酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ショートレビュー「海よりもまだ深く・・・・・評価額1650円」
2016年05月30日 (月) | 編集 |
夢見た未来じゃないけれど。

是枝裕和監督には、幾つ「家族」を語る視点があるのだろう。
デビュー作の「幻の光」以来、ほぼ一貫して描かれてきた、ミニマムな社会としての幾つもの家族の形と彼らが抱える様々な葛藤。
監督自身は嘗て「(独身だったのが)結婚して子供が生まれ、家の中で自分のポジションが息子から父親へと変化し、それに伴い家族の見え方も変化していった」と語っていたが、今回は阿倍寛が好演する作家崩れの探偵・良多を通して、“なりたい自分になることの難しさ”が描かれる。
本作と同じく、阿倍寛と樹木希林が親子役で共演した「歩いても 歩いても」とは主人公のキャラクター名も同じで、いわば人生の別バージョンの様な味わいだ。
舞台となるのは、是枝監督が実際に28歳まで暮らしていたという清瀬市の旭が丘団地で、近年の日本映画でジャンル化している団地ものの一編でもある。
ある意味主人公は、是枝監督にとっての別バージョンの自分なのかもしれない。

一発屋作家で今は探偵として食つないでいる良多は、相当なダメ人間だ。
別れた元妻には未練たらたらで、探偵のスキルを使ってストーカー。
稼いだ報酬はギャンブルにつぎ込み、実家の団地を訪ねては金目のものを物色し、挙句の果てには仕事にかこつけて高校生を脅して金を巻き上げる。
高校生に「あんたみたいな大人にはなりたくない」と言われていたけど、そう思われてもしかたがない、呆れるほどダメダメな人生を送っている。
そんな苦しい生活の中で唯一の楽しみは、元妻と暮らす一人息子との面会の時間だ。
物語は、探偵業に精をだす良多の日常と、嘗て家族だった者たちと共に過ごす非日常の二重構造。
両方のシチュエーションが組み合わされることによって、過去に囚われ前に進めない良多のジレンマが描き出されるという訳。

相変わらず、是枝監督の役者を生かす手腕は見事。
阿倍寛や樹木希林が素晴らしいのは当たり前だが、同僚探偵役の池松壮亮が良い。
この人は上手いのだけど、いつも同じ様なキャラクターの印象があったが、本作は新しい一面を見せてもらった。
良多を含めた登場人物たちは皆かなり特徴的なキャラクターだが、物語に動的な盛り上げは皆無。
事件らしい事件は何も起こらず、ただただ日々の暮らしのシチュエーションの中で登場人物の心の機微が繊細に描かれるだけ。
それなのに、全く目が離せないのは是枝テリングの真骨頂だ。
緻密な心理描写、台詞構成のうまさはもはや名人芸の域に達しているのではないか。
阿倍寛と樹木希林の愛情と皮肉たっぷりの絡みなど、「いつか使ってやろう」と思わされる名台詞だらけだ。


高い評価を受けた「そして父になる」「海街diary」の近作二本は、問題を抱えた家族の再生の物語だったが、本作ではひょんなことから台風の夜に集った元家族たちが、それぞれの人生を先に進めるため、家族の残骸を緩やかに解体してゆく。
たぶん、なりたかった自分になれた人は、決して多くはなく、皆夢見た未来に近づくために、何かを犠牲にして歩いている。
その事を知っているからこそ、大人の観客はダメダメな良多にどこか自分に重なるものを見出して、どっぷり感情移入出来るのだろう。
ちょいビターな後味を噛み締め、小さな一歩を踏み出すラストもとても気持ち良い。

ただ、徹底的な会話劇で、それ自体は素晴らしいのだが、せっかくクライマックスを台風の夜に設定しているのだから、ここは台詞によらない視覚的演出があっても良かったかなあという気はする。
相米慎二の「台風クラブ」、細田守の「おおかみこどもの雨と雪」を例に出すまでもなく、嵐の夜はそのシチュエーションだけで十分ドラマチックなのだから。

是枝作品の味わいは、やはり上質の日本酒に通じる。
清瀬のお隣、東村山の豊島屋酒造の「屋守 純米 中取り 直汲み生」をチョイス。
槽場での直汲みによって、酒中に残るほのかな微炭酸が柔らかな吟醸香が広がってゆく。
純米酒らしい米の旨みとコクのバランスも良い。
淡麗甘口、この時期にしか味わえない、素晴らしき東京の地酒だ。

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ショートレビュー「裸足の季節・・・・・評価額1650円」
2016年05月25日 (水) | 編集 |
運命を切り開き、いま自由へと走り出す。

トルコの片田舎に暮らす、ソナイ、セルマ、エジェ、ヌル、ラーレの美しい五人姉妹。
10年前に事故で両親を亡くして以来、祖母のもとで育てられている。

学校の制服のまま海に入り、男の子たちに肩車して遊ぶような、フリーダムすぎる青春を謳歌していた彼女らは、ふとしたきっかけで古い因習に縛られた、自分たちの社会の正体を知る。

「ふしだらな娘たち」のレッテルと共に唐突に自由は奪われ、居心地の良かった自宅は監獄化。
学校には行かせてもらえず、地味な服を着せられて、“正しい”妻・母になるための教育だけを詰め込まれる。
窒息しそうな閉塞に反発すればするほどに、大人たちの抑圧は強度を増す。
携帯もパソコンも取り上げられ、窓には鉄格子が溶接され、ほとんど外に出ることも出来なくなる。
そして、一人また一人と好きでもない男と結婚させられるのである。
※以下、核心部分に触れています。


“昔から決まっていること”にただ従順な女たちと、女たちを支配することに慣れきった粗野な男たち。

若い姉妹は、大人社会の有無を言わさぬプレッシャーに翻弄され、バラバラにされてゆくのだが、彼女たちの中に因習に反発し密かに反乱を企てる者がいる。
トルコ出身でこれがデビュー作となるデニズ・ガムゼ・エルギュヴェン監督は、この映画の五人姉妹を五つの頭を持つ怪物になぞらえる。
物語の進行と共に、怪物は一つ、また一つと頭を落とされてゆく。
だが三つ目の頭を悲劇的に失った時、それまで虎視眈々と反撃の機会をうかがってきた最後の頭が、四つ目の頭を巻き込んで運命を変えるべく行動を起こす。

