーバーによって、一人ひとりの健康状態は厳格に管理され、人間は個人情報の概念をほぼ失う代わりに、社会のパーツとして誰もが長く健康に生きられる世界。
これはディストピアでもユートピアでもなく、はたして人類の本質とは何かを描き出すための秀逸な舞台装置だ。
主人公のトァンの職業は、遺伝子の違法操作などを取り締まるWHOの螺旋監察官。
命そのものがイデオロギーと直結する社会において、WHOが国際的な警察権を持つ設定は面白い。
彼女はこの完璧なはずの社会で起きた謎の集団自殺事件を追ううちに、少女時代のトラウマである同級生のミァハの自殺に行き当たる。
13年前、ミァハは自分の体をも管理される窮屈な社会に抵抗するために、トァンとキアンを誘って服毒自殺を持ちかけ、実行する。
結果的にトァンとキアンは生き残り、ミァハだけが死んだことになっているが、集団自殺事件を起こした犯人の声明に、“完璧過ぎて不自由な社会に、死によって対抗する”というミァハの思想を感じるのである。
人間の意識を操作する研究をしていた遺伝分子学者の父が、ミァハの自殺に関わっていた事を知ったトァンは、二人の影を追って東京からバクダッド、そして全ての始まりの地であるチェチェンへ。
ミァハの血塗られた出生の秘密と、陰謀の裏側に迫って行くのだが、実は途中までトァン(と観客)はミァハの事を根本から誤解している。
幼少期の過酷な経験によって、人間の悪の部分を知り尽くしている彼女は、管理社会からの個の解放を目指しているのではなく、人類そのものを次なる段階へ進化させようとしているのだ。
大災禍の再来を恐れる支配層は、ミァハの持つ特殊な“血”を使って、人間一人ひとりの行動を意識レベルで操作する方法を開発。
だがそれは、全人類の脳から“わたし”という概念を永遠に消去し、自明の選択によってのみ行動する存在に変化させることなのである。
人類のあらゆる悪は、脳の化学反応によって自我から生まれる。
ならば自我そのものが無ければ、そこは争いも葛藤も無く、全てが完全に調和する清浄の世界が生まれるはず。
実際に人類から自我が失われたとしたら、欲望も好奇心もすべてが無くなるのだから、おそらく文明のイノベーションはもはや起こらず、ただ機械的に生命を維持するだけの生体ロボットのような存在になるのだろう。
SFの歴史上類を見ない、驚くべきアイディアによる究極の選択は、人類のあり方としてユートピアへの進化なのか、ディストピアへの絶望なのか。
しかし美しきテロリストとなったミァハによって、混沌への回帰か否かを突き付けられた人類は恐怖に震え、もはや選択肢は残っていないのだ。
原作小説の圧倒的なボリュームを二時間の尺に収めるために、やや台詞に説明を頼った饒舌な作品にはなっている。
お金や時間など諸々の問題は理解できるが、この作品にはやはり150分くらいは尺をあげたいところ。
とはいえ内蔵のような未来都市を始め、映像的には世界観の作り込みで頑張っているし、トァンとミァハのキャラデザもなかなか良いのではないかと思う。
とても見応えのある力作だと思うが、これはやはり「虐殺器官ver.2.0」なので、映画も順番に観たかった。
本作単体でも完結しているが、これだけを観るのと、あの話を受けて観るのとではだいぶ印象が異なるだろう。
制作会社のマングローブの倒産によって、公開延期になってしまった「虐殺器官」は、新スタジオでの制作続行が決まったそうだが、実質作り直しで来年中の公開を目指しているという。
かなり先は長いので、できれば原作の「虐殺器官」を読んでから、本作を鑑賞するのがお勧め。
それにしても中東の騒乱からフランスのテロへという流れを見ていると、伊藤計劃による未来予測はなんだか現実のものになりつつあるようで、甚だ寒心に堪えないのである。
もしも人類が自我を失ったら、自明としてアルコールは不要になるだろうから、“わたし”にサヨナラする前に飲みたいお酒、石川は車多酒造の「天狗舞 古古酒純米大吟醸」をチョイス。
正しく究極にまで突き詰められた、豊かなお米の香りと味。
柔らかでフルーティな吟醸香が広がり、キレとコクが絶妙にバランスする味わいは、熟成されることで更に見事なハーモニーを奏でる。

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北極に近いバレンツ海の荘厳な自然を背景に、権力の横暴に翻弄される市井の人々を描くヘビー級の人間ドラマ。
理不尽な状況に抗えば抗うほどに、運命は悲劇の連鎖を紡ぎ出す。
はたして、この世界に神はいるのか?人間の悪はどこから生まれるのか?
