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2008年に起こり、アメリカのみならず世界経済を揺るがせた、リーマンショックの起爆剤となったのが、アメリカのサブプライム住宅ローン問題。
これはメディアが報じる“言葉”ではなく、その“現場”で実際に何が起こっているのかを描いた意欲作だ。
アンドリュー・ガーフィールド演じる主人公ナッシュは、ローンが焦付き家を立ち退かされるも、ひょんなことから自分を追い出した不動産転売屋にスカウトされる。
そこで彼が見るのは、愛する我が家を巡る庶民の希望と絶望のドラマの裏側で展開する、熾烈なマネーゲームだ。
リーマンショクによって浮かび上がった住宅ローン問題を通して、弱肉強食、1%が99%を喰うアメリカン資本主義の正体が浮かび上るというワケである。
監督・脚本のラミン・バーラニは、周到なリサーチによって、無情な現実をリアリテイたっぷりに描き出す。
バーラニがイラン系米国人だからか、日本でもお馴染みのアミール・ナデリが共同脚本として参加している。
フロリダの住宅地で、日雇いの大工として働くデニス・ナッシュ(アンドリュー・ガーフィールド)は、幼い息子のコナー(ノア・ロマックス)と母親のリン(ローラ・ダーン)との3人家族。
ところが不況で仕事は少なく、住宅ローンの支払いが滞った事で、家を立ち退かされてしまう。
家財道具は道端に積み上げられ、必要最低限のものを持ち出すのに精一杯。
たどり着いた安モーテルは、ナッシュと同じ様な経緯で家を失った人たちで溢れていた。
翌日、立ち退きの際に作業員に工具を盗まれた事に気付いたナッシュは、執行したカーバー不動産に抗議に行くが、機転が利くのを社長のリック・カーバー(マイケル・シャノン)に見込まれ、彼の助手をする事になる。
見た事もないような大金が、思いもよらなかった方法で簡単に手に入る。
だがそれは、自分と同じ様に家を追い出された人たちを、食い物にする汚れ仕事。
母や息子に本当の事が言えないまま、ナッシュは次第に不動産ビジネスの闇にはまり込んでゆく・・・
不況で仕事がなく、住宅ローンが返せなくなる。
裁判所に猶予を訴えるも、たった1分の審理で却下。
するとある日突然、保安官が家のドアを叩く。
裁判所命令で、立ち退きの強制執行をすると言うのだ。
まだ裁判中だから、手続きの間違いだからと言っても聞き入れられず、抵抗すれば逮捕される。
現金や思い出の品など、貴重品を持ち出すのに与えられた時間はわずか2分。
残りの家財道具は外に運び出され、24時間以内に引き取らないと廃棄されてしまう。
積み重ねてきた人生が、一瞬で破壊されるショッキングな描写だ。
そもそもサブプライム住宅ローンとは、信用の高い人向けの普通のローン(プライムローン)の審査に通らないような、低所得者や取引実績のない人向けのローン。
利息は当初は低く設定されていて、数年後から急激に高くなるものが多い。
2000年代初頭、右肩上がりで高騰する不動産価格を背景に、銀行はかなりあまい審査で既に借金漬けの人や、雇用が不安定な人にまで貸し付けた。
借り手の多くは利息が上がる前に家を売り抜けるか、ローンを借り換えようと目論み、貸し手も担保の家を売れば最悪金は戻ると考えていたわけだが、全ては不動産価格が上がり続ける事を前提としていたので、住宅市場のバブル崩壊によって双方の思惑は外れてしまう。
ローンを返せず家は取られ、家を売っても貸した金よりも安くしか売れない。
証券化されていたサブプライムローンは、巨額の不良債権となって銀行や証券会社にのしかかる。
この負の連鎖によって、経営破綻したのが投資銀行のリーマン・ブラザーズであり、同時期に多くの金融機関が危機に陥った。
そこで影響を食い止めるために、公的資金が投入されるのだが、この急ごしらえのシステムの抜け穴を狙い、あの手この手で金を集めるのが本作に描かれる不動産転売屋だ。
誰かの危機は、他の誰かにとってはチャンス。
ローンが破綻すると、担保物権は銀行に差し押さえられ、住民は立ち退かされるが、家の管理や転売は民間の不動産業者が担う。
そこで例えば、そのままでは売れないように差し押さえた家の設備をわざと壊し、付加価値を上げるための修繕費を引き出す。
一軒あたりの利益はわずかでも、まとまった数になれば儲けは大きい。
だから、立ち退かせる家は多ければ多いほどいい。
10軒は100軒となり、やがて1000軒となる。
こうしてナッシュは、嘗ての自分と同じ様な境遇の人々を次々と追い出し、良心の呵責に耐えながらも大金を稼いでゆくが、まさか自分たちを追い出した連中の片棒を担いでいるとは、誰にも打ち明けられない。
金を稼ぐ目的も、最初は奪われた家を買い戻すというささやかな願いだったのが、次第に目的は欲望によって塗りつぶされてゆく。
しかし全てを知った家族がナッシュの元を去り、自分の行為によって大きな悲劇が起こるのを目の当たりにした時、彼はようやく生きるべき道を取り戻すのである。
しかし、これは観客によって異なってくるだろうが、私は本作を観ながら感情移入の対象が非情に成りきれないナッシュから、次第に彼に錬金術を教え込む悪徳不動産転売屋のボス、カーバーに移ってゆくのを感じた。
法律ギリギリ、債務者も債権者も骨の髄までしゃぶり尽くす転売屋の世界。
マイケル・シャノンが好演するカーバーは、まあ悪役と言えば悪役なのだけど、成功至上主義が徹底し小気味よいほど。
家族を愛しながらも、悪びれず若い愛人の家に出入りし、追い出した人たちに恨まれるのは当たり前だからと、常に拳銃を携帯している。
彼はこの世界の仕組みを理解し、自分がやっている事をしっかり認識した上で、何者になりたいのか全く迷いが無い。
カーバーにとってのアメリカは、勝者の、勝者による、勝者のために出来ている国であり、政治も司法も、“負け犬”を守ってはくれないと頑なに信じているのだ。