本作のストーリーテラーでもある、五女・ラーレは13歳。
聡明で大胆な彼女は、大人たちのバカバカしい価値観の押し付けを受け入れるふりをしつつ、密かにこの監獄の弱点を探り始める。
脱出の計画を練り、気付かれないよう少しずつ準備を進め、ひょんなことから知り合った青年には家を抜け出し車の運転を習う。
目指すは1000キロ離れた大都会、イスタンブール。
男たちの多くが武装し、いわゆる名誉殺人も起こり得る社会ゆえ、単なる家出ではすまない。
一度決断すれば、二度と戻れない命がけの逃避行になる。
エルギュヴェン監督は、ラーレとヌルの自由への危険な冒険をスリリングに描く。
理不尽な運命に懸命に抗う彼女らに、いつの間にかどっぷり感情移入。
ウォーレン・エリスのエモーショナルな音楽と、ダーヴッド・シザレ、エルシン・ギョクの透明感のあるカメラも印象的。


原題「Mustang」は野性の馬を意味する。
解き放たれた少女たちは、これからどうなるのか。
一筋縄ではいかない手強い人生が待っているのだろうけど、野性の馬力と反乱者の気骨があれば希望は見える。
女性蔑視というモチーフと、勇気あるものの抑圧からの解放というテーマはヘビーかつシリアスだが、テリングはリリカルでユーモラス。

自由で自立した人生を求める少女たちの旅立ちの物語は、ちょっとビターで爽やかな感動に満ちた快作である。


トルコは非常に豊かな飲酒文化を持つ国で、本作でもおっさんたちがガンガン飲みまくっていたが、日本でもおなじみのラクや各種ビール、ワインなども多く作られている。
今回は、オクズギョズという固有種を使い、黒海沿岸で醸造される「ディレン カルメン ロゼ」をチョイス。
美しい色合いのロゼワインだが、甘口ではなく飲みごたえはしっかりしていて、若干の渋みもあるのは、主人公のラーレのイメージだ。

しかし「裸足の季節」という邦題からは、私の世代はどうしても松田聖子のデビュー曲を連想してしまうので、なんかしっくりこないのだけど(笑

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ヘイル、シーザー!・・・・・評価額1600円
2016年05月23日 (月) | 編集 |
虚構の街の狂想曲。

ケネス・アンガーの著書「ハリウッド・バビロン」を思わせる、コーエン兄弟のメタ的ハリウッド論。

舞台は1950年代、ジョッシュ・ブローリンが好演するエディ・マニックスは、キャピトル映画制作部のエライ人だが、MGMのスタジオ・エグゼクティブだった同姓同名の人がモデル。
スーパーマン役で知られる、ジョージ・リーヴスの自殺の真相をモチーフとした「ハリウッドランド」で、ボブ・ホスキンスが演じた業界のフィクサーだ。

スタジオの命運を賭けた大作映画、「ヘイル、シーザー!」の主演スターが誘拐された事件を発端に、ありとあらゆる問題が噴出、全ての尻拭いをしなければならないマニックスは、ふと自分の人生を見つめ直す。
陽の当たらない裏方仕事はめちゃくちゃ大変だし、家族との仲もギクシャクしていて、もっと稼ぎの良い業界からはヘッドハントされている。
なのに、「なんで自分は映画なんてやっているのだろう?」と。

日々沢山の映画が作られている夢の工場、ハリウッド。
キャピトル映画のエディ・マニックス(ジョシュ・ブローリン)は、今日もスキャンダルのもみ消しや、あちこちの現場で起こるトラブルの解決に忙しい。
敏腕のマニックスの元には、航空機メーカーのロッキード社から破格の待遇で引き抜きの話も来ているが、どうしても映画業界を去る踏ん切りがつけられずにいた。
そんな時、撮影中の大作「ヘイル、シーザー!」の主演スター、ベアード・ウィットロック(ジョージ・クルーニー)が何者かに誘拐され行方不明に。
主演スターの不在が続けば、製作費は膨れ上がり、スタジオは窮地に追い込まれる。
事件の解決を急ぐマニックスだが、その間にも様々な苦情やトラブルが舞い込んできて、彼はカオスの縁に追い詰められてゆく。
その頃、海辺の豪邸で目を覚ましたウィットロックは、自分を誘拐したコミュニストの脚本家たちと、経済の議論に明け暮れていた・・・



スタジオで撮影されている“どこかで見た様な”数々の映画が可笑しい。
作品もキャラクターも全部現実のモデルがいる。

スカーレット・ヨハンソンが「水着の女王」のエスター・ウィリアムなのは分かりやすいが、他はいくつのかの作品や人物をミックスしてアレンジを利かせているもよう。
表題作の「ヘイル、シーザー!」は「クォ・ヴァディス」や「聖衣」といった史劇スペクタクル、誘拐されるジョージ・クルーニーはロバート・テイラー、カーク・ダグラス、ヴィクター・マチュアあたりか。
どこか「マジック・マイク」ライクな水兵役で、華麗なタップを決めるチャニング・テイタムは、「踊る大紐育」のジーン・ケリーで、歌えるカウボーイのオールデン・エアエンライクは、「アニーよ銃をとれ」で知られるハワード・キールっぽい。
他にも某アカデミー賞監督や、著名な双子のコラムニストなど、マニア心をくすぐるキャラクターが山ほど登場する。

もちろん、これらは単なるパロディではない。
史劇スペクタクルやミュージカルは、新興勢力のテレビに対抗するために、各映画会社が映画館でこそ映えるものをと力を入れいてたジャンル。
古代ローマの実力者が全く新しいキリストの教えに触れる「ヘイル、シーザー!」は、これから斜陽に向かう“虚業”の映画界から“実業”の航空産業へのヘッドハントを受け、人生設計に悩む主人公の葛藤の暗喩になっている。
また50年代は、黄金時代のハリウッドが最後の輝きを放ったのと同時に、冷戦を象徴するマッカーシズムの風が吹き荒れ、多くの映画人が弾圧された暗黒の時代。
ジョージ・クルーニーを誘拐する“コミュニストの脚本家たち”は、議会の非米活動委員会での証言を拒否し、議会侮辱罪で有罪判決を受けた、いわゆる“ハリウッド・テン”の面々がモデルだろう。
面白いのは、コーエン兄弟が彼らのキャラクターを使って描くのが、ハリウッドの経済であるということ。
従来ハリウッド・テンは、言論の自由や個人の信念というマジメな視点で語られることがほとんどだったが、本作は興行収入を現場の映画人に還流せずに資本家が吸い上げる、ハリウッドのシステムへのアンチテーゼとして扱われている。
元々冷戦は資本主義と共産主義という経済システムの対立だった訳で、突き詰めると金の話になるのだけど、共産主義の理想を語るハリウッド・テンが結局ソ連からも見捨てられ、文字通り波間に漂っちゃうのがコーエン兄弟流のシニカルさ。

