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誰もいない部屋に響く、奇妙な“音”から始まるミステリアスな怪奇譚。
ホラー作家の「私」に女子大生の久保さんから、一通の手紙が届く。
彼女の住むマンションの部屋で、誰もいないのに物音がすると言うのだ。
好奇心にかられた「私」は久保さんに協力して調査を始めるのだが、やがて現象は怪異の連鎖となって急速な広がりを見せる。
原作は小野不由美の同名小説。
久保さんの設定など、脚色されている部分もあるが、基本的に原作に忠実な作りだ。
音によって事件が始まる映画だけあって、凝った音響演出が見もの、いや聞きどころなので、どうせなら音響の良い映画館で観たい。
※核心部分に触れています。
本作がユニークなのは、竹内結子が好演する語り部のホラー作家が、心霊現象を全然信じていないこと。
彼女の超ローテンションの語りが、逆に作品世界にリアリテイを与えていて不気味だ。
ただコワイことはコワイが、ストーリーを進めるエネルギーは心霊現象そのものより、時空を遡って現象が起こる根源の理由を探す謎解きへの興味。
「リング」などにも似た要素があったが、本作は竹内探偵と橋本愛演じる依頼人の久保さんの関係性も含め、ホラーというよりミステリ色が強いのが特徴だ。
お化けも呪いも信じないけど、火のないところに煙は立たず。
現象の元となる“事件”には興味をそそられる「私」は、久保さんとの調査で、同じ部屋の元住人が転出先で自殺しており、全く別の部屋の住人も過去に奇妙な音がすると訴えていた事実を知る。
なぜマンションに住んでいる時でなく、後から不幸に見舞われたのか。
彼らはいったい何に憑かれたのか。
もしもマンション全体が曰く付きだとすると、原因は部屋でなく土地自体のはず。
そこで過去の地権者を調べ、そこで起こった忌まわしい事件を知ると、さらにその原因を調べて時代を遡り、別の土地の事件へ。
同業者の作家や心霊マニアの青年など、途中から調査に加わる探偵役の数も増え、マンションの一室という小さな枝葉から始まった物語は、やがて複雑に枝分かれした巨木の姿を浮かび上がらせてゆく。
そして露わになるのは、日本人の心に深く根を張る“穢れ”の概念だ。
例えば「呪怨」の様に、ある家の怨霊に関わったら問答無用で死んじゃうのでは無く、ある種のウィルスの様に、一つの穢れが時間と共に人間を介して拡散して行くという展開は新しい。
いわゆる霊感がある人とない人がいるように、久保さんの様に自分が穢れに触れている事に気づく人と、気づかない人がいて、穢れがその人にどう作用するかも千差万別なのもリアリテイに繋がっている。
恐怖は、穢れを生み媒介する人間が作り出すのである。
本作を観ると、別に心霊現象は起こってないけど、自分の家の過去を知りたくなってしまう。
新たに埋め立てられた土地でもない限り、マンションでも戸建てでも、日本中ほとんどの家が悠久の歴史ある土地に建っている。
そこでは当然沢山の人が暮らして来たはずで、忘れられた穢れもあるだろう。
因みに私が今住んでいるところは、明治時代には煉瓦を焼く工場で、江戸まで遡ると小さな武家屋敷があったらしい。
いったいどんな人たちが暮らしていたのか、ちょっと気になる。
今回は全量純米で知られる、神亀酒造の「神亀 ひこ孫」をチョイス。
世界的に酒は信仰と密接な関係があるが、日本酒も神社の御神酒としても使われるように清めの力を持つ。
ひこ孫は熟成酒ならではの濃厚なまろやかさが魅力で、冷やでももちろん美味しいが、この季節には燗がおすすめ。
やわらかなお米の香りがふわりと広がり、鍋物と一緒にいただくと至福の時を味わえる。

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オーストリア発の、ウェルメイドなサイコホラー。
周囲を森と畑、小さな湖に囲まれた片田舎の別荘に、9歳の双子の男の子・エリアスとルーカスが暮らしている。
彼らは、顔にできた悪性のホクロを取って美容整形の手術を受けるために、病院へと行っているママの帰りを待っているのだ。
ところが帰ってきたママは、顔全体が包帯でぐるぐる巻きになっており、性格までも冷たく豹変していた。
双子は、何者がママと入れ替わっているのではと疑い、正体を探るべく行動をはじめる。
※核心部分に触れています。
ある日突然、家族が別人のようになってしまうという作品の枠組みは、映画や小説を問わず、数々のホラー・SFで描かれてきたありがちなモチーフ。
往々にして、どこかの星から来た侵略者に中身が入れ替わっているのだけど、本作はその手の作品への観客の思い込みを逆手にとり、意外な方向へと舵を切る。
映画のあちこちに仕掛けられた、違和感の演出。
エリアスのコップにジュースを注ぐママは、なぜかルーカスにはコップを与えない。
ルーカスがエリアスに耳打ちすると、その言葉をエリアスが改めて人に伝える。
エリアスが人と接触していると、しばしばルーカスの姿が消える。
そう、実はルーカスは現実には存在していない。
なんらかの事故ですでに亡くなっており、彼の死を自分のせいだと思い込んだエリアスの心が作り出した虚像、あるいは幽霊的存在なのである。
以前のママは、エリアスの心の傷を気遣い、ルーカスがいるものとして振舞っていたのだが、手術で家を離れたのをきっかけに、このままではいけないと、エリアスにルーカスの死を受け入れさせようとしていたのだ。