デビュー作の「父、帰る」で脚光を浴び、続く「ヴェラの祈り」「エレナの惑い」でも世界を驚かせたアンドレイ・ズビャギンツェフは、社会派映画の構造で物語をスタートさせ、そこから良い意味で作品の枠を破壊しにかかる。
結果、現代ロシアの闇を浮かび上がらせるのみならず、世界のどこででも起こり得る、普遍性を持つ寓話を作り出した。
ロシア北部、バレンツ海の入り江に面した小さな町。
自動車修理工のコーリャ(アレクセイ・セレブリャコフ)は、妻のリリア(エレナ・リャドワ)と亡き前妻との子であるロマ(セルゲイ・ポホダーエフ)の三人家族で、海の見える小高い丘の家で暮らしている。
だが強欲な市長のヴァディム(ロマン・マディアノフ)は、開発計画のためにコーリャの持つ土地の買収を画策。
強引かつ理不尽な市の要求に、コーリャは軍隊時代の部下で、モスクワに住む弁護士のディーマ(ウラディミール・ヴドヴィチェンコフ)を呼び寄せ、反撃を試みる。
ヴァディムの過去を調査したディーマは、彼の関わった悪事の証拠を見つけ出し、一度はスキャンダルの隠ぺいと引き換えに、十分な補償を引きだす事に成功。
だが、この時すでにコーリャが守ろうとした世界は、内側から静かに崩壊しつつあった。
襲いかかる権力に、もはやコーリャは抗うすべを持たない・・・
本作の着想の元となっているのは、2004年にアメリカで起きた所謂「キルドーザー事件」だそうな。
自動車修理工場を営む男が、隣接地の開発事業を巡って市と対立。
やがて男は、市側の嫌がらせや地元メディアの非難によって孤立を深め、遂には装甲車に改造した巨大なブルドーザーを駆って市役所や関係先を次々に破壊し、最後は内側から溶接された装甲車の中で自殺した。
この事件は当時世界中で大きな話題になり、日本のバラエティ番組でも再現ドラマが作られたりしたので、覚えている人も多いだろう。
もちろん本作ではそんなマッドマックスな展開は起こらないが、舞台をロシアのバレンツ海沿岸の田舎町に移した上で、物語の基本設定はこの事件を踏襲している。
だが、悪徳市長による理不尽な土地買収から、家と家族を守ろうとする男の話と思いきや、そんなのはまだ序の口。
ズビャギンツェフはキルドーザー事件を入り口として、旧約聖書の「ヨブ記」をはじめ、領主による理不尽な悪行と戦う男を描いたクライストの小説「ミヒャエル・コールハースの運命」や、絶対王政における臣民のあり方を定義したホッブスの政治哲学書で、本作の原題ともなっている「リヴァイアサン」などをミックスし、痛みに満ちた驚くべき物語を構築した。
140分の上映時間の間、主人公コーリャにはこれでもかというほど多くの苦難が降りかかり、それまでの平凡だった人生を嵐の様に翻弄する。
第一の苦難は、全ての発端となる市による土地買収だ。
一族が代々暮らしてきた土地は、田舎町にあっては景観の良い一等地。
当然コーリャは、雀の涙ほどの補償金を拒否し裁判に訴えるのだが、どうしてもそこにある物を建てたい市長は、あらゆる手を使って一家の追い出しにかかる。
そして第二の苦難は、皮肉にも第一の苦難を乗り越えるべく迎え入れた、弁護士のディーマによってもたらされる。
明日が見えない閉塞のなか、妻のリリアがディーマと密通し、コーリャの家族は内側からばらばらになってゆく。
訴訟半ばでディーマは去り、元々継母とそりが合わないロマはますます反発。
反省したコーリャが、何とか家族の絆を修復しようとした矢先、今度はリリアが失踪してしまい、もはや家を守るどころではなくなってしまう。