もっともこれらの凝ったエピソードは、虚実がシームレスに入り混じる映画界という不思議な社会を形作るディテールに過ぎない。
本作を端的に言えば、50年代のハリウッドという戯画化された世界を背景に、映画人生に迷った一人の中年男がミドルエイジクライシスを乗り越え、生き方の決意をするまでの物語。
冒頭から何度も教会を訪れては、会社の誰にも言えない心情を牧師に告白している主人公が、最後に告げる言葉には思わず胸を熱くさせられた。
嘘だらけ変人だらけの業界は、バカバカしくヤクザな商売ではあるものの、言葉のみならず人々に光で綴った物語を届けられる映画は唯一無二。
たとえ虚業であろうが、他のものでは代用の効かない魅力が確かにあるのだ。
コーエン兄弟は、最近は脚本家としてヘビーな作品が続いていたが、こちらは肩の力が抜けたライトなコメディ。

まあ、色々と含ませた結果、ややとっ散らかった印象になってしまったものの、「とりあえず俺たち映画好きなんだよね・・・」という作者の想いが一番伝わってくる、微笑ましい佳作だ。


しかし、これは全く万人向けの映画ではない。
いわば究極の内輪話なので、元ネタとなっている人物・作品・事件がわからないと、単なる賑やかしにしか見えず、作者が何を描こうとしているのか全く理解できないだろう。

少なくともこの時代の映画をある程度観ていて、アメリカ現代史の最低限の知識がある人向け。

一般のお客さんは完全に置き去りだけど、例えば映画検定とかを受けているマニアには、最高に楽しい映画なのではないだろうか。

今回は、夢工場ハリウッドの映画ゆえ「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジ・キュラソー20ml、ベルノ1dashをシェイクして、グラスに注ぐ。
オレンジ・キュラソーの爽やかさと、ブランデーのコクは相乗効果抜群。
以前はペルノではなく、ドラック成分のあるアブサンが使われていたが、それもなんとなくアンダーグラウンドなハリウッドっぽい?

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殿、利息でござる!・・・・・評価額1650円
2016年05月17日 (火) | 編集 |
これが庶民の生きる道。

江戸時代の仙台藩で、百姓たちが藩にお金を貸して利息をとったという、実話ベースの物語。
森田義光監督で映画化された、「武士の家計簿」で知られる歴史家・磯田道史による「無私の日本人」の中の一編「穀田屋十三郎」が原作となっている。
ポスターではちょんまげが銭になった阿部サダヲが、鋭い眼光で睨みつけているが、これは庶民の財テクの話ではない。
藩から押し付けられた労役に苦しむ貧しい村の衰退を食い止めようと、故郷を愛する有志の人々が爪に火をともすようにして小銭を貯め、遂には藩に対して1000両もの大金を貸し付けて、その利息によって村の財政を支えたという話は、完全な利他的行為。
ユーモラスではあるがコメディではなく、現在の社会にも十分通じるお金を巡る真面目な寓話だ。
「予告犯」「残穢【ざんえ】-住んではいけない部屋」と、このところ絶好調の中村義洋監督初の時代劇は、なかなか見ごたえのある秀作となった。

仙台藩・吉岡宿。
寂れた宿場町は夜逃げが相次ぎ、人々の生活は悪化の一途を辿っていた。
事態を憂いだ造り酒屋の穀田屋十三郎(阿部サダヲ)は、切れ者と評判の菅原屋篤平治(瑛太)と相談し、あるアイディアにたどり着く。
お上は金欠ゆえに庶民に負担を求める。
ならば、お上に大金を貸し、その利息を宿の人々に分配すれば、皆の暮らしは楽になり、夜逃げしなくても良くなるではないか。
搾取される側から搾取する側へ、逆転の発想はしかし言うは易く行うは難しい。
元々貧乏な村には原資そのものがない。
疎遠だった弟の甚内(妻夫木聡)らを巻き込んだ十三郎たちは、徐々に仲間を増やし、自らの家財道具を売り払い、目標となる1000両をかき集めようとする。
自分のためではなく、ただひたすら人々のため、村のための挑戦は、やがて硬直した侍たちの心をも変えてゆく・・・



庶民が、お上に金を貸す。
この驚きのアイディアの言いだしっぺであり、物語の軸となるのは阿部サダヲ演じる造り酒屋の穀田屋十三郎と、瑛太演じる茶農家の菅原屋篤平治の二人。
悪くなるばかりの景気と重い労役の負担によって、彼らの故郷である吉岡宿は夜逃げする者が後を絶たず、衰退の一途を辿っている。
そこで貧しい村の中でも、まだ“持てる者”である商家の旦那衆が金を出しあい、藩にまとまった金額を貸してその利息を村人に分配する。
すると最低限の生活は保障されるから、人々は心置きなく本業に注力でき、村の経済もまわり始めるという訳だ。
今でいうベーシックインカムの考え方が、既に江戸時代の日本にあったことに驚く。
だが、前例の無い試みゆえに、もしも藩にお上に楯突く不遜な行いととられれば処罰されないとも限らない。

映画の前半は、十三郎と篤平治が秘密裏に村役人や他の商家を説得し、家財道具を売り払って現在の3億円に相当する銭をかき集めるまで。
そして後半は、いくつもの障害を乗り越えて、藩に庶民からの借金という前代未聞のアイディアを認めさせるまで。
物語の狂言回し的ポジションは篤平治だが、話が進むにつれて次第に穀田屋ファミリーの葛藤が前面に出てくる。
実は十三郎は、幼い頃に親戚の穀田屋に養子に出されており、実家の浅野屋は弟の甚内が継いでいる。
だから十三郎は、親に捨てられたというコンプレックスを抱えているが、それには実は十三郎自身も知らない深い訳があって、彼の幼少期の潜在的な記憶が藩に金を貸すという発想の源だったのだ。
穀田屋と浅野屋、親子兄弟二代に渡る信念のドラマには、思わず涙腺が決壊。
家族の和解の顛末が、無私無欲の美徳という本作のテーマと見事に融合し、浅野屋甚内を演じる妻夫木聡が実に美味しいところを持ってゆく。
彼らだけでなく、キャラクターは皆キッチリ立っていて、それぞれの人物の描写が物語の緩急として機能するのは上手い。
侍側のキャラクターはあえてだろう、ややステロタイプに造形されているが、例えば金を貸す上で最後の関門となる松田龍平にしたところで、自分の職務と信念に忠実なだけで、分かりやすい悪役がいないのも良い。