しかしルーカスに負い目のあるエリアスは、彼の存在を否定するママが許せず、偽のママだと思い込むのである。
当初恐怖の対象と思わせたママは正常で、壊れているのは子どもの方。
まあこの仕掛け自体は集中して観ていれば簡単に分かるので、ネタばらし早すぎでは?と一瞬思うが、この映画がやりたいのは謎解きをウリにしたミステリではない。
薬で眠り込んだママの体の自由を奪ったエリアスと彼の心の中のルーカスは、ホンモノのママを取り戻すために、ニセモノに凄惨な拷問を加え始めるのである。
悲しいのは、ママもママを傷付けるエリアスの気持ちも、どちらも愛ゆえという事である。
子を想う母の愛という、この世で最も尊い感情が、母を慕う子の愛という、もう一つの尊い気持ちが作り出す誤解によって、無残にも拒絶されると言う悲劇。
セベリン・フィアラと共に監督・脚本を兼ねるベロニカ・フランツは、ウルリヒ・ザイドルの脚本家兼奥さんだとか(ザイドルは本作にも製作で参加している)。
なるほど、彼女が執筆した「パラダイス三部作」も、女性的なるものに対して全く容赦がなかった。
このエグさにも納得である。
作品の出来は素晴らしいが、ぶっちゃけ報われない感はミヒャエル・ハネケ並。
もしも小さい子を持つ親が観たら、トラウマ化は確実だ。
一応、最後にJ・A・バヨナの「永遠のこどもたち」やデル・トロの「パンズ・ラビリンス」を思わせるオチが付いているのだが、本作の場合は全然救われた気がしないのはどうしてか(笑
私もたぶん、二度観る勇気は無いかもしれない。
今回は天使の名を持つカクテル、「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、アプリコット・ブランデー15ml、カルバドス15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
フルーツの甘い香りと柔らかな味わいが特徴的なスタンダードなカクテルだが、強めの蒸留酒ばかりをミックスした一杯で、当然ながら度数は非常に高い。
天使の様な顔をしていながら、その裏には悪魔が潜んでいるのだ。

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アウシュビィッツ収容所の解放から70年目の昨年、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したハンガリーの作品である。
主人公のサウルは、囚人の中から選抜され、数か月間生かされる代わりに、収容所の労役を担う“ゾンダーコマンド”の一人。
ユダヤ人でありながら、同胞の虐殺の加担者となった彼は、ある日息子とおぼしき少年の死体を見つけ、何とか正式に埋葬したいと奔走する。
過去に作られたどんなホロコースト映画とも異なる、独自の視点を持つ大力作だ。
この世の地獄へ堕とされた者たちの極限の一日を描く、驚くべき作品を作り上げたのは、巨匠タル・ベーラの助監督をしていた若干38歳の俊英、ネメッシュ・ラースロー。
自身もユダヤ系のハンガリー人であり、祖父母は絶滅収容所のガス室で命を落としたという。
長編初監督でこれほどの逸品をものにするとは、恐るべき才能である。
※ラストに触れています。
1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。
移送されてくるユダヤ人たちは、次から次へとガス室に送り込まれ、あっけなく命を奪われる。
ユダヤ系ハンガリー人で、ゾンダーコマンドとして働くサウルは、ガス室で生き残った少年が、ナチスの医官の手で殺されるのを目撃する。
少年を自分の息子だと確信したサウルは、せめてユダヤ教の教義にのっとった正式の埋葬をしようと、儀式を執り行えるラビを探し回るが、皆自分の事で手一杯で協力しようとする者は皆無。
一方、密かに蜂起の準備を進めていた他のゾンダーコマンドたちは、遂に自分たちが殺される番が来たことを知らされ、戦うことを決意する。
なんとかラビを名乗る男を見つけたサウルは、ゾンダ―コマンドとSSの戦闘が始まるなか、少年の死体を運び出して埋葬しようとするのだが・・・・
アウシュビィッツとは複数の収容所の総称であり、本作の舞台となるのは主にユダヤ人が送られた第二収容所ビルケナウ。
物語の背景となっているのは、この収容所で1944年10月7日に起きた、ゾンダーコマンドによる武装蜂起である。
収容所はナチスのSSによって運営されていたが、膨大な数の囚人に対して圧倒的な人手不足で、“仕事”の多くは囚人から選抜されたゾンダーコマンドが担っていた様だ。
もっとも彼らにしても、死刑執行の日どりが伸ばされているだけで、いつかは自分たちも殺されることはわかっている。
だから倉庫から少しづつ武器を盗み、収容所内にネットワークを作りあげ、秘密裏に蜂起の準備をしていて、遂に自分たちが殺される番が来たことを知ると、戦いを決意するのだ。
本作の主人公であるサウルもゾンダーコマンドの一員だが、彼自身は蜂起計画に深く関わってはいない。
それどころか、周りが戦いの準備を急ぐことに躍起になっているのに、“息子”の遺体を埋葬しようとラビ探しに奔走し、仲間から預かった大切な火薬まで無くしてしまう。
なぜサウルは、仲間たちの命がけの計画を危険にさらしてまで、正式な埋葬に拘るのか。
そもそも少年は、本当に彼の息子なのか。
長まわしのカメラは、終始サウルに張り付いたままだ。
アップを中心に構成された映像は彼の表情を追い続け、引いた画は殆ど無く、被写界深度の浅いスタンダードの狭い画面は、ビデオゲームのFPS視点に近い感覚。