このキャラクターは、行き過ぎた資本主義のシステムが生み出した歪んだ怪物であるのと同時に、見方によっては世知辛い世の中を確固たる信念のもと成り上がってゆくダークヒーローとも言える。
最後に微妙な一線を越えてしまったために、カーバーのアメリカンドリームは思わぬ形で破滅を迎えるのだけど、個人的には彼にどっぷり感情移入していたので、勧善懲悪的な終盤の展開はやや甘く感じた。
実際には映画よりもっとえげつない事も多く起こっているらしいのだが、本作の作り手はあるべき社会への提言を優先したという事か。
ぶっちゃけ涙目のナッシュを見て、カーバー目線で「コイツ使えねえな!」とか思ってしまったので、私も彼同様の人でなしなのかもしれない(苦笑
今回は喉が乾くハードでサスペンスフルなドラマなので、清涼なビールの代表格「コロナ エキストラ」をチョイス。
アメリカの不動産バブルから遡ること20年、日本のバブル景気の時代に大流行りしたバブリーな銘柄でもある。
爽やかで軽い味わいは、本作の舞台となるフロリダの様な亜熱帯の気候で飲むと、より美味しさが際立つ。
という事は日本の夏にもピッタリだ。

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天才が天才を描いた本作、なるほどさすがの仕上がりである。
2011年に死去したAppleの共同創業者にして、ピクサー・アニメーション・スタジオの生みの親、スティーブ・ジョブズを描く異色の伝記映画。
彼の物語は2013年にもジョシュア・マイケル・スターン監督、アシュトン・カッチャー主演の同タイトルで映画化されているが、同じ人物を描くのでもアプローチは全く異なる。
数々の伝説で彩られ、世界を変えた男として知られるジョブズの56年の生涯は、わずか2時間の映画にそのまま閉じ込めるにはあまりにも情報量が多すぎて無理。
そこで物語全体をキッチリと文字通りの三幕に分け、ある種の寓話劇としたアーロン・ソーキンのユニークな作劇が光る。
ダニー・ボイルの外連味たっぷりの演出、単純なそっくりショー以上の内面を感じさせるマイケル・ファスベンダーの好演もクールだ。
※ラストに触れています。
1984年のクパチーノ。
全てを注ぎ込んだMacintoshの発表会を直前に控え、スティーブ・ジョブズ(マイケル・ファスベンダー)は怒っていた。
マシンの不具合が解消せず、コンピューターに「Hello!」と声で挨拶させるプランが狂ってしまったからだ。
マーケティング担当のジョアンナ・ホフマン(ケイト・ウィンスレット)は「音声機能は宣伝してないから省こう」と言うが、ジョブズは絶対に譲らず、担当のアンディ・ハーツフェルド(マイケル・スタールバーグ)に開場までの40分でマシンを改良する事を命じる。
そんな時に、元恋人のクリスアン(キャサリン・ウォーターストン)が、娘のリサを連れて現れる。
ジョブズがリサの父親である事を認知せず、「米国人男性の28%が父親である可能性がある」とマスコミに暴言を吐いた事に抗議しに来たのだ。
激しく言い争う二人に、まだ5歳のリサは心を痛める。
音声機能にもなんとか目処がつき、いよいよMacintoshを発表する直前、ジョブズは舞台の袖で自らペプシから引き抜いた新CEOのジョン・スカリー(ジェフ・ダニエルズ)と会話を交わすのだが、その内容は・・・・
実在の人物を描く、伝記映画は難しい。
アシュトン・カッチャーの激似っぷりが話題となった2013年版の映画は、つまらなくはないけれど中途半端で心に残らない作品だった。
Appleヲタならもう知ってる馴染みの話ばかりで、かと言って人間ジョブズの内面に深く切り込む訳でもなく、満遍なく事実関係の流れを追おうとして漠然としてしまうという、この種の映画にありがちな罠に陥ったのだ。
筋立てに構造的な工夫がほとんど見られず、結果的にただただ傲慢なジョブズとAppleの内紛劇だけになってしまった。
そもそも伝記になるほどの人物は往々にしてエピソードが多く、全体像を時系列に沿って一本の映画に収めるのは難しいので、物語の切り口とロジックが重要になってくる。
例えばスピルバーグの「リンカーン」は、大統領が政治生命をかけた、合衆国憲法修正十三条が可決されるまでの、人生最後の3ヶ月に焦点を絞った。
激しい政治的駆け引きと苦悩を通じて、知られざるリンカーン像が見えてくるという訳だ。
本作と同じく、アーロン・ソーキンが脚本を手がけた「ソーシャル・ネットワーク」は、裁判劇を中心に置いて過去を俯瞰する手法で、SNS時代の寵児マーク・ザッカーバーグが“本当に欲したもの”を浮かび上がらせた。
今回ソーキンは、1984年のMacintosh、88年のNeXT Cube、98年のiMacという、ジョブズの人生の転機となった3つの新製品の発表会のビハインド・ザ・シーンに、物語を全てを集約させるという斬新なロジックを用いている。
三幕の舞台という極めて演劇的、象徴的なシチュエーションを通して、稀代の変人ジョブズの人物像に迫ろうという野心的な試みだ。
一応、ウォルター・アイザックソンのオフィシャル伝記本が原作という事になっているのだが、あくまでもエピソードの素材という以外に繋がりは感じらず、事実上のオリジナル脚本と捉えるべきだろう。
発表会には色々な人がやって来る。
ジョブズの“ビジネス上の妻”ジョアンナ・ホフマン、盟友のスティーブ・ウォズ二アック、プログラマーのアンディ・ハーツフェルド、元ペプシのCEOでジョブズ自身が招聘したジョン・スカリー、元カノのクリスアン。
彼らとの丁々発止のやり取りや、フラッシュバックとして巧みに組み合わされる回想によって、ジョブズのジェットコースターの様な人生が、ギュッと凝縮されて浮かび上がるのである。