それにしても印象深いのは、古の日本人たちの驚くべき公共性、パブリックな意識の高さよ。
藩からの利息は全て村人に分配されるので、出資を申し出た者には一銭も戻らない。
それどころか、出資した旦那衆は「つつしみの掟」という厳格な規則を作るのだ。
元々秘密裏に進められた計画が漏れ、人々から褒め称えられるようになると、いい気になったり、傲慢になったりしないとも限りらない。
だから彼らは、寄付をする時に名前を出したりすること、宴席で上座に座ることなど、いつくものつつしむべきことを子々孫々までの掟とし、名誉を受け取ることすら拒否するのである。
この話が現在まであまり知られていなかったのも、この掟によって伝えることそのものがつつしまれていたからなのだ。
無私無欲の哲学が父から子へ、子から孫へと受け継がれたことが明らかとなるエピローグでは、再び涙腺が緩む。
十三郎たちの行いは、私利私欲の対極にある完全なる利他主義だが、彼らから金を借りることになる仙台藩の財政悪化の要因が、殿さまの名誉欲を満たすためというのがなんとも皮肉。


とりあえず、今一番本作を観るべきは舛添要一東京都知事だろう。
椅子にふんぞり返ってじゃなく、きちんと正座して襟を正して観るべきだ。
いや、彼だけじゃないな。
現代の侍たる政治家・官僚は、是非とも本作を観て、本当の公僕とはどうあるべきかをじっくり考えていただきたい。
もちろん、庶民の立場で観ても示唆するところは多い。
私利私欲を全く捨てるとまではいかなくても、パブリックな意識というのはもうちょっと高めたいものだ。

造り酒屋の穀田屋は、「酒の穀田屋」として21世紀の現在も、吉岡宿に現存。
銘柄「七ツ森の四季」は是非飲んでみたいのだが、流通量が少なく東京では手に入らなそう。
やはりこういう先祖を持つ人は、全てに謙虚で事業を拡大とかしないのだろうな。
今回は、同じ宮城県は石巻の地酒、平孝酒造の「日高見 芳醇辛口純米吟醸 弥助」をチョイス。
弥助とは花柳界で寿司を指す言葉で、源平合戦で落ち延びた平維盛が寿司屋に逃げ込み、偽名で弥助を名乗ったという故事に因むという。
名前の通り、純米吟醸酒としては辛口で魚介類との相性がよく、お寿司のお供にぴったりの酒だ。

ところで殿さま役の羽生結弦は、なかなか堂々とした演技を見せるのだけど、体型が完全に現代っ子で、日本人体型のおじさんたちの中に入ると一人宇宙人みたいだった(笑

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ショートレビュー「或る終焉・・・・・評価額1650円」
2016年05月12日 (木) | 編集 |
生ける魂と死にゆく魂が出会う、終焉の時。

間もなく人生の終わりを迎える患者たちの終末期医療、いわゆる在宅ターミナルケア専門の看護師を描く、重厚な人間ドラマ。
監督は、前作の「父の秘密」で脚光を浴び、本作でカンヌ映画祭脚本賞を受賞したメキシコの俊英・ミシェル・フランコ。
これは彼が、脳卒中で動けなくなった祖母と、彼女を看取った看護師との関係から着想した物語だという。
「父の秘密」がカンヌの「ある視点」部門でグランプリを獲得した時、審査員長をしていたというティム・ロスが、エグゼクティブ・プロデューサーと主役を兼務。
日常的に死と喪失と向き合う、その道のプロフェッショナルという難役だが、抑制を効かせながらも内面にナイフの様な鋭さを隠し持つ、円熟の名演を見せる。
※なるべくディテールに触れずに書いていますが、カンの良い方は観てから読んでください。

主人公のデヴィッドは、家族との複雑な葛藤を抱え、離れた街で1人暮らしながら看護師として働いている。
単純に体のケアをしているのではない。
彼は患者に寄り添いながら、身を削るほどの徹底的な献身によって、死を免れられない彼・彼女らの心をも支えているのだ。
だから患者たちはデヴィッドに絶対的な信頼をおき、ある意味家族よりも近しい存在となって行く。
もしかしたら彼は、死を目前にした人間としか、絆を育めないのかもしれない。
嘗て息子を病気で失い、家族とも別れて孤独な人生を歩んでいるデヴィッドは、生きている様で死んでいる
原題の「Chronic」は「慢性的」と訳せるが、彼は生の縁を歩きながら常に死にひかれていて、だからこそ終末期の患者と緊密な関係を作り上げ、死と喪失を傍らに置くことで、逆に空っぽの自分をギリギリこの世に繋ぎ止めているのだ。
ひとつの命の終焉を見届けたら、また次なる終焉へ。
彼にとって懸命な人生の結果としての死は、即ち生きたことの証明なのである。

死の反作用として生を感じ、疎遠だった家族とも少しずつコミュニケーションを取り戻したデヴィッドは、ようやく「Chronic」のスパイラルから抜け出しつつあるように見える。
だが、一度死に魅入られた者は、そう簡単に逃れることは出来ない。
ある末期癌患者の予期せぬ“依頼”に、悩みながらも応えたことによって、彼の生きるためのルーティンは遂に崩れてしまうのである。
デヴィッドの身に訪れる“ある瞬間”は、全ての結果としての必然か、神の悪戯による偶然か。

正直、「父の秘密」に続いてこちらもかなりの鬱映画だが、観応えは十分だ。
ゾクッとする戦慄に続いて、心の琴線を刺激する余韻がジワジワと広がる。
ミシェル・フランコ、若いくせにいぶし銀の秀作である。

実に味わい深い人生に関する物語。
ウィスキーの語源である「uisce beatha」はゲール語で「命の水」を意味する。
そこでアイラモルトの代表的な銘柄である、「ラガヴーリン 16年」をチョイス。
塩の染み込んだピートの効いた独特の香りは、結構好みが別れると思う。
正露丸のにおいとか、病院のにおいとか感じてしまい、受け付けない人は結構多いのだが、逆に好きな人には病み付きになる香りとも言える。

