酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ショートレビュー「アイアムアヒーロー・・・・・評価額1700円」
2016年04月30日 (土) | 編集 |
ナチュラルボーン・ヒーローはいない。

安っぽさゼロ、ハリウッド映画とタイマン張れる評判通りの大快作だ。
端的に言えば、漫画家アシスタントである主人公・鈴木英雄の妄想が実現してしまう話である。
名前と違ってヘタレな英雄は、平凡な男がヒーローになるという秘めたる願望を投影した漫画を描いているが、編集部には「主人公が普通すぎる」と全く相手にされない。
長年付き合っている恋人には愛想を尽かされ、遂には部屋を叩き出されてしまう。
ところが、TVから流れる「人間が犬に噛み付いた」という奇妙なニュースから、ゾンビウィルスが発現し“ゾキュン”と呼ばれる感染者の増加により徐々に世界が崩壊してゆく。
最初はTVの中の遠い話だったのが、彼女の感染と共に一気に町内大パニックに陥り、日常が失われるプロセスは秀逸。
個人的には、ザック・スナイダー版「ドーン・オブ・ザ・デッド」以来のワクワクする説得力を感じた。

本作が過去の日本製ゾンビ映画と大きく異なるのが、デジタル映像が可能とした、多種多様で個性的なゾキュンのキャラクター
「リング」や「呪怨」の幽霊に見られる、暗黒舞踏をベースとした人間離れした独特の動きは、Jホラーの大きな特徴となったが、本作のゾキュンはそれにプラスして、頭が半分無かったり、あり得ない関節のつき方をしていたり、生身では絶対表現不可能なカタチを手に入れた。
ロメロゾンビ的スローな個体から、驚異的な身体能力を持つアスリート系、果てはスパイダーウォークまで、色々なタイプのゾキュンが人間だった時の一番強い記憶に縛られていて、その行動を繰り返しているという設定も面白い。

映画は序盤の日常崩壊、有村架純演じるウィルスに半分感染した女子高生との逃避行を描く中盤、たどり着いたショッピングモールで、生き残った人間たちとゾキュンの戦いを描く終盤の三部構成。
全てのゾンビは、ショッピングモールを目指す。
ロメロはじめ多くのホラーのパイオニアにオマージュを捧げ、お約束の人間同士の疑心暗鬼を盛り込みつつも、終盤の展開には十分なオリジナリティがある。
ここで重要なのが英雄の趣味がクレー射撃で、ショットガンを所持しているという設定だ。
ゾンビものの定番ルールは、頭部を破壊されると死ぬというものだが、刃物や鈍器の類で一撃必殺は難しい。
ショットガンの存在によって、外国映画ではお馴染みなれど、日本映画ではついぞお目にかかれなかった派手なバトルアクションが可能となった。
序盤では銃を持っていながら撃つことが出来ないヘタレから、大切な人を守るため真のヒーローに成長する、ダサかっこいい大泉洋vsゾキュン軍団の大バトルは息つく暇もない。

有村架純のキャラクターが、後半殆ど生きてないなど物語的な穴は幾つかあるものの、パワフルなアクション活劇としてのカタルシスが細かい欠点を吹き飛ばす。
予告編はコメディタッチを予感させるものだったが、本編はR15+指定なのを良いことに、人体破壊の限りを尽くす凶悪っぷり。
もっとも、適度なユーモアとカラッとした演出によって、バイオレンス描写の激しさの割には、それほど目と心に痛くないので、そこそこのホラー耐性があれば大丈夫だろう。

しかし色々な意味で、ここまで思い切った作品が、邦画の既存システムの中から出てくるとは思わなかった。
一つ再認識したのは、韓国というリソースは、日本映画の未来にとってものすごく有用だということである。
カーアクションやショッピングモールでの大規模なロケは、国内だけでやっていたら無理だっただろう。
これは一つの試金石となりうる作品だから、是非ともヒットして欲しい。

今回は、舞台となる富士山の麓の地ビール、富士桜高原麦酒の白ビール「ヴァイツェン」をチョイス。
オークトーバーフェストなどのビールイベントでもよく出店しているから、東京でもお馴染みの銘柄だ。
ヴァイツェンとはドイツ語で小麦の意味で、モルトの50%以上が小麦麦芽で作られる。
その特徴は甘口でまろやか、フルーティなアロマ。
苦味が弱く飲みやすいので、ビールが苦手な人にも薦められる。

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ズートピア・・・・・評価額1750円
2016年04月28日 (木) | 編集 |
恐怖を煽る者に「NO!」を。

様々な動物たちが暮らす大都会「ズートピア」を舞台に、ウサギの新米警官・ジュディと、ひょんなことから彼女とコンビを組むキツネの詐欺師・ニックの活躍を描くファンタジー。
なかなか仕事を任せてもらえないジュディがやっと掴んだチャンスから、奇妙なバディは肉食動物たちの失踪事件の裏に隠された、大掛かりな陰謀を暴き出してゆく。
かわいい動物キャラクターとカラフルな世界観は一見子ども向けながら、そのテーマはびっくりするぐらい硬派。
本作が描こうとしているモチーフは、ズバリ「差別」であって、むしろ大きいお友達の心にこそ、ズンと突き刺さる。
監督は、同性婚をしていることを公表している「塔の上のラプンツェル」のバイロン・ハワードと、ゲームの世界でマイノリティの悲哀を描いた「シュガー・ラッシュ」のリッチ・ムーア。

動物たちの大都会、ズートピアにやって来たウサギのジュディ・ホップス(ジニファー・グッドウィン)は、新任警察官。
だが、体の小さなウサギが警察官になった例は過去になく、誰も彼女の能力を信用してくれない。
署長のボゴ(イドリス・エルバ)から与えられた仕事は、捜査ではなく駐禁の切符切り。
そんなある日、ジュディは他の動物たちから差別され、希望を無くした厭世的な詐欺師のキツネ、ニック・ワイルド(ジェイソン・ベイトマン)と出会う。
同じころ、街では肉食動物たちの謎の失踪事件が相次いでいて、警察は大忙し。
捜査から締め出されていたジュディは、当初無関係と思われていたカワウソの失踪事件を担当させてほしいとボゴにかけ合う。
ボゴはしぶしぶ48時間の期限で捜査を認めるが、解決できない時はジュディが仕事を辞めるという条件を出す。
数少ない手がかりから、事件にニックが関わっていると睨んだジュディは、彼を探し出して協力を約束させるのだが、実は失踪事件にはある陰謀が絡んでいて・・・


ここ数年の間、11月のホリデーシーズンのスタートに合わせて新作を公開する事が慣例となっていたいディズニーが、本作を2016年の春に封切ったのには、おそらく意味がある。
これ、明らかに狙って今年のアメリカ大統領選挙にぶつけてきている、ものすごく政治的な風刺劇なのだ。
多種多様なバックグラウンドと個性を持った動物たちが暮らすズートピアは、そのまま世界中から人が集まる現代アメリカのカリカチュア。

