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2016年02月02日 (火) | 編集 |
極限の縁を歩く。
ワイヤーの上のアーティストの、創造の夢と狂気。
1974年8月、当時完成目前だったニューヨークのワールド・トレード・センターのツインタワーの間にワイヤーを渡し、地上411メートルで命綱なしの綱渡りを行ったフランス人、フィリップ・プティの挑戦を描く実話ベースのヒューマンドラマ。
前作「フライト」で12年ぶりに実写作品へと回帰したロバート・ゼメキス監督は、「ポーラー・エクスプレス」以来のCGアニメーションで培った卓越した3D演出を駆使し、目も眩むような天空の冒険を再現する。
立ち込める霧の湿気、ビルの間を吹き抜ける風すら感じさせる映像体験に、心臓はバクバク、手のひらにはべっとりと汗。
人生と芸術に関する、ロマンチックでスペクタクルな物語だが、シリアスな高所恐怖症の人は、本当に死ぬかもしれない。
※核心部分に触れています。
フランス人の大道芸人フィリップ・プティ(ジョセフ・ゴードン=レビット)の運命は、ある日たまたま広げた新聞の記事によって大きく変わることになる。
それはアメリカのニューヨークに、新たに建設される巨大な二棟の高層ビル、ワールド・トレード・センターを紹介したものだった。
「この二棟の間を綱渡りしたい」という思いに突き動かされたフィリップは、恋人のアニー(シャルロット・ルボン)、友人でカメラマンのジャン=ルイス(クレマン・シボニー)らと共に綿密な計画を立てはじめる。
どうやって厳重な警備を掻い潜って機材を持ち込むのか、いかにして二棟の間にワイヤーを渡すのか、今までの経験したことのない高所で強風に耐えられるのか。
ニューヨークへと渡ったフィリップらは、何人かのアメリカ人の協力者を巻き込み、決行日を8月7日に決める。
いよいよ、その日が近づくとフィリップの緊張と高揚はやがて頂点に達し、狂気とも取れる感情を迸らせる・・・・
フィリップ・プティが著した原作「マン・オン・ワイヤー」は、「博士と彼女のセオリー」が記憶に新しいジェームズ・マーシュ監督の手によって、2008年にドキュメンタリー映画化されている。
アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞し、大きな話題になったのでご覧になった方も多いだろう。
同一原作を使い、ドキュメンタリーと劇映画両方が作られるケースというのは、なかなか珍しいのではないだろうか。
当たり前だが、両作の構成要素はほぼ同じながら、アプローチは対照的だ。
記録映像と再現ドラマ、当事者たちへのインタビューを使ったドキュメンタリーは、決行の前日、えもいわれぬ衝動に突き動かされたフィリップが、機材の入った箱を自らの「棺」と呼び釘打ちするシーンから始まる。
事件そのものを起点として、そこから過去と未来へと広げてゆくという訳だ。
対して本作ではドキュメンタリーには描かれないフィリップのパフォーマーとしての原体験から、時系列に沿って物語が展開する。
またドキュメンタリーではインタビューによってフィリップ以外の仲間たちの内面がより掘り下げられているのに対して、本作は基本主人公一人に寄り添った筋立てになっていたり、ドキュメンタリーには登場しない師匠のパパ・ルディとの関係が描かれていたり、細部にはかなり違いがある。
私的には、多少尺が伸びたとしても、仲間たちのことは本作でももうちょっと描きこんで欲しかったので、「マン・オン・ワイヤー」と合わせて観るとより深く読み解くことができるだろう。
ノートルダム寺院から、本作には描かれないオーストラリアのハーバーブリッジ、そしてワールド・トレード・センターへ、フィリップが行っているのはいわゆる“犯罪芸術”である。
事件のあとで、ツインタワーを渡った「理由」を知りたがるアメリカのマスコミを見て、現実のプティは「壮大で謎めいた出来事に理由を問う実利性」を「米国的で短絡的」と切って捨て、「理由が無いから素晴らしい」と述べている。
