酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生・・・・・評価額1550円
2016年03月29日 (火) | 編集 |
神 vs 人間。

2007年に公開された「アイ・アム・レジェンド」の、廃墟と化した2012年のニューヨークの街角には「バットマンvsスーパーマン」の巨大な看板が見える。
要するに「まさかこんなのは出来ないよね」というジョークなわけだが、ハリウッドはこんな冗談の様な企画を本当に作ってしまうのだから凄い。
もっとも、バットマンとスーパーマンという二大ヒーローの対決は、映画ではないものの過去にも描かれており、フランク・ミラーの伝説的グラフィック・ノベル「バットマン:ダークナイト・リターンズ」は、本作にも多大な影響を与えている。
物語的には、スーパーマンのリブートとなった「マン・オブ・スティール」からの直接の続編で、監督もザック・スナイダーが続投。
脚本チームには前作のデヴィッド・S・ゴイヤーに、「アルゴ」でオスカーを受賞したクリス・テリオが加わった。
歴史的な超大作は、果たしてウルトラスーパーな仕上がりになったのだろうか?
※核心部分に触れています。

スーパーマン(ヘンリー・カヴィル)とゾッド将軍(マイケル・シャノンの戦いから2年。
その力を良きことに使おうとするスーパーマンは、世界中で多くの人を救ってきたが、一部の人々からは人類を滅ぼしうる脅威として敵視され続けている。
一方、幼い頃に両親を殺されたトラウマから、ゴッサムシティの犯罪者を一掃することを目指すバットマン(ベン・アフレック)は、ある事件をきっかけにスーパーマンの正義に疑念を抱く。
やがてスーパーマンを倒さなければならないという思いにとりつかれた彼は、大富豪のレックス・ルーサー(ジェシー・アイゼンバーグ)が密輸したクリプトナイトを手に入れ、スーパーマンに戦いを挑もうとするが、全ては狡猾なルーサーの陰謀だったのだ・・・・



「マン・オブ・スティール」の大破壊から始まる物語。
スーパーマンとゾット将軍、二人の超人の激突によって、巻き添えをくったメトロポリスは瓦礫の山と化す。
この戦いをバットマン、即ち地上の人間の視点で捉えた冒頭のシークエンスが秀逸だ。
9.11のWTC倒壊を思わせる、ウェイン・エンタープライズ・ビルの崩落。
自分たちの力ではどうにもならないものが、同じ世界に存在していることに対する畏怖の念を感じさせる。
しかし、このまま人類がスーパーマン排斥に動くのかと思いきや、どうもそうではない。

本筋の物語は、「マン・オブ・スティール」の2年後から始まる。
どうやら人類は、侵略者ゾット将軍を倒した救世主として、スーパーマンを一応は受け入れたらしく、事件の犠牲者の慰霊碑の真ん中に巨大な像まで建てているくらいなのだ。
だが、あまりに強大な力の存在を脅威と考える人々もいて、その一人が自社ビルをぶっ壊されたバットマンというわけ。
一方で、闇に紛れて非合法に犯罪者を狩り立てるバットマンの存在は、崇高なる正義を体現するスーパーマンにとっては忌むべきもの・・・・ではあるのだろうが、バットマンは最初のうちは別の事件を追っていて、いつの間にか打倒スーパーマンにのめりこんでいるし、スーパーマンにとって何の特殊能力も持たず、市民社会の脅威でもないバットマンなど、そもそも取るに足らない存在であるはず。
本作の大きな問題は、タイトルロールの二人がお互いを嫌いあう程度ならともかく、なぜ存在を消し去りたいとまで考えるのかが全く描けていないことだ。

行動の動機が不明瞭なのは、彼ら二人だけではない。
本作のヴィランであるレックス・ルーサーは、いったい何がやりたかったのだろう。
スーパーマンに罪を着せてバットマンと戦わせ、よしんば目障りなヒーローを二人葬り去ったとしても、クリプトンのテクノロジーで作っちゃったアレを、自分で制御できるわけもなく。
主要登場人物の誰一人として、行動の理由付けが十分に描けていないのだから、中盤以降物語は整合性を失って行き当たりばったり。
冒頭の大破壊で提示されたはずのテーマも、いつの間にかどこかへ吹っ飛んでしまう。

もっとも、ストーリーからテリングに目を移せば、こちらはなかなかだ。
最大の売りである二大ヒーローの対決は、普通ならどう考えても神に等しい力を持つスーパーマンがバットマンを秒殺して終わりなのだけど、それなりに説得力のあるものになっていた。
ただし、二人の戦いの決着は腰砕けだ。
あれほどスーパーマンを憎んで、周到に用意してきたバットマンの心変わりの理由が、まさかの「スーパーマンくんとぼくのママの名前がおんなじだったから」ってどこのマザコンだよ(苦笑
まあこの二人は、どちらも親を早くに亡くして(スーパーマンの場合は養父母がいるが)、どこかいびつに大人になってしまったキャラクターで、それゆえに「親を愛するスーパーマン=自分と同じ正義を持つ」という事なんだろうけど、描写として唐突過ぎて全く説得力が無い。

そんな分かりやすい欠点だらけでも、本作がつまらないかというと、全然そんなことは無いのだから困る。
あちこち突っ込みながらも、二大ヒーローの対決には心躍ったし、クライマックスのクリプトンの怪物vsヒーローズの大バトルは大いに盛り上がる。
いい意味で大味というか、ダークな色彩が薄れマーベル化してるので、アメコミお祭り映画としてはむしろ気楽に観られて楽しいのだ。

ただ、クライマックスのシークエンスで一番美味しいのは、バットマンでもスーパーマンでもなく、ゲスト出演的なワンダーウーマンである。
「ワイルド・スピード」シリーズのジゼル役で知られるガル・ガドッドのワンダーウーマンは、抜群のスタイルもあって、派手な衣装が映える!