主人公のウサギのジュディは「チビの女だから無理」という性差別の、相方のキツネのニックは「キツネだから信用できない」という人種差別の壁に苦しんでる。

監督によると、当初物語の主役はニックだったのだが、厭世的でズートピアの社会を嫌っているニックを視点にして話を進めると、観客が感情移入しにくいという調査結果が出てしまった。
そこで街を愛し、街のために役に立ちたいと願っている、ジュディのキャラクターが作られたのだという。
バディでありながらお互いにアンチテーゼでもある二人の関係は、後述する物語の工夫にもリンクし、結果的にこの変更は大成功だと思う。
ちなみにジュディ・ポップスというキャラクター名は、TVシリーズ版「21ジャンプストリート」のジュディ・ホフス捜査官に酷似している。
彼女もまたチーム最高の学歴を持ちながら、小柄で黒人の女性であるがゆえに差別を受けていた。
またニックのデザインベースは、本作と同じく擬人化された動物たちで描いた1973年の「ロビン・フッド」の主人公のキツネ。
顔つきだけでなく、緑のシャツを着ているのも同作へのオマージュだろう。

立場は違えど社会のマジョリティではないジュディとニックは、事件解決へ向けてバディを組むと、抜群の相乗効果を発揮して結果を出す。
肉食動物たちの失踪は、彼らが原因不明のまま突然知性を失って凶暴化し、異常な事態を憂慮したライオンハート市長によって隠されていたから。
二人のマイノリティは、彼らを蔑んでいた者たちを見事に見返したのである。
しかし本作が秀逸なのは、差別をなくそう!頑張れば皆が報われる!という反差別の単純な図式からもう一歩踏み込んでいるところ
ここでジュディが草食で、ニックは肉食という差異が生きてくる。
この世界では嘗ての捕食者と被捕食者という関係は無くなっているが、人口の9割を占める草食動物は常に肉食動物に潜在的な不信を抱いている様なのだ。
ライオンハート市長が事件を隠蔽していたのも、ズートピア内部で両者の関係が崩壊する事を恐れたため。
10:1はアメリカのアフリカ系人口の比率とほぼ同じであり、ライオンハート市長をオバマ大統領に見立てると、意図するところは分かりやすい。

そして事件解決の記者会見で、ジュディが不用意に発した凶暴化は肉食動物の“血”のせいかも知れないという言葉が、封印されていた草食動物たちの恐怖に火をつけてしまう。
失望したニックはバディを解消して去り、ライオンハート市長は逮捕され、各地で肉食動物を排斥する動きが広がったことで、責任を感じたジュディは失意のうちに警察を辞めざるを得ない。
普段差別される側も悪気なく他者を差別する事があるし、意識せずに憎悪を煽っていることもある。

隠したいコンプレックスの原因を他人に向ければ、それは容易に不寛容と憎しみに変化してしまう。
そして、いつの世にもどこの社会にも、人々の心の奥底にある潜在的な恐怖を利用しようとする者がいるのだ。
自分の中にもあった差別する心に真摯に向き合ったジュディと、彼女を信じたニックは再びバディを組み、人知れず動物たちの心を支配しようとする真の黒幕と対決する。
それは表層的な理想郷ではなく、綻びを綻びと認めることで、本当の意味で「誰でも何にでもなれる」ズートピアへの、長い長い道のりの新たな第一歩なのである。

もっとも風刺的部分は置いといても、テーマはアメリカ社会のカリカチュアに限らない普遍性があるし、ズートピアの世界観を見てるだけでも楽しいのだけど。
ブラッド・バード監督の「トゥモローランド」の未来都市を思わせるズートピアは、極大から極小、極寒から灼熱にいたる動物たちの生息環境をワクワクするアミューズメント都市に再構成。
それぞれの動物たちの特徴が作り出す現象が、現実のアメリカ社会のあるあるネタになっているのもおかしい。
現実でもいつも長蛇の列が出来て、簡単な手続きに異様に時間がかかるDMVの職員を、ナマケモノにしたシニカルなセンスには爆笑してしまったし、リベラルな都市にはつきもののヌーディストのコミュニティに、田舎娘のジュディが恥じらいを隠せないのには、自分が街中で初めて全裸の人を見たときの記憶が蘇った(笑
アイスクリーム屋に掲げられた「We reserve the right to refuse service to anyone.(誰に対してもサービスを拒否する権利を有する)」のサインは訴訟社会のアメリカでは、あらゆるサービス業の店で見かけるおなじみのものだ。

ディテールには、遊び心満載のマニアックな映画・TVネタも満載。
「アナと雪の女王」の「Let it go」から、「風と共に去りぬ」の「Tomorrow is another day」に至る名台詞の洒落た引用。
事件の鍵を握るミスター・ビッグの元ネタはもちろんヴィトー・コルレオーネで、娘の結婚式の設定は「ゴッド・ファーザー」の冒頭シーン。
ジュディが最初に探すカワウソのエミットさんは、ジム・ヘンソン監督の「マペットのクリスマス」の主人公、カワウソのエメットへのオマージュ。
おそらく、他にも無数のディテールが隠されていると思うので、複数回観る時の楽しみになりそうだ。

しかし他者との関わり方、差別とは何か?どうすればよいのか?の様な具体的なテーマを、分かりやすく噛み砕いて子どもたちに伝えようとする姿勢は、振り返って日本のキッズムービーに一番欠けているところかも。
それもディズニーの様な、保守本流のメジャーどころがやっているアメリカの映画文化は、やはり奥深い。
奇しくもマイノリティへの恐怖を煽って、マジョリティの人身掌握につなげる辺りは、今旋風を巻き起こしてるあの人のやってることそっくり。
本作の作り手が一番見せたいのは、子どもたちよりむしろトランプかも知れないな。

今回は、現実世界のズートピアということで、カクテルの「ニューヨーク」をチョイス。
バーボン45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1/2tsp、パウダーシュガー1tspをよくシェイクしてグラスに注ぎ、最後にオレンジ・ピールを絞る。
濃厚なバーボンとライムは実によく合い、甘酸っぱくて微かにほろ苦い。
鮮やかな色味はどことなく野菜ジュースっぽくも見えるので、ジュディに似合いそう。

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ピクサー展 スタジオ設立30周年記念 PIXAR 30 YEARS OF ANIMATION
2016年04月28日 (木) | 編集 |
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故スティーブ・ジョブズが、ルーカス・フィルムのCG部門を買収し“PIXAR”と名付けたのは1986年のこと。
当時誰も見た事が無かった、コンピューターが作り出すキャラクターアニメーションを作り続けて30年。
現在までに公開された全ての長短編を網羅した回顧展だ。
展示は主にコンセプトアートやストーリーボード、カラースクリプトなど膨大なドローイングと、キャラクターの立体モデル。
各セクション、各作品ごとのインタビューやメイキング、短編セレクションなどの映像展示。
伝わってくるのは、徹底的なスートーリー優先、スートーリー至上主義なのがいかにもピクサー。
全てをじっくり見て回るには4、5時間は余裕でかかるだろう。
このボリュームで大人1500円は安いと思う。
東京都現代美術館で5月29日まで。

ところで「メリダとおそろしの森」のほぼ完成されたキャラクターのドローイングに、「2005年」のスタンプが押してあったのには衝撃を受けた。
この映画は2012年公開だから、キャラデサフィニッシュしてから更に7年もかけてるってこと?
・・・体制が違い過ぎて羨むことすら出来ない(・_・;

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レヴェナント:蘇えりし者・・・・・評価額1800円
2016年04月26日 (火) | 編集 |
死の先に、何を見出すのか?