劇中で地元の司祭がコーリャを旧約聖書のヨブに例えるシーンがあるが、悲惨さは正に現代のヨブ。
テレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」でもモチーフとなっていた「ヨブ記」では、敬虔なるヨブの信仰を試すために、神の許可を受けたサタンがいくつもの試練を与える。
ヨブはそれに耐え続けるのだが、やがて善良なる者を何故神は苦しめるのかと疑念を抱き、神に対して申し立てを行う。
神は沈黙したまま答えないが、ヨブの神はどこにいるのかという絶望のうちに、遂に神はヨブとの対話に応じるのである。
ただ、頑ななまでに信心深いヨブとは違って、コーリャは俗物だ。
邦題は「裁かれるは善人のみ」となっているが、彼は粗野な飲んだくれで怒りっぽく、感情を抑えられずに暴力に訴える事もあり、必ずしも善人とは言い難い。
コーリャだけでなく、妻のリリアやディーマ、息子のロマも含め、当時人物は程度の差はあれ皆なんらかの欠点のある人物として造形されている。
そもそも司祭に悪態をつくコーリャが、信仰者としてヨブの高みにいないことは明らかだ。
本作に描かれる人間たちの有り様は、むしろホッブズのいう無秩序な「万人の万人に対する闘争」の状態に近い。
ホッブスはその著書の中で、人間社会の秩序を維持するために、臣民はその自然権を国家に対して譲渡すべきであるとし、臣民の国家に対する抵抗権を否定した。
彼はこの国家をリヴァイアサンと呼んだが、これは「ヨブ記」に登場する巨大な海の怪物であり、しばしば悪魔と同一視される。
ならばコーリャを陥れたのは、現代のリヴァイアサンとしての権力なのか。
言葉通りに受け取ればそう見えなくもないが、私はこのタイトルは裏読みする必要があると思う。
印象的に描写され、本作のキービジュアルにもなっているのが海岸にあるクジラの骨だ。
本作において、古の教会は崩れ落ち廃墟となり、強大なリヴァイアサンもまた亡骸としてその身を横たえる。
象徴的なのが父と子と聖霊ならぬ、政治と司法と宗教の三位一体である。
市長のヴァディムは自らの行為を悪として認識しており、だからこそ報いを恐れ宗教の権威に縋る。
宗教は政治権力の正統性に精神的なお墨付きを与える代わりに、様々な甘い汁を吸う。
同じ様に、裁判官も検事も法律を恣意的に運用して政治を支え、利権に与るという構図である。
この世界にはもうヨブに応えるべき神も悪魔もおらず、ただ神と悪魔の名を語る人間がいるだけだ。
リヴァイアサンの様に見えて、実はリヴァイアサンは既に死んでおり、世界は混沌の中にある。
物語の終盤、高位の司祭が市長をはじめとする人々に長い説教をするシーンがあるが、彼の言葉一つひとつをそのまま反転させれば、虚飾に満ちた現代ロシアの真の姿が見えてくるという訳だ。
偽りの世界で、ヴァディムがコーリャ陥れてでも、彼の土地に作りたかったものが明かされる瞬間、思わず苦笑いを浮かべたのは私だけではないと思う。
色々な意味で痛い映画だが、不思議と後味はそれほど胃もたれしない。
これは映画の視点が登場人物にどっぷり感情移入させるというよりは、適度に距離を保った批評的なものだからだろう。
そのためか主人公の感情のピークを描写するのも意図的に避けられており、バレンツ海の荒涼とした世界で展開するシニカルな人間ドラマは、ある意味滑稽なブラックコメディなのかも知れない。
しかし本作で何よりも強烈だったのは、ロシア男たちの豪快な飲みっぷりよ。
皆んなウォッカをミネラルウォーターみたいに飲んでたけど、コーリャだけで一体何本空けていた?