ジョアンナは、暴走する怪物であるジョブズを、なんとか社会常識の範囲内に留め置こうとし、根っからの技術屋であるウォズは、この傲慢な男から、実際にコンピューターを作り会社のために金を稼ぐエンジニアへのリスペクトを引き出そうとする。
アンディは、ジョブズの技術的ムチャぶりにいつも振り回されつつも、心の奥底でお互いに信頼を得ている様だ。
Apple信者にとっては馴染みの“悪役”であるスカリーは、ジョブズとはいわばコインの表と裏の関係であり、お互いがアンチテーゼ。
時系列をクロスさせた激しい口論のシーンは、ボイルの面目躍如な凝った演出で見応えがあり、この二人の共存は、最初っから無理だったのだと思わせる。
そしてやや依存体質の元カノのクリスアンにとってのジョブズは、父親としての自覚がなく、責任よりも自由を選び、家族を飢えさせても平気な典型的ダメ男。
登場人物の中で、女性だけがジョブズを未成熟な家庭人として見る視点を持っている。
しかしこの作品が面白いのは、ビジネスシーンを描きながらも、物語の軸をジョブズと娘リサとの不思議な父娘関係に置いていること。
この辺り、ちょっと「マネー・ボール」のブラピと娘を思わせ、いかにもアーロン・ソーキンらしい。
米国人の母とシリア人移民の父との間に生まれ、両親が結婚出来なかったために赤ん坊の頃に養子に出さるという、複雑な出生への葛藤を抱えるジョブズは、リサという鏡を通して嘗ての自分を見ているのである。
血の繋がりによる絆を、経験的に信じられないジョブズが、いかにして娘を愛せるのか。
第一幕の怒りで始まるジョブズの感情は、第二幕、第三幕と進むうちに、徐々に穏やかになってくる。
これは第一幕でリサを頑なに否定する大人気ないジョブズ、第二幕でそれなりに良い関係を築いているジョブズ、そして第三幕では逆に娘に拒絶されて狼狽えるジョブズの姿とリンクし、いかにも不安定な父娘の関係が一幕毎に少しずつ変化してゆく事で、変人ジョブズのささやかな人間的成長が見て取れるのだ。
ジョブズとリサはお互いの葛藤を通して刺激しあっており、それぞれの時代でのリサとのエピソードが、後にジョブズが生み出す幾つものアイディアの元となる伏線も上手い。
まあiPod誕生に繋がる最後のエピソードは、話の持って生き方としてやや出来過ぎな感もあるが、様々なプロダクトの生みの親という面だけで語られがちなジョブズにもまた別の一面があり、かなりダメな父親としての彼を物語のコアとするアイディアは、なかなか上手くいっているのではないか。
映画の中でも度々出てくる「現実歪曲空間(Reality distortion field)」とは、ジョブズが言うと現実的でないことまで現実の様に人々が信じ込んでしまう、彼のカリスマ性と圧倒的な口の上手さを表現した造語だが、本作の作り手はスクリーンを彼らなりの現実歪曲空間とし、演劇的に構成した物語のジョブズ像を観客の心に定着させる事に成功している。
ただ登場人物や背景説明が殆ど無く、ダニエル・コトキやガイ・カワサキの様に、画面には出てこないのにセリフのみで言及される重要な関係者も多い。
AppleⅡやLisaなど、幾つものコンピューターの名前も同様である。
ジョブズ学を全く知らないと登場人物の関係が分からず、膨大な会話の内容もチンプンカンプンという事になりかねないので、Apple信者意外はある程度予習して観た方が楽しめると思う。
映画はジョブズがAppleに復帰し、iMacを発表するところで終わっているが、できれば同じスタッフ・キャストで続きが観たい。
もちろん今度はiPod、iPhone、iPadの発表会で。
ジョブズと言えば、90年代はよくスタンフォード大のあるパロアルトをプラプラしていて、私も何度か見かけた事がある。
同じくパロアルトでよく目撃したのが、ここに店を持っていたフランシス・コッポラ。
今回は強引な地元繋がりと父娘ものということで、コッポラ・ワイナリーの「ソフィア ブラン・ド・ブラン」をチョイス。
愛娘のソフィア・コッポラの名を冠したラインナップの中の、爽やかな白スパークリング。
このシリーズは、ボトルやラベルのデザインも凄くフェミニンでかわいいのだけど、炭酸の刺激は弱めで、フルーティーな香りがとても華やか。
ちなみにブラン・ド・ブランは、ソフィアがスパイク・ジョーンズと結婚した時の記念に作ったものなんだとか。
別れちゃったけどね。
ところで、第一幕で伝説的な1984年のスーパーボウルの時のCMが流れるシーンがあるのだけど、監督のリドリー・スコットにはクレジットで感謝が捧げられていた。
何気に彼の「オデッセイ」で腹に一物あるNASA長官を演じてたジェフ・ダニエルズが、こっちでは陰謀巡らすスカリー役なのが可笑しい。

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メキシコの南にある中米の小国、グアテマラの火山地帯に広がる、先住民マヤ族の社会を舞台にしたハードなヒューマンドラマ。
監督のハイロ・ブスタマンテは幼少期をマヤの地で過ごし、ヨーロッパで映画制作を学んだグアテマラ人。
ほぼ映画産業が存在しない同国で、全くの素人を集めて映画制作のワークショップを開催しながら撮影にこぎつけたという労作である。
結果的にグアテマラ映画として初めて米アカデミー賞にエントリーを果たし、ベルリン国際映画祭では銀熊賞を受賞するなど、高い評価を受けた。
スペイン人が到達する以前、強大な文明を繁栄させたマヤの人々は、いまや幾つものエスニックグループに分かれ、主流であるスペイン語を話すメスティーソの影響を受けながら、独自の言語・文化を維持している。
荒々しい表情を見せるパカヤ火山の麓に暮らす17歳のマリアは、貧しい小作農の両親と三人家族。
小作農は作物が収穫できないと土地を追い出されてしまうが、大量発生した毒蛇の害に悩まされ、作付けは遅々として進まない。
そこで父親は、3人の子を男手一つで育てている地主のイグナシオに、マリアを嫁がせることを勝手に決めてしまう。