ハンス・ジマーもそのビジュアルに惚れたのか、渾身の劇盤で盛り上げ、彼女が颯爽と登場するシーンはあまりのカッコ良さに鳥肌が立ったよ。
ある意味で本作は、筋立ての呪縛から自由なワンダーウーマンの出現によって、なんとか救われたと言えるかもしれない。

ダメな脚本からは、どう足掻いても名作は生まれない。
このセオリー通り、本作は正直なところ褒められた出来ではないが、「映画はビジュアル」を信条とするザック・スナイダーは、圧倒的な熱量を持つテリング、映像演出によって少なくとも本作をエンターテインメントとして鑑賞に足るものとしている。
ノーラン版バットマンを引きずり、重厚なテーマを打ち出した「マン・オブ・スティール」の続編と捉えると、なんだかグダグダなまま終わってしまった様に思うが、DC版スーパーヒーロー大集合映画「ジャスティス・リーグ」の序章、お祭り映画の一本目として観れば、まずまず楽しめるのではないだろうか。
ところで、ベン・アフレックのバットマンは、前評判よりはるかに良かった。
口半開きじゃなかったし。

今回は、ユニークなビールを数多くプロデュースしているカリフォルニアのブリュワリー、ベア・リパブリックからバットマンのイメージで黒ビール「ビッグ・ベア ブラック・スタウト」をチョイス。
コーヒーの様なビターな渋みと、このブリュワリーの特徴でもある柑橘系の甘い香りが絶妙にブレンド。
ヨーロッパや日本の黒ビールとはまた違った、アメリカンビールらしい飲みやすさがある。

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「父を探して」と冒険する子どもたち
2016年03月25日 (金) | 編集 |
なにかと物議を醸している今年の東京アニメアワードフェスティバル(TAAF)だが、もちろん作品には罪はない。
今回上映された、素晴らしいクオリティの海外長編アニメーションを3本ご紹介。
このうち、ブラジルの「父を探して」はアヌシーで2冠、アカデミー賞にもノミネートされた作品で現在公開中だが、残りの2本は現時点では日本公開は未定。
いずれも、何らかの理由で故郷を離れ、冒険の旅に出る子どもたちを描いた作品である。
以前から書いていることだが、日本人の映画観客の大半は「アニメ」は知っていても「アニメーション」は殆ど知らない。
海外の優れた作品を観られる様、少しでもアクセシビリティが良くなって欲しいのだけど。

「父を探して」・・・・・評価額1700円

ブラジルのアレ・アブレウ監督の独創的な長編は、基本的に台詞なしの限りなく抽象アニメーション的なテリングが特徴。
とは言っても、物語は分かりやすく、しっかり構成されているので、決して敷居は高くない。
冒頭、真っ白な画面にポツリと現れた点から、様々な色や形、音楽が生まれてくる。
やがてそれは、主人公の少年が見ている「あるもの」のミクロの姿だとわかり、そこから世界は徐々にマクロに広がってゆくのだ。
この映画の世界観は、基本的に彼の主観的世界と捉えることが出来る。

少年は農民の父と母との三人暮らしだが、ある時父は家族を残し出稼ぎに行ってしまう。
草原の彼方からやって来た列車に乗って、父が旅立ってゆく辺りは、何処かへと去った父を待ち続ける娘の生涯を描いた、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の傑作短編アニメーション「岸辺のふたり」を思わせる。

だが本作の少年は、ただ待ち続けるのでは無く、父を探して冒険の旅に出るのだ。
映像表現にはクレヨンや色鉛筆、写真のコラージュなど、様々な手法が使われており、映像が音楽を可視化するような表現もユニーク。
子どもの落書きを思わせるカラフルな絵はとても可愛らしいのだけど、少年の辿る旅路が絵柄からは想像もつかない、高度な社会風刺になっているのが面白い。


旅の途中で少年が出会うくたびれたおじさんは、綿花のプランテーションにたどり着くも、ひ弱ゆえに早々にクビに。
収穫された綿花が運ばれる繊維工場へと忍び込んだ少年は、そこで働く青年と共に都市のスラムにある彼の家へ。
その街では、人々が搾取にプロテストしているが、資本と一体となった権力によって弾圧される。

おそらくは先進国のメタファーである、文字通り“手の届かない世界”に運ばれた繊維は、煌びやかな服飾製品となって都市に戻ってくるも、工場で働く貧しいものたちには高嶺の花だ。
奇しくもルセフ政権の汚職事件で、数百万人とも言われる人々がデモに参加しているブラジル。

ここでは、ブラジル社会の抱える厳しい現実が、幼い目によって抽象化されているのである。


しかもこの映画、それだけでは終わらない。

詳細を記すのは控えるが、物語にある仕掛けがしてあって、その事が明かされてから一気に情感が高まり、切なさに涙腺が緩む。
少年の父を探す遠大な冒険は、そのまま人生の旅路であると同時にブラジルという国の歴史でもあり、匿名性の高いシンプルなキャラクター・デザインが、ここで大きな意味を持ってくる。
絵柄の可愛さから、子供向けと思ってはいけない。
説明要素を極力排したストーリーテリングは、観る人の知識や人生経験とリンクして膨らむようになっており、基本的にある程度の年齢以上の大人向けの映画だ。
映画が終わった時、少年は私であり、貴方になっているはずである。

「ADAMA」・・・・・評価額1650円

ユニークなスタイルを持つ、Simon Rouby監督のフランス映画。
主人公の少年アダマが住んでいるのは、高い崖によって円形に囲まれ、外界から隔絶されたアフリカの秘密境だ。
この土地の住人は独自のスピリチュアルな文化を維持しており、崖の外側は“ナサラ"という存在が支配する“風の世界”で、行ってはならない場所とされている。
ところが兄サンバが「戦士になる」と言い残して外界へと消え、アダマは村人の制止を振り払い、兄を探して冒険の旅に出る。
砂漠の彼方の海辺の街で、兄は海の向こうの戦場に行ったらしいことを聞くと、宗主国のために出征する兵士たちに紛れて、巨大な鉄の船に密航して海を越え、見た事もない白い人々が暮らす世界を巡り、やがて辿り着くのは第一次世界大戦の最前線。
フランス軍とドイツ軍合わせて、70万人以上の死傷者を出した激戦地、ヴェルダンの地である。