あの人たちの消化器は絶対おかしい(笑
という訳でロシア人ほどは飲めないけど、「ストリチナヤ・ウォッカ」をチョイス。
丁寧に濾過され、すっきりした味わい。
さすがに映画のロシア人たちの様に、ラッパ飲みでグイグイというのはほとんどの日本人には無理だろうが、ストレートでチビチビやっても、カクテルベースにしても美味しい。

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M・ナイト・シャマラン、久々の快作である。
正直なところ「エア・ベンダー」「アフター・アース」という大コケした2本の大作を観て、シャマランは終わってしまったのかと思っていた。
彼の作品は良くも悪くも趣味性が高く、たとえ「レディ・イン・ザ・ウォーター」の様な大失敗作でも、とりあえず観たら語りたくなったものだが、近作2本はただただ空虚なだけで、全く何も残らなかったのである。
それだけに、本作の手作り感溢れる味わいは嬉しい。
「あえて」なのか、興行的な信用を失ったがゆえの結果なのかは分からないが、シャマランのフィルモグラフィーで最も低予算となった本作では、良い意味で作家としてのフリーハンドを与えられている様に見える。
舞台となるのは、私が彼の作品で最も好きな「サイン」と同じく、田舎の農場の一軒家だ。
そこに生まれてから一度も会った事の無い祖父母を訪ねて、孫の姉弟がやって来る。
15年前に、二人の母親が駆け落ち同然に家を出て以来、全く交流が途絶えてしまっていたので、お互いに顔も知らない。
映画監督志望の姉のベッカは、この旅をドキュメンタリーにしようとしていて、弟でラップが趣味のTダイヤモンド(笑)ことタイラーにもカメラを持たせて記録させている。
2人の前に現れた祖父母は、グラント・ウッドの「アメリカン・ゴシック」そっくりないで立ちで、出てきただけで怪しさ満点。
真夜中に全裸で壁を引っ掻き、床下を半ケツで這い回る婆ちゃん、猟銃を口にくわえ、汚物を漏らしたオムツを大量に納屋に隠す爺ちゃん。
夜な夜な繰り返される彼らの奇行に、姉弟は次第に不信感を募らせる。
面白いのは、祖父母のおかしな行動そのものは、単に高齢者ゆえの病気ということで、両親の離婚後は母子3人だけの超核家族に育ち、徘徊老人など知らない姉弟だからこその誤解なのだ。
祖父母の抱える本当の秘密、恐怖の正体は、まあカンのいい人なら途中で読めるだろうが、たとえ分かったとしても作品の魅力をスポイルすることは無いだろう。
ホラー映画の恐怖の対象がヨボヨボの認知症っていうのは、「悪魔のいけにえ」のレザーフェイスの爺ちゃんなどがいるものの、メインキャラクターでは初めて観たかも(笑
シャマランの演出は、初期作品を思わせるとぼけたユーモアや、リードとミスリードを巧みに組み合わせたプロットのディテールに持ち味を発揮しつつ、ハッタリは控えめ。
主人公のベッカとタイラーそれぞれに、両親の離婚に纏わる心の傷を設定し、ささやかながらも成長物語としているあたり、展開としてはベタではあるが芸が細かい。
お姉ちゃんキャラのベッカの生真面目さも良いが、弟のラッパーTダイヤモンドのウザさはお見事で、これまた「サイン」繋がりのメル・ギブソン ネタには大笑いさせてもらった。
流行り過ぎて食傷ぎみのPOV手法も、最初こそ「シャマランよ、お前もか」と思ったものの、コレはいわゆるファウンドフッテージものではなく、あくまでもベッカが作った“作品”である点が、シャマランらしく、新しい。
途中でキチンとした編集がなされているのも、これなら納得がゆく。
元々シャマランはB級のジャンル映画を、いかにも高尚な雰囲気でA級っぽく撮る事に長けた人。
今時のB級映画の典型であるPOVに目を付け、POV的で無いものを生み出したのは必然なのかも知れない。
突っ込みどころも含めて、色々語り合いたくなる良いシャマラン映画だ。