タイトルの「レヴェナント(Revenant)」には、「帰ってきた者」の他に「亡霊」という意味がある。
本作は19世紀初頭のアメリカで活躍した猟師にして探検家、ヒュー・グラスを主人公とし、彼がグリズリーに襲われ、仲間に見捨てられながらも満身創痍で生還を果たした実話を元にしている。
ただ、これは単なるサバイバル劇ではない。
未開拓の原野を這いずりまわる、絶望的な冒険と復讐を通して、グラスが見たものとは一体何か?
昨年の「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」と本作で、2年連続アカデミー監督賞を受賞する快挙を達成したアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督が作り上げたのは、アメリカ創成期を舞台とした壮大な映像神話だ。
エマニュエル・ルベツキの流麗なカメラが縦横無尽に駆け巡り、観客を200年前のフロンティアの荘厳な大自然に誘う。
濃密過ぎる2時間37分の上映時間は、決して長くは無い。

1823年、極寒のフロンティア。
毛皮を狙って奥地に遠征した探検隊は、アリカラ族の襲撃に遭い、命からがら船でミズーリ川に逃げ出す。
ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は、ポーニー族の妻との間にできた息子のホーク(フォレスト・グッドラック)と共に、案内人として探検隊に参加していたが、このまま川を進めば再び襲撃されると判断、陸路で砦まで移動することを進言する。
しかし、偵察に出たグラスは、グリズリーに襲われ、瀕死の重傷を負ってしまう。
助からないと判断した隊長のヘンリー(ドーナル・グリーソン)は、部下のフィッツジェラルド(トム・ハーディ)とブリッジャー(ウィル・ポールター)に、グラスが死ぬまで留まって、埋葬してから合流するように命じる。
ところが、皆がいなくなるとフィッツジェラルドがグラスを殺そうとし、目撃したホークが止めようとして逆に殺されてしまう。
フィッツジェラルドはブリッジャーに嘘を言って、グラスを放置したまま二人で逃げ出すが、奇跡的に一命を取り留めたグラスは、折れた足を引きずり這いつくばったまま、フィッツジェラルドを追いはじめる・・・・・


未見性の塊の様な「バードマン」にも驚かされたが、これはもっと凄い。
物語そのものは、典型的な西部劇の復讐ものである。

息子を殺された主人公が、仇を追い求める、ただそれだけの話だ。

だが、この作品の大きな特徴は、現実世界を主人公の精神世界と並行に捉えることで、リアルなドラマというより、寓話性を帯びた神話的流離譚となっていること。
グラスは、ポーニー族と暮らしていた頃、白人の軍隊に襲われ、妻を殺された過去がある。
以来、彼の肉体はこの世にあれど、魂は半分死んで常に煉獄を彷徨っているのである。
そこに追い打ちをかける、熊による襲撃と仲間の裏切りによる息子の惨殺。
劇中に登場する朽ち果てた教会は、彼の絶望の象徴だ。

ボロボロになったグラスは、大地に這いつくばり血反吐にまみれながら、必死の匍匐前進を続けて逃げたフィッツジェラルドの背中を追い求める。
そこにアメリカ人、フランス人、アリカラ族、互いに敵対するいくつものエスニックグループが入り乱れ、見えざる手によってグラスの運命に絡み合う。
しかし、圧倒的な存在感でスクリーンを支配する本作の真の主役は、ちっぽけな人間たちのドラマを抱く、フロンティアの大自然そのものだ。
実際、ターミネーター並みに頑丈なグラスの壮絶な冒険は、復讐よりもむしろこの荘厳な世界で、生きることの真理を求める旅と言っていい。
死地から蘇り、心に大きな傷を抱えた“レヴェナント”は、復讐を求める冒険の最後に、自らの運命を委ねることで遂に大自然と一体化する。

この構造によって、本作は一個人の浄化の物語を超えた森羅万象の理の寓話、フロンティアの神話となった。

一作毎に映画の既成概念に挑戦状を叩き付けるイニャリトゥは、もしかしたら視覚と聴覚を駆使して“写らない世界”を描こうとする、テレンス・マリックと同じ道を歩んでいるのかもしれない。
イニャリトゥの作品において、カメラはただ状況を写し取るのではなく、物語るための重要なツールだ。
例えば、「バードマン」の全編ワンカット“風”の映像は、嘗てのスター俳優としての自尊心によってがんじがらめとなり、精神的に追い詰められてゆく主人公の心の中で、現実と虚構がシームレスに繋がっていることを象徴的に映像化したもの。

マリック作品の撮影監督としても知られる、ルベツキの映像マジックは今回も健在だ。
極端に被写界深度の深い広角気味のステディカム映像は、引いては天国、寄っては地獄の大自然を映し出す。
日没直後のマジックアワーへのこだわりは、「ニュー・ワールド」にも見られたが、今回は一日の中で自然光が作り出す変化をダイレクトに焼き付ける。
色と光のグラディエーションだけでなく、その場の空気感すら伝えて来るようで、冒頭のアリカラ族の襲撃シーンなどは、まるで自分が200年前の戦場に投げ出されたような臨場感。
鬼の形相で匍匐前進するグラスに張り付いたカメラは、観る者に全身の傷の痛みまでをも伝えて来る。
ちなみに全編自然光撮影が売りだが、いわゆるVFX的なところ以外にも光系エフェクトを含めてポスプロで相当いじっているはずで、当たり前だが画面に映っているもの全てがナチュラという訳ではない。

可能な限り既視感を排除する、未見性に対するイニャリトゥのこだわりは、映像だけでなく音楽・音響にも同様に及んでいる。
明確なメロディーラインを持たず、いくつもの音の塊が重なって構成されたような独特の音楽。
正直、エンドクレジットを見るまで、坂本龍一が参加しているのをすっかり忘れていたくらい、過去の彼の楽曲と異なる。
そして水の音、風の音、木々のこすれ合う音、獣の声。
様々な自然の音が、常世からのささやき声とまじりあい、この地のスピリチュアルな声となって極寒の原野に広がってゆく。
全身全霊で映画を感じとり、何時しかグラスと共に虚構を超越して、この残酷で美しき世界と一体化する。
「レヴェナント」は、そんな体感する独創の映画なのである。