ま、実際には彼の中に理由はあるのだと思うが、それを言葉に置き換えると陳腐になってしまうということだろう。
フィリップの行為は違法であることは承知の上で、事後の逮捕覚悟のパフォーマンスだが、基本的には誰も傷付けていないし、他人への迷惑も最小限。
仲間は皆同意の上だし、仮に失敗しても死ぬのは彼一人である。
たとえ犯罪だとしても決して卑劣なものではなく、結果的に成し遂げる事が壮大なので、一般大衆はもとより逮捕する警察官まで彼のファンになってしまう。
自分には絶対に無理な極限の縁を悠然と歩き、時にワイヤーの上に寝そべって天と対話する男の姿に、人々はいつしか憧憬を抱き、彼の企てる“魂のクーデター”の共犯者となってゆくのである。
私はこの映画を観て、宮崎駿の「風立ちぬ」を思い出した。
主人公は他人になんと言われても、自分にしか出来ないことを行い、自分にしか行けない世界を見るために、懸命に生き、懸命に愛する。
411メートルの舞台で、肉体を言語とする一人の詩人として美を極め、その瞬間を目撃した人々の心に一生焼きつく。
ここにあるのは、人生をかけた創造の衝動であり、肉体の限界を極める鮮烈かつ情熱的な表現への道程である。
ワイヤーを踏み出すその一歩一歩は、誰も到達したことのない未知の領域への冒険の旅。
実は1974年8月7日の歴史的なパフォーマンスは、動画が残っていない。
「マン・オン・ワイヤー」でも、肝心のこの部分は写真でのみ構成されていたが、その理由は本作に描かれた通り、ジャン=ルイスがムービーカメラを用意する前に警察が屋上に踏み込んで来て、逃げざるを得なかったため。
だが、それ故に、フィリップの見た世界をスクリーンに蘇らせるには、観客の想像力を超える演出力が必要だ。
ロバート・ゼメキスは、ゼロ年代に発表した三本のCGアニメーション作品で、3Dデジタル映像における演出実験を繰り返していたが、その経験は本作に大いに生きていると思う。
忠実に再現されたツインタワーから、遥か地上を覗き込むビジョンは、まさに手に汗握るおそろしさだ。
しかしゼメキスは、縦横無尽でありながらも、古典的な映像構成に拘る。
例えば立体映像の臨場感を強めたければ、ウェアラブルカメラ風のフィリップの一人称視点などを使いたくなるだろうが、あくまでも劇映画である本作では、主観の画は最小限。
まるで1974年のニューヨークにタイムトラベルし、ロケをしてきたかのような地に足の着いた演出は本作に大作映画らしい風格を与えている。
そしてフィリップの偉大な挑戦により、不人気なコンクリートの塊からランドマークとして認知され、都市の魂を得たWTCが、もはや記憶の中にしか存在しない事実。
彼が屋上に残したサインも2011年のあの日に瓦礫と化し、管理責任者からもらった「永遠」と書かれた展望台パスもまた幻に。
綱渡りというパフォーマンスはその時だけのライブで、しかも動画は残っていない。
これは40年と少し前に実行された、まさに夜明けの夢の様な儚い芸術とその時代を、21世紀の映画にしか出来ない方法で蘇らせた壮大なレクイエムだ。
ここ15年、私たちの記憶にあるワールド・トレード・センターのイメージは、人々の命と共に激しく燃え上がり、崩れ落ちる悲しみの象徴だったが、本作のラストで黄金色に光るツインタワーは若々しく、とても美しいのである。
今回は、舞台となるニューヨークの愛称でもある「ビッグ・アップル」をチョイス。
氷で満たしたタンブラーにウォッカ45mlを注ぎ、適量のアップル・ジュースを加えて軽くステア。
カットしたリンゴを飾って完成。
ちなみに「ビッグ・アップル」という愛称は、嘗てサロンの男性たちが女性を「アップル」という隠語で呼んでおり、「いい女がたくさん集まる街」という意味で使ったのが最初という説がある。
女たちだけでなく、夢を抱くあらゆる人を惹きつけるニューヨーク。
フィリップもまたそんな多くの若者の一人だったのだろうな。