しかしマリアは、アメリカ行きの夢を語る地元のロクデナシ青年ペペに恋をしており、処女を捧げるも、彼はさっさと村から逃げ出す。
やがて置き去りにされたマリアの妊娠が発覚し、さあ大変となるのである。
物語の軸となるのは、マリアと彼女を守ろうとするタフな母親ファナとの関係だ。
娘の妊娠を知ると、最初はなんとかして堕胎させようとするのだが、様々なまじないも効果がない事を悟ると、「この子は生まれたがっている」と一転して出産に同意する。
だが、事態はそれで終わりとはいかない。
婚約破談の責任を感じて、土地から蛇を駆除しようとするマリアの受難から、グアテマラで横行する新生児の違法売買、マヤ語族とスペイン語のメスティーソの間の差別と断絶にまで物語は広がってゆくのである。
ブスタマンテ監督は、可能な限りマヤ族の現実を反映したと語っており、マリアの身に起こった事も実際の事件を基にしているという。
特徴的なのは、男尊女卑的な閉鎖社会の中で男たちの存在感の無さだ。
マリアとファナの母娘が極めて人間的で魅力的なキャラクターとして造形されているのに対して、男たちは誰もが類型的で無責任。
この辺りの対比的な描き方は、アメリカのアパラチア山脈に暮らす貧しいスコットランド系白人、ヒルビリーの社会を描いた名作、「ウィンターズ・ボーン」を思い出した。
あの映画でも、男たちは裏社会に生きる得体の知れない存在として描かれ、力強く物語を主導するのは覚悟を決めたパワフルな女たちだった。
どこの社会でも、良くも悪くも男たちは身軽で、女たちはどっしりと土地に根を下ろしている。
本作の舞台として象徴的に描かれるパカヤ火山は、時に厳しく荒れ狂い、時に豊穣の大地を生み出す母性のメタファー。
今は過酷な現実に翻弄されるマリアもファナも、その内面にマグマを胎動させ、噴火の時を待つ火山なのである。
今回は、マリア繋がりで、ジャマイカにルーツを持つコーヒーリキュールを使った「ティア・マリア・ミルク」をチョイス。
ティア・マリアとは「マリアおばさん」の意味で、17世紀の戦争からジャマイカに伝わるリキュールを守った女性の名前から取られている。
氷を入れたグラスにティア・マリア40ml、適量のミルクを加え、軽くステアする。
コーヒーのビターな味わいを、ミルクが優しく包み込む。
同じくコーヒーリキュールをベースとしたカルーアミルクと似ているが、こちらの方がコーヒーのテイストが強いのが特徴だ。

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韓国から、またまた凄い新人監督が出てきた。
20世紀に日本でも社会問題となったコインロッカーベイビーとして生まれ、華僑系の裏社会で育った女・イリョンと、“オモニ(お母さん)”と呼ばれる組織の女ボスとの宿命的葛藤の物語。
「サイコメトリー 残留思念」の脚本家として知られるハン・ジュニが、自らのオリジナル脚本で見事な長編監督デビューを飾った。
主人公のイリョンを、若き演技派キム・ゴウンが好演し、圧倒的な存在感でオモニを演じるのは大女優キム・ヘス。
彼女はこの悪役とも言えるゴッドマザー役のオファーに、直ぐにはイエスと言わなかったそうだが、ハン・ジュニの脚本改訂作業を待って出演を快諾したという。
悲しき宿命を背負った二人の女の、情念渦巻くハードボイルドノワールである。
物語のモチーフとなっているのは、「新しき世界」や「共謀者」など、近年の韓国映画で一つのジャンル化している華僑系の犯罪組織だ。
韓国は日本以上に血統を重んじる社会ゆえに、華僑への差別も激しいものがあると聞く。
招かれざる客は食い詰め、やがて裏社会へと根を張って行くのは何処も同じ。
かつて中国から海を渡ってきた女は、生きるために情を捨て、遂には仁川のチャイナタウンを支配するドンとなった。
過酷な方法でヤミ金の借金を取り立て、払えなければ容赦無く殺して臓器を売り払う非道っぷり。
悪徳警官にも賄賂を渡してコントロールしているので、誰も手を出せない。
一方で、彼女は孤児の少年少女を集めて育て、自分を“オモニ”と呼ばせており、地下鉄駅10番コインロッカーに捨てられていたイリョンもその一人。
オモニの組織は、母親を頂点とするある種の疑似家族なのである。
もちろんそれは、単なるビジネス上の繋がりを超えた忠誠心を持たせるためでもあるのだが、ノワールに登場する犯罪組織の形態としてはかなり珍しい。
ところが、奇妙な均衡を保っていた疑似家族は、イリョンが組織のターゲットである青年・ソッキョンと出会った事によって、急速に崩壊する。
困難な状況でも決して希望を忘れず、人の良心を信じるソッキョンに、自分の知らなかった人間の生き方を見たイリョンは、急速に惹かれて行く。
だが、彼に特別な感情を抱いたイリョンは、オモニが重んじてきた裏社会の掟と、真っ向からぶつかる事になる。
偽りの家族はそれぞれの愛ゆえに破綻し、殺し合うしかない。
この作品は、言わばもう一つの「新しき世界」であり「スカイフォール」であり「アニマルキングダム」なのだが、軸となるメインキャラクター二人が共に女性である事、三代に渡り継承される母系の物語である事が強い未見性に繋がる。
印象的な雨の描写は浄化のメタファーか、あるいは喪失の涙雨か。
まあ韓国ノワールの例に漏れず、物語も描写もめちゃめちゃハードで容赦ないのだけど、後味は意外と悪くない。
なんでもハン・ジュニはこの作品にお金が集まると思わず、当初身銭をきって自主制作で作ろうと考えていたそう。
結果的に新人監督自身のオリジナル脚本で、本作の様な異色作が商業映画の企画として成立する韓国はやっぱ羨ましい。
日本公開はヒューマントラスト渋谷、シネリーブル梅田での「未体験ゾーンの映画たち」枠での限定公開だが、これは見逃すと後悔する。
これは母性の物語なので、「スィート・マリア」をチョイス。