ところで、本作がアカデミー賞で作品賞を逃した理由は明らかだ。
200年前の世界を舞台とした神話的冒険譚と、現在のカソリック聖職者による性的虐待事件。
どちらかが現在アメリカ社会にとってよりダイレクトな、より重要な題材を扱っているのは言わずもがな。
浮世離れした神話的世界観は、求める人を選ぶ。
もっとも、万人向けとは言えないベクトルこそが、本作を恐るべき高みに押し上げているのだけど。

この極寒の中で燃え上がるような物語には、フルボディの赤。
ナパバレーの代表的な銘柄、「ロバート・モンダヴィ カベルネソーヴィニョン」をチョイス。
カベルネソーヴィニョンを中心にメルロー、カベルネフランなどもブレンドして生まれる複雑なアロマを楽しめる、パワフルなボディながらバランスの良い一本。
本作を観ると猛烈に肉料理が食べたくなる。
残念ながら日本では目にしないが、ヘラジカのローストなどと合わせたら最高だろう。

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オマールの壁・・・・・評価額1750円
2016年04月23日 (土) | 編集 |
壁の中の青春。

イスラエル占領下のパレスチナで、秘密警察に捕らえられ、スパイになることを強要される青年の物語。
一生を刑務所で過ごすか、民族の裏切り者として生きるか。
巨大な分離壁に取り囲まれた出口の無い閉塞の中で、若者たちそれぞれの愛と葛藤、占領者たちの某略が絡み合い、物語は予想だにしないドラマチックな展開をみせる。
自爆攻撃に向かう若者を描いた「パラダイス・ナウ」で、パレスチナの今を鮮烈に浮かび上がらせたハニ・アブ=アサド監督は、再び驚くべき作品を作り上げた。
これは鋭い視点を持つ社会派映画であるのと同時に、極上のエンターテインメントであり、今観るべき作品である。

パレスチナ人の青年オマール(アダム・バクリ)は、ヨルダン川西岸地区に住む真面目なパン職人。
イスラエル軍の監視を避けつつ、そびえ立つ分離壁を乗り越え、壁の向こう側に暮らす恋人ナディア(リーム・リューバニ)に会いに行っている。
彼女とは結婚の約束をしているが、長く占領状態が続くパレスチナでは、イスラエル軍によって人権は無視され、若者たちには将来の希望もない。
オマールは抵抗運動に身を投じたナディアの兄のタレク(エヤド・ホーラーニ)に共鳴し、幼馴染のアムジャド(サメール・ビシャラット)と共にイスラエル兵銃撃に加担する。
証拠は残さなかったはずだった。
ところが、秘密警察に急襲され、オマールは逮捕されてしまう。
狡猾な捜査官ラミ(ワイード・ズエイター)に秘密を握られたオマールは、一生を刑務所で過ごすか、イスラエルのスパイとなって仲間を売るかの選択を迫られる・・・・


これは驚くべき映画だ。
分離壁で囲まれたパレスチナ自治区に暮らす、青年オマールの物語。
もちろんパレスチナが置かれた現実を描く、極めて社会性の強い作品なのだが、それだけに留まらない。
本作は社会派映画であり、同時にスパイ映画でもあり、犯罪映画で、青春映画で、胸をかきむしられる切ない恋愛映画である。
いかにも真面目な社会派の様にみせておいて、ジャンル映画の顔を覗かせる作りは、例えばジャック・オーディアールの「ディーパンの闘い」でも見られたが、あの映画が特異な構造をあえてトリッキーに見せているのに対して、こっちはまったく意識させない。
観客は社会問題を考えながらもオマールの波乱万丈の青春にワクワクドキドキし、次第にどっぷりと物語に没入しているのである。

オマールの暮らす閉ざされた社会を支配する、“占領”という現実。
パレスチナ自治区は、ヨルダン川西岸地区とエジプト国境の飛び地ガザ地区からなるが、本作の舞台となるのは西岸地区。
94年のオスロ合意以来、統治機構としてパレスチナ自治政府が置かれ、国連などでは事実上の国家として扱われているものの、自治政府が完全に統治しているのは西岸地区の僅か2割に過ぎず、二重権力状態の地域も含めて、現在でもその8割の地域がイスラエルの統治下にある。
現時点で総延長500キロ近くに及ぶ巨大な分離壁は、閉塞した世界の象徴だ。
想像以上に高く、分厚いそれは、人々を外の世界から隔絶させている。
「海からたった15キロなのに、生まれてから一度も見たことが無い」という言葉が、パレスチナの残酷な現実を感じさせる。

しかし物語の冒頭で、血気盛んなオマールは、この壁を軽々と乗り越えてゆく。
愛するナディアと会うため、傲慢な占領者と対決するため、青年の熱く燃える心は、壁の存在をものともしない。
ところが物語の終盤、誰にも言えない罪と秘密を抱えたオマールは、もう簡単に壁を越えることが出来ないのである。
分離壁の持つ象徴的な意味を、端的に感じさせる見事な描写だが、いったい彼の人生に何が起こったのか。

オマールは、民族の義憤に駆られてイスラエル兵銃撃事件に関与した事で、結果的に二つの世界に引き裂かれ、境界に生きる者となる。
取調べのために収監された刑務所で、狡猾な秘密警察の罠にはまり、うっかりと“自白”した言葉を録音されてしまう。
裁判所が証拠として認めれば、課される刑は懲役90年以上。
結婚を約束した愛するナディアには二度と会えないばかりか、秘密警察の捜査官のラニは、オマールだけでなく彼女も罪に陥れることをも示唆するのだ。
電話で母親に子どもの幼稚園の迎えを頼みつつ、何人もの人生を左右する某略をさらっと語る、占領者イスラエルの象徴として描かれるラニのキャラクターが秀逸。

自由の身になる代償は、スパイとして銃撃事件の主犯と目されてるタレクの居場所を探ること。
だが、取引に応じることは民族の裏切り者となり、自らの生殺与奪の権を永遠にイスラエルに握られることを意味する。
これだけでも十分ドラマチックな葛藤だが、まだまだ序の口。
イスラエルの見えざる手は、蜘蛛の糸の様にパレスチナ社会を覆っており、それは抵抗組織の内部にも食い込んでいるのである。