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ワイヤーの上のアーティストの、創造の夢と狂気。
1974年8月、当時完成目前だったニューヨークのワールド・トレード・センターのツインタワーの間にワイヤーを渡し、地上411メートルで命綱なしの綱渡りを行ったフランス人、フィリップ・プティの挑戦を描く実話ベースのヒューマンドラマ。
前作「フライト」で12年ぶりに実写作品へと回帰したロバート・ゼメキス監督は、「ポーラー・エクスプレス」以来のCGアニメーションで培った卓越した3D演出を駆使し、目も眩むような天空の冒険を再現する。
立ち込める霧の湿気、ビルの間を吹き抜ける風すら感じさせる映像体験に、心臓はバクバク、手のひらにはべっとりと汗。
人生と芸術に関する、ロマンチックでスペクタクルな物語だが、シリアスな高所恐怖症の人は、本当に死ぬかもしれない。
※核心部分に触れています。
フランス人の大道芸人フィリップ・プティ(ジョセフ・ゴードン=レビット)の運命は、ある日たまたま広げた新聞の記事によって大きく変わることになる。
それはアメリカのニューヨークに、新たに建設される巨大な二棟の高層ビル、ワールド・トレード・センターを紹介したものだった。
「この二棟の間を綱渡りしたい」という思いに突き動かされたフィリップは、恋人のアニー(シャルロット・ルボン)、友人でカメラマンのジャン=ルイス(クレマン・シボニー)らと共に綿密な計画を立てはじめる。
どうやって厳重な警備を掻い潜って機材を持ち込むのか、いかにして二棟の間にワイヤーを渡すのか、今までの経験したことのない高所で強風に耐えられるのか。
ニューヨークへと渡ったフィリップらは、何人かのアメリカ人の協力者を巻き込み、決行日を8月7日に決める。
いよいよ、その日が近づくとフィリップの緊張と高揚はやがて頂点に達し、狂気とも取れる感情を迸らせる・・・・
フィリップ・プティが著した原作「マン・オン・ワイヤー」は、「博士と彼女のセオリー」が記憶に新しいジェームズ・マーシュ監督の手によって、2008年にドキュメンタリー映画化されている。
アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞し、大きな話題になったのでご覧になった方も多いだろう。
同一原作を使い、ドキュメンタリーと劇映画両方が作られるケースというのは、なかなか珍しいのではないだろうか。
当たり前だが、両作の構成要素はほぼ同じながら、アプローチは対照的だ。
記録映像と再現ドラマ、当事者たちへのインタビューを使ったドキュメンタリーは、決行の前日、えもいわれぬ衝動に突き動かされたフィリップが、機材の入った箱を自らの「棺」と呼び釘打ちするシーンから始まる。
事件そのものを起点として、そこから過去と未来へと広げてゆくという訳だ。
対して本作ではドキュメンタリーには描かれないフィリップのパフォーマーとしての原体験から、時系列に沿って物語が展開する。
またドキュメンタリーではインタビューによってフィリップ以外の仲間たちの内面がより掘り下げられているのに対して、本作は基本主人公一人に寄り添った筋立てになっていたり、ドキュメンタリーには登場しない師匠のパパ・ルディとの関係が描かれていたり、細部にはかなり違いがある。
私的には、多少尺が伸びたとしても、仲間たちのことは本作でももうちょっと描きこんで欲しかったので、「マン・オン・ワイヤー」と合わせて観るとより深く読み解くことができるだろう。
ノートルダム寺院から、本作には描かれないオーストラリアのハーバーブリッジ、そしてワールド・トレード・センターへ、フィリップが行っているのはいわゆる“犯罪芸術”である。
事件のあとで、ツインタワーを渡った「理由」を知りたがるアメリカのマスコミを見て、現実のプティは「壮大で謎めいた出来事に理由を問う実利性」を「米国的で短絡的」と切って捨て、「理由が無いから素晴らしい」と述べている。