主人公が見聞きしている以上の情報は一切遮断され、観客の意識は次第にサウルと同一化してゆく。
何の罪もない同胞を、無表情にガス室へと送り込み、閉ざされた扉から聞こえてくるのは人々の断末魔の阿鼻叫喚。
ガス室を空にしたら犠牲者の血反吐を拭い、死体を焼き、骨を砕いて灰にして川に捨てるという異常な日常。
観客は、サウルの味わう恐怖を肌で感じ、この世の地獄を共に体験するのである。
ゾンダーコマンドは、生きているけれど、近々死ぬことが決まっている。
つまりは生と死の縁にいて、どちらの世界にも属している境界の存在だ。
ユダヤ人を焼く炎に象徴される絶滅収容所の描写は、聖書でエルサレムの外に存在するとされた巨大なゴミの谷、ゲヘナを思わせる。
そこでは正式な埋葬がなされなかった囚人の死体を処理するために、常に煌々と火が燃やされていて、モレク神への供物として子供が生きたまま焼かれることもあったという。
炎の地獄に対して、水は浄化のイメージ。
蜂起の混乱の中、いつもは犠牲者の灰を流している川を越える事は、サウルにとって境界を越えるゲヘナからの脱出である。
“息子”の体は流れて行ってしまったが、対岸の森の小屋で目を合わせた少年に、再び“息子”の面影を見る。
しかし、彼にとって境界を越えて“息子”と再び出会うということは、日常への帰還を意味しない。
一度、地獄へ墜ちた者に、もはやその機会は永遠に訪れないのである。
この邂逅の瞬間、それまでの物語の中で少しずつ積み重なってきた小さな違和感が、くっきりとした輪郭を結ぶ。
おそらく、サウルの心はとっくに壊れてしまっている。
サウルに息子はいたのかも知れないし、いなかったのかも知れない。
だがロボットのように感情を殺し、同胞を“処理”しながら、自らの最期の日を待つ生活の中で、本来の彼の心は少しづつ死んでいったのだろう。
そして普段現実を隠してくれているガス室の扉の外側で、見ず知らずの少年の死の瞬間を目の当たりにしてしまった時、それまで抑えられてきた贖罪の意識が衝動となって噴出したのだと思う。
「サウルの息子」は独創的な作品で、似た映画は記憶にないが、作品の狙っているところは塚本晋也監督の「野火」が一番近いかもしれない。
テリングの手法は全く異なるものの、戦時下の極限状況を主人公の主観と一体となって体験するというコンセプトは同じだし、肉体よりも先に精神が崩壊してゆく点も共通している。
「野火」の主人公、田村一等兵は一度生と死の境界に迷い、肉体は戻ってくることが出来たが、心の中に巣喰う戦場の狂気からは決して逃れられない。
本作もまた狂人の目線を通して、この世の地獄を描いた物語であり、その狂気を生み出したのは人間の行いだ。
特殊なシチュエーションの父親の物語は、境界を越える事で人類の残酷な業へと普遍化され、死による魂の救済を迎えるのである。
このヘビーな映画を観ると、身も心も疲れ切る。
今回はハンガリーの伝統的な薬酒「ウニクム」をチョイス。
ウニクムとは英語のユニークと同義で、18世紀末に献上されたこの酒を初めて飲んだヨーゼフ二世国王が、こう感想を述べたことに由来すると言われる。
40種類以上のハーブを含むというその味わいは、ちょっと言葉では表現しにくい独特のもの。
漢方薬の様な香りがして、あえて言うならどことなく養命酒っぽい。
要するにお酒というよりも薬なのだけど、整腸作用がありこれを飲むと二日酔いにならない(気がする)。
冷やしてショットグラスでクイッと飲むと、体がぽかぽかしてくる。
ただし40度もあるので、飲み過ぎは逆効果。

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ペルーの山奥からロンドンへやって来た、言葉を喋るクマのパディントンが、安住の「家」を探して、居候先のブラウンさん一家と大騒動を巻き起こす。
半世紀以上にわたって愛されている、マイケル・ボンド原作の児童文学、「くまのパディントン」初の実写映画化である。
どこか「メリー・ポピンズ」を思わせる、とても暖かくて可笑しいブリティッシュファミリームービーだ。
主人公のパディントンはもちろんキュートだが、人間キャラもいい。
家族を愛するあまり石頭になってしまった父ヘンリーや、幼少期の心の傷からパディントンを狙うニコール・キッドマン演じる剥製師のミリセントなど、物語の背景にあるのは父性のキーワード。
そういえば、「ウォルト・ディズニーの約束」で描かれた様に、「メリー・ポピンズ」も本当は子供たちではなく、厳格すぎるお父さんを救いに来るのだった。
イギリスのオヤジたちは、伝統的にコチコチなのだろうか。
それにしてもキッドマンは悪役やる時、本当に楽しそう。
今作ではパディントンの居場所を探す物語と共に、彼をどうしても剥製にしたくてストーカーと化するミリセントととの攻防戦が描かれるのだが、何気にこれがキッドマンの元夫であるトム・クルーズの代表作、「ミッション・インポッシブル」シリーズのパロディになってるのは、イギリス流のちょいシニカルなジョークなのか(笑
いずれにしても、このパートが本作に華のある娯楽映画としての「面白さ」を付与している。
しかし、この作品が単なるキッズ映画の枠を超えて秀逸なのは、異文化との出会いと葛藤を、とても客観的に分かりやすく描いている事だ。
イギリスには、本来クマはいない。
これはペルーの故郷を災害で失ったパディントンが、安住の地を求めてイギリスにやって来て、カルチャーギャップを体験する話であり、主人公をある種の難民ととらえると、すごくタイムリー。