少年の旅には、アフリカの呪的スピリチュアリズムが影のように寄り添い、彼の魂を守っている。
リアルでありながらファンタジー、デジタルとアナログを融合させたような映像のテイストも世界観に沿ったもの。
油彩調の美しい背景、クレイモデルを撮影し張り込んだという、アフリカの土を思わせる質感のキャラクターは、この作品に独特の“手触り”を与えている。
故郷の村の牧歌的風景から、戦時下の陰鬱なパリ、硝煙立ち込める酷寒の戦場まで、繊細な描き分けがなされているのも見ものだ。

アフリカに広大な植民地を抱えていたフランスは、今もその文化的影響を色濃く受けている。
本作だけでなく、例えばミッシェル・オスロの様に、アフリカにモチーフを求める作家も多い。
それはおそらく、嘗て支配した異文化を鏡として、自らの世界を見つめ直す事が出来るからだろう。
ヴェルダンの激戦を目撃するアダマの純真な目には、自然のサイクルから離れた人間がもはや人間でなくなり、全て文明が土塊と化すのが見える。
残念ながら、今の日本にこの作品のマーケットが存在するとは思えず、正式公開の可能性は限りなく低いだろう。
しかしこれは他に似た作品の無い、高い社会性を持った独創の戦争アニメーションであり、異色のスピリチュアル・ファンタジーである。
映画祭でのたった一回の上映で終わるには、あまりにも勿体無い。

「TOUT EN HAUT DU MONDE(LONG WAY NORTH)」・・・・・評価額1700円

Rémi Chayé監督による、フランスとデンマーク合作映画。
いや〜これは文句無しに面白い、王道の冒険映画である。
舞台となるのは19世紀後半のロシア。
著名な冒険家のオルキン船長率いる探検船は、前人未到の北極点を目指す旅の途中、消息を断つ。
15歳の勝気な孫娘サーシャは、祖父の名誉を守るために、たった一人で祖父の旅路を辿り、消えた船を探す旅に出るのだ。

思うにこの映画の作者は、ジブリ映画、特に「天空の城 ラピュタ」が大好きなのではないだろうか。
祖父の冒険を孫娘が継ぐ、世代を超えた冒険の継承という部分はもちろんだが、彼女が乗り組む事になる砕氷船での生活描写など、あちこちにラピュタっぽい要素が散見される。
またサーシャのキャラクターは、宮崎駿にも大きな影響を与えた、レフ・アタマーノフ監督によるロシアのアニメーション映画、「雪の女王」の主人公ゲルダのイメージも感じさせる。
本作の作品世界には、アニメーション映画の豊かな歴史が内包されているのだ。

81分の上映尺の中で、実に色々な事が描かれている作品で、見応えたっぷり。
ここには、未知の世界への憧れ、危険な冒険のスリル、さらに初恋、友情、家族の情愛がある。
最初向こうっ気が強いだけの上流階級のお嬢様は、数々の苦難に直面し、葛藤を乗り越える事で、物語の終わりには祖父の志を継ぐ立派な冒険者、自立した女性に成長しているのである。
主人公だけでなく、主要人物皆が何らかの変化を経験しているのも良い。
頑固一徹な砕氷船の船長は、他人への寛容と信頼を学び、船長の弟で兄へのコンプレックスを抱える一等航海士は、リーダーとしての責任を知り、そしてサーシャと仲良くなる少年船員は、ほのかな恋心によって男の子として大いに成長する。

雪と氷の世界の映像も素晴らしく、主線を排した緻密で秀逸なキャラクターアニメーション制作にフラッシュを用いているのに驚く。
実によく出来たファミリー映画で、絵柄に慣れてしまえばキャラクターへの感情移入もしやすいだろう。
うまくプロモーションすれば、日本でも受け入れられそうな作品だと思うので、なんとか正式公開を期待したい。

この3本には、代表してブラジルの「カイピリーニャ」をチョイス。
サトウキビの蒸留酒、ピンガのトップブランドであるカシャッサ51を用意。
皮ごとのライムを1、2センチ角にぶつ切りにしてグラスに入れ、1~2tspの砂糖をまぶし押しつぶす。
クラッシュド・アイスを加えて、カシャッサ45mlを注いで、ステアする。
カイピリーニャとは田舎者の意味だが、その名の通り素朴でやや重めのピンガの味わいを、ライムの清涼さがすっきりフレッシュに引き立てる。

ところで去年のTAAFで上映された「MUNE」も素晴らしい作品なんだけど、未だ公開も発売もされず。
劇場公開が難しいなら、こういった海外アニメーションこそNHK辺りが積極的に紹介してほしいものだ。

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ショートレビュー「家族はつらいよ・・・・・評価額1650円」
2016年03月21日 (月) | 編集 |
東京家族の裏側で。

2013年に発表された「東京家族」は、小津安二郎の歴史的な名作「東京物語」を極めて忠実にリメイクした作品だが、そのテーマは対照的なものだった。
オリジナルに対して、リメイクは人間たちが優しい。
小津は、高度成長期前夜の1953年を背景に、家族という日本社会の基盤をなすミニマムなコミュニティの喪失を描き、その先にある伝統的な共同体意識の解体を予見して見せた。
対して山田洋次は、殆ど同じ物語を使いながらも、3.11を経験した日本の未来に、若い世代による共同体再生のささやかな希望を描いたのである。
「家族」の中に「物語」を内包する事で、太平洋戦争から東日本大震災へと繋がるループを形作り、喪失を克服する希望が、よりくっきりと浮かび上がるというわけだ。