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ショートレビュー「山河ノスタルジア・・・・・評価額1650円」
2016年05月08日 (日) | 編集 |
変わってゆく社会、変わらない人の想い。

中国の市井の人々を描き続けてきた、ジャ・ジャンクー監督の新境地。
最新作は、1999年のある三角関係を起点に、過去、現代、未来の彷徨える中国人を描く。
ニューミレニアムの幕開けとマカオ返還を控えた1999年は、中国にとってアジア通貨危機が一段落し、その後10年以上に渡る爆発的な高度経済成長の起点となった年。
物語は、「GO WEST」に乗って踊る若者たちの姿で幕を開ける。
「GO WEST」は70年代に大ヒットしたヴィレッジ・ピープルの代表曲だが、本作に使われているのは93年にリリースされたペット・ショップ・ボーイズのカバー版。
元々この曲のタイトルは、19世紀のアメリカの著名な新聞人にして政治家、ホレス・グリーリーの「若者よ西部に行け、西部に行ってこの国と共に成長せよ」という論説記事から引用されたもの。
原曲が世に出た70年代はLGBTムーブメントが盛んになった時代で、これはゲイ・カルチャーのメッカだった西部のサンフランシスコを目指す曲だといわれている。
しかし、ペット・ショップ・ボーイズ版の「GO WEST」は、グラミー賞を受賞したハワード・グリーンホール監督の傑作MVに一目瞭然な様に、冷戦の敗北によって共産主義陣営が挙って「西側に行こう」としている世界を皮肉ったもので、これを映画の冒頭にもってくることで「中国よ、お前はどこへ行くのか?」と問いかけているのである。

1999年の冬、山西省の太原に住むヒロインのタオは、実業家のジンシェンと炭鉱労働者のリャンから想いを寄せられる。
皆が平等という共産主義の原則が崩れ、チャンスを掴んだ者と、そうでない者の格差が徐々に広がりつつある時代。
羽振りの良い富裕層は、ようやく自家用車を手に入れられるようになったが、多くの庶民の暮らしぶりはまだまだ素朴なものだ。
口下手でプライドが高いリャンと、自信に満ちた成金ジェンシェンの対照的な二人。
タオは迷った末にジェンシェンを選び、恋敗れたリャンは何処かへ去る。
そして15年後の2014年。
怒涛の高度成長期を経て、中国社会は激変している。
タオとジンシェンとの結婚生活は破綻し、ジェンシェンは更なる成功を掴むために上海に転居、タオは米ドル(Dollar)から名づけられた一人息子、ダオラーの親権も失ってしまった。
そんなある日、彼女は病に冒され明日をも知れぬ命のリャンと再会する。
富を掴んだ人々の高級外車が街に溢れる一方で、貧しくて医者にもかかれない人々がいる新しい中国。
タオは、15年前にジェンシェンとリャンのどちらを選んだとしても、結局何かを得て何かを失っていたという現実を突きつけられ、元夫と共に国外に出るのだというダオラーと最後の時を過ごす。

二度と戻らないであろう活力ある国家の青年期は終わり、これからの見通しの悪い未来、彷徨える中国人はどこへ向かうのか
古都・太原から上海へ、そこから南半球メルボルンへ。
10年後の近未来、2025年には次の世代が葛藤を抱えている。
国境のくびきを逃れ、中国語すら忘れたダオラーは、Google翻訳を通してしか親の世代とコミュケーションをとることが出来ない。
そんな自由すぎる閉塞の中で、彼は失われたアイデンティティの向こう側に、母の面影を探すのである。
主人公の「タオ」という名前は、中国語の「波」と同じ音なのだとか。
波は上海にも、メルボルンにも、世界中の海に打ち寄せる。
故郷となる山河や喋る言語は変わっても、結局人が人を想い、愛し続ける心は不変なのかも知れない。
1999年の「GO WEST」が、ぐるり巡って2025年に連環する仕掛けは見事。
現在と過去だけでなく、近未来を描くことで本作にあえて虚構性を与えたのは、あくまでもジャ・ジャンクーのイマジネーションの中で咀嚼された、批評的中国人論ということだろう。
1999年の世界はスタンダードで、2014年はビスタ、2025年はスコープサイズと時代ごとに異なるアスペクト比で描かれているのも面白い。
中国人の視野は物質的な充実と共に徐々にワイドになってゆくが、それは心の虚無感の広がりと比例しているのである。

今回は中国を代表する銘柄「青島ビール プレミアム」をチョイス。
青島ビールと言えば普通は緑の瓶を連想するが、こちらは所謂白瓶。
緑瓶よりもホップ感が強く、香りも独特。
口当たりは爽やかだが、後味がしっかりしているので、海鮮料理などにはこちらの方が合うかも。
普通の青島ビールが物足りない人は、こちらを試してみるといいだろう。

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ちはやふる 上の句 & 下の句・・・・・評価額1750円
2016年05月03日 (火) | 編集 |
繋がっているから、強くなれる。

挑戦的な作品である。
末次由紀作の同名漫画を原作に、競技かるたに明け暮れる高校生たちを「上の句」「下の句」と題した二部作で描く熱血青春映画。
和のスポコン+控えめなラブストーリーに、思春期のワクワクドキドキが加速する。
観客の立場では、二部作というのは必ずしも歓迎出来ない上映形態。
しかし脚本も手掛ける小泉徳宏監督は、真っ直ぐの剛速球で「上の句」を、鋭い変化球で「下の句」を構成し、物語の連続性を保持しながら大きく構造を変えることで、二部作を意味のあるものとした。
登場人物の成長と共に、映画自体もより複雑に深化させることによって、「下の句」では「上の句」の向こう側、違った世界が見えるのだ。
タイトルロールでもある綾瀬千早役の広瀬すずをはじめ、フレッシュな若手俳優たちによって演じられるキラキラの群像劇は、日本青春映画史に残る金字塔となった。