本国公開は2014年の11月なので、制作時期を考えれば偶然なのだろうけど、中東の争乱によるヨーロッパへの難民急増に合わせたようなテーマである。
不慣れな暮らしに失敗を繰り返すパディントンを、好きな人間も嫌いな人間も出てくるが、それぞれの感情にはちゃんと理由があり、パディントンもまた上手くいかなくても紳士的に、正しい行動をしようと努力する。
ここには異文化の衝突による葛藤と、その解消が描かれており、「他人の家」にやって来る難民も、彼らを受け入れる方も、いかに考え、ふるまうべきなのか、示唆するところの多い作品だ。
ブラウンさんの家の吹き抜けの壁画を、家族の心象のアニメーションにするなど、工夫が凝らされたビジュアルセンスも光る。
小さな子供にも安心して見せられ、大人は童心に帰って楽しめる秀作だ。
しかし日本公開まで1年以上の時差は、さすがに待ちくたびれた。
2017年の公開がアナウンスされている続編は、もうちょっと早く見せて欲しい。
今回は、主人公の名前と一字違い、マンチェスターの「ボディントン・パブ・エール」をチョイス。
綺麗なアンバー色にクリーミーな泡が特徴の、典型的なイングリッシュペールエール。
比較的ライトな味わいで、喉越しもスムーズ。
この種のペールエールの中では、かなり飲みやすさに振ったつくり。
パディントンもそのうちイギリスの飲んべえ文化に染まるのだろうか。

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第一次大戦中のオスマン・トルコ帝国による、アルメニア人のジェノサイドをモチーフとした、壮大な映像叙事詩。
声を失いながらも、この世の地獄を生き残った主人公は、何処かへと消えた家族を探して、いつ果てるとも知れない苦難の旅に出る。
監督はトルコ系ドイツ人のファティ・アキンで、彼の「愛より強く」「そして、私たちは愛に帰る」に続く「愛、死、悪に関する三部作」の最終章。
なるほど、ここにあるのは人間の愛と死と悪が作り出す罪を巡る、根源的な葛藤である。
アルメニア人のジェノサイドに関しては、トルコではいまだに否定論が根強く残っているそうで、アキン監督としては自らの祖先の国の闇に挑むパワフルな力作となった。
オスマン帝国のマルディンに住むアルメニア人のナザレット(タハール・ラキム)は、腕の良い鍛冶屋として妻と双子の娘と共に慎ましくも幸せに暮らしていた。
だが1915年のある日、突然現れた憲兵隊によって家族から引き離され、街の男たちと共に連行される。
灼熱の砂漠での過酷な強制労働のさなか、ナザレットは大勢のアルメニア人が何処かへと行進させられるのを目撃する。
次々と仲間たちが殺される中、声を失いながらも虐殺を生き残ったナザレットは、すでに家族が亡くなっていた事を知ると、神の無慈悲に怒り、信仰を捨てるのだった。
その後、アッレポの石鹸工場に身を寄せるが、同郷の者に双子の娘が生存している可能性を告げられ、彼女らを探す旅に出る。
だがそれは、シリアの砂漠から大西洋へ、遂には新大陸の荒野へと続く、長い、長い道程の始まりだった・・・・
オスマン帝国内の、キリスト教系少数民族であるアルメニア人は、歴史的に迫害の対象となってきた。
第一次世界大戦下、ドイツ・オーストリア=ハンガリーの同盟側についたオスマン帝国は、彼らが敵に寝返る事を恐れ、アナトリアからシリアの砂漠地帯の収容所へと徒歩で強制移住させる。
過酷な「死の行進」を生き抜いても、今度は収容所で飢餓が襲う。
また兵士となりうる男性たちは、居住地からまとめて連行して殺害し、犠牲者の総数は数十万から百万ともといわれる。
本作の主人公ナザレットは、このジェノサイドを奇跡的に生き残り、行方不明となった双子の娘を探して、9年にも及ぶ旅に出るのである。
邦題の「消えた声が、その名を呼ぶ」の「その名」が意味するのは誰か。
思うにこれは、ナザレットの行方不明となった娘たち、そして神のダブルミーニングだろう。
物語の始まりの時点で、キリストが生まれた街の名を持つ主人公は、敬虔な信徒として描かれ、オスマン帝国によるイスラム教への改宗の誘いも毅然として拒否する。
だが、神は異教徒の脅威からアルメニア人を救わず、ナザレットの愛する人々はことごとく殺され、彼自身も傷を負い、声が出せなくなる。
もはや彼は、神に呪いの言葉を吐くことも出来ないのだ。
この世の無情を目の当たりして、神を拒絶したナザレットにとって、娘たちが生きているという可能性を信じて地球を半周する道程は、世界は生きるに値するか、神は存在するのかを改めて問う旅でもある。
映画はリアリティを重視しつつも寓話的要素が強く、ナザレットが鍛冶屋であったという設定もまた宗教的な暗喩だろう。
旧約聖書に登場するアダムとイブの子、カインとアベルは、失楽園の後に生まれた初めから原罪を抱えた最初の人間だ。
やがてカインはアベルを殺し、人類最初の殺人と嘘によって罪を重ね、ノドの地へと追放される。
ヘブライ語でカインとは「鍛冶屋」の意味を持ち、更にカインの七代目の子孫であるトバルカインは鍛冶職の祖とされている。
鍛冶屋とは、火から鉄を作り出す者たち、即ち人類の文明そのもの。
本作の作り手が、ナザレットの葛藤にカイン以来の人間の罪の歴史を重ねている事は明らかだ。
もともと罪深い存在なのに、自ら起こした戦争という究極の罪によって、お互いに殺し合う人間を、はたして神は救うだろうか?救われるに値するだろうか?