ウォッカ30ml、ディサローノ・アマレット15ml、生クリーム15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ミルクを思わせる乳白色の色合い。
ドライなウォッカと濃厚なアマレットを、生クリームが一つにまとめる。
映画はハードだが、こちらは優しい味わいのカクテルだ。

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昨年のカンヌ国際映画祭で、「サウルの息子」を抑えて最高賞のパルム・ドールに輝いた作品。
物語の背景になっているのは、現代ヨーロッパの移民問題である。
タイトルロールのディーパンは、スリランカで政府軍と長年に渡り血で血を洗う内戦を繰り広げたゲリラ組織、“タミル・イーラム解放の虎”の元兵士。
スリランカ内戦は2009年に政府軍の全面勝利で一応の終結を見たが、政府側の報復を恐れたディーパンは、難民として国外への脱出を決意する。
映画は、戦いに敗れたディーパンが戦友たちの遺体を火葬するシーンから始まり、多くの人々が出国を待つ難民キャンプへと、いかにも社会派映画的な重苦しいムードを纏って幕をあける。
家族だと移住許可を得やすいので、ディーパンは難民キャンプで出会った見ず知らずの女ヤリニと孤児の少女イラヤルと偽家族を結成、フランスに入国するのだ。
※核心部分に触れています。観てから読むことをオススメします
しかしこれは一筋縄ではいかない、極めてトリッキーな作品である。
社会派映画の様にみせておいて、途中からゴリゴリのジャンル映画と化し、ジャンル映画に着地するかと思わせて、シュールにすっとぼけた方向に路線チェンジ。
映画の視点も、物語のそれぞれの段階で、三人の疑似家族を転々としてゆく。
偽りの家族はフランスでの在留資格を認められ、とある団地の管理人の仕事を得るのだが、この仕事が大誤算。
低所得者の集まる団地は、「マッドマックス」みたいなDQNなギャング集団の巣窟だったのだ。
団地の一角は、ギャングたちがドラッグを売買する“サロン”となっており、管理人も許可無く入れない。
夜な夜な危険な香りのする若者たちが集まり、時には敵対するギャングによる発砲事件が真昼間から起こる。
このギャング集団もまた、食い詰めた移民二世なのが実に皮肉。
戦いを逃れて来たディーパンは、別種の戦場に迷い込んでしまったのである。
物語の中盤で、フランスに潜伏している“解放の虎”の元上官と、ディーパンが面会する描写がある。
内戦で精神を病んでしまったらしい上官は、フランスを拠点として再びスリランカで戦争を起こすと主張し、ディーパンにも参加を強要しようとする。
だが、内戦で本当の家族を全て失い、今正に偽の家族から新たな絆を感じ始めているディーパンは、頑なに拒否。
彼にとって、戦いは自分の人生から全てを奪った忌避すべき行為なのである。
だからこそディーパンは、団地の中庭に突然境界線を引いて、ギャングたちに「安全地帯」を宣言。
彼のテリトリーでの違法行為を禁じるのだが、結果的にそれはギャングとの関係を決定的に悪化させ、ディーパンは抗争に巻き込まれたヤニリを助け出すために、再び銃を手にせざるを得ない。
静かに暮らそうとしている、うだつの上がらない移民の男。
しかしその内側に眠っている、恐ろしい一面をギャングたちは知らず、観客は知っている。
意外性の塊である本作は、「ラスト10分の衝撃」のコピーが相応しい。
異郷でのディーパンの苦労を淡々と描いてきたが故に、「戦い」を捨てるための「闘い」という、突然のジャンル映画的展開は予想外ではあるが、「待ってました!」という映画的カタルシスを感じるのは間違いない。
「これはこういう映画だから、こうなるんだろう」という観客の予想や思い込みを、ことごとく裏切る筋立ては、なるほどカンヌの審査委員長だったコーエン兄弟の作風と重なる部分がある。
物議を醸したという理想化されたエンディングのシークエンスも、「映画はあくまでも現実のアンチテーゼとしての虚構でしょ?」というジャック・オーディアールからのシニカルな問いかけだろう。
ある意味古典的ジャンル映画で、ある意味非常にモダンな作家映画。
クライマックスで主人公に張り付き、客観情報を入れないカメラなど、「サウルの息子」とはテリングに共通する部分があるのが面白い。
ヘビーな映画好きほど、楽しめる作品だと思う。
今回は、舞台となる街から「パリジャン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、クレーム・ド・カシス15ml、ドライ・ベルモット15mlをステアしてグラスに注ぐ。
ビタミンCが豊富なカシスのスピリットは、今ほど甘みの強くないものが、古来より薬として使用されてきたという。
パリジャンは、ジンの清涼感を、クレーム・ド・カシスの濃厚な甘味と香りが引き立てる。
ぶっちゃけディーパンには似合わないが、食欲を刺激するアペリティフだ。

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たった一人で火星に取り残された男のサバイバルを描く、アンディ・ウィアーのベストセラー小説「火星の人」の映画化。
宇宙を舞台にしたサバイバル劇というと、アルフォンソ・キュアロンの「ゼロ・グラビティ」が記憶に新しいが、あの映画がほぼリアルタイムで進行する100メートルのスプリントだとすれば、こちらは数年に及ぶ長丁場のマラソン型サバイバルだ。
卓越した知識を武器に、究極の逆境に立ち向かう主人公を、マット・デイモンが好演。
絶体絶命の手に汗握るシチュエーションでも、決してユーモアを忘れないポジティブさと独特のトボけたノリは、この種の映画の主人公としては新しい。
多くのSFを手掛けてきたリドリー・スコット監督にとっても、コミカルで飄々としたテリングは新境地と言えるだろう。