では今回はというと、山田洋次から小津安二郎への再びのアンサームービーなのは同じだが、なるほどこれは「東京家族」の姉妹編というか、セルフパロディの構造を持つ作品。
予告を観た時からデジャヴを感じまくりだったのだが、2本の映画は物語の中心となる家族を演じる俳優が全く同じである。
親世代の熟年夫婦が橋爪功と吉行和子、長男夫婦が西村雅彦と夏川結衣、長女夫婦が中島朋子と林家正蔵、そして次男とその恋人が妻夫木聡と蒼井優。
たんに配役を合わせてあるだけでなく、例えば橋爪功の役は前作が平山周吉で今回が平田周造、吉行和子は平山とみこに平田富子と役名まで似せている。
作者が本作と「東京家族」の間に、強い関連性を持たせようとしてるのは明らかだ。

例えば前回が「これからの日本の社会は、こうあってほしい」という願いで作られたものだとしたら、今回は「とは言っても、なかなか上手くいかないこともあるよね。人間だもん」という感じだろうか。
この国の共同体のあるべき姿のイメージから、より具体的かつ小さくて普遍的なコミュニティの葛藤に落とし込まれている。

物語の軸となるのは、昭和な大家族に降って湧いた熟年離婚の危機だが、長年の小さな葛藤が積もり積もって爆発しちゃった親夫婦を見つめるのは、自分たちもマンネリ化しつつある長男、長女夫婦の世代、そして今まさに夫婦になろうとしてる次男カップルと、それぞれが家族の歴史の段階を体現し、問題の捉え方も世代差があるのが上手い。

いつの間にか出来てしまった大きな溝を埋めるのは、言葉を伝えること、気持ちを伝えること
全編ほぼ喋りっぱなしの会話劇。
家族それぞれの言葉が傷を浮き立たせて癒し、本音をぶつけ合うことで新たな絆も生まれてゆく。

「東京家族」の父と長男が教師と医師だったのに対して、こちらはサラリーマン親子なのも観客との距離を縮める工夫かもしれない。

少子高齢化による住宅地の過疎化など、現実の厳しさをさりげなく織り込みながら、物語の着地点はあくまでも松竹らしい喜劇。

「男はつらいよ」の最終作「寅次郎紅の花」から早21年も経ったが、山田洋次の笑いのセンスは全然衰えてない。

懐かしの大船調のテイストは、フィルム上映版で観られて良かった。

今回は、東京の地酒「屋守 純米 荒走り」をチョイス。
「金婚」で知られる東村山市久米川町の豊島屋酒造の四代目が、「東京の旨い酒を全国に発信したい」と15年ほど前に立ち上げた銘柄で、今や酒好きの間で知らない者はいないだろう。
「荒走り」は、日本酒の最初の搾り部分を瓶詰めしたもの。
いわゆる端麗辛口系とは異なり、際立つのはむしろ米の香りと仄かな甘味。
豊潤な旨味、喉ごしのスッキリとした清涼感も楽しめる。

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アーロと少年・・・・・評価額1750円
2016年03月16日 (水) | 編集 |
永遠に、友だち。

6500万年の昔、大隕石が地球にぶつからず、恐竜たちが滅びなかった世界を舞台にした冒険ファンタジー。
とある事件によって、故郷から遠く離れてしまった臆病な恐竜の子ども・アーロと、ひょんな事から彼と行動を共にする人間の子ども・スポットとの出会いと別れの物語を、アメリカ中西部を模した雄大な自然を背景に描く。
脚本は「インサイド・ヘッド」のメグ・レフォーヴ、監督は短編「晴れ ときどき くもり」のピーター・ソーン。
ピクサーの長編監督としては史上初のアジア系監督であり、「カールじいさんの空飛ぶ家」のラッセル少年のデザイン・モデルとしても知られる人物だ。
実に6年に及ぶ制作過程の紆余曲折を経て、ようやく日の目を見た本作は、製作費が巨額のマーケティング費用とあわせて3億5千万ドルに及ぶといわれ、ピクサーの作品としては初めて赤字となってしまった。
アメリカでの批評も割れていたが、実際に観てみればいつも以上の素晴らしさ。
王道の傑作娯楽映画である。
※核心部分に触れています。

アパトサウルスの子どもアーロは、三姉弟の末っ子で、臆病な性格を活発な兄姉にからかわれてばかり。
ギザギザ山の麓でトウモロコシ農家を営む父親のヘンリーと母親のイダは、作物を荒らす人間という生き物に悩まされている。
ある日、収穫の見張りをする事になったアーロは、罠にかかった人間の子どもに怯えて取り逃がしてしまい、ヘンリーと共に追跡に出る。
ところが、突然の嵐で鉄砲水に巻き込まれ、ヘンリーはアーロを助けて自分は亡くなってしまう。
父の死に責任を感じるアーロは、再び人間の子どもが戻ってきているのを見つけ、捕まえようとして一緒に川に転落し、目を覚ましたときには見知らぬ土地に一人ぼっち。
帰り道が分らず彷徨うアーロの前に、あの人間の子どもが現れる。
共に故郷から遠く離れ、孤独な身の上。
いつしか二人は心を通わせるようになり、アーロは人間をスポットと名づけて、一緒に故郷への道を探そうとするのだが・・・



恐竜だけが言葉を話し、素朴な文明を作り上げたパラレルワールドは、西部開拓史をモチーフにした魅惑的世界だ。

ここでは草食のアパトサウルスが農民で、哺乳類の牛を飼うT-レックスはカウボーイ、ヴェロキラプトルは卑劣な牛泥棒、翼竜のプテロダクティルスは弱い生き物を狙う狡猾な悪党で、原語版では監督自らが演じるスティラコサウルスは森の賢者(というか変人)。
そして人間は、言葉を持たず四足で走り回る犬、あるいは狼のポジションとなる。


物語は全く奇をてらった所の無い、王道の流離譚だ。

怖がりで、何をやってもうまくいかないアパトサウルスのアーロが、人間の子どもと友だちになり、故郷への困難な旅を通して立派に成長する。
家族と別れて帰還を目指す少年の冒険物語は、ディズニーの系譜において古くは「ピノキオ」から「ライオンキング」「ボルト」に至る伝統の話型であり、ピクサーの「トイ・ストーリー」シリーズなどもその変形と見ることが出来るだろう。
本作はそこに「気弱な少年と忠実な飼い犬の物語」を、立場を逆転させて組み込んだというわけだ。