ナザレットは声を出せないので、観客に伝わるのは行いのみ。
家族を愛しながら、他人から盗み、神を呪う彼自身がそうであるように、全ての人間には二面性がある。
虐殺する者がいる反面、助ける者もいるように、憎しみと赦し、喜びと哀しみ、醜さと尊さは全て同じ人間という存在の裏表。
そして、ナザレットの娘が「双子」であることの意味。
絶望があるから希望が生まれ、希望があるから絶望を恐れる。
神は沈黙したままでも、世界は常にバランスしていて、それを崩すのは神ではなく人間だ。
遠大な旅の道程でナザレットが見たもの、体験したことの全てが腑に落ちるラストが見事。
この終盤部分は、共同脚本のマーディック・マーティンの手によるものだとか。
「レイジング・ブル」からはや36年、あまりにも長い間作品が無かったので、失礼ながらとっくに亡くなっていると思っていた。
なんでも彼は、アルメニア系米国人なのだそうな。
なるほど、トルコの迫害から逃れたアルメニア人の多くが、新天地をアメリカに求めた。
ナザレットの歩んだ道は、彼の以前にも以降にも、多くのアルメニア人が辿った運命の道なのだ。
旅の間に彼が訪れる街の名を示すテロップが、どことなくウェスタン風なのが印象的だが、はるか東方からやって来た荒野の放浪者の物語は、中東史から現代アメリカ史へと繋がっているのである。
旧約聖書の大洪水の後、現在のトルコ東部、アルメニア共和国との国境にそびえるアララト山の麓に漂着したノアは、そこに葡萄を植えてワインを造った。
つまり聖書によれば、アルメニアこそが世界の酒の故郷なのである。
今回はアルメニアのエレバンブランデー社が、白ワインを原料として作るブランデー「アララット アフタマール」をチョイス。
ラムに近い独特の香りがあり、味わいとしてはブランデーとワインの中間という感じ。
アルメニアブランデーと言えば、第二次世界大戦中のヤルタ会談時に、酒豪として知られるチャーチルがいたく気に入り、スターリンに年間数百本を送らせたという逸話が残っている。
酒に、歴史あり。

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スティーブン・スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演、コーエン兄弟が脚本と聞けば、映画ファンならこの面子だけでワクワクしてしまうだろう。
現代アメリカ映画界最高の才能たちが挑むのは、米ソ冷戦下の1957年から62年にかけて実際に起こった2つのスパイ事件と、その顛末を描く歴史秘話である。
保険訴訟の分野で、着実なキャリアを歩んできた弁護士のジェームズ・ドノヴァンは、ソ連のスパイとしてFBIに逮捕されたルドルフ・アベルの弁護を依頼される。
やがてその事件は、アメリカ軍偵察機がソ連によって撃墜された事件とリンクし、世界史の裏側で大きな波紋を広げてゆく。
時代の大きなうねりに翻弄されながら、それでも揺るぎ無き人々を描く、いかにもスピルバーグ好みのサスペンスフルで骨太のヒューマンドラマだ。
トム・ハンクスが良いのは当然だが、アベルを演じるマーク・ライランスの飄々とした演技が深く心に残る。
冷戦たけなわの1950年代末。
弁護士のジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)は、ある依頼を受ける。
それはソ連のスパイとして逮捕された、ルドルフ・アベル(マーク・ライランス)の裁判の弁護人。
アベルは、冷戦下のアメリカ人にとって“国家の敵”であり、彼の弁護を引き受ければ、ドノヴァン自身が社会から敵視されかねない。
しかし、アメリカに住む全ての人が憲法の下に平等であるという信念を持つドノヴァンは、様々な圧力に屈せず裁判を闘い、次第にアベルの信頼を得てゆく。
巧みな法廷戦術を駆使し、不可避と思われたアベルの死刑判決を覆す事に成功したドノヴァンにとって、更なる青天の霹靂が起こる。
アメリカ軍のU-2偵察機がソ連領空で撃墜された事件で、ソ連当局に逮捕されたパイロットのフランシス・ゲイリー・パワーズ(オースティン・ストウェル)の身柄を取り戻すために、アメリカはアベルとのスパイ交換を画策。
その交渉役として、ドノヴァンを指名したのだ。
だが、“壁”によって東西分断が進むベルリンに飛んだドノヴァンに、予期せぬ事態が告げられる・・・
スピルバーグとハンクスのコンビ作は今回で4回目。
最初の「プライベート・ライアン」から、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」「ターミナル」と名作が並ぶ。
本作を含めた4作品でハンクスが演じたキャラクターに共通するのは、信念の人であるということだろう。
敵地に取り残された1人の兵士を救うため、大きな葛藤を抱えながらも救助隊を率いる士官。
パイロットや医師に偽装する天才詐欺師を、執拗に追い続けるFBI捜査官に、祖国の内戦によってニューヨークのJFK空港の乗継ぎロビーから出られず、難民となってしまうくそ真面目な男。