幼馴染の綾瀬千早(広瀬すず)、真島太一(野村周平)、綿谷新(真剣佑)の3人は、競技かるたのチームでいつも一緒。
ところが、新が家庭の事情で福井に引っ越したことで、なんとなく疎遠になってしまう。
数年後、瑞沢高校に入学した太一は、同じ高校に進学した千早が競技かるた部を作ったことを知る。
「かるたをやっていたら、きっとまた会える」新とのそんな約束を、千早は覚えていたのだ。
相変わらずの情熱でかるたに打ち込む千早は、以前大会で闘ったことのある西田優征(矢本悠馬)、和のものを心から愛する大江奏(上白石萌音)、頭脳派オタクの駒野勉(森永悠希)を次々に勧誘。 
遂には、しばらくかるたから離れていた太一も入部することになる。
瑞沢高校競技かるた部は、全国大会目指して東京都大会にエントリー。
大会は全員が闘う団体戦、未経験者を抱える瑞沢は苦戦しながらも勝ち上がってゆくのだが、遂に全国レベルの強豪、北央高校の高い壁が彼らの前に立ちはだかる・・・


第一部の「上の句」は、真ん中ド直球、王道の青春映画である。
この話の主人公は、物語の視点でもある野村周平演じる太一。
彼は新や千早に比べると才能に恵まれている訳でもなく、子どもの頃かるたをとっていたのも、かるたが好きというよりも千早への恋心ゆえ。
高校を瑞沢に決めたのも、最近疎遠になってしまった彼女がここへ進学すると聞いたから。
誰もが聞いたことはあるけど、実際どうやるのかは良く知らない百人一首の競技かるた。
映画は、しばらくかるたから離れていた太一の視点で、奥深い競技かるたの世界に入ってゆき、彼らの部活を通じて自然にルールが理解できるようになっている。
そして何よりも、これがスポーツであることを実感させるのは、その激しさである。
極限まで集中力を高め、詠み手の言葉が音になる前に聞き分けて、一瞬の差でかるたをとる、というよりも弾き飛ばす。
これを勝負がつくまで何十回もくりかえすのだから、そりゃあ精も根も尽き果てる訳だ。

試合の勝敗は、相手の陣内にかるたが残って、自陣のかるたが無くなったら勝ち。
お互いの陣内にそれぞれ一枚だけ残った状態、つまり次の一手で勝敗が決まる状態を、「運命戦」というのだそうな。
詠まれるのが自陣のかるたなら、抑えるだけでいいので十中八九勝負はつく。
だから運命戦の勝敗は殆ど時の運と言えるのだが、太一はある時から運に見放されてしまっている。
小学生の頃、新と対戦した太一は、千早にいいところを見せたくて、卑怯な手を使って勝ったことがあり、その罪悪感をいまだに引きずっているのだ。
端的に言えば、「上の句」は子供の頃の行為でトラウマを抱えてしまった太一が、再び千早とかるたをとる日々を通して葛藤し、自ら犯した罪に決着をつける話である。
上手いのは、競技かるたと登場人物の青春をほぼイコールというくらい密接に描いていることで、それぞれの思春期の葛藤が、即ちかるたの選手としての苦悩にリンクしていること。
だからパワフルな団体競技の勝利のカタルシスが、そのままそれぞれの葛藤の解消と人間的な成長に直結し、見守ってきた観客に大きな満足を感じさせる。
「ちはやふる」はジャンプ漫画じゃないけど、「上の句」はまさしく「友情・努力・勝利」を描いた王道の青春ストーリーなのである。

ところが「下の句」になると、映画はガラリとその作りを変えてくるのだ。
物語の入り口の視点は「上の句」同様太一だが、彼の抱えていた葛藤はほぼ解消してしまっているので、徐々に千早と新の新たな葛藤にシフトする。
正確に言えば、明確に太一をフィーチャーしていた「上の句」に対し、「下の句」は幾つもの視点がクロスする、より複雑な構造になっているのだ。
描かれるのは、なぜ自分たちはかるたをするのか、いったい何を目指しているのかという根本的な問いに対し、お互いに影響し合いながら、それぞれの答えを出すまでの物語。
かるたの最高位である名人を祖父に持つ新は、いつか祖父に認められたいと思ってかるたをしてきたが、祖父の死で目的を見失う。
一方の千早は、最強のライバル若宮詩暢の登場で、自分の中でかるたの持つ意味が変わるのを感じている。
松岡茉優が、堂々たるボスキャラ感を漂わせて演じるこのキャラクターは、本作の白眉であり要石的な重みを持つ重要な存在。
彼女にとっても、代表作になったのではないか。

そもそも千早がかるたをとり続けていたのは、離れていても新や太一と繋がりを保っているため。
人との繋がりのためのかるたゆえに、高校でもかるた部を作った。
しかし、圧倒的な強さを誇る若宮詩暢は一匹狼。
千早は勝つためのかるたと、繋がるためのかるたの間に迷ってしまうのだ。
「上の句」で知った仲間と共に努力して闘い、勝つ喜び。
それに対して、若宮詩暢の様にひたすら自分を追い込み、至高の一点のみを追い求める喜び。
人生とかるたの意味に悩む千早と新の姿に、國村隼演じる原田先生の格言が染みてゆく。
「個人戦こそが、本当の団体戦」「かるたをとる理由は一つでなくていい」
かるたで生じた悩みは、結局かるたが解消する。
千早は若宮詩暢との死力を尽くした闘いで、逆説的に繋がる喜びを再発見し、そんな千早の姿を見て、新はかるたをとる意欲を取り戻す。

「下の句」で描かれていることは、皆が一致団結して出した「上の句」のシンプルな結果の先にあるものであって、枝分かれしている分より深く複雑だ。
映画は「上の句」の冒頭と「下の句」のラストを、未来のある場面の括弧で閉じる事で、一つの固まりとして融合させているが、逆にそれが綾瀬千早と仲間たちの物語が、映画で描かれた後もまだまだ続いてゆくことを示唆して、「下の句」には未完結のモヤモヤがやや残る。
まあ、それはやむを得ないだろうなあ・・・と思っていたら、突然の続編の発表である。
もちろん「上の句」の興業的成功を受けての事なのだろうけど、これは小泉監督としては初めから狙っていたのではないか。
だとすると「下の句」は二部作の完結編ではなく、三部作の真ん中、つまり「帝国の逆襲」であったのだ!
本当の完結編となるという、「ちはやふる」第三部が今から待ちきれない。
もっとも、続編も二部構成で、計四部作という可能性もあるけど。

今回は、かるた全国大会の舞台となる近江神宮に程近い大津の地酒、平井商店の「浅茅生 純米酒」をチョイス。
純米酒らしい柔らかな米の香り、あっさりとした喉ごしが特徴的な、CPの良い酒だ。
ちなみに銘柄の浅茅生は、百人一首の第39番の参議等が詠んだ 「浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき 」に出てくる言葉。
「茅の生えた野原の篠原、その「しの」のように、私は恋心をしのんでいましたが、想いがあふれて、なぜこんなにも貴女のことを恋しいのでしょうか。 」という意味の恋の歌だ。