一頭と一人は、時には怖ろしい恐竜たち、時にはもっと怖ろしい大自然の脅威に向き合わねばならない。
元々臆病だったのに、ヘンリーの死によってトラウマを抱え込んだアーロが、父の命を奪った時と同じ、嵐が引き起こした鉄砲水からスポットを救出するシークエンスは、物語の見事な連環であり、その後スポットの身に起こるある出来事と共に、感動的なクライマックスを形作る。
旅の途中で出会うT-レックスのブッチは、怖がりな自分にコンプレックスを持つアーロに、「怖いもの知らずでは生き残れない。恐怖を受け入れて乗り越えるんだ」と諭す。
このアドバイス通り、彼はちゃんと怖がりつつ、トラウマに立ち向かって勝った。
そして、冒険によって多くを学んだアーロは、自分の欲求よりも孤独な友だちの幸せを優先させられるほどに成長しているのである。


今回の技術的チャレンジは、圧倒的自然描写。
時には静かに時には濁流渦巻く川、風が吹き抜け木の葉が揺れる森、刻々と表情を変える空、荘厳にそびえ立つ雪山。

シンプルかつ普遍的な物語を、恐ろしくリアルだけど、この世界のどこにも無い壮大なランドスケープが包み込む。
超絶の完成度は、もしも恐竜と人間が写っていなければ、ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルあたりのネイチャー・ドキュメンタリーと見分けがつかないだろう。

さらに、この豊かな世界の生態系も見もの。
恐竜たちと人間以外の動植物は、デザイン的にカリカチュアが弱めで景観に自然に溶け込んでおり、それぞれの特徴がうまく見せ場に繋がっている。
蛍的な光る虫が乱舞するシーンは幻想的な美しさだし、現在のプレーリードックっぽい生き物でモグラ叩き的ギャグをやるシーンは大いに笑かしてもらった。
まあカワイイ動物が餓えたプテロダクティルスに丸呑みされちゃったり、発酵した木の実を食べたアーロとスポットがラリって悪夢を観るシーンとか、小さいお友だちにはちょっとしたトラウマかもしれないけど。
そして牛である!まさかディズニー・ピクサーのファンタジー映画で、迫力のスタンピードを見られるとは夢にも思わなかったよ。


本作の世界観のベースとなっているのは、ワイオミング州に広がるグランド・ティトン、イエロー・ストーンの両国立公園。
さらにアメリカ中西部のあちこちの地形を組み合わせて構築している。

ランドマークとなっているギザギザ山はティトン山脈で、アーロの住んでいる家のモデルもグランド・ティトンに残る20世紀初頭の農場跡、T. A. Moulton Barnだろう。

グランド・ティトンを舞台にした西部劇といえば、やっぱ「シェーン」なわけだが、ソーン監督は子どもの頃に観たこの映画が大好きだそうで、なるほど本作の世界観には彼の映画的記憶がオマージュされているのである。
牛を追って走るT-レックスたちの動きが、馬に乗るカウボーイに見える演出など実に芸が細かくて、作者の深い西部劇愛を感じる。
ちなみに、来月から「シェーン」がデジタルリマスター版でリバイバル公開されるのも、嬉しい偶然だ。

映画は素晴らしいのだけど、唯一残念なのが吹替え版しか提供されていない事。
ピクサー作品としては比較的低年齢層に向けた作品だし、吹替え需要が大きいのは分るが、やはり声の要素が総取替えされた吹替え版は、オリジナルとは別の作品だ。
カウボーイのブッチ役にサム・エリオットのキャスティングとか、デビュー作の「明日に向かって撃て!」へのオマージュなのは明らかで、こういうワクワクはやはり日本語では味わえない。
せめて六本木あたりでは、原語版を上映してもらえないかね。

同時上映は、サンジャイ・パテル監督が、自らの幼い日の記憶を元に作り上げた「僕のスーパーチーム(Sanjay’s Super Team)」で、ヒンズーの神々をスーパーヒーローに見立てた異色作だ。
主人公のサンジャイ少年は、テレビのヒーロー番組に夢中。
ところが信心深いお父さんに、一緒に祈りを捧げる様に言われる。
心ここにあらずのサンジャイの脳内で、ヴィシュヌ、ハヌマーン、ドゥルガーといった神さまたちが、悪と戦う妄想が湧き上がるという筋立てで、ヒーロー化した神々の繰り出す技が面白い。
「アーロと少年」のピーター・ソーン監督は韓国系で、同時上映の監督はインド系と、今回のプログラムはなぜかアジア色が強いが、やってるのは西部劇だったりヒーローものだったり、アメリカンなモチーフなのが面白いな。

今回は夜景が印象的に描写されていた作品なので、ロッキー山脈の麓の街、デンバーで生まれたクラフト・ビール「ブルームーン」をチョイス。
1995年に登場した比較的新しい銘柄だが、急速に米国のビール好きに受け入れられ、今では定番の一つに。
ベルギースタイルのホワイトエールは、ライトな喉越しがとても飲みやすい。
スライスしたオレンジを添えるのが定番で、元々フルーテなテイストがさらに引き立つ。
ほのかな甘味が隠し味的に効いている。

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マネー・ショート 華麗なる大逆転・・・・・評価額1700円
2016年03月11日 (金) | 編集 |
全く華麗でない大逆転。

2008年のリーマン・ショックは、なぜ起こったのか?
人々を破滅に追い込んだ、本当の悪はなんだったのか?
世間が住宅バブルに浮かれ、湯水の様に金をつぎ込んでいた頃、いち早く暗黒の未来を予見した四組のプロフェッショナルたちがいた。
誰もが結末を知る本作は、世界経済の“負け”に賭けた彼らを通して、時限爆弾が爆発するまでのプロセスを、その仕組みを分りやすく解説しながらスリリングに描く。
「アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事!」や「俺たちステップ・ブラザーズ 義兄弟」などで知られるコメディ畑のアダム・マッケイ監督は、物語映画の枠を超えるテリングの工夫によって、金融という小難しいモチーフを、疾走するエンターテイメントに仕立て上げた。
決して邦題のような「華麗な」物語ではなく、むしろ転落上等なマネーゲームのダークサイドをのぞき見るような、異色のエコノミック・サスペンスだ。