SFが苦手な人にでも自信を持っておススメできる、やたらと間口の広いエンターテイメント大作だ。
第三次火星探査ミッション・アレス3に参加した植物学者、マーク・ワトニー(マット・デイモン)は、強烈な砂嵐から逃れる際に事故に遭い、気が付くと半分砂に埋もれた状態で取り残されていた。
メリッサ・ルイス船長(ジェシカ・チャスティン)と仲間たちはワトニーを見つける事が出来ず、宇宙船ヘルメスはすでに地球への帰路についていたのだ。
次に救助の可能性があるのは、4年後のアレス4ミッション。
ワトニーは自らの科学知識を駆使して、基地に残された資材だけで4年間生き延びるための計画を練り、実行する。
一方その頃、火星軌道上の衛星によって、無人のはずの基地に動きがある事を察知したNASAは、ワトニーと連絡をとり、何とか助ける方法がないか模索し始める。
だがそれは、惑星間レスキューという、人類がいまだ経験したことのない困難極まりないプロジェクトだった・・・・
想像してみよう。
故郷から遥か2億2千万キロ以上離れた火星に、たった一人置き去りにされ、地球に自分が生きている事を知らせる術もない。
宇宙服が無ければ呼吸することも出来ない、不毛の大地に作られた観測基地は、そもそも一か月以上の滞在を想定しておらず、水も空気もほとんど無く、残された食料はわずか。
次に探査船が来るのは4年後で、しかもその着陸地点は3200キロの彼方。
これほど絶望的な状況に立たされた時、人間は何が出来るのか。
まあ私なら絶望して素直にガイコツなるところだけど、本作の主人公のマーク・ワトニーは科学者だ。
しかもNASAの惑星探査ミッションに参加するような、バリバリの超一流である。
彼は自らの頭脳をフル回転させ、困難な状況をひっくり返す。
残された宇宙船の燃料から化学反応を利用して水を作り出し、隊員たちが残した排泄物を肥料として、ジャガイモを栽培して食糧問題を解決。
遂には火星に快適なプチコロニーを作り上げてしまうのである。
この宇宙版「ロビンソン・クルーソー」的な展開は、まるで「ナショナル・ジオグラフィック」あたりの高度なシミュレーション番組を観ている感覚に近く、リアリテイたっぷりでワクワクする。
生活に目処がつけば、次は通信。
火星には過去にも複数の探査機が送り込まれているので、マークは1997年に通信途絶したマーズ・パスファインダーを探し出し、そのカメラを使って16進数のサインで地球との交信に成功する。
もちろん、受け手がいなければその通信が届く訳もないのだが、マークの生存は地球でも既に確認済みで、お互いに事態の打開に動き出していて、通信によって遠く離れたマークとNASAが再びチームとなるのだ。
この映画が、スリリングでありながらストレスレスなのは、基本的に誰一人として無能な人が出てこないから。
登場人物はほぼ全員が世界最高の頭脳集団、NASAのメンバー。
右往左往して足を引っ張ったり、保身に走ったりする「悪役」はおらず、問題が起これば皆それぞれが最良のアイディアを提供し、解決に向けまい進する。
プロフェッショナル達が困難にぶつかりながらも、善意のエネルギーによってゴールを目指すのは、ちょっと「プロジェクトX」的な味わいもあって、素直に気持ちいいのである。
本作の登場人物は主人公のマークを始め、皆悲惨な状況でもポジティブシンキングを忘れないが、現実でも科学者は明るい人が多いという。
それは多分、自らの知識と経験則に基づいて、状況と問題を把握し、ロジカルにソリューションを導き出す能力に自信を持っているからだろう。
とは言え、現実は必ずしも希望通りには進まない。
何か問題が起こるたびに、マークがマンガみたいに吹っ飛ばされるのが可笑しい。
砂嵐でアンテナに直撃されてドーン、水素から水を作ろうとして爆発ボーン、エアロックの機密が破れてドカーン、極め付けは“コンバーチブル”でのロケット打ち上げから“アイアンマン”飛行である。
とりあえずえらく頑丈な男であるマークが、吹っ飛んでも吹っ飛んでも、決して諦めないのを見てるとこっちも何だか元気になってくる。
この役は、誰が観ても「インターステラー」でデイモンが演じた、マン博士と丸かぶりなのだけど、映画のノリもキャラクターの陰陽も真逆なのが面白い。
リドリー・スコット自身は、デイモンに言われるまで「インターステラー」を観ていなかったらしいが、そもそもたった一人取り残されたマット・デイモンを、危険を顧みず皆で助けるという時点で「プライベート・ライアン」のパロディ的なノリは明らかで、本作のキャスティングの遊び心は相当なものだ。
ジェシカ・チャスティンも「インターステラー」組で、あの映画では“待ち続ける役”だったのが、今回は“迎えに行く役”と反転になっているし、NASAの“エルロンド会議”にボロミア様が参加してるのもニヤニヤ。
コメディエンヌのクリスティン・ウィグが、NASAの広報担当っていうセンスもいい。
そんな陽性のサバイバル劇のBGMが、ルイス船長が火星に残していった70年代ディスコサウンド集というのは、ちょっと「ガーディアン・オブ・ギャラクシー」っぽくもあるが、ミスマッチのベストマッチ。
「私を置いていかないで〜」と歌うセルマ・ヒューストンの「ドント・リーヴ・ミイ・ディス・ウェイ」から始まって、先日亡くなったデヴィッド・ボウイの「スターマン」やアバの「恋のウォータールー」、グロリア・ゲイナーの「恋のサバイバル」と言った当時の大ヒットナンバーが、それぞれの歌詞に合わせた絶妙のタイミングでかかって大爆笑。
やっぱり音楽は人の心を高揚させて、テンションをアゲアゲに、背中を押してくれるのである。
しかしこの音楽趣味は一応原作由来らしいけど、シチュエーションごとの選曲はいったい誰のテイストだろうか。
脚色を担当したドリュー・ゴダード?
とりあえずサントラ買って、もう一回観に行こう!