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シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ・・・・・評価額1750円
2016年05月01日 (日) | 編集 |
正義VS正義。

アベンジャーズのリーダーにして高潔の人、キャプテン・アメリカとチームの技術的な要であるハイテクの超人、アイアンマン。
今まで何者にも縛られなかった彼らの活動を、国連の監視下に置くという提案を巡る二人の対立を軸に、スーパーヒーローたちが二手に分かれて“内戦(シビル・ウォー)”を繰り広げる異色作。
対立を加速させるのは、キャプテンの戦友であり、行方不明となっていたウィンター・ソルジャーの存在だ。
キャップと同等の戦闘力を持つ、ウィンター・ソルジャーは敵か味方か。
嘗てアベンジャーズの戦いに巻き込まれ、心に癒しがたい傷を負ったある男の陰謀は、スーパーヒーローたちを引き裂き、遂には後戻りできない混乱を引き起こす。
ブラック・パンサー、アントマン、さらにソニー・ピクチャーズから移籍してきたスパイダーマンも参戦し、ある意味「アベンジャーズ」シリーズ以上の豪華さだが、位置付けとしては一応「キャプテン・アメリカ」シリーズの第3作で、監督はアンソニーとジョーのルッソ兄弟が前作から続投。
「アベンジャーズ」「キャプテンアメリカ/ウィンター・ソルジャー」と並ぶ、Marvel Cinematic Universeの最高傑作である。
※映画及び原作の核心部分にふれています。

スーパーヴィランと戦うアベンジャーズのメンバーは、今まで法律も国境も超越する存在として各国政府から黙認されてきたが、戦いが激化するに伴い巻き添えになる市民の犠牲も増え続けている。
アフリカのワカンダ王国でバイオテロを阻止したキャプテン・アメリカ(クリス・エヴァンス)のチームだったが、スカーレット・ウイッチ(エリザベス・オルセン)のミスで市民多数が死亡し、世界中でスーパーヒーローの活動に関する疑問が噴出。
遂には、スーパーヒーローを国連の監視下に置く、「ソコヴィア議定書」が提案される。
自分たちの強大な力には、何らかの歯止めが必要だと考えていたアイアンマン(ロバート・ダウニー・Jr)は、スカーレット・ウィッチを軟禁し、ヴィジョン(ポール・ベタニー)、ブラック・ウィドウ(スカーレット・ヨハンソン)、ウォーマシン(ドン・チードル)と共に議定書に賛成する。
だが、権力の監視下では、不本意な戦いを強要されかねないと考えるキャプテンとファルコン(アンソニー・マッキー)は議定書を拒否し、ホークアイ(ジェレミー・レナー)は引退を表明し、アベンジャーズの対応は真っ二つに。
ウィーンでソコヴィア議定書の署名式が執り行われる事になり、呼びかけ人の一人であるワカンダ国王ティ・チャカと、その息子である同国の王子ティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)も列席。
ティ・チャカが演説している最中、突然仕掛けられた爆弾が爆発し、 ティ・チャカは死亡してしまう。
会場の監視カメラに写っていたのは、行方不明になっていたウィンター・ソルジャー(セバスチャン・スタン)だった・・・・


本作と同じく、スーパーヒーロー同士の戦いを描いた「バットマン vs スーパーマン」では、冒頭の大破壊のシークエンスで、「強大すぎる力の責任と結果にどう向き合うのか?」というテーマが示唆されていたが、物語が進むにつれて放り出されてしまうという残念なオチに。
ではDCよりもずっと長い時間をかけて、一歩一歩キャラクターをブラッシュアップしてきたマーベルではどうか。
結果的に、きちんとこの難しいテーマと向き合い、一定の答えを出していると言っていいだろう。
ただし、本作はあらゆる意味で「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」の直接の続編であって、テーマ的な部分も前作と組み合わせて導き出している部分が多く、本作単体で見ると誤解を生じかねない危うさを持っていると思う。
同じように、アイアンマンの葛藤に関しては、時系列的な前作に当たる「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」から引き継いでいる部分が多い。
ゆえに、本作を真に楽しんで理解するためには「ウィンター・ソルジャー」と「エイジ・オブ・ウルトロン」を鑑賞してから臨むべきだろう。

2006年から翌年にかけて刊行された原作は、極めて政治的な陰謀劇だ。
スーパーヒーローの活躍の影で市民の犠牲が増え、彼らを管理する登録制度が出来ることになるのは映画と同じだが、制度に賛成するアイアンマンと反対するキャプテンがお互いに多数派になるべく派閥を作り、主導権を握ろうとするのである。
政府の支援を受けるアイアンマン派は、地下に潜ったキャプテン派と小競り合いを繰り返し、遂にはヒーロー界の覇権をかけた“内戦”に突入。
一時はキャプテン派が勝利を掴みかけ、キャプテンがアイアンマンにとどめを刺そうとした瞬間、それまで蚊帳の外だった市民たちが割って入る。
ふと冷静になったキャプテンは、己の作り出した惨状を省みて、本来自分たちは何のために戦ってきたのかを思い出し、降伏を選ぶのである。
勝利したアイアンマンは、S.H.I.E.L.D. 長官に任命され、事件は収まったかの様に思えるも、キャプテン派の残党は相変わらず存在していて、結局ヒーロー界は二つに割れてしまうという内容だ。
まるで国会の政争かヤクザの抗争のメタファーの様な超ダークな物語で、さすがにこれをそのまま映画にしても欝になるだけなので、基本コンセプト以外は相当脚色されている。

強大な力を、国家(あるいは国連の様な)権力に帰属させるべきか、それともある程度個人の自由意思に委ねるべきなのかというテーマは、アメリカ合衆国が建国以来抱えている重要なイッシューだ。
銃規制の問題は、分りやすい例だろう。
公衆の安全という観点では、誰もが銃を手に入れられるという状態は好ましくない。
だが、一方で合衆国憲法修正第二条にはこう書かれている。
「A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed. (規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。)」
日本ではなかなか理解されない、アメリカの銃規制の問題の原点はここにある。
この“規律ある民兵”は、必ずしも政府に従属する存在ではない。
条文の解釈は色々あるが、時と場合によっては人民に害をなす権力に対抗する手段なのである。
“規律ある民兵”をアベンジャーズの様なスーパーヒーローの集団に当てはめると、なぜアメリカでは自警団的な覆面ヒーローの文化が、これほどの広がりを持っているのかが良く分る。