2005年、金融トレーダーのマイケル・バーリ(クリスチャン・ベール)は、不動産関連の金融商品を調べているうちに、低所得者向けの住宅ローン(サブプライム・ローン)が、近いうちに大規模なデフォルトに陥る可能性に気付く。
だが、時代は住宅ブームの真っ只中。
不動産価格は上がり続け、幾つもの住宅ローンをまとめた金融商品は濡れ手に粟の錬金術のツールとして、ウォール街を潤しており、マイケルの予測は誰からも相手にされなかった。
そこでマイケルは、債務がデフォルトした場合の保障をするCDSという金融商品に目をつけ、巨額の資金を投じて、デフォルトなど起こるわけがないと考える金融機関からCDSを買い集める。
ドイツ銀行のジャレッド・ベネット(ライアン・ゴズリング)は、マイケルの予測と行動を察知し、ウォール街のシステムに不信感を抱いているヘッジファンド・マネージャーのマーク・バウム(スティーブ・カレル)に、CDSの購入を持ちかける。
一方、住宅バブルに乗じて金融の世界へ乗り出そうとしている若い投資家、ジェイミー(フィン・ウィットロック)とチャーリー(ジョン・マガロ)は、偶然マイケルの分析を目にする。
ウォール街に実績のない彼らは、元銀行家のベン・リカート(ブラッド・ピット)を巻き込み、CDSに投資しようとするのだが、それは膨らみ続けるバブルとのこんくらべの始まりだった・・・・


実に面白かった。
これはドラマと言うよりは、ジャーナリズムとしての映画である。
ファースト・プライオリティは、人間を掘り下げて成長を描く事ではなく、金融恐慌を引き起こした仕組みを紐解き、新たなバブルへの警鐘を鳴らすこと。
もちろん、その仕組みを作ったのは人間の欲望なので、そこはしっかり抑えられている。
冒頭から情報量は圧倒的で経済の専門用語が飛び交うが、必要最低限のことは登場人物がスクリーンの向こうからカメラ目線で解説してくれ、そのためだけになぜかセレーナ・ゴメスとかが本人役で出てくるのが可笑しい。
物語をスクリーンの内側に閉じ込めない、擬似インタラクティブ的な構造としたのは、情報を解説するためだけでなく、この作品が現実世界とダイレクトに繋がった“ファクト”を描いていることを、自然に観客に意識させるためだろう。

まあ予備知識なしでもついて行けるとは言え、いくつかの経済用語の意味を理解していた方が楽しめるのは間違いない。
特に重要なのは、アルファベットを組み合わせた三つのキーワード、全ての前提となるMBS、劇中で主人公たちがかき集めるCDS、リーマン・ショックを引き起こしたCDOである。
このうち、MBSはMortgage Backed Securitiesの事で、住宅ローンの債権を金融商品としたもの。
住宅ローンには、信用が高い人向けのプライム・ローンと、低所得者やクレジット履歴の無い信用の低い人向けのサブプライム・ローンがあって、どちらもMBSとなるのだが、当然サブプライム・ローンはリスクが高いので、プライム・ローンのMBSより金利が高くなる。

残るCDSとCDOは、アルファベットだとたった一字違いだが、意味は全く違う。
CDSはCredit Default Swapの略で、端的に言えばある事象に関してデフォルトが起きるか起きないかを予測するデリバティブ商品。
本作の主人公たちは、MBSが暴落した時に巨額の保険金を手にする契約で、CDSを投資銀行から買い集める。
投資銀行としては、そんな事態は起こりえないと考えていて、定期的に支払われる保険料を丸儲けできるとウハウハ。
逆にCDSに自己資金をつぎ込んでいる側としては、早くデフォルトが起こらないと、投資銀行に対する保険料支払いにも困る事になる。
マイケルが最初にバブル崩壊を予測してから、実際にリーマン・ショックが起こるまで3年かかったので、その3年間はCDSは紙くず同然で、ただただ支出だけが増え続けているのだ。

もう一つのCDOは、Collateralized Debt Obligationの事で、金利の高いものや低いもの、色々な債権をミックスして一つの金融商品にしたもの。
要するに借金の借金、また貸しみたいなもので、金利の差が売り手の儲けとなる。
ミックスされている債権の金利の平均が8%だとすると、販売元はこれを7%にして市場で売ってしまう。
販売元は、何もしないでも差額の1%を儲けることが出来るのだけど、とにかく色々ミックスしているので、中にとんでもなくリスクの高い債権も紛れ込ませている。
そしてハイリスク債権の多くが、サブプライム・ローンのMBSだったのだが、格付け会社はろくに中身を調べもせずに、CDO安全性に問題なしと太鼓判を押してしまい、結果CDOは売れに売れてウォール街を潤した。
要するに全ては金融システムのインサイダーたちの馴れ合いとデタラメの産物で、そんな美味しい話が続くわけもなく、住宅バブルがはじけるとCDOの価値は暴落。
CDOの買い手だった世界中の金融機関をパニックに落としいれ、不良債権化したCDOを最も多く抱えていたリーマン・ブラザーズが破綻に追い込まれたのが2008年の9月15日。
この時点で、危険な賭けにでた四組のプロフェッショナルたちは大儲けしたというわけだ。