今回は夜がコワイ話なので、「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。
作者がカクテルアワードに応募する前に、悪夢を見て作ったカクテルなだそうな。
ドライ・ジン、カンパリ、パイナップル・ジュース各30mlにオレンジ・ビターズ2dashをグラスに注ぎ、ステアする。
ジンにカンパリがメインなので、かなり辛口の大人なアペリティフ。

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イギリス発、異色の刑務所映画。
暴力衝動を抑えられない少年が、移送された刑務所で心理セラピストや偶然同じ刑務所に収監されていた生き別れの父と出会い、少しずつ変わってゆく。
だが暴力という言語しか知らない彼の問題行動は、すでにあまりにも多くの憎しみを作り出してしまっており、やがて負の連鎖が彼を襲う。
閉鎖空間で展開する濃密な人間ドラマに、全く目が離せない。
監督・脚本は「パーフェクト・センス」や「猟人日記」などで知られる、デヴィッド・マッケンジー。
正直、今までのフィルモグラフィーで素晴らしいと思った作品はないのだが、これはダントツの出来栄えだ。
収容されていた少年院で、幾つものトラブルを引き起こしたエリック・ラブ(ジャック・オコンネル)は、成人用の刑務所に移送される。
自分以外は誰も信じようとしないエリックは、ここでも早速隣の房の囚人に暴力をふるってしまい懲罰房送りに。
ボランティアで囚人たちの心のケアをしている心理セラピストのオリバー・バウマー(ルパート・フレンド)は、感情を制御できないエリックを自分のグループセラピーに参加させようとするが、エリックの狂暴性を目の当たりにした刑務所の上層部は彼を更生させることに懐疑的。
とにかく手当り次第に敵を作り出すエリックだが、囚人たちの中にそんな彼を心配げに見つめる男がいた・・・・
数あるジャンル映画の中で傑作の多いカテゴリといえば、先ず思い浮かぶのは潜水艦映画だが、同様に外れが少ないのがいわゆる刑務所ものである。
理由は潜水艦と同じように、外部から隔絶した環境ゆえに、登場人物同士が物理的、心理的に近くなり、葛藤を深く掘り下げやすく濃密なドラマに繋げられるからだろう。
「ショーシャンクの空に」「ミッドナイト・エクスプレス」「父の祈りを」など、数々の傑作の隊列に、本作も加わった。
原題は「Starred Up」という聞きなれない言葉。
私も知らなかったが、調べてみるとイギリスの刑務所で使われている用語で、凶悪な少年犯罪者が、少年院から大人の刑務所に“昇格”する事を意味するという。
映画は、このタイトル通り札付きのワルである19歳のエリック・ラブが、少年院から刑務所に移送されてくるところから始まる。
彼は独房に入れられるやいなや、持ち込んだ私物や房の備品を使って、喧嘩用の武器を作り始める。
信じられるのは自分だけ、この世界は敵だらけ。
更に映画は、エリックのエキセントリックなキャラクターをこれでもかというくらい描く。
たまたま彼が寝ている時に房に入ってしまった隣の房の囚人は、野生の嗅覚で目覚めたエリックに反射的にボコボコにされる。
取り押さえようとする看守たちに両手を拘束されると、なんと口で看守の局部に噛みつき悶絶させる。
いかに彼の人生が暴力に満ちていたか、いかに荒んだ生活を送ってきたかを端的に描写し、観客を一気に殺伐とした刑務所の中へと引き込む。
物語はほぼ全編刑務所内で進行するが、この世界観の作り込みが面白い。
現代のイギリスの刑務所には、どうやらアメリカ映画に出てくるような囚人たちが一堂に会するような食堂が無いらしい。
配膳所で食事を受け取ると、それぞれの房に戻って食事をとる。
だからアメリカ映画あるあるの、食堂で派閥を作ったり、乱闘したりするシチュエーションは無い。
その代わり食事時間には区画内は移動可能で、互いの房を訪ねたり、一定の商取引みたいなことも行われていて、人によっては房にテレビがあったりお菓子があったり、わりと自由な雰囲気なのが印象的。