そして本作のドノヴァンも、基本的に自分の心の中に譲れない一線を持っていて、そこからは決してぶれない。
この人は根っからの法律家で、彼の行動原理には常に遵法意識と法の下の平等がある。
そもそも彼がアベルの弁護士に選任されたのは、嘗てCIAの前身である海軍情報部OSSの顧問弁護士を務めていた経歴ゆえの様だが、だからといって原告である国に媚びる様な行動は一切しない。
アベルの持つ情報を聞き出したいCIAがドノヴァンに接触するシーンで、「弁護士の法的義務より国家の方が大事だろう?」と違法な協力を迫るエージェントに、彼はこう言い放つ。
「君の名はドイツ系だろ、僕はドノヴァンでアイルランド系だ。僕らを“アメリカ人”たらしめているのは合衆国憲法のみじゃないのか?だから僕は法を守る」
世界中から移民が集まって出来た新興の実験国家アメリカには、歴史的、民族的な拠り所がない。
マイノリティの集合体である国家と国民を定義する唯一の柱は、憲法を頂点とする法体系。
最高権力者たる大統領はその庇護者であり、現在のオバマ大統領を含む、歴代大統領の多くが弁護士資格を持つ法律家であることも、アメリカという国家の成り立ちと無関係ではないのだ。
だから愛国者であるドノヴァンは、アメリカの“法”に忠実に動く。
たとえ外国人だとしても、アメリカにいる限りはアメリカの法で守られる。
スパイは基本的に死刑だが、それは自分たちの共同体の安全をアメリカ人自らが外敵に売る裏切り行為だから。
だが、アベルはもともとアメリカ人ではない。
敵地へ潜入し国のために戦う「立派な兵士」であり、決して口を割らないのも当然の義務ゆえ、裏切り者として処刑してはならないとドノヴァンはいう。
実際、アベルはFBIなどの当局から「大佐」と呼ばれており、彼らはアベルを兵士と認識しているのだ。
しかしその様なロジカルな考え方は、ソ連への恐怖と憎しみを教え込まれた一般のアメリカ人の心理とはかけ離れたもので、裁判を有利に闘えば闘うほどに、ドノヴァン自身がアメリカにとっての裏切り者、売国奴として認識されてしまう。
冷戦とは、実際に銃弾のやり取りをしない心理的な戦争であり、当時の米ソは今の米中や米露関係などとは比べ物にならないくらいに、明確な“敵国”同士だったのである。
四面楚歌となって自分に危険が及んでもなお、決してスタンスを変えないドノヴァンを、アベルは「不屈の男」と呼び少しずつ心を開いてゆく。
立場は違えど、彼もまた自らの職責に命をかけており、2人の不屈の男は心の深い部分で共感している。
映画の前半は、アベルの裁判劇。
後半は、東ベルリンを舞台にしたソ連とアメリカのスパイ交換を巡る、丁々発止の交渉劇となる。
アベルを殺してしまえばそれで終わりだが、生かしておけばもし将来アメリカのスパイが同じ目にあった時の交渉カードとなる。
ドノヴァンが裁判長に論じた「可能性の未来」が現実化した事によって、彼は一介の民間人としては重すぎる責務を背負う事となってしまうのだ。
1960年5月1日、密かにソ連領空に侵入していたアメリカのスパイ機U-2が地対空ミサイルによって撃墜され、パイロットのフランシス・ゲイリー・パワーズが捕虜となり、禁固刑を言い渡される。
本作は基本的に地味な会話劇なのだが、この撃墜シーンだけはまるで「ゼロ・グラビティ」を思わせる凝りに凝った演出で、アクション映画監督スピルバーグの面目躍如。
だが、機体の爆破に失敗し囚われの身となったパワーズに、アメリカの世論は冷淡だ。
危険を承知でスパイをしているのだから、捕虜として生きながらえるなど許されない、愛国者なら捕まる前に死を選べ、という訳だ。
世論の支持もなく、本来存在しないはずのスパイの救出にアメリカ政府は動けない。
そこで民間人であり、アベルの信頼を得ているドノヴァンが、極秘裏に交渉役として送り込まれる。
しかも、ちょうどベルリンの壁が建設中という状況が、予期せぬ事態を招き寄せる。
東西ベルリンの分離直前、恋人に会いに東ベルリンに行ったアメリカ人留学生、フレデリック・プライヤーが東ドイツ当局によってスパイ容疑で逮捕されてしまう。
ソ連が管轄するパワーズと、東ドイツに囚われたプライヤーでは交渉相手が違う。
特にソ連占領下で、アメリカには国家承認すらされていない東ドイツは、なんとか自分たちを対等な交渉相手として認めさせようと、ソ連との同時交渉を拒否してくる。
ドノヴァンをサポートするCIAにとっては、ホンモノのスパイであり機密情報を握るパワーズとアベルの交換が最優先。
しかし、ドノヴァンは彼の信ずる法によって守られるべき、最も弱い立場のプライヤーを見捨てる事が出来ない。
ここからは疑心暗鬼の中、お互いに国家を背負った男たちの腹の探り合い。
それぞれのファーストプライオリティは何なのか、どこまで妥協できるのか。
ドノヴァンが見せる、三者誰もが受け入れられて損をしない、ギリギリのウィンウィンを狙う交渉術は、なるほどスパイ交換じゃなくても色々なシチュエーションで使えそう。
ソ連へと帰るアベルと、アメリカへと引き渡されるパワーズ、そして東西の架け橋として両者の間に立つドノヴァン。