しかし、前記した様にこの映画には「華麗な」とか「痛快な」といった言葉はそぐわない。
終盤、自分たちが億万長者になったことに喜びはしゃぐジェイミーとチャーリーを、ブラッド・ピット演じるベンがたしなめる描写がある。
彼らが賭けに勝ったという事は、アメリカ経済にとっては大敗北を意味する。
ウォール街だけでなく、アメリカ中、いや世界中の人が仕事や財産を失い、場合によっては命まで落とすのである。
その事の意味を噛み締めれば、たとえウォール街を出し抜いたとしても、大はしゃぎできるようなことではない。
本作が上手いのは、決して掘り下げられている訳ではないものの、主要登場人物の四組をそれぞれに、成功に対して静かな葛藤を抱える人々と描写した事だ。
最初にデフォルトの可能性に気付くマイケル、彼の予測を広めるジャレッド、未熟な若者たちのメンターとなるベン。
予見された未来に対する思いは異なるものの、巨万の富を得ても、あくまでも淡々と事実だけを受け入れているスタンスは共通しており、ある程度の苦悩はあっても勝負師の高揚感などは全く描かれていない。
そして、スティーブ・カレルが好演するウォール街の怒れる男、マーク・バウムは本作の実質的な主人公であると同時に、観客の大多数の代弁者である。
他の登場人物は、ビジネス以外の私生活や他者との関わりが全くと言っていいほど描かれていないのに対して、マークだけは妻が登場するのも、彼がほぼ唯一の感情移入キャラクターだからだろう。
彼はヘッジファンドのマネージャーを務めながらも、公正を信条とする人物で、不正が横行する金融市場のシステムを殆ど憎悪している。
なぜ返す当てのない人にまでローンを貸すのか?なぜリスクの異なる債権をごちゃ混ぜにして売るのか?なぜ格付け会社は債権の中身をしっかり調べないのか?そして、リーマン・ショックを招いたシステムに、なぜ根本的なメスが入れられないまま、今日があるのか?
物語を通して、マークの感じる幾つもの疑問は、そのまま観客が抱いている疑問となるのだ。

本作は、日本では先日公開された「ドリーム・ホーム 99%を操る男たち」とセットで観ると、より深く感じられる。
どちらもリーマン・ショックをモチーフとしているが、いわば同じ事象のメタとディテール。
狂騒のマネーゲームによって、市井の人々の細やかな生活がどうなったか。
巨悪の尻拭いをするのは、本作に出てくるウォール街の住人たちではなく、チェスの駒として扱われた一般大衆なのである。
あの映画に出てくるマイケル・シャノンの悪徳転売屋も、本作を見ると歪んだシステムが作り上げた悪の、ほんの出がらし程度に見えてくる。
しかしこの映画に出てくる銀行屋たちのイケイケっぷりは、日本のバブル時代を見てる様。
ラストの字幕を見ると、結局人間は自分の見たい未来だけ見て、進歩しないのかも知れないと思える。
とりあえず、次の不動産恐慌は中国発になるのだろうか。

今回は、ウォール街のあるニューヨークの地ビール、「ブルックリン ラガー」をチョイス。
ウィンナースタイルで、香りはフルーティで華やか。
コクと苦味も適度にあり、比較的ドライなテイストは日本人にも好まれるだろう。
ビターな映画の怒涛の情報量に圧倒され、疲れきった脳をビターに刺激してくれる。

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ショートレビュー「桜ノ雨・・・・・評価額1600円」
2016年03月07日 (月) | 編集 |
誰にでも、忘れられない歌がある。

最近流行り(なのか?)の部活もの。
もちろん昔からあるカテゴリだけど、ここ1年くらいは従来のスポーツ系ではなく、なぜかステージパフォーマンスの部活がやたら目立つ。
「幕が上がる」「くちびるに歌を」「心が叫びたがってるんだ。」そして本作。
テレビドラマを加えれば、「表参道高校合唱部!」もそうだ。
特に合唱部をモチーフにしたものは、上記の中だけで3本もある!
しかも全て主人公は女性である。
スポーツの様に、確立したルールの枠内で闘うのではなく、合唱や演劇は何をどうやるのかはより自由で、とどのつまりは自分自身の内面から湧き出す欲求の吐露だ。
その意味で、青春の葛藤をストレートに表現しやすいのかも知れない。
まあそれでも、似たモチーフの作品が何本も重なると食傷気味になりそうだが、これはなかなか良く出来ている。

ぶっちゃけ、世界観も物語も思いっきりありきたりで、未見性は皆無である。
舞台となるのは、海と山に囲まれた田舎の高校。
主人公の遠野未来は自分の気持ちを表現するのが苦手で、ちょっと優柔不断なところのある内向的な少女。
自分を変えたいと思って新入生の時に合唱部に入部したものの、結局何も変わらないまま2年生になった彼女が、1年生の指導係として初めて責任ある立場に立たされる。
とは言っても特別な事は起こらない。
合唱コンテストへ向けた数ヶ月間に、歌うことについて部の仲間たちと葛藤し、憧れのハル先輩への仄かな恋心に悩み、病気の母を思いやりながら少しだけ成長する。ただそれだけだ。
同じような映画は、たぶん世界中に何百本とあるだろう。
でも、この平凡な物語は観客を飽きさせない。
それは、ここに描かれている事、主人公の抱えている様々なモヤモヤが、誰の心にも残る青春の記憶と重なるからだ。

なぜ歌うのか、合唱によって表現したい気持ちの元になるのは何か。
口べたな未来は、自分の中にある感情をうまく言い表せない。
ハル先輩にも、お母さんにも、部の仲間たちにも色々伝えたい気持ちがあるのに、どうしても言葉を飲み込んでしまうのだ。
彼女にとって、合唱は歌詞にのせて素の自分をさらけ出し、人との繋がりを実感できる時間。
歌っている瞬間だけは、心の殻から抜け出せる。
だから歌いたいし、いつかはハル先輩の様に自分で歌を作りたい。
合唱、演劇、ミュージカルとステージパフォーマンスは数あれど、この根源的な自己表現への欲求がきちんと描かれている作品には、誰もが感じられる経験からくる説得力がある。

本作の元になったのは、数年前からネットで人気になった同タイトルのボカロ曲だという。
正直、全く知らなかったのだが、いかにも二十一世紀的な成り立ちとは対照的に、良い意味で古典的な青春映画の王道プロット。
クライマックス直前の主人公の変化は、シチュエーションからも唐突感があり、部員たちとのエピソードなどは描き足りない要素もある。
しかし、やはり曲が良いのだろうし、役者たちも練習を重ねたのだろう、合唱シーンの高揚が見事で、ここだけでも作品を成立させる力があり、感動的に見せ切った。
恋愛要素があまり前面に出ず、奥ゆかしいのも胸キュンで良い。
静かな青春の熱情を感じさせてくれる、リリカルな佳作である。