そして明日を乗り切る元気をもらおう!(笑
今回はギリシャ神話繋がりで、沖縄のヘリオス酒造のクラフトビール「青い空と海のビール」をチョイス。
苦味を抑えたフルーティさが特徴で、喉越しすっきりのライトテイスト。
原料に小麦を使用した上面発酵のドイツ式、ヴァイツェン・タイプ。
劇中のワトニーはジャガイモばっかり食べてたけど、もちろんポテト料理にもピッタリだ(笑
火星で飲んでも、きっと美味しい。
ちなみに本作も最近のハリウッド映画らしく、中国マーケットを大いに意識した展開があるのだけど、これ単に持ち上げるだけではなく、結構プレッシャーというか、責任ある大国としての振る舞いをするように注文をつけた形になってるのが面白い。
もし本当にこういう事故が起こったとき、実際にかの国はどう動くのだろうね。

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舞台は1950年代のニューヨーク。
エレガントな大人の女性キャロルと、まだ初々しい蕾のテレーズ。
対象的な二人は共に人生の岐路に立っており、運命的に出会うと急速に惹かれ合う。
「太陽がいっぱい」で知られるパトリシア・ハイスミスが、1952年に発表した事実上の長編デビュー作「The price of solt」を「ベルベット・ゴールドマイン」のトッド・ヘインズ監督が映画化した作品。
嘗てのハリウッドではタブーだった物語を、確固たる美意識に裏打ちされた古典的な映画言語を用いて、実に豊かに描き出している。
ルーニー・マーラー演じるテレーズは、ジャーナリストを目指しニューヨークに出てきて、クリスマスシーズンのデパートで、売り子のアルバイトをしている。
恋人はいるが、将来へのビジョンには違いがあり、なかなか結婚に踏み切れない。
そんな時、テレーズの担当する売り場に、ミステリアスな雰囲気を纏った美しい女性が現れる。
愛娘へのプレゼントを探していた彼女の名はキャロル。
自分とは違う完成された大人の女性の存在感は、テレーズの心を一瞬で奪う。
それ以来、会う様になった二人は、急速に距離を縮めてゆくのである。
そして、完璧に見えたキャロルの家庭は崩壊中で、娘の親権を巡って夫側と泥沼の争いをしている事を知る。
失望よりも強く湧き上がる、キャロルへの思慕の念。
自分の中に生まれた気持ちが、真摯な愛である事を悟ったテレーズは、キャロルからドライブ旅行に誘われると、西に向かって旅立つ。
だが、社会が今よりもずっと愛の多様性に不寛容で、男たちが女性の人生を自らの付属品の様に扱っていた時代。
彼女たちのささやかな逃避行は、やがてより複雑な事態を招き寄せてしまう。
テレーズとの純粋に相手を想い合う気持ちと、既に築き上げた家族との間で揺れるキャロルの葛藤。
個と個、個と社会の関係がぶつかり合い、絡み合う。
偽りの人生への圧力が二人の愛を翻弄し、狂おしい愛の嵐が自らの本心をかき消してゆく。
しかし、無理に押さえつけるほどに、彼女らは裸の自分自身を意識せざるを得ない。
モチーフはLGBTのラブストーリー、だがそれだけではない。
これは窮屈な時代に生きる二人の女性が、お互いを想う気持ちによって成長し、遂に魂の牢獄から自らを解き放つ、人間の生き方に関する普遍的な物語。
ルーニー・マーラーとケイト・ブランシェットが素晴らしい。
三十路にして驚くべき透明感と儚げな少女性を持つ、マーラーの憂いを含んだ表情は、物語が進むにつれて次第に目力を増し、大人の女としての明確な意志を示すようになる。
貴婦人の仮面に下に強かさと弱さ、親として女としての苦悩を隠すブランシェットは、相変わらず圧巻。
物語はまずテレーズの視点ではじまり、次第にキャロルへとシフトする。
ラストのなんとも言えない絶妙な表情一つで、この映画は彼女のものとなった。
綿密に設計された俳優、カメラ、美術、衣裳etc.が織りなす、観客をトリップさせるゴージャスな映像と、ウェットな楽曲。
スタッフォードの唄う、ショパンの「別れの曲」のジャズバージョン、「No Other Love」が駄目押しに心を揺さぶる。
スクリーンに広がる、どこまでも魅惑的な世界。
これぞ映画である。
二人の恋の味に相応しいのは、華やかなロゼ。
ケイト・ブランシェットの故郷、オーストラリアでモエ・エ・シャンドンが設立したドメーヌ・シャンドンが生産する「シャンドン・ブリュット・ロゼ」をチョイス。
シャンパーニュ製ではないので、シャンパンは名乗れないが、きめ細かい泡とフルーティな香りは健在。
むしろコスパの高さが嬉しい、華やかなスパークリングだ。

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ワイヤーの上のアーティストの、創造の夢と狂気。
1974年8月、当時完成目前だったニューヨークのワールド・トレード・センターのツインタワーの間にワイヤーを渡し、地上411メートルで命綱なしの綱渡りを行ったフランス人、フィリップ・プティの挑戦を描く実話ベースのヒューマンドラマ。
前作「フライト」で12年ぶりに実写作品へと回帰したロバート・ゼメキス監督は、「ポーラー・エクスプレス」以来のCGアニメーションで培った卓越した3D演出を駆使し、目も眩むような天空の冒険を再現する。
立ち込める霧の湿気、ビルの間を吹き抜ける風すら感じさせる映像体験に、心臓はバクバク、手のひらにはべっとりと汗。
人生と芸術に関する、ロマンチックでスペクタクルな物語だが、シリアスな高所恐怖症の人は、本当に死ぬかもしれない。
※核心部分に触れています。
フランス人の大道芸人フィリップ・プティ(ジョセフ・ゴードン=レビット)の運命は、ある日たまたま広げた新聞の記事によって大きく変わることになる。
それはアメリカのニューヨークに、新たに建設される巨大な二棟の高層ビル、ワールド・トレード・センターを紹介したものだった。
「この二棟の間を綱渡りしたい」という思いに突き動かされたフィリップは、恋人のアニー(シャルロット・ルボン)、友人でカメラマンのジャン=ルイス(クレマン・シボニー)らと共に綿密な計画を立てはじめる。
どうやって厳重な警備を掻い潜って機材を持ち込むのか、いかにして二棟の間にワイヤーを渡すのか、今までの経験したことのない高所で強風に耐えられるのか。