3人の不屈の男の運命は、西ベルリンと東ドイツの間にかかるグリーニッケ橋の上で一瞬交錯し、再び別れてゆく。
雪の中の小さな歓喜は、非情な世界に生きるお互いの未来への憂慮と裏表。
ここだけでなく、ベルリンとニューヨークの鉄道からドノヴァンが目撃する光景など、東西に引き裂かれた世界の非対称の暗喩があちこちに仕掛けられている。
あるシーンの描写が、意味の反転した別のシーンに連続する、比較のモンタージュ的なシーンの繋ぎも面白い。
スパイのさらに裏方を描く地味な作品だが、コーエン兄弟の脚本は彼ららしい適度なユーモアを隠し味に手堅い仕上がりを見せ、スピルバーグはさすがの演出力で王道の娯楽映画として昇華する。
映画の完成度は圧倒的に高く、画面の隅々まで見応えたっぷりだ。
60年近く前の物語だが、現在の世界も当時とは違った形で引き裂かれたまま。
ドノヴァンの様に“架け橋”となりえる人材は、いつの時代にも求められているが、本作に描かれた様に、憎しみと不寛容に囚われた人々からは往々にして理解されない。
だからこそ、スピルバーグは「リンカーン」に続いて本作を作らねばならなかったのだろう。
信念の人による闘いと和解を描き続ける彼もまた、「不屈の男」なのである。
今回は激烈な交渉ごとの後で飲みたい、ジャーマンピルスナーの代表格「ヴァルシュタイナー ピルスナー」をチョイス。
日本のオクトーバーフェストでもお馴染み、本場ドイツでも最もポピュラーな銘柄だけあって、クセがなくて飲みやすい。
泡はきめ細かく口当たりが良く、喉越し爽やかでスッキリと澄んだ味わい。
ドイツ料理店で迷ったら、とりあえずコレというビールだが、和食にもとても合う。

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前評判どおり、センス・オブ・ワンダーに溢れた低予算ホラーの快作だ。
人から人へと感染する“それ”に捕まったら、確実に死ぬ。
逃れるには“それ”をセックスによって他人にうつすことだが、もしもうつした相手が“それ”を更なる第三者にうつす前に殺されれば、再び自分のところに戻ってきてしまう。
ホラー設定で展開するが、いわゆるスプラッター・ムービーとは異なる。
思春期の繊細な心理を、生と死のどちらに転ぶか分らない極限状況で描き出す、異色の心理スリラーだ。
主人公は、マイカ・モンローが好演する19歳のジェイ。
彼女は、付き合い始めた彼氏に謀られ“それ”をうつされてしまう。
一度でも感染すると“それ”の姿が見えるようになる。
ぱっと見は普通の人間だが、変幻自在で男にも女にも、若者にも年寄りの姿にもなる。
感染者に怪しまれず近づくために、家族や友人、時には感染者自身の姿で現れることも。
動きは鈍いが、真っ直ぐに感染者めがけて歩いて来て、捕まれば超常の力によって確実に殺される。
なんとも不思議な“それ”の正体に関しては、劇中でも一切の説明が無い。
非感染者の目には見えないものの、幽霊などとは違い壁をすり抜けたりは出来ないので、物理的に存在はしているようだ。
人の姿をしていながら人ではない何か、というあたりはジョン・マクティアナンの長編デビュー作「ノーマッズ」を思い出したが、こっちはひたすら歩いて追いかけてくるだけと、行動がとことん無機質なのでよけいに怖い。
全体に、現代の映画としてはスローテンポで、昔のジョン・カーペンターの映画みたいな良い意味で安っぽい電子音楽も含め、どことなく80’sっぽい雰囲気もある。
不気味な音楽と共に、主人公の周りでカメラを複数回360度パンさせる演出が印象的で、最初は特に何も変なものは映ってないと思わせておいて、2回転目になると奥の方からこっちに向かって真っ直ぐに歩いてくる“何か”がいる事に気がつくというわけ。
はたして“それ”なのか、ただの通行人なのか、日常的な風景の中を誰かが歩いてくるだけなのに、ハラハラドキドキが止まらない。
物語の舞台となるのが、財政破綻し漫然と死にゆくデトロイトなのも、メタファーとして上手い効果を生んでいる。
ごく普通の平和な住宅地のすぐ近くに、もはや住む者のいない荒れ果てた廃墟の街が広がっている二面性が、生命力が漲り恋に敏感な年頃に、生の象徴たるセックスが死をもたらすという皮肉な状況を裏打ちする。
生と死が同じカードの裏表であるように、日常と非日常、目に見える世界と見えない世界との境界もまた、ほんの僅かの差異に過ぎないのかも。
図らずも境界を越えてしまったジェイと、彼女に恋するポール。
死への恐怖と生への渇望、過去への後悔と未来への不安、全てを含んで余韻を残すオチも見事だ。
超常のシチュエーションに陥った若者たちの心理的青春ドラマという点では、ホラー版の「クロニクル」と言えるかも知れない。
ジャンル映画でも青春ものとして優れた作品はキャストの印象が強く残るが、本作のマイカ・モンローやキーア・ギルクリストは、あの映画のディーン・デハーンやマイケル・B・ジョーダンの様にブレイクしそうな気がする。