日本では、銃規制反対派というとNRAの様な利権集団に絡めて報道される場合が多く、その視点に立てば、ソコヴィア議定書に反対するキャプテンは傲慢な銃規制反対派でアイアンマンは理性的な銃規制賛成派に見えてしまう。
だが、武装する権利に対するスタンスには、単なる権利と責任の主張だけでなく、権力と個人の関係をどう捉えるのかという根本的な国家観の相違が隠されているのだ。
元々ヨーロッパで迫害された清教徒たちが建てた国であるアメリカでは、国家権力が個人の領域に立ち入るということは、非常にデリケートな問題であって、それはなにも武装する権利に留まらず、経済を含むあらゆる分野に及ぶ。
大統領選で毎回話題になる「大きな政府と小さな政府のどちらが良いのか?」という論争も、とどのつまりは同じ問題なのである。
ここで、物語の中心となるキャプテンとアイアンマン、二人のヒストリーが重要な意味を持ってくる。
彼らの選択は、ヒーローとしての出自に大きく影響されているのだ。

第二次世界大戦真っ只中に生まれたキャプテン・アメリカは、愛国プロパガンダのためのスーパーソルジャーであって、まさに国家権力によって作られ、その意のままに踊らされた過去を持つ。
権力の性質によっては、彼の分身ともいえるウィンター・ソルジャーの様に、破壊と殺戮のためのツールとして使われていてもおかしくは無かったのである。
だから彼は、自らに力を与えたアースキン博士の「よき兵士より、よき人間であれ」という言葉を胸に刻み、再び兵士という権力のツールに戻ることを嫌い、一個の人間として考え善悪を見極めて判断しようとするのだ。
前作「ウィンター・ソルジャー」で描かれた、可能性の未来によって人々を統制しようとするS.H.I.E.L.D.の陰謀劇は、9.11と愛国者法制定以来のアメリカのカリカチュアだが、それに対してキャプテンは「正義でなく恐怖による支配だ」と批判し、実際に“規律ある民兵”として反旗を翻す。

一方のアイアンマンは、産軍複合体を構成し、キャプテン誕生にも関わったスターク・インダストリーズの御曹司。
元々は兵士たちを駒として扱う、権力側の人間である。
使い切れないほどの金を持ち、誰に頼まれた訳でもないのに、自らの趣味と実益を兼ねたパワードスーツを開発して悪と戦っている。
日本人がイメージするアメリカの銃規制反対派は、むしろアイアンマンの方なのだ。
ところが「エイジ・オブ・ウルトロン」で、自分で作り上げた人工知能・ウルトロンの暴走により、膨大な犠牲を出した事で、彼は責任を感じアベンジャーズを去る決意をする。
個人の判断によって巨大すぎる力を使うことの恐ろしさを実感したからこそ、一定の条件のもと自分の力を権力に委ねるべきだと判断するのだ。

キャプテンはそのヒストリーゆえに、孤高の道を行くしかなく、アイアンマンもまた議定書に賛成し、管理の元で活動するしかないのである。
その事を明確化するために、本作は過去も現在も自由意志を奪われた哀しき帰還兵、ウィンター・ソルジャーを物語の軸に置き、“復讐”という定数を物語を進めるエンジンにすることによって、登場人物それぞれの必然を描き出してゆく。
本作の中で描かれる“復讐”は三つ。
発端となるのは「エイジ・オブ・ウルトロン」で描かれたソコヴィアの戦いである。
この戦いで家族を失ったソコヴィアの軍人、ジーモが憎きアベンジャーズを陥れようと、ウィンター・ソルジャーの存在を利用してウィーンの爆弾事件を起こす。
すると今度は、事件の犯人がウィンター・ソルジャーだと思い込んだブラック・パンサーことティ・チャラ王子が、父の敵を討つために彼を狙う。
そして、嘗てアイアンマンの両親であるスターク夫妻を殺したのが、洗脳されていた頃のウィンター・ソルジャーだということが明かされ、理性を失ったアイアンマンが暴走。
絡み合った三つの復讐は、ブラック・パンサーとアイアンマンの間で明らかな対照を形作り、スタークが議定書に賛成し、管理されたスーパーヒーローでなければならない理由を強化する。
一見すると理性的に見える彼は、実は激高する感情をコントロールできないのである。

原作だと、ミスター・ファンタスティックがソーの髪の毛からクローンを作って、アイアンマン派の最終兵器とする展開があるのだが、映画版がソーをはじめとする本当の意味の超人系を排除し、原作には登場しないウィンター・ソルジャーというある意味一番弱い立場のキャラクターを軸としたのも、スーパーヒーローといってもあくまでも等身大の人間の葛藤と選択ということをはっきりさせるためだろう。
本作においてアベンジャーズの唯一本当の敵であるジーモが、スーパーヴィランですらないただの人間であり、ヒーローの復讐心を突いて自身の復讐を遂げるという二重構造もその意味合いを強化している。
アベンジャーズは、共に世界を救うをことを目的にしながら、今回二つの道に分かれた訳だが、これはアメリカが200年間考え続けて答えを出せてない問題で、どちらが正してくてどちらが間違っていると明言することは出来ない。
アイアンマンの様に、個人の暴走を恐れて国家に身を委ねたとしても、例えば9.11以降のアメリカの様に、国家が我を忘れて証拠を捏造してまで復讐に走ることもある。
一先ず、今の時点ではお互いに信じた道をゆく決断をした、アベンジャーズのスーパーヒーローたち。
本作のルッソ兄弟がメガホンをとり、2018年と19年に二部作として公開予定の「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」でその道が再び交わるのか否か、楽しみに待ちたい。

今回は、キャプテンとアイアンマン、それぞれのカラーのカクテルをチョイス。
鮮やかなブルーが目に爽やかな「スカイダイビング」は、ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライムジュース10mlをシェイクして、グラスに注ぐ。
キュラソーの甘味とライムの酸味がラムを引き立てる。
ゴージャスな赤に染まる「マンハッタン」は、ライ・ウィスキー45ml、スィート・ベルモット15ml、アンゴスチュラ・ビターズ1dashをステアしてグラスに注ぎ、レモン・ピールを搾りかけてマラスキーノ・チェリーを沈める。
濃厚で甘口、名前の通り大都会の夜が似合うカクテルだ。

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