敵味方の誰がどんな嘘をついているのか、誰が真の裏切り者なのか分らない。
ここからはいわば動的なファルハディの様な展開で、一つの嘘が別の嘘を呼び、嘘と嘘が絡み合いダイナミックに物語を動かしてゆく。
オマールは、わざと取引を受け入れたと思わせて、ラミを出し抜こうと考えているが、事態は二転三転し、いつの間には彼は自分が何をしているのか分らなくなってしまうのだ。
危機を打開するための行動が、敵味方双方から不審を抱かれる最悪の状況へとオマールを追い込んで行く。
そこへ、ナディアを巡るオマールとアムジャド、幼馴染同士の三角関係が話をよりややこしくする。
ナディアが本当の愛しているの誰なのか、アムジャドの語る話は本当なのか。
僅かな違和感を残す脚本のミスリードは巧みで、この頃にはすっかりオマールの心情に寄り添っている観客は、もう何も信じられないという絶望を味わう。
そして、オマール、タレク、アムジャド、ナディア、四人の若者たちを永遠に別つ事になる悲劇が起こり、全てを失ったオマールは自ら孤独の内に篭るのだが、この時点で彼はまだことの全貌を知らない。

狭い壁の中に閉じ込められた彼らは、占領が続く限り外の広く美しい世界に出ることが出来ず、将来の夢も希望も全ては占領者の胸先三寸。
一度秘密を抱えた自分の人生が、もう二度と自由にならないという事実を突きつけられ、隠されていた真実を全て知った時、オマールは改めて悟るのだ。
自分にもナディアにも、本当の“幸せ”は決して訪れないと。
オマールの最後の選択は、言葉も出ないほど衝撃的だ。
嘘だらけの現実への最後のあがき、自分たちを引き裂いた権力への復讐なのかも知れない。
愛する人との平凡な未来を夢見ていた青年が、絶望の淵で世界を呪い、自分の人生を取り戻すための究極の選択をするまでの超濃密な96分。
2013年の制作から3年はかかり過ぎだが、日本でも正式公開されて本当に良かった。
心が打ち震える傑作である。

今回は非常にヘビーな映画だったので、清涼で軽めの酒を。
イスラエルの北隣のレバノンから、イクシール・レバノンの「アルティテュード・ホワイト」をチョイス。
アルティテュード=高地の名を持つが、高原の国レバノンで栽培される複数の葡萄品種から作られる。
柑橘系の程よい酸味と軽やかなアロマが、緊張感でカラカラになった喉を潤してくれるだろう。

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ショートレビュー「スポットライト 世紀のスクープ・・・・・評価額1700円」
2016年04月18日 (月) | 編集 |
スポットライトが照らし出したものは。

カソリック聖職者による、子どもたちの性的虐待事件を暴いた、ボストン・グローブ紙の“スポットライト”取材チームを描く群像劇。
情報量は膨大ながら、いかにも新聞社の話らしく、実に端正にまとまっていて観やすい。
今年のアカデミー賞は脚本賞が本作、脚色賞が「マネー・ショート 華麗なる大逆転」と共に実話ベースの作品となった。
どちらもジャーナリズム色の強い作りだが、登場人物がアイコン的で、金融恐慌の仕組みを紐解き、新たなバブルへの警鐘を鳴らすことをファースト・プライオリティーとした「マネー・ショート」に比べると、本作は事件そのものよりも、それを伝えた記者たちの葛藤にフィーチャーした内容になっている。

ボストン司教区の複数の聖職者たちが長年にわたって信徒の子供たちを性的に虐待していて、発覚を恐れた教会上層部によって隠ぺいされていた事実は、キリスト教徒の数が少ない日本ではあまり注目されなかったが、バチカンをも揺るがす世界的なスキャンダルへと発展した大事件である。
東海岸、マサチューセッツの州都ボストンは、アメリカでもっとも歴史ある大都市の一つで、日本で言えば京都のような所だ。
京都に神社仏閣が多いように、レンガ作りの古い家並みが印象的な古都には、キリスト教各派の教会が無数にある。
中でもカソリック教会は、19世紀以降のアイルランド、イタリアなど欧州のカソリック教国からの移民増加にともなって勢力を拡大し、現在でもボストンの宗教的マジョリティだ。
比較的低所得で問題を抱えた家庭の多い彼らのコミュニティでは、心のよりどころであり、生き方を導いてくれる教会との距離は近い。
教会の力は殆ど社会の全域に及んでおり、聖職者の犯罪を告発するということは、文字通り神にたてつくことを意味するのである。

1872年設立の老舗地元紙である、ボストン・グローブでスクープを追うスポットライトチームは四人。
地元に根付いたボストンっ子の彼らに、教会の疑惑を提起するのがフロリダからやって来たユダヤ人の新任局長というのが面白い。
記者たちにとっても教会はあまりにも身近な存在ゆえ、最初は半信半疑。
事件の性格上、被害者たちの口は重く、取材も思う様には進まない。
彼ら自身も家族に敬虔な信徒がいたり、疑惑の聖職者が母校の教師だったり、自分たちも調査対象のコミュニテイの一員であるがゆえの葛藤がある。
しかし、聖職者たちの犯罪と教会の隠蔽に確信を持つと、驚くべき情熱と粘り強さでジワジワと証拠に迫ってゆくのだ。
被害者の声を聞く記者たちの感じる驚きと怒りは、そのまま観客に共有される。
こんなことが許されてはならない、人々に知らせなければならないという熱血のジャーナリスト魂は、パワフルに物語を引っ張ってゆき、全く無駄がない。
チームの中に思慮深い人物もいれば、勢いにまかせて突っ走るタイプもいて、キャラクターにメリハリがあるのも良い。
彼らの暴いた悪がいかに巨大だったかが明示されるラストの字幕には、分かっていても圧倒される。


ただ、一本の映画という塊としてはヘビー級の見応えだが、キャラクターの内面を含む個々の要素の掘り下げは割とあっさりしている印象だ。
例えばマイケル・キートン演じるチームのリーダーが、過去に聖職者の性的虐待事件の記事を書いていて、情報提供も受けながら、その重要性を見逃していたというエピソードなど、葛藤要因としていくらでも使えるのだが、それは見せない。

まあ、四人の内面をきっちり描いていったら相当尺は長くなるだろうし、本作が描くべきはそこじゃないと言うことだろう。

アカデミー賞が、作品賞と脚本賞のみに止まったのは、この割り切った作りゆえだったのかも知れない。

今回は、やっぱり「サミュエル・アダムズ ボストン・ラガー」をチョイス。
バドやミラーなどのアメリカンビールとは一線を画し、マイルドでありながらもコクがあり、モルトの強い風味を味わえる。
サミュエル・アダムズは又従兄弟のジョン・アダムズ第二代大統領らと共に合衆国独立に深く関わったボストン出身の政治家で、マサチューセッツ州知事を勤めた人物である。
ちなみにサミュエル・アダムズには前身を含めると150年を超える歴史があり、何気にボストン・グローブ社よりも古い。

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ルーム ROOM・・・・・評価額1650円
2016年04月13日 (水) | 編集 |
「部屋」から「世界」へ。