グロい描写は殆どないので、ホラー耐性の弱い人でもたぶん大丈夫。
制作・監督・脚本を兼ねるデヴィッド・ロバート・ミッチェルの名前は、覚えておくべきだろう。
今回は甘酸っぱい体験が、苦い味わいとなるという事で「ビター・オレンジ」をチョイス。
タンブラーにビールとオレンジ・ジュースを1:1で注ぎ、ささっとステアして完成。
使用するビールに決まりはないが、個人的にはホップ感の強いIPAなどの方が好み。
オレンジの酸味と甘味に負けないくらいに個性のあるビールが合うと思うが、いろいろ組み合わせてみるのも楽しい。

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舞台はアフリカ北西部に位置する、マリ共和国のティンブクトゥ。
砂漠の民トゥアレグ族が暮らし、世界遺産でもある独特の街並みで世界的に知られる古都だ。
悠久の歴史を持つ街に、マリからの分離独立を目指すイスラム過激派のアンサール・ディーンがやって来たのは、2012年の初めのこと。
本作では、過激派に支配された街の日常と、郊外の砂漠に暮らす牛飼いの一家に訪れる悲劇が並行に描かれる。
根拠の良く分らない命令によって、音楽もスポーツも禁止され、結婚相手すら過激派が思いのままに勝手に決める。
モスクで静かに神と対話する本当のイスラム賢者の言葉は無視され、市井の弱き人々は抵抗する術を持たない。
魚売りの女性は手袋をしろと強要され、民族の歌を歌った者は何十回も鞭打たれ、姦通をした若いカップルは残酷な石打ちで処刑される。
街は過激派と、彼らが持込んだ不寛容によって陰鬱に支配されている。
ユニークなのは、支配される人々同様に、支配する側もステロタイプに陥ることなく、多面的に描いていることだ。
ジハードの理想に燃えているものもいれば、なぜ過激派のメンバーなのかわからない気弱なものもいる。
マリ人もいれば、リビアなどから流入してきた外国人もいる。
アラブ人のアラビア語とトゥアレグ族のタマシェク語、さらに英語と使われる言語もバラバラだ。
この多面性の描写が、余計に状況の理不尽さを際立たせる。
住民にサッカーを禁止しながら、自らはヨーロッパサッカーについて激論を交わしていたり、こっそりとタバコをすっていたり、夫のある女性に密かに横恋慕していたり。
そもそも過激派のメンバーたち自身も、なぜこんな中学校の校則みたいなばかばかしい命令を強要しているのか、本質的な部分では理解していないのである。
一方、街から離れた砂漠で、妻と一人娘と共に慎ましくも幸せに暮らしていた牛飼いは、水場を巡る小さないざこざから漁師の男を殺めてしまい、過激派の宗教裁判所でシャーリアによって裁かれることに。
本作に明確な主人公はいないが、この牛飼いの一家のエピソードだけは、街のシークエンスとは作劇的な意図をもって明確に分けられている。
過激派の支配も、もともと砂漠に孤立して暮らす牛飼いの生活にはあまり影響していない。
牛飼い自身は敬虔なイスラム教徒だが、事件そのものに宗教性はなく、彼自身の不寛容による衝動的な怒りが引き起こしたものだ。
要するに、不寛容は宗教が原因ではなく、あくまでも一人ひとりの人間が自らの内に抱えているものなのである。
嘗てD・W・グリフィスは、歴史的な名作「イントレランス」で、時代も場所も状況も異なる4つのエピソードを通して、いつの世にも人間の中にある不寛容を描いた。
本作の舞台であるティンブクトゥで展開するのも、幾つもの不寛容が作り出す抑圧と暴力による負の連鎖であり、いわば99年後にアブデラマン・シサコによって作られた5つ目のエピソードと言えるかもしれない。
明確な主人公を置かずに、幾つものエピソードを細かく繋いでいる作劇も、誰の中にも不寛容はあり、それは武器という力によってしばしば顕在化する、ということをより強調する狙いによるものだろう。
冒頭、草原を逃げるガゼルの子を過激派が車で追い回し、「殺すな、疲れさせろ」と言う台詞が象徴的だ。
不寛容が作り出す恐怖によって、人は次第に疲弊してゆく。
そしていつだって争いの犠牲になるのは、一番弱く幼いものたちなのである。
奇しくも日本では同時期公開の「独裁者と小さな孫」とは、現在の世界の縮図という点で重なる部分があるが、一番違うのは架空の国を舞台とし、寓話的な「許し」に一筋の希望を見せたマフマルバフと違い、シサコは最後まで現実的なままということか。
この映画に、リリアン・ギッシュ演じるマリアはいないのである。
「イントレランス」でゆりかごの中の人類を見つめているマリアは、寛容の象徴とされる。
今回はより寛容な世界への願いを込めて「スイート・マリア」をチョイス。
ウォッカ30mlと杏のリキュール、ディサローノ・アマレット15ml、生クリーム15mlをよくシェイクして、グラスに注ぐ。
ドライなウォッカを杏の甘味がまろやかにし、生クリームの優しい口あたりが纏め上げる。
よき夢を見られるよう、ナイトキャップにオススメ。

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