ちなみに主演の山本舞香はこれから化けそうな気がするが、最初出てきた時、二階堂ふみかと思った。
並べるとそんなでもないんだけど、顔の雰囲気がそっくりなんだろうな。
という事は、彼女は宮崎あおいとも似てるという事か。

本作のロケが行われた伊豆の、海と山に恵まれた風光明媚な風景は、日本人にとってどこか郷愁を感じさせる。
今回はこの地方の地酒、万代醸造の「純米吟醸 萬耀 」をチョイス。
静岡産の酒米・誉富士と静岡酵母で作られた、地元に拘った一本。
しっかりとした米の味わいと、ふくよかな吟醸香のバランスが良い。
豊かな海の幸を肴に飲みたい。

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ショートレビュー「ヘイトフル・エイト・・・・・評価額1600円」
2016年03月03日 (木) | 編集 |
「ヘイトフル・エイト」とは誰の事か?

猛烈な吹雪で一軒の店に閉じ込められた、8人の怪しい男たちと1人の賞金首の女を巡る密室ミステリ。
なるほど、コレはタランティーノにとっての原点回帰。

要するに西部劇版の「レザボア・ドッグス」なんだな。
登場人物全員ワケあり。
はたして誰が事件を仕掛ける黒幕で、誰が生き残るのか?という訳だ。
しかし100分しかなかった長編デビュー作に対して、こちらは168分、日本では観られない70mmパナビジョン版にいたっては187分もある!

全体が六幕という変則的な構成になっていて、最初の二幕の駅馬車でのドラマにけっこうな尺をとり、三幕目でようやく店にたどり着き、役者が揃う。

駅馬車の乗客は、元北軍将校の賞金稼ぎ(サミュエル・L・ジャクソン)、“首吊り人”と呼ばれる賞金稼ぎ(カート・ラッセル)、彼に捕まった死刑囚の女(ジェニファー・ジェイソン・リー)、自称新任保安官で元南軍側の男(ウォルトン・ゴギンズ)の4人。
彼らの到着前から店にいるのは、店をあずかるメキシコ人(デミアン・ビチル)、黒人嫌いの元南軍の将軍(ブルース・ダーン)、死刑執行人(ティム・ロス)、カウボーイの男(マイケル・マドセン)の4人。

登場人物の設定でも分るとおり、物語の背景にあるのは南北戦争後の深刻な社会分断だ。
お互いに戦場で殺しあった南北の元軍人たちはもちろん、人種間の緊張も物語のスパイスとなる。
サミュエル・L・ジャクソンのキャラクターは、ある意味「ジャンゴ」のその後の姿とも言えかもしれない。
それぞれの過去ゆえにひどく嫌いあう男たちは、女にかけられた1万ドルの賞金を巡って次第に疑心暗鬼に陥ってゆき、遂に事件が起こる。
そして一つの事件は四幕目にさらに別の事件を呼び、孤立した店はやがて血まみれの修羅場となり、五幕目がネタばらし、六幕目がオチという構造になっている。

正確に言えば、上記の8人の他に駅馬車の御者がいるので、店に集うのは合計9人。
「あれ?8人じゃないじゃん。女を抜いて8人なのか?」と戸惑うも、実は冒頭の「the 8th film by Quentin Tarantino」から強調されまくっている、“8”という数字自体がある意味ひっかけなのである。
怒涛の会話劇は、観客の先読みを混乱させるが、ミステリとしての仕掛けは、ぶっちゃけかなり強引というか、殆ど反則だ。
この種の密室ミステリでは、例えばクリスティの「そして誰もいなくなった」の様に、閉ざされた空間の中に、真犯人も含めて全ての要素がもともと揃っているのが基本。
ところが、この映画では、第四幕でそれまで何の伏線も張られていないある人物が突然乱入し、ミステリものとしての作品世界をぶっ壊してしまうのだ。


この唐突なお約束破りも含めて、おそらく全て狙ってるのだろうけど、今回の作品はタランティーノ作品の中ではストーリーテリングがなめらかでない、というかややぎこちなく感じる。
タランティーノは脚本の人という印象があるが、彼のスタイルは元となるワンアイディアがあって、後は強烈にクセのあるキャラクターたちの対抗によって勢いで物語を進めてゆくもの。
あまり緻密に計算されているとは言い難く、ディテールはいつも突っ込みどころ満載なのである。
今回の場合は密室劇という静的な物語だったので、キャラクターの激しい行動によって物語を押し流すことができず、観客に冷静に頭を使わせてしまった。
終盤の唐突な展開も、「ジャンゴ」や「イングロリアス・バスターズ」であれば、動的な展開の流れに組み込むことで納得させられたはず。
まあそれでも、この長尺を十分に面白く見せ切るのだから大したものだが、いずれにしてもオープニング・クレジットのある俳優の名前は、この展開をやるのなら絶対に隠しておくべきだったと思う。

今回は、コーヒーとシチューがキーアイテムとなる映画だったので、濃厚なシチューにあう濃い赤ワイン、カリフォルニアはシャトー・セント・ジーンの「カベルネ・ソーヴィニヨン ソノマ・カウンティー」の12年をチョイス。
カベルネ・ソーヴィニヨンらしく、ベリー系に仄かにスパイスが混じる香りが豊か。
しっかりとしたコクがあり、パワフルなボディは濃厚なシチューの味わいを引き立てる。
カリフォルニアではいたるところで目にする銘柄で、CPも高い。


ところでこれ「アカデミー賞最有力!」って宣伝していて、「いやいや、そんな高尚な映画じゃないだろう」と思っていたのだが、結果音楽賞を受賞したから一応本当になってしまった。
確かにモリコーネのスコアはとても良かったのだが、87歳にしてこれが初受賞とはちょっと驚き。

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