ニューヨークへと渡ったフィリップらは、何人かのアメリカ人の協力者を巻き込み、決行日を8月7日に決める。
いよいよ、その日が近づくとフィリップの緊張と高揚はやがて頂点に達し、狂気とも取れる感情を迸らせる・・・・
フィリップ・プティが著した原作「マン・オン・ワイヤー」は、「博士と彼女のセオリー」が記憶に新しいジェームズ・マーシュ監督の手によって、2008年にドキュメンタリー映画化されている。
アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞し、大きな話題になったのでご覧になった方も多いだろう。
同一原作を使い、ドキュメンタリーと劇映画両方が作られるケースというのは、なかなか珍しいのではないだろうか。
当たり前だが、両作の構成要素はほぼ同じながら、アプローチは対照的だ。
記録映像と再現ドラマ、当事者たちへのインタビューを使ったドキュメンタリーは、決行の前日、えもいわれぬ衝動に突き動かされたフィリップが、機材の入った箱を自らの「棺」と呼び釘打ちするシーンから始まる。
事件そのものを起点として、そこから過去と未来へと広げてゆくという訳だ。
対して本作ではドキュメンタリーには描かれないフィリップのパフォーマーとしての原体験から、時系列に沿って物語が展開する。
またドキュメンタリーではインタビューによってフィリップ以外の仲間たちの内面がより掘り下げられているのに対して、本作は基本主人公一人に寄り添った筋立てになっていたり、ドキュメンタリーには登場しない師匠のパパ・ルディとの関係が描かれていたり、細部にはかなり違いがある。
私的には、多少尺が伸びたとしても、仲間たちのことは本作でももうちょっと描きこんで欲しかったので、「マン・オン・ワイヤー」と合わせて観るとより深く読み解くことができるだろう。
ノートルダム寺院から、本作には描かれないオーストラリアのハーバーブリッジ、そしてワールド・トレード・センターへ、フィリップが行っているのはいわゆる“犯罪芸術”である。
事件のあとで、ツインタワーを渡った「理由」を知りたがるアメリカのマスコミを見て、現実のプティは「壮大で謎めいた出来事に理由を問う実利性」を「米国的で短絡的」と切って捨て、「理由が無いから素晴らしい」と述べている。
ま、実際には彼の中に理由はあるのだと思うが、それを言葉に置き換えると陳腐になってしまうということだろう。
フィリップの行為は違法であることは承知の上で、事後の逮捕覚悟のパフォーマンスだが、基本的には誰も傷付けていないし、他人への迷惑も最小限。
仲間は皆同意の上だし、仮に失敗しても死ぬのは彼一人である。
たとえ犯罪だとしても決して卑劣なものではなく、結果的に成し遂げる事が壮大なので、一般大衆はもとより逮捕する警察官まで彼のファンになってしまう。
自分には絶対に無理な極限の縁を悠然と歩き、時にワイヤーの上に寝そべって天と対話する男の姿に、人々はいつしか憧憬を抱き、彼の企てる“魂のクーデター”の共犯者となってゆくのである。
私はこの映画を観て、宮崎駿の「風立ちぬ」を思い出した。
主人公は他人になんと言われても、自分にしか出来ないことを行い、自分にしか行けない世界を見るために、懸命に生き、懸命に愛する。
411メートルの舞台で、肉体を言語とする一人の詩人として美を極め、その瞬間を目撃した人々の心に一生焼きつく。
ここにあるのは、人生をかけた創造の衝動であり、肉体の限界を極める鮮烈かつ情熱的な表現への道程である。
ワイヤーを踏み出すその一歩一歩は、誰も到達したことのない未知の領域への冒険の旅。
実は1974年8月7日の歴史的なパフォーマンスは、動画が残っていない。
「マン・オン・ワイヤー」でも、肝心のこの部分は写真でのみ構成されていたが、その理由は本作に描かれた通り、ジャン=ルイスがムービーカメラを用意する前に警察が屋上に踏み込んで来て、逃げざるを得なかったため。
だが、それ故に、フィリップの見た世界をスクリーンに蘇らせるには、観客の想像力を超える演出力が必要だ。
ロバート・ゼメキスは、ゼロ年代に発表した三本のCGアニメーション作品で、3Dデジタル映像における演出実験を繰り返していたが、その経験は本作に大いに生きていると思う。
忠実に再現されたツインタワーから、遥か地上を覗き込むビジョンは、まさに手に汗握るおそろしさだ。
しかしゼメキスは、縦横無尽でありながらも、古典的な映像構成に拘る。
例えば立体映像の臨場感を強めたければ、ウェアラブルカメラ風のフィリップの一人称視点などを使いたくなるだろうが、あくまでも劇映画である本作では、主観の画は最小限。
まるで1974年のニューヨークにタイムトラベルし、ロケをしてきたかのような地に足の着いた演出は本作に大作映画らしい風格を与えている。
そしてフィリップの偉大な挑戦により、不人気なコンクリートの塊からランドマークとして認知され、都市の魂を得たWTCが、もはや記憶の中にしか存在しない事実。
彼が屋上に残したサインも2011年のあの日に瓦礫と化し、管理責任者からもらった「永遠」と書かれた展望台パスもまた幻に。
綱渡りというパフォーマンスはその時だけのライブで、しかも動画は残っていない。
これは40年と少し前に実行された、まさに夜明けの夢の様な儚い芸術とその時代を、21世紀の映画にしか出来ない方法で蘇らせた壮大なレクイエムだ。
ここ15年、私たちの記憶にあるワールド・トレード・センターのイメージは、人々の命と共に激しく燃え上がり、崩れ落ちる悲しみの象徴だったが、本作のラストで黄金色に光るツインタワーは若々しく、とても美しいのである。
今回は、舞台となるニューヨークの愛称でもある「ビッグ・アップル」をチョイス。
氷で満たしたタンブラーにウォッカ45mlを注ぎ、適量のアップル・ジュースを加えて軽くステア。
カットしたリンゴを飾って完成。
ちなみに「ビッグ・アップル」という愛称は、嘗てサロンの男性たちが女性を「アップル」という隠語で呼んでおり、「いい女がたくさん集まる街」という意味で使ったのが最初という説がある。
女たちだけでなく、夢を抱くあらゆる人を惹きつけるニューヨーク。
フィリップもまたそんな多くの若者の一人だったのだろうな。

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