また彼らの世界には独自のヒエラルキーがあるらしく、どうやら上階に住む囚人の方が立場も上で、看守たちともつるんだ牢名主の様な男たちが君臨している。
その中の一人、どうやら囚人たちのNo.2の立場にあるのが、エリックの父のネビルなのである。
ベン・メンデルソーンがいぶし銀の好演を見せるこの人物は、エリックが幼い頃に殺人を犯し、終身刑に服している。
ずっと生き別れだった息子と図らずも再会することになるのだが、そもそも共に過ごしたことが殆どないので、父親としてどう接して良いのか分からない。
だがネビルは、刑務所には刑務所なりの社会と不文律があり、跳ねっ返りで怖いもの知らずの若者が、囚人と看守双方から疎まれることを知っている。
このままではエリックが囚人同士の揉めごとで殺されるか、手に負えないと判断した看守たちに、自殺に見せかけて吊るされかねないと危惧したネビルは、この社会での生きる術を叩き込み、なんとか息子を生きてシャバに戻そうとするのだ。
しかし、いきなり現れて父親面するネビルに、自分は捨てられた子という意識を強く持つエリックは、当然の如く反発。
愛される事を知らない息子と、愛し方を知らない父という、二人の“ラブ”は互いの葛藤を深めてゆく。
もう一人、エリックを助けようとするのが心理セラピストのオリバーなのだが、この人物は善良なのだけどかなり頼りなく造形されている。
そもそも彼は刑務所の職員ではなく、自分自身もトラウマを抱え、ある意味自らの心の傷に向き合うために、囚人たちとのセラピーをボランティアで行っているのだ。
嫌々ながらグループセラピーに参加する様になったエリックは、オリバーや参加している囚人たちに対して少しづつ心を開いてゆくのだが、これもまた途中でぶち壊しになり、エリックの“更生”は周りに理解されないまま。
そして彼に対する幾つもの負の連鎖が同時に動き出した時、遂に最悪の状況に追い込まれるのである。
本作は、閉鎖空間での1時間46分の中に、人間の怒りと閉塞に纏わる様々な要素が描かれているが、基本は父子ものだ。
映画の視点も最初は息子から始まり、終盤急速に父親にシフトし、二人の視点と運命が交錯する時点で終わる。
この親子はあまりにも似過ぎていて、ネビルにとっては自分自身のどうしようもなさを知るがゆえに、過去の自分の様な息子に向き合うことは、非常にもどかしいことなのだろう。
エリックは彼なりに刑務所の中で成長しているのだが、親の心子知らず、子の心親知らず。
それでも、殆ど初対面の様な親子であっても、お互いの根底の部分に切っても切れない絆を感る。
人間の負の部分が増幅される刑務所という地獄にあって、二人がお互いの中に本物の愛を見出し、“ラブ”という皮肉なファミリーネームに込められた意味が浮き彫りになるクライマックスは、実にスリリングでドラマチックだ。
音楽を排し、台詞も最小限ゆえに、様々な表情を見せる独房の窓や、刑務所の中と外を隔てる回転扉など、暗喩的映像表現にも工夫が凝らされている。
若くして犯罪者となったエリックの人生も、さらなる罪を犯したネビルの人生も、これからもっと厳しいものになるだろうが、少なくとも彼らは“家族”という心の拠り所を得た。
たとえ塀によって隔てられていても、愛する者のいる人生は、きっと生きるに値する。
今回は、イギリスのいぶし銀のオヤジたちの様な「オールド トム」をチョイス。
170年前に創業して以来、代々ロビンソン家が守ってきた歴史あるビールで、濃密で複雑な味わいを持つ大人のストロングエールだ。
アルコール度数も8.5°と高く、グイグイ飲むというよりは、じっくりと時間をかけて一杯を味わうビールである。

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![]() England beerイギリスビールオールドトム 330ml/12本ik |