17歳の時に誘拐された少女が、7年間の監禁生活の間に生まれ育った息子と共に決死の脱出を試み、奇跡的に生還を果たす。
実にサスペンスフルな展開だが、本当のドラマはその後に始まる。
小さな「部屋」しか知らず、未知なる「世界」に戸惑う息子と、世間の好奇の目にさらされながら、奪われた人生を取り戻そうとする母。
偽りの世界から、本当の世界に足を踏み入れた母子は、新たな生きる希望を見出すことが出来るのか。
エマ・ドナヒューの小説「部屋」を原作者が自ら脚色し、監督は「FRANK-フランク-」が記憶に新しいレニー・アブラハムソンが務める。
「ショート・ターム」のブリー・ラーソンが、複雑な葛藤を抱えた母を見事に演じ切り、オスカーも納得の素晴らしさだ。

5歳の誕生日を迎えたジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)は、大好きなママのジョイ(ブリー・ラーソン)と一緒に小さな「部屋」で暮らしている。
毎日運動をしたり、ケーキを作ったり、夜になると訪ねてくるオールド・ニック(ショーン・ブリジャース)にもらったオモチャで遊んだり。
ジャックにとって「世界」とはこの部屋だけのことで、扉の外のことは何も知らない。
ある日、ジョイはジャックに今まで隠してきた秘密を打ち明ける。
彼女は17歳だった7年前にニックに誘拐され、ずっと監禁されてきたこと。
この部屋の外には、本当の「世界」が広がっていること。
突然の話に混乱するジャックをなんとか説き伏せ、二人はニックを騙して脱出を図る。
遂に自由の身になり、祖母のナンシー(ジョアン・アレン)の待つ実家に帰るジョイとジャックだったが、それは予期せぬ困難のはじまりだった・・・


誘拐・監禁という非常に生々しい犯罪を題材としながら、子ども目線にしたことで寓話性の高いドラマになった。
ドラマ的にやや優しすぎるという意見もあるようだが、このスタンスを見れば作り手も重々分かっていて、それでも絶望よりも希望を描くことを選んだのだろう。

個人的にはブラッドベリの小説「びっくり箱」+映画の「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という印象。
「びっくり箱」は、厳格な母親に家の中が「世界」で、外には恐ろしい「死」があると教え込まれ、社会から隔絶されて育てられた少年エドウィンの物語。
母親の病死によって、初めて家の外に出たエドウィンは未知の「死」、即ち本当の「世界」を満喫しながら「死ぬというのは、なんてすてきなことだろう!」と叫ぶのだ。
おそらくはシャマランの「ビレッジ」や、ヨルゴス・ランティモスの「籠の中の乙女」の元ネタにもなっただろう古典である。
一方、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は、3.11の悲劇で父親を失った少年オスカーが、父の残した「鍵」と「ブラック」と書かれた紙を手掛かりに、「鍵があけるもの」を探して、ニューヨーク中のブラックさんを訪ね歩く物語。
発達障害のあるオスカーにとって、この世界は「ものすごくうるさい」が、冒険を通して彼は自分が「ありえないほど近い」愛に守られている事を知る。

本作の場合、17歳で誘拐されたジョイはともかく、監禁中に生まれ育ったジャックは外の世界を全く知らない。
部屋に窓は無く、唯一の明り取りである天窓から見えるのは空だけ。
息子の運命を不憫に思ったジョイは、部屋こそが世界の全てで、テレビに映っているものは全てニセモノ、扉の外には宇宙空間が広がっていると嘘をついている。
ジャックが精神的にも肉体的にも、外界への免疫を全く持たない時点で、本作は「びっくり箱」的であり、初めて外の世界へ出た彼が目にする未知の諸々が、強すぎる刺激をもって目と耳に飛び込んで来る描写は、発達障害のオスカーにとっての「ものすごくうるさい」世界を思わせる。
同時に、過酷な経験をしたジャックとジョイを、周りの人たちの優しい愛が包んでいるのもあの映画を連想させる要因だろう。


この作品がまことに秀逸なのは、やはり帰還した後をフィーチャーしていることだ。

犯罪からの脱出を描いた物語は多いが、その後の被害者を描いた作品は少なく、実際の事件報道でも、被害者の人権保護との絡みから、実態が伝えられることはめったにない。
映画は前半1時間が監禁の日々、後半1時間は脱出後という分かりやすい構成だが、7年の長きにわたり監禁されていた母子にとっては、監禁状態が日常で、解放後の日々の方が非日常なのだ。
端的に言えば、本作は7年間「部屋」での超緊密な関係しか知らなかった母子が、「世界」とどう折り合いをつけ、お互いの新しい距離をいかにして受け入れるかの物語である。

狭い空間で四六時中顔を合わせていた監禁生活は、ジョイとジャックの関係を必然的に非常に近しいものにしている。
息子はママの生きる希望であり、息子にとってママはこの世の全てなのだ。
2人は一緒に眠り、一緒にお風呂に入り、5歳になってもジャックは赤ん坊のようにママのおっぱいを求め、ジョイもその行動に応えるのである。
だが、広大な外の世界へ足を踏み入れた時から、2人の関係は変わらざるを得ない。
今までのようなほとんど一体化した生活から、それぞれ個人としての生活への移行。
特に「孤独」を経験をしたことの無いジャックに、1人になって考えたいというママの気持ちを理解するのは難しい。

ジョイもまた、自由になって初めて、自分の身に起こったことの現実を突きつけられる。
彼女の両親にとって、ジャックは孫であるのと同時に、娘との時間を奪った憎き誘拐犯の息子でもある。
祖母のナンシーはそれでもジャックを愛し、癒すべき孫として受け入れるが、今は離れて暮らす祖父は、どうしても誘拐犯の血を引く孫の顔を直視することができない。
また生活を立て直す資金を稼ぐため、覚悟を決めて出演したインタビュー番組では、予想もしなかった厳しい言葉をインタビュアーから投げかけられ、ジョイは母として激しく動揺する。
そして、諸々の葛藤の結果として起こるある出来事。

原作者のエマ・ドナヒューは、実際に起こった誘拐・監禁事件をモチーフとして小説を執筆しており、似た様な事件は世界中で発覚している。
実際は誰にも知られないままになっているケースの方が遥かに多いだろうし、脱出できた人はある意味幸運な一握りなのかも知れない。
だが、自由になれた幸せを祝えるのは一瞬で、そこから本当の意味で世界へ復帰するための過酷な闘いが始まる。
未知の世界を知ってゆくジャックと、人生を取り戻そうとするジョイ。
それでも「プラスチックの様に柔軟な」子供の心は、母よりも早くこの世界に適合してゆく。
ジャックは生まれてから一度も髪を切った事がなく、まるで女の子のような風貌をしている。
これは旧約聖書に登場する無双の強さを誇ったサムソンが、頭に剃刀を当てられた事で力を失ったという話から、ジャックが自分の髪にも力が宿っていると信じているから。
そんなジャックは、心にさらなる傷を負ったママのために、大切な髪の毛を捧げるのである。
ジョイにとってジャックは、何度も救われた無双のヒーロー。
嘗ての「部屋」での生活のように一体でなかったとしても、彼がいる「世界」は彼女にとって必ず生きるに値するのである。