ま、実際には彼の中に理由はあるのだと思うが、それを言葉に置き換えると陳腐になってしまうということだろう。
フィリップの行為は違法であることは承知の上で、事後の逮捕覚悟のパフォーマンスだが、基本的には誰も傷付けていないし、他人への迷惑も最小限。
仲間は皆同意の上だし、仮に失敗しても死ぬのは彼一人である。
たとえ犯罪だとしても決して卑劣なものではなく、結果的に成し遂げる事が壮大なので、一般大衆はもとより逮捕する警察官まで彼のファンになってしまう。
自分には絶対に無理な極限の縁を悠然と歩き、時にワイヤーの上に寝そべって天と対話する男の姿に、人々はいつしか憧憬を抱き、彼の企てる“魂のクーデター”の共犯者となってゆくのである。
私はこの映画を観て、宮崎駿の「風立ちぬ」を思い出した。
主人公は他人になんと言われても、自分にしか出来ないことを行い、自分にしか行けない世界を見るために、懸命に生き、懸命に愛する。
411メートルの舞台で、肉体を言語とする一人の詩人として美を極め、その瞬間を目撃した人々の心に一生焼きつく。
ここにあるのは、人生をかけた創造の衝動であり、肉体の限界を極める鮮烈かつ情熱的な表現への道程である。
ワイヤーを踏み出すその一歩一歩は、誰も到達したことのない未知の領域への冒険の旅。
実は1974年8月7日の歴史的なパフォーマンスは、動画が残っていない。
「マン・オン・ワイヤー」でも、肝心のこの部分は写真でのみ構成されていたが、その理由は本作に描かれた通り、ジャン=ルイスがムービーカメラを用意する前に警察が屋上に踏み込んで来て、逃げざるを得なかったため。
だが、それ故に、フィリップの見た世界をスクリーンに蘇らせるには、観客の想像力を超える演出力が必要だ。
ロバート・ゼメキスは、ゼロ年代に発表した三本のCGアニメーション作品で、3Dデジタル映像における演出実験を繰り返していたが、その経験は本作に大いに生きていると思う。
忠実に再現されたツインタワーから、遥か地上を覗き込むビジョンは、まさに手に汗握るおそろしさだ。
しかしゼメキスは、縦横無尽でありながらも、古典的な映像構成に拘る。
例えば立体映像の臨場感を強めたければ、ウェアラブルカメラ風のフィリップの一人称視点などを使いたくなるだろうが、あくまでも劇映画である本作では、主観の画は最小限。
まるで1974年のニューヨークにタイムトラベルし、ロケをしてきたかのような地に足の着いた演出は本作に大作映画らしい風格を与えている。
そしてフィリップの偉大な挑戦により、不人気なコンクリートの塊からランドマークとして認知され、都市の魂を得たWTCが、もはや記憶の中にしか存在しない事実。
彼が屋上に残したサインも2011年のあの日に瓦礫と化し、管理責任者からもらった「永遠」と書かれた展望台パスもまた幻に。
綱渡りというパフォーマンスはその時だけのライブで、しかも動画は残っていない。
これは40年と少し前に実行された、まさに夜明けの夢の様な儚い芸術とその時代を、21世紀の映画にしか出来ない方法で蘇らせた壮大なレクイエムだ。
ここ15年、私たちの記憶にあるワールド・トレード・センターのイメージは、人々の命と共に激しく燃え上がり、崩れ落ちる悲しみの象徴だったが、本作のラストで黄金色に光るツインタワーは若々しく、とても美しいのである。
今回は、舞台となるニューヨークの愛称でもある「ビッグ・アップル」をチョイス。
氷で満たしたタンブラーにウォッカ45mlを注ぎ、適量のアップル・ジュースを加えて軽くステア。
カットしたリンゴを飾って完成。
ちなみに「ビッグ・アップル」という愛称は、嘗てサロンの男性たちが女性を「アップル」という隠語で呼んでおり、「いい女がたくさん集まる街」という意味で使ったのが最初という説がある。
女たちだけでなく、夢を抱くあらゆる人を惹きつけるニューヨーク。
フィリップもまたそんな多くの若者の一人だったのだろうな。

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