ちなみに祖父母を演じるウィリアム・H・メイシーとジョアン・アレンは、ゲイリー・ロス監督の傑作ファンタジー「カラー・オブ・ハート」で、白黒テレビの中にだけ存在するアメリカの理想郷、プレザントヴィルに住む理想の夫婦を演じている。
映画の中のプレザントヴィルは、やがて白黒の人々とカラーを受け入れた人々に二分されるのだけど、本作におけるTVの位置付けを考えると、この2人が残酷な運命によって引き裂かれた夫婦役なのは、何気に作り手の仕掛けたブラックジョークなのかもしれない。

今回は「ルーム」から「ホープ」へ。
「希望」という名を持つホープ・ファミリー・ワインズの「カンダー メルロー」をチョイス。
複数の優れた産地をブレンドしたメルロー。
フルーティで柔らかい口当たりに、適度なスパイシーさ。
しっかりしたボディの、飲みごたえのある一本だ。
CPが高いのも嬉しい。

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リップヴァンウィンクルの花嫁・・・・・評価額1750円
2016年04月09日 (土) | 編集 |
なぜ彼女は、フォークロアの住人となったのか。

残酷で切なく美しい、3時間の大力作。
異才・岩井俊二監督が、「花とアリス」以来12年ぶりに国内で発表した長編実写映画は、驚くべき密度を持った作品だ。
東京で派遣の教師をしている主人公が、厳しい現実によって人生どん底にまで追い詰められ、奇妙な便利屋の導きによって、不思議な世界へと足を踏み入れる。
人はどうしたら幸せになれるのか?幸せはどこにあるのか?
現実に翻弄されながら、現実を生きてこなかった主人公の再生のドラマに、3.11以降の“ニッポンのリアル”を濃縮しながら、ここにあるのは紛うことなき独創のシネマティックワールド。
我々は、虚構と現実の狭間に存在する、この魅惑的な世界にたゆたいながら、主人公が“気づき”を迎えるまでの物語を見届ける。

これは現時点における、岩井俊二の集大成といえる作品かもしれない。
※核心部分に触れています。

東京で派遣の教師をしている皆川七海(黒木華)は、SNSで知り合った鉄也(地曵豪)と付き合い、程なくして結婚する事になるが、七海の家庭事情は複雑で東京には親しい友達もいない。
結婚式に呼ぶ親族や友人に悩んだ彼女は、便利屋の安室(綾野剛)に偽の出席者の斡旋を依頼し、事なきを得る。
だが、新婚早々に鉄也の浮気が発覚し、彼を問い詰めたところ、逆に義母から七海の浮気を疑われ家を追い出されてしまう。
仕事も家も失い途方にくれる七海に、安室が皮肉にも結婚式の偽出席者のアルバイトを紹介してくれる。
なんとか当面の生活のめどがついた頃、再び安室が現れ、月給100万円で住み込みのメイドをしないかという。
連れて行かれた先は、霧深い別荘地にある大きな館。
長く留守をしているというその家の主の姿は無いが、七海はメイド仲間として自由奔放な生き方をする里中真白(Cocco)という女性と出会う・・・・・



タイトルになっているリップ・ヴァン・ウィンクルとは、19世紀の米国で発表されたワシントン・アーヴィングによる短編小説。
ティム・バートンの映画や同名テレビドラマのモチーフともなった、「スリーピー・ホロウの伝説」で有名な短編集、「スケッチ・ブック」に収められた一編だ。
きこりのリップ・ヴァン・ウィンクルが、森の中で出会った奇妙な人々と一晩宴を楽しんで帰ったら、街では20年の歳月が過ぎていたという、まるで「浦島太郎」の様な話である。
もともとが民話を脚色したものなので、米国ではどちらかというと小説というよりもフォークロアの類として認識している人が多いと思う。
本作はこの物語をベースに、極めて現代的・現実的な要素を民話的・寓話的な構造に落とし込んだ、現代のフォークロアと言えるだろう。

ネット恋愛、派遣切り、結婚式の代理出席に別れさせ屋。
映画に登場するモチーフは、まさに現在の日本の幾つもの断片だが、それらは映画作家・岩井俊二の創造するシネマティックワールドにおいて、社会の虚飾性を象徴する意味を持つ。
主人公の七海もまた、自分の殻に閉じこもり、偽りの自分を演じながら生きている若者だ。
なんとなく幸せを求めてはいるが、本当の幸せがなんなのかは良く分らない。
だからSNSで知り合った男性と付き合っても、その関係に現実感を持てず、ハンドルネームでだけ“ホンネ”を書き込む。
特に誰かに読ませたいわけではないだろう。
彼女には匿名で書き込めるバーチャルな空間の他に、素の自分をさらけ出せる場所が無いのである。
本作の予告編では、SNSのシンボルでもあるネコ耳のかぶりものをしている七海が出てくるが、その表情はかぶりもののために見ることが出来ない。
彼女の本心は、誰にも見せたことの無い心の奥底と、匿名のネットの世界にだけあって、現実の社会を生きている肉体はいわばアバターの様なものなのだ。

ところがそんな七海の“なんとなく幸せ”な人生は、人間のむき出しのエゴと自らの未熟さによって、完膚なきまでに叩きのめされる。
一生の安定を約束するはずだった結婚生活はあっけなく破綻し、家も男も仕事も失って、道に迷った七海の元に現れるのが、綾野剛が好演する便利屋の自称・安室。
このキャラクターはある面から見ると善であり、別の面から見ると悪、変幻自在で幾つもの顔を持つフォークロアのトリックスターだ。
追い詰められ、どん底に落ちた七海は、物語の案内人である安室によって、霧が立ち込める森の中にあるリップ・ヴァン・ウィンクルの屋敷に誘われる。

そこで彼女を待ち受けるのは、まるで白日夢の様な不思議な日常
月100万もの破格の給料を出すという主の姿は見えず、広大な屋敷に暮らすのは七海と無機質な水槽の中で飼われている何種類もの毒のある生物たち。
そして、先輩メイドで女優でもあるという真白。
七海は、この社会から隔絶された異空間で暮らしながら、自由奔放な人生をおくる真白と心を通わせ、少しずつ心の傷を癒し、本心で生きることが出来るようになってゆく。
虚飾の現実社会で壊れた心は、夢うつつのフォークロアの世界で再生される。
しかし七海がこの館の主、リップ・ヴァン・ウィンクルの正体を知った時から、世界は少しずつ変質してゆくのである。

実はAVの仕事をしてお金を稼ぎ、不治の病を抱えながらこの屋敷を借りていた真白は、七海に「私の幸せには限界がある」という。
あまり簡単に幸せになってしまうと、自分は壊れてしまうから、お金を使って幸せを買うのだという。
七海にとって、今まで漠然としか捉えられていなかった幸せの意味。
いつしか友情を超える感情を真白に対して抱くようになった七海は、お金で買えない幸せを彼女とわかちあう決意を固め、ある日たまたま入った店で真白と共にウェデングドレスを購入し、二人だけの結婚式を挙げる。
この結婚式のシーンは、前半の代理出席を頼んだ結婚式と、虚飾と真実という対となっており、本編の白眉ともいえる名シーン。
そしてその夜、純白のドレスに身を包んだまま「一緒に死んでくれる?」という真白に、七海は「はい」と応えるのだ。

もちろん、永遠に続く夢は無い。

小説の主人公が、目覚めて現実に引き戻された様に、全てが終わり、全てが変わる朝がくる。
幻想の森のリップ・ヴァン・ウィンクルの屋敷は、ただの大きな別荘へと戻り、七海をフォークロアの世界に呼び寄せた真白もまた、彼女の人生から永遠に消える。
嘗て偽りの結婚で全てを失くした彼女は、真実の結婚の直後に再び大切な存在を喪うのである。
だがこの時、七海は既に物語の始まりの頃とは別人だ。

自分を取り繕うばかりで閉塞していた彼女の心は、もはや虚飾の霧に覆われていない。
真実の愛と幸せを知った七海は、自らの足を大地に着けてしっかりと人生を歩んでゆけるだけの成長を遂げている。

だからこそ、彼女は真白の人生のすべてを受け入れて見送り、役割を失ったトリックスターの安室もまた、七海の人生からフェードアウトしてゆく。

嘗て「リリイ・シュシュのすべて」で蒼井優を見い出した、岩井監督の新たなヒロインを演じる黒木華が素晴らしい。
ブレイクする以前の4年前に、既にオーディションで本作の出演が決定しており、シナリオは彼女を想定して当て書きされているという。
黒木華は昨年の「花とアリス殺人事件」にも、中学校の教師役で声優として出演していたが、今にして思うと本作あっての遊び心だったのかも。
ユニークなトリックスターを演じた綾野剛には、やっぱりこの人は単純な二枚目よりも怪しげなキャラクターの方が生きると思わせられた。
そして、七海の人生を変える真白役のCoccoは、まさに技術を超えた魂の名演であり、圧倒的な存在感でスクリーンを支配する。
劇中の彼女の台詞の様に、この世界は沢山の幸せに満ちているはず。
だけど、私たちは案外その事に気付かないまま、人生を過ごしていないか。
この世界の本当のキレイ、愛と幸せの真実に改めて思いを巡らす、まことに映画的で豊潤なる180分。
長尺もまったく目が離せない、必見の傑作である。

今回は真白役のCoccoと名前が似ている、栃木県のココファームワイナリーの「COCO ロゼ」をチョイス。
知的障害を持つ「こころみ学園」の生徒たちが、社会と関わることが出来るようにと、先生と生徒たち自らが、葡萄畑を開墾してから今年で58年。
現在では様々な種類のワインを送り出しているが、こちらは春にぴったりの桜色が美しい、ほんのりと甘くまろやかで飲みやすいロゼ。
優しい味わいは、映画の余韻に完璧にマッチする。

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ショートレビュー「蜜のあわれ・・・・・評価額1650円」
2016年04月04日 (月) | 編集 |
まあるいお尻の愛しさよ。

作家と金魚と幽霊の、シュールな恋物語。
室生犀星の作品は学生の頃に詩集を何冊かかじった程度で、たぶん小説は読んでない。
だからこんなエキセントリックな話を書いていたとは、全く知らなかった。
おそらくは原作者自身と思われる老作家は、古い日本家屋でなぜか人の姿をした金魚の少女・赤井赤子と暮らしている。
自分を「あたい」作家を「おじさま」と呼ぶ赤子は、作家が執筆している「蜜のあわれ」という小説の登場人物でもあるのだが、創造主の恋心を翻弄するコケテッシュな小悪魔だ。
作家が自ら生み出したキャラクターに振り回されるのは、小説の主人公が実体化する「ルビー・スパークス」を思わせるメタ構造だが、違うのは赤子はゼロからの想像の産物ではなく、もともと作家が飼っている本物の金魚ということ。
要するにネコ飼いが、いつかうちのネコが美少女に変身してくれないかと、おバカな妄想するのと基本的には同じである。


では、なぜ作家はこの少女に執着するのか、物語が進むにつれて、その理由は徐々に明らかになってくる。
前世紀に生まれ、震災と大戦を生き延びた作家の命はもはや尽きようとしており、彼の世界は現代と過去、虚構と現実、生と死がそれぞれの境目を失いつつあるのだ。
遠い昔に死んだ嘗ての愛人・ゆり子の幽霊を図らずも現世に呼び寄せ、常世に暮らす旧友の芥川龍之介と言葉を交わす。
満開の桜の下を流れる幻想的な夜の川は、現世と常世を隔てる三途の川のメタファーだろうか。

作家の死の意識と共に現れた赤子(あかこ)は、=(イコール)赤子(あかご)。
もはや境界の存在となった作家にとって、作品を書いて言葉に命を与えることは、自らの生と性の証明であり、たとえそれが元祖二次元妄想でもなんでも、誰かを好きになる時間はとても愉しいのである。
現世で魂を燃やし尽くし、遂には自らの創造の迷宮に彷徨ったとしても、その帰着する先が変なダンスを赤子と二人で踊るというのは、それはそれでとても満足な気がしてくる(笑


エロかわいい金魚を演じる、二階堂ふみが素晴らしい。
17歳の頃に原作を知り、ずっと赤子を演じたいと思っていたという早熟ぶりにも驚くが、虚構性と生っぽさの絶妙なバランスは、この人だけの貴重な資質。
ギリギリのチラリズムも、この作品に関してはちょうどいい塩梅だと思う。
赤で統一されたいくつもの美しい衣装も見どころで、金魚の尾びれを思わせるフワフワの布地が印象的。


ところで人間化する金魚と言えば、宮崎駿の「崖の上のポニョ」もこの小説の影響を受けてるのだろうか。

あっちは一応アンデルセンの「人魚姫」ベースという事になってるけれど、海に住んでるわりには金魚っぽいキャラ以外にも映画観ると結構似通った部分がある。

死生観の表現なんかも含めて。

この映画はやはり日本酒。
日本酒の世界には金魚酒という言葉があって、戦時中の米不足の時に作られた、金魚が泳げるほど薄い酒のこと。
当時の米事情から悪名高いアル添三倍酒も生まれたのだが、良い映画には良い酒を。
室生犀星の故郷、石川県の車多酒造の「天狗舞 山廃 純米大吟醸」をチョイス。
ふわりと広がる吟醸香に、酸味が強めでさらりと飲みやすいが、しっかりとしたこしのあるテイスト。
酒の肴には金魚、ではなく日本海の海の幸が欲しくなる。

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